田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

子どもたちの学習支援ボランティア

2024-07-31 16:34:10 | ボランティア
 久しぶりに小学校の小さな子どもたちの学習を支援する活動に参加した。可愛い手が挙がり、質問してくる子どもたちの学習を手助けするのは、やりがいもあり、心楽しいひと時だった…。

 7月29日から今日まで3日間、子どもたちの学習支援ボランティア活動に参加した。
 この活動は、私が所属する退職組織が、学校の夏季休業と冬季休業に合わせて子どもたちの学習を支援する活動である。
 私たちの退職組織は10年前から、中央区の小学校単位に設置されている児童館に出向き、児童館の学習タイムに合わせて、私たちが出向き学習を支援する活動である。今年も中央区の二つの小学校に併設(?)する児童館で5日間にわたって実施中である。
 私は自宅近くの某小学校に併設する児童館に3日間参加することを申請して、本日その3日間が終了したのだ。
 時間は午前10時から45分間である。某児童館は集まってくる子どもがけっこう多く、毎日60~70人程度の子どもが3つの部屋に分かれて、全員がそれぞれの長期休業中の宿題などに取り組んでいる。
 某児童館にはこの3日間、平均5人の退職者が参加し、それぞれ各部屋に分かれて支援を行った。

   

 学習はあくまで子どもたちの自主性に任せ、私たちはその学習を見守る姿勢である。その学習の中で躓いた場合には、手を挙げて私たちの助言を求めるという仕組みである。主に手が挙がるのは、やはり低学年の子どもたちである。私たちは手が挙がった子どもの傍に赴き、躓いている点を尋ねて、ヒントを与え、できるだけ自分の力で解決できるように仕向けるのだ。そして解決できた時の子どもの表情がパッと輝くのを見るのが楽しみなのだ。
 児童館にはかなりの数の指導員の方も務めているが、子どもの数が多いだけに十分なサポートができないようだ。そうした状況の中で、私たちのボランティアも多少は役立っているのかな?と感じさせてもらいながら3日間応援させていただいた。
 冬休みも頑張ろうかな?

似顔絵

2024-07-30 16:10:44 | その他
 う~ん。モデルとなった私としては「なかなか特徴を捉えているかなぁ…」と納得せざるを得ないかなぁ…。さあっ、さーっと、描いた孫娘の似顔絵だったが、彼女のリクエストに応えて拙ブログに掲載することにした。

    

 昨日、久しぶりに我が家で息子と一献傾けることにした。その際、夏休みに入った孫娘二人も同席した。
 近況を語り合いながら、それぞれ食事を楽しみ、一息ついたところで下の孫娘(小学生)がどこから持ち出したのか、スケッチブックを片手に私の横に座った。
 するとペンを片手に私をスケッチし始めたではないか!孫娘が画を描くのが得意などとは聞いていなかった。ただ、我が家に来たときには何やら漫画チックな画を描いていたような気がしてはいたが…。
 それほど時間もかけずにさあっ、さーっと描いた私の似顔絵はなんとも私の特徴を良く捉えているようにも思えた。私は敢えて感想は伝えなかったが…。
 ところが孫娘は自分が描いた似顔絵に自信を持っているようだった。
 「じいちゃんのブログにぜひ載せてほしい」と要請してきたのだ。彼女はどうやら私のブログに時折りアクセスしているらしい。これは爺ちゃんとして彼女のリクエストに応えねばならないかな?ということで本日の投稿は孫娘が描いた私の似顔絵を投稿することにした次第である。〇〇、爺ちゃんは約束を果たしたよ!
 何でもありの拙ブログの面目躍如の本日の投稿である。

我が国のメディアは劣化しているのか?

2024-07-29 17:12:09 | 講演・講義・フォーラム等
 我が国のメディアの劣化が囁かれて久しい。先に発表された「国境なき記者団」の報道の自由度ランキングによると我が国のメディアは世界第70位と信じられないような低位に甘んじた。それを裏付けるような証言を聴くことができた講演会だった…。

    

 7月26日(金)夜、エルプラザにおいてJCB北海道支部による「緊急集会」が開催され参加した。JCBとは、「日本ジャーナリスト会議」の略称である。
 緊急集会の趣旨は、鹿児島県警が内部告発者を逮捕、メディアを家宅捜索。「事件隠ぺい」内部告発が問うもの~1通の匿名文書から考える~と題して、札幌在住のフリー(?)のジャーナリスト小笠原淳氏が事件の詳細を報告した。

    
 ※ 鹿児島県警前生活部長からの告発文書の封書を手に事実関係を述べる小笠原淳氏です。

 小笠原氏は道内の月刊誌「北方ジャーナル」に執筆されているジャーナリストであり、福岡市のニュースサイト「HUNTER」と日常的に交流している方だそうだ。
 まず事実関係をおさらいすると、今年4月3日、札幌市のライターの小笠原氏に鹿児島県警の不祥事を告発する文章が郵送されてきた。小笠原氏は鹿児島県警に知り合いもなければ、送付されてきた理由も理解できないものだったという。ただ、送付されてきた内容が鹿児島県警の不祥事を告発する内容だったために、警察の不祥事を積極的に取材している「HUNTER」と情報を共有したという。すると鹿児島県警は4月8日に「HUNTER」を家宅捜索した。その際に押収された告発文書が端緒となり前生活安全部長が守秘義務違反容疑で逮捕されたという事件で、逮捕された前部長は「本部長が警察官の不祥事を隠蔽しようとしたからだ」と告発したという事件である。
 事件はまだ落着せず、裁判に持ち込まれている現状である。
 小笠原氏は前生活部長が、なぜ小笠原氏に告発文書を送付したのか類推する。前生活部長は地元メディアに告発しなかったのは、地元メディアを信頼していなかった。そこでHUNTERを通じて小笠原氏を知り、小笠原氏に告発文を送付したのではないか、と類推したようだ。
 なぜ地元メディアを信頼できなかったというと、小笠原氏は指摘する。各県警には「記者クラブ」という組織が存在し、地元メディアと警察当局が持ちつ持たれつの関係性が出来上がっているという。つまり、警察の不祥事を地元メディアは報道しづらい体制となっているということだ。
 そのようなことは北海道においても小笠原氏は何度も体験しているという。道警では身内の警察官の不祥事人事は一切公表していないという。また、直接道警ではなかったが、
 今年2月に札幌高等検察庁検事長に山本真千子氏が就任した際の就任会見でも感じたという。山本氏というと、いわゆる「森友学園事件」の捜査を指揮した検察官だったにも関わらず、記者クラブの質問は「北海道の印象」とか「趣味」の質問に終始したという。それを聴いていた小笠原氏はたまらず「森友学園事件」に関連する質問をしたという。
 事程左様に我が国のメディアと警察、あるいは国家権力との関係性は深まっているということだろうか?
 先の「世界の報道自由度ランキング」によると、世界180ヶ国中、我が国は恥ずべき第70位である。世界の上位はノルウェー、デンマーク、スウェーデン、オランダ、フィンランドと軒並みヨーロッパ各国が並んでいる。自由の国と云われるアメリカ合衆国も第55位と下位に低迷しているところは何が働いているのだろうか?あるいは、その辺りが日本が低迷している原因の一つになっているのか?
 鹿児島県警事件から話が少し飛躍したきらいはあるが、日本のメディアに所属する方々にはこうした事実を直視し、自らの姿勢を猛省してほしいと考えさせられた今回の緊急集会だった。

さっぽろラウンドウォーク 事前踏査 セクション7

2024-07-28 20:47:53 | さっぽろラウンドウォーク
 天候をにらみながら満を持しての事前踏査だった。このところ体調を崩していたこともあり、かなり苦戦したがなんとか事前踏査の目的を達成することができたのではないか、と思っている。

   

 ラウンドウォークの事前踏査に取り組むのは実に50日ぶりだった。ラウンドウォークが夏の暑さを避けるため夏休みに入ったこと、私が体調を崩してしまったことから事前踏査に取り組むことができなかったからだ。
 なんとか体調も回復気味となり、夏の暑さを避けられる日をねらっていた。そうすると、昨夜から今朝にかけて降雨となり、午前中に雨は止んだが陽が照ることはないと判断し、午前12時近くになって決行を決断した。
 セクション7は、地下鉄「新札幌駅」からスタートである。地下鉄で移動し、「新札幌駅」をスタートしたのは12時35分だった。
 「新札幌駅」をスタートして直ぐに、本番の時にはぜひともマップにはない新札幌の新しいシンボル「アクティブリンク」に皆さんを導きたいと思い、そのルートを探索した。「アクティブリンク」とは、医療機関などが空中回廊で結ばれ、さらに地下鉄「新札幌駅」からも外へ出ることなく結ばれている新札幌の新名所である。そのルートをなんとか見つけることができた。

    
    ※ アクティブリンクを外から眺めたところです。
    
    ※ 内部はこのように廊下になっていて、各医療機関に繋がっています。

 その後は「野津幌川緑地」「小野津幌緑地」を相次いで歩いて、JR「森林公園駅」を目ざす。「森林公園駅」まで約1時間15分。ここを第一の休憩地と予定する。駅舎内のトイレも確認した。

    
    ※ 野津幌川緑地の散策路です。
    
    ※ JR「森林公園駅」です。

 「森林公園駅」からは「野幌森林公園」を目ざす。森林公園で「北海道博物館」、「北海道開拓の村」の横を通ったが、目指すは森林公園内の「瑞穂池」である。深い森の中を一人往くのはちょっと不気味だったがスタート2時間後に到達した。「瑞穂池」の畔には東屋とトイレがあり、昼食ポイントの候補になり得るなと判断した。

    
    ※ 森林公園内に建っていた「北海道百年記念塔」の跡は更地となっていました。
    
    ※ 「瑞穂池」に向かう散策路はちょっと不気味でした。
    
    ※ 野幌森林公園の奥部に佇む「瑞穂池」です。
    
    ※ 「瑞穂池」の傍には東屋が建てられており、昼食ポイントに最適?

 「瑞穂池」を後にし、森林公園を抜けると、なんと「森林公園駅」を目指していた時に目にした「北星学園大学付属高校」の校舎を再び目にすることになった。なんとコースは ぐるっと一周して戻ってきたのだった。
 その後は「小野津幌川」の支流にあたる「ポンノッポロ川」沿いに造成されたサイクリングロードをひたすら歩くウォークとなった。
 コンディションは狙ったとおり気温はそれほどでなかったが、雨後ということで湿度は高く汗はかなりかいた。さらには久しぶりのウォークとあって、後半は足が重くなりスピードものろまなカメさん状態だった。 
 サイクリングロードと分かれ新興住宅街を抜け、セクション7のゴールのJR「上野幌駅」に到着したのは3時間45分後の16時20分だった。 

    
    ※ セクション7のゴール地点のJR「上野幌駅」です。

 マップによると距離は約14kmと表示されていたが、私の歩数計では16km以上と出ていた。私の感覚では歩数計の距離の感覚だったが、はたして正解は???  
 表記した休憩箇所、昼食ポイント以外にも休憩できるベンチの箇所、トイレの場所をチェックすることができ、事前踏査も目的は達成することができたと自己評価している。
 なお、本番の方は8月下旬までは夏休みの予定である。その間にもう一回くらい事前踏査ができたらと思っている。  
 ◇事前踏査実施日 7月28日(日)
 ◇事前踏査距離  約14キロ

圧巻のマーラー PMFピクニックコンサート

2024-07-27 21:21:13 | ステージ & エンターテイメント
 演奏陣が100人に達しようかという大編成で、75分間にわたるマーラーの「交響曲 第5番」が奏でられたが、圧巻の75分間だった。今日は気温もそれほど上がらず(最高気温25.3℃)快適な野外コンサートを楽しんだ。

      

 札幌の夏の風物詩PMF2024もいよいよ大詰である。例年終盤に開催される札幌芸術の森・野外ステージで行われる「ピクニックコンサート」が本日開催された。
 私は当初、別の予定を入れていたのだが、当日券が販売されると聞いて予定をキャンセルして「ピクニックコンサート」をチョイスした。
 私は例によって背もたれの低い野外コンサート専用(?)のチェアを抱えて会場に向かった。今年の聴衆は心なしか例年より多いような気がしたが、どうだったのだろうか?

        
      ※ 背が低い椅子のため、後方の聴衆にも迷惑をかけません。
 
 今年のプログラムは以下のとおりだった。
《第1部》
 ◆PMFオーケストラ・パーカッション・セクション
  ◇クセナス/『プレイアデス』から『ポー(太鼓)』  
 ◆ルミエサクソフォンカルテット
  ◇R.ヴィードフ(J.ボードマン編)/サキソフォビア
  ◇R.プラネル/バーレスク
  ◇バーンスタイン(J.ボードマン編)/「ウェストサイド・ストーリー」セレクション
 ◆PMF室内オーケストラ (指揮:ダニエル・マツカワ)
  ◇モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲K.492
  ◇ハイドン/交響曲 第104番 ニ長調「ロンドン」から 第4楽章

     
《第2部》 
 ◆PMFオーケストラ + PMFアメリカ (指揮:マンフレート・ホーネック)
  ◇モーツァルト/ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 
(ピアノ:ティル・フェルナー)
  ◇マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調
以上、非常に豪華な内容である。途中休憩を挟みながら4時間にわたる野外コンサートだった。
 その一つ一つの演奏について感想を述べると膨大なものになってしまう。そこで特徴的な演奏だけについて言及してみたい。
 まず「ルミエサクソフォンカルテット」という若手女性サクソフォン四重奏である。彼女らは東京芸大同窓生により結成されたグループということで、PMFとは直接関りはないようだが、ゲストとして招請されたようである。彼女らの演奏の特徴は、非常に軽やかでありながら繊細な表現と力強いサウンドを兼ね備えている演奏だったということだ。さすがに独立して活動しようとするだけの実力を備えたグループの演奏だった。

     
    
 そしてマーラーについても触れねばなるまい。指揮者のマンフレート・ホーネックは今回のPMFの首席指揮者である。そのマンフレート氏は「マーラーの第5番が得意演目」だとプログラムで触れられていた。そのことはマンフレート氏の指揮に良く表れていたように思われた。当年65歳を迎えられているということだが、とても年齢に見えない若々しい指揮ぶりにそのことが現れているように思えた。

      
      ※ 首席指揮者のマンフレート・ホーネック氏です。

 ともかく75分間にわたる壮大な叙事詩を聴いているような気分にさせられたマーラーの第5番だった…。
 また、直接言及することは避けるが、ピアノ協奏曲のピアノソロを担ったティル・フェルナーのテクニックも素晴らしい技だった。
 私はPMFに参加するようになってから10数年経つが、当初は野外コンサートがオープニングコンサートとして実施されていて、そこに参加していたが、野外のオープニングコンサートがなくなってからはピクニックコンサートに参加している。そうした中、この時期の野外はなんといっても “暑さ” が難敵である。それが今日は気温も適度(?)のうえ、曇り空だったことからとても快適な中でのコンサートとなった。
    

続・街歩きの達人、札幌の街を語る

2024-07-26 14:21:42 | 札幌学 & ほっかいどう学
 三日前に投稿した「街歩き研究家」の和田哲氏から聴いたお話はぜひ紹介したいと思い、続編を綴ることにした。◆定山渓鉄道、◆中島スポーツセンター、◆アンパン道路、◆悲しみの盤渓、の後編をお読みいただけたらと思います。

 和田氏から伺った “札幌のトリビア” は、そのいずれもが興味深かった。いずれもが私の記憶に残したい思いもあって、その続編を綴ってみることにした。
 まずは「定山渓鉄道」である。定山渓鉄道は、大正年代に入って定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的として計画され、1918(大正7)年10月に東札幌駅 ⇔ 定山渓駅間(27.2km)で開業し、1969(昭和44)年11月モータリゼーションの普及などから経営不振となり廃線にいたった鉄道である。

    
     定山渓鉄道の遺構の一つ「旧石切山駅」です。現在は地域の振興会館として活用されています。   

 定山渓鉄道に関して興味深いお話を伺った。それは定山渓鉄道が経営不振に陥った際に、当時「買収王」とも称され辣腕を振るっていた五島慶太氏率いる東急電鉄が株を買収し、実質的に経営者となった際に、五島慶太は国鉄の札幌 ⇔ 江別間の線路が大きく湾曲して遠回りしていたことから、札幌 ⇔ 江別間を直線で結ぶ「札幌急行鉄道」を計画したという。そしてその線路を北海道炭鑛汽船が経営する「夕張鉄道線」との連絡も企図していたという。しかし、五島慶太が志半ばで逝去したことから、この計画は実現しなかった。もし、計画が実現していたら、札幌から江別にかけての沿線の風景は今とはかなり違ったものになっていたのではないかと思うと興味深い。

 続いて「中島スポーツセンター(正式名:北海道立札幌中島体育センター)である。中島スポーツセンターは、1954(昭和29)年の第9回国民体育大会の大会々場として建設され、建設当時は国内でも有数の規模を誇るスポーツセンターだったという。アリーナを客席とすると6,000人は優に収容できる規模だったそうだ。そこでは大相撲札幌場所やプロレス、サーカス、コンサートなどあらゆる催しが開催されたそうだが、特にプロレス興行が盛んに行われたことで有名だったという。

    
    ※ 当時、威容を誇った初代の中島スポーツセンターです。

 現在は、豊平公園に「北海道立総合体育館(通称:きたえ~る)」が開設され、中島スポーツセンターは規模を縮小して建て替えられ、施設は札幌市に移管され、純粋なスポーツ施設として中島公園内に建っている。
 三つ目の話題は「アンパン道路」である。このお話には、札幌市の街の変遷が関わっている。1910(明治43)年、当時の豊平町の一部が札幌区に編入されたことにより、そこににあった役場が編入されなかった月寒に移転されることになったそうだ。すると豊平町の一部だった平岸から新しい役場へ行く道路                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              がなく、平岸地区の住民が困難を被ったそうだ。その不便さを解消するために、平岸と月寒を結ぶ道路の建設が叫ばれ、陸軍第7師団歩兵第25連隊に道路建設の協力を要請、地元民も参加して全長約2.6キロメートルの道路建設工事が行われて4カ月で完成したという。町は道路工事に従事した兵士に間食としてアンパンを配布したことから、この道路は「アンパン道路」という通称で後世親しまれることとなったそうだ。

      
      ※ 札幌市民の懐かしの味「月寒アンパン」です。

 そのアンパンは私も食したことがあるが、普通市販されているアンパンとは違い月餅に近い食感でしっとりとしていて独特の風味を感じるアンパンである。また、私はここの「アンパン道路」を実際に歩いてみたこともあるが、短い距離ながら高低差がけっこうあって、昔の人たちが道路建設を躊躇されたのも分かるような気がした。

 最後は「悲しみの盤渓」のお話である。和田氏から伺ったお話は感動的なものだった。どのようにまとめたら良いか呻吟したが、結局ウェブ上にその詳細が掲載されていたので、少し長くなるが、それを拝借することとしたい。
 1912年(明治45年)、琴似尋常高等小学校附属盤之沢特別教授場として創立する。
1922年(大正11年)には独立して盤渓尋常小学校となる。その背景には、札幌の発展とともに山鼻や円山の住宅化が進行したため、押し出されるような形になった畑地が盤渓へと移ってきて地域が振興したという経緯があった。しかし学校用地の確保には、農民にとっての魂とも言うべき土地を手放す必要がある。住民による会合は十数回に及んだが決着を見ず、ついには殴り合いにまで発展し、我満六太郎が用地を寄付することでようやく事態は収束した。
この時、学校の名が当時の地名の「盤之沢」から漢文調の「盤渓」に改められた。この命名者は1917年(大正6年)から盤之沢特別教授場の教師を務め、小学校独立に尽力し、後に盤渓尋常小学校の初代校長を任命された結城三郎であった。この「盤渓」の名は地域に浸透し、小学校に続き「盤之沢神社」についても社殿の改築を機に「盤渓神社」に改め、1943年(昭和18年)には正式な地名も「盤之沢」から「盤渓」に改められた。
1950年(昭和30年)、札幌市立盤渓小学校となる。1977年(昭和52年)には札幌市特認学校の指定を受けた。
初代校長・結城三郎
盤渓小学校が独立開校した1922年(大正11年)当時、盤渓の集落は琴似村役場から山道を8キロメートルもたどらねばならない僻地であり、教員を確保しても早い者は2か月で逃げ出す有様だった。そのような中、1917年(大正6年)、開校から7人目の教師として着任し6年にわたり当地での教育に携わり人格者として生徒や住民からも慕われた結城三郎が初代校長の内示を受けたことは、村人たちにとっても喜ばしいことであった。
同年12月21日、開校式を3日後に控え、羽織袴の正装をまとった結城は、琴似村役場にて辞令と教育勅語を受け取った。役場を出たのは午後2時で、日没は午後4時であるから、明るいうちに盤渓に帰り着くことは無理である。途中、教育勅語を取り扱うための白手袋とふくさを立ち寄った円山の定松商店で宿泊を勧められるが、結城は「畏れ多い『お勅語』を民家にはおけない」という理由で断り、提灯を借りて先を目指した。
気温は氷点下7度、風速7メートルという悪条件の中、なんとか幌見峠を越えた結城が、峠下の久保田家で2本目のロウソクに点火してもらったのは午後10時半ごろのことであった。だが、そこから1キロメートルほど進んだあたりで力尽き、翌朝に雪の下で遺体となって発見された。小学校まであと僅か50mほどの場所であった。享年42。教育勅語はその胸に抱かれて無事だった。
結城は正式に校長として着任できなかったため、1960年(昭和35年)に開かれた開校50年記念式典の際も校長として取り上げられなかった。恩師の扱いに驚いた教え子たちは「結城先生復活」を呼びかけ、趣意書を作成し寄付を募り、盤渓小学校グラウンドの東端、山の斜面とぶつかるあたりに、高さ1.5メートルの「あゝ結城先生」の碑を建立した。1964年(昭和39年)5月17日、碑の除幕式が行われ、教え子達は碑の前で先生に教わった「金剛石の歌」を歌い偲んだ。その後、結城は札幌市教育委員会から正式に初代校長として認められた。

     
     ※ 現在の盤渓小学校の庭の片隅に佇む「あゝ結城先生」像です。

 ちょーっと長くなってしまったが、とても感動的なお話をぜひ紹介したいと思い長くなってしまったことをお許しください。
いや~、地域の歴史を掘り起こすことって非常に興味深いことですね。改めてその子とを教えられた和田氏の講演でした。

シベリア抑留者たちの過酷な運命を追う

2024-07-25 19:44:45 | 講演・講義・フォーラム等
 スターリンが日本人五十万人の強制連行を極秘指令した「シベリア抑留の日」から七十八年を経て、元読売新聞記者が抑留者たちの過酷な運命を地道に追い続けて、まとめた大書『命の嘆願書』の著者が語る抑留者たちの真実を聴いた。

 昨日午後、札幌エルプラザにおいて北海道民放クラブが主催する講演会が開催され参加した。
 今回の講演会のテーマは「妻と子のシベリア抑留 自著『命の嘆願書』より」と題して元読売新聞記者である井出裕彦氏が語った。

       
     ※ 講師を務められた著者の井出裕彦氏です。(北海道在住だそうです)

 まず驚かされたのが、井出氏の自著『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』は規格外の大書だった。井出氏が提示したそれはまるで「広辞苑」と見紛うばかりの分厚い著書だった。それもそのはず、その字数はなんと135万字、1,300頁にのぼる大書である。定規などを持参していなかったので正確な厚さは分からないが、その厚さ10cm近くあったのではないだろうか?そしてその価格は税込みで9,680円だそうだ。

    
    ※ 著書の厚さを確認ください。まるで広辞苑です。

 その著書の内容であるが、第二次大戦によって敗戦国となった日本は、ソ連によって大量の日本兵らがシベリアに抑留されたが、そのうち約1万4千人がモンゴルに抑留され、うち約1,700人が亡くなった事実はあまり知られていなかったという。新聞記者時代にその事実を知った井出氏は、独自にモンゴルの公文書館において機密記録を入手し、その記録を克明に調べることによって、抑留者たちの悲惨な事実を明らかにしたのがこの著「命の嘆願書」なのだという。
 「命の嘆願書」という書名としたのは、文中で触れられているが、抑留民団々長だった久保昇さん、ウランバートル収容所の部隊指揮官の小林多美男さん、抑留者病院の軍医だった本木孝夫さんの三人が、民間人の抑留は国際法違反だとして早期帰国を要求したり、凍傷に備える防寒具の整備を求めたりと、抑留者たちの代表として我が身を顧みずに要求した尊い行為を井出氏は称揚したかったからだろう。

※ 著書の扉にあった「嘆願書」の写しです。代表名が久保昇氏となっています。

 実際に三人はその後悲惨な運命を辿ることになってしまったという。
 今回の講演では、そうして井出氏が調べあげた個々人の抑留者たち一人ひとりの具体的な事例を取り上げて、いかに抑留者たちが悲惨な、そして困難の日々を送ったかについて詳細に紹介された。その事例は、◇祭祀を喪ってしまった抑留者、◇夫の満州赴任に当たり、内地に残った妻、任地に赴いた妻、◇抑留された夫の帰りを待ち続けた妻、◇残された妻には再婚の話もきた、◇残された子の人生は、◇夫の期間や遺品の返還に動いた妻、等々、一つひとつ具体的にその事例を紹介していただいた。
 改めて私が言及するまでもない。戦争というものがいかに非人道的なものであるかを、井出氏はこれでもか、というほど提示してくれた。
   
    
    ※ 会場は関心の高さを示すように満席状態(50名前後?)でした。

 人類は戦争という行為によって、こうした非人道的行為を幾度も繰り返してきたが、そのことを反省するどころか、何時になってもそうしたことをくり返している愚かな存在である。これほど文明が発展してきたというのに、人類はこのことを乗り越えられないでいる哀しい存在である。
今現在も、ウクライナやパレスチナにおいて非人道的な争いが続いている。なんと愚かな人類なのだろうか???
そうしたことを改めて考えさせられた今回の講演会だった…。


「さっぽろの古を訪ねて Ⅲ」新琴似屯田兵村を訪ねる

2024-07-24 19:28:51 | 「めだかの学校」関連
 前回6月に訪れた篠路屯田兵村に先んずること2年前の1887(明治20)年に九州、四国出身の士族146戸が入植して開村したのが新琴似屯田兵村である。私たちは「新琴似屯田兵中隊本部保存会」の事務局長さんから新琴似屯田兵村の歴史について詳しく説明いただいた。

 昨日(7月23日)午後、「めだかの学校」野外講座「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を訪ねる」の現地見学の第3弾、「新琴似屯田兵村の史跡を訪ねる」を実施した。
 見学先は、◇新琴似屯田兵村中隊本部◇新琴似神社境内の関連史跡◇屯田兵が掘削した人工河川「安春川」と関連壁画の3ヵ所だった。
 最初に訪れた「新琴似屯田兵村中隊本部」は、現在新琴似神社の境内の一角に建っているが、実際に当時と同じところに、当時と同じように厳めしい構えで建っていた。

    
     ※ 新琴似屯田兵中隊本部の外観です。

 私たちは建物の中の新琴似屯田兵村の様子がジオラマで再現されている部屋に導かれて、「新琴似屯田兵中隊本部保存会」の事務局長を務められている大西様から入植当時の様子や兵村の日々について詳しく説明いただいた。

    
    ※ ジオラマの前で大西氏の説明を聴く「めだかの学校」の会員です。

 そのお話の中で新琴似屯田兵村の最大の特徴は、兵村の造りが「琴似屯田兵村」とは違い、分散制(粗居制)だったということだ。札幌に最初に入植した琴似屯田兵村は集住制(密居制)で一戸あたりの面積が150坪だったのに対して、新琴似屯田兵村の場合は一戸あたり4,000坪が兵屋のまわりに与えられたそうだ。(もちろん琴似屯田兵村に入植した屯田兵にも郊外に同面積の開墾地が与えられたのだが…)二つの制度は屯田兵としての任務も考えるとそれぞれ長短はあったが、未開の地を開墾するうえでは分散制(粗居制)の方が住居の近くに開墾地があるということから有意だったようである。

    
    ※ 中隊本部内の中隊長の執務机が再現されていました。

 なお、新琴似屯田兵村は前述したように当初は146戸の入植だったが、翌年に74戸が入植し計220戸が入植し、第一大隊第三中隊が編成され、そこに建てられたのが「新琴似屯田兵村中隊本部」である。
 大西氏によると、当時の新琴似地区は密林状態で大木が生い茂っていたそうだが、屯田兵並びに家族はその密林を畑地に変えるために人力だけを頼りに開墾の鍬を振るったという。
 ところが、当地は発寒川や琴似川の下流だったことから泥炭質の一大湿地帯だったそうだ。そこで屯田兵本部の三沢毅中尉(後の初代中隊長)の指導で人工河川(排水溝)「安春川」を掘削した。そのことによって優良な農地に変貌し、新琴似の農業に発展に繋がったそうだ。
 説明は新琴似神社境内の記念碑群に移った。境内には13基の記念碑が建っているが、保存会から「神社境内の記念碑群」という冊子が配られ、それが大いに参考になった。ここの記念碑はいずれもが巨大な岩石を使用した立派な碑が多いことだった。その維持管理も大変ということだが、新琴似地区住民の方々の理解を得て保存費用の寄付も集めることができ、順次整備しているとのことだった。

    
    ※ 巨大な拓魂碑の前で説明を受ける「めだかの学校」の会員たちです。

 記念碑以外で私が注目したのは中隊本部横に屹立する大木だった。確か高さ30メートル以上とのことだったが、見上げても樹全体が視界に入らないほどの大木である。樹種は「シロヤナギ」とのことだったが、これほどの巨木を市街地で見ることができるので珍しいことだ。

        
        ※ 巨大なシロヤナギの樹高には驚きました。

 ここで大西氏の説明は終わり、大西氏にお礼を告げて、私たちは中隊本部からは少し離れたところを流れる「安春川」沿いに移った。
 現在の「安春川」は宅地化が進んだこともあり当初の役割は終えているが、市の整備事業により下水道の高度処理水を新たな水源としてかつての〈せせらぎ〉が復活し、散策路が整備されている。その一環として水辺に屯田兵関連のタイル画が掲示されている。

    
    ※ 「安春川」の川沿いには、その由来を説明する碑文がありました。

 それを確認するために「安春川」を遡ったのだが、この日の蒸し暑い気候のために会員の方々は次々とリタイアしてしまい、結局タイル画が見えるところまで行きついた会員は4名となってしまった。

    
    ※ タイル壁画の一つ、畑を耕す屯田兵です。

 私は体調が優れなかったのだが、この企画を主宰する一人としての責任もあったので最後までお付き合いをし、8枚のタイル壁画、7枚の足元のタイル画、さらに橋の欄干に掲げられた銀製(?)の彫刻画を確認し、帰路に就いた。

    
    ※ 橋の欄欄に掲げられた木を切り倒す様子を描いた銀製の彫刻画です。

 札幌近郊の屯田兵村を訪ねる本企画も残り、野幌屯田兵村と山鼻屯田兵村の二つとなった。特に次回の野幌屯田兵村は残された史跡も多く、一日をかけて巡り歩くこの企画の中でも最も充実した現地見学となるはずだ。一か月後が待ち遠しい思いである。

街歩きの達人、札幌の街を語る

2024-07-23 20:50:52 | 札幌学 & ほっかいどう学
 えっ?南区の面積は、東京24区の面積より広いって!?札幌の街が微妙に碁盤の目の形がズレているのは、黒田清隆と岩村通俊の仲が悪かったから?などなど、次から次へと札幌のトリビアが開陳され、楽しくお話を伺った。

 昨日午後、道立道民活動センター(かでる2・7)において「ほっかいどう学かでる講座」が開講されたので受講した。
 今回は、街歩き研究家として活躍されている和田哲氏「ぶらり新発見~さっぽろの街並みから~」と題してお話された。
 和田氏が開陳されたテーマは、◆南区の広大さ、◆札幌の条・丁目、◆北海道の三大名橋、◆札幌市電、◆定山渓鉄道、◆中島スポーツセンター、◆アンパン道路、◆悲しみの盤渓、と多岐にわたった。
 和田氏はこれだけのテーマをテンポよく、次々とお話されるのでメモすることもできなかったのだが、記憶を頼りにその一片を書き起こしてみる。

   
   ※ 講演をされる街歩き研究家の和田哲氏です。
  
 まず南区の広大さであるが、南区の面積は札幌10区全体の60数パーセントを占めているそうだ。そしてその広さは前述したように東京23区より広いそうだ。
 次に、札幌の街は碁盤の目状に道路が走っているとよく言われているが、詳細に見てみると、山鼻地区から中心街へ向かう際、微妙に道路が屈曲している。これは札幌の中心街が当時の札幌の街を貫いていた「大友堀(現在の創成川)」を中心に区角割をしたのに対して、山鼻地区は屯田兵村として造られた街区で、こちらは独自に磁石の真北を基準に区角割をしたことでズレが生じたそうだ。このことを和田氏は、当時の開拓判官(2代目)だった岩村通俊が札幌の街の区角割を主導したのに対して、屯田兵制度を創設してその責任者でもあった黒田清隆は、岩村との仲が悪かったことから、岩村主導の街づくり準ずることなく独自山鼻地区の区角割をしたのではないか、と和田氏は述べられたが、まあこの説は巷に語られた俗説を紹介されたものと受け止めたい。

※ 旧札幌区と旧山鼻村の接点のところから微妙に道路が屈曲しているのがおわかりでしょうか?

 なお、札幌の条・丁目に関して、その面積の最小、最大の条・丁目についても紹介された。それによると最小のところは「南10条西2丁目」で人口はゼロである。対する最大のところは「北16条西16丁目」で「札幌競馬場」がすっぽりと入るそうだ。
 続いて札幌の交通の要衝の一つ国道36号線に架かる「豊平橋」は以前(大正から昭和年代にかけて)北海道の「三大名橋」と呼ばれていた時期があったそうだ。その「三大名橋」とは、旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」、そして札幌市の「豊平橋」だったそうだ。しかし、現在の「豊平橋」はいたって平凡な形状であり、名橋とは言い難い橋である。ところが大正13年に「土木工学の父」とも謳われた廣井勇氏の指導で完成された二連のアーチで繋ぐ橋は、まさに名橋に値する橋だったと云われているそうだ。

    
    ※ 何の変哲もない現代の豊平橋です。
    
    ※ 大正13年、廣井氏の指導で完成した豊平橋の渡り初めの様子です。

 次は「札幌市電」についてである。札幌市電は、それまで市内は馬車鉄道が走っていたそうだが、1908(大正7)年、開道50周年を記念して博覧会が開催されたのを機に、札幌電気軌道として開業されたのが始まりだそうだ。その際に札幌としては軌道を走る電車を探していた時、名古屋電気鉄道から中古の電車24両を提供してくれる申し入れがあり、無事に札幌市内を電車が走ることになったそうだ。
 名古屋との関りはそれで終わらず、今度は反対に名古屋電気鉄道の子会社(何という会社名だったかは不明)が中古の電車を探していた際、今度は札幌から名古屋へ中古の電車を譲ることになったという後日談も紹介された。
 おーっと、こうして和田氏から伺った話を紹介していくと、まだまだ続くことになってしまう。今夜の私の体力はこの辺りが限界である。和田氏から伺ったトリビアはいつの日かまた紹介させていただくことにして、今夜はこの辺にしておきます。
 私は和田氏のお話を聴いたのは確か4回目のはずであるが、いつ聴いても和田氏のお話は氏のお話上手もあり、毎回楽しませてもらっている。次もまたどこかで氏のお話を伺いたいと思っている。

※ 文中で使用している「トリビア」とは、昔の人気テレビ番組を想い出して使ってみたのだが、その意味は「どうでも良いこと」、「取るに足らないこと」だそうだ。しかし、私はそういう意味ではなく「へぇ~、そうだったんだ」、「そんな事実が隠されていたんだ」という意味合いで使用した。和田氏のお話をお聴きしていると、和田氏は実に詳細に調べ、時には電車の件ではわざわざ名古屋にまで出かけるなど、非常に説得力のあるお話をいつも聴かせていただいている。



PMF2024 ホストシティ・オーケストラ演奏会

2024-07-22 19:03:33 | ステージ & エンターテイメント
 PMFのホストシティである札幌交響楽団(以下、札響と称する)が、PMFの指導陣と共演するこの演奏会を楽しみにしていた。その結果、意外な発見をすることができ有意義なひと時となった。

     

 昨日(7月21日)午後、札幌コンサートホールKitaraにおいて「ホストシティ・オーケストラ演奏会」が開催され、参加した。
 私はPMFの時期が来ると、毎年疑問に思っていた。これまでのプログラムで札響は一切関わっていなかった。(と私は理解していた)片やプロの演奏陣、片や選考会を経てきたとはいえまだまだ演奏家の卵である。札響の人たちにとってはそのあたりの矜持のようなものがあったのだろうか?
 プログラムを拝見すると札響の演奏陣の中にPMFの修了生が12名もいて、札響としてもPMFの価値を改めて見直したということだろうか?ともかくこうした演奏会は私にとっては “待っていた!” 演奏会だった。
 プログラムによると、指揮は香港人のウィルソン・ウン、一曲目のホルン協奏曲のホルンソロをPMFアメリカのアンドリュー・ベインが、そしてオーケストラ・メンバーの中にも、PMFアメリカとPMFオーケストラ・メンバーが含まれていたということだ。

          
         ※ この日の指揮をしたウィルソン・ウンさん

 演奏された曲目は、
 ◆細川俊夫/ホルン協奏曲「開花の時」
 ◆チャイコフスキー/交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
の2曲だった。
 私が衝撃を受けたのは1曲目のホルン協奏曲「開花の時」だった。特に曲の出だしが衝撃的だった。弦と管の重低音の響きが場内に流れる中で、グロッケンシュピール(という楽器らしい)の効果的な響きが場内にこだまする響きが効果的だった。まるで花々の開花の様子が眼前で進行しているかのような錯覚に陥った。

           
       ※ ホルンのソロパートを演奏したアンドリュー・ベインさん

 ホルンソロについては、残念ながら私の聴く耳ではあまり印象に残らなかったというのが正直な感想である。私は作曲者の細川俊夫の曲想が、私のオーケストラに対する印象を変えさせられるほど衝撃的なことだった。
 この日のメインであるチャイコフスキーの交響曲「悲愴」は非常に有名な曲である。しかし、私にはこの演奏について評する力はない。ウィルソン・ウンの指揮、札響の演奏、ともに安定したステージを披露してくれ、満足して帰路に就いた7月21日の昼下がりだった…。