田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

AMOEBA 2024

2024-11-16 19:00:12 | その他
 一年ぶりの再会である。今回はメンバーが都合で減ってしまったが、集まった面々は元気にそれぞれの地で活躍していることを確認でき嬉しかった。まさにAMOEBA魂は健在である!

     
  ※ 幹事役のS氏が作成した案内・日程表です。今どきは手書きの方が味があります。

 AMOEBA…、まさにあの微生物のアメーバである。私が尊敬する故小田実氏がアメリカ留学の帰途、ヨーロッパ、アジアを巡り著した著書「何でも見てやろう」の中で、故国日本のことを「日本列島の運動は、アミーバ運動のごときものであろう(小田氏はアミーバと表記している)」と喝破した。そしてこう表現した。「アミーバはてんでばらばらにあちこちに偽足を出して動きながら、それでいて、ある一定の方向を指して動いて行く。日本の場合もまさにそれではないか」、「(日本)列島のなかにはいろんな動きが無数にあり、そいつがてんでんばらばらに列島を動かそうとしながら、全体として見ると、列島はやはり一つの方向をさして動いている。その方向とは『よい方向』であった」と…。刊行された時は1962(昭和37)年、実に62年前の小田実氏はこのように日本列島を見ていたのである。現在の日本は彼が喝破したような現実かどうかの判断は貴兄にお任せする。

      
      ※ 小田実著「何でも見てやろう」の表紙です。

 そのことは別として、1988(平成10)年に私は仲間と共に、教師としての資質向上を目指す自主サークルを結成した。その際に「サークル名をどうしよう?」ということになり、私は前述した小田氏の日本列島アミーバ論のことが頭の片隅にあり、仲間と切磋琢磨していく自主的な活動は、てんでばらばらな動きをするであろうが、総体としてはきっと教師として成長していく源になるはずである、との思いから「サークルAMOEBA」と命名することを提案し、仲間から賛同を得て付けたサークル名である。
 サークルは私の所属校の教師だけではなく、近隣の学校の教師も加え10数名の仲間で月に2回の会合を持ちながら続けた自主サークルだった。
 それから数年後、サークルに集った教師たちは、教師の宿命でもある転勤などによってバラバラとなってしまったのだが、同じ勤務校にいた気の合った5人が「また、あの日に還りたいね!」と話し合い、年に一度再会の機会を作ってきた。その始まりが2000(平成14)年だった。以来、コロナ禍のために3年間の休止を挟んで、その集まりは営々と続いているのだ。
 そして今年の会が昨日と今日の2日間にわたって札幌を会場として実施したのだが、 今回は残念ながら体調不良の者が2人も出てしまい欠席となり、3人でのちょっと寂しい開催となった。
 開催内容は仲間の中で最年少(といっても65歳)のS氏が幹事役となって、次のような日程で行われた。
〈一日目 11/15〉
 ◇13:00~15:00くらい  裁判傍聴(札幌地方裁判所)
 ◇15:00~16:30     ミーティング(レポート検討) 市内喫茶店
 ◇17:00~19:00     ブレーンストーミング市内居酒屋
 ◇19:30~        都市型水族館AOAO見学(見学後解散)
〈二日目 11/16〉
 ◇ 7:00~7:30      北海道神宮参拝
 ◇ 7:30~8:30      モーニングサービスのある市内喫茶店で朝食(食事後解散)
という日程だった。
 最初の「裁判傍聴」は、参加する他の2人が道東地方在住ということもあり、実際の裁判を傍聴することを提案したのだが、実際の刑事裁判を傍聴し、私も含めてだが非常な緊張感の中での傍聴は非常に刺激になったようだった。目の前に手錠をされ、腰縄で繋がれた被告が登場し、某氏は「TVドラマなどとは全く違った緊張感を覚えた」と語っていたが、得難い体験をすることができた。
 続いての「ミーティング」はAMOEBA会の最大の特徴なのだが、それは各人がこの一年間の様子をレポート用紙にまとめて発表する形式を取っている。
 退職後に5人の中で最も恵まれた境遇にあるのは68歳になったN氏ではないだろうか?
 N氏は現在、道東の某私立大学の嘱託教授という肩書でフルタイムで勤務している。経験を活かし、学生に教職免許取得の指導をしているという。タイミングにも恵まれたようだが、小学校教諭だったものが嘱託とはいえ大学の教授職に就いているのは素晴らしい。日々、学生への指導方法の改善に励む日々だという。N氏の生き生きとした表情が印象的だった。
 一方、今回の幹事役を務めたS氏は校長経験者としては極めて異例なスーパーマーケットの夜間店舗管理という任務に就き、週4日、一日6時間勤務の生活を送っているとのことだ。この全く畑違いの仕事がS氏は「楽しい!」という。夜間勤務ということでスーパーの生鮮野菜をできるだけ残さないように時刻や売り上げ状況を見ながら、商品の値引きする権限が与えられているそうだ。そのタイミングを見計らう緊張感がたまらないという。また、消費者との何気ない会話からさまざまな情報を得ることも楽しいと話していた。
 また、勤務以外では現役時代には聞かなかった写真撮影を最上の趣味としているという。目標は「都市景観フォトコンテスト」に入賞することだと話され、氏の写した写真を数枚見せていただいた。専門的なことは分からないが、かなり良い線をいっているように思えた。

    
    ※ 市内某喫茶店でミーティングを終えた三人で記念の一枚をパチリと…。

 そして私である。私は「変わらぬ私…、変わっていく私…」と題して、今年の一年の動きを報告した。「変わらぬ私…」の部分は、日々拙ブログで投稿している通りである。
 「変わっていく私…」の方は、50年以上にわたって慣れ親しんできた自家用車を手放してしまったこと。15年にわたって続けてきた清掃ボランティアに終止符を打ったこと。そして、 今年の後半になると「さっぽろラウンドウォーク」や「JRウォーキング」に参加した後、なかなか疲労が抜けなくなったことだ。身体の老化を否応なく感じるようになってきた。こうした状況の中でこれからは今までの生き方に多少の改変が必要になってくるのではと予感しているのだが…。
 リード文に「AMOEBA魂は健在である!」と表現したが、それぞれが与えられた環境の中で、現職時代同様に精一杯生きていることをお互い確認できたミーティングだった。
 その後の「ブレーンストーミング」は、お酒を介しての遠慮のない楽しい会話に終始した。気のおけない旧友たちとのブレストは何にもまして楽しいひと時だった。
 そして一日目の最後は、幹事役のS氏の希望で「都市型水族館AOAO」を訪れた。既存の水族館との違い・魅力を初めて訪れた二人はどう感じたろうか?
二日目はN氏の希望で早朝7時に「北海道神宮」を訪れた。朝早いにもかかわらず多くの市民が訪れていたのには正直驚いた。冷気に包まれた早朝の参拝は心を洗われた思いだった。

    
    ※ 早朝の冷気の中、気持ちがピリッと引き締まりました。

 そして最後はモーニングサービスを実施している喫茶店で朝食を三人で摂った。
 以上がAMOEBA2024の全てである。
 最高齢の私としては、日々健康に留意して過ごし、来年もまたぜひとも再会できるようにしたいと誓い散会した。

あゝ、懐かしきキハ40

2024-10-22 10:38:57 | その他
 え――――っ!こんなところで再会できるの!?あの朱色とクリーム色のツートンカラーのキハ40型気動車。私の高校時代3年間、列車通学でお世話になったキハ40型気動車。私はキハ40に乗車中、高校時代にタイムスリップしていた…。

    
    ※ こちらに「キハ40」はウェブ上に掲載されていた写真です。

 その懐かしき「キハ40型気動車」に再会できたのは、過日JRウォーキングで富良野に向かった「根室本線」乗車した時だった。滝川駅から富良野に向かう列車が「キハ40型気動車」だったのだ!
 あの特色ある車体を彩る朱色とクリーム色のツートンカラー、そして車内はダークブルーの座席、それは私が高校時代に通学時に利用した気動車そのままだった…。

    
    ※ 富良野駅に到着した「キハ40型気動車」です。

 私の高校時代は、遥か昔に遡る1961(昭和36)年4月から、1965(昭和40)年3月までである。当時私は道東の小さな町である津別町の北見相生という集落に住んでいた。
 高校は、当時北海道は小学区制だったため高校は町の唯一の高校「津別高校」に入学することが必然だった。「津別高校」は私が住んでいた北見相生から列車で30分ほど離れたところにあった。
 そこで通学には、当時周辺町村の中核町村であった美幌町から北見相生までに敷設されていた国鉄「相生線」を利用して「津別高校」に通学していた。その時走っていたのが「キハ40気動車」だったのだ。
 だから私にとって「キハ40気動車」は私の青春と共にあった列車だったといっても過言ではない。「キハ40気動車」での30分間は友人たちとの絶好のおしゃべりタイムだった。今のようにスマホがあるわけでない。かといって教科書を繰るほど勉強熱心でもなかった。それでも定期テストの前くらいは教科書を開いていた時もあったかなぁ…。

   
   ※ キハ40の社内です。当時とまったく同じでした。

 時には、寝坊をして朝食も摂れずに「キハ40気動車」に駆け込み、気動車内で弁当をかっ込んだ時もあった。
 「キハ40気動車」で忘れえぬ思い出は、1962(昭和3)年6月に十勝岳が大噴火をしたときだった。噴煙は道東一体に降り注ぎ、空は朝からどんよりと曇っていた。気動車は外気を車内に取り入れる方式だったらしい。車内は噴煙で真っ白になってしまったことを記憶している。
 「相生線」は当時の国鉄にとっても枝線の枝線で、当時から赤字路線だったのだろう。国鉄がJRに代わる前の1985(昭和60)年にいち早く廃線となってしまった。
 私は今夏、その「相生線」の終着駅「北見相生駅」に立ち寄ってみた。当時の駅舎が今なお保存されていたのを懐かしく、思い出深く眺めたのだった…。
 そんな思い出いっぱいの「キハ40気動車」に思わぬ形で再会できた奇跡(?)をブログに記さずにはいられなかった…。

    
    ※ 帰路、滝川駅に到着した「キハ40」のヘッド(運転席)です。

 なお、古き「キハ40気動車」がいまだに現役で走っていることは、撮り鉄のファンにとっても貴重な存在のようだ。沿線には何人もの撮り鉄ファンがカメラを抱えて「キハ40気動車」が通過するチャンスを狙っていたのが印象的だった…。

Good-Bye フォルクスワーゲン(VW)

2024-09-02 16:59:22 | その他
 大袈裟に表現すれば、本日は私の人生において超弩級の決断をした日となった。というのも50年以上にわたって付き合ってきたフォルクスワーゲン車と分かれる決断をした。ということは、車生活にお別れするということだ。苦渋の決断であるが、高齢者の人身事故が多発していることから、敢えて決断した。

 最初に私のクルマ遍歴を辿ってみたい。まず就職と同時に叔母が使用していたTOYOTAの「ガッツパブリカ」を譲り受けたのが始まりである。
 その後、三菱の「ギャランFTO」、続いてTOYOTAの「ライトエース」と乗り継いだ。しかし私の憧れはフォルクスワーゲンだった。
 というのも、私が学生時代にヨーロッパ・アジアを一年間にわたって彷徨した時に、フォルクスワーゲンの本社があるドイツのブォルフスブルグ市(Wolfsburg)の街に偶然に立ち寄ったことがあった。“偶然” と記したが、私はヨーロッパ内をヒッチハイクで巡っていた。その際にブォルフスブルグ市を通過した際に、あの “VW” のマークを掲げたフォルクスワーゲンの本社工場が目に入った。そこで私は車を降ろしてもらい、本社を訪れたところ幸いにも工場見学を許されて、広大な工場の見学者通路(その長さは軽く1キロを超えていた)を歩いて見学した体験があり、それ以来私の中でフォルクスワーゲンは私にとって特別な車となったのだった。

     
※ ブォルフスブルグ市の本社工場です。(当時の写真ではありませんがイメージは同じです)

 そうした中で、教員風情で外車を所有することに対する躊躇があったのだが、時代は教員の中でも外車に乗っている人が珍しくなってきたことから、35歳の時についにフォルクスワーゲンの代表車種の一つ「ゴルフ」を購入するに至った。真っ赤な車体のゴルフジーゼルを駆って私は北海道のいたるところを旅してまわった。それからはフォルクスワーゲン車オンリーで今日まで乗り継いできた。

       
       ※ ゴルフ

 その遍歴は、「ゴルフ(GOLF)」」⇒「サンタナ(SANTANA)」⇒「ヴェント(VENTO)」⇒「パサート(PASSAT)」⇒「ツーロン(TOURAN)と乗り継いできた。それぞれに思い出があるが、その中、「サンタナ」という車は日産自動車がフォルクスワーゲンから製造認可を取り付けて生産したという、いわば “珍車” ともいわれた車でもあった。

      
     
      ※ サンタナ
       
       ※ ヴェント

       
       ※ パサート  
※ ここまでの写真はいずれも私が撮り貯めた写真ではありません。いずれもウェブ上から、車体の色も含めて当時のイメージを彷彿とさせる写真を拝借しました。        

 いずれも新車を購入して乗り継いできたのだが、唯一最後の「ツーロン」だけは中古車だった。というのも、「パサート」を購入してから10数年が過ぎていたころ、今は故人となってしまった登山愛好家であり、歩き旅の達人でもあった函館在住の坂口一弘氏と知己となり、坂口氏が車中泊の達人でもあったことから、車中泊に憧れを持つようになり、息子が「父さん、ツーロンという車が車中泊には適しているようだよ」と言って格好の中古車を紹介してくれたことで、その車の購入を決めたのだった。以来、私は年間に10数泊の車中泊の旅を楽しみ、2度の本州旅行を楽しんだ車である。いわば私のクルマ遍歴の最後を飾るに相応しい車だったのかもしれない。

      
      ※ こちらの「ツーロン」は今朝私がお別れ前に撮った写真です。
      

 それとは違って思い出深い車はやはり最初に購入した「ゴルフ」である。ジーゼルエンジンということで多少エンジン音が気になったが、燃費も良く、快調に走ってくれた。当時はまだ若かったこともあり道内のあちらこちらとずいぶん走り回ったが、頑丈な「ゴルフ」は実に30万kmを超えて走り、とうと乗り潰してしまった車である。
 日本車を含め、思い返してみると私のクルマ遍歴は55年間にもなっていた。現在、車を駆使している方も同様と思うが、車無しの生活など考えられない生活を続けてきた私である。その生活を、本日をもって断ち切ることにしたのは、まさに私にとっては超弩級の決断だった。

      
     ※ 長年、私の運転時のお尻を保護してくれたVWマークのマットです。

 幸い札幌において市内を移動するには公共交通機関が発達していることからもそう不便は感じないかもしれないが、郊外のイベントや行事に参加すること、あるいは近郊でスキーを楽しむこと、さらに北海道内に出かけることも制限されることになる。
 どのように私の生活が変化するのか計り知れないが、これからの日々、車のない生活でも人生を楽しむ工夫を凝らしていきたいと思っている。
 ともかく今日までの車生活を大過なく過ごしてGood-Byeできたことを是として車生活におさらばしたい。

愛は地球を救う テーマソング「サライ」

2024-09-01 18:34:32 | その他
 ベタとか、やらせだとか、いろいろと揶揄されながらも24時間テレビ「愛は地球を救う」は47年間も続いて、今日も24時間の生放送が続いている。そのテーマソング「サライ」は番組をシンボルともなっているが、私も大好きな歌である。

 テレビ局が24時間もの長時間にわたって一つのテーマで放送を続ける「愛は地球を救う」は、ある意味で国民的なテレビ番組の一つとなっているとも云える。それだけにその評価については姦しい声も飛び交っているが、47年間も継続してきたということ自体が多くの視聴者から支持されているということなのだと思う。そういう意味ではキー局の日本テレビの揺るがぬ姿勢に敬意を表したいとも思う。
 私自身はそれほど熱心にこの番組を視聴してきたわけではないが、健常者だけではなく、障害者や、被災者、難病患者などの実状を伝えることによって、チャリティーを呼び掛けるコンセプトには共鳴できるところがあると見ていた。

   

 その番組を通して流れるメロディー「サライ」の曲がなんとも私たちの心を打つ。この曲は、この番組の第15回目だった1992年に番組中に加山雄三と谷村新司によって生まれた曲だという。
 曲のテーマは「心のふるさと」なのだが、曲名として「サライ」としたのは、ペルシア語が由来で直訳では「宿(または家)」という意味で、「砂漠の中のオアシス」という意味が込められているそうだ。そこでテーマの「心のふるさと」に近いことから「サライ」という曲名になったということである。

   

 遠い夢 捨てきれずに 故郷を捨てた……

 このメロディーが流れると、胸がキューンと締め付けられる思いがする。
 この曲の出だしは、スローテンポで、低音のために私たちでも歌いやすいので、私のカラオケでの十八番になっている。(もっとも最近はカラオケからも遠ざかっているが…)
 今日の24時間テレビで、昼近くにこの曲の作詞者で、毎回のように番組最終盤で歌っていた谷村新司さんが亡くなったことを偲び、彼の懐かしビデオと共に流された。
 その曲の終末

  サクラ吹雪の サライの空へ いつか帰る いつか帰る きっと帰るから… 

をいつかまた心の底から歌って、谷村新司を偲び、24時間テレビ「愛は地球を救う」を応援したい。

        

 今夜も24時間マラソンに挑戦した “やすこ” がこの曲に背中を押されながらゴールする瞬間を見届けたい。

ご冥福をお祈りします 高石ともやさんの訃報に接して…

2024-08-19 15:50:17 | その他
 本日のYahooニュースで高石ともやさんが膵がんで亡くなられたことを知った。享年82歳だったという。高石ともやさんは、私にとって唯一ファンとシンガーという垣根をちょっとだけ越えて微かにではあるが交友させていただいた方である。高石さんのご冥福をお祈りしながら、高石さんとの思い出の日々を振り返ってみたい。
 
 私と高石の最初の出会いは、私が大学2年生の時に彼がギター一本で広い体育館のステージでワンマンライブを行ったのを聴いたのが初めてだった。その時私が20歳だから、彼は25歳、デビュー間もない時期だったと思われる。途中休憩も取らずに2時間歌い切ったことを鮮明に記憶している。
 そして私は道東地方(網走管内、現在はオホーツク管内と称している)の一教師として勤務していた。当時の網走管内には高石ともやファンが多数いたようだ。津別町、置戸町、生田原町…。高石ともやは彼らの要望を受け、網走管内にしばしば訪れていた。私はその度に駆け付け、彼の歌に耳を傾け、いわゆる彼が歌う元祖フォークソングの魅力を感じていた。そして「いつかは私も彼のステージを招いてみたい…」との夢を育んでいた。
 やがて夢は、私が社会教育主事という職務で東藻琴村(現在は大空町)教育委員会に派遣されたときに実現することになった。村の青年たちと交友を続けていた私は、彼たちに私の夢を語った。すると青年たちは高石ともやの存在を誰一人知らなかったが「やりましょう!」と賛成してくれたのだ。彼らの応援を受け、人口2,900人の村で600人を「高石ともやとナターシャセブンコンサート」(コンサートのテーマ「光と風とナターシャと」)に集めることができ大成功を収めた。(1982年)

     

 コンサート後の打ち上げでステージを務めたメンバーと実行委員会の人たちとで痛飲したのも懐かしい思い出である。 

       
       ※ 打ち上げの席で高石さんに書いていただきました。

 コンサートは私の仕事として取り組んだのではなく、あくまで余暇を利用しての活動だったが、翌年には私自身の仕事(社会教育主事)の一環として高石ともやを村民大学の講師として招請し、「自然と歌と子育てと」というテーマで村民にお話してもらったが、彼の子どもは肢体不自由児なのだが、奥さんと協力して明るく育てていることを率直に語ってくれたことも嬉しかった。(1983年)
 そして私は再び教師に戻り、網走市の能取小学校という学校に勤務していた。その時高石ともやはサロマ湖100キロマラソンに参加し、その足で札幌まで走り通すという「ワイルドラン」に取り組むことを知った。

   
 能取小学校はそのコースの途上にあったので、私は子どもたちに彼の持ち歌「私の子どもたちへ」(高木透 作詞・作曲)を教えて、彼が通る時にその歌を全校合唱して彼の挑戦を声援したのだ。彼の動静を伝える民放の番組がテーマソングのように子どもたちの歌声を流してくれたのも懐かしい思い出である。
    
その時は北海道新聞社から「高石ともや 走った!笑った!歌った!」という記録集を発刊したが、その中で合唱している写真や子どもたちの作文がたくさん掲載された。(1994年)

    

 また、その翌年、彼が網走市でちょっと小規模のコンサートを開催した時に、客席にいる私を見つけて「来い、来い」と手招きして私をステージ上に上げて一緒に「私の子どもたちへ」を一緒に歌わせてもらったのも楽しい思い出である。(1995年)
 彼はまた市民ランナーとしても有名で、網走管内を訪れた時には田舎の駅伝マラソンに参加したり、全国各地のマラソン大会に参加したりしていたことは有名である。私もその影響を受け(?)、職場で駅伝チームを作って地域の駅伝大会に参加したり、僅か一度だけであるが1985年に山梨県河口湖で開催された「河口湖日刊スポーツマラソン」に参加したのも高石さんの影響を受けた結果だと思っている。

      
   ※ 39歳の時の初マラソン、4時間をわずかに切ったタイムが密かな自慢です。

 また彼の創った歌で「街」という曲がある。内容は京都の街の情景を歌った曲であるが、私はそれを勤務したオホーツク海に近い街の情景に置き換えた歌を作詞し、教室で子どもたちと歌っていた。するとそれがどこかに伝わり、NHK・TVの地域番組において歌わされたというとんでもない体験もさせていただいた。その一節を紹介すると…、

  白鳥の舞 凍てつく海 吹き渡る風の音
  キタキツネの親子 白い野原に遊ぶ
  この街が好きさ 君がいるから
  この街が好きさ 君のほほえみあるから…
 
 「この街…」以下は、高石ともやさんが創ったフレーズをそのまま使わせてもらった。
 さて、その後私が札幌に転居してからだが、JR札幌駅コンコースにおいての「5時間歌マラソン」に5時間付き合ったり、彼が札幌を訪れた時は欠かさず彼のコンサートに足を運んだりしていた。
 彼のステージの最後は昨年4月29日に市民交流プラザ・クリエイティブスタジオにおいて札幌音鑑の4月例会で聴いたのが最後となった。
 振り返ってみると半世紀にわたって高石さんを追い続け、私に大きな影響を与えくれた高石ともやさんに心から感謝し、ご冥福をお祈りしたいと思う。


「まなびカフェ」 in 北見(第2講)

2024-08-08 15:38:39 | その他
 昨日、道民カレッジ「まなびカフェ」 in 北見の2度目の講座を担当した。今回は受講者に「俳句づくり」挑戦していただいた。参加された皆さんは、それぞれ傑作をものにしてくれた。私はそれらを句集としてまとめることを約束した。

 昨日(8月12日)、午前中に北見に移動し、午後から道民カレッジ「まなびカフェ」で受講者と過ごし、北見市に宿泊後、本日午後帰宅した。
 北見市での講座は7月12日に続いて今回が2度目だった。事務局と相談し、今回は受講者の皆さんに「俳句づくり」に挑戦してもらうことにした。

    
    ※ 「まなびカフェ」の会場の北見市芸術文化ホールの建物です。

 私は早速指導案を作成し、それをもとに受講者が講義内容を理解しやすいようにパワーポイントを作成し、講座に臨んだ。
 講座の流れは次のとおりである。まず「俳句づくり」の参考書に出ていた次の文章を紹介し、俳句を創ろうとする意欲を促した。その文章とは…、

 みなさんが、春の野に行ったとします。スミレが咲き、チョウが飛び、ヒバリが空高くさえずっています。地面のあちこちに、ゆらゆらと、かげろうがもえています。
 「あゝ、素晴らしい景色だなぁ…」
 こんなとき、絵のうまい人は、この景色を絵に描くことでしょう。写真のうまい人は、写真に撮るかもしれません。文章のうまい人は作文、詩のうまい人は詩に書くことでしょう。
 でも、もし五・七・五の短い詩…俳句の作り方を知っていれば、その景色を、そくざに俳句にして詠むことができます。俳句づくりに挑戦してみましょう!

 そして俳句づくりのお約束は、五・七・五の十七文字で表すことと、季語を必ず入れることを伝えました。
 続いて日本語は五音と七音は耳に心地良く、リズム感が生まれる語数であること確認し、季語は難しく考えるのではなく、「季節」を表す言葉くらいに考えればよいことを伝えた。
 その後、私自身の作句例を紹介した。まず夏の情景を思い浮かべる言葉を思いつくままに書きだします。それらの言葉をもとに自分が思い浮かべた夏の情景を五・七・五の俳句の形式に整えることで俳句ができることを伝えた。恥ずかしながら、私の作句例を紹介すると…、
 孫たちが 駆ける我が庭 夏休み (清風) ←私の俳号のつもりです。
 実は、我が家はマンション住まいで庭はない。ないことねだりの句なのだが、我がマンションの前にある公園を「我が庭」と仮定し、そこを駆け回る孫たちの様子を詠ったものである。
 同じような手法で受講者たちにも俳句づくりに挑んでもらった。すると皆さん次々と夏の情景を思い浮かべる言葉を書き出してくれた。すると、肝心の俳句づくりもそれほど苦労することなく、2句、3句と俳句を創ってくれた。
 私は受講者が創った俳句の中から、受講者の自信作を尋ねてそれを板書した。板書したことでさらに意欲が増したようで、その後も次々と俳句を産み出してくれた。
 最後に「俳号(俳名)」を考えるとさらに俳句づくりが楽しくなることを伝え、それぞれが俳号を考えてくれた。
 私が予想していたより俳句づくりも、俳号を考えてくれることも積極的に取り組んでくれたことが嬉しくなり、私は次回(私の担当は今回で終わりなのだが…)の講座までに「句集」を作成して、次回担当者に託することをお約束して講座を終えた。

   
  ※ 写真の講師は私ではなく、もうお一人社会科を担当した講師の講座の様子です。

 意欲的な受講生を前にして、講座を担当することの喜びを感じながら別の街で講座を担当することを心待ちにし始めた私である。

道民カレッジ「まなびカフェ」顛末記

2024-08-02 15:41:44 | その他
 人を前にして “授業をする” をするのは何年ぶりだろうか? この度、北見市と帯広市に出向いて2時間の授業をさせていただいた。しかも対象は子どもではなく、大の大人である。緊張しながら務めを果たさせていただいた。    
    
       

 すでに拙ブログでレポしたように7月17日に北見市で、昨日帯広市で道民カレッジの「まなびカフェ」の講師を務めさせていただいた。
 「まなびカフェ」のねらいについて詳細を紹介するのはいろいろ支障があるようなので、募集リーフレットの文言を転写すると「道民カレッジでは気軽に行けて、暮らしが少し便利になる学びがあって、学び方は一人ひとりのペースを大切にされる誰かや何かに出会えるかもしれない。そんな、あたたかみのあるカフェのような学びのスペースをあなたのまちで開催します!」と謳って開催されたものである。

  
    
    ※ 今回の「まなびカフェ」の会場となった「とかちプラザ」です。

 そして「学ぶ内容は小学校~中学校の範囲です」となっている。教科としては、国語・算数・社会の3教科が取り上げられ、3人のスタッフで対応することとなった。私はその中の国語を担当することを依頼された。
 私が担当するのは各所で2時間ずつである。受講生のことがほとんど分からぬ中で、指導内容を検討することが大変だったが、道民カレッジのスタッフと相談のうえで、①「図書館へ行きましょう!」と②「俳句を作ってみましょう!」の二つの指導案を作成することにした。
 今回、その中で「図書館へ行きましょう!」をテーマとした授業を行った。このテーマを設定したのは、私が知り合いなどに取材したところ、意外に図書館へ行ったことがない人、あるいは図書を借りたことのない人が多かったことがあったのだが…。

    
    ※ 8名の受講生を前に講義をする私です。

 しかし、結果として今回受講された方々は、こうした学びの催しに参加しようという意欲のある方々だったために、ほとんどの受講生は図書館を訪れたり、図書を借りたりした体験のある方々だった。そこで私は急遽、その予定を変更して「図書館を利用した目的や体験談」をお話していただき、交流を図ることにした。皆さんそれぞれ積極的に体験談をお話いただき、お互いの交流ができたかなと振り返っている。
 そして最後には私の図書館を利用した体験談、あるいは図書の借り出し方法をお話させていただき、最後に「友人や知り合いの方々に、図書館を利用することをお勧めください」とお話し、講座を締めた。
 今回の帯広市の講座では、この後に私が思ってもいなかったサプライズが用意されていた。それは道民カレッジのスタッフが、私の講義内容をその場で模造紙に逐一、絵や図形、文字などを用いて記録していたのだ。これは「グラフィックレコーディング」という手法だそうだ。スタッフは私の授業後、私の授業内容を効率的に振り返ってくれたのだ。この手法は講義の要点や結論が可視化されるので、文章のみの情報より分かりやすく、印象に残りやすいと最近注目されている手法だそうだ。

    
    ※ 私の講義の内容を可視化してくれたグラフィックレコ―ディングの図です。

 私の講義が思わぬ形で、受講者の方々により刻まれることになったとすれば望外の悦びである。
 次回、「俳句を作ってみましょう!」も、しっかり準備をして受講者の皆さんに喜んでいただける内容にするべく準備をしたい。

道民カレッジ「まなびカフェ」 in 帯広

2024-08-01 23:13:50 | その他
 過日の北見に続いて、本日は帯広において「まなびカフェ」の講師を務めてきた。僅か45分間の授業だったが、8名の受講生と有意義な時間を過ごすことができ、身体は疲れたが充実した思いで帰宅することができた。

    
    ※ 授業をする様子を担当者に撮ってもらいました。

 本日朝、7時15分に家を発って、先ほど20時45分に家に帰り着いた。
 7月17日に北見市で講師を務めたのに続いて、本日2度目の講師を帯広市で行ってきた。
 内容的には北見市と同じ内容だったが、2度目とあって少しは落ち着いてできたかな?と振り返っている。とはいっても、本日ここで詳しく振り返るには身体が疲れすぎている。
明日、その詳細について振り返ることができればと思っている。
とりあえず今はホッとして眠りに就こうと思う。

似顔絵

2024-07-30 16:10:44 | その他
 う~ん。モデルとなった私としては「なかなか特徴を捉えているかなぁ…」と納得せざるを得ないかなぁ…。さあっ、さーっと、描いた孫娘の似顔絵だったが、彼女のリクエストに応えて拙ブログに掲載することにした。

    

 昨日、久しぶりに我が家で息子と一献傾けることにした。その際、夏休みに入った孫娘二人も同席した。
 近況を語り合いながら、それぞれ食事を楽しみ、一息ついたところで下の孫娘(小学生)がどこから持ち出したのか、スケッチブックを片手に私の横に座った。
 するとペンを片手に私をスケッチし始めたではないか!孫娘が画を描くのが得意などとは聞いていなかった。ただ、我が家に来たときには何やら漫画チックな画を描いていたような気がしてはいたが…。
 それほど時間もかけずにさあっ、さーっと描いた私の似顔絵はなんとも私の特徴を良く捉えているようにも思えた。私は敢えて感想は伝えなかったが…。
 ところが孫娘は自分が描いた似顔絵に自信を持っているようだった。
 「じいちゃんのブログにぜひ載せてほしい」と要請してきたのだ。彼女はどうやら私のブログに時折りアクセスしているらしい。これは爺ちゃんとして彼女のリクエストに応えねばならないかな?ということで本日の投稿は孫娘が描いた私の似顔絵を投稿することにした次第である。〇〇、爺ちゃんは約束を果たしたよ!
 何でもありの拙ブログの面目躍如の本日の投稿である。

北海道初!公立夜間中学校「星友館中学校」訪問

2024-07-13 08:31:10 | その他
 北海道内に中学校未卒者が58,000人余りもいらっしゃるとは!?自分の不明を恥じるばかりだった。関係者の長年の願いが叶って、一昨年(2022年)北海道で初めての公立夜間中学校「星友館中学校」が開校されたが、この度同校を訪問する機会を得た。

    
    ※ 星友館中学校の入学案内パンフレットです。

 7月11日(木)の夕刻、市立資生館小学校内に併設する形で開校した札幌市立の夜間中学校「星友館中学校」を訪問・見学した。
 この催しは、私が所属する退職組織が年1回催す研修会の研修先として、今年は「星友館中学校」が対象となったために訪問することができたのだ。
 研修会は学校長による学校の概要説明と、実際に1時限目の授業の様子を参観する形で実施された。

   
   ※ 学校長の説明を聞く、退職組織の会員の方々です。

 私は以前に「遠友塾 自主夜間中学」も訪問した体験があった。しかし、学校長のお話を伺うと、「遠友塾」とは似て非なるものであることが分かった。
 公立夜間中学校とは、学校教育法で定める昼間の中学校と同じ中学校であるという点である。「遠友塾」の方は、民間の方々によって生徒の実状などに応じ、様々な形で授業を実施しているのとは基本的に違うことを知らされた。(例えば「遠友塾」は週1回の登校だが、公立中学校は毎日週5日登校するというように…)
 ただ生徒の実態は実に様々、多岐にわたるため教科指導は生徒の実態に沿って習熟度別に学年の壁を崩し、たくさんのコースを用意しているという。ちなみに星友館中学校では7コースが設けられていた。学年別・学級別に実施するのは「道徳・学活・総合」などだけだそうである。
 時程は17時30分までに登校し、40分授業で毎日4コマの授業がある。その間、給食時間もある。下校は4時間を終えた21時になるとのことだ。
 現在、星友館中学校には7月現在で113名が在籍していて、10代から80代までの生徒が通学しているという。このうち101名が札幌市内から、12名が札幌市外から通学しているとのことだが、市外の方は札幌市と覚書を交わした近郊の12市町村の方が通学可能となっているとのことだった。
 教職員も正規の教員などが校長、教頭をはじめ17名(養護教諭、事務職員を含む)が配置され、さらには時間講師7名、そして生徒の学習をサポートするボランティアが40名登録されているなど手厚く生徒たちの学習を支えている。
 学校長の丁寧な説明を聴いた後、17時30分から始まった1時限の授業の様子を実際に見て回った。校舎として併用している資生館小学校はとても余裕ある造りをしているため、中学校の教室は小学校とは別の教室に大人用の大きな机が用意されて授業を受けていた。
 授業は前記したようにコース別に授業が展開されていたが、そのレベルは様々だったが、生徒たちは老若男女が机を並べ、ほとんどの生徒たちは真剣に学んでいた。

    
    ※ 資生館小学校の前には「星友館中学校」の校名も加えられていました。

 素晴らしいなぁ、と思えたのは先生たちが教材研究をしっかりされて授業に臨んでいること伺えたことだ。学校全体が学校長を始めとして全体で新しい学校づくり取り組んでいることが窺えたことは嬉しかった。
 さまざまな事情で中学年代に学校に通えることができなかった中年、老年の方。そして、形式的には中学卒業はしたもののほとんど学校に通えなかった10~20代の若者。そうした方々が一人でも多く「星友館中学校」で学び、学ぶ楽しさを体得して中学校を巣立ってほしいと願いたい。