田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

白石歴(れき)しるべウォーキング №4

2023-04-23 18:03:21 | 札幌ウォーク & Other Walk

 白石歴しるべウォーキングの最終回となる№4のDコース(東札幌・白石中央通り)4.7Kmは、白石区複合庁舎をスタート&ゴールとする7ポイントを巡り歩くコースだった。

        

 今回のチェックポイントは、(続き番号で)㉒横丁通 ㉓白石のリンゴ園跡    ㉔エゾオオカミ捕獲の場所 ㉕白石村水田発祥の地 ㉖納豆博士・半澤洵生誕の地 ㉗豊平外三ヵ村聯合用水路 ㉘望月寒川 の7ポイントである。

 今回はスタート地点の白石区複合庁舎から南郷通を西に向かうコースだったのでスムーズにコースに乗ることができた。

   

   ※ 白石地区の中心に建つ改築されて数年しか経っていない白石区複合庁舎です。

㉒横丁通

 白石区複合庁舎から南郷通りを真っすぐ西に向かうと、現在「米里行啓通」という大きな通りと交差する。その「米里行啓通」こそが、その昔「横丁通」といわれた通りである。このウォーキングのCコースで「白石村1番」のことに触れたが、その白石村1番から白石神社までの間を1番から50番まで区角割りをして住民が住んだのだが、1番から7番までの区画が雪解け水で浸水することから、居住地として適さないことが分かり、住民が移り住んだところに造られた道路を「横丁通」と呼ばれるようになったそうだ。その後、昭和35(1960)年の町名変更で「横丁通」との名称は廃されたそうだ。

   

   ※ (元)横丁通りの名に相応しくない(?)広い通りです。

㉓白石のリンゴ園跡

 明治初期、北海道の開拓を担った北海道開拓使はアメリカから輸入した果樹の栽培を奨励したという。その中でも白石村ではリンゴの栽培が普及したが、その中心が先の「横丁通」界隈だったという。そのリンゴ園も徐々に宅地化が進むことによってやがて廃れていったそうだ。

「白石歴しるべ」の標識は、先の「横丁通」と共に「きよみず公園」内に並べて立てられていた。

   

   ※ 住宅街の中に、突然このような畑地が現れリンゴ園だった名残が伺えます。

   

   ※ 「横丁通」と「リンゴ園跡」の標識が同じところに立っていました。   

㉔エゾオオカミ捕獲の場所

 エゾオオカミが捕獲されたということは、開拓が始まったばかりの明治初期の白石地区は原始林や荒地が多く、ヒグマ、エゾオオカミ、エゾシカなどがかっ歩する世界だったそうだ。エゾオオカミは明治20年頃に害獣として駆逐され絶滅されたが、この場所で捕獲されたエゾオオカミは明治10年にこの場所で昼寝をしているところを村人に火縄銃で撃ち取られたという。その剥製は世界でただ1頭のエゾオオカミの雄の標本として北海道大学附属植物園の博物館に展示されているそうだ。 

   

   

   ※ 標識は(株)池田製菓の本社工場兼店舗の脇に立っていました。

㉕白石村水田発祥の地

 開拓当初、北海道では稲は育たないと言われていたが、この地に入植した旧白石藩の人たちは故郷から種籾を取り寄せ、失敗を続けながらも諦めることなく米作りに挑み続け、ついに明治16年に初めて米を収穫することに成功し、白石米第一号が誕生したという。その地が国鉄函館本線に近い「白生公園」一帯だったそうだ。

   

   ※ 標識は「開田碑」と並んで立っていました。

㉖納豆博士・半澤洵生誕の地

 北海道帝国大学の教授であり応用菌学の権威である半澤洵氏が誕生したのは札幌郡白石村だった現在地(白石区中央1条5丁目)だったそうだ。

 半澤氏はそれまで雑菌も含む稲わらでの納豆づくりを、純粋な納豆菌の培養に成功し、経木(薄皮)の容器を使用することで衛生的な納豆の量産化を確立し、納豆博士と親しみを込めて周りから呼ばれるようになったそうだ。

   

㉗豊平外三ヵ村聯合用水路

 飲料水などの生活用水路として精進川から取水して豊平川へ注ぐ平岸用水路が明治6年に造られたが、稲作が盛んになると、この用水路からさらに豊平、平岸、白石、上白石の各村へ注ぐ1号~4号用水路が豊平外三ヵ村聯合用水路組合によって造られたという。表示板が立っている「もつき公園」は1号用水路が流れていたところだそうだ。

   

   

   ※ 1号用水路が流れていたという「もつき公園」です。

㉘望月寒川(モ・チキサップ川) 

 白石の母なる川モ・チキサップ川は、真駒内南部の丘陵を源として、白石一帯を流れ月寒川に合流する12キロの二級河川である。川を流れる水は地域住民の生活用水、農業用水として欠かせないものであったとともに、大雨時などは家屋浸水、田畑の水没などの害ももたらしたモ・チキサップ川は白石村民にとって喜びと悲しみをもたらした忘れえぬ川だという。現在は周りをコンクリートで固められ地域の住民との関連も希薄になっているという。

   

   

   ※ この日のコースで最も下流にあたる望月寒川です。

   

   ※ 反対に最も上流にあたる望月寒川です。

 以上で「白石歴しるべウォーキングマップ」に掲載されていた28ヵ所の歴標(標識が掲示してある場所)の全てを回ったが、巡り歩いている中で「白石歴しるべ」に登録されている物件は他にもあるらしいことが分かってきた。ウォーキングマップに載ったところは、ウォーキングコースとして抱合されるに相応しいところがリストアップされた結果のようだった。

 そこで私は Dコースを終えた後、白石複合庁舎内の地域振興課に伺い「白石歴しるべ」の資料の提供をお願いした。すると、かなり分厚い資料をいただくことができた。それを参考に調べてみると、私がまだ訪れていないところとして①北都団地、②旧本通倶楽部、③北海道暗渠排水施設発祥の地、④逆川、⑤大谷地駅跡、月寒駅跡、⑥菊亭公爵入植跡地、⑦板橋地区跡、などが残っていることが判明した。これらの跡地等がどこに位置するのかはまだ分かっていないが、おそらく白石区内の各所に散在しているものと考えられる。一度ではとても廻りきれないものと思われる。あせらずにじっくりと巡りながら白石の歴史にもう少しこだわってみることにしたいと思っている。                          


白石歴(れき)しるべウォーキング №3

2023-04-21 19:10:00 | 札幌ウォーク & Other Walk

 白石歴しるべウォーキング№3のCコース(菊水・菊水町巡り)5.2Kmは、地下鉄「菊水駅」に近接する「やよい公園」をスタート&ゴールとする6ポイントを巡り歩くコースだった。

        

 今回のチェックポイントは、(続き番号で)⑯旧国鉄東札幌駅周辺の工業地帯 ⑰宇都宮牧場跡 ⑱有島武郎邸跡地 ⑲北海道庁立札幌治療院 札幌市助産所跡 ⑳札幌遊郭(白石遊郭)跡 ㉑白石村1番 の6ヵ所である。

 今回もスタート地点であり、「旧国鉄東札幌駅周辺の工業地帯」の標識が立っている地下鉄「菊水駅」に近接している「やよい公園」を見つけるのに苦労した。

⑯旧国鉄東札幌駅周辺の工業地帯

 マップの案内によると、周辺は大正時代から昭和40年代にかけて、鉄工、ゴム、繊維、木材などの工場群が立ち並んでいたという。一帯は国鉄千歳線と定山渓鉄道が交差する東札幌駅があり原材料の運搬に都合がよく、そのうえ札幌の巨大市場が近くに控えているという立地の良さから工場が集まったそうだ。しかし、現在その辺りは工場の跡は見当たらず周囲はマンションなどの住宅街へと変身していた。(よく探索はしていないが…)

 「やよい公園」に植わっていたサクラが満開の時を迎えていた。

   

⑰宇都宮牧場跡

 「やよい公園」からそれほど離れていないところに明治35(1902)年から昭和2(1927)年まで面積20haを有する宇都宮牧場があったそうだ。牧場を拓いた宇都宮仙太郎はアメリカ留学を経て、当地でバターの製造や牛の品種改良を行うなど先進的な酪農を実践し、「日本酪農の父」と称された方だそうだ。

 現在辺りは当時の面影は跡形もなく、都市化されていた。

   

⑱有島武郎邸跡地

 豊平川に近い現在「豊平川河岸公園」となっているところに、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)において英語講師を務めていた作家・有島武郎が明治43(1910)年5月から翌年7月まで住んでいたという。下世話な話だが、豊平川を挟んで当時の交通事情を考えると、通勤が不便ではなかったのでは?と思うのだがどうだったのだろうか?

 なお、当時の邸宅は「北海道開拓の村」に復元・公開されているという。(旧有島武郎邸はもう一軒あって、そちらは札幌芸術の森内で復元・公開されている)

   

   ※ 「白石歴しるべ」の標識の横に、「有島武郎邸跡地」の標識が立っていました。

⑲北海道庁立札幌治療院 札幌市助産所跡

 札幌遊郭の菊水地区への移転に伴い、性感染症の予防・治療をする札幌治療院もこの地に移転したそうである。場所は白石遊郭の道路向かいである。同治療院は戦後閉鎖されたが、全面改築後に札幌市助産所となって昭和44(1969)年に廃止された。現在その跡には軽費老人ホーム「札幌市菊樹園」となっていた。

   

⑳札幌遊郭(白石遊郭)跡

 ⑲北海道庁立札幌治療院 札幌市助産所跡の道路向かい、現在「菊水公園」となっているところが「白石遊郭跡」である。案内書によると、札幌の遊郭は初薄野地区に明治10(1877)年に開かれたが、薄野界隈の都市化によって大正9(1920)年に果樹園主らからの寄附を受け、菊水地区に移転したのが「白石遊郭」である。最盛期には30軒もの妓楼が軒を連ねたそうだが、昭和33(1958)年の売春防止法の施行によって姿を消したそうだ。

 現在は「菊水公園」として地域住民の憩いの場となっているようだ。なお、公園の一遇には「菊水神社」の小さな祠が建てられていた。

   

   

   ※ 「菊水公園」の一隅には「菊水神社」の小さな祠が建っていました。

㉑白石村1番

 「菊水公園」からはやや離れて国道12号線沿いに「白石公園」があるが、その一角が「白石1番」と呼ばれるところである。

 白石開拓の第一歩は、明治4(1871)年に旧仙台藩の白石城主の家臣が望月寒(も・きちさっぷ 当時の呼び方だそうだ)に移住したのが始まりとされている。彼らは最初に幅18m、長さ3,600m の道路(現在の国道12線)を造り、この道路を挟んで道路の右と左にそれぞれ1番から50番まで番号を付けて土地割りをしたという。その起点となったところが「白石村1番」とされている所だそうだ。

   

 白石地区の歴史を知るのが楽しくなってきた。と思い始めたが「白石歴しるべウォーキング」は残り1コースとなってしまった。残り1コースも楽しみながら巡りたいと思っている。


白石歴(れき)しるべウォーキング №2

2023-04-19 18:04:49 | 札幌ウォーク & Other Walk

 白石歴しるべウォーキング№2は、Bコース(本郷通・本通・平和通り)4.5Kmを巡り歩いた。チェックポイントはたった5ヵ所だったが、それぞれ趣のあるチェックポイントが多いコースでもあった。

       

 今回のチェックポイントは、(Aコースからの続きの番号で)⑪ヒグマ騒動の地 ⑫白石神社 ⑬白石本通墓地 ⑭水源池通 ⑮長浜万蔵翁の銅像 の5ヵ所である。

 見知らぬ地域をウォークする場合、例えマップがあったとしてもスタート&ゴールの地点を見出すのに苦労する場合が多い。いわゆる土地勘がないためだ。今回のスタート&ゴール地点である「白石あかつき公園」を見つけるのにもちょっと苦労してしまった。

   

   ※ Bコースのスタート&ゴールとなった「白石あかつき公園」です。

 それではチェックポイントを順次レポすることにする。

⑪ヒグマ騒動の地

 案内所によると、明治5(1872)年にはこの地でヒグマが討ち取られ、明治29(1896)年には住民がヒグマに大けがを負わされた場所だという。辺りは豊平川を挟んで札幌都心から近いところあるが、明治時代はヒグマが出没するようなところだったようだ。案内書によると現在地には「東白石まちづくりセンター」がありセンター内に捕獲されたヒグマが展示されているかのような写真が載っていたので、まちづくりセンターに伺ったのだが、そうしたものはなくセンター長さんによると「どこか別のところに展示されているのでは?」ということだった。(調べてみたい)

    

   ※ ヒグマ騒動の地跡の表示と、後は「東白石まちづくりセンター」の建物です。

⑫白石神社

 最初のチェックポイントが特定されると、あとは割合スムーズに巡ることができるものである。次のポイント「白石神社」は苦労することなく辿り着くことができた。

 白石神社は2000年代の正月三が日の初詣客の参拝客数が北海道神宮に次ぐ北海道で2陣目の集客数を誇ったという大きな神社である。境内には2000年代に入っても市内で唯一湧水が存在しておりその水が造る池とその周りの森が荘厳さを演出していた。

 訪れる前に「直筆の御朱印がいただけるか」伺ったが「書き置きしかしていない」との残念な回答だった。いたしかたないが書き置きの御朱印をいただいてきた。(そのレポは後日投稿します)

   

   ※ 堂々とした風格の白石神社の本殿(拝殿)です。

⑬白石本通墓地

 住宅街の中に忽然と現われたのがこの「白石本通墓地」だった。案内所によると、明治初期に白石地区にはAコースで巡った「白石中央墓地」が存在していたのだが、白石村の東側に居住する人々が「近い場所に墓地がほしい」との願いから、開拓使の許可を得ずに自主的に造成したようだ。正式に許可が出たのは明治35(1902)年のことだったという。

 私が訪れた時には墓地全体に墓石がやや疎らな印象を受けた。近年になり墓じまいをする人や、あるいは民間の墓地に墓を移動する人が増えたせいなのだろうか?

 ここの墓地の特徴は、周りにレンガ工場などがあったからだろうか?戒名・死亡年月日などを彫り込んだ粘土の素焼きに上薬をかけて焼き上げた茶色い土管型や角柱型の墓が多数あったという。現在もそれが残っているということで捜し歩いたところ、墓地の中央付近に数個の土管型の墓を見つけることができた。

   

   ※ 「白石本通墓地」を示す看板と、「白石歴しるべ」の看板(右側)です。

   

   ※ 写真のように空き地が目立った「白石本通墓地」でした。

   

   ※ 苦労して(?)して見つけた土管型の墓石です。

⑭水源池通

 明治29(1896)年、月寒に新設された独立兵大隊のために、西岡水源地から水道管を引き、明治42年にその上に維持管理のために造られた道路が現在の通りだそうだ。今は道幅の広い幹線道路となっていて、当時の面影を偲ぶことはできないが、「白石歴しるべ」の看板が立っていたところには由緒ありそうな松の木が立っていた。どうやら個人の持ち物のようで説明書きはなかったが、おそらく当時の名残を伝えるもののように思えた。

   

   ※ 西岡水源地に繋がる「水源池通り」です。

   

   ※ 「水源池通」を表示する看板と、いわくありげな松の木です。

⑮長浜万蔵翁の銅像

 この「白石歴しるべウォーキング」で初めて故人を顕彰する銅像に出会った。銅像が建てられていたところは「本郷通商店街」の一角だった。長浜万蔵は昭和31(1965)年、住宅街などがなかった地に商店街を誕生させた功労者だそうだ。商店街の通りはサクラ並木も造られ賑わいを創出させたようである。

   

   ※ 本郷通商店街のサクラ並木です。

        

        ※ 長浜万蔵翁の銅像が商店街の一角に建っていました。

 以上、一周約4.5キロのコースだったが、マップを手に知らなかった街並みを巡り歩くことはいつも楽しく感じている。残り2コースも楽しみながら巡り歩きたいと思っている。


白石歴(れき)しるべウォーキング №1

2023-04-13 18:31:10 | 札幌ウォーク & Other Walk

 札幌市の白石地区は、札幌市の中では早くから開墾が進められ、歴史的な史跡や建物が多いのでは?と思っていたのだが、本日巡ったかぎりでは(Aコース)意外とそうしたものが遺されていなかったことが残念だった…。

         

 札幌市内を巡るために(知るために)さまざまな方法を見出し、それらを頼りに札幌市内のあちこちを巡ってきた私だが、他に何か方法はないだろうか?とあれこれと探っていたところ、「白石歴しるべウォーキングマップ」なるものを見つけ出した。「白石歴しるべ」とは、白石のまちの発展に大きな影響を与えたところに案内板を設置したという。その案内板が白石区内には35ヵ所あるという。その中から27ヵ所をチェックポイント代わりにして4つのコースを設定したという。

 その4つのコースのうち、本日はJR白石駅をスタート&ゴールとするAコース(平和通・本通・本郷通巡り)をウォーキングしたのだが…。

    

 Aコースのチェックポイントは計10ヵ所あった。その10ヵ所とは…、

 ①JR白石駅 ②札幌石炭坑爆発予防試験所跡地 ③連隊通 ④陸軍官舎 ⑤白石中央墓地跡 ⑥白石村役場跡 ⑦白石村医療発祥の地 ⑧善俗堂(ぜんぞくどう)跡地 ⑨陸軍平気補給廠跡 ⑩鈴木レンガ工場跡の10ヵ所であった。

 ところが先述したようにそれら歴史的に貴重なものが案内板という簡素なもので示されてはいるが、石碑などで後世に伝えようとしていたところは、わずかに「白石中央墓地跡」という小さな石碑だけだったことがやや残念に思えた。いろいろと事情はあるのだと思われるが、このような歴史的史跡を後世に伝えるべく手立てはないものなのだろうか?もっとも私は4つあるコースのうちわずか一つのコースを巡っただけであるから、残り3つのコースを巡ることによってその印象が変わってくれればいいのだが…。

 それでは巡った10ヵ所のチェックポイントを順次レポしてみたい。

①JR白石駅      

  白石駅の始まりは、明治15(1882)年に小樽から白石・江別経由で幌内まで開通した幌内鉄道の一つの駅となったのが始まりである。とはいっても当初はフラグステーションという仮乗降場だったという。駅舎ができたのは明治36(1903)年のことだという。一方で白石駅は大正7(1918)年、定山渓鉄道が開通した際には札幌側の始発駅だったそうだ。

   

   ※ 案内板は白石区の花であるバラが添えられ、歴史的意味についての説明書きがありました。   

 そうした歴史のある白石駅も現在では近代的な駅舎に様変わりしていた。

   

   ※ 近代的な建物になっていたJR白石駅の駅舎です。

②札幌石炭坑爆発予防試験所跡地   

 道内の炭坑でガス・炭じん爆発が多発したことで、昭和13(1038)年に国の予防研究機関として設立された。その後、燃料の主役が石炭から石油へ転換したのに伴い、北海道石炭鉱山技術センターとして平成14年まで鉱山保安のための研究に取り組んだという。設立当時は山林や畑に囲まれていて、爆発試験の影響が他に及ばないように設立されたというが、現在では街中となっていて、跡地はショッピングセンターとなっていた。

   

   ※ この看板を見つけるのに相当苦労しました。跡地はショッピングセンターになっていました。

③連隊通   

 明治38(1905)年、白石駅から月寒の独立歩兵大隊(後の歩兵第25連隊)への道として造られた道だという。兵隊たちが人力で造ったことから「連隊通」と呼ばれたそうだ。

   

   ※ 看板を写すと通りを撮ることができませんでした。

④陸軍官舎   

 昭和19(1944)年、陸軍兵器補給廠に務める将兵の住宅として45戸建てられたそうだ。当時としては珍しい コンクリート基礎などを取り入れた近代的な建物だったそうだ。現在は小さな公園となっていた。

   

   ※ 跡地は公園になっていました。

⑤白石中央墓地跡   

 先祖を大切にしていた村民が入植直後の明治5(1872)年に造成した墓地だそうだが、其の後都市化とともに、昭和47(1972)年までにほとんどの墓碑が平岸や里塚に移転改葬されたそうだ。跡地を示す石碑が残っていた。現在とは「白石温水プール」に変身していた。

   

   ※ 説明板の傍には石碑が置かれていました。後ろの建物は白石温水プールです。

⑥白石村役場跡   

 明治35(1902)年に白石村と上白石村が合併した際に、白石村役場が開設されたのが現在の跡地だそうだ。その時建てた役場の建物は札幌市と合併してからも白石支所、白石出張所として使用されていたそうだ。現在、跡地には白石まちづくりセンターが建っていた。

   

   ※ 説明板の後は、白石まちづくりセンターの建物です。

⑦白石村医療発祥の地   

 昭和20(1945)年、札幌で開業していた吉田廣医師は無医村だった白石村の要請に応えてこの地に移り住み、村医となった。吉田医師は昭和26(1951)年に亡くなるまで、村民のために尽力し、白石の医療の基礎を築いたそうだ。現在地には「吉田記念病院」が建っていた。

   

   ※ 跡地が「吉田記念病院」となっているのは吉田廣氏の子孫が受け継いでいるのでしょうか?

⑧善俗堂(ぜんぞくどう)跡地   

 白石の入植者たちは、入植の翌年(明治5年・1872年)に学問所「善俗堂」を設立。 先人たちの教育への並々ならぬ熱意は、全ての児童が学べるように文具を貸与し、村民の寄付金を運用して基金を創設していたそうだ。跡地には有名予備校の校舎が建っていた。

   

   ※ 跡地は奇しくも教育施設の予備校でした。

⑨陸軍兵器補給廠跡

 第2次世界大戦が激しくなってきた昭和19(1944)年、千島・アリューシャン列島など北方戦線に兵器や物資を補給するための補給廠が造られたが、その跡地である。その後跡地が何に利用されていたのか不明であるが、現在同所は広大な更地となっていた。掲示された看板には近い将来病院を中核とした街が誕生するようである。なお、ここだけは周辺が工事中のために「白石歴しるべ」の看板が取り外されていた。

   

   ※ 唯一説明板が撤去されていたところですが、広大な跡地は医療法人「北楡会」と「アインホールディングス」が共同で開発するようです。

⑩鈴木レンガ工場跡

 良質な粘土が産出された白石村はレンガ製造が盛んだった。その中でも鈴木佐兵衛が明治17(1942)年に始めた「鈴木レンガ工場」は、北海道での本格的なレンガ製造業の先駆けだったという。その後も月寒村などに分工場を建てたりしたが、大正11(1922)年に野幌に大煉瓦場が建設されたり、セメントの出現により工場を閉鎖したという。現在地には建設会社の社屋が建っていたが、道路向かいに大きな敷地を持つ製粉工場が建っていたが、あるいはそこも敷地の一部だったのではないかと思わされた。

   

  ※ ここの説明板も見つけるのに苦労し、行ったり来たりを繰り返した末に発見しました。   

 以上、コースそのものは約4.5キロということだが、マップの入手のために白石区総合庁舎に出向き、そこからAコースのスタート&ゴール地点のJR白石駅まで移動したり、ポイントが見つからずに行ったり来たりを繰り返したこともあり、本日の総歩数は17,000歩余りとなり、距離も12キロ近くとなった。けっこう疲れましたが、残りのコースも時間をおかずに完成させたいと思っている。             


札幌ウォーク 北区・屯田防風林コース〔後編〕

2022-04-16 12:07:07 | 札幌ウォーク & Other Walk

 コースは「屯田みずほ通り」から「創成川緑地」に入る。創成川沿いに設けられた緑地は静かな佇まいで地域住民には絶好の散策路と思われた。続いてこのコースのメイン「屯田防風林」である。まったく人の手が入っていないかのような自然いっぱいの防風林は魅力いっぱいだった。

  

 「屯田みずほ通り」を右折すると、創成川沿いの「創成川緑地」に繋がった。緑地内には緩やかに婉曲した散策路が設けられている。その外側の創成川に接しているところには別の真っすぐなアスファルト道路も並行して走っていた。「創成川緑地」は札幌市内の他の緑地同様に、適度にベンチやバーコラなども配されていた。そうした中で緑地中央付近にモニュメント風の彫刻が鎮座していた。彫刻の裏に回って見るとCINQ作「宙(そら)の船」と記されていた。

   

   

   ※ 彫刻の裏面には「宙の船」 1997  CI NQと記されていました。

   

   ※ 緑地内の散策路は右側の細い道、真ん中の舗装路は創成川沿いの堰堤に造られた道です。

 やや残念だなと思われたのは、「創成川緑地」と「屯田防風林」が直接には繋がらず、一部住宅街を通り抜けねばならなかったことだ。仕方のないこととはいえ、やや残念に思われた。

 いよいよこの日のハイライト「屯田防風林」である。コースは防風林の東端から入る。その入口に立て看板があり、そこには「ポプラ通中央緑地」と記されていた。どうやら「屯田防風林」は通称で、正式名は「ポプラ通中央緑地」と称する通りのようだ。通りとは言え、舗装はされておらずもちろん車などは通ることが出来ない完全な人道である。この「屯田防風林」自体が「北区歴史と文化の八十八選」に選ばれている。

   

   ※ 「屯田防風林」の入口にはこのような立て看板が…。

        

        

        ※ 確かにこうしたポプラの木が目立ちました。

〈45〉屯田防風林    

厳しい季節風から農作物を守るために植えられ、約8kmにわたり樹林帯をつくっています。現在では憩いと散策の場になっています。

   

 私がここを訪れるのは確か4度目だと思うが、いつ来て歩いても心地良い思いに包まれる。それは散策路が舗装されておらず、自然の土の道で足に優しいからだ。さらにはまるで手つかずのように樹木が生い茂っている様が都会の住宅街の真ん中で感じられるのが嬉しいのだ。もちろん手つかずということはなく、管理する側では住民の安全に配慮した管理がなされてはいるのだが…。この日も多くの地域住民の方々が散策していた。           

 私は現存されている約2.2kmのうち約1.9kmを縦断したが、その縦断中に目にした光景の中から印象的な何枚かを掲載することします。

   

   

   

   ※ この若い木は自生した木のように思えますが…。

   

   ※ 自然いっぱいに見えた防風林内ですが、ところどころに子うした規制綱もみられました。

   

   ※ 春間近!オオウバユリの幼芽の群落がありました。

 なお、この「屯田防風林」は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選定されている道であることを申し添えたておきます。

 コースの最後に「北区歴史と文化の八十八選」に選定されている二か所の石碑を見つけるのに苦労した。ガイドブックはおおよその位置しか表示していないため、実際には辺りをウロチョロして探さねばならない。二か所とも、周りにいた地元の人と思われる方に尋ね回りながら探したが、かなりの苦労の末になんとか見つけることができた。

〈47〉はたちのつどい記念塔

 はたちのつどい記念自儀容として建てられた。タイムカプセル入りの記念塔です。

   

〈46〉植樹碑

 札幌すずらんライオンズクラブが公園内にサクラの木約1,000本を植樹した記念に建てられました。

   

 そうした最後にスタートした「屯田みずほ通り」の始発点に戻った。コースの距離としてはガイドブックで5.9kmとなっているが、「北区歴史と文化の八十八選」の建造物などがコース上になかったり、あるいは見つけるために右往左往したこともあり、私の歩数計では9kmにもなっていた。当初は隣りの「遊水地コース」も踏破の予定だったが、時間的に無理と判断し、後日を期すことにした。

※ 「北区歴史と文化の八十八選」の〈 〉内の数字は、北区で指定したロット№です。


札幌ウォーク 北区・屯田防風林コース〔前編〕

2022-04-15 17:36:39 | 札幌ウォーク & Other Walk

 このコースは数多くある札幌市内のウォーキングコースの中でも最上位にランクするほど素晴らしいウォーキングコースだと私は思う。三角形のコースそれぞれが個性的な顔を持ち、車などに煩わされることもなくゆったりとウォーキングが楽しめるコースである。

 古い話になるが、私は2008年1月から2010年6月までかけて札幌市内に設定された118のウォーキングコースを全て歩いた体験がある。(もちろんそのことは拙ブログにアップしている)

        

        ※ 2013年に北区から改訂されたウォーキングマップが発行されたようです。

 その中には北区が指定した6つのコースも含まれていた。ところが昨夜2013年に発行された「北区 ウォーキングマップ」を何気なく見ていたところ、それまで設定していたウォーキングコースを再編したらしいことを発見した。同じ6コースなのだが、コース名も変わりコースそのものも手直しされていた。さらにはコース上に北区が独自に(?)に指定した「北区歴史と文化の八十八選」の歴史的建造物や文化遺産を巡ることが出来るコース設定に改編したようなのだ。私は「北区歴史と文化の八十八選」を巡ることを主として、改編された北区のウォーキングコースを巡ってみようと思い立った。

   

   ※ 今回私は左側の赤線のコースをぐるっと一周し、周辺の八十八選に選定された石碑などを巡りました。

 私が本日巡り歩いたのは赤線で示された「防風林コース」である。スタート&ゴールはマップに例示されたところではなく、右側の角青字のスタート&ゴールとして歩いた。それでは巡り歩いたところを写真で羅列します。なお、「北区歴史と文化の八十八選」については北区が示したロット番号を〈〉内に記すことにします。

 なお、今回は掲載写真が多くなるので前・後編に分けてレポすることにした。まずは稲作のかんがい溝跡に造成された「みずほ通」を歩き、「みずほ通」近辺に散在した八十八選の石碑等をレポすることにします。

〈48〉屯田みずほ通り

屯田の稲作を長年支えたかんがい溝跡に造られました。札幌市北区屯田5条1丁目から西に2.6kmの遊歩道が続いています。

   

   

   

   ※ 「屯田みずほ通り」はご覧のように周辺住民の方々がよく整備されている遊歩道でした。

〈49〉屯田の太陽

屯田開基100年記念事業の一環として建立されました。明るい太陽に恵まれた屯田地区を象徴しています。

   

〈50〉屯田郷土資料館

館内には、開拓時の屯田兵屋が復元されているほか、屯田兵に関する資料が展示されています。

   

〈51〉「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」の碑

屯田の開拓を進めた第四中隊の本部が建っていた地点を明確に示すため、屯田開基百年を機に昭和63(1988)年に建てられました。

        

〈52〉篠路兵村「開拓碑」

明治22(1889)年、篠路村(現屯田)に屯田兵が兵村を開設したのを記念し、開基40周年の昭和3(1928)年に建立されました。

   

〈53〉水田開発記念碑

農業経済を立て直そうと始められた水田開発から45年になるのを記念し昭和33(1958)年に建立されました。

   

〈54〉屯田兵顕彰の像

この地を開拓した屯田兵の功績をたたえ、屯田開基100年記念の際に建立されました。

   

〈55〉馬魂之像

農耕につくして倒れた馬魂の慰霊碑です。屯田開基100年を記念して建てられました。

   

 

   

   ※ 地域の鎮守「江南神社」境内にも八十八選関連のものが以下の3点がありました。

〈56〉篠路兵村「移住記念碑」

明治22(1889)年、この地に屯田兵が入植し兵村を開設したのを記念し明治29(1896)年に建立されました。

   

〈57〉屯田開基九十周年記念顕彰碑

碑面には吹田晋平の歌が刻まれています。「神をうやまい祖をとうとびて九十年にい宮はなる江南のさとに」

   

〈58〉望郷のアカマツ

明治27(1894)年、屯田兵中隊本部が「望郷の松」と銘打ってアカマツとオンコを配布しました。今は4本しか残らないうちの1本です。

   

※ 「北区歴史と文化の八十八選」の説明は北区のHPの説明を転写させていただきました。現地ではもう少し詳しく説明された看板が立っていました。

   

   ※ 「屯田みずほ通り」の中でとても目立った「シダレヤナギ」が涼やかに立っていました。

   

   ※ シダレヤナギの枝には小さな緑の芽が出ていました。

   

   ※ 「屯田みずほ通り」の東端で創成川に行き当たりました。創成川沿いのポプラの並木が見事です。

 明日、後編をレポすることにします。


桑園札幌停車場緑道ウォーク

2021-06-23 16:51:43 | 札幌ウォーク & Other Walk

 “停車場” なんて今の人たちは「いったい何?」と思うのではないだろうか?なんとも古臭いネーミングであるが、緑道そのものは都心に近いにもかかわらず緑に溢れた快適な遊歩道である。

 JR桑園駅から札幌駅に向かって線路沿いに広がる遊歩道がある。そこが「札幌桑園停車場緑道」である。“停車場” とはずばり “駅” のことである。明治時代には人々の間で当たり前に使われていたが、現代では死語に近い言葉である。ところが鉄道用語としては今も現役ということで緑道の名前にも用いられているようである。なお読み方としては「ていしゃじょう」と読むのが正しいようだ。

 最近、体調を崩しがちだったがようやく回復の兆しも見え始めたので、比較的近場のこの緑道を歩いてみることにした。

   

   ※ 緑道の桑園駅側のスタート地点です。

   

   ※ スタート地点から振り返ってみると、遠く右手が「桑園駅」です。

 その「札幌桑園停車場緑道」であるが、正式には北6条の西13丁目から5丁目までを指すようである。具体的にはJR桑園駅からやや札幌駅側に寄ったところから緑道は始まる。(ちょうどイオン桑園店の建物が終わったところ)まずはシラカバの並木道が迎えてくれる。その周囲は付近の住民の方々によってだろうか?色とりどりの花が植えられていて気持ちがよい。

   

   ※ まずはシラカバの並木が出迎えてくれました。

   

   ※ 周辺地域住民による花壇整備(?)

 また、鉄道の高架化によって生じた高架下は格好の屋根付き(?)駐車場として活用されている。

   

   ※ 高架下有効活用の好事例です。屋根付き駐車場(?)

 緑道は途中に何度か横切る道路に寸断されるが、一番大きな道路が国道230号線(通称:石山通)である。ここだけは歩行者信号に従って横断する必要がある。その他は小さな道路のためか、人の横断が優先される道路である。

   

   ※ 片道2車線の広い国道230号線は歩行者信号で渡ります。

 国道230号線を渡ると緑道は様相を変え、鬱蒼とした緑の中に誘い込まれる。そこを少し進むと札幌駅に向かって右手に大きなお地蔵さんが見えてくる。「桑園延命地蔵尊」である。明治13年に開通した小樽・手宮~札幌の鉄道は北海道開拓に大いに寄与したが、当時は踏切での横断事故が多発したそうである。そこで大正15年に線路傍に死者の慰霊と魔除けのために地蔵尊が建立されたと歴史は伝えている。

   

   ※ 国道230号線を渡って直ぐ、ビルの谷間に立つ「桑園延命地蔵尊」です。

  鬱蒼とした緑は本日のような好天の時には絶好の日陰となり、道行く人たちは心地良い 散歩(ウォーキング)を楽しむことができる。

 

   ※ 緑濃い「札幌桑園停車場緑道」の様子です。

   

   

   

   

 一方、高架下は駐車場から公園に様変わりする。「エルムの里公園」と命名された高架下は、ちょうど屋内競技場のような様相を呈していて若者たちがスポーツに興じる施設となっている。

   

   ※ 「エルムの里公園」です。青い部分は走路でしょうか?

 およそ1キロくらい続くだろうか、緑道はやがて札幌駅に近づいてくる。そして緑道そのものは西7丁目で終わり、6丁目、5丁目の札幌駅近くはもう緑道とはいえない人工物で埋まっている。

   

   ※ 自転車の駐輪が目立ちます。この先は駐輪が禁止されているためここにおいて用件を済ませるようです。(西7丁目)   

   

   ※ 西7丁目角から6丁目、7丁目を写しました。前方にはJRタワーが見えます。

 我が家からは往復でおよそ7キロ。以前だったらどうってことのない距離だが、リハビリ中の身体にはけっこう堪えた7キロだった。早く元に戻さなきゃ…。


小樽市ウォーキング 盛衰ニシン漁ロード

2021-04-30 16:00:29 | 札幌ウォーク & Other Walk

 かつて栄えたニシン漁の基地、小樽市・高島地区、祝津地区を歩いた。往時の栄華を伝える鰊御殿を訪ねるとともに、名残は残りつつもどこか寂しさが残る両地区には再び群来(くき)がやってくることを夢見ているのだろうか?

 昨日の小樽市の「自然観察会」は午前中で終了した。せっかくの機会なので午後は小樽市のどこかを訪ねたいと思った。手持ちのガイドブック「北のウォーキング おすすめ45コース」の中に、かつてのニシン漁の浜を訪ねる「盛衰ニシン漁ロード」というコースを見つけ、そこを歩いてみようと思い立った。コースは、「高島」⇒「豊井浜」⇒「旧青山別邸」⇒「祝津」⇒「鰊御殿」という順に訪ねるコースだった。

 車で小樽市郊外の高島地区まで移動し、高島漁港に駐車した後早速ウォーキングを開始した。かつてはニシン漁に沸いた高島漁港なのだろうが、現在はホッケ、スケソウダラ、カレイ、イカなどが主に水揚げされているという。

   

   ※ 高島漁港です。漁閑期のためか港はひっそりとしていました。

 ガイドブックのお勧めどおり、まずは高島地区を一望できる高台にある高島稲荷神社に登った。

   

   ※ 高島稲荷神社にいたる参道です。

   

   ※ 高島稲荷神社の境内から望んだ高島地区の様子です。

 その後、先へと進むのだが、連続して三つのトンネルが待ち受けていたのには閉口した。そのトンネルとは「新高島トンネル」、「豊井トンネル」、「新祝津トンネル」である。トンネル内は空気が悪いうえ、車の排気音が響き渡り、気分の良いはずがない。ウォーカーとしては、トンネルの外側の海岸沿いを歩きたいのだが、崖崩れなどがあって通行禁止となっているということで断念し、しかたなくトンネル内を歩いた。

   

   ※ 第一のトンネル「新高島トンネル」の入口です。

   

   ※ 第二の「豊井トンネル」の入口から、第三の「新祝津トンネル」の入口が望めます。

 三つのトンネルを通過すると、祝津地区になる。祝津にも祝津漁港がある。祝津漁港は漁港であるとともに、ヨットの基地になっているようで、ヨットがたくさん係留してされていた。

   

   ※ 祝津漁港です。こちらもひっそりとしていました。

   

   ※ 祝津漁港から目ざす「鰊御殿」、「日和山灯台」が指呼の距離に見えます。港にはたくさんのヨットのマストが乱立しています。

 祝津地区には道路から少し離れた小高いところに「旧青山別邸」がある。「旧青山別邸」とは、ニシン漁で栄華を極めた網元・青山家の豪邸で、1923(大正12)年にできた北海道では珍しい銅板瓦屋根の木造建築である。贅の限りを尽くしたニシン漁の網元の栄華が伝わってくるようだった。ただ入場料が1,100円というのはやや高いのではと思われる。民間が運営しているということで仕方のないところもあるのだが…。

   

   ※ 「旧青山別邸」には道路から左折して向かいます。

   

   ※ 見えた建物が「旧青山別邸」です。

   

   ※ 入口です。正面に見える建物は別邸とは違う建物のようです。別邸は右側です。

   

   ※ 別邸内は写真撮影はNGでした。唯一エントランスの天井は写させてもらいました。

     天井には見事な絵が描かれていました。

   

   ※ 本宅の正面に設えられた枯山水り庭です。

   

   ※ 内庭に設えられた池です。

 別邸を後にして、最終目的地の「鰊御殿」を目ざすが、途中道路沿いに「群来陣」と称される建物もあったが、そこはパスして高島岬の丘に建つ「鰊御殿」を訪れた。こちらは入場料が300円と良心的(?)な額だった。こちらの建物はニシン漁が盛んな頃に建てられた網元の住居兼作業場である。資料によると、1897(明治30)年に積丹半島の泊村に建てられたものということだが、1958(昭和33)年にこの地に移築されたものだという。実際にニシン漁に従事したやん衆と網元が同居する建物であるが、内部ははっきりと分けられ、網元の住まいの豪華さが見て取れる建物だった。

   

   ※ 高島岬の突端に移築された「鰊御殿」です。

   

   ※ ニシン漁に使用された漁具の数々が展示されていました。

   

   ※ やん衆たちの居室跡です。物置状態になっていましたが、狭い居住区です。

   

   ※ 太い梁が印象的な建物です。

 「鰊御殿」のすぐ裏には映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった「日和山灯台」が聳えていたが、内部が見られないということで遠くから眺めて帰路についた。

   

   ※ 鰊御殿の全景と、その後に建つ日和山灯台です。    

   

   ※ 鰊御殿の丘から祝津漁港を望んだところです。

 帰路もウォーキングでと考えたが、三つのトンネルを再び通ること考えると尻込みしてしまい結局バスで高島地区まで帰って来た。

 したがって、歩いた距離はそれほどでもない。昨日、「自然観察会」と合わせた距離、歩数は次の通りである。

◇この日歩いた距離(総計)10.7km    ◇歩数 14,625歩  ◇上がった階段 


ロングウォーク to 札幌のサクラ

2021-04-24 18:55:50 | 札幌ウォーク & Other Walk

 札幌のサクラの開花状況は、種類や場所により開花状況はマチマチだったが、いよいよ札幌も花の時期を迎えることができたという喜びを感じながら歩いた。それより嬉しかったのはロングウォークで今季初の30キロ超えを達成したことだ。

 22日(木)に札幌のサクラの開花が宣言されたが、二日後とあってあるいは見頃かな?との思いから主だったところを巡って歩いた。しかし、ところによって状況はマチマチだった。やはりサクラの種類や、植わっている場所によって咲き方は左右されるらしい。巡って歩いた、見本木(札幌管区気象台)、北海道神宮、円山公園、大通公園、中島公園、白石サイクリングロードの本日の状況を写真の共にレポートします。

札幌管区気象台の見本木

 我が家のすぐ近くにある札幌管区気象台の見本木は、まだまだ満開とはいかず、三分咲きといった程度だった。

   

   

 

北海道神宮のサクラ

 北海道神宮の境内には、従前に見本木だったソメイヨシノが植わっているが、やはり開花したばかりといった状況だった。しかし、ヤマザクラの類は五分咲きといった感じのものもあった。それより見事だったのは梅園に植わっている梅の木だった。白い梅の花もあったが、紅色の鮮やかな色を呈している木が多かった。

   

   

   

   

   

   

 

円山公園のサクラ

 円山公園はサクラの時期に多くの市民がBBQを楽しむので有名だが、サクラの木はそれほど多いとは思えない。そのサクラたちはやはり五分咲き程度の状況だった。その円山公園に併設されている「坂下野球場」の傍のサクラが例年早く咲くので知られている。今年も行ってみると、見事に満開状態だった。

   

   

   

   

※ ここでカメラのバッテリーが無くなる直前だったことに気づき、家に戻り充電のために1時間半ほど時間をロスし、再びロングウォークに出かけた。

 

大通公園のサクラ

大通公園のサクラの木は意外に少ない。まとまって植わっているところは一か所くらいか?それらの咲き方はマチマチだったが、よく咲いているもので七分咲きといった程度だった。それより、大通公園に隣接している「札幌市教育文化会館」と「札幌市資料館」の庭のサクラは両者ともに満開に近い見事な状態だった。

   

   

   

   

  ※ 札幌市教育文化会館の庭のサクラ

   

   

   

 ※ 札幌市資料館の庭のサクラ

   

   

 

中島公園のサクラ

 中島公園には日本庭園の中に素晴らしい枝垂れザクラがあるのが有名である。しかし、その枝垂れザクラはまったく開花しておらず蕾のままだった。

   

 また、中島公園にはもう一つ、ソメイヨシノが歩道を包んで回廊のようにして咲くところがある。しかし、そこのソメイヨシノもまだ開花前だった。二つのサクラはぜひ見てみたい。数日後に再度訪れたいと思う。

   

   

 意外だったのは公園内にある日本庭園の中にカタクリとエゾエンゴサクが咲き競う庭があったことだ。こちらもまだ満開状態ではなかったが、カタクリとエゾエンゴサクの競演を見ることができたのは収穫だった

   

   

 

白石サイクリングロードのサクラ

 上記5ヵ所からは少し離れていたが札幌市のサクラの名所の一つ「白石サイクリングロード(愛称:白石こころーど)」を訪れた。ところが、こちらのサクラはほとんどが開花前の状態で、ほんの一部が開花しているのみだった。最盛期になると一部はサイクリングロードを多い、サクラのトンネル状態になるのだが…。サクラの種はヤマザクラの種だと思われるのだが、開花が遅いのは市街地に比べると気温が低いのだろうか?サクラはほとんど見られなかったものの、お約束通り(?)南郷通20丁目にある「丸亀製麺 南郷」まで足を伸ばしてうどんに舌鼓を打ち、帰路についた。 

   

   

   

   

   

   

   

 

今季初の30キロウォーク!

 今期に入って「ロングウォーク」と称して比較的長いウォーキングを試みているが、これまでで最長は「環状通」を歩いた28.1キロだった。なんとか一度30キロ超えを!と思っていたのだが、本日ギリギリで30キロを超えることができた。これまで30キロはおろか、40キロ超えも体験しているが、今期になって30キロ超えは初めてなので素直に嬉しい。「まだ30キロ歩くことができる体力があるんだ」と…。疲れたが充実感に浸っている。明日体調がどうなっているか??

 ◇本日歩いた距離(総計)30.2km    ◇歩数 42,496歩  ◇上がった階段 1階   

 

    


ロングウォーク アラウンド ザ・環状通

2021-04-10 19:41:49 | 札幌ウォーク & Other Walk

 札幌都心をぐるっと囲むようにして走っている「環状通」をいつか歩いてみたいと思っていたが、今日思い切って歩くことにした。総延長が22.65kmだという。実際にはもっと長い距離になったのだが、意外に気持ち良く歩き通すことができた。

 札幌では都心から3~4km付近を環状に道路を結ぶことによって、郊外から都心部に集中する交通を分散させる目的で「環状通」が造られている。そこを一度ぜひ歩いてみたいと思っていた。そこで今日は天気も良かったので、思い切って歩いてみることにした。

 Wikipediaによると、“環状” とはいっても完全な環状ではなく、起点と終点で若干ズレているのだ。つまり起点は北15条西4丁目なのだが、終点は北17条西1丁目となっている。そこで私は完璧を期すため、地下鉄で起点の近くまで行き、「北15条西4丁目」の北海道大学病院の前からスタートして、ぐるっと回って終点の「北17条西1丁目」にゴールした。

 さて、そこで今回はいつものように歩いた順にレポするのではなく、歩きながら感じたこと、思ったことをトピックとして取り上げレポすることにしたい。

   

   ※ 「環状通」の起点となっている北15条西4丁目、北海道大学病院が建っています。

   

  ※ 「環状通」の終点、北17条西1丁目」です。横断歩道の先が国道5号線(創成川通)です。

   

   ※ その終点のところには右折すると「環状通」に繋がりますよという表示が。

主要道やJRと交差する環状通

 環状通を造成する目的が都心に集中する交通を分散する目的だから、主要道と交差するのは当たり前とも云える。まずは国道5号線(至小樽)、続いて 国道275号線(至江別)、 国道12号線(至旭川)、南郷通、国道36号線(至苫小牧)、国道230号線(至定山渓)等々、その他の主要道々、市道とも交差している。さらにはJR函館本線とも交差し、一度は跨線橋で、一度は高架の下を潜って交差していた。

 郊外から都心に集中する交通を分散するという目的を持つ環状通だから、道幅も広く取られほとんどが三車線になっていて、スムーズな交通が可能になっていることからも、造成した目的が果たされているのではないかと思える。

   

   ※ スタートして最初に交差する国道5号線。流れる川は創成川です。

   

   ※ 分離帯にマツを配した環状通です。

   

   ※ 「環状北大橋」から豊平川上流を写しました。

   

   ※ 「白石環状跨線橋」上からJR函館本線の線路を写しました。

   

   ※ 国道12号線と交差したところです。秀岳荘の本店が見えます。

   

   ※ 南郷通と交差したところです。白石区複合庁舎が写っています。

   

   ※ 札幌と北広島を繋ぐ専用サイクリングロードの橋です。

   

   

   ※ 国道36号線と交差したところです。 

   

   ※ 市電の線路とも2回交差しました。

   

   ※ 「環状通」と「環状線」の分岐点です。前方へ進むと「環状線」へ。右折すると「環状通」です。

   

   ※ 北1条宮の沢通(通称:表参道)我が家から環状通に最も近いところなのですが…。通過    

   

   ※ JR函館本線の高架を潜りました。

   

   ※ 「環状通エルムトンネル」です。北大の構内の下を潜ります。

   

   ※ エルムトンネルの上は、ご覧のような散策路などが散在しています。

    

   ※ もう一方のエルムトンネルの出入口です。 

色がない札幌の街?

 このことについては何度も言及していることだが、今日歩いてみて改めてこのことを感ぜずにはいられなかった。「色がない」とは、街に色彩がないということではない。特色が感じられないということなのだ。しかし、実際はどうなのだろうか?映画監督として誉れの高い故黒澤明監督などは「白痴」(1951年制作)を撮るとき、札幌の街がロシアの街の雰囲気に似ているとしてロケ地に選んだと聞いている。今、黒澤監督が札幌の街を見た時にどんな思いを抱くのだろうか?

 今日、私が歩いていて「色がない」のも無理ないかなぁ、と思われる理由の一つに流通界の寡占化があるのではと思う。今や全国どこへ行っても全国チェーンの同じような看板が街中に並んでいる傾向があるのではないだろうか?だからこのことは札幌だけの問題ではないのかもしれない。

 また、札幌は北国の街ということから、寒さ対策のために住宅の画一化が進んでいるということもその理由の一つなのかもしれない。

 札幌の街が「リトル東京」などと言われないような街になるのは今や難しいことなのだろうか?

 ※ ちょっと気になった光景を集めました。

   

   ※ 「夢を語れ」なんて何屋さんでしょう?道路向こうだったので分かりませんでしたが、帰宅して調べてみると、なぁ~んとラーメン屋さんでした。

    

   ※ 道端にケースに入れたプラモのように展示されていたオールドカーです。(フォード製でした)

   

   ※ 平岸地区へ行くと、分離帯にリンゴ並木が。しかし、ほとんどの木は更新時期だったのか小さな木が多いようでした。(この2本が目立ちました)

   

   ※ 「くじら保育園」とは、どのようなコンセプトで命名したのでしようか?市内には非常にたくさんの保育園、保育所があるので命名も大変なのかもしれません。  

   

   ※ この建物はマンションの駐車敷地に新しい建物を建てたようです。そしてマンションの2階と繋がっているようです。オーナーが新しい事業を始めた??

歩く人にやさしい街に

 今日、環状通を歩いていて、休むところがほとんどなかったことにはちょっとガッカリした。「環状通」そのものが札幌の主要道であるから難しいとは思うのだが…。まず、思ったのが沿線上に公園がまったく見られなかったことだ。唯一、後半のゴール近くになって「日新公園」という小さな公園があり、そこにはベンチも配され、一休みするには適した場所だった。それ以外で一か所だけ、住宅の倉庫のような建物の壁際にベンチが造られていたのが目に入った。それだけである。できれば適度な間隔で腰を下ろせるようなベンチがあれば、と思ったのだが無理だろうか?まあ、街中だからカフェやレストランなどで休んだら、ということだろうか? 

   

   ※ コース沿いで唯一見かけた「日進公園」です。

   

   ※ これも唯一、歩道沿いになんとベンチが!

昼食は?

 例によって昼食は「丸亀製麺」で摂った。環状通沿いに「丸亀製麺」は2店あった。一つは伏古の「札幌店」、そしてもう一つは「札幌伏見店」である。午前9時05分にスタートしたので「札幌店」の前を通過したのは10時ころで昼食時間には早かった。「札幌伏見店」に着いたのは12時45分とちょうど良い時間だった。ところが凄い行列ができていた。座席に座るまで15分を要した。今日は体力をかなり消耗したこともあり、いつもの「釜揚げ 並」に「親子丼 小」を注文し、美味しくいただいた。

   

   ※ 「丸亀製麺伏見店」店外にまで長い列が…。店内にも行列ができているんですよ。

   

   ※ 私が頼んだ「釜揚げ 並」と「親子丼 小」です。

「環状通」と「環状線」

 ところで札幌には「環状通」と「環状線」と似たような名前を持った道路があるのをご存じだろうか?私も今回初めて知った。

 「環状通」と「環状線」は重複している道路も多いのだが、起点と終点が違っている。

 「環状通」は先述したように起点が「北15条西4丁目」で、終点が「北17条西1丁目」と位置がズレでいる。一方「環状線」は起点と終点が共に「二十四軒3条7丁目」となっている点が違っている。つまり、二つは市の東側で道路が重複しているが、西側では「環状通」のさらに外側(西側)を通っているのだ。しがって、総距離も約26.1kmとやや長くなっている。なぜ似たようなものが二つ存在すのかは、歴史的な経緯があるようで私にはややこしくて解明することを諦めた。

◇本日歩いた距離(総計) 28.1km    ◇歩数 39,052歩  ◇上がった階段