田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

丹羽實氏は未だキーパーソンなのか?

2013-02-28 23:53:56 | その他
 私のブログの訪問者数が昨日、本日と急騰した。原因は何だろう?と思いアクセス解析を見たところ、昨年5月24日に投稿した「丹波實氏は叫ぶ 戦略なき日本と…」の投稿が100件以上の閲覧数をカウントしていることが判明した。「今ごろ何で丹羽氏が?」といぶかりつつも、このことを再度考えてみようと思った。 

 丹羽氏に関するブログにアクセスが集中したということは、日本の森元首相とロシアのプーチン大統領が会談したことによることだとは容易に考えられる。
 その席で、森氏は先にプーチン氏が発言した「引き分け論」について真意を質したところプーチン氏は「どちらも負けないことだ」と答えたという。

 すると、日本のメディアではこのプーチン発言をめぐって喧々諤々の論戦が繰り広げられた。「あくまで四島一括返還だ」、「三島返還で引き分けではないか」、「いや、四島の帰属をはっきりさせたうえでの二島先行論が現実的だ」等々…、喧しい議論が沸き起こっている。
 そうしたことが私のブログのアセス数を押し上げたものと思われる。

          
          ※ 昨年5月札幌で講演をする丹羽實氏です。

 丹羽氏の主張は先のブログでも紹介したように、「歴史的、法的事実からいって、ロシアに対して4島一括返還以外一片の妥協の余地もない」という頑なな姿勢だ。
 私はこの姿勢にいささかの疑問を呈したのが先のブログだった。

 あるテレビ討論番組があった。その中で某氏が次のような発言をした。
 「いや~、以前であれば二島先行返還論など口にしようものなら国賊扱いだったが、最近はそれもありかな、みたいな空気になってきましたね~」という趣旨の発言をされていたが、そうした空気を丹羽氏はおそらく苦々しく思っているに違いない。

 領土問題は一国の政治課題の中でも最重要課題の一つであろう。尖閣島や竹島の問題をとってみても当事国にとってみれば大変な問題であることが理解できる。
 私ごときがこうした重要課題に口を挟むほど、この問題に対して理解が深いわけではないので意見表明は留保したい。
 ただ気になる点が一つある。それはプーチン氏の心の内だ。
 日本国内ではプーチン発言に期待感が広がっているようだが、プーチン氏の盟友というよりは、プーチンの僕的役割に甘んじているメドベージェフ氏が2010年、2012年の二度にわたって国後島を訪問し、その際に「北方四島は一片たりとも渡さない」的な発言をしたということが伝えられている。
 この発言とプーチン氏の発言があまりにも乖離していることが気になる点である。
 あるいはプーチン氏は日本に対して陽動作戦に出ているのではないかと…。

 我が国の国益を守りつつ、世界の平和をどう築いてゆくのか、政治家に課せられた課題は大きい…。

 ※ なお、北方四島問題について理解するためにコンパクトまとめられた評論を見つけることができた。興味のある方は次をクリックしてみてください。 

ハーレム・ルネサンスを聴く

2013-02-27 20:33:40 | 講演・講義・フォーラム等
 1920年代、ニューヨークのハーレムにおいて奴隷から解放された黒人たちの子孫によって独特の文化が形成され一斉に花開いた時期をハーレム・ルネサンスと称するということだ。ハーレム・ルネサンスについて在札幌米国総領事館の担当領事から聴いた。

               

 2月23日(土)午後、札幌国際プラザで開催された「アメリカンコーナー講演会」に参加した。講師は在札幌米国総領事館の広報文化交流担当領事のジェフリー・ダフィー氏で、テーマは「アフリカン・アメリカンがもたらす文化の多様性」であった。

 ダフィー氏は最初に1920年代にハーレムで隆盛を誇ったナイトクラブ「コットンクラブ」の様子を撮影した動画を提示した。そこではジャズオーケストラが奏でられ、ステージでは踊り子たちが舞っていた。この動画が特異だったのは、ジャズを奏でたり、踊りを踊ったりしているのは全て黒人、それを楽しむ客たちは全て白人ということだった。
 この光景はハーレム・ルネサンスが勃興する初期の光景であった。

               
          ※ 在札幌米国総領事館 広報文化交流担当領事のジェフリー・ダフィー氏です。

 背景はダフィー氏によると次のようである。
 南北戦争(1861~ 1865年)が終結したことによって奴隷制度は廃止されたとはいっても、南部における人種差別は色濃く残っていたようだ。それを嫌った黒人たちは人種差別の色が濃くなく、しかも職を得ることができる北部工業地帯へと多くが移住したということだ。その北部への移住の中でニューヨークにも多くの黒人が移り住んだのがハーレムだった。(南部から北部に移り住んだ黒人は約600万人とも言われている)
 多くの黒人たちがハーレムに結集し生活することで、そこに濃縮された独特の文化が形成されていったという。
 
 その文化が花開いた背景には白人が大きく関与しているという。先に紹介した「コットンクラブ」もその例に漏れない。比較的リベラルな白人の寛容さ、弱者(黒人)から強者(白人)への温情的な干渉、黒人に対する罪意識からくる援助などによって、彼らの発表の場が用意されたということだ。

               
     ※ 「コットンクラブ」でデューク・エリントン楽団を率いて活躍したデューク・エリントンです。

 アメリカ文化については全く疎い私である。ダフィー氏がハーレム・ルネサンスで活躍した文化人を次々と紹介されたがよくは分からない。分野と名前だけを紹介する。
 絵画のジェームス・ローレンス(1027-2000)、ノルマン・ルイス(1909-1979)、ジャズのデューク・エリントン(1899-1974)、ルイ・アームストロング(1901-1971)、トマス・「ファッツ」・ウォーラー(1904-1943)、写真のジェームス・バン・ダージー(1886-1983)、作家のラングストン・ヒューズ(1902-1967)、クラシック音楽のウィリアム・グラント・スティル(1895-1978)等々である。

          
          ※ トランペットの名手ルイ・アームストロングです。

 他の分野のことは分からないが、現代のアメリカのポップミュージックシーンにデューク・エリントンやルイ・アームストロングたちが与えた影響は相当に大きなものがあると思う。おそらく他の分野においてもその多寡は違えども、確実に現代に影響を及ぼしているものと思われる。

 アメリカの現状については全く無知と云っていい私だが、領事がアフリカン・アメリカンについて紹介するのだから、今や彼らが創りだす文化を抜きにしてアメリカ文化を語ることはできないということなのだろう。

在スウェーデン大使に彼の国の現状を聴く

2013-02-26 22:53:06 | 講演・講義・フォーラム等
 スウェーデンは私にとって単なる外国の一つではない。遠い昔の話であるが、約三か月半間も滞在した国である。その懐かしのスウェーデンの今の姿を知りたくて在スウェーデン日本大使館の現大使である渡邉芳樹氏の話を聴いた。

          

 渡邉氏は北海道国際交流・協力総合センター(HIECC)が主催する「北方圏講座」の講師として2月21日、北大学術交流会館で講演をした。テーマは「未来のために今日本とスウェーデンが出来ること」と題するお話だった。
 大使の話であるから、どうしても国全体を評するような話が多く、私が期待する街の様子とか、人々の暮らしに関する話は少なかったが、それでも彼の国の様子を興味深く聴くことができた。

 私がスウェーデンに滞在したのは、今から45年も前になる1968年6月半ばから9月いっぱいの3ヶ月半である。そのうち一か月半はスウェーデン国内を旅し、二か月間は首都ストックホルムの郊外のニナサムンという小さな町でアルバイトをした。
 そのニナサムンの町で忘れがたいエピソードがある。知り合いになった会社員のお宅を訪問したときだ。いろいろ話をする中でスウェーデンの高額な税金の話になった。その時、会社員氏は「確かにスウェーデンの税金は高いが、老後を安心して暮らすためには仕方のないことだ」と話をしていたのが印象的だった。確かその頃のスウェーデンでは収入の5割近くをさまざまな形で税金として納入していたように記憶している。

          

 渡邊大使の話では2006年以降に政権を握った中道右派政権は、それまでの政策を軌道修正しつつあるとの話だった。私が滞在していた頃、というよりも長い間スウェーデンは社民党が政権の座にあり、世界に冠たる福祉国家づくり(スウェーデンモデル)を進めていた。
 しかし、社会・時代の変化とともに国民の中に社民党の政策に疑問を呈する層も増えた結果、中道右派の政策が支持され政権が交代したようである。
 渡邊氏はその変化を「『平等と連帯と安心』の政治から『自由と尊厳と責任』の政治へと政治の風景が大きく転換している」と表現した。
 しかしこの表現では具体的にスウェーデンの政治がどう変わったのか明確にイメージできない。そこで誤解を恐れずに渡邊大使の説明を私流に翻訳すれば「高い税率をやや軽減し、国民の生活を国家が厚く保護することから、国民の生活を守りつつイノベーションと競争の原理を取り入れた政治への転換」ということのようだ。          

 大使が強調していたのは、だからといってスウェーデンが「丁度良い中庸の国」を目ざしているのではないということだった。
 大使はそのことを次のように説明している。「スウェーデンは『国家個人主義』と言われるほどの『社会(政治・政府及び国民相互)に対する強い信頼』と『過激なまで個人主義』が共存するという一見矛盾する原理を両立させ、さまざまな困難を乗り越え強靭な対応力で国際経済の激動を乗り切ってきている」と言う。

          

 今スウェーデンの指導者たちは「スウェーデン人は人間か?」という一冊の書籍を国の行方を決める際の指針の一つとしているという。それは厳しくスウェーデンの現状を見つめ、鋭く国の在り方について指摘する内容だということである。
 厳しく自己を見つめつつ、「国家個人主義」を追求する国の姿は、国民性・国の形が違う他国においてそのまま適用できるものではないが、大いに参考になる、と渡邉大使は結んだ。

 1968年当時、私はスウェーデン国内をヒッチハイクで巡って歩いたのだが、他のヨーロッパの国々と比べて、とてもヒッチハイクがし易く、またそこで出会った人のお宅に泊まらせていただいたり、食事をご馳走になったり、と最もたくさんの親切を受けた。それは人々が安心して暮らすことができ、生活に潤いがあるせいだと私は解釈した。
 もし今再びスウェーデンを訪れことができたとしたら、あの頃とスウェーデン人は変わってしまっているのだろうか、それともあの当時のままなのだろうか…。


YOSAKOIとまちおこし

2013-02-25 21:39:27 | ステージ & エンターテイメント
 YOSAKOIソーランの話題は時期が違うのではないかと思われるかもしれないが、「さっぽろ雪まつりスペシャルステージ YOSAKOIソーラン」を観る機会があった。そこでYOSAKOIについてちょっと違った角度から考察してみたい。 

 2月10日(日)ニトリ文化ホールにおいて現在のYOSAKOIソーランを代表する7団体の演舞を披露するステージがあったので入場料1,500円を払い観てみることにした。
 出場した団体は、①平岸天神、②夢想漣えさし、③新琴似 天舞龍神、④江別まっことえぇ&北海道情報大学、⑤oh!愛で隊、⑥THE☆北海道医療大学、⑦GOGO’S&クワザワグループの7団体だった。

          

 ステージはYOSAKOIのもつ勇壮さと華やかさが融合した素晴らしい群舞が次々と披露され、あっという間に時間が過ぎて行ってしまった感じだった。
 何より素晴らしいと感じたのは、ステージで群舞する踊り手たちの一生懸命さと楽しそうな様子が観ている側に伝わってきたことだ。彼らはステージを降りたら私たち一般人と同じ会社員であり、学生であり、主婦であり、その他さまざまな市井の人たちである。その人たちが光り輝いているのを観ることが楽しかった。

 ところで発足から20年を超え(2013年は第22回目)札幌の初夏の祭りとしてすっかり定着した感のあるYOSAKOIソーランだが、この祭りに対しては歓迎派と嫌悪派にはっきりと色分けされるようである。
 ある世論調査によると嫌悪派が半数を超えるという調査結果もある。
 なぜこれほどまでにYOSAKOIを嫌悪する人が多いのだろうか? 解説によると、その運営方法や商業的手法、参加費の問題、参加者の態度などいろいろと指摘される面もあるようである。

          
 
 私はここで歓迎派、嫌悪派の論争に加わるつもりはない。
 そのことより、YOSAKOIがもたらす「まちおこし」について考えてみたい。
 注目するのは、第19回(2010)、20回(2011)と2年連続で大賞受賞に輝いた「夢想漣えさし」のチームである。枝幸町というと道央から遠く離れたオホーツク沿岸に位置する人口8,900人余の小さな町である。
 そんな小さな町のチームが札幌市など都市のチームに伍し、堂々と2年続けて最高賞を受賞するには相当な苦労や工夫があったと想像される。
 映像を見るかぎり人数的にも都会のチームに負けないほどの人数をようしている。このこと一つ考えても、都会チームにはない苦労があったものと思われる。そして数多くの参加チームの中から最高賞を受賞するために情報も少ない中で質の良い群舞として完成させるための創意工夫にも相当なものがあったと想像される。

          

 こうした取り組みは、もはや「まちおこし」そのものではないか、と私は思うのだ。
 少ない人口の中から多くの賛同者を得るために、若者はもちろん、中高年や子どもたちにまで輪を広げて勧誘したことだろう。チームづくりのためにかかる多額の費用を捻出するためにそれこそ地域の人たち一人ひとりの協力を仰いだことと思われる。
 「夢想漣えさし」に参加した人たちは大きな自信と生き甲斐を見出したことだろう。そして応援した地域の人たちはおらがチームに大きな誇りを抱いたことだろう。
 「まちおこし」…、それは自らが生きる地域に対して誇りを抱き、自ら生きる地域を盛り上げようとする営みだと私は考える。

 自分たちがまずは楽しみ、そのことが地域を元気にすることに繋がるとするなら、それは紛れもなく「まちおこし」だと私は思うのだ。
 その意味では、「夢想漣えさし」だけではなく、YOSAKOIソーランを演舞することを楽しみ、向上心を抱いて日々練習を積んでいるどのチームも、意識しようが、しまいが立派に「まちおこし」の一翼を担っていると云えるのだと思う。

 YOSAKOIソーランが北海道に根付きつつある意味はけっして小さくないはずである。

 ※「夢想漣えさし」の2011年度の大賞を受賞した際の群舞の動画が こちらから見られます。  

 ※また、挿入写真はスペシャルステージが撮影禁止だったため、ウェブページから借用しました。

北海道コンビニ界の雄 丸谷氏の話を聴く

2013-02-24 20:20:19 | 講演・講義・フォーラム等
セイコーマート社長の丸谷智保氏は言う。出店はあくまで北海道を中心に、PBの素材も北海道産に、とあくまで地域にこだわった企業展開を図りたいと…。 

 2月13日(水)札幌プリンスホテル国際館パミールにおいて「地域経済の潜在力発掘プロジェクト・メインフォーラム in 札幌」という長い名前のフォーラムが開催された。そのフォーラムにおいて株式会社セイコーマート社長の丸谷智保氏が「北海道の潜在力と課題」~北海道の地域資源を最大限に活かす経営とは~と題して話された基調講演を聴く機会を得た。

          

 日本のコンビニ界においてセイコーマートの出店数は全国4位だそうであるが、こと北海道に限ると第1位の1,051店の出店数で(全国的には1,157店の出店をしている)、全道179市町村のうち169市町村に出店しているということだ。
 関東近辺に100店舗あまりを出店しているが、あくまで北海道を中心に今後も出店していきたいと語っていた。

 そしてセイコーマートの特徴の一つは自社製品(PB)が多いということで、具体的な事例をたくさん挙げて説明された。
 そのために、グループ会社31社を保有し、北海道の農畜産・魚介物を素材として積極的に自社ブランド製品を開発とし、全セイコーマート店で取り扱う年間総取扱数9億個のうち4億個が自社製品を販売しているということだった。

 ここで断っておかねばならないことは、セイコーマートを現在のような姿にしたのは必ずしも丸谷智保氏ではないということだ。というのも丸谷氏の来歴を見ると、丸谷氏は銀行勤務などを経て、セイコーマートに入社したのは平成19年3月で、社長に就任したのは平成21年3月だということである。
 この来歴からいうと、セイコーマートには創業の祖、中興の祖が基礎を築き、それを丸谷氏が受け継ぎ、さらなる発展を期しているといった感じである。

               

 ソフトな人当りと、ユーモアを兼ね備えた丸谷氏は人心掌握にも長けている人物と見たがどうなのだろうか?
 その丸谷氏が言う。
 北海道は農産物・水産物・酪農製品・水、そして自然など全国に誇ることができる素材がたくさんあると…。その素材を生かした自社製品のブランド化を図ることを目標の一つにしたいと言う。店舗数で勝負するのではなく、プランド化した商品を売り込んでいくこともセイコーマートの戦略の一つとしたいと…。

 また、セイコーマートは顧客満足度調査で2年連続第1位を獲得したという。そのことはセイコーマート各店の顧客の来店頻度を上げることをねらいとしている成果だという。
 北海道はまだまだポテンシャルを秘めた大地であり、セイコーマートはこれからも北海道にこだわった企業経営を志向したいと締め括った。

 ところで、丸谷氏が講演の冒頭に「北海道は流通業が元気だが、製造業は少し元気がない」と述べたが、なるほどと思う。ニトリ、アインファーマシーズ、ホーマック、アークスなどなど…、北海道発の全国的な流通業が次々と誕生している。
 なぜ製造業がそうならないのだろう? 良質な素材が身近にあるアドバンテージを生かした元気のある製造業の誕生を期待したいのだが、そうは簡単にはいかないのだろうか?

映画 90 0(ゼロ)からの風

2013-02-23 22:30:13 | 映画観賞・感想

 自らの子どもの交通死の加害者の刑があまりにも軽いことに怒りを覚え、「危険運転致死傷罪」の新設を成し遂げた一人の母親の実話をもとにした映画である。最愛の息子を失った母親の執念を見る思いだった。

               

 母親役は昨年亡くなった田中好子さん(元キャンデーズのスーちゃん)が演じているが、映画は2007年に制作されたものである。
 
 毎月、札幌市生涯学習センター(ちえりあ)では「ちえりあ映画会」が開催され、毎回良質(何が良質かについては議論のあるところかもしれないが…)の映画が提供されている。私はこの映画会を楽しみにしていて、都合が付く限り駆けつけるようにしている。 
 2月20日、今月取り上げられた映画が「0(ゼロ)からの風」だったのだ。

          
          ※ 母親・圭子役を熱演した田中良子さん。

 母親は夫に先立たれ、息子と二人暮らしだった。息子の名前は「零(れい)」といい、一浪の末に有名大学に合格した一年生である。(映画の題名は息子の名前からヒントを得たと思われる)その息子・零がある日飲酒運転の車にぶつけられ死亡してしまう。
 加害者は飲酒運転、無免許、再犯であったにもかかわらず数年(確か3年半)という判決だった。
 夫も他界し、最愛の息子を奪われたうえ、あまりにも軽い日本の刑法を改正するために母親の圭子(田中好子)は立ち上がる。「零君の生命を繋げていくために」、「零君の分も生きるんだ」と…。

 そして「危険運転致死傷罪」の成立にかける執念は、時には暴走してしまいかねないほどの熱意で周囲を動かし、市民を巻き込み、思いを実らせることができた。
 さらには息子が合格した有名大学で、息子の代わりに学ぼうと入学試験を突破し入学を果たしてしまう。
 世の中に、マザーコンプレックスとか、ファザーコンプレックスという言葉があるが、私は母親の姿を見ていて「マイサンコンプレックス」という言葉を思い浮かべた。(そんな言葉があるかどうか知らないが)

          
          ※ 息子・零(杉浦太陽)の写真を掲げて署名運動をする母親・圭子です。
 
 正直に吐露すると、彼女の息子・零の無念を晴らそうとする執念にはややたじろぐ思いさえあった。それくらい田中好子さんが熱演していたともいえるのだが…。
 母親・圭子にとって息子・零は何にも代えがたい生き甲斐そのものだったと思われる。その生き甲斐を突然奪われた時の親(母親)の無念さを共感することができる映画だった。


映画 89 レ・ミゼラブル

2013-02-22 17:22:40 | 映画観賞・感想

  映画を観る際に、前評判が良いと自分の中で期待感が自己増殖してしいて、異様な期待を抱いて映画を観たところ、どうもその期待が裏切られたような思いになることが度々ある。この映画も私の中ではその類になってしまった…。

               

 映画「レ・ミゼラブル」の評判はテレビ、新聞などでは上々であった。さらには文藝春秋誌三月号では「大ヒット『レ・ミゼラブル』はなぜ泣けるのか」と題してフランス文学者の鹿島茂氏とエッセイストの小島慶子氏が対談までしているのである。
 これでは期待せざるを得ない。やや出遅れた感はあったのだが、2月18日(月)シネマフロンティアに足を運んだ。

 映画は確かに舞台装置もしっかりしていて(特に冒頭の奴隷たちが船を曳くシーンが圧巻である)、演ずるキャストも素晴らしかった。しかし、私には「涙が止まらなかった」などという場面は映画が終わるまで訪れなかった。

          
          ※ ジャンバルジャンを執拗に追いかける警官ジャベールとの対決場面。

 それが何なのか? 私なりに考えてみた。
 一つはこの映画がミュージカルの映画化ということで、全編をキャストがセリフを歌で通したことがあるのではないか、と思った。このことはこの映画の売りの一つなのだが、私にはミュージカルを観賞するという用意ができていなかったこともあり、どうしても映画に入り込めなかったことがある。
 もう一つは、主人公ジャンバルジャンの行動原理にある。ジャンバルジャンは自らの行動を判断する際に「主(キリスト?)はどう思われるか」を判断基準としていた。キリスト教徒ではない私には、そのジャンバルジャンの心理に深く寄り添うことができなかった。

 しかし、多くの人たちは映画を観て「涙が止まらなかった」と語り、感動したというのだから、映画としては間違いなく秀作の一つと云えるのだろうと思う。
 不条理なことが多かったジャンバルジャンが生きた時代。世の中の不平等・不公平に学生たちが立ち上がり、民衆と共に歌い上げる「民衆の歌」を謳い上げるシーンには胸に迫る場面もあった。

          
          ※ 学生たちが蜂起し「民衆の歌」を謳い上げる場面
     
 映画を観賞する際には、あまり過度な期待をして映画館に向かわない方が良いのかもしれない…。


北のシネマ塾 88 馬喰一代

2013-02-21 20:47:14 | 映画観賞・感想

 極寒の北国で豪快な馬喰たちの生態を描く映画かな? と思いながら観ていたのだが、(もちろんそうした場面もあったのだが)真のテーマは荒くれ男の馬喰の親爺の中に我が子を思いやる優しい父性愛が秘められていたという映画だった。

               
 
 2月16日(土)午後、2月の北のシネマ塾が開催され、参加した。

 映画は1951年制作の昭和初期の北海道・網走地方を舞台にした白黒映画である。
 主役の片山米太郎を演ずる若き日の三船敏郎は、その風貌からいっても、その雰囲気からいっても「北海の虎」の異名をとるに相応しいはまり役だった。
 また、その米太郎に恋い慕う小料理屋「桃代」の酌婦ゆき役の京マチ子のエキゾチックな彫りの深い表情が白黒映画の中で一段と映えて映ったのも印象的だった。

          

 家庭をも顧みない荒んだ生活を送っていた米太郎だったが妻に先立たれ、一人息子の太平が残された。
 すると米太郎はこれまでの生活を改め全てを太平のために尽くそうとするのだった。太平は親の期待に応えて都会の中学校に進学を決めるのだが、太平は年老い不自由な体の父親を気遣う。そのとき、ゆきが米太郎の面倒を見るという約束ができたために太平は心置きなく都会へ旅立つというストーリーである。

 この「馬喰一代」の原作は留辺蘂出身の作家・中山正男であるが、ストーリーは中山正男の育った実話がベースとなっているということである。
 そうした関わりからか、留辺蘂では「馬喰一代」というラベルがついた地酒がつくられているという。
 シネマ塾には、その地酒を考案したという北見市留辺蘂町の「高野商店」店主、高野智子さんがわざわざ来場され、ご挨拶された。  「馬喰一代」をこよなく愛されている方のようだ。地酒「馬喰一代」を製造・販売を開始して今年の5月で15周年を迎えるそうだが、10周年のときには記念酒として「米太郎」、「太平」という酒もつくったとか…。

          
          ※ お話をするゲストスピーカーの竹島靖子氏(右側)と、高野智子氏(左側)です。

 映画の中で馬を走らせるシーンは、どこか西部劇を彷彿とさせるようなシーンが2度、3度と登場するが、この日の解説者だった竹島靖子氏によると「多分にアメリカ西部劇のジョン・フォード監督の影響を受けたのではないか」と語っていた。
 私には映画の最後の場面で、米太郎が札幌に向かう息子・太平を乗せた列車を乗馬で追いかけるシーンは「まるで西部劇そのもの」のように映ったのだった…。


映画 87 東京家族

2013-02-20 21:10:37 | 映画観賞・感想

 蒼井優(間宮紀子役)がいい! 彼女の存在そのものが山田映画を具現化し、彼女の存在が温かでヒューマンな映画になり得た一番の要因ではないか、映画を観終えて率直にそう思った…。

               

 ※ ニュージーランド紀行などをシリーズ化して取り上げているうちも、私は旅から日常に復して講演を聴いたり、映画を観たりと、以前の生活に戻っていた。これからはそれらについてレポートしていきたい。とりあえずは、この間に見た4本の映画についてレポートする。

 この映画の最後の最後に、「この映画を小津安二郎監督に捧ぐ」(正確な再現ではない)という山田監督から小津監督へ捧げるオマージュがスクリーンに流れた。
 それほどの思いで創られた「東京家族」かもしれないが、私には十分に山田ワールドに惹きこまれた「東京家族」だった。

 なぜ蒼井優がいいと思ったか?
 紀子(蒼井)は妻夫木聡演ずる平山昌次の恋人役で登場する。
 田舎で暮らす昌次の両親、平山周吉(橋爪功)、とみこ(吉行和子)夫婦が上京してきて、とみ子が紀子と対面したときにそれほど時間をおかず「あんたはいい人のようだね」と発した言葉に蒼井の良さが凝縮されているように思えたのだ。
 彼女の表情、仕草、たたずまい、全てが「いい人」を表出しているように思えた。
 時間を経て周吉もまた「あんたはいい人だねぇ」と同じようなセリフを発している。
 蒼井はそこに存在するだけで「いい人」を演ずることができる稀有な女優ではないか。

          
     ※ とみこの葬儀が終わり、最後まで残って周吉の面倒をみた昌次と紀子が島を離れるシーンです。

 映画は教員を退職して瀬戸内海の離れ小島で暮らす平山周吉、とみこの老夫婦が東京に子どもたちを訪ねてくるところから始まる。
 夫婦の子どもたちは都内で開業医を営む長男・幸一(西村雅彦)、美容院を営む長女・滋子(中島朋子)、舞台芸術の仕事に就いている次男・昌次の三人である。
 長男・幸一は妻への遠慮があるのか両親の状況を心から歓迎しているとは思われない。長女・滋子は経営する美容院のことで頭がいっぱいなのか、自分の事情を優先するよう
な言動を両親にぶつけてしまう。
 結局、一番時間の融通がきく昌次に両親の接待は任されるが、昌次は周吉にとっては言うことの聞かない、最も出来の悪い子どもだった。現在の不安定な仕事にも不満を抱いている。昌次は周吉が苦手だった。
 そんな昌次と周吉の仲をとりもったのが紀子であった。

 私は残念ながら小津監督の「東京物語」は観ていない。だからなおのことこの「東京家族」に素直に入っていけた。
 号泣するような場面は一つもない。しかし、いつの間にかじわっと私の眼が濡れていることが一度ならず何度かあった。
 そうそう親子の間ってそういうことあるよな~。
 自分の生活でいっぱいいっぱいで、親に失礼してしまったことも…。

          
          ※ 映画の中で好演した橋爪功と妻夫木聡のお二人です。

 いろんな思いが、芸達者の俳優たちの好演で違和感なく私の中に入ってきた。
 映画館を後にするとき「あゝ、いい映画を観たなぁ」と思わせてくれた「東京家族」だった…

《鑑賞日 ‘13/2/8》


私のニュージーランド紀行 15(最終回)

2013-02-19 19:39:29 | 海外の旅

 非日常から日常へ… 

 今回の旅を振り返るとき、そのテーマはいくらでも浮かんでくる。
 例えば…、「きれいに刈りこまれた芝生」、「タイエリ峡谷鉄道」、「オークランドで目立った浮浪者たち」、「圧倒的な日本車」、「目立つアジア系」等々…。
 しかし、いつまでも非日常的な話題に拘泥しているわけにもいかないのではないか。旅から帰って2週間、私はすでにいつもの日常に還っている。
 このブログもそろそろ日常に還らねばならない。

          
       ※ 家庭の庭の芝生はもちろん、こうした公共的なところの芝もきれいに刈り込まれていた。

 今回の旅に対して私は特別の思いを持って振り返っている。
 それはやはり、旅の全てを自分自身でプロデュースして、それを成し遂げたという充足感だろう。
 反省すべき点も数多いが、その満たされた思いは、昨年ツアーで行ったアメリカ旅行とはけた違いの充足感と言っていい。

          
          ※ 木も生えていない高いところを、谷あいに渡された鉄橋を、タイエリ峡谷鉄道は往く…。

 
 私が敬愛してやまない作家・沢木耕太郎は宿も決めずに海外旅行に発ち、現地で安宿を見つけて旅したという。そんな旅に憧れるのだが、それは同年代である彼が若い頃の話であって、今の私にそれと同じような旅をするだけの勇気はもはやない。
 今回の旅が精一杯の旅であり、今後同じような旅をすることはおそらくないだろう…。
 そう思えば思うほど、今回の旅が私の中では貴重な旅となってきたのだ。

          
          ※ 大都会オークランドの負の側面でしょうか?こうした浮浪者の姿もありました。

 私は友人たちに旅を報告する必要もあって、いつになく早々と旅のアルバムを作成した。
 旅先でシヤッターに収めた600枚余りの中から、友人たちが興味を抱いてくれそうな写真を厳選して…。
 そのアルバムの冒頭に「ニュージーランド セルフプロデュースの旅12日間」と記した。
 自らプロデュースした旅…、それは私の中に大きな意味を残してくれた…。

               
          ※ アルバムの表紙には「ニュージーランド セルフプロデュースの旅12日間」と記しました。

               
               ※ こうした手作りの写真集18ページが出来上がりました。