航空自衛隊千歳基地とはいっても、実に11もの部隊からなっていることを知り驚いた。その中心はF15を要し、北の空を警戒する戦闘航空団である「第2航空団」であるが、それを支えるたくさんの部隊の存在を知ることができた。
9月29日(火)、めだかの学校の9月の野外学習は千歳方面を訪れた。目的地は航空自衛隊、千歳サーモンパーク、キリンビール工場の3ヵ所だった。
私などはまだまだひよっ子といった感じの高齢者集団にとっては、いささか疲れを覚える人がいたのでは、と心配になるくらい内容の濃い野外学習だった。
今回は、その中から航空自衛隊千歳基地を見学した様子をレポートする。
※ 基地の門を入って直ぐの航空公園には、現役を引退した戦闘機が展示されいた。
千歳基地はご存じのように新千歳空港に隣接しているが、他の自衛隊基地と同じように厳重に警戒された中にあり、私たちは広報担当の隊員がバスに乗り込んで基地内に通され、レセプションルーム(?)に導かれた。そこでまずはPRビデオを観た。
そのビデオから、私にとっては数々の新しい知識を得ることができた。
滑走路は航空自衛隊用が2本、民間用が2本の合計4本の滑走路が並存しているが、その4本の滑走路の航空機の発着の官制は自衛隊側が担っているということを初めて知った。
※ レセプションルームに戦闘機パイロットの人形が展示されていてドキッとした。
次に、千歳基地にある部隊であるが、先に記述したように11個部隊が展開している。順に記述すると〔第2航空団〕、〔第1移動警戒隊〕、〔第3高射群〕、〔北部航空施設隊第2作業隊〕、〔千歳救難隊〕、〔基地防空教導隊〕、〔千歳官制隊〕、〔千歳気象隊〕、〔特別航空輸送隊〕、〔第3移動通信隊〕、〔千歳移動警務隊〕といった具合である。そして、総数2,500余名の隊員が千歳基地には従事しているということだ。
さて、主たる任務である日本の領空に侵入する恐れのある国籍不明機に対する緊急発進(スクランブル)であるが、東西冷戦が終わったことにより一時減っていたが、最近になってまた回数が増加傾向にあるとのことだった。数字的にはメモできなかったが、かなりの回数だったと記憶している。
紹介ビデオが終わり、実際の見学に移った。
実際の見学は、〔千歳救難隊〕の救難機、救難ヘリコプター、と〔第2航空団〕所管のF15戦闘機を間近で見ることだった。
いずれのところでも、現役のパイロットが説明役を担ってくれた。救難隊の任務は、戦闘機パイロットが事故に遭った際に救難活動するのが主な任務だという。しかし、実際には平時において戦闘機パイロットが事故に遭うことは稀で、災害等の救助に活動することが多いということだ。救難機はちょうど定期点検をしていたが、75時間飛行する毎に点検が義務付けられているという。
※ 千歳救難隊の大きな格納庫 兼 整備場です。(両者を兼ねるものかどうか不明)
※ 定期点検中の救難用の飛行機です。(8人乗りと伺いました)
ヘリコプターは民間のものに比べ、かなり大きなものだったが、航続距離を伸ばすために機体の横に大きなタンクを搭載しているのが目立った。空の条件さえ良ければ千歳から大阪まで飛行できるということだった。
※ 民間のヘリコプターとは全くイメージが違い、こわもてのイメージです。
続いて、航空団のF15戦闘機が多数並ぶところへ導かれた。こちらは写真撮影がNGである。傍で見るとかなり大きな機体、エンジン全開時にはヒトをも飲みこむという巨大なエンジン、いかにも戦闘機といった物々しさだった。見学者を前にして、当然ミサイルは搭載していないものの、8発の大小ミサイルを搭載可能とのことだった。
説明役のパイロットがF15一機の購入価格が100億円だと、我々に紹介した際にはどこか誇らしげな表情だったのが印象的だった。それだけ、自らの任務に誇りと重責を感じながら日々従事しているということなのだろう。
※ 隊員が食事を摂る食堂ですが、木製のテーブル、椅子が柔らかな印象を与えます。
さらに私たちは、隊員食堂において昼食を摂ることができた。たくさんの隊員が食事を終えた後の時間帯に昼食を摂らせてもらったが、栄養のある美味しい昼食だった。ちなみに当日のメニューは、シメジの炊き込みご飯、サンマの塩焼き、ゴボウ炒め、テングサのみそ汁、といった内容だった。
その他、隊員が憩う厚生施設も見せていただき、見学は終了した。
※ 当日、私たちがいただいた昼食です。
※ 売店、喫茶、レストラン、トレーニングジムなど、隊員がリックス出来る施設が揃う厚生センターです。
安保法制などセンシティブな話題の多い自衛隊ではあるが、私はそれには直接コミットするつもりはない。
ただ、日本を取り巻く状況はけっして安泰なものではなく、むしろ日に日にきな臭さが漂ってきている状況にあるとも伝えられている。そうした状況にあって、彼らが日本の空を護っていることを忘れてはならないと思った…。
「世界連邦」という考え方がなぜ起こったというと、1648年に締結された近代国際法の元祖ともなったウェストファリア条約の存在があるという。
そのウェストファリア条約には二つの原則が存在する。それは、〔国家主権絶対〕と〔内政不干渉〕という二つの原則であり、その原則が今の国際連合(国連)においてもその土台となっているという。
ウェストファリア条約を土台とした国連(1945年成立)では戦争抑止力が低いと判断した世界の文化人や科学者たちが1946年、拙ブログの前号でも触れたように「モントルー宣言」を明示して世界連邦運動をスタートさせた。この運動には、バートランド・ラッセル、アルベルト・アインシュタイン、アルベルト・シュバイツァー、ウィンストン・チャーチル、湯川秀樹などのノーベル賞受賞者が賛同したと言われる。
※ 「世界連邦運動」を表すポスター募集の入選作(?)のようだ。
第一次、第二次と続いた世界大戦によって膨大ともいえる死者を生んでしまったことに危機感を抱いた世界の人々は、この理想とも思えるモントルー宣言に対して大きな期待を抱き、賛同する会員も一時は世界で100万人を超えて大きなムーブメントになりそうな形勢であったという。
しかし、やがて訪れた冷戦の時代が自国の体制、自国の利益を優先させることが第一となり、この運動を失速させた。そしてその後、この運動は再び勢いを得ることはなく今日に至っているというのが現状のようである。
日本においても、その動きは世界の動きと軌を一つにしてきたようである。
ただ一つ、日本において特徴的なことは2005(平成17)年に国会において「世界連邦実現に関する決議」が超党派によって採択されていることが関係者にとって大きな拠りどころとなっているようだ。
しかし、講演をされた荻野代表によると、その後の動きは鈍く、勢いを盛り返すまでにはなっていないのが現実だという。
荻野代表の講演自体は、日本の側から見た世界連邦運動の歴史であり、主張といった趣が強かったように思われた。そのことが、果たして世界に通用するのか、という疑問が私の中には残ったのだが…。
※ フォーラムの司会を務めた副代表の日色無人氏(左側)、右は荻野代表です。
その後行われたフォーラム「世界連邦運動は、危機を回避できるか」というテーマで、参加者の意見交換が行われた。その中で、運動の現状が露呈されたようにも映った。
つまり、そこでは今回の参加者数が示すように運動は衰微の一途を辿っているという。荻野代表も質疑に答え、運動自体を継続していく費用にも事欠いている実情が述べられた。
私には運動自体が風前の灯のようにも映った。
一つの理想的な姿とも思えた「世界連邦運動」がなぜこうまで衰退してしまったのか?
私ごときが考えられるような問題ではないのだが、混沌とする世界、魑魅魍魎が跋扈する世界の中にあって、理想主義などというものはどこかへ吹き飛んでしまう存在なのだろうか?
現状を眺めてみると、残念ながらそう思わざるを得ない現実でもある。しかし、一方で難しくはあっても理想の旗を降ろしくほしくない、という思いも抱いた今回の講演会&フォーラムだった。
9月27日(日)午後、市民センターで「こんな講演会&フォーラムがあるから行ってみないかい?」と知人に誘われた。何の予備知識もなかったのだが、好奇心いっぱいの私は「いったい何なの?」という興味から参加を決めた。
会場の市民センターの会議室へ行ってみて、思っていたより参加者が少なかったことと、代表者をはじめ事務局の方々が高齢なのが気になった。
会議室へ入室する際、各種の冊子やリーフレットをいただいた。開始前にそれらに目を通し、一応の知識を得ようと努めた。
※ 会場内に掲示された講演題やフォーラムのテーマです。
それによると、一言で表すと世界連邦運動とは「地球上から戦争を無くすために、世界の全ての国家を統合した形の世界連邦の成立を目ざす」運動のようである。
各種の冊子やリーフレットに目を通すかぎり、そこに謳われていることは良いことずくめであり、現在世界各地で起こっている様々な問題に対する理想的な解決策のように映った。
さらに会場内には「あと一歩の世界連邦」などという掲示が躍っていた。
えっ!? そんなに盛り上がっていることを自分は知らなかったの?という思いを抱いたのだが…。
※ 講演をする世界連邦運動協議会・北海道代表の荻野忠則氏です。
講演は元北海道女子短期大学教授で、世界連邦運動協議会・北海道代表の荻野忠則氏が「近代克服の歩み ~日本の世界連邦思想と運動の成果~」と題して講演された。
荻野氏は当年89歳ということだが、まだまだかくしゃくとした方で世界連邦の理念、そして運動の今を話された。
荻野氏によると、世界連邦運動は第二次世界大戦直後の1946年にルクセンブルグで結成され、翌1947年スイスのモントルーで、モントルー宣言を発して、世界連邦の6原則を明示したという。そのモントルー宣言とは、
1. 全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。
2. 世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する。
3. 世界連邦法は「国家」に対してではなく、1人1人の「個人」を対象として適用される。
4. 各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。
5. 原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。
6. 世界連邦の経費は各国政府の供出ではなく、個人からの税金でまかなう。
と高らかに宣言されたようである。
しかし、それから70年あまり、世界連邦などという理想は、現実の世界の中ではその影すら見えないのが現実である。
そのあたりのことについて、もう少し考えてみたい。(明日に続けたい)
9月26日(土)午後、道庁赤れんが庁舎において「赤れんが講座 館長 × 学芸員トーク 『夷酋列像』展の見どころ」を聴いた。
「夷酋列像」に関しては9月20日の北海道博物館の講演会に続いて2回目の受講である。
今回の講座は、北海道博物館の石森館長と学芸員の春木晶子さんの対話という形を採っていたが、実質的には今回の「夷酋列像」展の企画責任者であり、美術史学が専門の春木学芸員の解説を主としたものだった。
春木氏はまだ30歳前後と思われ、若くて才気煥発な印象を与える女性の学芸員だった。
※ 対談形式でトークを繰り広げた石森館長と春木学芸員のお二人です。
春木氏はまず、今回のポスターの特徴について触れた。今展示会のポスターの特徴は写真を見ると直ぐ気付くが、ツキノエとイトコイの二人の図が他の十人よりは際立って大きく表現されている。春木氏によると市内の若手デザイナーの作ということだが、依頼者・制作者とも若かったことが、こうした特徴あるポスターとして実現したのではないか、と私は思った。なかなかインパクトのあるポスターである。
※ インパクトを与えたポスターです。真ん中に、ツキノエとイトコイの二人を大きく配置した特徴あるポスターです。
次に酋長たちの顔の表情であるが、春木氏たちが調べたところ、作者の蠣崎波響は江戸へ絵師として修業していた時代に西洋の人物を描くこともあり、そうした彼の作品(粉本)を調べていくと、そっくりな表情をした西洋人の作品が残されていることに気付かされたそうだ。酋長たちと粉本に描かれた西洋人を同時に提示されると疑いの余地がないほど両者の表情は似ていた。
また、特徴ある酋長たちのポーズも、明らかに参考にしたと思われる波響の作品や西洋の作品が次々と見つかったという。中には明らかに難しすぎるポーズの絵もある。(例えば、唯一原本が見つかっていないという、イコリカヤニの後ろを振り返る図などは実際にはとりえないポーズのようだ)
※ 春木氏が実際にポーズをとっても無理だったイコリカヤニのポーズです。
そして、面白いと思ったのは、酋長たちが羽織っている蝦夷錦の着物にできた皺の部分表現法に二つの技法が使われていると指摘したことだ。当時の日本画の技法は線描によって皺を表現しているのに対して、洋画の技法では色の濃淡によって皺を表現している。それも同じ一枚の着物に二つの技法が使われているということなので、実際の作品でそのあたりをしっかり確認してみたいと思った。
※ チョウサマの図ですが、上に着た蝦夷錦の皺は線描です。下に着た赤い着物の皺は濃淡で表しています。
さらに、描く酋長たちを12人としたのも、屏風絵を意識したものだという。当時の屏風絵は〔六曲一双形式〕といって、6枚一組という考え方があり、12人というのはちょうどその倍ということを意識して描かれたと推測されるという。また、その描く順序にもしっかりとした意図があったようだ。
※ 鹿を背負ったノチクサの図ですが、このポーズにかなり無理があると言います。
まだまだ春木氏の口からは興味深い事実が次々と語られた。
先の講演で「夷酋列像」は明らかに政治的意図をもって描かれたものである、と教えられたが、今回の講座では「夷酋列像」がアイヌの酋長たちを前にして描かれたものではなく、波響のイメージの中で描かれたことがはっきりした。
なのに「夷酋列像」がこれほどまで注目されるようになったかというと、春木氏は「めつらし」と「まばゆし」という当時の言葉を紹介してくれた。
「めつらし」とは、珍しいという意味であり、「まばゆし」は立派なという意味だという。
つまり、「夷酋列像」はアイヌという和人にとっては珍しい人種を、波響が非常に繊細かつ精巧な描き方によって人々を驚かせ、幕府の役人はおろか、公家の人々、ひいては天覧にまで供されるというように、当時の世で話題沸騰となったようである。そのため、多くの模写や粉本が出されることにもなったということだ。
今回の展覧会には、ブザンソン美術考古博物館(フランス)所蔵の真物11点のほか、全国に点在する模写や粉本も一堂に展示されているという。とても興味深い。
二つの講演・講座を受講し、少しは「夷酋列像」についての理解もできたようである。
近いうちに北海道博物館を訪れてみたいと思っているが、とても興味深く「夷酋列像」展を見ることができそうである。
本日午前、第3回目のSalon du Brillia(サロン・ド・ブリリア)を行った(開店した?)。テーマは以前に既述したとおり「○○さんのマンションメンテナンス講座」である。参加した方々の関心が高く、おおいに盛り上がったSalon du Brilliaだった。
Salon du Brilliaのことについては、7月19日に投稿した拙ブログを参照いただきたい。
ちょっとした事情もあり、当初予定していた期日より若干遅くなったのだが、本日の午前、9名の参加者を得てSalon du Brilliaが開催された。
講師役を務めていただいたHさんは、会員の一人であり、男性である。
Hさんは日頃からマンション内のさまざまな機器(特に水回り関係)が不具合になったときなど、こまめにメインテナンスに努められていることを知り、私が講師にお願いしたのだった。
Hさんは期待に違わず、自らの実践を、ユーモアを交えながら、飾り気なく詳しく語ってくれた。
オートメ化が進む現代のマンションは、便利な反面、使い続けることによって起こる不具合もけっこうあるのだ。日頃、そうしたことに悩みを抱えているご婦人方(いや夫もそうなのだが…)の関心は高い。Hさんの一つのアドバイスに二つも、三つも質問が飛ぶ。
そうしたやりとりが初めから最後までずーっと続くというありさまだった。
曰く、風呂桶の見えないところの掃除の仕方、排水の抜けが悪くなった時の対処法、洗い場のぬめり気を取り方、などなど…。
それは、洗面所、トイレ、キッチンとさまざまな水回り関係に及んだ。
用意したコーヒーを楽しむことも忘れるくらいに参加者たちはアドバイスに熱中した。
正直に告白するが、私はこうしたことを妻に任せっぱなしで、不具合があったときに妻から相談されても、何の助けもできないダメオヤジなのだ。
だから私は専門外の教室に放り込まれた劣等生状態だった…。
それでも、このSalon du Brilliaを呼びかけた者として、参加した方々が嬉々として話に熱中する様子を見て、嬉しくないわけがなかった。
先にも記したが、今のところこのSalon du Brilliaは2ヶ月に1回の開催である。もっと密な開催でも、と思うが機が熟すまではじっと待ちたいと思っている。
さて、次の開催のテーマは何にしようかな??
※ 第一ピークから支笏湖を望むパノラマ写真です。正面が風不死岳、左手が紋別岳、右手の肩しか見えないのが恵庭岳です。
息子が今回、私との登山を提案してくれたのは、昨秋羊蹄山を一緒に登ったときに、私の意外な衰えぶりを傍から見て、「これは親父と一緒に登ることができる機会は今後そう多くはないな」と思ったからではないか、と推測している。
そうしたこともあり、私の誕生祝いも兼ねての同行を提案してくれたようだ。
支笏湖に映る「逆さ風不死」を眺めながらトラーバースは続いた。山頂を目ざしているのに、コースは上り下りを繰り返す。右手の山を目ざしていたのかと思ったが、その山裾も迂回してコースは進む。
そしてしばらく進んだところで、やはり遠くの木が生えていないピークが見えたところがどうやら目ざすイチャンコッペ山のようだと思い始めた。
※ 写真のように整備された登山道を上下しながら進みました。
登山道は概ね整備されていて、とても登りやすい(歩きやすい)コースだった。
一つだけ気になったところがあった。それは、他の登山道でもときおり見られるのだが、登山道のところが深くえぐられ始めている個所があったことだ。きっと融雪時とか、大雨の時に、そこを大量の水が流れることが繰り返されることでできたところだろう。登りやすく整備することで、どうしてもできてしまう現象なのだろうが、あまりえぐれがひどくならないようにと願いたい。
※ 写真のように雨水などで少しえぐれ始めた登山道です。
そのイチャンコッペ山の裾野に取り付いてしばらくササ原を行くと、前方にくっきりと木が生えていないピークが見えてきた。そして、左手にはこれまで見えなかった恵庭岳が大きな爆裂火口を見せながら鋭く屹立していた。これまた見事な眺めである。
そしてピーク前の急登が始まった。急登との格闘は20分もあったろうか?ようやくピークに辿り着いた。ガイドブックでは、その周囲に反射板があると記しているが、いくら周りを見回してもそれらしきものは見当たらなかった。そこで私はそこのところを「第一ピーク」と勝手に命名した。
第一ピークからの眺望は素晴らしかった。ガイドブックでは山頂よりも眺望が良いと記していたので、「昼食はここの方が良いのでは」と息子と話し合った。
※ 正面に見えるのは初め山頂かと思っていた第一のピークです。
※ 登山道の左手には恵庭岳が見事な山容を現してくれました。
※ 第一のピークまではもう直ぐです!
第一ピークの前方にあまり高度差がない山頂が見えた。(高度差は160mのようだ)山頂を目ざしてしばらくは平坦な道を進んだ。山頂直下が少し登りになっていたが、15分ほどで山頂に到達した。
山頂からの眺望もなかなかだが、第一ピークのそれには及ばなかった。
私たちは山頂標識を背に写真を撮り終えると、「やはり第一ピークで昼にしよう!」と、山頂から15分をかけて第一ピークまで降り、ゆっくりと昼食兼大休憩を取ったのだった。
※ 第一のピークから、真の山頂へ向かってさらに進みました。
※ 到達したイチャンコッペ山の山頂標識です。
大休憩に1時間を予定していて、予定どおり下山を開始した。大休憩といっても、お湯を沸かし、妻の手製のおにぎりを頬張りながら、カップラーメンをすすり、その後で食後のコーヒーを楽しんでいたら1時間は瞬く間に過ぎてしまった。
休んでいるときに息子が「やぁ…、昼寝でもしたいなぁ」と呟いていたが、今考えると「それもありだったなぁ」と思っている。風もなく、適度な温度で、昼寝には絶好のシチュエーションだった。
何も急いで帰る必要がなかったし、あれだけの好条件に恵まれることはそうそうないのだから…。後から考えるとかえすがえすも残念である。大休憩の後、さらに1時間くらい何もしないでまったりするのも良かったなぁ…。
山から帰って、夕方には息子がセットしてくれた和食店で直会(なおらい)というか、私の6?歳の誕生日を祝う会を催してくれた。心地良い疲労感と酔いに包まれた楽しいひと時だった。
その席で私は「身体が動くかぎり、この時期に毎年一緒に山登りがしたい」と望んだところを息子は快諾してくれた。例え簡単な山になったとしても、できるかぎり長く続けたいと思った9月23日の夜だった。
【イチャンコッペ山 登山データー】
標 高 828.7m
駐車場 登山口近くに10数台停められる駐車場がある。
行 程 登山口→(30分)→2合目(急登終わり)→(1時間15分)→第一ピーク→(15分)→イチャンコッペ山→(15分)→第一ピーク⇒(1時間15分)⇒登山口
時 間 登山(2時間00分)、下山(1時間30分) ※途中休憩含む
登山日 ‘15/09/23
快晴! 無風! 適温! これ以上の登山日和なんて望めるだろうか!? そう思えるほどの絶好のコンディションの中、息子のサポート付き(?)の登山を楽しんだ。イチャコンペ山は思っていた以上に素晴らしい山だった。
息子との登山で構想した「藻岩山全山コースひと筆書き縦走」は息子の意見もあり、他日私が一人でやることにした。
そのため、どこにしようかかなり思案したのだが、やはり私が未体験の山ということでイチヤンコッペ山(828.7m)にしたのだった。
※ 登山口の駐車場にはすでに先客の車が3~4台駐車していました。
23日(水・祝)、自宅から1時間強かけて登山口に着いた。登山口は支笏湖を目前にして道路が鋭く折れ曲がるヘアピンカーブのところに駐車場があるので、わりあい分かり易い。それよりも、登山口そのものの看板がひっそり立っているため、見つけるまでに少し時間がかかってしまった。
※ 登山口のところにあった入山届けを入れた小さな箱です。
8時15分、入山届けに記入しスタートした。
いきなりの急登である。函館の超人sakagさんが「物凄い急な尾根登り」と称しているが、まさにそのとおりだった。これまでの経験で、ここの急登以上のところもあったが、このコースのように急登が連続しているところは、私には初めての経験だったかもしれない。私の身体はすでに汗にまみれていた。
※ 写真ではどうしても平板に写ってしまいますが、相当急な上りが続きました。
私の足で苦闘すること28分(健脚なら20分前後?)、傾斜が緩やかになった。ガイドブックではこのあたりが2合目ということだが、特に表示はなかった。
ここから左手に見える山(幌平山?)を目指すのかと思ったが、そうではなく山の裾をトラバースするように上り下りを繰り返しながら、右手に見える山の裾野の方へ回り込むようなコース取りだった。
※ こうして樹間から支笏湖が望めるようになってきました。
そして、この辺りから樹間を通して支笏湖が見え始めた。時には樹が邪魔をしないポイントもあった。素晴らしい!眺めである。支笏湖は波音一つ立てず、静かに水を湛えていた。
湖の対岸には、4年前に苦労して登った(私の場合はいつも苦労しているのだが)「風不死岳」が見事に屹立していた。そしてその山容が鏡のようになった湖面に映っているのだ!いわゆる「逆さ風不死」である。その見事さに、私は見惚れてしまった。
※ 支笏湖の対岸、目前に迫るのが風不死岳です。
※ 写真のような「逆さ風不死」をとらえることができました!
遠くに木が生えていないピークが望めた。かなり遠くである。「あれが頂上なのだろうか?」などと息子と話しながら歩を進めた。
※ 写真を撮影したときは半信半疑でしたが、イチャンコッペ山の山頂前のピークでした。
快晴! 無風! 適温! 私たちは最高のコンディションに感謝しながら、イチャンコッペの山頂を目指した。(以下は後編に綴ります)
蠣崎波響の「夷酋列像」については、2009年の北海道放送大学講座でその存在を初めて知り、多少は興味を抱いていた対象だった。その「夷酋列像展」が現在北海道博物館で開催されている。私はまだ見ていないが、見るからには「夷酋列像」についてもっと深く理解してから本物に触れようと、9月20日(日)北海道博物館で開催された関連イベント「夷酋列像とアイヌ文化」と題する講演会を聴くことにした。
講師は当初、北大先住民センター所属で、アイヌ民族史が専門の佐々木利和教授が務める予定だったが、病気のため急遽、文学研究科所属ではあるが先住民センターにも所属して佐々木教授と研究を共にし、指導も受けている谷本晃久准教授が務めた。
したがって、講演内容そのものは佐々木教授が構想したものだとの断りがあった。
※ 講座を担当した谷本晃久准教授です。
講座はまず、「夷酋列像」という名称について触れた。「夷酋列像」と名付けたのは蠣崎波響自身ではなく、波響の叔父で、当時の松前藩の家老だった松前広長が命名したものだそうだ。
その名の由来だが、「夷」という字には、東方のえびす(情を解さぬ荒々しい人)とか、殺す、皆殺しにするという意味があるようだ。そして「酋」は、おさ、かしら、あるいは未開人のかしらと解される。「列」は、ずらりと横に並んだもの、「像」は姿や形である。
つまり、松前広長は蠣崎波響が描いた12人のアイヌを、東方に住む情を解さぬ荒々しい未開人のかしらたちが並んだ図、と命名した。そこには、当時の和人がアイヌをどのように見ていたかを良く表しているように思える。
※ 「夷酋列像」12体の中でも特に有名な2体を載せます。こちらはツキノエです。
ところで、「夷酋列像」に描かれているアイヌの酋長たちは全て松前藩に恭順の意を示したアイヌたちである。1789年に勃発したクナシリ・キイタップの戦いで和人に反旗を翻し、和人を襲った酋長たちは皆処刑されているのである。
リード文で触れた「政治的な意図」についてだが、時代背景として当時は和人に対するアイヌの反抗が顕著な時代であった。幕府としては、それまで蝦夷地を松前藩に任せていたが、それでは不安だと考え幕府直轄とする案が浮上し、松前藩としては大変な危機を迎えていた時期だった。
そんな折に勃発したクナシリ・キイタップをアイヌの酋長たちを説得して反乱を収めたことを幕府にアピールする必要があったようだ。
※ こちらはイコトイという酋長です。
そうした背景をもちながらの「夷酋列像」であるから、研究者は「夷酋列像」を虚構の図であると喝破した。つまり、波響はアイヌたちにあのような衣装を着せてそれを写実してのではない、という。
それは、アイヌが着ている衣装は「蝦夷錦」という中国製の絹織物であり、履いている靴は洋風のもの、手にする兜などは当時の貴重品である。こうしたことを考えていくと、「
夷酋列像」は波響の中で考え描かれたものであるという可能性が非常に高いという。
したがって、「夷酋列像」は当時のアイヌの実態を表したものとはほど遠く、アイヌの民俗(民族)資料としての価値はほぼないと研究者間では評価されているようだ。
なのに、なぜ「夷酋列像」に注目が集まるかというと、蠣崎波響の細密画的な繊細に描画と鮮やかに色彩が幕府の中央で注目されることとなり、各地に模写が次々と生まれたことによるようだ。
まだまだ「夷酋列像」隠されたストーリーがあるようだ。
私は26日(土)の赤れんが講座「館長 × 学芸員トーク『夷酋列像』展見どころ紹介」の講座も受講を予定している。
私は「夷酋列像」についての理解を深めたうえで、「夷酋列像展」に出かけようと思っている。
久しぶりに大麻の友人のところに出向いた。
昼食時になって、辞去しようとしたら「一緒に昼を摂ろう」ということになった。
大麻地区には商店街というほどのところはないのだが、それでも今回訪れた「café ブルマン」は「大麻銀座」という商店が何店舗か集まった中にあった。
お世辞にもおしゃれとはいえない店内に入ってみると、いろんな雑貨が所狭しと並べられているエントランスから座席に案内される。
店内には普通の4人掛のテーブル席とは別に、壁で仕切られた個室があり、この日も何かのサークルの会合が行われていたようだ。
私は次の予定の時間が迫っていたこともあり、手早くできるという「コロッケカレー」(650円)をオーダーした。
コーヒーは、店名でもあるブルマンの豆を使用したコーヒーだということだったが、時間がないので断念した。
カレーができる間、店内を少し歩き回ってみた。「無料図書館」というコーナーがあった。そこには古本が並べられており、自由に持ち帰って良いと表示が出ていた。その他にもお客さんが持ち寄ったのだろうか?キーホルダーのようなものも無料で提供されていた。
別なコーナーを覗くと、着物着付け教室の案内とか、夜間に店を利用した店を開きませんか?という呼びかけがあったり、子ども店長さんを募集したり、といろいろと楽しい企画を実施しているカフェのようだ。
「コロッケカレー」が出てきた。コロッケはカボチャのコロッケだったが、私の舌にはコロッケよりカレーそのものが良かった。味は家庭的な味で、牛すじが旨さを引き出しているようなカレーだった。
地元の人たちにとっては溜まり場的カフェになっているのではないか、と思われた。
【café ブルマン データー】
北海道江別市大麻東町13-36
電 話 011-386-1411
営業時間 〔火~金〕11:00~20:00
〔土・日〕11:00~18:00
定休日 月曜日・祝日
駐車場 有(商店街の共同駐車場 約50台)
座 席 34席 (テーブル 2×4、4×4席、10×1席)
入店日 ‘15/09/20
千歳道産市場
※ 「道産市場」の屋上には北海道観光のシンボル?札幌時計台を模したものが載っていました。
今回の見学会は、昼食を主催者が用意してくれるというサービスだった。その昼食会場が千歳市にある「道産市場」というところだった。
案内では、主催者である「札幌市製紙原料事業協同組合」が「海鮮丼」を用意します、ということだったが、このことが私には問題だった。
何が問題かというと、海鮮丼というと魚介類がそれほど得意でない私には悩ましいものだったのだ。特にイクラを私は全く受け付けない。困った…。
※ これが噂の「海鮮丼」+「タラバガニの鉄砲汁」の昼食です。
店に行ってから、スタッフに相談しようと思っていた。しかし、案内された「道産市場」というところは、団体の観光客が昼食を摂る会場のようで、体育館のような(少しオーバーかな?)ところに、ずらーっと既に海鮮丼が並べられていた。これでは相談は無理だぁ~。
海鮮丼を見ると、恐れていたイクラが丼の真ん中にでんと座っていた。参りました。
私は隣に座った見ず知らずの紳士に声をかけた。「イクラは好きですか?」と…。幸い「いただいてもいいですよ」と言ってくれたので、丁寧に一つの残らず拾い上げて、隣の紳士に食べてもらったのだった。
ちなみに、海鮮丼に入っていたネタは、エビ、サーモン、ホッキ、カズノコ、イクラ、シメサバ、イカの7種だった。私はイクラの他、カズノコもパスした。他はなんとか…。
それより、私には同時に出たタラバガニの鉄砲汁が美味しかった。
道新総合印刷本社工場「フムフム館」
※ 道新総合印刷本社工場のエントランスです。工場というイメージはありません。
道新印刷の本社工場は北広島市大曲工場団地、というより羊が丘通りの南東端に近いところにあった。
工場見学というと、通常は映像などを使用して工場の概要のガイダンスがあり、その後に実際の見学に移るというのが普通であるが、ここではちょうど本日(18日)の夕刊の印刷中だということもあり、先に見学者用の窓から夕刊を印刷しているところ見学した。
※ 見学者の集まるロビーに置かれていたユルキャラ「ぶんちゃん」のぬいぐるみです。
※ 本州製紙北海道工場から送られてきた新聞印刷用紙が見学者コーナーに展示されていました。
※ カラー印刷の仕組みを説明する展示です。パソコンのカラー印字と同じ原理ですね。
印刷中の工程を見学しても、私の場合は特別な感慨はなかった。というのも、修学旅行などでこれまで何度か見学していたことがあったからかもしれない。
それより、道新側の見学者に対するさまざまなサービスが印象的だった。
まず、印刷工程を見学した後、全員で記念写真を撮った。「どうして写真など撮るのだろう?まさか写真進呈のサービスがあるはずがない」と思ったのだが…。
続いて、ガイダンスが行われる部屋に入ると、なぜか「ぶんちゃん(道新のゆるキャラ)」マークの入った軍手、ファイターズロゴ入りのティッシュ、「ぶんちゃん」マークの入ったスタッフ袋などなど、多くのプレゼントが配られた。
極めつけは、先ほど撮った記念写真が入った「見学記念号」と称する新聞風の印刷物が渡された。これは見学者を喜ばすサービスである。
さらには、先ほど見学した際に印刷していた当日の夕刊が全員に配られるというサービスぶりだった。
こうしたサービスは新聞界の危機感の表れ?と見たのだが、それはうがち過ぎ?
※ 道新の印刷工場では写真のようなプレゼントが…。
※ サービスの最たるものが、私たち見学者の写真を組み込んだ新聞風の印刷物でした。
と一日をかけて、雑がみが再資源となる一連の工程を実際に見て歩いたのだが、見学する側としては主催者側の行き届いた配慮、見学先の周到な準備によって満足できる見学会だったが、はてしてその効用はどうだったろうか?
見学者の反応をうかがっていると、新聞古紙や雑がみを別途回収することが常識になりつつあるような会話が交わされていたようだ。我が家でも雑がみを別途収集することが日常となっている。
こうした催しが少しずつでも環境への負荷を減らし、資源の再資源化を推し進めることに繋がってほしいと願いたい。(優等生的なまとめだが、歳を取ると下手のことは言えない、と自らに言い聞かせている私だった…)