田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

白滝遺跡群が “国宝” となった道筋

2024-06-28 16:24:13 | 講演・講義・フォーラム等
 旧石器時代から狩りや生産あるいは生活道具として重宝されてきた黒曜石。その一大産地として有名な白滝遺跡群が昨年 “国宝” に指定されたが、そこに至る経緯について黒曜石の発掘責任者からお話を聴いた。

 昨日(6月27日)午後、北海道立道民活動センター(愛称:かでる2・7)において「ほっかいどう学かでる講座」が開講され受講した。
 今回の講座は「日本最古の国宝~北海道遠軽白滝遺跡群出土品~」と題して、北海道埋蔵文化財センターの理事長である長沼孝氏が講義された。

    
     ※ 講義をされた北海道埋蔵文化財センター理事長の長沼孝氏です。

 長沼氏は北海道教育庁の文化財課に長く籍をおき、白滝遺跡群の発掘調査の陣頭指揮を執り、かつ調査報告書の作成においても責任者を務めた方である。長沼氏は40歳から遺跡調査に携わり、調査報告書を完成したのが氏の60歳のときだということで20年間この仕事にかかりきりだったそうだ。(60歳の時に北海道教育庁を退職後、現職に就かれたという)
 白滝は黒曜石の原産地として早くから有名で、産出された黒曜石は北海道内だけでなく国内的にも広く流布されていた。私は福岡県太宰府市にある北九州国立博物館を訪れた時に白滝産の黒曜石が展示されているのを見て驚いた体験がある。
 また網走管内(現在はオホーツク管内と称している)出身の私は小さい頃から黒曜石を “十勝石” と呼んで、身近なものとして特別珍しいとも思っていなかったということもある。

    
    ※ 私は2年前、この看板があるところまでは辿り着けたのですが、黒曜石が産出するという「赤石山」には辿り着くことができませんでした。

 その黒曜石が国宝となった契機は、白滝地区を通る高速道路建設計画が契機だったという。建設計画が持ち上がったことにより遺跡確認の試掘調査をしたところ大量の黒曜石の破片が発掘されたそうだ。そのため高速道路計画のルートを一部変更し、本格的な遺跡発掘調査か始まったそうだ。発掘には16年間も要し、出土した石器は実に669万点、重さ13.6tに及んだという、その量は世界最大規模だそうだ。
 発掘された669万点の黒曜石の一部は狩りや生活道具の形をしたものも発掘されたが、多くは破片のようなものがほとんどだったそうだ。その1点1点の発掘地点を記録し、形状を模写する「注記作業」も気の遠くなるような作業だが、白滝遺跡の場合は発掘した破片を接合して当時の形を再現するという「接合作業」を行ったそうだ。
 石器の破片の形を注視し、破片同士が合わさるかどうかを見極め、繋ぎ合わせるということは素人の私には神技としか思えない作業である。この「注記作業」、「接合作業」に当たった人は延77,207人だったという。長沼氏は「白滝遺跡群が国宝に指定された最も大きな要因は、こうした形作られた『接合資料』がキーポイントだった」と語った。

        
※ 石器の破片を接合した「接合資料」の一部です。真ん中あたりにある内部が白い部分は、石器を削った際に、矢じりなどとして使用できる部分(白い部分)を取り除いた後の「接合資料」です。(この写真はウェブ上より拝借しました)
   
 こうして制作された報告書は「白滝遺跡群Ⅰ~ⅩⅣ」(14冊、厚さ89.6cm、14,746頁)
という膨大なものになったそうだ。5万年から1万年前まで遡る後期旧石器時代というと遺物として発掘されるものは石器だけに限られるという。それだけ白滝遺跡群は貴重な散在なのだろう。
 長沼氏をはじめとした関係者の皆さまの根気ある研究・作業が「日本最古の国宝」に結びついたことに敬意を表するとともに、機会があれば「白滝遺跡群」そして「遠軽埋蔵文化財センター」を再訪してみたいと強く思った。

股関節のトラブルとは?

2024-06-27 16:58:44 | 講演・講義・フォーラム等
 統計的には中高年の女性に多いといわれる「股関節症」だが、男性も例外ではない。歩行が困難となる股関節痛は私たちの生活を大きく制限されてしまう原因ともなる。その原因と解決法について専門の医師からお話を聴いた。

 昨日(6月25日)午前、札幌市社会福祉総合センターで市の社会福祉協議会主催の「わたしの生き方セミナー」の6月講座に参加した。6月講座のテーマは「シニアに良くある股関節トラブルのお話」と題して、札幌孝仁会記念病院の名越智副院長が講師を務めた。

     
     ※ 講演をする札幌孝仁会記念病院の名越智副院長です。

 股関節とは、胴体と脚を繋ぐ関節のことを言うのだが、大腿骨の丸い頭の部分(大腿骨頭)が胴体の骨盤の受け皿の部分(寛骨臼)にはまり込む構造をしているので「球関節」とも云われている部分である。その「球関節」の形や構造が変形したり、関節内で緩衝材の役割をしている「軟骨」がすり減ったりした場合に痛みが発生することを「股関節症」と称しているという。
 どのような “痛み” かというと、〇足の付け根が痛む、〇ひざ痛、〇太もも痛、〇歩行時痛、〇歩行開始時痛、〇荷重時痛、〇夜間痛、などがあるという。
 股関節痛の予防のためには、股関節周囲の筋肉のストレッチや筋力トレーニングをすることだと話されたが、名越氏は外科医でもあることから、予防よりも手術などによって痛みを取ることに話の重点があった。

    
    ※ 受講者はやはり関心の高い中高年の女性が目立っていました。

 「股関節症」の中で良く聞く病名が「変形性股関節症」である。この病気は発育期に股関節が十分に形成されなかったことでの後遺症や、股関節の浅い「寛骨臼」の形成不全などが原因だとされる。また、加齢によって関節の軟骨がすり減ってしまって「変形性股関節症」に至る場合もあるという。
 その症状を取り除く代表的な外科手術が「人工股関節置換術」である。「人工股関節置換術」とは、痛んだ股関節内の骨や軟骨を削り取り、代わりに金属やセラミック、プラスチックなどでできた人工関節を入れることで痛みを無くし、歩行を可能とする手術のことである。現在、国内では相当数の人がこの手術をしているそうだ。

    
  ※ 「人工股関節置換術」の図解と実際に置換を終えた股関節のレントゲン写真です。
    (写真はウェブ上から拝借しました)

 ここまではなんとか名越氏のお話に付いていけたのだが、この後のお話は専門的過ぎて私には理解が難しかった。それは骨を削り取る時に3Dプリンターを使用するとか、RAOの3次元シミュレーションを応用するとか、歌手の美空ひばりさんが患った大腿骨頭壊死症(直接の死因ではないそうだ)などのお話をされたが、私にはもう一つピンとこなかった。というより、私の理解力が不足していたということにしたい。
 今回のお話から学ぶことは、上記したような “痛み” を感じた時には、できるだけ早く整形外科医の診察を受けることであり、日常的には筋肉のストレッチや筋力トレーニング的なことを心がける、ということだと私は受け止めた。

「さっぽろの古を訪ねて Ⅲ」篠路屯田兵村を訪ねる

2024-06-26 19:02:06 | 「めだかの学校」関連
 琴似屯田兵村に遅れること14年。札幌近郊の屯田兵村の入職としては最も遅い1889(明治22)年、西日本を中心に7県から220戸、1,056人が入植したという篠路屯田兵村は辛苦の末に札幌一の美田を完成させたという。しかし、そも水田も今は跡形もなく、完全な住宅街に変貌していた。

 昨日(6月25日)午後、「めだかの学校」野外講座「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を訪ねる」の現地見学の第2弾、「篠路屯田兵村の史跡を訪ねる」を実施した。
 見学先は、◇屯田郷土資料館◇屯田開拓顕彰広場◇江南神社境内の3ヵ所だった。

    
     ※ 最初に訪れた「屯田郷土資料館」です。

 最初に訪れた「屯田郷土資料館」では、資料館の説明員である小澤隆様から説明を伺った。小澤様ご自身は屯田兵の子孫とは明言されなかったが、屯田兵について深く研鑽されているようで大変詳しく説明いただいた。

    
    ※ 説明員の小澤隆様(奥の人)の説明を聴く「めだかの学校」の会員たちです。

 それによると、篠路屯田兵村に入植したのは熊本、山口、和歌山、石川、徳島、福井、福岡の各県の氏族220戸ということだった。いずれもが温かい地方出身のため北海道の寒さには非常に苦労したらしいということだった。そのために開拓を諦めて土地を離れた屯田兵も少なくなかったということだった。
 当初は与えられた土地で畑作主体の農業だったが農家経済が成り立たず、入植後23年目に土功組合を結成して、水田主体の農業に切り替えたことが功を奏し、やがては札幌一の水田単作地域となったそうだ。

    
    ※ 資料館内を巡りながら小澤様の説明をお聞きしました。

 見学させていただいた「屯田郷土資料館」は、1998(昭和63)年の開基100周年の記念事業として建設費を地域住民が拠出するなかで建設されたものだという。内部には当時の農機具やさまざまな関連資料が展示されていたが、大きな目玉は当時まだ「篠路屯田兵屋」が保存されていたものを解体・修復して資料館内に完全復元して展示されていることだ。賛否両論があるかもしれないが、私はこのようにした方が老朽化を防ぎ長く保存できる方法ではないかと思うのだが…。

    
 ※ 郷土資料館内に復元された屯田兵屋の内庭には当時の生活用具が展示されていました。

 「屯田郷土資料館」の見学を終えた後は、残る「屯田開拓顕彰広場」と「江南神社境内」を巡ることだった。ところが、こちらの方は特に説明していただく方を見つけることができなかった。止むを得ず私が書籍やイーターネットなどを頼りに資料を作成して説明役を務めることになった。

    
    ※ 第一大隊第四中隊本部跡の碑を前に説明をする私です。

 「屯田開拓顕彰広場」というのは、当時の篠路屯田兵を指揮・訓練をする第一大隊第四中隊の本部跡に屯田兵に関する史跡を一堂に集めた広場である。(正確には本部は広場からやや東側に寄ったところにあり、広場は練兵場跡だという記録が鋸っているようだ)この広場には「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」、「屯田兵顕彰之像」、「馬魂の像」、「水田開拓記念碑」、「開拓碑」、「戦没者顕彰碑」が集中して建立されていた。
    
    ※ 顕彰広場の中で最も大きな碑が「屯田兵顕彰之像」でした。

 5月に事前視察で訪れた時には広場は雑草が繁っていたので心配していたが、今回訪れた時にはしっかりと除草されていた。
 続いて、道路一本隔てた東隣にある「江南神社」の境内を訪れた。神社の境内には、「望郷のアカマツ」、「開基九十周年記念顕彰碑」、「篠路兵村移住記念碑」があった。  

    
    ※ 「望郷のアカマツ」を前にする会員の方々です。

 「望郷のアカマツ」は、当時の屯田兵本部が兵員とその家族の心を慰めるために故郷を偲ぶアカマツと水松(オンコ)の苗木を各戸に無償で配布したのだそうだが、その中の一本が現在も境内に残っているということである。
 「屯田開拓顕彰広場」の史跡も含めて、簡単ではあったが私の方からそれぞれ説明させていただいた。当事者でもなければ、専門家でもない私の説明では不十分だったかもしれないが、それなりに務めを果たせてホッとしている。

    
 ※ 「開基九十周年記念顕彰碑」(左)、「篠路兵村移住記念碑」(右)の説明を聞く会員の方々です。

 この後、私たちの屯田兵村巡りは「新琴似屯田兵村」、「野幌屯田兵村」、「山鼻屯田兵村」と9月まで巡り歩くことにしている。巡り終えた時、会員の方々はどんな感想を持ってくれるだろうか?それを伺うことも楽しみにしている。
 

ブリリアの会 会報300号到達!

2024-06-25 16:59:40 | ボランティア
 近代美術館前の歩道の清掃活動を15年間続けてきたが、その間活動日を連絡することを主として会報の発行を続けてきた「近美を愛するブリリアの会 会報」の発行数がとうとう300号に到達した。内容はともかくとして、まさに “ちりも積もれば山となる” を実感している。

 私がマンションに同居する皆さんに「一緒に近美前をきれいにしませんか?」と呼びかけたのが2010年の6月末でした。そうしたところ10戸15名の皆さんから賛同を得て、実質的に活動をスタートしたのが2010年の7月5日だった。
 記念すべき会報の第1号は、それより遡ること3日まえの7月2日に発行している。
 以来、主として活動日をお知らせすることを主として毎回会報を発行し続けてきた。それが先日、6月16日の発行をもって300号に達したのだ。
 会報は毎回 A4版の裏表に印刷して発行している。会報の割り付けは、紙面をおおよそ4分割して、(1)活動日の予告、(2)前回活動の報告、(3)トピック的な話題、(4)「よもやま話あれこれ」と題して、四季折々の変化や活動の関するよもやま話、などを掲載している。(もちろんそうでない場合もあるのだが…)
 300号でいうと、表面の最初は次回の活動日の予告している。続いて「会報が300号に達しました!パチパチパチ!」と題して、300号に達したことを伝えた。裏面には「第5回目の活動から」と題して前回活動の様子の報告。そして「よもやま話あれこれ」では、近美前に現れた札幌のバンクシーこと田中さんという方が近美前の歩道に現れ、ポプラの綿毛でかわいいウサギを創っていったことなどを話題として取り上げた。 

    
    
    ※ どうもスキャンの性能がイマイチのようで会報自体を読むのは困難ですね。

 おおよそこのような形で発行を続けてきたのが “ちりも積もった” のである。
 私は、会報発行300号記念として会報第1号の復刻版を発行した。氏名などは伏せさせてもらったが、下の図がその復刻版である。
        
 今年の活動開始に当たって、会員の高齢化から「活動は今年いっぱいで終了する」と4月10日の拙ブログで宣言したが、その思いは変わっていない。
 とすると、会報の発行も残りあとせいぜい10数回かと思う。
 それまではこれまでどおり発行を続け、有終の美を飾りたいと思っている。
 私の手元には1号から300号まで全て揃っているが、300数号まで全てを揃えて私の宝物の一つにしたいと思っている。

ヘルシーウォーキング㊱ in栗山公園と美しき丘陵風景、北の錦酒蔵ウォーク

2024-06-24 14:55:16 | JRヘルシーウォーキング & さっぽろラウンドウォーク
 リベンジの栗山町ウォークである。それにしても栗山公園内にある小さな御大師山登山はけっこう足にきてしまった。雄大な丘陵風景と、どことなく豊かさを感じさせる栗山町の光景が印象に残った栗山町ウォークだった。

    
 昨日(6月23日)午前中に夕張市ウォークを終えた私は、すぐに隣町の栗山町ウォークをするべく移動した。
 実は栗山町ウォークは昨年に続いて2度目であり、リベンジの意味があった。というのも、昨年10月に由仁町と栗山町のコースを踏破しようとしたのだが、由仁町のウォークを終え、栗山町へ向かった時に前方が見えないほどの豪雨に見舞われてしまった。恐ろしくなった私は車を停めて豪雨が過ぎ去るのを待った。ようやく雨が止んだ時には午後もかなり遅い時間となってしまい、結局栗山町のコースは「ショートコース」を回るのが精一杯となってしまったのだ。
 私はこのJRヘルシーウォーキングでは全て基本コース(ロングコース)を歩くことを旨としている。したがって、私の中では栗山町コースはまだ未踏だと思っていたので、今回改めて「基本コース」を歩くことにしたのである。
コースは栗山駅から小林酒造、谷田製菓と栗山町の代表的な企業のところを巡り、栗山公園を周遊した後、栗山の農村地区を巡るという12.5キロのコースである。
 コースのS & GとなっているJR栗山駅は他の町でもよく見られる町商工会の事務所、コミュニティセンターなどが同居するようなモダンな建物だった。

    
    ※ 栗山町商工会やコミュニティセンターと同居したJR栗山駅です。
 
 跨線橋を超え、駅の裏側の夕張川の近くにまず「小林酒造」の今は使われていない(?)古い建物群が立ち並ぶ中を歩いた。その途中に「小林酒造北の錦記念館」があるのだが、こちらも私は以前に訪れたことがあるのでパスした。

    
    ※ 栗山駅からすぐに駅裏に移動するため跨線橋からJR室蘭線を写してみました。
    
    ※ 駅裏からほど近くを「夕張川」が流れています。
    
    ※ 小林酒造の蔵ですが現役かどうかは分かりません。一部はレストランになっていました。
    
     ※ 「小林酒造北の錦記念館」です。

 続いて「日本一のきびだんご」で有名な「谷田製菓」の前を通る。昨年も感じたのだが、この「谷田製菓」の建物が意外にもごく普通の事務所なのはちょっと腑に落ちない。「きびだんご」という希少な菓子を製造しているのだから、そのことをもっとアピールするような社屋を造っては?と思うのだが…。

    
    ※ 谷田製菓の本社事務所と思われる建物です。

 JR室蘭線の跨線橋を潜り、街中へ出る。栗山駅前通りは過疎化が進む他の町とは違い、まだまだ商店街の様相を呈してはいた。それでも私が「空知フットワーク」で訪れた12年前には商店街に音楽が流れていて驚いたのだが、今回それを聞くことはできなかった。

    
    ※ 栗山町の駅前商店街です。
    
    ※ 商店街の各商店の軒先には写真のようなシルエットの看板が掲げられていました。
    
    ※ 栗山町の物産館的役割を担う「栗夢プラザ」です。

 この商店街を栗山監督は長靴を履いて、軽トラックに乗り優勝パレードをしたのだろうか?見てみたかったなぁ…。

        
 ※ WBC優勝を記念するパレードです。確かに軽トラ、そして長靴ですね。(写真はウェブ上からお借りしました)

 商店街を抜け、栗山公園へ向かう途中に立派な「栗山天満宮」があった。この神社も小さな町にしてはかなり豪華な造りの神社に見えた。

    
    ※ とても立派に見える「栗山天満宮」の鳥居と本殿です。

 「栗山公園」は「小動物園」があるので知られている。この日も日曜だったこともあり、多くの家族連れが楽しんでいた。私はそれを横目にマップに従い「栗山公園」巡りを開始した。その公園巡りの中に公園内にある「御大師山」登山が含まれていた。「御大師山」は調べてみると標高僅か115mということなのだが、これが意外に急角度で登る山道となっていて夕張市ウォークで疲れている自分にとってはかなり辛い登山となった。

    
    ※ 「栗山公園」のエントランスです。
    
    ※ 栗山公園内の「御大師山」へはこうした階段上りがかなり続きました。
    
    ※ ここが御大師山の頂上です。特に印はありませんでした。

 山頂から少し離れたところに、栗山町市街を眺望できる「展望台」からの眺めが少しだけ私を癒してくれた。

    
    ※ 街を展望するための展望台です。
    
    ※ 展望台から見た栗山市街の様子です、(下の写真も)
    

 栗山公園を過ぎると、後は農村に多い典型的な田舎道ウォークである。約6キロの田舎道歩きはかなり応えたが、途中には前日本ハム監督で、かつWBC優勝監督の栗山英樹氏が所有する「栗の樹ファーム」の入口があった。しかし、現在は「完全休館」という看板が出ていて立入禁止となっていた。(私は過去にここを2度ほど訪れている)看板には栗山氏の自筆で「WBCではたくさんの応援ありがとうございました」というメッセージも添えられていた。

    
    ※ 「栗の樹ファーム」の入口に建つ看板です。
    
    ※ 看板の近くには写真のような断り書きがありました。

 さらには、その看板のすぐ傍に「バットの森づくり植樹」と表示された看板があり、その横には植樹された幼木(アオダモの木?)がたくさん並んでいた。これもまた栗山監督の功績なのかもしれない。

    
    ※ ちょっと異様にも映りますが、食害を防ぐために幼木に袋を被せているようです。

 コースは淡々と田舎道を進む。時々農家が姿を現すが、そこにはたくさんのビニールハウスが目立った。何を栽培しているのだろうとちょっと覗かせてもらったところ、収穫の盛期を過ぎたアスパラが栽培されていた。

    
    ※ こうした田舎道が淡々と続きました。
    
    ※ ビニールハウスではアスパラを栽培していました。

 コースは小高い丘状のところに至ったが、そこから栗山町の田園風景が目に入った。その風景からはどことなく豊かな農村といった感じに私の眼には映った。

    
    ※ 小高い丘からは栗山町の豊かな田園風景が望めました。

 さらに進むと、道路沿いに古い校舎のようなものが見えた。それは旧雨煙別小学校なのだが、そこを(株)コカ・コーラが買い取り、改修して宿泊設備を整え「雨煙別小コカ・コーラ環境ハウス」として環境教育の拠点としている。ここも私は以前に宿泊はしなかったが訪れて内部を見学させていただいた経験がある。

    
  ※ 「雨煙別小コカ・コーラ環境ハウス」の建物です。グラウンドは全面芝張りでした。

 あとは栗山町の市街地を目ざしてひたすら単調なウォーキングが続いた。かなり疲れが顕著となり、一休みするベンチがあればと思ったのだが、無情にもそのようなものは見当たらなかった。
 街中に戻り、「栗山警察署」(かなりのパトカーが並んでいたところを見ると、周辺の中心警察署なのかもしれない)を右折し、栗山駅へ向かっての直線にのびる商店街を再び通りゴールの栗山駅へ着いたのは、締め切り時間の午後4時の20分前だった。

    
    ※ 栗山警察署です。門の陰にたくさんのパトカーが並んでいました。

 過疎が続く北海道の街であるが、栗山町の場合はその過疎化が他の街に比べて進行が遅いのかな?といった印象を受けたウォーキングだった。 

    
    ※ ゴールの栗山駅前には栗山町の花 "ユリ" を象ったモニュメントが設置されていました。
                                                    
◇ウォーク実施日  2024年6月23日(日)
◇歩いた距離    12.5 km

※ 昨日の投稿では写真が未掲載でしたが、本日写真も貼付しました。昨日の投稿を再度見ていただければ幸いです。

ヘルシーウォーキング㉟ in栄華の名残に思いを馳せて、夕張・鹿の谷ウォーク

2024-06-23 21:01:15 | JRヘルシーウォーキング & さっぽろラウンドウォーク
 過疎の象徴とも語られる夕張市を歩いた。確かに道路に面して閉店した商店があったり、雑草に覆われた住宅が散見されたりした光景にも出会ったが、再建に向けての足音も感じられた夕張ウォークだった。

  

 本日6月23日(日)は、当初「イベントウォーク」の当別町のロイズタウン駅S & Gに参加する予定でいた。ところがコースマップが公表されたのを見ると、昨年とまったく同じコースだった。これでは「より多くの街を見て、体験したい」という私のコンセプトに反する。そこで検討した結果、ヘルシーウォーキングでは未体験の「いつでもウォーク」の夕張市と、昨年消化不良に終わった(その訳は明日レポします)隣町の栗沢町を歩くことにした。
 2市町のコースを歩くことから、早朝に出発しようと思っていたのだが出遅れてしまい7時30分に我が家を出発した。
 今回の夕張市のS & Gは、旧夕張駅の前に立つ休業中の「ホテルマウントレースイ」前だった。

    
※ スタート地点に建っていた「ホテルマウントレースイ」の立派な建物ですが、現在は休業中とのことでした。

 コースは旧JR石勝線夕張支線の脇を走る国道38号線を南下し、「幸福の黄色いハンカチ広場」から折り返し、旧JR石勝線夕張支線の反対側を走るサイクリングロードを北上し、S & Gポイントを通過し、「夕張市石炭博物館」を折り返すというルートである。
 私は10年前に「そらちフットパスウォーク」で1度夕張市を歩いた体験があった。しかし、その時は夕張市が最も栄えた時代に最も人口が多かったという「清水沢地区」を歩いたのだが、今回はその地区より奥に位置する「鹿の谷地区」(正式には「若菜地区」というらしい)を中心とした地域だった。その10年前の時には、賑やかだったという「清水沢地区」だけに、衰退ぶりも顕著に目にすることができた。

    
    ※ 廃業した酒屋さん。壁には「〇〇良い酒」とあります。〇〇にはどのような文字が入るのでしようか?

    
    ※ 家主を失った住宅の前はフキの葉が密生していました。
    
    ※ こちらは道路沿いに建っていた旧市立図書館です。窓ガラスは割れ放題でした。
    
    ※ 空き家の前や空き地には何故かマーガレットの花が目立ちました。

 今回の「鹿の谷地区」も道路沿いに閉店した商店や廃屋となった民家を目にしたが、一方で新たな街づくりを目指した真新しい公共施設や集合住宅を目にすることができ、再建へ向けての兆しも感ずることができた。

    
  ※ こちらは真新しい「夕張市立診療所/介護医療院」の看板がかかっていました。
    
    ※ 若菜地区に建つ真新しい市営の集合住宅です。

 最初の折り返し点の「幸福の黄色いハンカチ広場」は、ヘルシーウォーキングのチェックポイントだった。(駅がないので、観光協会の職員がチェックの担当をしている?)私は「幸福の黄色いハンカチ広場」は以前に体験しているので見学はパスしてチェックだけしていただき再スタートをきった。

    
    ※ 「幸福の黄色いハンカチ広場」の入口に建つ入場受付事務所です。

 この折り返しからのコースが素晴らしかった。コースマップでは特に触れてはいなかったが、そこはサイクリングロードだった。車が通らず、サクラ並木が続く素晴らしいコースが続いた。

    
    ※ 旧JR石勝線夕張支線を左手にのびるサイクリングロードです。

 廃線となった旧JR石勝線夕張支線はまだ鉄路が撤去されずにそのまま残っていたが、廃線から5年目。線路上には雑草が生い茂っていたのが痛々しかった。

    
    ※ 旧JR石勝線夕張支線は撤去されずにこのように残っていました。

 「旧夕張駅舎」はすでに改修(改築?)されてカフェのようになっていたが、途中にあった「旧鹿ノ谷駅」は、駅舎も乗降場も当時のまま保存されていた。

    
    ※ 旧夕張駅の乗降場跡です。

 S & Gを通過し、さらに北にある「夕張市石炭博物館」を目指した。すると意外にも向かう途中に「夕張市役所」があった。市域の中ではずいぶん奥まったところに市役所を建てたものである。ただ地区名だけは「本庁地区」と称しているようだ。実は私は以前に「札幌学院大学」の講座で市役所を訪れ、市役所の職員から夕張市の街づくりについてお話を伺ったことがあった。その際、大きな市役所の中に職員がまばらにいるだけでずいぶんガラーンとしていたなぁ、という印象を抱いたのだが、おそらく職員数はいまも変わらないのではないだろうか?

    
    ※ 外観はかなり立派な夕張市役所です。
    
 市役所からさらに2キロほど奥に「夕張市石炭博物館」があった。こちらも私は以前に博物館内部も模擬坑道も体験済みのためパスしてすぐに折り返しスタート地点に戻ったのは、12時30分だった。

        
        ※ 「夕張市石炭博物館」の横に立つ立坑櫓の遺構です。
    
    ※ 「夕張市石炭博物館」の入口です。

 本日は気温が20℃を超え、かなり汗もかき、疲労度もそれなりのウォーキングだった。

    
    ※ S & Gにある「夕張マウントレイスイスキー場」です。私も2度ほど滑ったことがあります。 

◇ウォーク実施日  2024年6月23日(日)
◇歩いた距離    14.0 km                                         


地球温暖化は北海道にどう影響するか?

2024-06-22 19:49:20 | 講演・講義・フォーラム等
 昨年夏の札幌は15日連続で真夏日(30℃以上)を記録するなど、明らかに地球温暖化の影響が顕著となった猛烈な暑さを私たちは体験した。はたして今後の札幌の気候はどうなっていくのだろうか?研究者の話を聴いてみた。

     

 本日午後、紀伊國屋書店札幌本店インナーガーデンにおいて、北海道立総合研究機構(略称:道総研)が「道総研セミナー 身近な科学を学ぼう!」に参加した。
 今回のセミナーのテーマは「北海道の気候変動 どうなる?どうする?」と題して道総研の二人の研究者が発表した。
 初めは、「温暖化が夏と冬の生活にどう影響するか」について鈴木啓明研究員が話された。
 鈴木氏はまず札幌の気温は過去100年の間に1.75℃上昇したという調査結果を公表された。
 そして夏に関して言うと「暑さ指数(この指数の計算はやや複雑のようだ)」が “厳重警戒” とされる28度となる日が増加しているという。また “強い雨” と表現される1時間の降水量が30mmを越える日も増えているそうだ。
 反対に冬は降雪量の減少傾向が今後続き、“ゼロクロッシング日数” の増加が予想されるという。“ゼロクロッシング” とは、一日のうちで最低気温が氷点下で、最高気温が0℃を上回る日を指すそうだ。この現象は道路の凍結と溶解をくり返すことで道路表面の破壊が進む現象を生むという。

   

 その地球温暖化の進み具合について、研究者の間ではこの先100年間の間に「2℃上昇シナリオ」と「4℃上昇シナリオ」の二つの説が存在するそうだ。それは十分な対策を施した場合と、そうでない場合ではそれだけの差が出てくるということを表しているという。
 一方、もう一人の大屋祐太研究員は最近よく耳にする “線状降水帯” について説明された。
 “線状降水帯”とは、「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなし、組織化して数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される長さ50~300km程度、幅20~50km程度の強い降水を伴う雨域」のことを言うそうである。こうした “線状降水帯” が九州や本州ばかりでなく、今後は北海道でも十分に考えられると指摘された。そういえば、先日お聞きした「さっぽろ市防災・減災セミナー」においても講師の鈴木氏が札幌における “線状降水帯” について指摘されていた。  

   
                        
 さて、こうして地球温暖化の影響が札幌においても顕著に現れるという状況の中、どのような対策が考えられているかというと、一つはやはり「脱炭素社会」を目指して地球温暖化の “緩和” 策を進めることだという。北海道においても「ゼロカーボン北海道」の取り組みを加速させる必要があるという。
 さらには、避けられない地球温暖化を前にして、そうした事態に “適応” することも対策の一つであるという。つまり「気候変動適応計画」なるものを北海道も各市町村においても早急に樹立することが必要である、と結ばれた。
 今年の夏が、昨年と同じような “酷暑の夏” になるのだろうか?
 私たち一人ひとりが「脱炭素社会」に向けてできることを実践するとともに、どうのようにして「酷暑を乗り切るか」を考える夏にしたいと思う。

映画  九十歳。何がめでたい  №375

2024-06-21 18:05:33 | 映画観賞・感想
 久しぶりの映画観賞だった。作家・佐藤愛子さんの同名のエッセイの映画化である。佐藤さんの毒舌とユーモアが、主演の草笛光子さんと好演が相まって、終始笑いを交えながら楽しませてもらった映画だった。

    

 表記映画が本日全国公開と知って、特に予定のなかった私は午前からシネマフロンティアに出かけて鑑賞した。客筋はやはり私と同年代と思われる高齢と思われる方が多く、特に女性の姿が目立ったようだ。
 原作は作家・佐藤愛子さんが93歳の時に作家生活の集大成として「晩鐘」を書き上げ、作家生活の引退を宣言したのだが、その後鬱々とした生活をしていた中、小学館の編集者の強引な口説き落としによって、週刊誌にエッセイを連載することになった。その題名が「九十歳。何がめでたい」である。

      
     ※ 佐藤愛子さんのエッセイ「九十歳。何がめでたい」の表紙です。

 そのエッセイは、ある紹介文によると「“暴れ猪”佐藤節が全開。自分の身体に次々起こる“故障”を嘆き、時代の“進歩”を怒り、悩める年若い人たちを叱りながらも、あたたかく鼓舞しています。自ら災難に突進する性癖ゆえの艱難辛苦を乗り越え92年間生きてきた佐藤さんだからこそ書ける緩急織り交ぜた文章は、人生を逞しく生きるための箴言も詰まっていて、大笑いした後に深い余韻が残ります」とある。
 映画はその佐藤愛子役を、今年90歳を迎えた草笛光子さんがエネルギッシュにチャーミングに演じ、それをサポートする編集者役の唐沢寿明がコミカルに支える演技がはまっていたと私には思えた。
 佐藤愛子さんの言を“暴れ猪”とは、言いえて妙とも言えるが、現代の世相に噛みつく様は人から見れば“暴れ猪”のように見えるのかもしれない。その“暴れ猪“ぶりを草笛さんは見事に演じ切っていたからこそ、会場内からは絶えず笑い声が行き交っていたのだろう。

         
  ※ 何歳の時の佐藤愛子さんかは不明ですが、笑顔が魅力の佐藤さんの近影です。

 そしてやはり作家は作家として、映画俳優は映画俳優として、自ら与えられた使命を一生を通して全うするのが幸せなのでは?と観客に問いかける内容になっていたと私は解釈した。
 佐藤愛子さんは今年100歳を迎えられたというが98歳のときにも「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」という著書を上梓した。
 佐藤さんのように長生きはできないとしても、彼女の生き様は私も命ある限り見習っていきたいものだなぁ、と映画を観終えて思わされた。               

吉川英治著「宮本武蔵」を読む

2024-06-20 20:12:28 | 本・感想
 遅ればせながらこの度「国民文学作家」とも称された吉川英治が著した「宮本武蔵」の文庫版を読了した。非常に興味深く物語に没頭されられながら読んだのだが、昭和初期の作品とあって、今読むと若干の違和感が拭えなかったのも事実だった。

   

 私はあまり熱心に読書に勤しむというタイプではない。だから現代小説もそれほど手に取ることはなく、ましてや時代小説などほとんど読んだことがなかった。
 それが某日、中古本販売の大手「△△△△OFF」を覗いてみたら、講談社文庫版の「宮本武蔵」が格安で全8巻が並んでいた。「うん、時には時代小説もいいなぁ…」程度の軽い気持ちで購入した。(何せ格安である)
 早速読み始めてみると、これが期待どおりに面白い。
 吉川作品によると武蔵は関ヶ原の戦いで西軍に加わり参戦し、西軍敗戦後は隠遁し、剣の道に精進し、魂の求道を通して鏡のように澄明な境地に達する過程を詳細に描いているのだが、その過程の多くは吉川英治の創作と言われている。例えば、関ヶ原の戦いにおいて武蔵の父は東軍に加わったという史実が残されているという。親子が東西に分かれて戦うのは不自然ではないか、と主張する史家も多い、といったように…。
 吉川作品はある意味で、自らの創作も交えて宮本武蔵を希代の英雄としてまつり上げる上で大きな役割を果たしたようである。

      
      ※ 「宮本武蔵」の著者・吉川英治氏です。

 さて、物語全体についての私の印象であるが、私のように知識の浅い者にとっては “宮本武蔵” というと佐々木小次郎との “巌流島の決闘” が直ぐに思い浮かぶ。私はその場面が「いつ来るのか、いつ来るのか」と読み進めたのだが、いっこうにその場面が表れない。なにせ文庫本は一冊が400ベージほどの量で8冊もあるのだが、物語の大半は、武蔵は野にあって自ら剣を磨きながら、二人の弟子(三木之介、伊織)を相前後して従えつつ、幾多の決闘を勝利する場面もあるが、その他武蔵を恋い慕う “おつう” とのまるでメロドラマのようなすれ違い、あるいは武蔵を宿的として命を狙うことに執念を燃やす “お杉ばば” の武蔵追跡劇、もちろん武蔵の本当の宿敵・佐々木小次郎もところどころで登場するが…。
 結局、私が期待しながら読み進めた “巌流島の決闘” 場面は第8巻の357~366頁の僅か10頁足らずで描き、それがこの「宮本武蔵」の終焉だった…。
 吉川英治としては「巌流島の決闘」を最大最高の見せ場として、そこにいたる大河のような流れをそこに収斂させるという手法を取ったのだろう。
 しかし、私のような時代小説を解しない者にとっては、例え「巌流島の決闘」を最後の見せ場とするとしても、武蔵と小次郎のそれまでの生き様や二人の生き方の違いなど、巌流島に至る二人の英雄の過程をもっと詳細に描いてほしかった思いが残った。また、巌流島の後の武蔵の生き様も知りたいと思ったのは素人の浅はかさなのだろうか?

          
         ※ 宮本武蔵自らが描いたとされる自画像です。

 「国民文学作家という大家の作品に向かって、お前はなんてことを言うんだ!」と多くの方々からお叱りを受けそうだが、素人ゆえの怖さ知らずで書いてしまったことをお許しいただければと思います。
 吉川英治著「宮本武蔵」を数週間にわたって楽しませてもらいました。
 (私の文章中に事実誤認のところがあったとすれば、全て私の責任です)


本番!さっぽろラウンドウォーク セクション4(石狩南高校 ⇒ 拓北駅)

2024-06-19 19:50:25 | JRヘルシーウォーキング & さっぽろラウンドウォーク
 さっぽろラウンドウォーク第3弾である。今回は小雨に見舞われたり、ルートの変更を余儀なくされたりした。しかし、大きな問題もなくこれまでよりメンバーに1人が加わり5人の仲間と予定どおりウォークキングを終えた。

 

 昨日(6月18日)、「めだかの学校」札幌ラウンドウォーク踏破クラブとして3度目となるラウンドウォーク セクション4を実施した。
 今回はいつものメンバーに加えて、これまで都合で参加できなかった1人も加えて計5人でセクション4である石狩南高校 ⇒ JR拓北駅間約14キロのウォーキングを楽しんだ。
 実施にあたって一つ問題が生起した。それはルートの一部で道路工事が行われており、前日に問い合わせたところ「通行不能である」との回答だった。そこで検討した結果、本来のルートより5~600メートル回り道となるが、石狩市側に迂回することで工事現場を通らなくともルートを繋ぐ方法をとることにした。
 当日は9時20分に地下鉄「麻生駅」に集合し、麻生駅からバスに乗り換えてスタート地点の石狩市・石狩南高校に向かった。

    
    ※ 今回のスタート地点となった南石狩高校の校舎です。

 午前10時、用意を整えスタートした。コンディションは曇り空、雨が心配される中でのスタートだった。スタートして直ぐ、札幌市と石狩市の境界を流れる「発寒川」の右岸(つまり札幌市側)の堤防上に造成されていたサイクリングロードを往く。
   
    
     ※ こうした単調な道が延々と6キロも続きました。
    
    ※ 発寒川沿いのサイクリングロードを往くメンバーです。

 「発寒川」は一級河川とのことなのだが、その源流近くはまるで小さな小川という感じで成長した雑草に隠れて流れも良く見えないよう川だったが、堤防を進むにつれて札幌市側から小さな川が流入することで徐々にその流量を増していくようだった。

    
    ※ 下流になってようやく一級河川らしい水面になりました。

 その流入する川の中の「安春川」が流入する地点で大規模な道路工事が行われており、 ラウンドウォークで設定されたルートが通行禁止の措置が取られていたのだ。私たちは発寒川に架けられた「花川橋」を渡り石狩市に入り、下流に架かる「紅葉橋」から再び発寒川堤防を歩くこととなった。石狩市側を歩いていた時、恐れていた雨が降り出した。メンバーはそれぞれ用意した傘やポンチョで雨を避けながらウォークを続けた。

    
    ※ それぞれ雨装備をして歩くメンバーです。

 その後も「発寒川」に流入する川は「屯田川」「東屯田川」と流入するごとに「発寒川」 の流れは川幅を増していった。それでも流れそのものは緩やかで、見た目には川が流れているようには見えないほどだった。
 「東屯田川」が流入するところには二つの「遊水池」があり、そこで給水休憩をとった。
 雨は降ったり、止んだりをくり返していたが、大降りにはならなかった。
 長い、長い(私の目測で約6キロ)「発寒川」堤防ウォークの最後は「伏籠川」への流入地点だった。この流入地点は「発寒川」、「創成川」、「伏籠川」の3川が合流する地点だった。(河川を管理する側は「発寒川」、「創成川」は、 「伏籠川」に流入する支流ということになっているようだ)こうした地形も河川改修によってできたものと推定することができた。その「伏籠川」もその先直ぐに「茨戸川」に流入するという形になっていた。
 そしてコースは、「茨戸川」に面したリゾートホテル「ガトーキングダムサッポロ」の横に導かれる。幸い雨も止んでいたので、その河岸で昼食タイムとした。

    
    ※ 茨戸川沿いのベンチで昼食を摂りました。

 昼食タイムを終えると、今度は「篠路川」の河岸歩きである。この「篠路川」も河川改修によって主流から切り離された川のようだった。くねくねと曲がりくねった川筋であるが流れがまったくないようで、水面にはスイレンなど水草が大量に発生していた。
 「篠路川」沿いのウォークが終わると、しばらくは「伏籠川」に沿っての道路歩きが続いた。そしてまたまた別の川が顔を覗かせた。「篠路拓北川」である。この川もやはり河川改修によって切り離された川のように思えた。やはり曲がりくねった川筋には公園(いきいき公園)もあり、その中を歩いた。

    
    ※ 篠路拓北川沿いのマンションが川の曲線に合わせるように曲線を描いていたので面白く思いカメラに収めました。

 そして川沿い歩きが終わり、拓北の住宅街を歩いてこの日のゴールであるJR拓北駅に着いたのは午後2時だった。総行動時間4時間、昼食時間、休憩時間を除く実質行動時間は3時間10分といったところだった。
 多少雨に見舞われたものの、それほど暑くはなく、ルート全体も平坦で全員それほど疲労した表情もなく、それぞれが楽しんだウォーキングだったようだ。

    
    ※  この日のゴールとなったJR拓北駅です。

 メンバーの中のベテランウォーカーの苫小牧市在住のN氏は、札幌市民でないこともあり、初めて目にする光景も多いようだ。帰りの列車内で感想を伺った時「歩くことによって、常に発見がある」と言われた。まさしく名言である。これからも新しい発見を楽しみながらラウンドウォークを続けたい。