荻野吟子は我が国の女医の第一号者であることは有名であるが、その彼女が北海道瀬棚町において開業していたことも北海道民にはかなり知られたことである。また、フェミニストとして女性の地位向上にも力を発揮した人だった。
※ 瀬棚町の荻野吟子公園に設置されている荻野吟子顕彰碑です。
昨夜(11月19日)、北海道労働文化協会が主催する「労文協リレー講座」の第2回講座が北海道自治労会館で開講され受講した。
テーマは「女医第一号 荻野吟子~フェミニストとして生きる~」と題して、北海道情報大学名誉教授の広瀬玲子氏が講師を務めた。
※ 講演をする広瀬玲子北海道情報大名誉教授です。
吟子は1851(嘉永4)年、現在の埼玉県妻沼町の豪農の家に生まれた。時はペリー来航の2年前、つまり江戸時代最末期であった。
当時の女性規範は「女は嫁して子を産み、家を守る」という儒教思想が当たり前とされ、「女性に学問はいらない」という中において、兄たちと一緒に学び、才媛の誉れが高かったという。
吟子は1868(明治元)年、17歳にして嫁ぐが、夫から淋病をうつされるという不幸に遭遇し、離縁することとなった。(これも男尊女卑の風潮がそうさせたと広瀬氏は指摘した)
それからは、自らを苦しめ、また多くの女性が同様に苦しんでいることを知り、そうした人を助けるために、まだ当時の日本にはいなかった “女医” の道を目ざして勉学の道をひたすら歩む。先駆者がいない中で、“女医” の道への扉を開けることは大変な困難との闘いであったことは想像に難くない。
1885(明治18)年、幾多の困難を乗り越え、吟子は見事公許女医第一号となった。時に吟子35歳の時であった。
※ 日本初の女医の免許を取得したことを記念した荻野吟子の写真と思われます。
そして東京で「産婦人科・小児科 荻野医院」を開業する。それと前後して彼女はキリスト教に入信した。キリスト教が「男女の対等性を認める」、そして「一夫一婦制を守る」ことに救いを求め、心の拠りどころとしたのではないか、と広瀬氏は解説した。
吟子は医業とともに、女性の地位向上や弱者救済の活動にも熱心に取り組んでいたが、そうした中で志方之義というキリスト教徒の学生と出会い、1890(明治23)年、周囲の反対を押し切り14歳も年下の志方と結婚することになる。
志方は結婚の翌年、北海道にキリスト教の理想郷を建設しようという理想に燃えて北海道利別原野(現在の瀬棚町から北桧山町の辺り)に入植する。一方、吟子は志方への資金援助のため東京に残り医業を続けるのだが、志方の苦闘ぶりを聞き、自らも1894(明治27)年に北海道に渡った。しかし、結局志方の開拓は断念に追い込まれる。
そして志方は伝道に専念し、吟子は生活の糧を得るために瀬棚町で医師として開業した。(明治30年頃と云われている)
瀬棚町で医業を続ける一方、瀬棚においても吟子は社会活動にも積極的に取り組んだという。
1904(明治37)年、吟子は病気療養のため一時帰郷し、姉の元で療養して翌1905(明治38)年半ばになってようやく瀬棚町に戻ったが、夫の志方が病に倒れ死去してしまった。
1908(明治47)年、東京に引き揚げたとき吟子は58歳になっていた。東京で医業は開業したものの、自らも療養が必要な身体とあって、社会活動から離れ療養生活を中心とした生活を送っていたが1913(明治46)年、63歳で逝去した。
ここまで広瀬氏はある意味淡々と吟子の一生を順に語るような講義だった。そして最後に広瀬氏は「吟子の思想」について触れた。下図の通りであるが、受講者から講義後に「キリスト教精神」・「女性の自律(立?)」と「ナショナリズム、士族的精神」は相いれないのではないか、といった質問が出たが、広瀬氏は「吟子は幼少期に国学を学んだこともあり、国を支えなければならない」という精神が、彼女の中では違和感なくキリスト教精神や女性の自律と同居したのではないか、と話された。
困難に立ち向かい、女性の地位向上、弱者救済に立ち向かった日本初の女性医師が北海道瀬棚町においても医業や社会活動に貢献されたということを私たち道産子は忘れてはなるまい。