私にとっては、琴似地区の屯田兵に関する石碑、史跡はすでに数年前に見学を終えている。しかし、ある目的のためには改めて現地を踏査して確認することが必要との考えから琴似地区を訪れることにした。
この日は天気も良く、気温もまあまあだったので、私は自転車で【西区・琴似地区】に向かった。
最初に訪れたのは西区役所前にある《屯田の森》だった。
それでは《屯田の森》内に建てられた石碑から紹介していくこにする。
① 琴似屯田兵顕彰碑
琴似屯田兵村における開拓の功績を伝えるため、大正13年、移住50年を記念し記念館及び記念塔が琴似神社境内に建立された。記念館は昭和29年に焼失。記念塔は残ったが、老朽化により取り壊され、代わりに現在の場所に同碑が建てられた。(建立年 平成11年)
② 「陸軍屯田兵第一大隊 第一中隊本部之趾」碑(「屯田兵本部趾」碑)
この碑の横に小さな碑があるが、この二つはどちらも琴似屯田兵の中隊本部がこの地にあったことを示すものである。(建立年 昭和15年、 小さな碑は大正13年)
③ 琴似屯田開村「紀念碑」
壁面には「紀念碑」としか記されていないが、これがのちに琴似村の母体となった琴似屯田を表し、屯田兵による本道開拓のさきがけとして、その発祥の地を意味したもの。碑文に陸軍大将永山武四郎の漢詩が掲げられているという。(建立年 明治30年)
④ 琴似屯田百年記念碑
昭和50年、開村百年を記念し、地元の有志が中心となり結成された屯田百年記念事業期成会により設置されたものである。(建立年 昭和50年)
その後、《屯田の森》の道路向かいになる《琴似神社》の境内に移った。
⑤ 「琴似屯田授産場趾」碑
屯田兵の生活を守るため、開拓使は彼らに養蚕を奨励した。この授産場の建物が昭和50年代の初期、西区役所の近くにあった旧山田邸の敷地内で発見された。これを記念して琴似神社内に建立されたものである。なお、この建物(養蚕板倉)は、現在北海道開拓の村に保存展示されているということだ。(建立年 昭和56年)
⑥ 忠魂碑
日清・日露戦争の戦没者の慰霊のために建立された。屯田兵は西南戦争、日清戦争、日露戦争に派兵されているが、日露戦争当時、ことに屯田兵村の人々の大半は退役していて、主として新琴似兵村の人々が派兵されたという。(建立年 大正元年)
⑦ 「琴似屯田兵屋」
※ 残念ながら逆光のために建物がよく写っていません。
※ 建物内部は当時の生活そのままの感じで再現されていました。
屯田兵が生活していた兵屋を復元展示されているものだが、琴似神社境内の奥まったところに保存されている。琴似には同じようなものが二つ存在するが、こちらのほうは当時の建物に若干の補修は加えられてはいるものの、いわゆる現物である。内部には当時使用されていた農具や家具が展示されている。昭和39年に北海道有形文化財に指定された。
次に、《琴似神社》境内から、屯田兵関係では最も有名と思われる地下鉄「琴似駅」近くにある《琴似屯田兵屋跡》に移動した。
※ 復元展示されている「琴似屯田兵屋跡」の建物です。
⑧ 「琴似屯田兵屋跡」
※ 屯田兵屋の4.5畳と6畳の畳の間です。
※ 台所など、住民が生活する板の間です。
※ 建物の裏には畑地がありましたが、5,000坪与えられたという割には狭い面積に思えたので、
管理人に尋ねると、「当時の広さではないはず」との回答だった。
こちらは、兵屋の「現物」ではなく、「復元」されたものである。
しかし、こちらは国の指定史跡に指定され、しかも管理人が常駐している。オリジナルの方が道の指定で、復元されたものが国の指定というのでは疑問も抱くが、「兵屋跡」と表すとおり、建物それ自体よりも、屯田兵入植当時そのままの位置に、昭和45年まで兵屋が残っていたという事実が国指定を受ける要因になったそうだ。こちらも平成16年に北海道遺産に登録されたそうだ。
以上、地下鉄「琴似駅」周辺に点在する史跡や石碑を巡って回ったが、いずれも駅から400m圏内に存在し、歩いて十分に巡ることができる範囲である。
(2017/10/28)
※ なお、今回の石碑等の説明は、西区役所発行の「歴史の街 西区」の冊子を参考にした。
※ また、訪れた地名の表記を大まかな区分で表記することにし、1、2においても改めた。