稚内の対ロシアとの輸出入額、出入国数は21世紀に入り激減しているという。その理由は何か、そして稚内がかつてのようにサハリンとの間の行き来が盛んになるのか。はたして宗谷(稚内)はゲートウェイとして生き残る道はあるのか?研究者の話を聞いた。
少し長いタイトル名となったが、北大スラブ研公開講座の第6講が5月26日(金)夜、開講された。
この回のテーマは、
「『川の向こう岸』と「海外」:ボーダーとしての宗谷海峡」と題して、山形大学准教授の
天野尚樹氏が講師を務めた。
※ 講師を務めた天野尚樹氏です。氏は山形に赴任前、数年間札幌に在住していたそうです。
まずテーマの意味するところについて、戦前樺太南部(北緯50度以南)が日本領であった時代、日本人が約40万人も居住していた。その当時、北海道と樺太の間にある宗谷海峡は、海峡とは呼ばず“川”と称していたという。対して戦後はロシア領となり、樺太は純粋(?)に“海外”と称されるようになった。
そうした環境の変化も考慮しながら稚内の在り方を考えよう、というのが講義の趣旨だと理解した。
戦前は当然のように稚内港を窓口として樺太との間には頻繁に行き来があった。(稚泊連絡船「宗谷丸」<定員754人>が一日一往復していたという)
戦後は、日本人が引き揚げてからはその行き来が閉ざされていたものの、日本の経済が復興したことにより、経済発展の遅れたロシア(サハリン=樺太)は日本の工業製品(中古車や電化製品)を輸入するため、対してロシア側からは海産物(特にカニなど)を日本に輸出するため、稚内を窓口として物流や人の行き来が盛んになっていた。しかし、最近その動きが激減し、稚内の存在価値も下落し続けている現状だという。
その原因はロシアの経済が好況を呈し、人々の暮らしも良くなってきて日本の中古の製品の需要が減ってきたこと。また、日本においては海産物の輸入に対する規制が厳しくなってきたことなどが挙げられる。
※ 平成28年から稚内~コルサコフ間に夏期間だけ就航することになった「ペンギン号」です。(定員は80人程度のようです)
日本側(北海道)としては、サハリンとの交流の再興を期して「サハリン北海道センター」などを建設し、民間の参入を推進しているが、実際にはサハリン島全体の人口がおよそ50万人弱と、マーケットとしての魅力が小さいために思うようにはいっていない実態がある。また、サハリンの人々の関心も日本よりは中国、タイ、ヴェトナムなどに向けられることが顕著となり、それら諸国への旅行者が増えているという。
こうした中、稚内はこのまま沈んでいくのか、生き残る道はあるのか?天野氏はそう問いかけ、氏自身の処方箋を示した。それは…。
稚内からボーダーを越えてサハリンへ行きたくなるには、①適度な異国情緒が必要だという。つまりは稚内を異国情緒漂うような街にしていくべきだという。さらには②高すぎないボーダーが必要だという。それは、交通手段だったり、ビザ制度の簡略化だったりを指すのだろう。そして、稚内の街の「サハリン化」を進めるべきだと…。稚内に行くと、いかにもサハリンが近づいたように感ずる仕掛けが必要ということか?
聞いていた私には、どれも決定打には欠けていそうに思えたのだが、果たして稚内がゲートウェイとして、過去のように再び脚光を浴びる日が来るのだろうか?
※ 「北海道を歩こう 真駒内~支笏湖33キロ」ですっかり自信を回復した。現在、筋肉痛は残るものの、膝の方は今のところまったく問題がない。よって、以前から参加を申し込んでいた函館の森誘クラブが主催する「蝦夷松山」登山(5月31日開催)に参加するため、午後から函館に走ることにした。せっかくの函館行きなので、体調さえ問題なければ、その後2~3の山を登ってきたいと思っている。
そのためいつもより早く、午前中に投稿することにしました。