田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ヘルシーウォーキング㊲ in常盤・神楽岡公園と文学にふれる旭川ウォーク

2024-06-30 16:53:34 | JRヘルシーウォーキング
 昨日(6月29日)、旭川の気温は30℃に達したそうだ。確かに暑かったが、旭川市内の魅力あるコースは暑さを忘れさせてくれるくらい素晴らしいコース設定を楽しみながらのウォーキングとなった。

    

 昨日、JRヘルシーウォーキングの「イベントウォーク」で旭川市を、「いつでもウォーク」で深川市を巡るべく、遠路旭川市まで遠征した。
 前日、さっぽろラウンドウォーク(セクション5)をこなしていただけに、脚に張りを感じていたが、今年はJRヘルシーウォーキングにも力を入れているので棄権することは考えていなかった。この歳で二足の草鞋を履くのはなかなかチャレンジングなことだと思いながら楽しんでいる。

    
    ※ スタートの旭川駅の正面(北口)はたくさんのバスが発車を待っていました。

 さて旭川コースだが、私は次の深川コースも予定に入れていたので、午前8時に旭川駅をスタートした。まずは早朝(?)の旭川市街を「平和通買物公園」の隣の道「緑橋通」を北上する。

    
    ※ 旭川市役所の第一庁舎(右側)と左側は市民文化会館の建物です。

 約1キロ北上し、旭川市役所のところから西に伸びる「7条通緑道」を往く。まずこの通りが素晴らしかった。樹々が繁り、いたるところに東屋やベンチが配されていた。さらには通りの角々には旭川に関係がある(?)彫刻家の作品が贅沢にいくつも陳列されていた。
    
    ※ 緑濃い「8条通緑道」です。
    
    ※ 「8条通緑道」には各所にこのような彫刻作品がたくさん展示されていました。    

 緑道の先には旭川市の街中の公園「常盤公園」が待っていた。公園の入口には軍都旭川開祖の立役者である永山武四郎の立像が建っていた。

    
    ※ 「常盤公園」の入口には「永山武四郎像」が建っていました。

 「常盤公園」は「千鳥ヶ池」を配し、「道立旭川美術館」が公園内に建ち、彫像などが配されていて、札幌の「中島公園」と似たような印象だった。

    
    ※ 常盤公園内の「千鳥ケ池」です。
    
    ※ 道立旭川美術館の入口です。

 「常盤公園」の後は、市街地を「緑橋通」と飯台に南下して「忠別川」沿いの「忠別橋公園」を目ざす。マップの案内には「旭川は川のまち」とも称されているという。マップを改めてみればそのとおりで、市内を「牛朱別川」「忠別川」「美瑛川」が街中を走り、それらの川が全て旭川郊外で「石狩川」に合流している。その中でも中心街を貫いているのが「忠別川」である。
 「忠別川公園」は整備が行き届いた公園とは言い難かったが、それでも公園の随所に彫刻作品が配された公園だった。

    
    ※ 「忠別川公園」もこうした彫刻作品が数点展示されていました。

 「忠別川」を渡って(クリスタル橋)、旭川駅の南側(裏側)に導かれた。その道路沿いには「大雪クリスタルホール」、「旭川博物館」、「旭川大雪アリーナ」、「神楽市民交流センター」といった文化、スポーツの公共施設が集中的にみられた。旭川駅からほど近いところにこうした施設が集中しているのは素晴らしいことである。

    
    ※ 手前に「大雪クリスタルホール」、奥は「大雪アリーナ」だと思われます。

 そしてコ―スはさらに「美瑛川」沿いの堤防に導かれた。「三浦綾子記念文学館」に導かれるルートである。文学館の付近には「外国樹種見本林」があり、さまざまな樹種が林立していた。

    
    ※ 美瑛川沿いに広がる「外国樹種見本林」です。
    
    ※  「三浦綾子記念文学館」のエントランスです。

 「三浦綾子記念文学館」を過ぎてからはちょっと退屈な市街地を歩くが、JR富良野線の跨線橋を超えたところから「ロマンチック街道」などとロマンチック(?)な名称を付けた道路が続いていた。道路の両側には成長したプラタナスの見事な並木道が続いていた。

    
    ※ 「ロマンチック街道」と称されるプラタナス並木です。

 その後に導かれたのが、歩き終えた後に「この日のハイライトだったなぁ」と思われた「神楽岡公園」に導かれた。広大で野趣に富んだ「神楽岡公園」を縦断するようにコースが設計されていたが、公園としての各種施設も充実していたようだが、何より起伏に富んだ丘陵地に野趣豊かな大木が繁っている様が素晴らしかった。

    
    ※ 「神楽岡公園」内の遊歩道です。

 コースの最後は旭川駅近くの「忠別川」沿いに広がる「あさひかわ北彩都ガーデン」である。旭川市が「北彩都」と自称してからそれほど年月が経っていないと記憶していたので調べてみると、このガーデンは2015(平成27)年に開園した新しい公園で、河原にたくさんの花壇が配され、池(鏡池)が涼しさを呼び、もちろん市民が憩えるオシャレなベンチが配されるなど、市民が心地良く憩える理想的な公園(ガーデン)が現出していた。

    
    ※ 「あさひかわ北彩都ガーデン」の様子です。花壇を入れるべきでしたね。

 コースを一周してみて、市民が憩い、芸術的な雰囲気に浸れる素晴らしい街づくりが実現できている都市ということを実感したヘルシーウォーキングだった。 
    
    ※ ゴールり旭川駅の南口(駅裏)です。正面と同じデザインですね。                                
               
 ◇ウォーク実施日  2024年6月29日(土)
 ◇歩いた距離    12.5 km

本番!さっぽろラウンドウォーク セクション5(拓北駅 ⇒ モエレ沼公園)

2024-06-29 20:17:44 | さっぽろラウンドウォーク
 昨日札幌は最高気温29℃を記録したそうだが、日差しは樹々に遮られ、石狩川の堤防では川を渡る風が心地良く、意外に暑さを苦にすることなく歩き通すことができた13キロだった。それにしても石狩川堤防上の一直線約5キロは長かったぁ…。

    

 昨日(6月28日)、「めだかの学校」札幌ラウンドウォーク踏破クラブとして4度目となるラウンドウォーク セクション5を実施した。
 メンバーは常連の一人が脚を痛めてしまい、4人でのウォーキングとなった(男性3人、女性1人)。朝9時20分、JR拓北駅に集合した4人は皆コンディションも上々のようだった。
 9時30分、拓北駅をスタートして、「拓北小学校」を横目に見ながら最初のルート「あいの里緑道」入った。「あいの里緑道」はあいの里ニュータウンの造成に合わせて、主にあいの里地区の北側を中心にニュータウンを取り囲むように造成された約3キロの緑道である。

    
    ※ 「あいの里緑道」の南側の入口です。

 陽光が照りつけるコンディションだったが緑道の樹々が陽光を遮り、気持ち良くスタートすることができた。ただ、今回も気になったことだが特に住宅街の裏側となる緑道の雑草がどうしても気になった。その緑道も教育大の北側になると整備されていたのだが、その違いは何なのだろうか?私たちはスタートして30分、緑道内の東屋で給水休憩をとった。

    
  ※ 住宅街の裏側に伸びる「あいの里緑道」は雑草が目立ち、柵が倒れていて、ちょっと残念な光景でした。
    
    ※ 「あいの里緑道」を往くメンバーです。
    
    ※ 「あいの里緑道」内の東屋で給水休憩をとりました。

 その後「あいの里公園」内の中心を占める「トンネウス沼」の周囲を巡り、「あいの里公園駅」へ向かった。「トンネウス沼」の周囲の樹々の上でカラスが数羽異常な鳴き声を発していた。沼を見ると、カモの親子が水上を列を組んで進んでいたが、あるいはそのカモの雛をカラスが狙っていたのだろうか?

    
    ※ 水深が浅く、流れが僅かな「トンネウス沼」には水草が繁っていました。
    
    ※ カラすが盛んに狙っていた(?)カモの親子連れです。でもかなり成長していますね。

 「あいの里公園」を後にし、少しランチタイムとしては早い11時10分に「あいの里公園駅」内のベンチで昼食を摂ることにした。というのも、この後には適当な休憩施設が見当たらなかったからだ。
 昼食後は、「あいの里公園駅」から石狩川の堤防に出るルートだった。住宅街から石狩川の堤防に出るところに短い距離だったが獣道のような雑草が生い茂ったところを通り、石狩川堤防に出た。

    
    ※ コースの中にはこのような獣道のようなところもありました。

 堤防は舗装され、ひたすら真っすぐ伸びていた。石狩川の川面も望めない単調なウォーキングは、皆言葉もなく黙々と歩くだけだった。ただ、吹きわたる川風が心地良かったのが救いだった。

    
    ※ 石狩川沿いの堤防が真っすぐに延びていました。
    
    ※ その石狩川堤防を往くメンバーたちです。

 豊平川が石狩川に流入する地点から、堤防に別れを告げ車がようやく交差できるような
 細い道に入り、やがて「リサイクル団地」と呼ばれるリサイクルに関連した施設や企業が道路の両側に立ち並ぶ地域を進んだ。
 その時、N氏がミツバチが蜂蜜を集める養蜂箱を道端に見つけた。そこでしばしミツバチ談義となった。この時だけではない。ウォーキング中に時々立ち止まり、目にした光景や、施設について立ち止まって情報を交換することが何度かあり、それが単調なウォーキングを少しは意義深いことにしているのでは、と思っている。

    
    ※ N氏が道端で見つけた養蜂箱です。

 やがてウォーキングはこの日の目的地の「モエレ沼公園」に到着した。「モエレ沼公園」はメンバーの誰もが一度は体験していたようだが、園内の中心部から離れたところにもイツム・ノグチが設計した遊具などが展示されているのを見たことがなかったメンバーが多かったようだ。

    
    ※ 幼心に帰って、ノグチの作品で楽しみました。

 最後にセクション1で撮って以来、なかなか撮れなかった4人の集合写真をガラスのピラミッドの前で通りかかった人の好意で撮っていただき、この日のウォーキングを終えた。
 
       
    ※ この日のゴールのガラスのピラミッド前でメンバー4人の集合写真です。

白滝遺跡群が “国宝” となった道筋

2024-06-28 16:24:13 | 講演・講義・フォーラム等
 旧石器時代から狩りや生産あるいは生活道具として重宝されてきた黒曜石。その一大産地として有名な白滝遺跡群が昨年 “国宝” に指定されたが、そこに至る経緯について黒曜石の発掘責任者からお話を聴いた。

 昨日(6月27日)午後、北海道立道民活動センター(愛称:かでる2・7)において「ほっかいどう学かでる講座」が開講され受講した。
 今回の講座は「日本最古の国宝~北海道遠軽白滝遺跡群出土品~」と題して、北海道埋蔵文化財センターの理事長である長沼孝氏が講義された。

    
     ※ 講義をされた北海道埋蔵文化財センター理事長の長沼孝氏です。

 長沼氏は北海道教育庁の文化財課に長く籍をおき、白滝遺跡群の発掘調査の陣頭指揮を執り、かつ調査報告書の作成においても責任者を務めた方である。長沼氏は40歳から遺跡調査に携わり、調査報告書を完成したのが氏の60歳のときだということで20年間この仕事にかかりきりだったそうだ。(60歳の時に北海道教育庁を退職後、現職に就かれたという)
 白滝は黒曜石の原産地として早くから有名で、産出された黒曜石は北海道内だけでなく国内的にも広く流布されていた。私は福岡県太宰府市にある北九州国立博物館を訪れた時に白滝産の黒曜石が展示されているのを見て驚いた体験がある。
 また網走管内(現在はオホーツク管内と称している)出身の私は小さい頃から黒曜石を “十勝石” と呼んで、身近なものとして特別珍しいとも思っていなかったということもある。

    
    ※ 私は2年前、この看板があるところまでは辿り着けたのですが、黒曜石が産出するという「赤石山」には辿り着くことができませんでした。

 その黒曜石が国宝となった契機は、白滝地区を通る高速道路建設計画が契機だったという。建設計画が持ち上がったことにより遺跡確認の試掘調査をしたところ大量の黒曜石の破片が発掘されたそうだ。そのため高速道路計画のルートを一部変更し、本格的な遺跡発掘調査か始まったそうだ。発掘には16年間も要し、出土した石器は実に669万点、重さ13.6tに及んだという、その量は世界最大規模だそうだ。
 発掘された669万点の黒曜石の一部は狩りや生活道具の形をしたものも発掘されたが、多くは破片のようなものがほとんどだったそうだ。その1点1点の発掘地点を記録し、形状を模写する「注記作業」も気の遠くなるような作業だが、白滝遺跡の場合は発掘した破片を接合して当時の形を再現するという「接合作業」を行ったそうだ。
 石器の破片の形を注視し、破片同士が合わさるかどうかを見極め、繋ぎ合わせるということは素人の私には神技としか思えない作業である。この「注記作業」、「接合作業」に当たった人は延77,207人だったという。長沼氏は「白滝遺跡群が国宝に指定された最も大きな要因は、こうした形作られた『接合資料』がキーポイントだった」と語った。

        
※ 石器の破片を接合した「接合資料」の一部です。真ん中あたりにある内部が白い部分は、石器を削った際に、矢じりなどとして使用できる部分(白い部分)を取り除いた後の「接合資料」です。(この写真はウェブ上より拝借しました)
   
 こうして制作された報告書は「白滝遺跡群Ⅰ~ⅩⅣ」(14冊、厚さ89.6cm、14,746頁)
という膨大なものになったそうだ。5万年から1万年前まで遡る後期旧石器時代というと遺物として発掘されるものは石器だけに限られるという。それだけ白滝遺跡群は貴重な存在なのだろう。
 長沼氏をはじめとした関係者の皆さまの根気ある研究・作業が「日本最古の国宝」に結びついたことに敬意を表するとともに、機会があれば「白滝遺跡群」そして「遠軽埋蔵文化財センター」を再訪してみたいと強く思った。

股関節のトラブルとは?

2024-06-27 16:58:44 | 講演・講義・フォーラム等
 統計的には中高年の女性に多いといわれる「股関節症」だが、男性も例外ではない。歩行が困難となる股関節痛は私たちの生活を大きく制限されてしまう原因ともなる。その原因と解決法について専門の医師からお話を聴いた。

 昨日(6月25日)午前、札幌市社会福祉総合センターで市の社会福祉協議会主催の「わたしの生き方セミナー」の6月講座に参加した。6月講座のテーマは「シニアに良くある股関節トラブルのお話」と題して、札幌孝仁会記念病院の名越智副院長が講師を務めた。

     
     ※ 講演をする札幌孝仁会記念病院の名越智副院長です。

 股関節とは、胴体と脚を繋ぐ関節のことを言うのだが、大腿骨の丸い頭の部分(大腿骨頭)が胴体の骨盤の受け皿の部分(寛骨臼)にはまり込む構造をしているので「球関節」とも云われている部分である。その「球関節」の形や構造が変形したり、関節内で緩衝材の役割をしている「軟骨」がすり減ったりした場合に痛みが発生することを「股関節症」と称しているという。
 どのような “痛み” かというと、〇足の付け根が痛む、〇ひざ痛、〇太もも痛、〇歩行時痛、〇歩行開始時痛、〇荷重時痛、〇夜間痛、などがあるという。
 股関節痛の予防のためには、股関節周囲の筋肉のストレッチや筋力トレーニングをすることだと話されたが、名越氏は外科医でもあることから、予防よりも手術などによって痛みを取ることに話の重点があった。

    
    ※ 受講者はやはり関心の高い中高年の女性が目立っていました。

 「股関節症」の中で良く聞く病名が「変形性股関節症」である。この病気は発育期に股関節が十分に形成されなかったことでの後遺症や、股関節の浅い「寛骨臼」の形成不全などが原因だとされる。また、加齢によって関節の軟骨がすり減ってしまって「変形性股関節症」に至る場合もあるという。
 その症状を取り除く代表的な外科手術が「人工股関節置換術」である。「人工股関節置換術」とは、痛んだ股関節内の骨や軟骨を削り取り、代わりに金属やセラミック、プラスチックなどでできた人工関節を入れることで痛みを無くし、歩行を可能とする手術のことである。現在、国内では相当数の人がこの手術をしているそうだ。

    
  ※ 「人工股関節置換術」の図解と実際に置換を終えた股関節のレントゲン写真です。
    (写真はウェブ上から拝借しました)

 ここまではなんとか名越氏のお話に付いていけたのだが、この後のお話は専門的過ぎて私には理解が難しかった。それは骨を削り取る時に3Dプリンターを使用するとか、RAOの3次元シミュレーションを応用するとか、歌手の美空ひばりさんが患った大腿骨頭壊死症(直接の死因ではないそうだ)などのお話をされたが、私にはもう一つピンとこなかった。というより、私の理解力が不足していたということにしたい。
 今回のお話から学ぶことは、上記したような “痛み” を感じた時には、できるだけ早く整形外科医の診察を受けることであり、日常的には筋肉のストレッチや筋力トレーニング的なことを心がける、ということだと私は受け止めた。

「さっぽろの古を訪ねて Ⅲ」篠路屯田兵村を訪ねる

2024-06-26 19:02:06 | 「めだかの学校」関連
 琴似屯田兵村に遅れること14年。札幌近郊の屯田兵村の入職としては最も遅い1889(明治22)年、西日本を中心に7県から220戸、1,056人が入植したという篠路屯田兵村は辛苦の末に札幌一の美田を完成させたという。しかし、そも水田も今は跡形もなく、完全な住宅街に変貌していた。

 昨日(6月25日)午後、「めだかの学校」野外講座「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を訪ねる」の現地見学の第2弾、「篠路屯田兵村の史跡を訪ねる」を実施した。
 見学先は、◇屯田郷土資料館◇屯田開拓顕彰広場◇江南神社境内の3ヵ所だった。

    
     ※ 最初に訪れた「屯田郷土資料館」です。

 最初に訪れた「屯田郷土資料館」では、資料館の説明員である小澤隆様から説明を伺った。小澤様ご自身は屯田兵の子孫とは明言されなかったが、屯田兵について深く研鑽されているようで大変詳しく説明いただいた。

    
    ※ 説明員の小澤隆様(奥の人)の説明を聴く「めだかの学校」の会員たちです。

 それによると、篠路屯田兵村に入植したのは熊本、山口、和歌山、石川、徳島、福井、福岡の各県の氏族220戸ということだった。いずれもが温かい地方出身のため北海道の寒さには非常に苦労したらしいということだった。そのために開拓を諦めて土地を離れた屯田兵も少なくなかったということだった。
 当初は与えられた土地で畑作主体の農業だったが農家経済が成り立たず、入植後23年目に土功組合を結成して、水田主体の農業に切り替えたことが功を奏し、やがては札幌一の水田単作地域となったそうだ。

    
    ※ 資料館内を巡りながら小澤様の説明をお聞きしました。

 見学させていただいた「屯田郷土資料館」は、1998(昭和63)年の開基100周年の記念事業として建設費を地域住民が拠出するなかで建設されたものだという。内部には当時の農機具やさまざまな関連資料が展示されていたが、大きな目玉は当時まだ「篠路屯田兵屋」が保存されていたものを解体・修復して資料館内に完全復元して展示されていることだ。賛否両論があるかもしれないが、私はこのようにした方が老朽化を防ぎ長く保存できる方法ではないかと思うのだが…。

    
 ※ 郷土資料館内に復元された屯田兵屋の内庭には当時の生活用具が展示されていました。

 「屯田郷土資料館」の見学を終えた後は、残る「屯田開拓顕彰広場」と「江南神社境内」を巡ることだった。ところが、こちらの方は特に説明していただく方を見つけることができなかった。止むを得ず私が書籍やイーターネットなどを頼りに資料を作成して説明役を務めることになった。

    
    ※ 第一大隊第四中隊本部跡の碑を前に説明をする私です。

 「屯田開拓顕彰広場」というのは、当時の篠路屯田兵を指揮・訓練をする第一大隊第四中隊の本部跡に屯田兵に関する史跡を一堂に集めた広場である。(正確には本部は広場からやや東側に寄ったところにあり、広場は練兵場跡だという記録が鋸っているようだ)この広場には「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」、「屯田兵顕彰之像」、「馬魂の像」、「水田開拓記念碑」、「開拓碑」、「戦没者顕彰碑」が集中して建立されていた。
    
    ※ 顕彰広場の中で最も大きな碑が「屯田兵顕彰之像」でした。

 5月に事前視察で訪れた時には広場は雑草が繁っていたので心配していたが、今回訪れた時にはしっかりと除草されていた。
 続いて、道路一本隔てた東隣にある「江南神社」の境内を訪れた。神社の境内には、「望郷のアカマツ」、「開基九十周年記念顕彰碑」、「篠路兵村移住記念碑」があった。  

    
    ※ 「望郷のアカマツ」を前にする会員の方々です。

 「望郷のアカマツ」は、当時の屯田兵本部が兵員とその家族の心を慰めるために故郷を偲ぶアカマツと水松(オンコ)の苗木を各戸に無償で配布したのだそうだが、その中の一本が現在も境内に残っているということである。
 「屯田開拓顕彰広場」の史跡も含めて、簡単ではあったが私の方からそれぞれ説明させていただいた。当事者でもなければ、専門家でもない私の説明では不十分だったかもしれないが、それなりに務めを果たせてホッとしている。

    
 ※ 「開基九十周年記念顕彰碑」(左)、「篠路兵村移住記念碑」(右)の説明を聞く会員の方々です。

 この後、私たちの屯田兵村巡りは「新琴似屯田兵村」、「野幌屯田兵村」、「山鼻屯田兵村」と9月まで巡り歩くことにしている。巡り終えた時、会員の方々はどんな感想を持ってくれるだろうか?それを伺うことも楽しみにしている。
 

ブリリアの会 会報300号到達!

2024-06-25 16:59:40 | ボランティア
 近代美術館前の歩道の清掃活動を15年間続けてきたが、その間活動日を連絡することを主として会報の発行を続けてきた「近美を愛するブリリアの会 会報」の発行数がとうとう300号に到達した。内容はともかくとして、まさに “ちりも積もれば山となる” を実感している。

 私がマンションに同居する皆さんに「一緒に近美前をきれいにしませんか?」と呼びかけたのが2010年の6月末でした。そうしたところ10戸15名の皆さんから賛同を得て、実質的に活動をスタートしたのが2010年の7月5日だった。
 記念すべき会報の第1号は、それより遡ること3日まえの7月2日に発行している。
 以来、主として活動日をお知らせすることを主として毎回会報を発行し続けてきた。それが先日、6月16日の発行をもって300号に達したのだ。
 会報は毎回 A4版の裏表に印刷して発行している。会報の割り付けは、紙面をおおよそ4分割して、(1)活動日の予告、(2)前回活動の報告、(3)トピック的な話題、(4)「よもやま話あれこれ」と題して、四季折々の変化や活動の関するよもやま話、などを掲載している。(もちろんそうでない場合もあるのだが…)
 300号でいうと、表面の最初は次回の活動日の予告している。続いて「会報が300号に達しました!パチパチパチ!」と題して、300号に達したことを伝えた。裏面には「第5回目の活動から」と題して前回活動の様子の報告。そして「よもやま話あれこれ」では、近美前に現れた札幌のバンクシーこと田中さんという方が近美前の歩道に現れ、ポプラの綿毛でかわいいウサギを創っていったことなどを話題として取り上げた。 

    
    
    ※ どうもスキャンの性能がイマイチのようで会報自体を読むのは困難ですね。

 おおよそこのような形で発行を続けてきたのが “ちりも積もった” のである。
 私は、会報発行300号記念として会報第1号の復刻版を発行した。氏名などは伏せさせてもらったが、下の図がその復刻版である。
        
 今年の活動開始に当たって、会員の高齢化から「活動は今年いっぱいで終了する」と4月10日の拙ブログで宣言したが、その思いは変わっていない。
 とすると、会報の発行も残りあとせいぜい10数回かと思う。
 それまではこれまでどおり発行を続け、有終の美を飾りたいと思っている。
 私の手元には1号から300号まで全て揃っているが、300数号まで全てを揃えて私の宝物の一つにしたいと思っている。

ヘルシーウォーキング㊱ in栗山公園と美しき丘陵風景、北の錦酒蔵ウォーク

2024-06-24 14:55:16 | JRヘルシーウォーキング
 リベンジの栗山町ウォークである。それにしても栗山公園内にある小さな御大師山登山はけっこう足にきてしまった。雄大な丘陵風景と、どことなく豊かさを感じさせる栗山町の光景が印象に残った栗山町ウォークだった。

    
 昨日(6月23日)午前中に夕張市ウォークを終えた私は、すぐに隣町の栗山町ウォークをするべく移動した。
 実は栗山町ウォークは昨年に続いて2度目であり、リベンジの意味があった。というのも、昨年10月に由仁町と栗山町のコースを踏破しようとしたのだが、由仁町のウォークを終え、栗山町へ向かった時に前方が見えないほどの豪雨に見舞われてしまった。恐ろしくなった私は車を停めて豪雨が過ぎ去るのを待った。ようやく雨が止んだ時には午後もかなり遅い時間となってしまい、結局栗山町のコースは「ショートコース」を回るのが精一杯となってしまったのだ。
 私はこのJRヘルシーウォーキングでは全て基本コース(ロングコース)を歩くことを旨としている。したがって、私の中では栗山町コースはまだ未踏だと思っていたので、今回改めて「基本コース」を歩くことにしたのである。
コースは栗山駅から小林酒造、谷田製菓と栗山町の代表的な企業のところを巡り、栗山公園を周遊した後、栗山の農村地区を巡るという12.5キロのコースである。
 コースのS & GとなっているJR栗山駅は他の町でもよく見られる町商工会の事務所、コミュニティセンターなどが同居するようなモダンな建物だった。

    
    ※ 栗山町商工会やコミュニティセンターと同居したJR栗山駅です。
 
 跨線橋を超え、駅の裏側の夕張川の近くにまず「小林酒造」の今は使われていない(?)古い建物群が立ち並ぶ中を歩いた。その途中に「小林酒造北の錦記念館」があるのだが、こちらも私は以前に訪れたことがあるのでパスした。

    
    ※ 栗山駅からすぐに駅裏に移動するため跨線橋からJR室蘭線を写してみました。
    
    ※ 駅裏からほど近くを「夕張川」が流れています。
    
    ※ 小林酒造の蔵ですが現役かどうかは分かりません。一部はレストランになっていました。
    
     ※ 「小林酒造北の錦記念館」です。

 続いて「日本一のきびだんご」で有名な「谷田製菓」の前を通る。昨年も感じたのだが、この「谷田製菓」の建物が意外にもごく普通の事務所なのはちょっと腑に落ちない。「きびだんご」という希少な菓子を製造しているのだから、そのことをもっとアピールするような社屋を造っては?と思うのだが…。

    
    ※ 谷田製菓の本社事務所と思われる建物です。

 JR室蘭線の跨線橋を潜り、街中へ出る。栗山駅前通りは過疎化が進む他の町とは違い、まだまだ商店街の様相を呈してはいた。それでも私が「空知フットワーク」で訪れた12年前には商店街に音楽が流れていて驚いたのだが、今回それを聞くことはできなかった。

    
    ※ 栗山町の駅前商店街です。
    
    ※ 商店街の各商店の軒先には写真のようなシルエットの看板が掲げられていました。
    
    ※ 栗山町の物産館的役割を担う「栗夢プラザ」です。

 この商店街を栗山監督は長靴を履いて、軽トラックに乗り優勝パレードをしたのだろうか?見てみたかったなぁ…。

        
 ※ WBC優勝を記念するパレードです。確かに軽トラ、そして長靴ですね。(写真はウェブ上からお借りしました)

 商店街を抜け、栗山公園へ向かう途中に立派な「栗山天満宮」があった。この神社も小さな町にしてはかなり豪華な造りの神社に見えた。

    
    ※ とても立派に見える「栗山天満宮」の鳥居と本殿です。

 「栗山公園」は「小動物園」があるので知られている。この日も日曜だったこともあり、多くの家族連れが楽しんでいた。私はそれを横目にマップに従い「栗山公園」巡りを開始した。その公園巡りの中に公園内にある「御大師山」登山が含まれていた。「御大師山」は調べてみると標高僅か115mということなのだが、これが意外に急角度で登る山道となっていて夕張市ウォークで疲れている自分にとってはかなり辛い登山となった。

    
    ※ 「栗山公園」のエントランスです。
    
    ※ 栗山公園内の「御大師山」へはこうした階段上りがかなり続きました。
    
    ※ ここが御大師山の頂上です。特に印はありませんでした。

 山頂から少し離れたところに、栗山町市街を眺望できる「展望台」からの眺めが少しだけ私を癒してくれた。

    
    ※ 街を展望するための展望台です。
    
    ※ 展望台から見た栗山市街の様子です、(下の写真も)
    

 栗山公園を過ぎると、後は農村に多い典型的な田舎道ウォークである。約6キロの田舎道歩きはかなり応えたが、途中には前日本ハム監督で、かつWBC優勝監督の栗山英樹氏が所有する「栗の樹ファーム」の入口があった。しかし、現在は「完全休館」という看板が出ていて立入禁止となっていた。(私は過去にここを2度ほど訪れている)看板には栗山氏の自筆で「WBCではたくさんの応援ありがとうございました」というメッセージも添えられていた。

    
    ※ 「栗の樹ファーム」の入口に建つ看板です。
    
    ※ 看板の近くには写真のような断り書きがありました。

 さらには、その看板のすぐ傍に「バットの森づくり植樹」と表示された看板があり、その横には植樹された幼木(アオダモの木?)がたくさん並んでいた。これもまた栗山監督の功績なのかもしれない。

    
    ※ ちょっと異様にも映りますが、食害を防ぐために幼木に袋を被せているようです。

 コースは淡々と田舎道を進む。時々農家が姿を現すが、そこにはたくさんのビニールハウスが目立った。何を栽培しているのだろうとちょっと覗かせてもらったところ、収穫の盛期を過ぎたアスパラが栽培されていた。

    
    ※ こうした田舎道が淡々と続きました。
    
    ※ ビニールハウスではアスパラを栽培していました。

 コースは小高い丘状のところに至ったが、そこから栗山町の田園風景が目に入った。その風景からはどことなく豊かな農村といった感じに私の眼には映った。

    
    ※ 小高い丘からは栗山町の豊かな田園風景が望めました。

 さらに進むと、道路沿いに古い校舎のようなものが見えた。それは旧雨煙別小学校なのだが、そこを(株)コカ・コーラが買い取り、改修して宿泊設備を整え「雨煙別小コカ・コーラ環境ハウス」として環境教育の拠点としている。ここも私は以前に宿泊はしなかったが訪れて内部を見学させていただいた経験がある。

    
  ※ 「雨煙別小コカ・コーラ環境ハウス」の建物です。グラウンドは全面芝張りでした。

 あとは栗山町の市街地を目ざしてひたすら単調なウォーキングが続いた。かなり疲れが顕著となり、一休みするベンチがあればと思ったのだが、無情にもそのようなものは見当たらなかった。
 街中に戻り、「栗山警察署」(かなりのパトカーが並んでいたところを見ると、周辺の中心警察署なのかもしれない)を右折し、栗山駅へ向かっての直線にのびる商店街を再び通りゴールの栗山駅へ着いたのは、締め切り時間の午後4時の20分前だった。

    
    ※ 栗山警察署です。門の陰にたくさんのパトカーが並んでいました。

 過疎が続く北海道の街であるが、栗山町の場合はその過疎化が他の街に比べて進行が遅いのかな?といった印象を受けたウォーキングだった。 

    
    ※ ゴールの栗山駅前には栗山町の花 "ユリ" を象ったモニュメントが設置されていました。
                                                    
◇ウォーク実施日  2024年6月23日(日)
◇歩いた距離    12.5 km

※ 昨日の投稿では写真が未掲載でしたが、本日写真も貼付しました。昨日の投稿を再度見ていただければ幸いです。

ヘルシーウォーキング㉟ in栄華の名残に思いを馳せて、夕張・鹿の谷ウォーク

2024-06-23 21:01:15 | JRヘルシーウォーキング
 過疎の象徴とも語られる夕張市を歩いた。確かに道路に面して閉店した商店があったり、雑草に覆われた住宅が散見されたりした光景にも出会ったが、再建に向けての足音も感じられた夕張ウォークだった。

  

 本日6月23日(日)は、当初「イベントウォーク」の当別町のロイズタウン駅S & Gに参加する予定でいた。ところがコースマップが公表されたのを見ると、昨年とまったく同じコースだった。これでは「より多くの街を見て、体験したい」という私のコンセプトに反する。そこで検討した結果、ヘルシーウォーキングでは未体験の「いつでもウォーク」の夕張市と、昨年消化不良に終わった(その訳は明日レポします)隣町の栗沢町を歩くことにした。
 2市町のコースを歩くことから、早朝に出発しようと思っていたのだが出遅れてしまい7時30分に我が家を出発した。
 今回の夕張市のS & Gは、旧夕張駅の前に立つ休業中の「ホテルマウントレースイ」前だった。

    
※ スタート地点に建っていた「ホテルマウントレースイ」の立派な建物ですが、現在は休業中とのことでした。

 コースは旧JR石勝線夕張支線の脇を走る国道38号線を南下し、「幸福の黄色いハンカチ広場」から折り返し、旧JR石勝線夕張支線の反対側を走るサイクリングロードを北上し、S & Gポイントを通過し、「夕張市石炭博物館」を折り返すというルートである。
 私は10年前に「そらちフットパスウォーク」で1度夕張市を歩いた体験があった。しかし、その時は夕張市が最も栄えた時代に最も人口が多かったという「清水沢地区」を歩いたのだが、今回はその地区より奥に位置する「鹿の谷地区」(正式には「若菜地区」というらしい)を中心とした地域だった。その10年前の時には、賑やかだったという「清水沢地区」だけに、衰退ぶりも顕著に目にすることができた。

    
    ※ 廃業した酒屋さん。壁には「〇〇良い酒」とあります。〇〇にはどのような文字が入るのでしようか?

    
    ※ 家主を失った住宅の前はフキの葉が密生していました。
    
    ※ こちらは道路沿いに建っていた旧市立図書館です。窓ガラスは割れ放題でした。
    
    ※ 空き家の前や空き地には何故かマーガレットの花が目立ちました。

 今回の「鹿の谷地区」も道路沿いに閉店した商店や廃屋となった民家を目にしたが、一方で新たな街づくりを目指した真新しい公共施設や集合住宅を目にすることができ、再建へ向けての兆しも感ずることができた。

    
  ※ こちらは真新しい「夕張市立診療所/介護医療院」の看板がかかっていました。
    
    ※ 若菜地区に建つ真新しい市営の集合住宅です。

 最初の折り返し点の「幸福の黄色いハンカチ広場」は、ヘルシーウォーキングのチェックポイントだった。(駅がないので、観光協会の職員がチェックの担当をしている?)私は「幸福の黄色いハンカチ広場」は以前に体験しているので見学はパスしてチェックだけしていただき再スタートをきった。

    
    ※ 「幸福の黄色いハンカチ広場」の入口に建つ入場受付事務所です。

 この折り返しからのコースが素晴らしかった。コースマップでは特に触れてはいなかったが、そこはサイクリングロードだった。車が通らず、サクラ並木が続く素晴らしいコースが続いた。

    
    ※ 旧JR石勝線夕張支線を左手にのびるサイクリングロードです。

 廃線となった旧JR石勝線夕張支線はまだ鉄路が撤去されずにそのまま残っていたが、廃線から5年目。線路上には雑草が生い茂っていたのが痛々しかった。

    
    ※ 旧JR石勝線夕張支線は撤去されずにこのように残っていました。

 「旧夕張駅舎」はすでに改修(改築?)されてカフェのようになっていたが、途中にあった「旧鹿ノ谷駅」は、駅舎も乗降場も当時のまま保存されていた。

    
    ※ 旧夕張駅の乗降場跡です。

 S & Gを通過し、さらに北にある「夕張市石炭博物館」を目指した。すると意外にも向かう途中に「夕張市役所」があった。市域の中ではずいぶん奥まったところに市役所を建てたものである。ただ地区名だけは「本庁地区」と称しているようだ。実は私は以前に「札幌学院大学」の講座で市役所を訪れ、市役所の職員から夕張市の街づくりについてお話を伺ったことがあった。その際、大きな市役所の中に職員がまばらにいるだけでずいぶんガラーンとしていたなぁ、という印象を抱いたのだが、おそらく職員数はいまも変わらないのではないだろうか?

    
    ※ 外観はかなり立派な夕張市役所です。
    
 市役所からさらに2キロほど奥に「夕張市石炭博物館」があった。こちらも私は以前に博物館内部も模擬坑道も体験済みのためパスしてすぐに折り返しスタート地点に戻ったのは、12時30分だった。

        
        ※ 「夕張市石炭博物館」の横に立つ立坑櫓の遺構です。
    
    ※ 「夕張市石炭博物館」の入口です。

 本日は気温が20℃を超え、かなり汗もかき、疲労度もそれなりのウォーキングだった。

    
    ※ S & Gにある「夕張マウントレイスイスキー場」です。私も2度ほど滑ったことがあります。 

◇ウォーク実施日  2024年6月23日(日)
◇歩いた距離    14.0 km                                         


地球温暖化は北海道にどう影響するか?

2024-06-22 19:49:20 | 講演・講義・フォーラム等
 昨年夏の札幌は15日連続で真夏日(30℃以上)を記録するなど、明らかに地球温暖化の影響が顕著となった猛烈な暑さを私たちは体験した。はたして今後の札幌の気候はどうなっていくのだろうか?研究者の話を聴いてみた。

     

 本日午後、紀伊國屋書店札幌本店インナーガーデンにおいて、北海道立総合研究機構(略称:道総研)が「道総研セミナー 身近な科学を学ぼう!」に参加した。
 今回のセミナーのテーマは「北海道の気候変動 どうなる?どうする?」と題して道総研の二人の研究者が発表した。
 初めは、「温暖化が夏と冬の生活にどう影響するか」について鈴木啓明研究員が話された。
 鈴木氏はまず札幌の気温は過去100年の間に1.75℃上昇したという調査結果を公表された。
 そして夏に関して言うと「暑さ指数(この指数の計算はやや複雑のようだ)」が “厳重警戒” とされる28度となる日が増加しているという。また “強い雨” と表現される1時間の降水量が30mmを越える日も増えているそうだ。
 反対に冬は降雪量の減少傾向が今後続き、“ゼロクロッシング日数” の増加が予想されるという。“ゼロクロッシング” とは、一日のうちで最低気温が氷点下で、最高気温が0℃を上回る日を指すそうだ。この現象は道路の凍結と溶解をくり返すことで道路表面の破壊が進む現象を生むという。

   

 その地球温暖化の進み具合について、研究者の間ではこの先100年間の間に「2℃上昇シナリオ」と「4℃上昇シナリオ」の二つの説が存在するそうだ。それは十分な対策を施した場合と、そうでない場合ではそれだけの差が出てくるということを表しているという。
 一方、もう一人の大屋祐太研究員は最近よく耳にする “線状降水帯” について説明された。
 “線状降水帯”とは、「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなし、組織化して数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される長さ50~300km程度、幅20~50km程度の強い降水を伴う雨域」のことを言うそうである。こうした “線状降水帯” が九州や本州ばかりでなく、今後は北海道でも十分に考えられると指摘された。そういえば、先日お聞きした「さっぽろ市防災・減災セミナー」においても講師の鈴木氏が札幌における “線状降水帯” について指摘されていた。  

   
                        
 さて、こうして地球温暖化の影響が札幌においても顕著に現れるという状況の中、どのような対策が考えられているかというと、一つはやはり「脱炭素社会」を目指して地球温暖化の “緩和” 策を進めることだという。北海道においても「ゼロカーボン北海道」の取り組みを加速させる必要があるという。
 さらには、避けられない地球温暖化を前にして、そうした事態に “適応” することも対策の一つであるという。つまり「気候変動適応計画」なるものを北海道も各市町村においても早急に樹立することが必要である、と結ばれた。
 今年の夏が、昨年と同じような “酷暑の夏” になるのだろうか?
 私たち一人ひとりが「脱炭素社会」に向けてできることを実践するとともに、どうのようにして「酷暑を乗り切るか」を考える夏にしたいと思う。

映画  九十歳。何がめでたい  №375

2024-06-21 18:05:33 | 映画観賞・感想
 久しぶりの映画観賞だった。作家・佐藤愛子さんの同名のエッセイの映画化である。佐藤さんの毒舌とユーモアが、主演の草笛光子さんと好演が相まって、終始笑いを交えながら楽しませてもらった映画だった。

    

 表記映画が本日全国公開と知って、特に予定のなかった私は午前からシネマフロンティアに出かけて鑑賞した。客筋はやはり私と同年代と思われる高齢と思われる方が多く、特に女性の姿が目立ったようだ。
 原作は作家・佐藤愛子さんが93歳の時に作家生活の集大成として「晩鐘」を書き上げ、作家生活の引退を宣言したのだが、その後鬱々とした生活をしていた中、小学館の編集者の強引な口説き落としによって、週刊誌にエッセイを連載することになった。その題名が「九十歳。何がめでたい」である。

      
     ※ 佐藤愛子さんのエッセイ「九十歳。何がめでたい」の表紙です。

 そのエッセイは、ある紹介文によると「“暴れ猪”佐藤節が全開。自分の身体に次々起こる“故障”を嘆き、時代の“進歩”を怒り、悩める年若い人たちを叱りながらも、あたたかく鼓舞しています。自ら災難に突進する性癖ゆえの艱難辛苦を乗り越え92年間生きてきた佐藤さんだからこそ書ける緩急織り交ぜた文章は、人生を逞しく生きるための箴言も詰まっていて、大笑いした後に深い余韻が残ります」とある。
 映画はその佐藤愛子役を、今年90歳を迎えた草笛光子さんがエネルギッシュにチャーミングに演じ、それをサポートする編集者役の唐沢寿明がコミカルに支える演技がはまっていたと私には思えた。
 佐藤愛子さんの言を“暴れ猪”とは、言いえて妙とも言えるが、現代の世相に噛みつく様は人から見れば“暴れ猪”のように見えるのかもしれない。その“暴れ猪“ぶりを草笛さんは見事に演じ切っていたからこそ、会場内からは絶えず笑い声が行き交っていたのだろう。

         
  ※ 何歳の時の佐藤愛子さんかは不明ですが、笑顔が魅力の佐藤さんの近影です。

 そしてやはり作家は作家として、映画俳優は映画俳優として、自ら与えられた使命を一生を通して全うするのが幸せなのでは?と観客に問いかける内容になっていたと私は解釈した。
 佐藤愛子さんは今年100歳を迎えられたというが98歳のときにも「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」という著書を上梓した。
 佐藤さんのように長生きはできないとしても、彼女の生き様は私も命ある限り見習っていきたいものだなぁ、と映画を観終えて思わされた。