以前、知人から「お前さんのブログは文字が多すぎる」と云われたことがあった。彼は娘さんのブログが写真中心のブログであることからそうした発言をしたようだ。
一口にブログといってもさまざまである。私のように自ら体験したこと、感じたことを綴るブログはどうしても文章中心となる。写真だけでそうしたことを綴れるわけがないと思っている。
それでも彼のように思っている人に、たまあには応えてもいいかな?という思いから、本日は知事公館の庭の紅葉の様子を投稿することにする。といいながらも、これだけ講釈をたれているのだから、しょせん私は私である。
それではお待たせ、知事公館の庭の秋2013を!!
この映画を観て,結局自分は東日本大震災のことを他人事としてしかとらえていなかったことを痛感させられ、いたく反省した。何かを声高に叫ぶでもないこの映画は一人ひとりの心の中にじ-っと浸みこんでくる力があった。
10月25日(金)夜、道新ホールにおいて北海道新聞社などが主催する「あの日〜福島は生きている〜」映画上映&トークショー&ミニライブ in 札幌 というイベントが開催された。
冒頭、この映画の関係者三人が舞台に登場した。この映画を企画したクリエーターの箭内道彦氏、映画監督の今中康平氏、映画の中で猪苗代湖ズの一員として歌うシンガーの渡辺俊美氏の三人である。
箭内道彦氏の恰好を見て度肝を抜かれた。真っ黄々の金髪を立てて、着ている上着は真っ赤々である。年代はどう見ても40歳をはるかに超えている感じである。「いったいこの人何?」いうのがオヤジ(私のこと)の正直な気持ちだった。他の二人はオヤジから見てもまあまともな服装だったが…。
※ 写真左が箭内道彦氏、右が映画監督の今中康平氏です。
映画は震災で被災した福島の若い人たちの日常を淡々と描くドキュメンタリー映画である。まずは彼らのある日の朝食を摂る情景を淡々と撮っていく。そして「あの日の朝食は?」と問いかけるが、誰もがその後のショックの大きさに朝食のことなど憶えてはいない。
彼らはあまり震災のことを口にしなった。また、置かれた境遇を嘆くこともあまりせずに淡々と現実を受け入れているようだった。
実は、後で分かるのだが描かれている5組の人たち(実家で暮らす若い女性、母とその娘、小さな娘のいる家庭、一人暮らしの若者、若いカップル)にはある共通項があった。
それは、この映画の企画者でもある箭内道彦の呼びかけで震災から6ヶ月しか経っていない9月に福島県内5ヵ所で開催した「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」というロックコンサートに参加した人たちだった。
コンサートの企画が持ち上がったとき、「あまりにも時期が早いのではないか」との懸念の声が多く聞かれたという。しかし箭内たちは「みんなが沈んでいるからこそ、今こそみんなを元気づけたい」と企画を実行に移した。
9月14日の奥会津 季の郷 湯ら里を皮切りに、会津若松~猪苗代~郡山~相馬~いわき、と5日間連続で福島県を縦断するようにして開催したという。このコンサートから福島出身の4人のミュージシャンで組んだ「猪苗代湖ズ」が伝説の曲(?)「I love you & I need you ふくしま」が生まれた。
※ ミュージシャンの渡辺俊美氏です。彼は当日透き通った声で3曲披露してくれました。
もちろん伝説の曲「I love you & I need you ふくしま」も
映画の後半は描かれている5組の人たちがそれぞれのコンサートに参加している様子を追っている。その中で彼らは日常では見せなかった生き生きとした姿がとても印象的だった。抑えていた感情を解き放つように…。
作り込んだものではない。むしろ淡々と彼らの表情を追い続けるドキュメントを凝視続けるうちに、私は彼らの中の深い悲しみを見たような気がした。そして映画の後半には流れ出る涙を止めることができなかった。(年嵩が増して涙もろくなったせいもあるのだが…)
残念ながら私の筆力ではあの日の私の感動を的確に伝えることはできない。しかし、テレビのドキュメントなどでナレーターが被災地がいかに悲惨な状況であるかを強調されると、どこか鼻白む思いがあったのは事実である。それとは違い、被災者の表情を淡々と追い続けたこの映画の方が私の心の奥深くに届いた何かがあったのは事実である。
福島をはじめとする東北地方の一日も早い復興をこれまで以上に願った一日だった。
北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考」が始まった。8回にわたる長丁場であるが、第1回目の講座を聴くかぎりかなり興味がもてる内容である。「聖地」とは何か?そして「聖地」はどのようにして誕生するのか、興味深く話を聴いた。
北大の観光学高等研究センターが主催する「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~が始まった。10月21日から毎週月曜夜に開講される講座である。夜の開催というのが若干辛いが受講料(4,000円)を収めたこともあり、なんとか8回の講座を皆勤したいと思っている。
第1回目の講座は「聖地再考-聖地は意図的に作られたものなのか?宗教的「聖地」からアニメ「聖地」まで」と題して、観光学高等研究センター教授の山村高淑氏が講義した。
「聖地」というと思い浮かぶのが「エルサレム」である。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「聖地」として知られている。その他、「聖地」として思い浮かぶのはチベット仏教の「ポタラ宮」とか、日本の仏教における長野の「善光寺」参りとか、日本の神道の「伊勢神宮」などが思い浮かぶ。つまり「聖地」とは宗教的色彩をもって語られるのが一般的であった。
しかし、現代になると高校野球の聖地「甲子園」とか、高校サッカーの聖地「国立競技場」などと称されることも多くなってきた。さらに、講師の山村氏は東京ビックサイトで開催される「コミックマーケット(通称:コミケ)」には、マスコミはあまり報道しないけれど夏・冬会わせると約59万人ものコミックファンが集合し、それはまさにコミックファンにとっての「聖地」と言って良いのではないかと山村氏は云う。
※ 東京ビックサイトに集まったコミックファンの様子です。
人々が「聖地」を目ざすことを「巡礼」と称されるが、それは信者の居住地からは遠く離れたところにあるため「巡礼」は旅を伴う。このことが旅行の起源とされている。したがって、旅を意味する「travel」とは「苦難、苦痛」を表すラテン語に由来するという話は興味深い。
そういえば、チベット仏教徒が五体投地という様式で聖地ラサを目ざす姿は、見ている者からすると苦難の何物でもない気がしてくる。チベット仏教ほどではないにしても、交通機関が発達していなかった頃の巡礼は苦難の連続であったろう。
近世以降になると、この「旅行」が「旅行商品」となり、大衆化して「観光」が登場したという。(ここらあたりは観光を学術的に研究している氏らしい展開である)
※ 「五体投地」をしながら聖地ポタラ宮を目ざすチベット仏教信者です。
旅行が大衆化したことによって、聖地への巡礼も一層盛んとなったが、日本においては巡礼という意味を宗教的な意味から、より世俗的な意味でも用いられるようになったそうだ。つまり、日本においては鉄道ファン、アニメファン、ある歌手のファンなどにとって、特別な意味を持つ場所がしばしば「聖地」と称されるようになったと山村氏は云う。
そして山村氏は次の言葉を紹介した。「人間が集まることによって特殊な磁場が形成され、そこが聖地となる」
このことはギリシアのアクロポリス、カンボジアのアンコールワット、チベットのポタラ宮などは意図的に「神」を演出した空間として創出されたという。
同じように、現代においては神に代わる「鉄道」や「アニメ」や「歌手」を媒介として意図的に聖地が創り出されているという。
例えば、埼玉県では県が旗振り役となってアニメファンを集める「アニ玉祭」を開催し、盛況だということである。
※ アテナイの守護神アテーナーを祀るアクロポリスの丘です。
今回の山村氏の講義は、今回の講座「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~全体のイントロデュース的性格を帯びていた。
つまり、「聖地」というものを宗教的な意味からだけ捉えるだけでなく、もう少し広い意味で考え、聖地を観光学的に再考してみようとする講座のようである。
※ 今回のレポート(これからも)においては、講義を受けて私なりの解釈が加えられているためにあるいは講師の意図と違っている場合もあるということをお断りしておきます。
夕暮れが近づいていた。しかし先は長い。ルートは来た道を折り返し、新十津川町市街地を縦断するようにして「ふるさと公園」とは正反対の方向にある新十津川唯一の酒造会社「金滴酒造」を目ざした。
「ふるさと公園」を後にし、来た道をそっくり折り返すコースである。これが辛い。同じ景色をもう一度見ながら歩かねばならないのだ。初めて訪れた者としては、できるだけ
たくさんのその街の表情を見てみたいのだ。新十津川のルートは残念ながら後半にも折り返しのルートが用意されていた。マチの構造上いたしかたないとはいえ少々残念である。
私は近づく夕暮れに背中を押されるように少し急ぎ足になりながらも淡々と歩いた。そんな中で唯一レポートするとすれば、行きの道で目にした大豆を収穫するコンバインのところで、コンバインを操作する方の奥さんに出会ったことだ。
コンバインで刈り取り、脱穀した大豆を運搬用にトラックに移し替えるために、奥さんがトラックを畑のところに用意していたのだ。私は奥さんに声をかけた。
「今の収穫作業は一人で出来ちゃうんですね」と…。すると奥さんは「今収穫している大豆は小さい粒なのでいいんですが、大きな黒大豆の場合などはそうはいきません」という、豆が割れてしまうことがあるそうだ。詳しくは聞けなかったが、大粒の大豆の場合はコンバインにもう一人乗って、細かな操作をしなければならないということのようだった。
「今年の出来はいかがですか?」と問うたところ「まだ分からない」という。それは、これから大豆を乾燥させ、集荷施設に運び込んで審査(検査)を受けて、等級が判定されて初めて今年の収穫の良し悪しがきまるということだった。
※ 前編で掲載した写真を再び登場させました。
それ以外は市街地中心部まで約4㎞を黙々と歩いた。市街地近くになって「新十津川中学校」があった。こちらの方面をウォークしていて感ずるのは、敷地が豊富に取れるためか、どこの町の中学校もグランドが広々としていることだった。
※ 広々とした新十津川中学校のグランドは高校のグランドを思わせます。
市街地に入って気付いたことが一つあった。街路灯をよく見ると、その一つ一つに「新十津川物語」という表示がされていたのだ。新十津川の人たちが川村たかし著の「新十津川物語」に対して強い思いを抱いていることをうかがい知れた。
※ ご覧のように街路灯には「新十津川物語」の文字と、主人公「さき」の像が描かれています。
ルートはその昔よく通った国道275号線に導かれ、これもよく渡った「新十津川橋」を初めて歩いて渡った。橋が架かる「徳富川(とっぷがわ)」は石狩川の支流だが思い他流れの豊かな川だった。
※ 車では何度も渡った橋ですが、今回初めて歩いて渡りました。
※ 「徳富川」の意外に豊かな流れです。
徳富川を渡り、しばらく行くと石狩川の近くに歴史のありそうな(明治39年創業)レンガ造りの「金滴酒造」があった。時計はすでに午後4時近くになっていたので、中は見られないだろうと思っていたのだが、商品が陳列してある売店は開いていた。
売店に入ったからには何か購入せねばなるまい。アルコールが嫌いな方ではない私だが、日本酒は普段からまったく嗜まないので分からない。展示してある小さなおしゃれそうな瓶に目を付けた。青色の瓶も、「新十津川」というネーミングもいいではないか。すると、それは「蔵元限定販売」で他では販売していない酒だという。ラベルには「蔵元限定販売 特別本醸造 生詰原酒 新十津川」と印刷されていた。500mlで1,000円は安いのか?高いのか?
帰宅してから味わってみたが、正直言って私の口にはあまり合わなかった。(どの日本酒も同じなのだが…)
※ 歴史を感じさせてくれる「金滴酒造」株式会社の建物正面です。
※ 売店で購入した「蔵元限定販売 特別本醸造 生詰原酒 新十津川」です。
「金滴酒造」の直ぐ前にある石狩川堤防をよじ登り、対岸の滝川市を望む風景を写真に一枚撮り、ゴールへ向けて再び来た道を折り返した。
ルートは「新十津川橋」を渡り、徳富川河畔の遊歩道に導かれる。時計を見ると午後4時を回っていた。遊歩道には私の影が長く伸び、秋も深まり落日の早さを実感させてくれた。
※ 川向うはもう滝川市の住宅街です。
※ 堤防上に長~く伸びた私の影です。
ルート上にあった「出雲神社」、「開拓記念館」、「新十津川農業高校」、「新十津川役場」をカメラに収めながら日没前になんとか「新十津川駅」に着いた。ゴールをしたとき、私の時計は午後4時25分を指していた。
※ 新十津川の鎮守(?)の「出雲神社」です。
※ 時間が遅く入館がかなわなかった「開拓記念館」です。
※ 小中学校が比較的郊外にあるのに、「新十津川農業高校」は中心街に位置していました。歴史の違いかな?
※ 街の中心に位置していた「新十津川町役場」です。
「新十津川駅」に着き、「JR札沼線(学園都市線)」の終着駅ということで、列車止めの設備があるだろうと思い、線路に出たところなんと駅舎から200m近くも離れていた。疲れきった私にはこの距離さえも長く感じられたがしっかりとカメラに収めてきた。
※ JR札沼線(学園都市線)の線路の列車止めです。
コース上に二か所も往復するルートがあり、そこは若干不満であったが、見どころが多い新十津川のフットパルートだった。と同時に、奈良県十津川村から集団で移住し、ここまで豊かな農村に育て上げた先人の素晴らしさとご苦労を偲ぶフットパスでもあった。
《フットバスウォーク実施日 ‘13/10/19 距離 約12.8㎞》
新十津川縦断ルート
ご存じのように新十津川町は奈良県十津川村から移住した人たちが拓いた町として有名である。豊かな田園地帯が広がるフットパスルートであるが、ルート名が示すとおり街を縦断する長いルートだった。しかし、その先に待っていたものは…。
雨竜町のフットバスを終えたとき、時計の針は13時を指そうとしていた。時間がない。私は急いで隣町の新十津川町に車を走らせた。ゆっくり昼食を摂る時間などない。車を走らせながら軽食を口にするのが精一杯だった。
そして13時25分、新十津川町のスタート地点である「JR新十津川駅」の駅舎の前に立った。新十津川駅はJR札沼線(学園都市線)の終着駅ということだが、駅舎そのものはとっても小さく、駅員も駐在していない無人駅だった。
※ かわいい、かわいい「新十津川駅」である。愛車と一緒にパチリと…。
新十津川駅からやや迂回しながら踏切を渡り線路を越えた。
街外れにあった新十津川小学校の前の白樺の並木が見事(!)に斜めに立っている。強風のためと思われるが、方向的には南風になる。南風が強いのは何時の季節なのだろうか?
※ 見事(?)に傾いて立つ白樺並木です。
※ シャングルジムなどの体育遊具があるところがいかにも小学校らしいですね。
小学校を通り抜けると田園風景が広がる。ここでも稲を刈り取り、稲の茎の部分だけ残った田んぼが広がっている。そうした田んぼの中に、刈り取った稲の貯蔵施設「RICE BOX21」の建物が目に入ってくる。ここで「オヤッ?」と思ったことがあった。施設名「「RICE BOX21」の上に「JAピンネ」の文字があった。隣の雨竜町では「JA北空知」だった。どうやら雨竜町と新十津川町では農協の組織が違うようだ。なお、「ピンネ」とは新十津川町と当別町の町境にある山「ピンネシリ」からとったように思われる。
※ 稲刈りを終えた田んぼの向こうには新十津川のマチが望まれます。
※ JAピンネのコメ貯蔵施設「RICE BOX21」の建物です。
ここからが大変だった。延々と田んぼや畑が続く、ある意味単調な景色の中を郊外の「ふるさと公園」を目ざしてのウォーキングである。中心街からはざっと見ても4㎞以上あるのではないだろうか?
「ふるさと公園」に至るまでに気づいた光景としては、早々と庭の木々の冬囲いを終えた光景と、コンバインで大豆を収穫する光景くらいだった。
※ 早々と冬囲いを終えた農家の庭先です。
※ 一台のコンバインが大豆の収穫作業をしていました。現代の農業は収穫作業も一人なんですね。
長い道を辿り(ここを折り返さなくてはならないところが辛い)ようやく「ふるさと公園」に着いた。着いてみて、ルート設定者がなぜここまでルートを伸ばしたのか、その理由が分かったような気がした。そこには小さな町としては過ぎるくらいの素晴らしい施設群が揃っていた。その施設を羅列してみると…。
①グリーンパークしんとつかわ(温泉宿泊施設)、②サンヒルズ・サライ(研修宿泊施設&レストラン)、③ケビン村VILLA徳富(宿泊用キャビン)、④青少年交流キャンプ村、⑤室内パークゴルフ場、⑥登り窯「屯田陶房」、⑦新十津川物語記念館、⑧文化伝習館、⑨ピンネスタジアム(ナイター設備も整えた野球場)、少年野球用のふるさと球場、⑩温水プール、⑪スポーツセンター、⑫野外ステージ、⑬サンウッドパークゴルフ場、⑭テニスコート(9面)、⑮サッカーコート(全面芝)、というように町民のためのスポーツ・レジャー施設が一ヵ所に集中して建設されていたのだ。
私もいろいろな市町村を巡っているが、これほどの施設群が一所に集中して存在している例は記憶にないくらいだ。
※ きれいな芝生が全面に敷かれたサッカーコートです。
※ スポーツ合宿などに利用できる宿泊施設「サンヒルズ・サライ」の建物です。
※ 広い芝生が広がる野外ステージ、右側がスポーツセンター、その奥に温水プールがあります。
全てを見て回ることは時間的にも困難だった。
私はそのマチの歴史を知る上でもできるだけ資料館や博物館の類を訪れることにしているが、ここでも「新十津川物語記念館」を訪れてみることにした。「新十津川物語記念館なんてしゃれたネーミングだなあ」と思いながら訪れた(入館料140円)のだが、そこはなんと、NHKのテレビドラマにもなった「新十津川物語」を記念する記念館だったのだ。内部は原作者の川村たかし氏に関する資料と、NHKドラマの放映資料だけの展示施設だった…。
「新十津川物語」について私は寡聞にして知らないが、奈良県十津川村が大水害に襲われたのを機に、村民が北海道に移住し苦難の末に現在の新十津川町の礎を築いた歴史を辿るという実話をもとにした小説を映像化したもののようだ。そのため新十津川町民にとってはことのほか思い入れが深いようである。
※ 「新十津川物語記念館」です。完全な逆光のため苦労しました。
※ 内部は原作者の川村たかし氏の功績をたたえる展示が主でした。
もう一つ、公園内で「11月22日オープン」という赤い文字が目立ったので、何かな?思って近づいてみると、これが冬季用の「室内パークゴルフ場」のオープンを伝えていたのだ。長さが100メートル近くあるのではと思われるビニールハウス棟が3棟建っていた。中を覗いていると全面芝のコースには凹凸まで造られており、資料を調べると18ホールでPar66、全長541mと本格的である。
※ 屋内パークゴルフ場のオープンを伝える表示と、その後ろには3棟のビニールハウスが建てられています。
これほどの恵まれ施設を享受できる新十津川町民を羨ましく思いながら「ふるさと公園」を後にした私だった。
(新十津川町ルートの後半は後編で)
田園の里散策ルートは雨竜町のもう一つの呼びもの(?)である「史跡公園」に向かった。その途中での出会いが楽しかった。そしてちょっと不思議に思ったことにも出会った。
雨竜町が設定したフットパスルートは、国道275号線沿いに発達した雨竜町市街を取り囲むように水田地帯が広がっている中にルートが設定されていた。
後半のルートはその国道275号線の反対側を往くルートだった。
市街地の外れに「雨竜神社」があった。小ぶりながらも参道も整備され、さすがに米どころの神社だわいと思わせてくれた。
※ 「雨竜神社」の参道(上の写真)と本殿(下の写真)です。小ぶりながらも…という感じです。
そこを過ぎ、さらに市街地に近づくと街の施設が次々と目立ってきた。「メモリアルパーク」とは開基記念事業として造成された公園だろうか?
※ 開基○○年を記念して建てられた記念塔(?)だと思われます。
その向かいには「いきいき元気村」という施設が建っていた。そのネーミングから、お年寄りたちの健康施設だろうか?と思っていたのだが、近くにいた方に聞くと「町民の温泉施設」だということだった。
※ 「いきいき元気村」の温泉施設が入る立派な建物です。
この方との会話が楽しかった。私と同年代の話好きの男性だった。
その方に「何の施設か?」と聞いたところ「温泉だよ。入っていくかい?」という。「その他の施設が併設していることはないのか」と聞いたが、「ないはずだ」と言って、「私は毎日ここの温泉に来ているよ」、「何せ入浴料が100円だからねぇ」という。その訳は3ヶ月利用券が9,000円だとのことだった。
その男性は絶好の話し相手を得たかのように、私のプライベートに関することをどんどん聞いてくる。もちろん自分のことも紹介しながら…。そして、私が雨竜町をはじめ空知管内のマチを巡っていることを知ると「へぇ~、そんな楽しみ方もあるんだねぇ~」と妙に感心していた。
男性が教えてくれたことは少し違っていたようだ。帰宅してから調べたところ「生きがいの追求と定住の喜びをテーマに異世代間の交流拠点として建設されました。8.3haの敷地に高齢者健康福祉センター「いきいき館」、パークゴルフ場、こども交流プラザ「なかよし館」、日本庭園があります。」とあるように、単なる温泉施設とは違う高齢者をはじめとした地域住民の交流施設のようであった。
彼と別れ、私は雨竜町の見どころの一つ(?)中心街からちょっと離れた「史跡公園」を目ざした。
「史跡公園」は雨竜開拓の拠点となった蜂須賀農場の跡地を利用して公園化したものらしい。公園内には立派なイチイの木がたくさん植えられていて、その奥には場長住宅兼事務所として使われていた建物を「開拓記念館」としていた。残念ながら土・日・祝日は閉館日ということで門は固く閉ざされていた。
※ 立派なイチイの木が林立する「史跡公園」の入口です。
※ 「雨竜開拓の拠点 蜂須賀農場跡」という標識が立てられていました。
※ 公園内にあった「開拓記念館」の門は固く閉じられていました。
※ 秋らしい一枚です。今回のフットパスで最もお気に入りの一枚です。
同じ道を通り再び中心街に帰って往く。中心街に入ると歩道の舗装が気になった。三色に塗り分けられていて、それが蛇行しているように見える。これは私の想像なのだが、町のシンボル(?)雨竜川を模しているものと思ったのだが…。
※ これはどう見ても川の流れを模したものでしょう?
街中にいかにも古~い感じの旅館が建っていた。まだまだ現役のようだ。こうした旅館に郷愁を感ずる向きもあると思われる。ぜひとも長く現役を続けてほしいものだ。
※ 歴史を感じさせる建物です。屋根の雪止めもいいですねぇ~。
街の中心からは国道275号線沿いにゴールの「道の駅 田園の里うりゅう」へ向かう。国道沿いのウォークはどちらかというと単調なのであまり楽しいウォークではない。
ちょっと首を傾げたくなる光景に出会った。それは道の駅に近づいてからだった。道の駅は街の中心街から2キロほど離れたところにある。その近くに雨竜の小学校、中学校が国道を挟んで建てられていた。
率直な感想で「なぜこんなに中心街から離れたところに建てたのだろう?」と思った。もっと中心街近くに土地がないわけではないだろうと思う。町の為政者は子どもたちは少し遠いところまで歩かせ、足腰を強くさせようとでも考えたのだろうか? 冬、小学校低学年の児童にとっては厳しいなぁ…。
※ こちらは雨竜小学校です。土曜日のため校舎敷地は閑散としています。
※ こちらは雨竜中学校です。校舎の改築? or 改装中でしょうか?
そんなことを考えていたら、ゴールの「道の駅 田園の里うりゅう」に着いた。
※ 道の駅の入口に立つ案内塔です。
雨竜町は私が北見に住んでいたころ札幌へ出るとき、国道12線を走らずに裏道の国道275号線を走ることがあった。そのときに通過していたマチだったが、ほとんど意識することがないマチだった。
今回、マチを巡り、さまざまな光景に出会い、さらに雨竜沼高層湿原や暑寒別岳のあるマチ(いつか行ってみたい!)と知って一気に親しみのあるマチの一つになったように思えた。
《フットパスウォーク実施日 ’13/10/19 距離約11.7㎞》