田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

女医第一号の荻野吟子の生涯を辿る

2024-11-21 19:29:43 | 講演・講義・フォーラム等
 荻野吟子は我が国の女医の第一号者であることは有名であるが、その彼女が北海道瀬棚町において開業していたことも北海道民にはかなり知られたことである。また、フェミニストとして女性の地位向上にも力を発揮した人だった。

        
        ※ 瀬棚町の荻野吟子公園に設置されている荻野吟子顕彰碑です。

 昨夜(11月19日)、北海道労働文化協会が主催する「労文協リレー講座」の第2回講座が北海道自治労会館で開講され受講した。
 テーマは「女医第一号 荻野吟子~フェミニストとして生きる~」と題して、北海道情報大学名誉教授の広瀬玲子氏が講師を務めた。

     
     ※ 講演をする広瀬玲子北海道情報大名誉教授です。

 吟子は1851(嘉永4)年、現在の埼玉県妻沼町の豪農の家に生まれた。時はペリー来航の2年前、つまり江戸時代最末期であった。
 当時の女性規範は「女は嫁して子を産み、家を守る」という儒教思想が当たり前とされ、「女性に学問はいらない」という中において、兄たちと一緒に学び、才媛の誉れが高かったという。
 吟子は1868(明治元)年、17歳にして嫁ぐが、夫から淋病をうつされるという不幸に遭遇し、離縁することとなった。(これも男尊女卑の風潮がそうさせたと広瀬氏は指摘した)
 それからは、自らを苦しめ、また多くの女性が同様に苦しんでいることを知り、そうした人を助けるために、まだ当時の日本にはいなかった “女医” の道を目ざして勉学の道をひたすら歩む。先駆者がいない中で、“女医” の道への扉を開けることは大変な困難との闘いであったことは想像に難くない。
 1885(明治18)年、幾多の困難を乗り越え、吟子は見事公許女医第一号となった。時に吟子35歳の時であった。

        
  ※ 日本初の女医の免許を取得したことを記念した荻野吟子の写真と思われます。

 そして東京で「産婦人科・小児科 荻野医院」を開業する。それと前後して彼女はキリスト教に入信した。キリスト教が「男女の対等性を認める」、そして「一夫一婦制を守る」ことに救いを求め、心の拠りどころとしたのではないか、と広瀬氏は解説した。
 吟子は医業とともに、女性の地位向上や弱者救済の活動にも熱心に取り組んでいたが、そうした中で志方之義というキリスト教徒の学生と出会い、1890(明治23)年、周囲の反対を押し切り14歳も年下の志方と結婚することになる。
 志方は結婚の翌年、北海道にキリスト教の理想郷を建設しようという理想に燃えて北海道利別原野(現在の瀬棚町から北桧山町の辺り)に入植する。一方、吟子は志方への資金援助のため東京に残り医業を続けるのだが、志方の苦闘ぶりを聞き、自らも1894(明治27)年に北海道に渡った。しかし、結局志方の開拓は断念に追い込まれる。
 そして志方は伝道に専念し、吟子は生活の糧を得るために瀬棚町で医師として開業した。(明治30年頃と云われている)
 瀬棚町で医業を続ける一方、瀬棚においても吟子は社会活動にも積極的に取り組んだという。
 1904(明治37)年、吟子は病気療養のため一時帰郷し、姉の元で療養して翌1905(明治38)年半ばになってようやく瀬棚町に戻ったが、夫の志方が病に倒れ死去してしまった。
 1908(明治47)年、東京に引き揚げたとき吟子は58歳になっていた。東京で医業は開業したものの、自らも療養が必要な身体とあって、社会活動から離れ療養生活を中心とした生活を送っていたが1913(明治46)年、63歳で逝去した。
 ここまで広瀬氏はある意味淡々と吟子の一生を順に語るような講義だった。そして最後に広瀬氏は「吟子の思想」について触れた。下図の通りであるが、受講者から講義後に「キリスト教精神」・「女性の自律(立?)」と「ナショナリズム、士族的精神」は相いれないのではないか、といった質問が出たが、広瀬氏は「吟子は幼少期に国学を学んだこともあり、国を支えなければならない」という精神が、彼女の中では違和感なくキリスト教精神や女性の自律と同居したのではないか、と話された。

     
 困難に立ち向かい、女性の地位向上、弱者救済に立ち向かった日本初の女性医師が北海道瀬棚町においても医業や社会活動に貢献されたということを私たち道産子は忘れてはなるまい。                                  
  

札幌市中央図書館「屯田兵の足跡」展

2024-11-20 16:13:00 | 講演・講義・フォーラム等
 “屯田兵” が北海道の開拓のために大きく貢献したことに異論はないと思う。(もちろん北海道の先住民族としてのアイヌ民族の存在はあったが)その屯田兵の足跡を辿る展覧会が札幌市中央図書館で開催中と知って駆け付けた。屯田兵となるための「移住手引書」、「屯田兵手帳」、あるいは屯田兵が子弟のための学校に寄付したことに対する「下賜状」など貴重な品々を目の当たりにした。

       

 昨日(11月19日)、特に日中に特に予定もなかったことから、以前から気にしていた中央図書館で開催中(実際には隣接する「埋蔵文化財センターの一室で開催されていた」」の「屯田兵の足跡~明治の札幌をたどって~」を観覧に訪れた。
 私は「めだかの学校」でこの夏、「さっぽろの古を訪ねて」の第三弾として「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を辿る」をテーマとして、札幌近郊に点在する五つの屯田兵村跡を訪ね歩いた経緯もあり、この展覧会は必見であった。
 展覧会は主として当時の屯田兵に関するさまざまな現物資料が展示されていた。それらを写真の収めようとしたのだが、ガラスケースに収められていたために照明が反射して上手く写せなかったのが残念だった。

    
※ 写真は明治元年の札幌地図の複製です。明治8年に高見沢権之丞によって原本から複製したとなっている。地図の中央を横断するように流れているのが大友堀(現在の創成川)です。

 その中で特筆すべきは、屯田兵として採用された人たちが北海道に移住するに際しての心構え、注意等が記されているであろう「移住手引書」なるものが目を惹いた。

    
    ※ 移住手引書は年代により表紙の装丁が違っていたようです。

 また、琴似屯田兵村を訪れた際に見せていただいたのは絵画だったが、その画の元となった屯田兵たちが開墾地に勢ぞろいしている写真は見応えがあった。

 
※ 写真は琴似屯田兵村に入植した屯田兵が勢ぞろいした写真だと思われます。

 そして「屯田兵手帳」である。ガラスケースに入っていたために直接手に取って内容を見ることはできなかったが、おそらく屯田兵心得のようなことが記されていたのではないかと思われる。

    
    ※ 屯田兵の必携(?)の「屯田兵手帳」です。

 また、札幌近郊の屯田兵が移住して数年、あるいは数十年経った後に刊行されたのであろう記念誌類もたくさん展示されていた。

    
※ 各屯田兵村で入植〇〇年を記念して刊行された記念誌です。 

 また屯田兵そのものとは一線を画す、特に上川地方の屯田兵を指導されたとされる第七師団長、北海道庁長官などを歴任した永山武四郎が明治18年に一年間の欧米出張から帰国した際に記した直筆の復命書的なものも目にすることができた。

    
    ※ 台上に展示されてあるのが、永山武四郎の自筆による復命書的な文書です。

 さらには、お雇い外国人の一人で「北海道農業の父」と称されるエドウィンダンの「ダンカルタ」なるものが展示されているのが嬉しかった。というのも、やはり「めだかの学校」で真駒内にある「エドウィンダン記念館」を訪れた際に、説明員の方が「私たちでエドウィンダンのカルタを作ったんですよ」と話されたのだが、その際には実物を見ることができなかったのだが、今回はガラス越しとはいえしっかりと実物を見ることができたが、私たちがイメージするカルタより大判の取り札が印象的だった。

      
      ※ 「ダンカルタ」ですが長辺は20cmくらいある大判のカルタでした。

 また、リード文でも触れたが当時の開拓者たちは、屯田兵はもちろんのこと、全ての人たちが子弟の教育のために積極的に支援を惜しまなかったようだ。展示されてあった「下賜状」なるものは、そうした寄付行為に対して札幌県からの感謝状的のようなものだった。 

    
    ※札幌県から屯田兵の下賜された「下賜状」です。
                      
 というように、屯田兵村跡を訪ねた時には見ることのできなかった貴重な資料を数多く見ることができた。
 できればこれらの資料がいつでも見られるような施設(ex.構想されている?札幌市博物館)に展示されることを望みたいものである。
       
       ※ 屯田兵の制服も展示されていました。

免疫力をアップして、感染症に強い体をつくる!

2024-11-19 15:40:36 | 講演・講義・フォーラム等
 「免疫力をアップするとは?」…、私たちの体は外部からの様々なウィルスや細菌の攻撃を受けているという。それらの攻撃から身を護るためには免疫力のアップが最も有効だという。専門家からお話を聴いた。

 昨日(11月18日)午後、道民カレッジ主催の「ほっかいどう学・かでる講座」の本年度最終講座が開講されたので受講した。今回のテーマは「免疫力アップは、全ての病気を予防する~感染症に強いカラダづくり~」と題して北海道医療大学福祉看護学部の塚本容子教授からお話を伺った。

      
※ 私は存じ上げなかったがコロナ禍の際には道内テレビに頻繁に出演されて、コロナ禍対策をアドバイスされた免疫学の第一人者だということだ。

 塚本教授はまず「免疫とは?」と問うて「免疫とは “非自己” を認識して、排除する防衛機能のことである」と定義し、ウィルスや細菌を “非自己” と認識してヒトの体は防衛しようとするのだが、その防衛力を強化することとは、すなわち “免疫力をアップすることだ” と強調された。
 これまで地球上では何度もコロナのようなパンデミックに見舞われ未曽有の死者を出してきたが(今回のコロナ禍による世界の死者数は約553万人とみられている)、今後10年間の中でコロナのようなパンデミックが起こる確率が38%であると学界の説を塚本教授は紹介した。ということは、我々高齢者にとってもまたあの悪夢のような体験をしないとも限らないのだ。ところが塚本教授によると「高齢者は免疫細胞が作られにくい体になっている」と強調された。つまり我々高齢者はパンデミックの直撃を受ける当事者だということである。
        
     
 それでは免疫細胞が作りやすい体とは?言い換えれば「免疫力をアップするためには?」
次のことに留意すべしとアドバイスをいただいた。それは…、
 ① 適度な活動と休養のバランスを取ること。
 ② からだを温めること。
 ③ ストレスを減らすこと。
 ➃ タンパク質の摂取
 ⑤ 腸内環境を整えること。
の5点に留意すべきだという。
 この5点の中で、適度な活動とは高齢者に多いウォーキングによる有酸素運動も大切だが、脚の “筋力強化” がより大切と強調された。
 また「腸脳相関」という言葉を紹介され、腸が異常なく活発に活動することにより、ストレスを減らすことにも繋がり、腸内環境を整えることの大切さも強調された。
        
    
 その腸内環境を整えるためには、①食物繊維の摂取、②乳酸菌の飲用、③タンパク質の摂取などが大切だということだ。
 例えパンデミックには遭遇しなくとも、免疫力が低下することによって私たちの体はさまざまな障害に遭遇しやすくなるようだ。帰宅後に調べてみると、それは
 ・細菌やウィルスに感染しやすくなる。
 ・口内炎やものもらいがよくできる。
 ・のどが腫れやすい。
 ・病気やケが治りにくくなる。
 ・抗生物質の効き目が悪くなる。
 ・自己免疫疾患が発症しやすくなる。
 ・予防接種の効き目が悪くなる。
 ・活動するのが億劫になる。
 ・疲れやすくなる。だるい。
 ・食欲の低下。
 ・肌が荒れやすい。
いやいやこんなにたくさんの不具合があることが分かった。
 今回の受講を機に「免疫力のアップ」に留意した生活をするようにしたいと強く思った私だった。

高石ともやさんを偲び歌いつくす in 北八劇場

2024-11-18 12:35:06 | 講演・講義・フォーラム等
 フォークシンガーとして一時代を築いた高石ともやさんが逝って4ヵ月、高石ともやさんと人生を共にした人たちが北八劇場に集い、彼の残した歌を歌い、そして偲び、自らの人生を振り返った。私もそんな一人として…。

    

 昨日(11月7日)、高石ともやさんが逝去されてからちょうど4カ月目にあたる日に彼を慕う人たちの手によって「高石ともやさんを偲び歌いつくす in 北八劇場」(当日いただいたプログラムには「ともやさんを偲び語りつくす会」ともなっていたが…)があり、高石さんと多くの出会いを持たせてもらった私も参加させてもらった。
 参加を申し込んだときに、会の実質的に取りまとめた金子国彦さんという方から、私のことを「知っていますよ」という言葉をいただきとても嬉しかった。金子さんは高石ともやさんと深川西高校で知り合い、それ以来交友を続けてきて北海道の高石ともやファンをまとめてきた方なのだ。(今回も全体司会を務められていた)
          
 ※ この日の会を実質的に取り仕切った高石ともやさんの同級生・金子国彦さんです。

 会は4部構成となっていた。
 第1部は、「ナターシャの会」という高石さんと同年代の4人グループ+αの方々の演奏・歌唱によって高石ともやさんが諸外国のカントリーミュージックを日本語に訳して紹介した「107ソングブック」の中から5曲ほどを会場全体で歌った。

     
     ※ 歌の方のリードをしてくれた「ナターシャの会」のメンバーの方々です。

 その途中でサプライズが!なんと、高石ともやさんの長男が来札していて舞台に登場したのだ。高石さんに良く似た50歳代ではと思われる好男子だった。彼はまた第2部で父と歌った歌ということで一曲歌も披露してくれた。

         
         ※ 高石ともやさんのご長男です。(お名前の紹介はなかった?)

 第2部は、現役で音楽活動を続けられている方々のステージだった。一人はバイオリニストの杉田という女性だった。そしてもう一人はフォーオンブラザースと紹介があったが、なんだか一人だけが目立つステージで「趣旨が生かされているのかな?」と疑問に思えたが、途中で北大のブルーグラス研究会の部長の方が演奏された。

    
    ※ ステージ真ん中の方が北大のブルーグラス研究会の部長さんです。
      (会場参加者の中で最年少と紹介されました)

 第3部は北海道が生んだ(?)フォークシンガー & 料理研究家(そり他肩書多数)の河村通夫さんとその仲間のステージだった。河村さんはもはやシンガーというよりは、生き方の伝道師と称した方が相応しいのかもしれません。自作の歌も披露しましたが、高石さんの歌も河村流の歌い方で披露してくれました。彼をサポートしたハーモニカ奏者の独特の奏法が印象に残った。
 そして第4部は参加者の中から自薦した人たちがステージに登場し、それぞれが高石ともやさんを偲び、彼の歌を歌い、会場の方々もそれに和して歌った。私も自ら志願してステージに立った。歌った曲は、高石さんが京都の街の情景を歌った「街」という曲を、私が教員時代に勤務したオホーツク原生花園に近い街に勤務した際に、その街の情景を「街」のメロディーに乗せて子どもたちと歌っていた「街」(小清水バージョン)を披露させてもらった。その歌詞とは、以前にも拙ブログで紹介したが、再掲させていただく。

「街」(小清水バージョン)

1.白鳥の舞 凍てつく海 吹きわたる風の音
  北キツネの親子 白い野原に遊ぶ
 ※ この街が好きさ 君がいるから
   この街が好きさ 君のほほえみあるから

2.ハマナスの花 さざ波の音 草はむ牛の群れ
  青い空広い海 オホーツクの花園
 ※(繰り返す)

3.流れる川 ジャガイモ畑 緑の草原
  斜里岳の稜線 響くトラクターの音
 ※(繰り返す)

 高石ともやさんを偲ぶ会は予定の4時間を大幅に超え、5時間近くとなったが彼の歌を、人柄を慕った人たちにとっては至福の5時間だったに違いない。もちろん私にとっても…。

      
  ※ 最後のおまけの写真です。私が1981(昭和56)年に東藻琴村(現在は大空町)で開催したナターシャセブンコンサートの際に作成したプログラムです。

難聴が認知症の可能性を大きくするって?

2024-11-17 20:27:21 | 講演・講義・フォーラム等
 難聴を放っておくと認知症になる可能性が高くなるという。聴力に不安のある私には放っておけない問題である。不安を覚える私は、「これはぜひ聴かなくては!」と北海道医療大学の公開講座を受講した。

 昨日(11月16日)午後、北海道医療大学の札幌サテライトキャンパスで開催された講座「難聴と認知症のお話~聞こえづらいを放っておかない~」を受講した。講師は、札幌東徳洲会病院の看護副部長である渡邊綾氏が務めた。
 まず、難聴が認知症を引き起こすメカニズムについて二つの代表的な仮説があるということだが、そのうちでも有力とされる「カスケード仮説」について振り返ってみる。
 まず「カスケード」とは「階段状に連続しているもの」という意味があるそうだが、ある一つの事象(ここでは難聴)が要因となって次々と新たな事象を引き起こすということのようだ。下図を参照いただければお分かりと思うが、直接的に連なっている方に注目すると、「難聴」が他者との「コミュニケーション障害」を引き起こし、そのことによって「社会活動が減少」し、やがては「うつやアパシー」を引き起こして「社会的孤立」状態となり「認知機能低下」するという仮説ということだ。この説には私も納得する。

  

 さて、私が加齢による難聴の状態となっているかどうか?それを測る「聞こえチェックリスト」が配布され、チェックをしてみた。そのリストとは…、
 □ 会話中に聞き直す
 □ 後ろから呼びかけられるときざかないことがある
 □ 聞き間違いが多い
 □ 見えない所から車の接近に全くきづかないことがある
 □ 話し声が大きいと言われる
 □ 集会や会議など数人の会話でうまく聞き取れない
 □ 電子レンジの「チン」という音やドアのチャイムの音が聞こえにくい
 □ 相手の言ったことを推測で判断することがある
 □ 騒音の多い場所や大きくうるさい音のする場所で過ごすことが多い
 □ 家族にテレビやラジオの音量が大きいと言われることがよくある
以上10項目をチェックしてみたら、私は5つの項目が該当した。すると該当する項目が5項目以上の場合は「できるだけ早く耳鼻科を受診することをお勧めします」という診断結果となった。う~ん。やはり私の場合は一度専門機関に相談することが必要のようである。
 ブログを通して交流させていただいているブログ名「夢逢人かりそめ草紙」の夢逢人さんがよく「認知症だけは勘弁ねぇ」と呟かれているが、私とて同様である。
 その予防のためにも今回の講座受講を機会に、ぜひ近い機会に耳鼻科医院で診察してもらおうと思う。

AMOEBA 2024

2024-11-16 19:00:12 | その他
 一年ぶりの再会である。今回はメンバーが都合で減ってしまったが、集まった面々は元気にそれぞれの地で活躍していることを確認でき嬉しかった。まさにAMOEBA魂は健在である!

     
  ※ 幹事役のS氏が作成した案内・日程表です。今どきは手書きの方が味があります。

 AMOEBA…、まさにあの微生物のアメーバである。私が尊敬する故小田実氏がアメリカ留学の帰途、ヨーロッパ、アジアを巡り著した著書「何でも見てやろう」の中で、故国日本のことを「日本列島の運動は、アミーバ運動のごときものであろう(小田氏はアミーバと表記している)」と喝破した。そしてこう表現した。「アミーバはてんでばらばらにあちこちに偽足を出して動きながら、それでいて、ある一定の方向を指して動いて行く。日本の場合もまさにそれではないか」、「(日本)列島のなかにはいろんな動きが無数にあり、そいつがてんでんばらばらに列島を動かそうとしながら、全体として見ると、列島はやはり一つの方向をさして動いている。その方向とは『よい方向』であった」と…。刊行された時は1962(昭和37)年、実に62年前の小田実氏はこのように日本列島を見ていたのである。現在の日本は彼が喝破したような現実かどうかの判断は貴兄にお任せする。

      
      ※ 小田実著「何でも見てやろう」の表紙です。

 そのことは別として、1988(平成10)年に私は仲間と共に、教師としての資質向上を目指す自主サークルを結成した。その際に「サークル名をどうしよう?」ということになり、私は前述した小田氏の日本列島アミーバ論のことが頭の片隅にあり、仲間と切磋琢磨していく自主的な活動は、てんでばらばらな動きをするであろうが、総体としてはきっと教師として成長していく源になるはずである、との思いから「サークルAMOEBA」と命名することを提案し、仲間から賛同を得て付けたサークル名である。
 サークルは私の所属校の教師だけではなく、近隣の学校の教師も加え10数名の仲間で月に2回の会合を持ちながら続けた自主サークルだった。
 それから数年後、サークルに集った教師たちは、教師の宿命でもある転勤などによってバラバラとなってしまったのだが、同じ勤務校にいた気の合った5人が「また、あの日に還りたいね!」と話し合い、年に一度再会の機会を作ってきた。その始まりが2000(平成14)年だった。以来、コロナ禍のために3年間の休止を挟んで、その集まりは営々と続いているのだ。
 そして今年の会が昨日と今日の2日間にわたって札幌を会場として実施したのだが、 今回は残念ながら体調不良の者が2人も出てしまい欠席となり、3人でのちょっと寂しい開催となった。
 開催内容は仲間の中で最年少(といっても65歳)のS氏が幹事役となって、次のような日程で行われた。
〈一日目 11/15〉
 ◇13:00~15:00くらい  裁判傍聴(札幌地方裁判所)
 ◇15:00~16:30     ミーティング(レポート検討) 市内喫茶店
 ◇17:00~19:00     ブレーンストーミング市内居酒屋
 ◇19:30~        都市型水族館AOAO見学(見学後解散)
〈二日目 11/16〉
 ◇ 7:00~7:30      北海道神宮参拝
 ◇ 7:30~8:30      モーニングサービスのある市内喫茶店で朝食(食事後解散)
という日程だった。
 最初の「裁判傍聴」は、参加する他の2人が道東地方在住ということもあり、実際の裁判を傍聴することを提案したのだが、実際の刑事裁判を傍聴し、私も含めてだが非常な緊張感の中での傍聴は非常に刺激になったようだった。目の前に手錠をされ、腰縄で繋がれた被告が登場し、某氏は「TVドラマなどとは全く違った緊張感を覚えた」と語っていたが、得難い体験をすることができた。
 続いての「ミーティング」はAMOEBA会の最大の特徴なのだが、それは各人がこの一年間の様子をレポート用紙にまとめて発表する形式を取っている。
 退職後に5人の中で最も恵まれた境遇にあるのは68歳になったN氏ではないだろうか?
 N氏は現在、道東の某私立大学の嘱託教授という肩書でフルタイムで勤務している。経験を活かし、学生に教職免許取得の指導をしているという。タイミングにも恵まれたようだが、小学校教諭だったものが嘱託とはいえ大学の教授職に就いているのは素晴らしい。日々、学生への指導方法の改善に励む日々だという。N氏の生き生きとした表情が印象的だった。
 一方、今回の幹事役を務めたS氏は校長経験者としては極めて異例なスーパーマーケットの夜間店舗管理という任務に就き、週4日、一日6時間勤務の生活を送っているとのことだ。この全く畑違いの仕事がS氏は「楽しい!」という。夜間勤務ということでスーパーの生鮮野菜をできるだけ残さないように時刻や売り上げ状況を見ながら、商品の値引きする権限が与えられているそうだ。そのタイミングを見計らう緊張感がたまらないという。また、消費者との何気ない会話からさまざまな情報を得ることも楽しいと話していた。
 また、勤務以外では現役時代には聞かなかった写真撮影を最上の趣味としているという。目標は「都市景観フォトコンテスト」に入賞することだと話され、氏の写した写真を数枚見せていただいた。専門的なことは分からないが、かなり良い線をいっているように思えた。

    
    ※ 市内某喫茶店でミーティングを終えた三人で記念の一枚をパチリと…。

 そして私である。私は「変わらぬ私…、変わっていく私…」と題して、今年の一年の動きを報告した。「変わらぬ私…」の部分は、日々拙ブログで投稿している通りである。
 「変わっていく私…」の方は、50年以上にわたって慣れ親しんできた自家用車を手放してしまったこと。15年にわたって続けてきた清掃ボランティアに終止符を打ったこと。そして、 今年の後半になると「さっぽろラウンドウォーク」や「JRウォーキング」に参加した後、なかなか疲労が抜けなくなったことだ。身体の老化を否応なく感じるようになってきた。こうした状況の中でこれからは今までの生き方に多少の改変が必要になってくるのではと予感しているのだが…。
 リード文に「AMOEBA魂は健在である!」と表現したが、それぞれが与えられた環境の中で、現職時代同様に精一杯生きていることをお互い確認できたミーティングだった。
 その後の「ブレーンストーミング」は、お酒を介しての遠慮のない楽しい会話に終始した。気のおけない旧友たちとのブレストは何にもまして楽しいひと時だった。
 そして一日目の最後は、幹事役のS氏の希望で「都市型水族館AOAO」を訪れた。既存の水族館との違い・魅力を初めて訪れた二人はどう感じたろうか?
二日目はN氏の希望で早朝7時に「北海道神宮」を訪れた。朝早いにもかかわらず多くの市民が訪れていたのには正直驚いた。冷気に包まれた早朝の参拝は心を洗われた思いだった。

    
    ※ 早朝の冷気の中、気持ちがピリッと引き締まりました。

 そして最後はモーニングサービスを実施している喫茶店で朝食を三人で摂った。
 以上がAMOEBA2024の全てである。
 最高齢の私としては、日々健康に留意して過ごし、来年もまたぜひとも再会できるようにしたいと誓い散会した。

札幌学院大コミュニティ・カレッジ 札幌歴史雑学(1)

2024-11-15 09:46:35 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道三代名橋と称されたころの面影もない「豊平橋」の歴史、「本願寺道路」と呼ばれた国道230号線の誕生物語、幻の「札幌急行鉄道」の話、等々札幌の歴史にまつわるお話が次々と紹介され、興味がつきない講座だった。

   

 札幌学院大が新設された新札幌キャンバスを会場に、一般市民を対象としたコミュニティ・カレッジを開催している。私は街歩き研究家の和田哲氏が担当する「誰かに話さずにはいられない、札幌歴史雑学」の受講を申し込み受理された。
 その「誰かに話さずにはいられない、札幌歴史雑学」の第1講が昨日(11月14日)午後開催されたので受講してきた。
 私はこれまで和田氏のお話を何度も聴いている。(確かもう7~8回は聴いている)和田氏は「街歩き研究家」を自称するだけに札幌の街のことについては実に詳しい方である。和田氏は自ら歩いて収集した札幌の歴史について、平易な言葉で分かり易く、そして聴きやすく話をされる方である。だから肩肘張らずに楽しみながらお話を聴くことができ人気のある方である。
 今回は「道路と鉄道の奮闘記」と題して、計8つの歴史的エピソードを紹介してくれた。
 その8つとは…、
 ① 「北海道三代名橋」と呼ばれた「豊平橋」の変遷
 ② 国道230号線開削物語
 ③ 北海道最初の鉄道
 ④ アンパン道路の命名経緯
 ⑤ 札幌市電と名古屋電気鉄道との意外な関係
 ⑥ 定山渓鉄道の推移(幻の「札幌急行鉄道」もこの項で紹介された)
 ⑦ 札幌市の地下鉄開発物語
 ⑧ 北24条にあった札幌飛行場
の8つのテーマ(正式名ではなく、私が趣旨を活かして名付けたものもある)について三百数十枚のパワーポイント資料を使って興味深く講義を展開してくれた。
 その全てをレポートするには膨大な頁を要するので、中から3つに絞ってレポしたい。
 一つは札幌と千歳・苫小牧方面を結ぶ主要道・国道36号線に架かる「豊平橋」についてである。私にはおよそ平凡に見える「豊平橋」が何故「北海道三代名橋」と呼ばれていたのかということだが、それは現在の橋を指しているのではないそうだ。
 「豊平橋」が掛かる「豊平川」は暴れ川として有名で、架けては落橋することをくり返していたという。現在の橋は実に23代目の橋だそうだ。架けては落橋する「豊平橋」はお雇い外国人だった技術者たちが設計しても駄目だったという。
 そうした繰り返しの末、1924(大正13)年に若手技師によって設計されたアーチ橋によってようやく安定した橋となったそうだ。以来、諸事情により1971(昭和46)年建て替えられるまで47年間にわたって札幌市民に愛された橋だったという。そのアーチ橋こそ、旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」と共に「北海道三大名橋」と称されたそうだ。
 他の二つの橋が現在も当時の姿を残しているのに対して、「豊平橋」は残念ながら当時の面影をどこにも見出すことのできないごく普通の橋となってしまったのは多少残念なことでもある。

  
  ※ 21代目のアーチ橋である「豊平橋」の開通式に札幌市民が大勢詰めかけたそうだ。

 二つ目は、「札幌市電と名古屋電気鉄道との意外な関係」についてである。 
 札幌市では札幌市では1918(大正7)年、開道50周年に「北海道博覧会」を開催したが、それを期して路面電車を導入することになった。ところが車両の調達に困窮していたという。その時、名古屋電気鉄道で廃車となった路面電車の車両を快く譲渡してくれ、無事に路面電車を走らせることができたそうだ。
 一方、札幌の市電は1972(昭和47)年の冬季オリンピック開催時に地下鉄が敷設された。それを契機に市電路線が次々と廃線となり、市電の車両が余っていたそうだ。その頃、名古屋市電が車両不足ということを聞いて、今度は札幌市が余った車両を供与して名古屋市の窮状を救ったという。札幌市と名古屋市の意外な関係である。

    
   ※ 札幌市交通資料館に現在も展示されている名古屋市から譲渡された電車です。

 三つ目は、「札幌急行鉄道」のことである。1957(昭和32)年、定山渓鉄道は経営の行き詰まりもあり、東京急行電鉄(東急)傘下の一員になったそうだ。
 時の東急の経営者は五島慶太氏で、五島氏は定山渓鉄道と夕張鉄道線とを結ぶ札幌・江別間を直線で結ぶ「札幌急行鉄道」の建設計画を発表したという。ところが五島氏が逝去したこともあり、経営的には厳しい見通しの「札幌急行鉄道」は陽の目を見なかったという。

   
   ※  五島慶太氏が構想した「札幌急行鉄道」の路線図(赤線)です。

 その他のお話も興味深いお話が次々と披露されたが残念ながら省略したい。次回はまた一週間後に別の角度からのお話を伺うことができるのを楽しみにしている。

ジャズで彩る昭和歌謡 Vol.5

2024-11-14 11:29:18 | ステージ & エンターテイメント
 「瀬戸の花嫁」が、「いとしのエリー」が、「My Way」が…、昭和世代にとっては懐かしいメロディーが次々とジャズチック(こんな言葉があったかなぁ)な音に乗って次々と披露された。それは懐かしくも幸せなひと時だった…。

       

 昨日(11月13日)午後、手稲区民センターにおいてThe piano trio jazzと称する三人組(トリオ)が「ジャズで彩る昭和歌謡」と題するライブを開催するのを知って駆け付けた。
 キャパ200人といわれるセンターは中高年の男女を中心にほぼ満杯の盛況だった。
 The piano trio jazzの3人は、20代後半と思われるベース奏者の高橋和明さん、30代後半と思われるドラマーの石倉太郎さん、そしてトリオの中心を担う50代と思われるピアノ兼ボーカルの辻たいじさんという3人組だった。
 演奏された曲目を順に並べてみると、(作曲者は省略)
 ◇ルパン三世
 ◇つぐない
 ◇Tennessee Waltz 〇
 ◇いとしのエリー  〇
 ◇コーヒールンバ
 ◇スィートメモリー
 ◇ラブミーテンダー 〇
 ◇上を向いて歩こう
 ◇いい日旅立ち
 ◇愛の讃歌 〇
 ◇瀬戸の花嫁
 ◇My Way
 ◇見上げてごらん夜の星を
 ◇Amazing Grace 〇
 ここまで14曲を一気に演奏した。曲目の後ろの〇印は辻たいじさんのボーカルが入った曲目である。
 そしてお約束のアンコールに応えて、「スタンダードジャズメドレー」と題して
 ◇アンパンマン
 ◇枯葉
 ◇Stand By Me 〇
 ◇情熱大陸
以上、合計18曲が披露されたのだが、どうでしょう?私と同じ昭和世代の方なら懐かしさいっぱいの曲目が並んだのではないだろうか。それがジャズチックなメロディーにのせて演奏されたのだから、単に昭和歌謡を聴くのとは違ったリニューアルされた音楽を聴くような気分を味わえたのだ。だから、会場の中高年の女性陣からは盛んにトリオに対する声援の声が飛んだ。特に私が聴いていて辻たいじさんのボーカルが魅力的に聴こえた。

    

 今回のライブは手稲区民センターにおいて、彼らにとって5回目のようだったが、今まで知らなかったのが惜しまれる。
 ライブが終わり会場の出口でメンバーが挨拶されていた。私は思わず近寄って辻たいじさんに「どこかのお店で演奏されているのですか?」とお聞きした。ところが「いや、私たちはそうしたところではやっていません」とのことだった。ということは、彼らは本格的にプロとしては活動されていないグループなのだろうか?ネット上で調べても詳細は不明だった。
 いずれにしても、私たち昭和世代をおおいに楽しませてくれたThe piano trio jazzだった。またどこかで彼らのライブがあると知ったらぜひ駆け付けたいと思った。

さっぽろスクール音楽祭を聴く

2024-11-13 20:41:10 | ステージ & エンターテイメント
 札幌の小学校の音楽事情を知ろうと「さっぽろスクール音楽祭」に出かけてみた。真摯に音楽に取り組む姿に感動を覚えた。しかし、札幌の市内校といえども合唱や吹奏楽の理想的な編成を組むのが難しくなっている背景も窺われた。

     
 11月の札幌市内は「SAPPORP ART STAGE」と称して、音楽や美術、演劇など各種の文化的催しを集中的に開催している。その中一つとして11月10日(日)、札幌コンサートホールKitaraにおいて「さっぽろスクール音楽祭」が開催された。
 参加したのは合唱の部に9校(団体)、吹奏楽の部に29校(団体)が参加した。私は全日程に参加することはできなかったが、合唱の部と吹奏楽の小学校の演奏だけを聴かせてもらった。
 合唱の部の参加校は以下とおりである。( )内は構成人数
 ◇札幌市立美しが丘小学校(12人)
 ◇札幌市立東白石小学校(14人)
 ◇札幌市立札苗緑小学校・札幌市立札苗北中学校の合同(27人)
 ◇札幌市立平岡中央小学校・札幌市立月寒東小学校・札幌市立月寒小学校の合同(57人)   
※ 平岡中央小学校・月寒東小学校・月寒小学校の三校合同の合唱団です。

 ◇札幌市立伏見中学校(21人)
 ◇札幌市立東白石中学校(21人)
 ◇市立札幌藻岩高等学校・北海道札幌手稲高等学校の合同(12人)
 ◇札幌山の手高等学校(18人)
 ◇札幌第一高等学校・札幌市立青葉中学校の合同(27人)
以上、9つの学校・団体だった。
 どの学校もそれぞれ基礎はできていたように私には聴こえてきたが、その中でも素晴らしいと思えたのは全員が女生徒だったが東白石中学校の合唱が素晴らしく思えた。また、21人のうち男子生徒が8人を数えた伏見中学校の合唱も聴き応えがあった。
 ところで、中学校の参加が合同で参加した学校も含めても僅か4校である。札幌市内には98の中学校があるという。今回参加しなかった中学校には合唱部が存在しないのだろうか?それとも構成人数が少なくて参加を断念したのだろうか?
 そもそも部活動が基本的に存在しない小学校は仕方がないとして、中学校の参加が少なかったのには寂しい思いがした。
 一昔前は「NHK全国学校音楽コンクール」において北海道代表校が華々しく活躍した時代もあったのだが、現在はどうなのだろうか?などということにまで思いを巡らせてしまった…。
 続いて、器楽・吹奏楽の部の小学校の部分のみ聴かせてもらった。
 こちらは小学校5校が単独で(うち厚別東小学校はハンドベルの演奏)、6校が一つの吹奏楽団を編成して参加していた。私は聴くことができなかったが中学校は20校が参加していた。
 小学校の演奏では札幌市立中の島小学校が抜群の技量を披露した。中の島小学校の吹奏楽はいわゆるジャズバンドを志向していることで名を知られているが、それが伝統となっているのか、指導が行き届いているのか、堂々たる演奏だった。
※ 札幌市立中の島小学校の吹奏楽団BECONメンバーの面々です。

 また6校の児童が集った「羊ケ丘音楽団吹奏楽バンド」(と称しているようだが)は、寄り合い世帯と思われないまとまりのある演奏を披露してくれた。
 札幌の学校事情を良く知らない私があれこれ言う資格はないのかもしれないが、一般の方々の吹奏楽やオーケストラの活動が盛んな札幌において、後に続く若人たちも着々と育っているようだが、合唱に関してはやや危機的状況にあるといえるのかな?と思えたのだが…。

※ 会場内の撮影は許可されたが、それをSNSにはあげないようにと要請がなされた。そのため掲載した写真はウェブ上から拝借したものである。もしかすると写っている子どもたちは昨年の出場者かもしれないことをお断りしておきます。

めだか会議 放談会「札幌の好きなところ、残念なところ」

2024-11-12 18:38:38 | 「めだかの学校」関連
 平均年齢が70歳を超える会員の方々は、それぞれさまざまな地での在住経験がある方だったが、総じて札幌の街が気に入っている方が大半だったようだ。その中、残念なところについて話が盛り上がった?

    

 先月から始まった「めだかの学校」の「めだか会議 放談会」だが、昨日2回目の放談会が行われた。今回のテーマは「札幌の好きなところ、残念なところ」について話し合ってもらった。
 先ずは最初に全員がテーマに沿って発言した。それによると、それぞれがさまざまな地での居住経験を経て、札幌に落ち着いた方が多かったが、総じて札幌の地が「好きだ」という方がほとんどだった。
 その理由として「自然環境が良い」、「気候が良い」、「交通、医療、教育などの環境が整っている」、「文化的環境に優れている」等々の理由を挙げる方が多かった。
 私はというと、人生の大半を北海道の片田舎で過ごしてきた目には、札幌の良いところばかりが目に付くというのが本音である。特に私の場合は、現職時代に飢えていたのだろうか?講演会やコンサートが目白押しの札幌はリタイヤ組には理想的な環境と日々コンサートに講演会にと駆け巡りその環境に満足している。
 その私は、今回は敢えて札幌の “環境” に着目して発言させてもらった。私が道外旅行している時に一人旅をしている女声と出会った。その方は大阪の方だったが、札幌の印象を聞いてみた。するとその女性は「札幌はきれいな街ですね」と答えてくれた。私もまったく同感だった。外国人客から「日本の街はゴミも目立たなくきれいだ」と言われるが、私は措の日本の街の中でも札幌は特に街並みが整いきれいだと思っている。北国の冷涼な気候がそれを後押ししているのかもしれない。
 反対に残念なところとしては、札幌の主要な道路の歩道との境に時折り雑草が繁茂しているのが目に付くことである。特に私の場合、15年間にわたり近代美術館前の歩道の清掃活動をしていたから、特にその点が気がかりなのだ。立派な会社や団体の建物の前に雑草が蔓延っている様を当該の施設を管理している方は何も思わないのだろうか?その点がとても残念に思う。
 さて、放談会の方では “残念なところ” としてどのようなことが多かったかというと、やはり「雪」の問題だった。特に住宅街で一戸建てに住んでいる方にとって、積雪による住宅周囲の除雪、さらには主要道ではないところの除雪が後回しとなることによる交通障害は頭の痛い問題のようだ。(私は幸いマンション住まいなのでそのような問題に悩まされることはないのだが…)この問題は切実な問題のため、たくさんの方から発言があった。
 ただ、中には「雪」の効用を説く人もあった。冬の降雪があるから水資源に事欠かない。畑作にとって降雪は不可欠である。あるいは観光資源としての雪の恵みを挙げる人もいた。
 結局、「雪」にもメリット、デメリットがあるということで、北国札幌にとって「雪」は避けて通れない自然現象である。デメリットを克服しつつ、雪もまた自然の一つとして四季のはっきりした札幌を楽しみましょう!ということに落ち着いた第2回目の放談会だった。
 ちょっと古くなるが、サザンクロスという歌謡グループが歌ってヒットした「好きですサッポロ」という歌謡曲は一時札幌市民の愛唱歌だった。札幌市民の多くが札幌の街が好きなようである。