田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №7

2022-05-31 13:16:56 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡りは、札幌駅に近かった北大構内から、いよいよ北区の奥深くに分け入ってゆく。今回は〈25〉札幌飛行場正門跡と「風雪」碑、〈26〉力士若勇像、〈27〉馬頭大神、〈28〉新川さくら並木・新川緑地と巡り歩いた。

25〉札幌飛行場正門跡と「風雪」碑

   

   ※ 写真のように正門が通りに面して立っていました。(前方に小さく「風雪」碑も見えます)

   

    ※ 門には「札幌飛行場」と 表示されていました。

   

    ※ 足元には飾りタイルで八十八選に選出した門と碑であることを表示していました。

 ここに私は以前にも訪れたことがあり、その上北24条通りという東京オリンピックのマラソンコース上で、北海道芸術デザイン専門学校の校舎の隣ということで割合簡単に見つけることができた。正門跡というが、そこには「札幌飛行場」と刻まれた正門そのものが立っていた。また二つの正門に挟まれる形で坂胆道作の「風雪」碑があった。またその横にはいわくありげな木柱が立っていたので、調べてみたがそれに触れた文献を発見することはできなかった。「風雪」碑について書かれた文章を見つけることができたので、参考までに転写することにした。

   

   ※ 坂胆道作の「風雪」碑です。

「大空に憧れ、空高く飛んだ 父も兄も弟も、遠い想い出になって消えてしまうだろう。」碑にはこう刻まれている。 ここはかつて「札幌飛行場」があった。昭和2年(1927年)、旧北海タイムス社(現:北海道新聞社)はこの辺り周辺に飛行場を開設。やがて国営飛行場となり、札幌―仙台―東京間の定期航空路も開設された。飛行場といっても草を刈って整地してあるだけの滑走路で、機体がぬかるみにはまれば、みんなで力を合わせて引き上げるというのどけさだったという。昭和19年(1944年)には初めて軍用の板敷き滑走路が完成。さらに拡張しようとした矢先に終戦。戦後、進駐軍によって飛行機や施設が焼き尽くされ閉鎖された。 付近一帯は住宅地へと変貌を遂げ、二基の門柱だけが残された。ここにアトリエを建てた彫刻家坂坦道は当時をしのんで、プロペラ型のブロンズ記念碑を制作設置した。 

        

          ※ 傍に立っていた木製の塔の意味が調べても分かりませんでした。

〔住 所〕 北区北24条西8丁目 

〔訪問日〕 5月25日 

26〉力士若勇(わかいさみ)碑

   

    ※ 新川の堤防上に建つ「若勇碑」です。

       

 「力士若勇碑」は新川橋のたもとに建っていた。力士というのできっと札幌出身の大相撲で出世した力士かと思っていたが、そうではなくて素人相撲で大いに名を上げた人だと傍にあった説明板で知ることができた。その説明板の文章を転写する。

 この碑の「若勇関」は、大正2年(1913年)、25歳で富山県から本道に来て琴似村新川地に住居を持った。本名を前谷省三といい、素人相撲ながら大関を張り、その豪快な取口は人々の話題をさらったと言われている。また「若勇関」は、当時としては大型の農業を営み、新川地区の農業の基礎を作ったとも言われている。農民として、また力士としての功績を称えたのがこの「力士・若勇碑」である。大正10年(1921年)、相撲を引退した記念に建てられた。

とあった。素人相撲で石碑まで建てられるのだから、相当に周りの人たちには印象深い力士であり、農業人だったのだろうと想像される。 

   

    ※ 碑の向こうに見えるのが新川橋です。

〔住 所〕 北区北24条西19丁目 新川橋のたもと

〔訪問日〕 5月25日

27〉馬頭大神

   

    ※ 新川の住宅街の中に建つ「新川皇太神社」です。真紅の鳥居が印象的です。

   

   ※ 新川皇太神社の社殿です。

 この「馬頭大神」がある新川皇太神社が遠かった。この日私は自転車で巡って歩いたのだが、いやいや遠かったぁ。昨年夏、私は「花手水」巡りで新川皇太神社を訪れてはいたが、その時は乗用車で巡って歩いたので距離感がまったく違っていた。なんとか辿り着くと、「馬頭大神」は神社境内の奥深くに鎮座していた。

   

   ※ 社殿の左奥に鎮座していた「馬頭大神」の石碑です。

「馬頭大神(おおかみ)」という呼称は私の中ではあまり馴染みではなく「馬頭観音」という言い方の方が一般的に思うが、その建立の趣旨は同じようで、農耕馬である馬に農民が感謝の意を込めて建立した碑である。

 実は新川皇太神社にはもう一つ「馬頭大神」が建っていた。その碑の裏側には「手稲区より新川皇太神社境内に遷碑す 観音改め馬頭大神とす。 平成14年9月22日」とあった。  

   

   ※ もとからあった馬頭大神の傍に立てられていた手稲地区から遷碑した馬頭大神です。 

〔住 所〕 北区新川3条13丁目 新川皇太神社境内

〔訪問日〕  5月25日

 

〈28〉新川さくら並木・新川緑地

   

   ※ 桜の季節が終わってしまった新川のさくら並木の一部です。

 新川のさくら並木は、新川の川沿いにずーっと続く並木である。人によっては「新川のさくら並木は日本一ではないか?」と主張する方があるという。それは新川のさくら並木は全長が10.5kmもあるからだ。しかし、正直言って日本一を称するのは少々おこがましいかな?というのが正直な印象である。というのも、一部を除いてサクラの木が少々貧弱な印象が拭えない。特に石狩湾に近い方は海風の影響があるのか十分に育ってはいないのが現状である。あるいは10数年後には見事な並木になるのだろうか?私が写真の収めた市街地に近い右岸通りで北24条西14丁目辺りである。この辺りから右岸を下流方向にしばらくの間が最も並木が素晴らしいところである。私の写真は5月25日現在のものであるが、ウェブ上から満開時の写真を拝借して掲載した。将来的にこうした光景が長~く続くことを期待したい。

   

   ※ こちらも5月25日に撮ったさくら並木です。

   

   ※ ウェブ上から拝借した満開時の新川のさくら並木です。こうした並木がずーっと続くといいのですが…。

 続いて「新川緑地」だが、こちらも捉えどころのない新川の長い長い河川敷を指す。私は2020年に札幌市の緑地巡りをした際に緑地全体を隈なく歩いたことがあるので、興味のある方はその際に投稿したものをご覧いただきたい。(新川緑地についてのレポはこちら⇒前編〈2020/6/19〉後編〈2020/6/20〉)

〔住 所〕 北区新川3条17丁目 天狗橋

〔訪問日〕 5月25日   


ブリリア会も順調に活動中!

2022-05-30 16:16:12 | ボランティア

 今年も本日、無事にマンション前の花壇に花苗を植栽することができた!いつの間にやら私たち「ブリリアの会」は道立近代美術館前の清掃だけではなく、マンション前の整美も受け持つようになった…。

 勝手に道立近代美術館前の歩道を清掃しましょう!と呼びかけてできた「近美を愛するブリリアの会」は結成13年目を迎え、4月8日に今年第1回目の活動を開始したのを皮切りに、以来2週に1度のペースでこれまで順調に4回の近美前歩道の清掃活動をこなしたところである。

   

   ※ 球根を整理した後、培養土と有機肥料を混入し、耕して整地します。

 そして今日、いつもの活動とは別に、マンション前の街路樹枡周囲を飾るために花苗を植栽する活動を実施した。そもそもマンション周囲を整美する活動は当初は会の活動として想定してはいなかったのだが、会員の中から「ぜひ自分たちでマンション周囲も整美したい」という声が出て、以来ずーっとマンション周囲の美化も手掛けるようになった。

   

   ※ 整地したところに花苗を植栽します。

 本日は遅まきながらも、その街路樹枡周囲(私たちは単純に花壇と称しているが)に花苗を移植する活動を実施した。植栽した花苗はインパチェンスとベゴニアセンパフローレンスの2種を花壇ごとに分けて植栽した。これまでは夏花壇の主役であり、育て方も難しくないベゴニアを植栽することが多かったので、今年はインパチェンスを!と思っていたのだが、ホームセンターに入荷するインパチェンスが少なく、仕方なくベゴニアセンパフローレンスと併せた形での植栽となった。

   

   ※ ベゴニアセンパフローレンスのピンク色を植栽した花壇。周りはアイビーです。

 併せてマンション横に一つだけある街路樹枡の周囲が見苦しかったので、レンガで囲む作業も行ってもらった。

 作業はまず、春花壇のチューリップの球根を掘り起こして集める。次に培養土と有機肥料を混入して耕し、そして整地する。そこに花苗を植栽する。という活動だった。平日の昼間の活動とあって、会員の方々はそれぞれ用件があったとみえて、いつもの活動よりは少ない5名での活動となった。しかし、手際よく作業を進めたこともあり1時間弱で活動を終えることができた。

   

   ※ 今年初めて植栽したインパチェンスです。

 購入した花苗の数が少し少なかったようだ。花壇の周りをアイビーの葉で囲んでいるので花苗はそれほど必要ではないと考え、一つの花壇に20苗しか用意しなかったのだが、読みが甘かったようだ。考えていたような密植とはならず、けっこう疎植となってしまった。まあ、それぞれの苗が育てばそれなりに見栄えがしてくるものと期待したい。

 花壇をレンガで囲む作業は、素人仕事がバレバレの仕上がりとなってしまった。土中に埋めたレンガの背丈がマチマチとなってしまったのだ。しかし、それも愛嬌と笑って済ますことにした。

   

   ※ マンション横の花壇の周りが見苦しかったので、レンガを購入して囲む作業をしました。

   

   ※ 完成した(?)レンガの囲いです。一応、茶色とこげ茶色のレンガを交互に組んだのですが…。

 次は、降り注ぐポプラの綿毛からART文字を守るため、防綿毛ネットを設営する作業が待っている。


圧倒された岬の光景 羽生輝展を視る

2022-05-29 17:05:20 | 作品展・展覧会等

 日本画家・羽生輝が住む釧路地方の岬を描く羽生の画の一枚、一枚は150号の大画面とも相まって、圧倒的な迫力で視る者に迫ってきた。絵画の鑑賞もたまにはいいかもしれない?

   

   ※ 羽生輝展のエントランスです。(水平が取れないですねぇ~)             

 絵画を鑑賞するということは、私が苦手とする分野の一つである。道立近代美術館の近くに住みながら、まったく地の利を生かしていないのである。だから、現在開催されている話題(?)の「フェルメール展」もとんと関心がなかった。

 ところが先日、ある方から「フェルメール展」と「羽生輝展」の招待券をいただくという幸運に恵まれた。そこでせっかくのご好意を有意義とするために、私は近代美術館で開催される学芸員による「みどころ解説」を聴いてから鑑賞しようと考えた。

   

   ※ 「みどころ解説」は2階講堂で行われました。

 その「羽生輝展 みどころ解説」が本日午後に開催されたので、その解説をお聴きした後に展覧会を鑑賞してきた。展覧会名「日本画家 羽生輝展 悠久の岬を望む」である。

  

  ※ 羽生輝展はこうした岬の風景の作品がかなり割合を占めていました。

 「見どころ解説」では、羽生が影響を受けた人々についての紹介があった。その影響を受けた人たちとは、オランダの画家・ゴッホ、日本画家・上村松篁、釧路出身の日本画家・久本春雄、叔父で彫刻家の船越保武、そして創画会との出会いなどが羽生輝の作画に影響を与えたという。面白いと思えたエピソードは、羽生の画を見たある漁師が「あんたの画からは、魚の匂いがして来ねぇんだよなぁ」と言われた一言だという。彼はこの一言に触発され、道東の冬の寒い寒い肌を刺すような空気感を描き表すことに集中したという。

   

   ※ 150号2枚を合わせた岬の作品です。

 羽生の作品で目立ったのは、展覧会名のサブテーマでも表現されている道東の岬の風景が圧倒的に多かった。それは羽生があえてごく普通に見ることのできる風景にこだわったということだ。だから釧路の代表的な風景である釧路湿原には見向きもしなかったそうだ。しかし、彼が高名になるにつれ地元から「湿原風景を描いてほしい」という要望が高まり、後年は釧路湿原の四季の風景なども手掛けている。

   

    ※ こうした浜の風景も目立ちました。   

 羽生の作品の多くは、リード文でも触れたように150号という大作である。学芸員によるとその大きさは畳2枚分に相当するそうだ。中にはそれを2枚並べた作品もあった。その大きな画面が視る者に一層道東の冬の寒さを感じさせる迫力があった。

 「見どころ解説」を聴いたことで、一つ一つの作品をより深く視ることができたように思う。

   

  ※ 最初は忌避していた釧路湿原の風景画ですが、後年は春夏秋冬の湿原を描いた作品が展示されていました。

 「フェルメール展」の方は、残念ながら関連する講演会はすでに終了している。そこで6月8日に札幌市民ギャラリーで上映される「謎の画家・フェルメール追跡」を観賞してから「フェルメール展」に出かけようと思っている。

※ 羽生輝氏の作品は全てウェブ上から拝借しました。                          


北区歴史と文化の八十八選巡り №6

2022-05-28 15:49:10 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡り第5弾は長く続いた北大関連最後の1件と、その他の3件である。「北海道大学農学部第二農場」、「旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡」、「北27条公園通り」、「いのち」の4件をレポする。

21〉北海道大学農学部第二農場

   

    ※ 第二農場内に入った直後に見られる光景です。

  北海道大学構内の中央道路を北に向かって進んだ突き当りに広がるのが「北海道大学農学部第二農場」である。私はこれまで何度も訪れているが、2019(平成31)年に「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」の現地学習で訪れた時には、担当の教授から直接お話をうかがう機会があり、特に印象に残っている。主要な建物である模範家畜房(モデルバーン)、種牛舎、穀物庫(コーンバーン)などの内部も見せていただき、詳しい説明もいただいた。それらが現在の北海道の畜産の基礎を築いたことがよく理解できた。

   

   ※ 牝牛舎です。

   

   ※ 模範家畜房(モデルバーン)です。

 次に紹介する文章は、第二農場についてより理解できる文章だと考え紹介することにした。

 1876(明治9)年、札幌農学校の開校とほぼ同時に開設された農黌園(のうこうえん)が北大農場の原型だ。初代教頭クラーク博士の指導によって造られ、近代的な大規模洋式有畜農業を日本に導入するための拠点となった。第二農場には北海道の風土にあった酪農のモデル農場の姿が当時のまま残されている。その中心を担うのが1階が家畜舎、2階が干草置き場の模範家畜房。クラークの後を継いだ第2代教頭のホイーラーが、マサチューセッツ農科大学農園の家畜房にならって設計をした。風船構造と呼ばれる建築様式で、屋根を支える柱がないのが特徴的だ。1969(昭和44)年、国の重要文化財に指定。 

   

   ※ 場内に植わっている大木です。(ハルニレ?)

〔住 所〕 北区北18条西8丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕 5月10日 

22〉旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡

 「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」は1924(大正13)年に造られた木造3階建ての校舎である。設計はスイス人建築家のマックス・ヒンデルという人だそうだ。

   

   ※ 旧藤高等女学校校舎の一部を再現した「キノルド資料館」です。

 校舎は、高等女学校から、学制が次々と変わり女子中学校、女子校などと変ったけれど藤学園のシンボルとして長く使われてきたそうである。しかし、老朽化により維持が難しくなり2001(平成13)年に解体された。現在は跡地に「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」の資材の一部を使いスケールを小さくして2003(平成15)年に「キノルド資料館」が建てられている。

   

   ※ 「キノルド資料館」の屋上中央には旧藤高等女学校のシンボルタマネギ型のポールが立っていました。

 私が訪れた時、校舎のシンボルでもあった中央の塔にタマネギ型をしたポールが立っていたので「あれっ?」と思ったが、上記のように復元したものだと分かり納得した。なお、内部は許可さえ得られれば見学可能のようだが、現在は「コロナ禍のために中止している」とのことだった。

 ところで私は「キノルド」ということについても何も知識がなかった。調べてみると、キノルドとは「キノルド司教」のことで、藤学園の創始者だということが分かった。

 いつか機会があれば資料館の内部も見学させていただきたいと思っている。

   

   ※ 旧藤高等女学校校舎について説明する北区制作の説明板です。

〔住 所〕 北区北16条西2丁目 藤学園内

〔訪問日〕 5月10日

23〉北27条公園通り

 「北27条公園通り」は、もともとは旧札幌飛行場の防風緑地帯を利用した通りである。

   

   ※ 「北27条公園通り」の西6丁目側の入口のところです。左の大木のようなものはコンクリート製のモニュメントです。

 1926(大正15)年に旧北海タイムス社が報道用のために北24条以北を滑走路として使用していたことに始まり、その後は東京への定期航空路を持つ飛行場として使用されたり、戦時中は陸軍飛行場としても利用されたりしたが、終戦と共に閉鎖されたところを活用したものである。

   

   ※ こちらは公園通り中央付近にあった時計付きのモニュメントです。

 通りは10mくらいの幅でおよそ400m続く通りで、通りには公園のように樹木が植えられたり、ベンチや東屋、花壇などが配されたりして、周辺住民にとっては貴重な憩いの場となっていることを伺わせた。市の当局も造成時はかなり予算を投じて整備されたものと推察できた。ところが、今回訪れてみると、全体が雑草で覆われているのが何とも残念に思えた。

   

   ※ 木々が生い茂り通りに木陰を造っていますが、その下の雑草が気になります。

   

   ※ 子どもたち作成の壁画が並んでいますが、ここも雑草が気になります。

   

 恩恵に浴している周辺町内会などがリードして、住民自らが整備するようなことは考えられないのだろうか?なんとも残念な光景に思えた。 

   

   ※ 通りは写真のように大仰な塀に囲まれていました。

〔住 所〕 北区北26条西5丁目~8丁目

〔訪問日〕  5月25日

〈24〉いのち

   

   ※ 若草公園の入口から公園全体を望んだところです。

 彫像「いのち」は北27条公園通りから1条分南に寄った「若草公園」内にあった。作者は羊ヶ丘展望台の「丘の上のクラーク像」の作者として知られる坂胆道氏の作品である。

   

   ※ ここも雑草が目立ち過ぎです。奥に母子像が見えます。

 母子像「いのち」は、1976(昭和51)年8月に幼児が交通事故で亡くなったことをきっかけに、その翌年交通安全を祈願して北第二町内会が中心となって建てたものだそうだ。

   

   ※ 母子像「いのち」の全体像です。

 母子像の傍には北区が作製した説明板に次のように説明されていた。(一部省略)

「この『いのち』の像は昭和52年(1977年)に建立されたが、10年にわたる風雪で腕や足に亀裂が入るなど傷んできたため、昭和63年ブロンズで作り直したもの。母とその両手に抱かれ、もみじの葉のような手を広げ、大空を見上げる幼児の姿は、見る人の心を強く引き付ける」(当初の像はポリエステル樹脂製だった⇒筆者註)とあった。 

   

   ※ 像の裏側から公園全体を望んだところです。

〔住 所〕 北区北25条西7丁目 若草公園内

〔訪問日〕 5月25 日


札幌市のパークゴルフ場めぐり〈36〉篠路コミュニティセンター横パークゴルフ場&〈37〉百合が原公園コース

2022-05-27 13:26:58 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 〈37〉篠路コミュニティセンター横パークゴルフ場は平坦なコースだったが、ホール周辺がマウンドになっているためにスコアメイクが難しいコースのように感じた。また〈38〉百合が原公園コースは、公園の片隅に造られた9ホールの小さなパークゴルフ場だった。

〈36〉篠路コミュニティセンター横パークゴルフ場

 なんとも長いコ―ス名である。確かにコースの場所を表してはいるのだが、何かもっと短い愛称のようなコース名にできなかったのだろうかと外部の者は思ってしまう。

   

   ※ 駐車場は十分の広さが確保されていました。

   

   ※ このクラブハウス風のテント内には料金についての説明が見当たらなかったのですが…。

       

       ※ 手書きのコース案内図ですね。

 事前にこのコースは維持管理協力金が必要ということが分かっていた。しかし、実際に行ってみるとそうした案内が見当たらなかったので、プレイを始めようとした。すると、テント内で休んでいたと思われた男の方から声を掛けられ「協力金を!」と請求され、協力金200円を収めてプレイを開始した。

    

   ※ 芝の状態はよく整備されていました。 

   

   ※ ご覧のように各ホールはマウンド状になっていて、私のような初心者にはなかなか難しかったです。

 住宅街の狭い敷地に造成したコースだから直線的な狭いコースが多かった。芝の状態はかなり良い状態が保たれていたように思えた。このコースの最大の特長は各ホールがマウンド状になっていることだった。パターの際の力加減を間違ってしまうと、ボールがマウンドから転げ落ちて、多くの打数を要するコースになっている。初心者にはやや難しいと思えるが、ベテランにとっては面白いコースと評判なのかもしれない。この日はもう1コースをこなさねばならないために9ホールのみプレイして失礼した。 

   

   ※ 狭い敷地に18ホールを造るため、両脇を金網で仕切られているホールがかなりありました。

 《コース概要等》

〔住      所〕北区篠路3条8丁目

〔コース概要〕・18ホール、パー66 総延長約 860m

〔休      日〕火曜日(午前)

〔利用時間〕 8:30~16:30  〔駐車場〕有(100台)

〔プレイ料金〕維持管理費として1日200円

〔ティーの用意〕有

〔問い合わせ〕運営委員会 ☎771-0763

〔訪問日&私の成績〕22/05/12   Aコース 35/33 

 

〈37〉百合が原公園コース

 広大な百合が原公園の片隅(公園の最北端)に9ホールだけの小さなコースが設けられていた。コースは無料で開放されているが、芝の整備状況はそれなりにといった感じのコースで、周辺住民の方々が「ちょっとパークゴルフを」と気楽に訪れて楽しめるコースのようだった。

   

   ※ 百合が原公園の広い駐車場があります。

   

   ※ 何かの後利用のような休憩舎がスタート地点にありました。

   

   ※ 9ホールのコース案内とプレー上の注意書きが立てられていました。

 ここのコースも全体が平坦なコースでそれほど特徴のあるコースとはいえなかったが、一部に立木があってコースに変化をもたらせていた。

   

   ※ 水分が不足気味のコースの芝でした。

   

   ※ ホール周りも特に芝の状態が変わっていなく、コース上にホールを設けている感じでした。

   

   ※ 単調なホールの中で、このホールだけ立木が変化を付けていました。

《コース概要等》

〔住      所〕北区百合が原公園210番地

〔コース概要〕・9ホール、パー33 総延長 約 333m

〔休      日〕月曜日(特例有)

〔利用時間〕 日の出~日没  〔駐車場〕有(286台)

〔プレイ料金〕無料

〔ティーの用意〕無

〔問い合わせ〕百合が原緑のセンター ☎772-3511

〔訪問日&私の成績〕22/05/12   Aコース 30/33 


「めだかの学校」は今…  順調にスタート!  

2022-05-26 13:31:42 | 「めだかの学校」関連

 ようやく会員の方々に笑顔が戻ってきた。この2年間コロナ禍に翻弄され、計画の半分も消化できないでいたが、今年度は今のところ順調に計画した学習を進めることが出来ている。このまま推移してほしいと願うばかりである…。

   

   ※ DVDフォーラムの題材として取り上げた「2020 未来への分岐点」のPR画像です。

 私が所属するシニアの生涯学習グループ「めだかの学校」は通例月に2回の学習活動を展開している。ところが昨年、一昨年はコロナ禍のために計画の半分も消化できずに終わっていた。特に私たちとしては目玉事業とも考えていた現地学習「さっぽろの古を訪ねて」は座学を1回実施しただけで、一度も現地を訪ねることができなかった。

 本年度「さっぽろの古を訪ねて」は再々度の中止を恐れて断腸の思いで計画を当初から中止することとし、他の積み残した学習や新たなものを加えて計画を立てた。その計画とは、

◇4月第2月曜日 DVDフォーラム NHK特集「2030 未来への分岐点」①

◇4月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「沈まぬ太陽」

◇5月第2月曜日 DVDフォーラム NHK特集「2030 未来への分岐点」②

◇5月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「それでも夜は明ける」

◇6月第2月曜日 DVDフォーラム NHK特集「2030 未来への分岐点」②

◇6月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「八日目の蝉」

◇7月第2月曜日 時代劇映画観賞会「蝉しぐれ」

◇7月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「グリーンブック」

◇8月第2月曜日 時代劇映画観賞会「花のあと」

◇8月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「千と千尋の神隠し」

◇9月第2月曜日 時代劇映画観賞会「蜩の記」

◇9月第4月曜日 アカデミー賞映画観賞会「ムーンライト」

(今年度後期の計画については、いずれまた紹介する機会があると思う)

   

   ※ DVDフォーラムも映画観賞会も、最初にスタッフからレクシャーがあり、その後に観賞します。

というラインナップを組んだ。第2月曜日のDVDフォーラムと時代劇映画観賞会は昨年度実施できずに積み残した分を再度計画したものである。アカデミー賞映画観賞会の方は、2000年以降のアメリカアカデミー賞、日本アカデミー賞の作品賞受賞作品の中から、会員の希望を取りまとめて希望の多かった6作品を取り上げた。

 これまで4回、計画どおりに消化することができた。会員からは特にDVDフォーラムについては関心が高いように感じられた。地球温暖化、食糧危機、プラスチック被害などやはり誰にとっても大きな関心事となっていることを伺わせてくれた。

   

   ※ DVD「2030未来への分岐点」を観賞する「めだかの学校」の会員の方々です。

 コロナウィルスの感染が収まり、これからも順調に学習が続けられることを願うばかりである。

 ようやく会員の方々に笑顔が戻ってきた。この2年間コロナ禍に翻弄され、計画の半分も消化できないでいたが、今年度は今のところ順調に計画した学習を進めることが出来ている。このまま推移してほしいと願うばかりである…。 


吉村昭著「大黒屋光太夫」(上・下巻)

2022-05-25 14:47:13 | 本・感想

  時代の幸運、出会いの幸運、そして何より彼自身の不屈の精神力、そうしたことが相まって大黒屋光太夫は歴史の人となった。史実を丹念に探し、掘り起こし、吉村昭の抜群の筆力で読者を惹きこみ一気に読み進むことができた。

        

 大黒屋光太夫とは、伊勢国白子浦(現在の三重県鈴鹿市白子町)の廻船問屋が所有する「神昌丸」の沖先導(船長)だった。天明2(1782)年12月13日、光太夫32歳の時、「神昌丸」は米・酒をはじめたくさんの荷物を満載して白子浦から江戸へ向かった。ところが大しけに遭遇し、船は漂流しておよそ一年後に流れ着いたのは当時ロシア人が支配していたアリューシャン列島のアムチトカ島だった。ここから光太夫の本当の苦難が始まるのだが、漂流中、そしてアムチトカ島で白子浦から出た時は17人だった船員などは病気によって、この時点で8人を亡くしている。

 何としても故国へ帰りたいという光太夫たちはアムチトカ島からカムチャツカ半島、樺太島のはるか北方の寒村オホーツク、そしてヤクーツクを経てイルクーツクに至る。この間、まったく未開の大地を往く光太夫たちの苦労は想像を絶するものであった。その上、シベリアの冬の寒さは尋常ではなかった。仲間の一人はその寒さのために片足を切断しなければならないほどだった。また、光太夫たちは彼ら以前にも漂流してシベリアに流れ着いた日本人がいたことを知った。それらの日本人は望郷の念に駆られながらもロシアの政策によって帰国は許されず、日本語教師として一生を終えるものばかりだったことを知る。

 光太夫たちが幸運だったのは、イルクーツクでキリロ・ラクスマンという陸軍中佐で、鉱物の知識が豊富な学者であり、ロシア皇帝の信頼もあつい高官と出会ったことである。キリロは光太夫たちの帰国の思いが強いことを知り、親身になって光太夫たちの世話をかつて出てくれた。その際たることは帰国を皇帝に直訴するためにキリロが光太夫を私費で帝都ペテルブルクまで同道したことである。イルクーツク⇒ペテルブルク間はロシアの里数で5,823里だそうである。私が計算したところ現在の距離数で約6,200kmということになる。この間を馬車で約1ヵ月余走り続けて到達したということだから、いかなる大旅行だったかが窺い知れる思いである。ベテルブルクにキリロと光太夫は約1年間滞在した末に、キリロの粘り強い交渉の結果、光太夫はついに女帝エカテリーナとの会見が実現したのだった。当時ロシアは日本との通商を行いたいという国策もあって皇帝はその感触を探る意味からも光太夫たちの帰国を認めたのである。

          

 光太夫の絶対に帰国するという硬い意志、キリロという得難い人物との出会い、そしてロシアの対日政策の変換、といったことが積み重なったことで、ついに光太夫は寛政4(1792)年9月3日、根室の近く西別の浜に帰国の一歩を記したのだった。その間、漂流してから実に10年の月日が流れていたのだった。

 実はアムトチカ島で多くの仲間を失った光太夫だったが、その後も病没した者、あるいは帰国を諦めてロシアの教会で洗礼を受けたことで帰国の道を自ら閉ざした者も2人いた。そうしたことで結局帰国できたのは漂流した17人のうちたったの3人だけだった。その3人の中の1人も北海道(当時の蝦夷)に辿り着いたものの、家族との再会も叶わず病死してしまい。結局、本当の意味で無事に帰国できたのは、光太夫と磯吉という若者の二人だけだった。

 ずーっと粗筋のようなことを紹介する文章となってしまった。それも私自身がこの壮大な叙事詩のような物語を反芻してみたいとの思いが強く、いつもの感想文的文章とは異なってしまったことをお断りしておきたい。

 う~ん。吉村昭という作家の読者をぐいぐいと惹き付ける筆力には改めて恐れ入る思いである。私の吉村昭詣ではまだまだ続く…。


三国立大学統合の未来は?

2022-05-24 13:24:36 | 講演・講義・フォーラム等

 4月1日より道内の小樽商科大学、帯広畜産大学、北見工業大学の三つの国立大学が、それぞれの教育機能は独立性を保ちつつ、経営機能の統合がなされスタートした。その発足を記念するフォーラムに参加し、関係者のお話を聴いた。

        

 5月22日(土)午後、道新ホールにおいて「北海道国立大学機構発足記念フォーラム」が開催され参加した。フォーラムのテーマは ~「実学の知の拠点」形成を目指して~ として、内容としては二つの基調講演とパネルディスカッションからなっていた。

 最初に北海道国立大学機構の初代理事長に就任した長谷山彰氏「変貌する国立大学―経営と教学」と題して基調講演された。長谷山氏は「大学は経営と教学が車の両輪である」と強調され、これまでの国立大学には経営という発想が乏しかったと指摘した。そして今回の北海道国立大学機構の発足は経営と教学の分離が実現し、その経営のトップに長谷山氏が就任したということだと理解した。長谷山氏が言う「経営」とは、大学としての理念を明らかにして、それに則して資金、施設・設備、人材を準備することであるとし、「自主性・自立性を活かした戦略的運営」をしていきたいと抱負を述べられた。長谷山氏は昨年まで慶応義塾長を務められていて、キャリアとしては申し分のない人材だと思える。落ち着いて抱負を述べる氏の言葉から必ずしも熱意のようなものは伺えなかったことに若干の懸念を覚えたのだが、私の的外れの見方であってほしい。

 続いて日本のインターネットの父とも称されている慶大教授の村井純氏「北海道:デジタル化と大学の未来」と題して基調講演された。これは統合した三大学のキャンパスが北海道内に散在している現状の中で、大学同士の交流、あるいは共同研究に資するデジタル化の勧めを説いたのだが、デジタルに関して弱い私としては村井氏のお話を十分に咀嚼できたとは言いかねる状態なのでレポは割愛したい。

 休憩を挟んで7名の登壇者が並んでパネルディスカッションが行われた。登壇者は基調講演をされたお二人に加えて、三大学の学長である小樽商科大学長の穴沢眞氏帯広畜産大学長の長澤秀行氏北見工業大学長の鈴木聡一郎氏、小樽商大OGでロジネットジャパン社長の橋本潤美氏、北海道国立大学機構理事であり、三菱総研執行役員の中村秀治氏の7名だった。

   

 7氏は多岐にわたって統合のメリット、そして統合による明るい未来を語った。その中で印象に残った言葉があった。その言葉とは “実装化” という言葉だった。実装とはコンピュータ用語のようだが、平たく言えば「研究成果を社会に生かす」という意味だろう。フォーラムのテーマでも謳っている三大学は「実学の知の拠点」を目指している。ぜひともその成果が将来北海道内に還元されることを願いたい。

 ただ、若干の懸念として今回のフォーラムに登場された方々は、機構の経営側の方々であったり、経営と教学の橋渡し役である学長の方々だった点である。はたして実際に研究や教育を担う教授、准教授陣などの方々が今回の統合をどう捉えているかである。今回の統合を機にこうした方々が自らの研究のチャンスととらえて、統合のメリット生かすことに積極的になっていただきたい、と部外者である私は願うのだが…。


北海道内の野生哺乳動物の変遷

2022-05-23 16:28:52 | 講演・講義・フォーラム等

 明治以降、北海道が開拓によって人々が道内全域に住むようになってから、道内に棲む野生の哺乳動物たちは人間の都合もあってずいぶん様相が変わってきたという。併せて哺乳動物たちを自動撮影する話を聴いた。   

 5月24日(土)午後、札幌市資料館において北海道自然保護協会が主催する「自然保護 講演会」が開催され参加した。講演は「野幌の哺乳類~自動撮影観測の18年~」と題して、北海道森林研究所の研究員として勤められていた平川浩文氏が講師を務められた。

 演題とリード文がずいぶん違うじゃないかと訝れる方もいるかと思うが、講演は前半が道内の哺乳動物の変遷について触れられ、後半が自動撮影観測のことを話されたのだが、私の興味が前半に傾いていたこともあり、リード文をそうさせていただいた。

 従来北海道内には在来種としてヒグマ、オオカミ、シカ、キツネ、ユキウサギ、タヌキ、クロテンなどがいたそうだ。その中からオオカミとカワウソはすでに絶滅してしまっている。オオカミが絶滅した要因はオオカミの餌だったシカが人間によって大量捕獲されたためにオオカミが牛や馬など家畜を襲うことになった。このことが主要因となり人間はオオカミを捕獲し絶滅へと追い込んだ。またカワウソは毛皮を利用しようした人間に捕獲されたことと、河川整備が進んでことによって絶滅したとされている。

 一方、北海道には本来棲息していなかった哺乳類が人間の手によって持ち込まれ野生化したものとしてイタチ、ニホンテン、ミンク、アライグマなどがいるそうだ。

 こうしてみると、人間は自然界においてずいぶん罪深い存在だなぁ、と思えてくる。

       

       ※ 平川氏の自動撮影観測の取組みの歩みを図示したものです。

 話は道内に棲息する哺乳動物たちの生息数の増減を推測から推し量るのではなく、もう科学的に捕捉する一手段として自動撮影観測に取り組んだお話をうかがった。自動撮影とは、ご存じかと思うがカメラを固定し、その前を動物などが通るとそれを感知し、自動的にシャッターを切る仕組みで、野生動物の生態を探るシステムである。最近では登山する人数を捕捉する方法として登山口に近いところにこうしたカメラが設置されている山があり、私も体験したことがある。

 講師の平川氏はその自動撮影観測のシステムを企業と一緒に開発した方だという。最初に開発したのは2000年頃でフィルム式カメラ(商品名Yoy Shot G1)だったそうだが、やがて2010年頃になってデジタルカメラ(商品名 Yoy Shot Digtal)を開発したことで記録性も向上したそうだ。但し、分からなかったことがあった。それはフィルム式は感知すると同時にシャッターが切られるのだが、デジタル式は感知してからシャッターが切られるまでに0.5秒程度のタイムラグがあるということだった。そのため、動きの速い動物を逃してしまう場合があるということだ。メカに弱い私には理解できないことだが、現代の機器にも弱点があるということか?

   

   ※ 自動撮影観測で撮影した野生生物たちです。

 平川氏は2000年から2020年にかけて、個人的に、あるいは組織(北海道野生生物観測ネットワーク)として自動撮影観測を続けられたそうだ。

 組織としては全道的な広がりの中で観測したが、平川氏は2007年から2019年にかけて野幌森林公園内にカメラを据えて観測したという。その結果、圧倒的に観測されたのはキツネだったという。また観測後半になりタヌキやアライグマが目立つようになったそうだ。さらには少数ながらシカの出没も見られるようになったのがこの間の特色だとお話された。

   

 最後に、自動撮影観測はその地域の野生生物全体の生態(数)を反映したものではない、と断られた。あくまでカメラの前を通過した数であることに留意する必要があると…。ただ逆に言えば、その地域における野生生物の密度が反映された結果とも言うことができそうだ。

 また、野幌のことではないが、現在北海道においてニホンテンとクロテンの攻防が繰り広げられているとも話された。ニホンテンがクロテンを道南方面から駆逐しはじめ、現在札幌近辺の山野がその境界線でもあると話された。このことが自動撮影観測の成果かどうかは聴き損ねたが、興味深い現象である。

 野生生物の生態が人間の都合によって、その盛衰が左右されてきたということは人間側から見ると仕方のないことと言えるかもしれない。しかし、動物たちにとっては自らの存亡が人間の手に委ねられてきたという厳しい現実があった。そうした意味もあって近年は野生生物保護の声が大きくなってきているのだと理解することができた講演会だった。                                 

 


フィオーレ合奏団  「鳥の歌」に感動!

2022-05-22 12:33:54 | ステージ & エンターテイメント

 3月のスプリングコンサートに続いて、弦楽器だけのオーケストラ「フィオーレ合奏団」の定期演奏会を聴いた。懸念していたことが払拭されたわけではなかったが、アンコールで演奏されたチェロのソロ「鳥の歌」に深く感動した。

       

 昨日(5月21日)午後、札幌教育文化会館で開催されたフィオーレ合奏団の第2回定期演奏会を聴いた。定期演奏会とあって開催パンフにもあるとおり、3月のときとは違って意欲的な曲目が並んでいた。また今回は、低音楽器(チェロ、コントラバス)を中心に6名の賛助出演の演奏者が加わっていた。

 この日演奏された曲目は次のとおり。

 ◆第一部 邦人作曲の弦楽合奏人気曲

   弦楽のための三楽章/芥川也寸志

    ◇第一楽章 アレグロ

    ◇第二楽章 アンダンテ

    ◇第三楽章 プレスト

 ◆第二部 ボサノバとタンゴの世界

    ◇黒いオルフェ/L.ボンファ

    ◇イパネマの娘/A.C ジョビン

    ◇エル・チョクロ/A.ビジョルド

    ◇バラのタンゴ/F.シェライエル & A.ボッテロ

    ◇リベルタンゴ/A.ピアソラ

 ◆第三部 哀愁のシチリアーノ

   リュートの為の古風な舞曲とアリア/レスピーギ

    ◇第一楽章 イタリアーナ

    ◇第二楽章 宮廷のアリア

    ◇第三楽章 シチリアーノ

    ◇第四楽章 パッサカリア

 ◆アンコール

   ◇鳥の歌〈スペイン・カタロニア民謡〉 チェロ独奏

というラインナップだった。合奏団関係者の意気込みが伝わってくるような選曲である。

 ところでリード文で私は “懸念” という言葉を使ったが、それは前回のフィオーレの演奏を聴いたときに私は次のように書いている。

「フィオーレ合奏団の弦の音色のどこかが札響などのプロの音色と違って聴こえてくるのだ。それは他のアマチュアのコンサートを聴いたときにも感じたことなのだが…。私は演奏を聴きながら、プログラムの端に「チューニング?」、「楽器の違い?」、「押さえどころの違い?」とメモした。

 違いはチューニングの甘さなのだろうか?それとも楽器の質の違いなのか?あるいは、ヴァイオリンなどの弦楽器はギターなどと違いフレットがないという。となると奏者が抑える箇所が違うと当然出る音にも違いが出てくる。あるいは弓の弾き方にあるのだろうか?素人の私にはとんと分からない。きっと奏者たちもその違いには十分に気が付いていて、一生懸命にプロの技に近づこうと努力されているに違いない。」

 今回、私はこの ‟懸念”が払しょくされるだろうか?という思いで聴きに出かけたのだが、残念ながら私に耳には前回と同じように届いてきた。これは弦楽だけで構成するアマチュアオーケストラのあるいは宿命なのかもしれない。合奏団の今後の精進を期待したいと思う。

          

 そうした中、合奏団の育ての親であるコンサートミストレスの澤田まさ子さんが挨拶の後、賛助出演されたチェロ奏者のギジェルモによるスペイン・カタロニア民謡の「鳥の歌」をソロ演奏で披露する、と話された後、スペイン人のビジャサン・バローソ・ギジェルモさんが演奏を始めた。これが素晴らしかった!低く重厚なチェロの調べが会場内に響き渡る静かな曲だった。もともとはキリストの生誕を鳥が祝っている様子だというが、スペインでは平和の歌として知られているという。時が時だけに聴く者たち胸深くに響いてきた。ギジェルモはスペインで音楽学校で学んだあと、札幌へ来て音楽教室の講師をしているといういわばプロである。曲の良さと技術が融合した素晴らしい演奏だった。

 ギジェルモの演奏ではないが、この曲を有名にしたカザロフ(?)が演奏したものをユーチューブで見つけたので貼り付けてみる。うまく再生できるか分からないが、試してみてください。(こちらをクリック⇒)