田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

パブリックアート in 新篠津

2024-11-30 18:05:01 | 作品展・展覧会等
 パブリックアート…、「公共の芸術」とでも訳せるだろうか?公衆電話ボックスに老婦人が花のお世話をしている絵が描かれていた。倉庫の壁いっぱいにちょっと不思議な絵が描かれていた。新篠津村ではパブリックアートの描き手を招き、さらに村を盛り上げようとしているようだ。

 昨日、道民カレッジ「学びカフェ」で新篠津村を訪れることが決まった時、ある新聞記事のことが蘇った。それは村内の施設の数か所に芸術的な絵が描かれ話題になっているという記事だった。
 私は新篠津村を訪れることが決まった時、それらの絵を見ることを楽しみにして昨日新篠津村を訪れた。
 「学びカフェ」の事業を終え、帰り道にそれらの絵を見て回ることにした。それらの絵が描かれているところを村の人にたずねると、どうやら作品は私の期待と違って二つしかないようだった。私はもっと多くの作品が描かれていると思ったのだが…。
 ちょっと残念な気もしたが、その二作品を見て回った。

    
 村の中心、新篠津村役場の直ぐ近くにあった公衆電話ボックスの壁にその絵は描かれていた。画題は「Gardener(園芸家)」というそうだが、老婦人らしき人が花に水を与えている絵だった。描いた人は世界的に評価されているというAITO KITAZAKIさんという方だそうだ。(2023年夏の作品)
        
        ※ AITO KITAZAKIさんの「Gardener」という作品です。


     
     ※ このようなそうこの壁が、下のような絵に代わりました。

 もう一つの作品は、その公衆電話が建っていたところから200mくらい離れたところに建つ倉庫の壁に描かれた絵が目に飛び込んできた。その絵の大きさに驚いた。およそ100㎡(高さ7m、幅14m)もあるらしい。絵の題名は残念ながら分からないのだが、こちらもプロのアーティストであるunomoriさんという方が村で11日間かけて完成した作品だという。(2024年夏の作品)

    
    ※ 制作に11日間かかったというunomoriさんの作品です。

 今のところ作品は二つに過ぎないが、どうやら村ではこれからもアーティストに依頼してこうした作品を増やしていく意向があるようだ。村内には農業倉庫などまだまだそうした画を描けるようなところも多いようだ。
 素人の作品ではなく、プロの方々の作品であるというところに価値があるように思われる。新篠津村のこうした動きが今後どのように発展していくのか?期待を持ちながら見守りたいと思う。

道民カレッジ「学びカフェ」in 新篠津

2024-11-29 20:08:05 | 講演・講義・フォーラム等
 実にお元気な80歳以上の方々である。私たちと学び合う「学びカフェ」で2時間、興味深々といった様子で私たちの話を聴いていただいた。私が今年担当した6回目の「学びカフェ」だったが、今年はこれで一応終了ということになった。

 本日(11月29日)午前、私にとっては初めてとなる新篠津村において道民カレッジ「学びカフェ」で国語科を担当した。
 「学びカフェ」は、以前の投稿でも触れたと思うが、今年度は試験的な実施のため十分なPRも不足していたため、新篠津村の場合は村の中心部の80歳以上の方を対象とした交流の場「ゆうあいの会」の年間活動の一つに組み入れていただき実施することになったと道民カレッジの担当者から伺った。
 名簿を見せていただくと、新篠津村の中心部の80歳以上の方は実に143名もいるとのことで、本日はその中から29名の方の参加があったと聞いた。

       
  ※ 新篠津村のキャラクターは米どころの新篠津らしく「おこめちゃん」だそうです。

 その方々が前述したように私の国語科、そしてもう一人の指導者の「社会科」の2時間の授業(お話)を姿勢も崩さずしっかりと参加された。本当に皆さんお元気な方ばかりだった。
 さて、私の授業内容は11月初旬に帯広市で行った「難読地名を読みましょう!」を新篠津版に改めて実施した。

   
   ※ 新篠津村の80歳以上の方々を前に授業をする私です。

 前半の流れは帯広と同様「北海道民でも読めないかもしれない難読地名26選」でまずは難読地名に興味を持っていただき、その後に私が調べて見つけた新篠津村に近い「石狩湾岸の難読地名」(こちらも27地名)について、一つ一つの地名を紹介し、その由来などを紹介する形で進めた。その難読地名とは?
 ①雄冬、②床丹、③幌、④群別、⑤茂生、⑥毘砂別、⑦愛冠、⑧送毛、⑨濃昼、⑩安瀬、⑪発足、⑫別狩、⑬押琴、⑭古潭、⑮望来、⑯正利冠、⑰聚富、⑱知津狩、⑲若生、⑳生振、㉑花畔、㉒銭函、㉓張碓、㉔於古発、㉕文庫歌、㉖忍路、㉗畚部
 さあ、この中であなたはいくつ読めたでしょうか?新篠津の参加者の方々はさすがに地元に近いとあって半分くらいの地名を言い当ててくれました。
 最後に帯広の時と同様に次のようにお話をして授業を〆た。
「私たち道民にとって難解な地名は、北海道を訪れる他の都府県民にとってはまるでチンプンカンプンということかもしれません。観光客などから地元の地名を尋ねられることがあるかもしれません。そうした方々に案内することができたら楽しいのではないでしょうか?これを機会に地元の地名に精通しませんか?」と話し、この日の授業で出てきた地名の解説を私がまとめた小冊子を参加者にプレゼントした。

    
    ※ 最後まで真剣に授業を受けていただいた新篠津村の皆さんです。

 授業を終えた時、一人お年寄りが私に話しかけた。「JR札沼線(現在は廃線となった)の駅名にもアイヌ語が由来の駅名があります」とお話され、「それは知来乙(ちらいべつ)駅です」と…。
帰宅して調べたところ、アイヌ語で「チライ・オッ」と発音し、「イトウがたくさんいるところ」という意味があることを教えられた。このような反応は授業を担当したものとしてはとても嬉しい反応である。
 その後の「社会科」の授業においても参加した方々は最後まで興味を失わず、授業者のお話に耳を傾けていた姿が印象的だった。
 今年一年間、私は都合6回の授業を担当させていただいたが、僅かではあってもどなたかのお役に立てているという実感を得ることができたことが何より嬉しかった。
 ちなみに先の難読地名の解答を載せておきます。
 ①おふゆ、②とこたん、③ぽろ、④くんべつ、⑤もい、⑥びしゃべつ、⑦あいかっぷ、⑧おくりげ、⑨ごきびる、⑩やそすけ、⑪はったり、⑫べっかり、⑬おしこと、⑭こたん、⑮もうらい、⑯まさりかっぷ、⑰しっぷ、⑱しらつかり、⑲わかおい、⑳おやふる、㉑ばんなぐろ、㉒ぜにばこ、㉓はりうす、㉔おこばち、㉕ぶんがた、㉖おしょろ、㉗ふごっへ゜

札幌学院大コミュニティ・カレッジ 札幌歴史雑学(3)

2024-11-28 18:57:35 | 講演・講義・フォーラム等
 今回も札幌の面白歴史雑学をたくさん聴くができた。この講座は今回で三度目だったが、残念ながら最終回だった。今回もまたお聴きした中から三つのテーマに絞ってレポすることにしたい。

 本日午後、札幌学院大学のコミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第3講(最終講義)が札幌学院大の新札幌キャンパスで開講したので受講した。講師はもちろん街歩き研究家の和田哲氏である。

     
     ※ 講師を務められた和田哲氏です。
  
 今回の全体テーマは「冬とスポーツの物語」と題して9つのテーマについてお話を聴いた。その9つのテーマとは…。
 ① スケート事始め
 ② スキー事始め
 ③ 山小屋
 ④ 戦後のスキー場
 ⑤ 中島スポーツセンター
 ⑥ 幻の札幌オリンピック
 ⑦ スポーツ史を変えた大会
 ⑧ 札幌冬季オリンピック
 ⑨ おまけ
どれも興味深かったが、本欄では②、⑤、⑦についてレポしたい。
 その前に、和田氏は札幌がいかに冬季スポーツに適した街であるかについて言及された。良く知られた(?)ことであるが、札幌の降雪量が年平均で479cmもあり(600cmを超えた年もあったという)、世界の大都市ではダントツに多い積雪量であることを紹介し、冬季スポーツに適した条件とは、①低温、②降雪量、③スキーに適した地形の三条件が必要だが、その三条件が揃った大都市は世界の中で札幌市外にはない、と強調された。
 さて、その上で「スキーの事始め」であるが、一般には1911(明治44)年にオーストリアから来日したレルヒ少佐が新潟県高田(現在の上越市)においてスキーを指導したのが最初と伝えられている。しかし、それより遡ること3年前の1908(明治41)年に札幌農学校のドイツ語教師として来日したスイス人のH.コラーがスキーを持参し楽しんでいたそうだ。ただし、コラー氏はスキー技術が未熟だったこともあり、スキー史には取り上げられなかったようだ。初めて耳にしたお話だった。

       
       ※ 日本に初めてスキーを伝えたとされるレルヒ少佐です。
            コラー氏の写真は探しましたが見つかりませんでした。

 続いて「中島スポーツセンター」は、1954(昭和29)年、国民体育大会のメイン会場として建設されたという。当時は国内最大級のスポーツセンターで2階の観客席だけで1,777席あり、1階のアリーナに客席を作ると6,000人を収容できたという。そのためコンサート会場や大相撲の巡業会場として重用されたが、最も中島スポーツセンターを有名にしたのは、プロレス会場として使用され大人気を博したそうだ。そこで行われたプロレスの中で「雪の札幌テロ事件」とファンの中で語り継がれた事件(?)があったそうだ。

     
     ※ 健在だったころの北海道立札幌中島スポーツセンターです。

 三つ目のテーマは「スポーツ史を変えた大会」である。
 札幌では1940(昭和15)年、開催が決定していた冬季オリンピックが戦争のために開催中止となったが、その後のオリンピックの参加も受け入れられない状況の中、国際スケート連盟は1954(昭和29)年、世界スケート大会の会場として札幌市を選定した。この大会は今では当たり前のように開催されている各種スポーツの世界大会で初めての世界大会だったそうだ。大会は円山陸上競技場を会場に開催されたそうだが、連日観衆が推しかけ大盛況だったそうだ。国際スケート連盟の役員は、大会の完璧な運営、そして熱狂的な観衆の様子にいたく感激して、帰国してその様子を報告したという。札幌での開催が契機となり、その後次々と各種スポーツの世界大会が実施されるようになったという。この話をお聞きするのも初めてだったが、なんだか誇らしい気がしてきたのだった。

   
   ※ 現在の冬季の円山陸上競技場のスケートリンクです。
      競技用ではないので、400mの長さはないリンクです。

 そうした先人たちの業績があったからこそ、1972(昭和47)年の札幌冬季オリンピック大会の誘致に繋がったことは想像に難くない。
 3回にわたってお聞きした和田哲氏の「札幌歴史雑学」であるが、これまで和田氏を初めてとして多くの方から札幌の歴史についてお話を聴く機会があったが、今回の講座で初めてお聴きすることも数多かった。機会を見つけてこれからも札幌の歴史を追いかけてみたい。

ギャラリー展 佐藤一明「見てくる犬」

2024-11-27 15:48:06 | 作品展・展覧会等
 作者の愛犬がモデルだという。ラブラドールレトリバーの模型(?)がさまざまな表情で鎮座していた。美術音痴の私がギャラリー展に顔を出すとは、我ながら珍事である。

 あっちの講演会、こっちのコンサートと忙しく歩き回っている私だが、本日は珍しくスケジュール表が空白だった。「さて?」と思ったのだが、某日新聞の片隅に「ギャラリー創」という民営のギャラリーで「見てくる犬」という作品展が開催中であることが頭の片隅に残っていた。戌年生まれの私は、多少は犬に関心もある。私はウォーキングも兼ねて「ギャラリー創」を目ざした。
 「ギャラリー創」は中島公園に近い旭山公園通に面したビルの1階にコンパクトながらシャープな印象を与えるギャラリーを構えていた。

    
 ※ ギャラリー創は旭山公園通に面していたが、注意深く歩かないと見過ごしてしまう恐れもある。
 
 ※ 作品が展示されていない状態での「ギャラリー創」の全景です。(HPより)   
    
    ※ 作品が20~30cmと小さいので、全体で見ると写真のような感じです。

  入館するとDirectorの Chiaki Honjoさんが柔和な笑顔で出迎えてくれた。
 ギャラリー内には佐藤一明さんが制作した犬の模型とスケッチがおよそ25~6点展示されていた。

    

    
    

      
      ※ こちらは佐藤さんの犬のスケッチです。

 材質はHonjoさんによるとブリキだという。新聞で見たときは「厚紙かな?」と思っていたのだが…。解説によると「曲線とエッジが効いたシンプルなかたちの中に込められた計算された造形の美しさ」が見どころとされているが、なるほど私から見て犬の表情を曲面ではなく、エッジを効かせたところに佐藤氏の主張があるように見て取れた。
 作品はいずれも20~30cm程度の小さな作品が多かったが、中には大きな作品もあったが、そちらはブリキではなく鉄板を使用しているとのことだった。

       
     ※ 床に展示されていた作品は5~60cmあり、鉄板制とのことでした。

Honjoさんによる作者の佐藤さんは大変な愛犬家でモデルとなったラブラドールレトリバーを10年以上飼われているとのことだった。また、作品中にこげ茶色の犬の作品が2点あったが、それは佐藤さんの母親が10年以上飼われたトイプードルがモデルだという。佐藤さんの母親が逝去されたことから、現在は佐藤さんが飼育しているらしい。「まだ同居してから少ない年月のため2点だけの作品なんです」とHonjoさんは教えてくれた。

    
   ※ こげ茶色の彩色されていたトイプードルの作品です。写真写りが悪いですね。

 Honjoさんはまた佐藤さんの図録を見せてくれ、「こちらは山口県の県立美術館に展示してある3mもの大きさのラブラドールレトリバーです」とその写真を見せていただいた。3 mとは大作である。いつか札幌でも見られる日か来るのだろうか?
    
※ こちらは佐藤さんが飼われているモデルとなったラブラドールレトリバーだと思われます。(HPより)

 今回は他に観覧者がいなかったこともあり、DirectorのHonjoさんといろいろとお話することができ、とても意義深い鑑賞となった。こうした小さなギャラリーで作者やDirectorの方とお話ができると展覧会も楽しいものだということを発見した「見てくる犬」展だった。いつもそういうわけにはいかないのかもしれないが…。

DVDフォーラム「五木寛之の百寺巡礼」

2024-11-26 16:55:21 | 「めだかの学校」関連
 飛鳥寺、薬師寺、大乗寺、那谷寺と作家でエッセイストの五木寛之が巡り、そして語る。百寺のほんの一部にすぎないが、それぞれにお寺を訪れ、仏教に深く傾倒する五木寛之の目から見た印象を彼の言葉で紡ぎ出す…。


 
 昨日(11月25日)は私が所属する「めだかの学校」の11月2回目の活動日だった。
 今年度下半期は、「めだか会議 放談会」と「DVDフォーラム」を並行して実施している。昨日は「DVDフォーラム」の日だったのだが、この「DVDフォーラム」は会員の一人であるK氏が所蔵する大量のDVDシリーズの中から、今期はシリーズ物の一編だけを視聴し、来期はその中から一つを選びシリーズ全編を視聴しようと計画している企画である。
 ちなみにそのシリーズとは、①「ヒット曲にのせて贈る青春歌謡映画」、②「五木寛之の百寺巡礼」、③「探検ロマン世界遺産」、④「こころの名山 日本霊山紀行」、⑤「中島みゆき『夜会』シリーズを見る・聴く」の五つのシリーズである。
 昨日はその中の「五木寛之の百寺巡礼」を視聴したということなのだ。今回巡ったお寺は前述した「飛鳥寺(奈良県明日香村)」、「薬師寺(奈良県奈良市)」、「大乗寺(石川県金沢市)」、「那谷寺(石川県小松市)」のそれぞれが名刹、古刹に属する四つのお寺だった。
  「飛鳥寺」は日本最古の仏教寺院と云われ、蘇我馬子が建立したとされる古刹である。現在は創建当時とは違い規模が縮小し、明日香村にひっそりと残存している寺といった印象だったが、派手なところがなくひっそりと建っている佇まいが印象的だった。
 一方、「薬師寺」の方は、奈良市の中心にあって680(天武天皇9)年に創建され、特に東塔は1300年以上経った今も創建当時の姿を残しているとされ世界遺産にも登録されていることから非常に有名なお寺の一つとなっている。
※ 薬師寺全景です。左が東塔、右側は再現なった西塔だと思われます。

 「大乗寺」は曹洞宗のお寺として、座禅を修行するお寺として有名である。鬱蒼とした森に囲まれた寺院は古刹としての雰囲気も十分である。
 そして最後は高野山真言宗の寺である「那谷寺」であるが、那谷寺は深山の中に立地し、洞窟などが点在していることから「奇岩遊仙境」とも称され、境内の景観が独特である。宗教施設が深山幽谷に立地し、自然が造った形状を巧みに利用する例はよくあることだが、深山と見えた那谷寺は調べてみると意外に市街地に近いところにあった。あるいは「那谷寺」が有名となり市街地が形成されたのかもしれない?
 
 ※ 那谷寺はこうした地形を利用した建物が境内全体にいたるところに建てられています。

 視聴後の会員の感想でも、この「那谷寺」に興味を抱いた人たちが多い印象だった。
 私はお寺そのものより、五木寛之さんその人に注目してみた。というのも、五木氏は大学(早稲田大学)を学費未納で抹席された後、マスコミ界の片隅で生活しながら「さらばモスクワ愚連隊」で作家デビューを果たした。その後「青年は荒野を目ざす」など、どちらかというと中間小説的な作家だと私は見ていた。もっとも私は「青年は荒野を目ざす」を高校時代に読み、それに触発されて学生時代にヨーロッパ・アジアを彷徨する旅に出ることになるのだが…。
       
 その後も、「艶歌」とか「青春の門」などを著し人気作家の一人と目されていたのだが、50歳近くになって龍谷大学で仏教を学び始めたと聞いて「ヘェー」と思っていた。するとそれから五木寛之さんの作風が変わってきたようだ。エッセイなどで仏教に関わる評論などを書き始め、そして「百寺巡礼」である。私は五木寛之さん自身が自らの生き方、そして人としてのあるべき姿を深く思考しはじめた結果なのだろうと思った。
 最近の週刊誌などに寄せるエッセイなどでは、そのことがさらに深化しているように感じている。
 ボーっと生きている私のような者に対して五木氏は静かなるメッセージを伝えてくれていると私は受け止めたい。

※ 掲載した写真は全てウェブ上から拝借しました。

オペラ 喜歌劇「こうもり」を観る

2024-11-25 19:39:12 | ステージ & エンターテイメント
 北海道二期会の会員の皆さまが演ずる喜歌劇「こうもり」を観劇した。出演者たちは基礎がしっかりとできている上に、札幌交響楽団の演奏にのって素晴らしい舞台を魅せてくれた。しかし、悲しいかなオペラ鑑賞の素養に欠ける私には十分にその良さを堪能できたとは言い難かったのも事実である…。

       

 昨日(11月24日)午後、札幌市教育文化会館において北海道二期会創立60周年記念公演と銘打ってJ.シュトラウス作曲の喜歌劇「こうもり」が上演されたが、知人からチケットを譲り受け、観劇することができた。(チケットはS席で11,000円だった)
 教文会館の大ホールのキャパは1,200人とのことだが、高額の入場料にもかかわらずほぼ満席状態で期待の高さが伺えた。
 オーケストラビットには札幌交響楽団が陣取り、しかも川瀬賢太郎さんがタクトを振るという豪華版で幕を開けた。
 実は今回の「こうもり」は23日と24日との二日間公演だったのだが、キャストが総入れ替えとなる舞台だった。そして24日のこの日は知人の娘さんが「ロザリン」という主役を演ずることになっていた。私はこれまでにも彼女のステージを何度か体験していたが、その歌唱力には定評があった。今回の舞台でも第一幕から登場し、素晴らしいソプラノを何度も披露し十分にその重責を果たしているように思えた。

      

 さて肝心の舞台であるが、舞台は全三幕からなっていた。(幕間はそれぞれ20分間の休憩が取られた)私はあらかじめストーリーのあらすじを頭に叩き込んで観劇に臨んだのだが…。喜歌劇とあって、騙し合いあり、ドタバタありの展開だったのだが、どうも私には登場人物の相関関係が描けず、さらには劇中で挿入される歌唱の内容が字幕で表示されるのだが、それすらも素直に頭に入ってこなかった。こうした状態での観劇は私の中にストレスを醸成するばかりだった。
 そうした中、第三幕の開幕前に客席から何やら酔っぱらっているような役者が登場した。この役者が秀逸だった。役どころは刑務所の看守フロッシュなのだが、北海道弁を小気味良くまくしたて、狂言回し的役割で客席を沸かせた。調べてみると、なんと道内のテレビ・ラジオなどで活躍している小橋亜樹さんだと分かった。あの役柄はいかにも小橋さんだからこそ出せた味と思わせてくれた。また、劇中でも時折り出演者が北海道弁を操る場面があり、いかに喜歌劇といった側面を見せてくれた。
 前述したように、出演された方々は全てが音楽を専門に学んだ方であり、現在道内を中心に活躍中の方ばかりである。その歌声は一級品の方ばかりである。また、ゲストとして桝谷博子バレエスタジオの方々、HBC少年少女合唱団も出演するという豪華版だった。
 北海道二期会としても相当に力を入れた舞台だったのではと思われるが、肝心の観客である私自身がオペラ鑑賞の素養がないがために、その良さを十分には感得できなかったところがいかにも惜しかったオペラ喜歌劇「こうもり」の観劇だった…。

映画 「大地よ アイヌとして生きる」 №381

2024-11-24 20:14:09 | 映画観賞・感想
 アイヌ民族として誇りを持ち、現代社会の在り方を問い続ける戸梶静江さん。80歳を超えた今も病を押してアイヌ精神の尊さを唱え続ける姿勢に多くの人が賛同を寄せる。宇梶静江さんの独白を追い続けたドキュメンタリーである。

     

 昨日(11月23日)午後、北大大学院教育学院民族教育論研究室が主催するドキュメンタリー映画「大地よ アイヌとして生きる」の上映会が北大総合博物館「知の交流ホール」で開催されたので参加した。
 映画は詩人、古布絵作家、絵本作家、そしてアイヌ解放運動家など多くの顔を持つ宇梶静江さんの思いを描くドキュメント映画である。韓国人である金大偉氏が監督をし、宇梶静江さんの独白を中心として描く105分にわたる長編ドキュメンタリーだ。
 また彼女は俳優の宇梶剛士さんの母親としても知られ、本作において剛士さんはナレーターを務めている。
       
       ※ 戸梶

 宇梶静江さんは東京在住の方だったが、2021年 88歳になって白老に居を構え、(一社)「アイヌ力(ぢから)」を立ち上げ、そこを拠点に活動を続けている。
 映画はまず宇梶静江のこれまでの人となりを宇梶剛士のナレーションで紹介する。それによると、1933年に北海道のアイヌ集落に生まれた宇梶静江は、高校卒業後上京し、結婚して二児を育てたが、その間1972年に朝日新聞「ひととき欄」に「ウタリ(同胞人)たちよ手をつなごう」という文章を投稿し、大きな反響を呼んだ。それを契機に翌1973年には「東京ウタリ会」を立ち上げ、会長に就任した。一方で、「詩人会議」にも参加し詩作にも励んだが、1996年にはアイヌ伝統刺繍でアイヌ叙事詩を表現するを創出するなど多くの顔をもつて活動を続けた。そして2021年になってからの白老への移住である。
  
※ 宇梶静江さんが創出した古布を使って「アイヌ叙事詩」を表現する「古布絵」の一枚です

 宇梶静江さんのこれまでを紹介しながら、間に彼女の独白が続く。その彼女の語りとは…。
 人間らしい生き方とは何か?自然に生きるアイヌの知恵とは何か?民族のアィディンティティーはどこにあるのか?共生の道はないのか? 等々、多くの思いを観ているものに問いかける。

       
 ※ 今回のドキュメンタリーは彼女の著書が刊行されたのがその契機だったと思われます。

 そして静江さんは、アイヌが培ってきた自然を敬い、人と人との礼儀を尽くし、祖先を敬うなどの尊い文化や習慣に誇りを抱いていることを率直に語る。
 アイヌ民族が民族差別に虐げられた歴史は、その後ずいぶん改善されてきたと思われるが、彼女から見ればまだまだその緒についたに過ぎないというのが宇梶静江さんの実感なのだろう。地球温暖化をはじめとして、私たちの生きる地球環境の悪化が叫ばれる今、宇梶静江さんの問いかけに謙虚に耳を傾ける姿勢が私たちに求められているのではないか、というのが映画を観た私の実感である。

心不全にならないために、悪化させないために

2024-11-23 20:20:08 | 講演・講義・フォーラム等
 超高齢社会が進む中、“心不全” が急増しているという。“心不全” の状態にならないために、もし不幸にして “心不全” の状態になったら悪化させないために、何をどうすればよいのか、専門の医師からお話を聴いた。
     
 昨日(11月22日)、札幌市医師会館において「さっぽろ北部心不全ネットワーク」が主催する「心不全と共に生きる」と題する市民公開講座が開催され受講した。
 講座は3部構成になっていたが、次のような構成だった。講座名と講師は次のとおり。
 ◇第1部 「心不全とは」 北大病院循環病態内科学 助教 竹中  秀 氏
 ◇第2部 「心不全チーム医療の実際」 愛心メモリアル病院
                      理学療法士 山本 拓也 氏
                      看護師   高野 朱美 氏
 ◇第3部 「心不全とともに生きる」 北大大学院 医学研究院 
             循環病態内科学教室   教授 安斉 俊久 氏
     
     ※ 講演をされる安斉北大医学部教授です。

といった構成だったが、三つの講座をお聴きする中から私の中で印象に残ったことを中心にレポしたい。
 まず “心不全” というのは病名ではないということだ。“心不全” とは、心臓に何らかの異常があり、心臓のポンプ機能が低下して、全身の臓器が必要とする血液を十分送り出せなくなった状態をいうそうである。
 “心不全” を引き起こす原因としては、高血圧、心筋梗塞、弁膜症、不整脈などがあるという。安斉教授が分かり易い例えを紹介してくれた。それは “心不全” の病態は、痩せた馬が重たい荷台を引っ張っている馬車のようなものだという。そうした痩せた馬に鞭を打てば、馬は無理矢理にでも坂道を上ろうと頑張り坂道を上ることができるかもしれないが、そうした状態が長く続くと、やがて坂道を上れなくなるという。そうした痩せ馬の状態がまさに悪化した “心不全” の病態だという。

      
 さて、そうすると“心不全” を引き起こす原因の高血圧、心筋梗塞、弁膜症、不整脈を防ぐ重要なポイントは、
 ① 塩分を控える。
 ② 禁煙を励行する。
 ③ 肥満を防ぐ。
 ④ 過労やストレスを避ける。
 ⑤ 適度な運動をする。
ことだというが、不幸にして “心不全” に陥った場合でも、病態の進行を防ぐためにも大切なポイントだと安斉教授は指摘した。
 私が今回の講座で初めて知ったこととして、“心不全” に一度罹ると全治するということはないという。ということは一度 “心不全” を発症すると、できるだけ病状の進行を遅らせることだという。そうした取り組みを具体的に紹介してくれたのが愛心メモリアル病院のお二人だった。何度も入退院を繰り返しながら、懸命にリハビリに務める人、残念ながらそうではない人の例を示して注意を呼びかけられた。
    
 いずれにしても、やはり高齢になるに従い日常の生活に留意することが必要だということを痛感させられた。
 妻から「今年になって、病気関連の講座を受講することが多くなりましたね」と言われたが、振り返ってみると妻の指摘のとおりである。意識はしていなかったが、やはりどこかで自分の身体の変化を感じている証なのかもしれない…。

札幌学院大コミュニティ・カレッジ 札幌歴史雑学(2)

2024-11-22 21:08:13 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌学院大コミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第2講も興味深いお話満載で、心楽しいひと時だった。札幌の歴史の事実を平易な言葉で、分かり易く説明する和田氏の話術は一級品である。

 昨日(11月22日)午後、札幌学院大学のコミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第2講が開講された。講師はもちろん街歩き研究家の和田哲氏である。和田氏は第2講のテーマを「娯楽の祭りの風物詩」と題して、和田氏が収集した数々のエピソードを紹介してくれた。

     
     ※ 講義をされる和田哲氏です。

 そのエピソードとは…、
 ◇劇場と歓楽街
 ◇篠路歌舞伎
 ◇映画と横丁
 ◇洋風建築
 ◇ガラナと北海道
 ◇札幌まつり
 ◇大通ビアガーデン
 ◇盆踊り唄
 ◇冬のイベント今昔
と多岐にわたった。どれをとっても興味ぶかいのだが、その全てをレポする力は私にはない。何点かに絞ってレポしてみることにする。
 まず「篠路歌舞伎」についてだが、今でこそ篠路地区は北区の一部であり、札幌市内ということだが、当時(明治後半)は篠路は遠い地であり、札幌中心部では劇場や映画館があり庶民の娯楽も盛んだったが、篠路地区はそれとは無縁だった。そんな農村地区の農業青年の一人に大沼三四郎という青年がいた。大沼は芝居が好きで、周りの青年たちを指導する傍ら、本格的な歌舞伎公演に取り組んだ。評判は上々で、地元はおろか近隣にまで公演に出向くことがあったほど盛んに歌舞伎公演を行ったという。やがて篠路地区に鉄道(札沼線)が通るようになり、歌舞伎熱も終焉したという。現在は、その遺産を引き継ぎ、篠路中央保育園の子どもたちが演ずる「篠路子ども歌舞伎」として今にも受け継がれているそうだ。
 実は私は、数年前に集中的に北区探訪を続けた際に、「篠路歌舞伎」の写真や関連資料が残る「烈々布資料館」や「篠路コミュニティーセンター」を訪れたり、大沼三四郎の墓をお参りしたり、歌舞伎が演じられた「烈々布倶楽部」の跡地などを見学したことがあったので、ことさら興味深く説明を聴くことができた。

    
    ※ 篠路歌舞伎を今に受け継ぐ「篠路子ども歌舞伎」の一場面です。

 続いて「洋風建築」であるが、札幌はお雇い外国人であるアメリカ人が先導して開拓が進んだ関係で洋風建築が盛んに建てられたが、その設計を担ったのはアメリカ人ではなく、代々大工棟梁職の子どもだった安達喜幸という工部省所属の技師だったという。安達氏は初代の開拓使本庁舎、時計台、北大のモデルバーンの建物、そして明治天皇の宿舎となった「豊平館」と次々と洋風建築の設計を担当した素晴らしい技術者だったという。そうした街並みが映画監督の黒澤明の知るところとなり、ロシアの文豪ドストエフスキー原作の映画「白痴」の舞台としてロシアの街並みに似た札幌がそのロケ地に選ばれたという。私もこの映画は観ているが、白黒映画時代にまるで異国で撮った映画のように観ていた記憶がある。

    
    ※ 「北海道開拓の村」に再現された初代の「北海道開拓使本庁舎」です。

 そしてちょっと笑ってしまったのが「盆踊り唄」の話か?北海道では盆踊りが子どもの部と大人の部の二部制が取られてきたという。その訳であるが、それ以前は特に二部制などは取らず大人も子ども一緒に楽しんでいたという。ところが盆踊りの歌は即興性があり、歌い手が自由に歌詞の内容を替えて楽しんでいたという。そうすると、北海道の厳しい風土、激しい労働から解き放された盆踊りでは、子どもに聞かせたくないような卑猥な内容が含まれた唄も数多くあったという。それでは子どものためにも良くないと、二部制を取ることとし、江別市の教師が「子ども盆踊り唄」という曲を作り、大人の方は現在の「北海盆唄」が主流になったということだ。
 なお、「北海盆唄」の方は、あの往年のお笑いグループ「ドリフターズ」がテレビの「8時だヨ!全員集合」のオープニング曲に使われていたことで知られている。

    
 ※ 北海盆踊り発祥の地とされる三笠市の盆踊りは今も北海道内では最も盛んに行われていて、和田氏もぜひ一度体験してみてください、とお話された。

 いや~、あれもこれも紹介したいが、それではこのブログがいつ終わるとも言えないほど長くなってします。涙をのんで(?)今回はこの辺にします。
 次回、最終回となる来週も楽しみである

女医第一号の荻野吟子の生涯を辿る

2024-11-21 19:29:43 | 講演・講義・フォーラム等
 荻野吟子は我が国の女医の第一号者であることは有名であるが、その彼女が北海道瀬棚町において開業していたことも北海道民にはかなり知られたことである。また、フェミニストとして女性の地位向上にも力を発揮した人だった。

        
        ※ 瀬棚町の荻野吟子公園に設置されている荻野吟子顕彰碑です。

 昨夜(11月19日)、北海道労働文化協会が主催する「労文協リレー講座」の第2回講座が北海道自治労会館で開講され受講した。
 テーマは「女医第一号 荻野吟子~フェミニストとして生きる~」と題して、北海道情報大学名誉教授の広瀬玲子氏が講師を務めた。

     
     ※ 講演をする広瀬玲子北海道情報大名誉教授です。

 吟子は1851(嘉永4)年、現在の埼玉県妻沼町の豪農の家に生まれた。時はペリー来航の2年前、つまり江戸時代最末期であった。
 当時の女性規範は「女は嫁して子を産み、家を守る」という儒教思想が当たり前とされ、「女性に学問はいらない」という中において、兄たちと一緒に学び、才媛の誉れが高かったという。
 吟子は1868(明治元)年、17歳にして嫁ぐが、夫から淋病をうつされるという不幸に遭遇し、離縁することとなった。(これも男尊女卑の風潮がそうさせたと広瀬氏は指摘した)
 それからは、自らを苦しめ、また多くの女性が同様に苦しんでいることを知り、そうした人を助けるために、まだ当時の日本にはいなかった “女医” の道を目ざして勉学の道をひたすら歩む。先駆者がいない中で、“女医” の道への扉を開けることは大変な困難との闘いであったことは想像に難くない。
 1885(明治18)年、幾多の困難を乗り越え、吟子は見事公許女医第一号となった。時に吟子35歳の時であった。

        
  ※ 日本初の女医の免許を取得したことを記念した荻野吟子の写真と思われます。

 そして東京で「産婦人科・小児科 荻野医院」を開業する。それと前後して彼女はキリスト教に入信した。キリスト教が「男女の対等性を認める」、そして「一夫一婦制を守る」ことに救いを求め、心の拠りどころとしたのではないか、と広瀬氏は解説した。
 吟子は医業とともに、女性の地位向上や弱者救済の活動にも熱心に取り組んでいたが、そうした中で志方之義というキリスト教徒の学生と出会い、1890(明治23)年、周囲の反対を押し切り14歳も年下の志方と結婚することになる。
 志方は結婚の翌年、北海道にキリスト教の理想郷を建設しようという理想に燃えて北海道利別原野(現在の瀬棚町から北桧山町の辺り)に入植する。一方、吟子は志方への資金援助のため東京に残り医業を続けるのだが、志方の苦闘ぶりを聞き、自らも1894(明治27)年に北海道に渡った。しかし、結局志方の開拓は断念に追い込まれる。
 そして志方は伝道に専念し、吟子は生活の糧を得るために瀬棚町で医師として開業した。(明治30年頃と云われている)
 瀬棚町で医業を続ける一方、瀬棚においても吟子は社会活動にも積極的に取り組んだという。
 1904(明治37)年、吟子は病気療養のため一時帰郷し、姉の元で療養して翌1905(明治38)年半ばになってようやく瀬棚町に戻ったが、夫の志方が病に倒れ死去してしまった。
 1908(明治47)年、東京に引き揚げたとき吟子は58歳になっていた。東京で医業は開業したものの、自らも療養が必要な身体とあって、社会活動から離れ療養生活を中心とした生活を送っていたが1913(明治46)年、63歳で逝去した。
 ここまで広瀬氏はある意味淡々と吟子の一生を順に語るような講義だった。そして最後に広瀬氏は「吟子の思想」について触れた。下図の通りであるが、受講者から講義後に「キリスト教精神」・「女性の自律(立?)」と「ナショナリズム、士族的精神」は相いれないのではないか、といった質問が出たが、広瀬氏は「吟子は幼少期に国学を学んだこともあり、国を支えなければならない」という精神が、彼女の中では違和感なくキリスト教精神や女性の自律と同居したのではないか、と話された。

     
 困難に立ち向かい、女性の地位向上、弱者救済に立ち向かった日本初の女性医師が北海道瀬棚町においても医業や社会活動に貢献されたということを私たち道産子は忘れてはなるまい。