田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌歴史散歩 3 西区・琴似地区

2017-10-31 21:35:03 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 琴似は屯田兵発祥の地である。1875(明治8)年5月、歴史上初の屯田兵198戸が入植、ここに屯田兵第一大隊第一中隊がおかれた。そうした歴史もあり、琴似地区には屯田兵に関する石碑や史跡が数多く残されている。 

 私にとっては、琴似地区の屯田兵に関する石碑、史跡はすでに数年前に見学を終えている。しかし、ある目的のためには改めて現地を踏査して確認することが必要との考えから琴似地区を訪れることにした。

 この日は天気も良く、気温もまあまあだったので、私は自転車で【西区・琴似地区】に向かった。
 最初に訪れたのは西区役所前にある《屯田の森》だった。
 それでは《屯田の森》内に建てられた石碑から紹介していくこにする。

               

 ① 琴似屯田兵顕彰碑

                
 琴似屯田兵村における開拓の功績を伝えるため、大正13年、移住50年を記念し記念館及び記念塔が琴似神社境内に建立された。記念館は昭和29年に焼失。記念塔は残ったが、老朽化により取り壊され、代わりに現在の場所に同碑が建てられた。(建立年 平成11年)

 ② 「陸軍屯田兵第一大隊 第一中隊本部之趾」碑(「屯田兵本部趾」碑)

                    

                    
 この碑の横に小さな碑があるが、この二つはどちらも琴似屯田兵の中隊本部がこの地にあったことを示すものである。(建立年 昭和15年、 小さな碑は大正13年)

 ③ 琴似屯田開村「紀念碑」 

                    
 壁面には「紀念碑」としか記されていないが、これがのちに琴似村の母体となった琴似屯田を表し、屯田兵による本道開拓のさきがけとして、その発祥の地を意味したもの。碑文に陸軍大将永山武四郎の漢詩が掲げられているという。(建立年 明治30年)

 ④ 琴似屯田百年記念碑

               
 昭和50年、開村百年を記念し、地元の有志が中心となり結成された屯田百年記念事業期成会により設置されたものである。(建立年 昭和50年)

 その後、《屯田の森》の道路向かいになる《琴似神社》の境内に移った。

               

  ⑤ 「琴似屯田授産場趾」碑

               
 屯田兵の生活を守るため、開拓使は彼らに養蚕を奨励した。この授産場の建物が昭和50年代の初期、西区役所の近くにあった旧山田邸の敷地内で発見された。これを記念して琴似神社内に建立されたものである。なお、この建物(養蚕板倉)は、現在北海道開拓の村に保存展示されているということだ。(建立年 昭和56年)

 ⑥ 忠魂碑

                    
 日清・日露戦争の戦没者の慰霊のために建立された。屯田兵は西南戦争、日清戦争、日露戦争に派兵されているが、日露戦争当時、ことに屯田兵村の人々の大半は退役していて、主として新琴似兵村の人々が派兵されたという。(建立年 大正元年)

 ⑦ 「琴似屯田兵屋」 

               
               ※ 残念ながら逆光のために建物がよく写っていません。

               
               ※ 建物内部は当時の生活そのままの感じで再現されていました。
               
 屯田兵が生活していた兵屋を復元展示されているものだが、琴似神社境内の奥まったところに保存されている。琴似には同じようなものが二つ存在するが、こちらのほうは当時の建物に若干の補修は加えられてはいるものの、いわゆる現物である。内部には当時使用されていた農具や家具が展示されている。昭和39年に北海道有形文化財に指定された。

 次に、《琴似神社》境内から、屯田兵関係では最も有名と思われる地下鉄「琴似駅」近くにある《琴似屯田兵屋跡》に移動した。

               
               ※ 復元展示されている「琴似屯田兵屋跡」の建物です。

 ⑧ 「琴似屯田兵屋跡」 

               
               ※ 屯田兵屋の4.5畳と6畳の畳の間です。

               
               ※ 台所など、住民が生活する板の間です。

               
               ※ 建物の裏には畑地がありましたが、5,000坪与えられたという割には狭い面積に思えたので、
                管理人に尋ねると、「当時の広さではないはず」との回答だった。

 こちらは、兵屋の「現物」ではなく、「復元」されたものである。
 しかし、こちらは国の指定史跡に指定され、しかも管理人が常駐している。オリジナルの方が道の指定で、復元されたものが国の指定というのでは疑問も抱くが、「兵屋跡」と表すとおり、建物それ自体よりも、屯田兵入植当時そのままの位置に、昭和45年まで兵屋が残っていたという事実が国指定を受ける要因になったそうだ。こちらも平成16年に北海道遺産に登録されたそうだ。

 以上、地下鉄「琴似駅」周辺に点在する史跡や石碑を巡って回ったが、いずれも駅から400m圏内に存在し、歩いて十分に巡ることができる範囲である。
                                           (2017/10/28)

※ なお、今回の石碑等の説明は、西区役所発行の「歴史の街 西区」の冊子を参考にした。
※ また、訪れた地名の表記を大まかな区分で表記することにし、1、2においても改めた。

 

山口昌夫文庫と札幌大学

2017-10-30 16:53:50 | 大学公開講座
 札幌大学創立50周年記念公開講座「個人文庫をもつ大学 ~ その意義と可能性」の最終回は、札幌大学に創設された「山口昌夫文庫」についての講座だった。山口昌夫は、これまでの加藤周一や丸山眞男と同じく日本の言論界に影響を与えた一人だったが、前出二人とは趣の違った形で発信を続けられた方のようだった…。 

                
                ※ 在りし日に自宅書斎で寛ぐ山口昌夫氏です。

 10月25日(水)午後、札幌大学図書館において「個人文庫をもつ大学 ~ その意義と可能性」の第3回講座(最終講座)が開催された。
 最終回は、札幌大学々長をされた山口昌夫が自身の蔵書を寄贈した「山口昌夫文庫」について、札幌大学名誉教授(この日名誉教授に推挙されたらしい)で、立命館大学加藤周一現代思想研究センター客員研究員である石塚純一氏「山口昌夫先生と山口文庫について」と題して講師を務められた。

                 
                 ※ 講師を務めた札幌大学名誉教授の石塚純一氏です。

 山口氏は生誕の地がオホーツクの美幌町で、網走南ヶ丘高から東大に進学したこともあり、東京外大で長く務められて退官した後に札幌大学に招かれたようだ。札幌大学では1999年から2003年まで学長を務められている。
 その縁で、氏の蔵書が札幌大学に寄贈され「山口昌夫文庫」が創設されてということのようだ。
 札幌大学の図書館の一角には、山口氏の東京の自宅の本に囲まれた書斎(居間?)が再現されていた。

            
            ※ 札幌大学の「山口昌夫文庫」内に再現された山口家の書斎の様子です。

 石塚氏は先ず、個人文庫の持つ意義について、次のように整理した。
 ① 優れた個人(研究者)の思想や仕事を後世の人が調べ検証するためのアーカイブとしての機能。
 ② 個人の身体を通して集められた書物の群れは、一つの時代精神・文化を体現する。それらが図書館内にまとまって存在することに意義がある。

 さて、山口昌夫の思想界における業績についてだが、私が石塚氏から伺うかぎりは、山口は加藤周一や丸山眞男のように政治に直接コミットするような言論は展開しなかったよう受け止めた。
 山口が世に出ようとした頃は、社会全体が騒然としていた時代(全共闘の時代)で、文化的にはサブカルチャーの勃興期とかぶさり、山口の目はサブカルに注がれることが多かったようだ。
 そうしたこともあり、山口が本格的に世に問うた著作「瓢箪と学生」も当初はあまり注目されてなかったようだが、石塚氏にはその著は、時代の空気を鋭く突いていると話された。

 その「瓢箪と学生」の一節には次のようなくだりがある。
「現在の状況は、徹底的に俗なるものに転化し、間化した時間の上に構築された世界を一挙にくつがえし、いわば人間化した聖なる時間を回復する要求と見受けられます。そこで私には、行動においてラディカルな学生運動がかえって研ぎすまされた精神性の上に成り立っているような気がします。喧噪のさなかに身を挺して、瞬間的にも世俗的な時間を停止させるというのは、まさに祭りの状況に対応すると思うのです。」
 この時代、山口は海外で生活していたこともあり、日本の状況を客観的に概観していたようにもうかがえる。
 この姿勢は、山口が日本へ帰ってきた後もある意味で一貫していたともいえるようである。

            
            ※ 札幌大学図書館の一角に設けられた「山口昌夫文庫」の書棚です。

 札幌大学の「山口昌夫文庫」は、1997年、山口が札幌大学文化学部長として赴任した際に、山口の蔵書など約4万点(冊?)が札幌大の地下室の運び込まれたのが最初だという。そのご整理され、公開していたのだが、管理する人員の不足などにより2010年から公開を止めていたが、石塚氏たちの尽力により2012年から再び公開する運びになったということだった。

 ことほど左様に、大学の個人文庫は人的にも、財政的にも厳しい状況に置かれていることに石塚氏は危機感を示した。
 そのことは、「加藤周一文庫」や「丸山眞男文庫」の関係者の同様のことを口にしていた。
 
 加藤周一、丸山眞男、山口昌夫といった「知の巨人」と称される人などは、私などからは遠い存在であるが、私たちの価値観の醸成に少なからず影響を与えているらしいことをおぼろげながらでも感得できたことが本講座を受講した成果と言えようか?
 そうした価値ある個人文庫が永続されることを願いたいと思った今回の講座だった。


札幌歴史散歩 2 北区・新琴似地区

2017-10-29 20:11:27 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 JR新琴似駅の近くにある「新琴似神社」の境内に「新琴似屯田兵中隊本部」の建物が復元されて展示されている。調べてみると、そもそも「新琴似神社」の設立経過に中隊本部が関わっているということだ。 

               

 「新琴似神社」は、JR琴似駅から350m、地下鉄麻生駅からでも700m程度の近さにある。
 ここは以前に一度訪れていたが、その時は「新琴似屯田兵中隊本部」の復元された建物の中に入ることができなかった。というもの、この建物は夏季間(4~11月)の月・水・金・日しか開館していなく、以前に訪れた時は閉館日のために入館できなかったのだ。

 それでは昨日同様、石碑等を羅列することにする。

 ① 新琴似屯田兵中隊本部 

               
 2回目にして入館なった「新琴似屯田兵中隊本部」を再現した建物であるが、意外に小さな建物だった。内部は新琴似屯田兵ついて説明する資料が展示されていたり、当時の屯田兵の生活の様子を物語る生活用具が展示されているなど、ミニ資料館といった趣だった。
 この建物はバルーンフレーム構造といって、アメリカ中西部の開拓期に流行した構法を取り入れたということからも貴重な資料となっているようだ。

               
               ※ 中隊本部の建物、前庭を含めたジオラマが展示されていました。

               
               ※ 中隊長室と執務机が再現なされていました。

               
               ※ 数ある展示の中で、私が最も興味を覚えた展示でした。

 また、この建物が新琴似神社の境内にあるということは、そもそもは当地に中隊本部が設置されたときに、中隊の横に神祠が建立されたのが新琴似神社の始まりとされているということだ。

 ② 新琴似「拓魂」碑

                
   開基100年を迎え、地域発展に尽くしてきた歴代の農業協同組合長を顕彰して昭和61年に建てられたそうだ。

 ③ 新琴似兵村記念碑

                
   屯田兵入植から50年を迎えたことを記念して、昭和11年に建てられた碑である。

 ④ 東繁造君学勲碑

                
   人間と家畜の血液を早く確実に見分ける方法に成功した、東繁造の功績をたたえて有志により建てられた碑である。

 ⑤ 新琴似の馬魂碑

                
 光明寺(新琴似7-1)の前庭にあったものを、昭和50年に新琴似神社境内に移したものである。開墾に貢献した農耕馬を供養するために建てられたものである。

 ⑥ 吹田晋平歌碑

                
 吹田晋平(本名 菅進)の文学と札幌市政への功績たたえ、有志により建てられたもの。私はここで、江南神社で知った歌人・晋平が札幌の歌人であることを確認したのだった。

 ⑦ 新琴似「百年碑」

                
 新琴似地区の開基100年を記念し、先人たちの偉業をたたえるとともに、地域の発展を願い昭和61年に建てられた。

 以上が、新琴似神社に建てられている石碑類だが、新琴似神社の近くには他に二つほど地域の歴史を後世に伝える跡がある。

 ⑧ 歌人・若山牧水来訪の地 

 この表示は新琴似神社の道路向かいにあるはずなのだが、どうしても見つけることができなかった。思い余った私は、近くの「新琴似まちづくりセンター」を訪ねて、職員に伺ったのだが、教えられたところくまなく探してみたが、見つけることができなかった。

 ⑨ 新琴似歌舞伎の跡地

                
 開拓当時(明治30年頃)、新琴似の周辺では農民芸能として農村歌舞伎が華々しく演じられ、大変な人気を博したという。そして、最盛期には常設劇場「若松館」まであったという。その「若松館」が建っていた跡の歩道上に銘板が埋められている。



 「新琴似屯田兵中隊本部」が現在のJR琴似駅と地下鉄麻生駅の近くにあるということは、この辺りの発展が中隊本部を中心として広がっていったことを物語っているようだ。
 
(2017/10/26)

札幌歴史散歩 1 北区・屯田地区

2017-10-28 20:59:11 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 突然なのだが、ある理由から札幌の歴史を伝える石碑や史跡を巡る「札幌歴史散歩」なる企てを始めることにした。(冬が間近なので、そうたくさんは巡ることができないが)その理由は、しばらく秘密にしておこうと思う。そのうち、私の文章から明らかになるであろうから…。先ずは、北区・屯田地区にある「屯田開拓顕彰広場」へ向かった。
 

 北区の屯田地区にある「屯田開拓顕彰広場」は、我が家から地下鉄を乗り継いで「麻生駅」まで行き、そこからバスに乗り換える。バスに揺られること10分、郊外の様相が濃い「屯田小学校」バス停で下車した。
 問題はここからである。何時のときも初めて訪れるところは、マップやガイドブックでおおよそのところは分かるのだが、現地についてからピンポイントでその場所を突き止めるのが難しい。
 私はバス停の近くにいた地域の人らしいご夫妻に「このあたりに『屯田開拓顕彰広場』というところはありませんか?」と問うた。ところがご夫妻は「聞いたことがない」という。そして「住所は?」と問われたので、ガイドブックにあった「屯田7条7丁目です」と答えると、「この辺りですね。するとあれかな?」と交差点向かいのところを指さした。確かに石碑らしきものが見えたので確信し、そちらを目指した。

 「屯田開拓顕彰広場」は想像していたよりずっと小さな広場だった。広場には大小さまざまな記念の碑が7つも建っていた。
 その様を見て私は、以前は地域のいろいろなところに散在していた石碑を「一か所に集めましょう」ということが地域で話し合われて集められたのではないだろうか、と想像してしまったのだが、はたして真相は?

               
               ※ 「屯田開拓顕彰広場」全体を概観したところです。以外に小さな広場でした。

 それでは「屯田開拓顕彰広場」に建てられていた石碑を順に紹介したい。
 ①「屯田兵第一大隊第4中隊本部跡」の碑 

                    
  屯田の開拓を進めた第4中隊の本部が建っていた地点を示すため。開基100年を記念して昭和63年に建てられた。なお第4中隊とは、主として篠路地区に入植した屯田兵を指揮した部隊である。

 ② 篠路兵村「開拓碑」 

                    
  昭和22年、屯田地区に屯田兵が入植し、村を作ったのを記念して開基40年の昭和3年に建てられた。
  篠路地区に入った屯田兵の出身地は、九州・四国・中国・北陸など西日本が中心で、明治22年に220人が入植したことになっている。

 ③ 水田開発記念碑
 
                    
  水田開発から45年になるのを記念して、昭和33年に屯田兵第4中隊練兵場跡に建てられた。

④ 屯田兵顕彰之像

               
  この地を開拓した屯田兵をたたえるため、屯田開基100年記念の際に建てられた。

 ⑤ 馬魂之像

                
  農耕につくし倒れた馬の慰霊碑。屯田開基100年に記念して建てられた。

 ⑥ 戦没者顕彰碑

                
 この顕彰碑は「日露戦争」と「満州志那事変太平洋戦争」で戦没者となった地域出身31名が祀られていると碑文には書かれていた。

 ⑦ 忠魂碑

                     
 こちらも戦死者を祀るものですが、どこの地域へ行っても地域の神社などの境内に見られるものだ。この「忠魂碑」は一般に日露戦争以降の戦死者を祀っているということなので、ほとんどが⑥の戦没者顕彰碑に祀られている方と重なることと思われる。

  
               
               ※ 江南神社の鳥居から境内を見たところです。

 続いて、「屯田開拓顕彰広場」と道路一つ隔てて、やはり石碑があるという地域の神社「江南神社」に向かった。
 江南神社の境内には、三つの石碑など歴史をつたえるものがあった。

 ⑧ 望郷のアカマツ 

               
 明治27年に屯田兵中隊本部が入植した屯田兵たちに、故郷をしのぶ縁としてアカマツとオンコの苗を配布したという。それを「望郷の松」と名付けたそうだが、そのうち4本が実存しているそうだが、その1本が神社境内で育てられている。

 ⑨ 篠路兵村「移住記念碑」 

                    
  明治22年、屯田地区に屯田兵が入植し兵村を開いたのを記念して明治29年に建てられた。

 ⑩ 屯田開基九十周年記念顕彰碑 
 屯田開基90年を記念して建てられた。碑には吹田晋平の歌が刻まれている。
 その晋平の歌は次のようなものである。「神をうやまい 祖をとうとびて 九十年 にい宮はなる 江南のさとに」とある。
 私は碑のなかに「晋平」の文字を見たとき、一瞬あの詩人の中山晋平を思い浮かべたが、すぐに「そんなことはない」と打ち消したが、後になって地元の詩人であることが判明する。 


 以上、10の石碑を巡ったが、札幌の市内各地において屯田兵が開拓したところが多いが、ここ篠路地区もまぎれもなく屯田兵によって開拓された地域であることが石碑などからも明白である。これからの歴史散歩でも、札幌のおいて屯田兵が築いた足跡をたくさん目にすることができるであろう。
 なお、近くには「屯田郷土資料館」もあるのだが、私は以前に訪れていたこともあり、今回は訪れることをパスした。
 札幌歴史散歩…、けっこう楽しいかも?
                                               (2017/10/26)

※ なお、各石碑の解説については、北区発行の「歴史と文化の八十八選コースガイド」を参考にさせていただいた。

映画 197 美女と野獣

2017-10-27 21:36:11 | 映画観賞・感想

 映画「美女と野獣」はディズニー映画のアニメ版と思っていたが、本作はなんと1946年にフランスで制作されたものだった。もちろんフィルムは白黒である。ストーリーはファンタジーものなのだが、私にはどうしても感情移入ができぬまま終わってしまった映画だった。

                  
                  ※ 映画は白黒フィルムだったが、フランスで公開されたときにポスターはカラー版だったようだ。
   
 10月24日(火)午前、札幌市生涯学習センターが開催する「ちえりあ映画会」に赴いた。
 今回取り上げられた映画は「美女と野獣」の実写版ということだったが、制作が1946年と聞いて「どうしようかな?」と思ったのだが、無料公開ということもあり参加することにした。
 
 映画「美女と野獣」は、調べてみるとアニメ版、実写版と何度も映画化されている。
その火付けとなったのは、1991年にディズニーがアニメ版を制作公開したことで、その名が一気に広がったように思われる。そのヒットを受けて、2014年(アメリカ版)、2017年(フランス版)と実写版が公開されている。

 ところが本作はディズニー映画から遡ること45年も前に制作されたものである。
 ストーリーもディズニー版とは違っていて(といっても、私はアニメ版を観てはいないが)、もともとフランスの民話として語り継がれていたものをJ・L・ド・ボーモン夫人という方が編纂したものを、フランスの詩人であり映画製作者であるジャン・コクトーが映画化したものである。

                  
                   
                  ※ 主演のジャンマレー(被り物をしているが)とジョセット・デイの二人です。

 ジャン・コクトーという詩人がどういう意図で制作したのか、凡人である私にはまったくその意図を見いだせなかった。
 唐突に野獣が出現するところから私は戸惑ってしまった。それからのストーリーの展開も、奇怪なお城の内部の仕組みにしても、「???」の連続だった。
 そして突然、野獣は王子に姿を変えてハッピーエンドとなるのだが、それも私には理解不能だった。
 まあ、ファンタジーだから、と言ってしまえばそれまでなのだが…。

 しかし、ウェブ上のユーザーレビューを見ると、総じて高い点数を得ているようである。ということは、私はコクトーが描くところの芸術性豊かな(?)映画を理解する感性が備わっていないということのようだ…。


“地域共生社会”の具体像とは?

2017-10-26 20:35:38 | 講演・講義・フォーラム等
 社会保障の公的支援の限界がささやかれる中、行政主導ともとれる“地域共生社会”が提唱され始めたと前日ブログで投稿したが、その具体像とは? 全国の先進的事例を聞いた。 

 10月21日(土)午後、道新ホールを会場に開催された「札幌社会福祉フォーラム2107」はお二人の講演の後、講演された二人と全国で実践されている三名が登壇してパネルディスカッションが行われた。
 そこでまず三名の方の実践が発表されたので、簡単に紹介してみる。

               

 最初は、福岡市大牟田市の白川病院において相談支援包括化推進員を務める猿渡進平氏の発表だった。
 猿渡氏は白川病院で認知症患者のサポートを担当しているようだ。その認知症患者が「自宅に帰りたい」という願いに応えるために地域を巻き込んで取り組んでいる事例を報告した。
 そこで猿渡氏は、「本人“力”」「家族“力”」「介護・医療支援“力”」に、「地域“力”」が加われば、住み慣れた家(環境)で生活できるのではないか、と仮説を立てたそうだ。
 その仮説に従い、猿渡氏は地域に働きかける活動を展開し、「NPO法人 しらかわの会」を起ち上げ活動を展開していると報告された。
 「しらかわの会」では、単に認知症患者を支える活動だけではなく、そこから派生してさまざまな地域活動を展開していると報告された。
 「しらかわの会」の活動が呼び水となって、大牟田市には「人とまちづくり協議会」という組織が起ち上がったという。それは、「まちでみんなで、超高齢化社会を支える」という理念のもと、「住民 × 商店 × 教育 × NPO包括 × 福祉・医療 × ボランティア等「困っている事」と「もったいない事」のアイデアを掛け合わせて創っていく」ことだという。
 大牟田の取り組みが今後どのように発展していくのか、興味深いところである。

               

 続いて、北海道・釧路市において、一般社団法人北海道セーフティネット協議会の事務局長を務める高橋信也氏の報告があった。
 釧路市には、高齢者のためのSOSネットワーク「たんぽぽの会」、「障がい児の親の活動」、「生活福祉事務所自立支援プログラム」など、それぞれが活動を展開しているが、それらをまとめる組織としてセーフティネットがあるようだ。
 そのセーフティネットが、「経済的に塾に行けない中学生」、「住むところがない少年の存在」、「日中、高齢者がいられる居場所を探している」、「子どもを遊ばせながらお茶できる場所がない」などの願いを満たすために「コミュニティハウス」を運営しているという。
 この「コミュニティハウス」は、「住む」、「集まる」、「仕事をつくる」ことを目的として運営しているそうだ。
 高橋氏は、「困った人」、「できない人」、「必要のないモノ」、「廃れていく産業」などなど、モノゴトをネガティブにとらえるのではなく、それらを掛け合わせることで新しい価値が創造できるのではないかと主張し、実践しているという。
 実際に、コミュニティハウスを会場に塾的なことが行われたり、行くところがない少年の住まいになったり、あるいは高齢者が経験を生かして労働を提供して対価を得るような活動もコミュニティはハウスを拠点として実施されているそうだ。
 釧路市の取り組みも、今後の地域における“共生社会”の在り方として注目されそうだ。

               

 最後に、千葉県にある社会福祉法人「福祉楽団」の理事長である飯田大輔氏が報告した。
 最初「福祉楽団」というから、演奏活動などをしながら福祉活動を展開しているのかな?と思ったが、そうではなかった。
 「福祉楽団」は、障がい者を積極的に労働に向かわせる仕組みを作って、障がい者の自立を図っている団体のようだ。
 そのネーミングが、「福祉楽団」同様面白い。一つは「恋する豚研究所」と称して養豚業を経営していることだ。さらには、地域の森林の間伐材などを自伐して薪炭を製造する「栗源第一薪炭供給所」を経営しているという。そして「多古新町ハウス」というディサービス施設も運営しているそうだ。
 お話を聞いていて、飯田氏たちは面白おかしく、楽しみながら障がい者たちを支えていこうとする姿勢を感ずる。さらに、障がい者たちの労働の場を確保し、障がい者たちは報酬を得ているという。

 三つの報告を聞いていて、“地域共生社会”というものが薄っすらではあるが、なんとなくイメージすることができた。しかし、まだまだ仕組みとしても、成果としても、道半ばかな、との思いも抱いた。
 そして、こうした活動が地域において根付いていくには、何といっても今回発表された方々のようなコーディネーターの存在が何よりも重要であると思えた。

 “地域共生社会”…、難しい概念のようにも聞こえるが、ある意味、昔の日本の地域社会にあった“助け合い”の精神を取り戻そう、という提唱にも思えた。
 パネラーの一人が、良い話を聞いたで終わるのでなく、具体的に行動してほしい、と訴えた。その思いを私もしっかり受け止め、具体が何なのかを考えながら生きていきたいと思う。

なぜ今“地域共生社会”が提唱されるのか?

2017-10-25 21:36:20 | 講演・講義・フォーラム等
 日本は今、全体人口が縮小し、高齢社会に突入しようとしている。そうした中、地域に住む人々が共に生きる地域社会を創造することが提唱されている。なぜ今、“ 地域共生社会”の創造が必要なのか、考えるフォーラムに参加した。 

               

 10月21日(土)午後、道新ホールにおいて札幌市内の社会福祉法人が共催で「札幌社会福祉フォーラム2017」が開催され、参加した。
 フォーラムは二つの講演と、パネルディスカッションで構成されていた。
 講演は、一つは中央大学法学部教授の宮本太郎氏「共に生きる地域社会~新しい生活保障~」と題して、もう一つは厚生労働省の政策企画官である野崎伸一氏「なぜいま『地域共生社会』を提案するのか」と題して、それぞれ講演された。
 それぞれがヴォリュームのあるお話だったので、それを再現するのは難しいので、ごくごく要点(と思われる点)に絞ってレポしてみたい。

 宮本氏は日本の人口構成を次のような切り口から説明した。
日本は1960年に人口1億人社会となり、その後も増加していったが、やがてピークが過ぎ2040年には再び人口1億人社会となると予想されている。ところがその人口構成が1960年には現役世代と高齢世代の比率が10対1だったものが、2040年にはその比率が0.5対1になるという。人口構成比の激変である。
 このことは、現役世代が高齢世代を支えるというこれまでの構図がもはや描きにくくなっているということを示している。

               

 一方、日本は世界有数の長寿国となったが、高齢者の中に幸福感が広がっていないとい
う。それは、高齢者の困窮問題、孤立問題、終活問題など、これまでには考えられなかっ
た問題が次々と生起してきて心休まる状況にはなっていないことがあるという。
 こうした社会の新しい課題に対して、これまで縦割り行政では問題に十分対応しきれなかったり、あるいは財政的に支えることが難しくなってきているという現実があるという。

 宮本氏が言うには、これからの日本においては、これまでの「支える側」、「支えられる側」という二分法では成り立たなくなる社会になってきていると指摘する。
 だからこれからの社会は、誰もがどこかで支えられ、誰もが誰かを支えるような「支え合い」を公的支援と地域力を合わせて“地域共生社会”を創造していかねばならないと主張された。

 宮本氏が言われたことを、誤解を恐れずに極論すれば、もはや公的支援だけに頼り切る(支えられる)ような生活や老後は不可能ですよ、宣言されたと受け止めた。

 厚生労働省の野崎企画官のお話も、話の内容は宮本氏の話と大同小異といった感じで、国の立場から「地域共生社会」の創造を後押しする話だったと受け止めた。

               

 国の財政が“火の車”であることは良く聞く話である。その中でも、社会保障費の増大は深刻で、今の仕組みのままでは益々社会保障費が膨れ上がるばかりで国の財政が立ち行かなるという危機感から、国は国民に自助努力を求めてきたとも受け取れる。
 これは誰かを批判していれば済む話ではない。一人ひとりが時代認識を新たにして、支え、支え合う「地域共生社会」の創造に参画していかねばならないことを教えられた二つの講演だった。

 しかし、「地域共生社会」の具体像ということになると、どのようなものなのだろうか?
 その一端を、講演に続いて行われたパネルディスカッションで垣間見ることができた。明日そのあたりについて言及してみたい。

札幌の秋、紅葉の秋

2017-10-24 16:15:48 | 環境 & 自然 & 観察会
 初雪を連れてきた台風一過。青空が還ってきた札幌の紅葉狩りに出かけた。といっても近隣の小公園を巡っただけなのだが…。最盛期を過ぎたとはいえ、まだまだ十分に楽しめた札幌市内の紅葉風景を撮ってみた…。 

          
          ※ 知事公館の庭に入る前に、庭の中の紅葉の様子を撮った一枚です。

 10月21日(土)に参加した「札幌福祉フォーラム2017」のレポがなかなかまとまらない。ヴォリュームがあるため、コンパクトにまとめるのに苦慮している。
 窮余の一策として、以前からチャンスがあれば一度カメラに収めたいと思っていた札幌の紅葉をカメラに収めてみた。
 といっても自宅から数分で行ける「知事公館」、「道立近代美術館」、「札幌管区気象台」の庭に植わっている木々の紅葉を写してきただけなのだが…。

 一度に三か所を歩いてみて、それぞれ特徴らしきものがあることが分かってきた。
 まず、知事公館の庭であるが、ここにはカエデ類の木が多いせいか、最も鮮やかな紅葉が見られた。
 一方、道立近代美術館の庭は、見本林のようにさまざまな樹種が植わっているのだが、マツなどの針葉樹のほか、常緑樹に割合が多いようで、紅葉はイマイチという感じだった。
 札幌管区気象台は庭といったほどのものはないのだが、札幌で最も早く開花する(私が掌握している範囲で)気象台の建物そばのヤマザクラがきれいに紅葉していたので写真に収めた。併せて、札幌の桜開花の標本木となっているソメイヨシノの方はまったく紅葉していなかった。何故だろう?

 紅葉の写真というと、素晴らしい機器と腕でもって、鮮やかな紅葉の写真を投稿しているブログがたくさんあるようだ。私などまったくそれらに入り込む余地などないのだが、まあ私的に「2017秋」を記録するつもりで投稿することにした。

【北海道知事公館の庭】 

          
          ※ 知事公館、安田侃の彫刻、そして紅葉と写し込んだつもりだったが、逆光のため肝心の紅葉が見栄えしない一枚です。

          
          ※ こちらは反対に午後の陽光を受けての一枚です。

          
          ※ この一枚が本日最も鮮やかに撮れた一枚のようです。

          
          ※ 赤黄と緑のコントラストが美しいお気に入りの一枚です。

          
          ※ 紅葉の時期に私が最も好きな光景です。


【北海道立近代美術館の庭】

          
          ※ 近代美術館前の植え込みのイボタノキが鮮やかに色を呈しているのですが、光の関係で十分再現できていません。

          
          ※ 常緑樹も目立つ近代美術館の庭です。

          
          ※ イチョウの葉も徐々に色付いてきました。

          
          ※ 知事公館の落ち葉とはやや色調が違いますが、樹種の違いでしょうか?

          
          ※ 近代美術館の東側入り口に立つ大きな枝垂れ柳です。

【札幌管区気象台の庭】  

          
          ※ 札幌で最も早く開花する気象台前のヤマザクラです。落葉寸前といった感じです。

          
          ※ 一方、標本木のソメイヨシノはまったく紅葉していませんでした。どうして?

          
          ※ 黄葉しかかっている街路樹のイチョウの葉です。イチョウの葉はところによって黄葉する時期が違うようですね。

繊細なる調べに憩う-北海道ギターフェス

2017-10-23 20:54:08 | ステージ & エンターテイメント
 相変わらずどこにでも出没する田舎オヤジである。この日は特に予定はなく、たまたま新聞でそのイベントを知った「北海道ギターフェスティバル2017 ギターアンサンブルの集い」を覗いてみた。

                    

 10月22日(日)午後、札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)ホールで開催された北海道ギターフェスを覗かせてもらった。
 ギターアンサンブルのイベントだったので、個人(ソロ)での出場はなく、二人(ペア)以上の16のグループ、団体がステージに登場した。
 私は開会時の12時に少し遅れてしまったために、残念ながらプログラム1・2番目に登場した道外勢の東京と神奈川から駆け付けたアンサンブルを聴くことができなかった。
 したがって私が聴くことができたのは道内勢のみ14のグループ、団体の演奏だった。

               
               ※ 「松木・青山ギターデュオ」のステージです。

 広いちえりあホールはギターファンや私のようなやじ馬でほぼ満杯だった。そんな中、拡声器(マイク)を通さずに繊細なギターの音色が広いホール内に響くさまを耳を澄まして聴くのはなかなか心地良いものである。

               
               ※ ヴェテランを揃えた「アンサンブル アチャカトゥーラ」のステージです。

 ステージに上がった方の中で、目立ったのはシニアの方々だった。私の想像では、職場の第一線を離れて、ギター教室に通われ音楽を楽しんでいる方々がグループを組んでステージに上がるというケースがけっこう多いように思えた。
 もちろん若い高校(札幌北星高校クラシックギター部)や大学(北大ギータアンサンブル)のクラブの出場もあった。

               
               ※ 大学生唯一の出場だった「北大ギターアンサンブル」のステージです。

 演奏の技術の巧拙はもちろんあったが、やはり上手く聴こえてくる音は、演奏する表情にも自信がうかがえるようなステージだった。 
 そのように中、私の耳に素晴らしく届いたのは、二人組の「松木・青山ギターデュオ」(札幌市)、「アンサンブル アチャカトゥーラ」(札幌市)、「紋別ギタークラブ」(紋別市)、「ギター合奏団『ドルチェ』」(札幌市)などだったように思う。
 しかし、素人の私の耳だからあまりあてにはできないというところが本当のところだ。

               
               ※ アンサンブルの良さを発揮してくれた「ギター合奏団『ドルチェ』」のステージです。 

 16のグループ、団体の演奏が終わった後、道内を中心に活動しているギターデュオ「あこる(小文字)と」の演奏があった。さすがにプロである。紡ぎだされる音に表情を感じとることができた。

               
               ※ プロのデュオ「あこると」のステージです。

 それにしても、私などは和音を奏でるのがせいぜいなのだが、ステージに上がった人たちは、一音一音を5本の指で正確にフレットを抑え、もう一方の指もあの細い弦を正確に弾くのだから相当に練習しなければならないと思われる。
 その繊細な音は、巧拙にかかわらず聴いていて、素直に「素晴らしいなぁ」と思いながら聞き入った私だった。

丸山眞男文庫と東京女子大

2017-10-22 23:18:54 | 大学公開講座
 先週の「加藤周一」に続いて、「丸山眞男」である。戦後日本の思想界において両巨頭と称された二人である。思想界などという世界は、私にとってはまったく縁もゆかりもない別世界のことである。丸山眞男について語る何ものもない。だから「丸山眞男文庫」について、お聴きしたことを、そのまま綴ることにしたい。 

                    
                    ※ 丸山眞男氏の在りし日の姿です。

 10月19日(木)午後、前週に引き続いて札幌大学開学50周年記念公開講座「個人文庫を持つ大学」シリーズの第2講が開講された。
 第2講は「丸山眞男文庫の意義と展望」と題して、東京女子大学「丸山眞男研究プロジェクト」特任研究員の川口雄一氏が講師を務めた。

 1996年に丸山が逝去した後、1998年に丸山の蔵書、ノート、草稿類が東京女子大に寄贈され、2005年に開架図書として寄贈された図書等の一部が「丸山眞男文庫」として公開された。
 川口氏によると、円山と東京女子大の直接の繋がりはないようだ。ただ、円山は生前「ライブラリーの充実に苦しんでいる大学や研究機関に寄贈し活用してほしい」という意志を家族に伝えていたという。
 その遺志を受けて、丸山の夫人が関係者と相談して東京女子大への寄贈を決めたということだ。川口氏によると、丸山の自宅が東京女子大のすぐ近くだったということも影響したのではないか、ということだった。

 寄贈された内容は、図書が約18,000冊(内、5,800冊に書き込みあり)、雑誌が18,000冊、ノート・草稿類が約7,200点、書簡類が26箱と膨大なものだという。

 現在の「丸山眞男文庫」の状況は、2005年に書き込み等のない図書約12,000冊が開架図書として2005年から公開されているという。そして2009年、ノートや草稿類の一部をデジタル画像としてウェブ上で公開を開始し、さらには2010年より閉架図書となっている書き込みのある図書の該当ページがやはりデジタル画像として公開を開始したという。                 

 私も試しに「丸山眞男文庫 バーチャル書庫」と打ち込んでアクセスしてみた。すると、難なくデジタル画像を開くことができた。その一つ、東大法学部における「昭和18年度最終講義における学生を送る言葉」という丸山の自筆の原稿に接することができた。

                   
                  ※ 「丸山眞男文庫 バーチャル書庫」の入口です。

 そこで「丸山眞男文庫」の唯一の専任研究員である川口雄一氏の立ち位置だが、氏は大学院生の時に丸山眞男のアーカイブに触れてから、丸山眞男に関わり始めて10年になるということだが、氏は丸山眞男そのものが研究のテーマではなく、「丸山眞男文庫」が研究テーマであると語った。
 そして氏の研究について語られたのだが、氏は「プレ丸山文庫」、「ポスト丸山文庫」、そして「プレとポストの間」の三つの期間に分かれるとした。
 そして今、まさに「ポスト丸山文庫」の時代に入っているのだが、ポストに入ってから丸山の評価についてさまざまな評論が出てきているとした。
 そのことについて、氏はあまり多くを語られなかったと理解したのだが…。

 丸山が戦後日本における大きな潮流をつくった人の一人であることは疑いのないことだと思うが、今その評価にこれまでと違った評が出てきているという。
 そうした傾向が出てきたときこそ、原典に当たるためにも「丸山眞男文庫」の存在価値が大きくなってくると思われる。