田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

石狩川河岸遡行を断念!

2016-02-29 16:08:47 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 いくらなんでも暴風雪警報が発令されている中を突っ込んでいくことはできなかった…。今日、明日と宿泊をしながら「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトを敢行予定だったが、自然の猛威には逆らえない、潔く(?)断念を決めた。 

            

 私のスケジュール、時期的な雪の状況などから、今日(29日)と明日(3月1日)の二日間、石狩川の河岸をスノーシューで遡る予定を立て、宿泊するところも予約していた。
 天気予報は良くはなかったが、なんとかなるのでは、という安易な考えから前夜には中止は考えていなかった。

 今朝、4時半に 目覚ましの音で起床し、窓の外を見たところ、雪が横殴りに降っていた。その時点で弱気になっていたのだが、5時のNHK・TVの天気予報を見ると、最悪の予報となっていた。本日予定している浦臼町には暴風雪警報が発令されているではないか!
 これですっかり観念した。
 宿泊を予約していた「浦臼町休養村センター」に朝早くから電話を入れ、キャンセルを申し入れ、私は再びベッドに急行したのだった。

            

 さあ、これで私のスケジュールで次に空いているのは3月6日以降である。しかし、春がかなり速い速度で迫ってきている。
 今年の到達目標をシーズン前に「せめて滝川までは」と考えていたが、そのためにはこれから3日間は必要になる。天気予報を睨みながら、さらにはスケジュールを調整しながら、なんとか目標達成を目ざしたいと思っている。

            

 ここで本日のブログを終わりとすれば、私の好感度(そのようなものは、元々ないのだが…)も落ちずに済むのに、きわめて露悪趣味のある私は、ここで私が先日投函した手紙を披露したいと思う。
 それは、私が今回のスノーシュートレッキングに取り組む中で、触れ合った浦臼町役場職員の親切な対応に感激したことをどうしても上司である浦臼町長さんに伝えたいとの思いを抑えきれずに出した手紙である。
 私の行為が浦臼町のために少しはお役立てできるのではないか、との思いから投函したのだが、はたして私の思いはその通り受け止めてもらえるだろうか?
 以下、原文の写しである。私の露悪趣味を笑ってやってください。


拝啓

 春の陽射しも感じられるようになってまいりましたが、町長様におかれましては多忙な日々を送られているものと推察いたします。
 さて、私は札幌市に住む退職後、間もなく10年を迎えようとしている高齢者です。
 本日は、私が浦臼町役場の若い職員の方々から受けた親切な対応について、ぜひ町長様のお耳に入れたいと思い、パソコンに向かっております。

 私は高齢になりましたが、まだまだ老いたくないとの思いから積極的に体を動かすことを趣味としております。その一環として、冬はスノーシューを駆って山野を歩くようにしています。
 実は3年前から、石狩川の河岸を上流に向かって遡るという、他人が聞いたら「なんとバカげたことを!」と言われそうなことに取り組んでおります。
 3年目の今年は現在、月形町から浦臼町の付近に差しかかっております。
 その中で浦臼町役場職員と触れ合うことが何度かあり、感激したことについてお伝えいたします。

 一つは、浦臼町を通過するに際して、泊を伴って歩くことを計画しました。その際、浦臼役場の観光係に電話をさせていただき、浦臼町の宿泊事情をお伺いしました。すると、若い担当者は「浦臼町自然休養村センター」を紹介してくれました。その宿泊にあたって、私の方の事情がありましたので、その旨を相談させていただいたところ、担当者は一度電話を切って、休養村センターと連絡を取ってくれて、私の問題点の解決に協力してくれました。担当者(若い声でした)の親切な対応に感激しました。

 二つ目です。私は2月20日の日に晩生内の〔美浦大橋〕から〔奈井江大橋〕まで歩き、浦臼の街に戻ってきて、浦臼駅からJRで帰ろうとしていました。列車の発車まで時間があり、空腹を覚えていたので駅近くを歩いていた若い人に「近くに食事処はありませんか?」と問いました。すると、その若い方は役場職員ということでした。その方はただ食事処の場所を教えてくれるだけではなく、役場を通過して食事処を私が目視できるところまで案内してくれました。この親切な行為にも私は感激しました。

 三つ目です。その食事処で食事をした後、札幌へ帰宅したのですが、帰宅途中に携帯電話(スマホ)を紛失してしまったことに気付きました。帰宅後に、食事をしたところはもちろん、警察などあらゆるところに問い合わせをしましたが見つかりませんでした。
 翌朝、浦臼駅の可能性も捨てきれないのでJRに問い合わせると、駅舎は浦臼町役場の管轄だと突き放されました。そこで役場は休日でしたが問い合わせをさせてもらいました。すると、若い当直の職員の方が対応してくれました。(後ほど判明したのですが、彼は本来の当直の方が見回りをする間を担当した方だったようです)すると、「少し時間をください。調べてみます。」と一度電話を切りました。そして10数分後、彼から電話がかかってきました。「駅舎まで行って、あちこち調べたが、携帯電話は見当たりませんでした」という回答でした。私は、きっと駅舎を管理されている方に問い合わせてくれるものと、思っていたのですが、自らが駅舎に赴いて調べてくれたということに、またまた感激しました。
(結局、スマホは食事をしたところから発見され、事なきを得ました)

 以上のように、わずかな時間の間に浦臼町の役場職員の方にすっかりお世話になってしまいました。しかも、どの方もとても親切な対応をしてくださり、お手紙を書かずにはいられないほど感激してしまいました。
 私のこの体験から、おそらく浦臼町役場では日常からそうした対応を心がけようとする職場風土ができているのだろうな、と想像した次第です。このことは上司である町長様をはじめ、諸先輩のご指導がゆきとどいていることでもあると推察するところです。
 私はウォーキングも趣味で、2年前の9月に浦臼町が設定したフットパスコースを歩いた経験もあります。豊かな田園地帯が広がる町内をぐるっとおよそ9キロを一周させていただきました。

 私のスノーシューの次回は〔奈井江大橋〕から新十津川方面に向かって進むことになり、その際に休養村センターに1泊させていただく予定にしています。
 素晴らしい職員の方々がマチづくりをリードする浦臼町が今後ますますご発展されることを祈念し、お礼のお手紙といたします。
 町長様、そして職員の皆さま、ありがとうございました!

                                                敬具


奇跡の山? アポイ岳フォーラム

2016-02-28 20:25:08 | 講演・講義・フォーラム等
 様似町にあるアポイ岳は地殻の下にあるマントルが地表に飛び出して冷えたかんらん岩からなるという特別な山だそうだ。その特殊な自然を保全するため昨年9月、日本で8番目の世界ジオパークに認定されたという。その保全と再生の道は? 

                 

 2月27日(土)午後、様似町や道新が主催する「アポイ岳フォーラム」が道新センターで開催され参加した。
 アポイ岳が低山(810.5m)ながら貴重な高山植物の宝庫だということは微かな知識としては以前からもっていた。それで、いずれ登ることができたら、といった動機からフォーラムに参加してみた。

 フォーラムは、基調講演とセッションミーティングの二部構成になっていた。 
 基調講演は、植物写真家のいがりまさし氏が「超塩基性岩のスミレと野菊」と題するものだった。
 セッションフォーラムは、「アポイ岳の保全再生の可能性を探る」と題して、そのことに関わる専門家や実践家が5名登壇して意見を交換するというものだった。
 ところが私はフォーラム自体が2時間程度で終わるのだろうと勝手に判断して、その後にスケジュールを組んでいたため、肝心のセッションフォーラムを聞けずじまいになってしまったことが残念だった。しかし、いがり氏の講演からもアポイ岳がいかに貴重な自然かということを伺い、それなりの理解を得ることはできたと思っている。
 いがり氏の講演の要旨をレポしてみる。

            

 いがり氏は専門家でないこともあり、かんらん岩が水と作用して蛇紋岩になることも含めて、全てを超塩基性岩と総称して、その性質を語った。
 その超塩基性岩の特質は、金属イオンなどを多く含み普通の植物は育ちにくい土質だということ。さらには、風化して崩れやすい性質をもっているとのことだ。
 そのため、高木の森林は発達できず、特殊な植物しか生き残ることのできない土質の山がアポイ岳だそうだ。
 その特殊な植物とは、他では絶滅してしまったヒダカソウとか、超塩基性岩に適応するために変質してしまったオオバキスミレなどがアポイ岳では見られるそうだ。

 そして、いがり氏は自らが追いかけているオオバキスミレの亜種を次々とスライドで見せてくれたが、素人の私にはそれらの違いを明確に見分けることはできなかった。

            

 さらにいがり氏は、専門家でない気楽さからか、大胆な推論を提示した。それは、超塩基性岩地に生える植物は、水分摂取の特別なシステムを備えているのではないか、という推論である。というのも、本州のある地方に「蛇紋岩米」という銘柄の米があり、これがけっこうな味だということから、そうした推論を立ててみたということだ。「蛇紋岩米」を産する地方は、マグネシウム成分が多すぎて稲以外の生育に適さない地であることから、様似も稲作を指向しては?という提案であった。

 いがり氏のお話から、様似町のアポイ岳が国内的に見てもかなり特異な山であることを理解することができた。
ただ、ここからは後半のセッションミーティングに関わってくることなのだが、その特異な山に自生する特異な高山植物類が危機に瀕しているということだ。
 私は登壇者の中で、アポイ岳のシンボルともいえる「ヒダカソウ」の生育状況を長年調査している北海道立総合研究機構の西川氏の話を聞くことができたのだが、ヒダカソウは大量盗掘や気候変動によって現在危機的状況に瀕しているらしい。

            

 ここまで聞いて、私は会場を後にしたのだが、おそらくそれからアポイ岳の植物を含めて生物や環境の保全、そして再生について語られたものと推測される。
 以前から興味を抱いていたアポイ岳であるが、ますます興味を抱いた。
 様似には様似山道という古道もあると聞いている。できれば、アポイ岳登山と様似山道トレッキングを抱き合わせた形で行ってみたくなってフォーラムだった…。

スモゥルフイッシュ ミニリサイタル

2016-02-27 23:45:57 | ステージ & エンターテイメント
 カバー曲を歌うということは、歌い手の実力が如実に表れるのではないだろうか?特に誰もが知っている曲をカバーすることは歌い手にとって厳しい試練である。 

 帝国書院が「歌でつむぐ日本の地図」という変化球的な地図を制作・販売するのを記念して、販売促進イベントとしてミニリサイタルを開催した。
 今日(27日)午後、パセオセンター地下1階のテルミヌス広場で行われ、歌い手として「スモゥルフイッシュ」というグループが依頼されてということのようだ。スモゥルフイッシュは札幌で活動するボーカル、リードギター、ベースギター、ドラムスの男性4人組のグループだが、今日は女性のキーボードが加わっていた。
 ステージにはさらに彼らと時にはユニットを組んで活動しているという士別市出身の小松和子という女性歌手も加わっていた。

           

 そこで披露された曲は、1曲を除いて全て私たちに耳慣れた曲だった。
 耳慣れない(?)1曲とは、小松とスモゥルフイッシュが士別市の依頼で制作した「晴れ時々羊雲」という士別市の主産業である羊をPRするテーマソングだった。皮肉(?)にも私には、アップテンポのこの曲が最も心地良く聞こえてきた。

 その他に歌われた曲は、いずれも北海道にちなんだ曲だった。歌われた順に記すと、
 1)時計台の鐘
 2)晴れ時々羊雲(小松和子)
 3)虹と雪のバラード(小松和子)
 4)時代(小松和子)
 5)大空の大地の中で

                  

 特に残念に思ったのが、小松和子がカバーした2曲だった。声の質としては、悪くないと思われるのだが、曲が醸し出す雰囲気をまったく感じさせてくれないのだ。「虹と雪のバラード」も、「時代」も私にとっては思い入れの深い曲である。
 しかし、小松の歌はなんとなくなぞっているとしか私には聞こえてこないのだ。もっとも彼女にとっては曲が発表されたころは、まだ生まれていないか、生まれていても幼少の頃だと思われる。CDで聴くか、楽譜から知った曲ということでは、彼女にとっては気の毒な要求とも云えるかもしれない。

            

 一方、スモゥルフィッシュのボーカル磯部和宏はその他の2曲を歌った。原曲との違いを出し、自分らしさを歌に込めようとする意志のようなものを感ずることができた。しかし、私には原曲の素晴らしさが耳に残っているだけに、その自分らしさをだそうとすることさえも違和感として耳に入ってきてしまった。
 一生懸命に演奏してくれた彼らにからい点数をつけてしまったことは申し訳ないが、率直な感想を綴らせてもらった。

 というように、カバー曲を歌うということは歌い手にとっては難しく、厳しいものだなぁ、と改めて感じたミニリサイタルだった。

民族衣装を着なかったアイヌ

2016-02-26 20:08:16 | 大学公開講座
 講師の瀧口夕美氏は、アイヌであることにずっとコンプレックスを抱きながら生きてきたという。訥々と語る彼女のこと、そして彼女が語ったことを、私は未だに消化しきれずにいる。彼女の思いに迫ってみたいと思うのだが…。 

                  

 2月23日(火)夜、北大アイヌ・先住民研究センターが主催する「民族衣装を着なかったアイヌ-先住民にとっての伝統と現代」の著者・瀧口夕美氏の講演会があった。
 瀧口氏はアイヌである母親と和人である父親の間に生まれた人である。彼女は幼少から思春期を阿寒湖畔で過ごし、現在は編集グループSUREに属して東京で編集者として暮らしているという。
 
 彼女は阿寒湖畔で土産物屋を営む両親のもとで、アイヌの子として成長した。そこでの日常の生活は他の日本人とまったく変わらないのに、観光地であるということからディフォルメされた形でアイヌが語られることが多く、違和感を持ちながら成長したようだ。

            

 彼女の語ったことを断片的にメモしたものが私の手元に残った。
 それによると、彼女の祖父母や父母のアイヌの人たちは激烈な〈差別〉を受けたがために、そのことを逆に〈誇り〉として生きてきた方たちが多いようだ。対して、彼女たちの世代(彼女は40代?)はそれほどの差別を受けたわけではないので、誇りも育っていない。そのような世代にとって、アイヌの存在って何?と彼女は疑問府を打つ。
 また、母語としてのアイヌ語や、アイヌ文化から離れた人の中に、どうやってアイヌらしさがあるのか、と疑問を呈する。

 そして彼女は「アイヌ」ということで、ステレオタイプに見られることに抵抗感があるともいう。
 また彼女は次のようにも言った。「アイヌは同化されたのではなく、アイヌの側からいかに和人の文化を取り入れていったか」というアイヌの主体性があったのではないか、と…。

 ここまで聞いてくると、瀧口氏は自らがアイヌであることを消し去り、普通の日本人として生きることを望んでいるのではないか、と思えてしまう。
 しかし、コトはそれほど単純でもなさそうだ。
 瀧口氏の著書を読んでいないので何とも言えないが、彼女は著書を著すに際し、親戚をはじめとするアイヌの人々、樺太の少数民族ウイルタの老女など、さまざまな人から話を聞いている。
 そこで語られたアイヌへの差別の実態、そしてそれをばねとして自分たちの誇りを語る先輩たちの話を聞くことで、彼女の意識に変化が出てきたようだ。

              

 そこから先の彼女の話に私は付いていくことができなかった。というのも、関係するさまざまな外国の文献を紹介するのだが、その文献の中で語られていることが彼女にどう影響したのか、について明確に語られたとは思えなかったからだ。

 ウェブ上で彼女の著著「民族衣装を着なかったアイヌ-先住民にとっての伝統と現代」は、評価が高いようだ。しかし、少なくとも今回の講演において、私は彼女を思いを消化できずに終わってしまった感がある。
 そこで早速、図書館に彼女の図書を予約した。彼女の思いをもう少し汲み取ってみたいと思う。

映画 155 MAZE マゼ~ 南風~

2016-02-25 16:33:45 | 映画観賞・感想

 高知県の漁村を舞台にして、無骨だが温かい人情や家族の絆と和解、少年のトラウマの克服と成長などを描いた映画であるが、ベテラン俳優蟹江敬三の確かな演技も加わって見応えのある佳作に仕上がった映画である。 

                  

 何か月かぶりに「ちえりあ映画会」に顔を出してみた。
 「ちえりあ映画会」は、札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)が平日の午前に無料で映画上映をするという、シニア対象の事業である。
 その「ちえりあ映画会」が2月23日(火)午前、ちえりあホールを会場に行われた。
 そこで取り上げられた映画が「MAZE マゼ~南風~」であった。

 「MAZE マゼ~南風~」について、ネットで検索してみると、ちえりあ映画会にしては珍しく(?)ストリー性のある、楽しめる映画かな、と思われたので参加を決めた。
 会場に着いてみると、私と同じようなシニアがわんさかと詰めかけていた。

            
            ※ 港の場面のメイキング画像では?と思われる一枚です。

 映画を観終わった後、率直に「いい映画を観たなぁ」という思いが私の中に残った。
 それは、近年の日本では親子の絆を断絶するような事例が日常的にニュースとして流れ、まるで親子や人間の愛、友情といった大切なものが失われていったのだろうか、と疑いたくなる世相である。そんな中、本作では無骨な漁師である祖父とやむを得ず暮らすことなった少年との日々や少年が転入した学校での級友との触れ合いを描きながら、人間愛や友情という、私たちにとって大切なものを思い起こさせてくれたからである。

 今は亡き主演の蟹江敬三が何と云ってもいい味を出していた!まさに無骨な漁師・弦次郎を地でいっている感がある。彼の表情、仕草、セリフ、全てが無骨な漁師・弦次郎そのものであった。勘当した娘のことを、実は心配していたり、その娘の忘れ形見の孫につらく当たりながらも心の底では可愛がっていたり…。そんな弦次郎を違和感なく演じていた。

 一方、少年役の大沼健太郎君は見方が分かれるだろう。私は辛い見方かもしれないが、子どもの演技から抜け切れていないとみた。最近のテレビなどでの子役たちの芸達者と比べると、残念ながら一つ一つの演技に幼さが残っているように思えた。
 監督(岡田圭)の映画全体の演出には、観客を感動させる腕があると見たが、子役の演技指導はイマイチと云えるのではないか。

 映画はそのほとんどを高知県香味郡夜須町手結港を中心に、高知県下でロケして、2005年に制作されたそうだ。今見てもまったく古さを感じさせない。現代の殺伐とした世相の中で、このような映画にもっと光があたっていいのでは、と思えた映画だった。

            
            ※ ロケの中心となった高知県香味郡夜須町手結港の様子です。

 マゼ(MAZE)とは、諸説あるようだが、高知地方の漁師が南から吹く風のことを云い、この風が吹くと気象が変わるということのようだ、実際に映画の中でも「マゼが吹いたから漁を止めて帰港しよう」という場面で使われていた。


世界遺産 古都京都の文化財

2016-02-24 16:15:24 | 「めだかの学校」関連

 古都京都は神社仏閣が集中している宗教都市としてあまりにも有名である。しかし、私にとっては修学旅行で訪れたくらいで、縁遠い都市ということもあり、京都の文化財について疎いところがあった。今回の学習で少しは整理できた思いである? 

            
            ※ 龍安寺の石庭です。

 私が学ぶ「めだかの学校」で久しぶりに「日本の世界遺産」を取り上げた。
 2月22日(月)の「めだかの学校」は「日本の世界遺産 古都京都の文化財」というDVDを2本視聴した。

           
           ※ 金閣寺とは対照的に落ち着いた佇まいが印象的な銀閣寺です。

 京都市が世界文化遺産に登録されたのは1994年のことで、日本では5件目の登録と云うことだ。その際登録されたのは、京都市をはじめ、宇治市、滋賀県大津市に存在する17の神社仏閣等を「古都京都の文化財」として登録されたということである。

 その17件とは、
 (1)上賀茂神社 (賀茂別雷神社)
 (2)下鴨神社 (賀茂御祖神社)
 (3)東寺 (教王護国寺)
 (4)清水寺
 (5)延暦寺 (比叡山境内全てを含む)
 (6)醍醐寺 (院家寺院の三宝院を含む)
 (7)仁和寺 (別称:御室御所)
 (8)平等院 (宇治市在)
 (9)宇治上神社 (宇治市在)
 (10)高山寺
 (11)西芳寺 (別称:苔寺)
 (12)天龍寺
 (13)金閣寺 (別称:鹿苑寺)
 (14)銀閣寺 (別称:慈照寺)
 (15)龍安寺 (石庭が世界的に有名)
 (16)西本願寺
 (17)二条城
という17件であるが、私は恥ずかしながら名前さえ認識していなかったものがたくさんあった。

 今回の講座では、2本のDVDを視聴したが、17件の中から「日本の世界遺産 古都京都の文化財 1」で天龍寺、龍安寺、銀閣寺、金閣寺、二条城、仁和寺の6件を、「日本の世界遺産 古都京都の文化財 2」で上賀茂神社、下鴨神社、宇治上神社、東寺、清水寺、西本願寺、延暦寺の8件が取り上げられた。

            
            ※ 苔寺として有名な西芳寺の庭園です。

 その中で、私の印象に残ったのは龍安寺の石庭と、銀閣寺の落ち着いた佇まいであった。
 両者は共に、日本独特の侘び寂びの世界を表現していて、日本の伝統文化の良さを体現していると思った。私も枯れてきた証拠か?
 
 私の印象の中に「日本の世界遺産 古都京都の文化財 2」が入っていないのは、不覚にもちょっと舟を漕いでしまったためである。
 というのも、DVDのナレーションが窪田等さんだったことが大きい。彼のナレーションはTBS系列の「情熱大陸」が有名である。彼の柔らかく、包み込むように声質に私はぞっこんなのである。「情熱大陸」をこよなく愛する理由の半分は彼のナレーションを聴くためだといって良いほどである。そんな彼のナレーションを暗くなった空間で聴いたとき、思わず夢の世界に惹き込まれてしまった私だった…。不覚である。


未来は自分で変えられる?

2016-02-23 15:45:23 | 講演・講義・フォーラム等
 タイトルの最後に?マークを印したのは私である。世界は?社会は?エネルギー問題にどう対処していくのか、は私たちに突きつけられた大きなテーマである。さまざまな主張、実践があるが、その一つに参加してみた。 

 2月21日(日)午後、北大のCoSTEPが主催する「サイエンス・カフェ札幌」が紀伊國屋書店インナーガーデンで開催され参加した。
 CoSTEPとは、Communication in Science & Technology Education & Research Programの頭文字から表したもので、科学技術の専門家と一般市民との間で、科学技術をめぐる社会的諸課題について双方向的なコミュニケーションを確立するための科学技術コミニュケーターを養成する機関だそうだ。

            
            ※ 会場の紀伊国屋は戸外から光が入るため写真はいつもイマイチです。
             写真はナビゲーターを務めたCoSTEPの葛西奈津子准教授です。

 その第87回のサイエンス・カフェのテーマが「未来は自分で変えられる ~ドイツのエネルギー自立に学ぶニセコの挑戦~」というものだった。
 カフェはまず、ニセコ町役場で環境の専門職として勤める大野百恵さんから「ニセコの挑戦」と題する現況報告があった。
 その中で大野さんは、ニセコ町の特色は何といっても豊かな自然環境であり、それを基盤として農業、観光業という主要産業が成り立っているとした。したがって、現在の自然環境を維持することがニセコ町にとっての命題であるという。
 そのため具体的に取り組んでいる例として、ニセコ高校のエアハウスにおける野菜栽培、ニセコ町民センターの先進的な建設事例、王子水力発電所の活用、の三つの事例を紹介してくれた。
 一つ一つの事例についての細かな説明は省略するが、ニセコ町が町として高い志をもって環境保全に努めようとしていることが伝わってきた。

            
            ※ スピーカーを務めたニセコ町の上野さん(右側)と酒井准教授(左側)のお二人です。

 続いて、北大の酒井恭輔准教授(物理学)がドイツのエネルギー事情を視察した結果についての報告があった。
 ドイツが近い将来原発を廃止し、国を挙げて再生可能エネルギーへの転換に注力していることは良く知られているところである。私も過去に何度か、ドイツのエネルギー事情についてお話を聞いたことがある。
 酒井氏の話は私に新しい知見を与えるものではなかった。氏の話は、ドイツの再生可能エネルギーへの転換がいかに上手く進み、地域を潤しているか、というドイツ礼賛に終始していた点が少し気になった。
 私は基本的には再生可能エネルギーで必要電力を賄えるような状況になることが最善だと考えている。
 しかし、そのことを実現するには、さまざまなハードルが立ちはだかっている、と理解している。したがって、再生可能エネルギーへの取り組み先進国であるドイツの事情について、礼賛だけではなく、そこにある問題点についても示してほしかったと思うのだ。

 そのことについて、私は質問用紙に記して提出したのだが、残念ながら取り上げてもらえなかった。
 時間が限られていたせいかもしれなかった。ドイツのエネルギー事情を視察された酒井准教授の話を、もう少し詳しく伺ってみたかった。

           
           ※ 会場ではエマージェンシーシートの体験も同時に行われていた。私もためたが、確かに効果を感じた。

 タイトルの「未来は自分で変えられる」については、ニセコの実践、ドイツの取組に見られるように、私たちの生活を見直すことによって、国のエネルギー事情にも変化を起こすことができる、という主催者(CoSTEP)の思いが込められたネーミングだと理解した。

健康でアクティブな生活とは

2016-02-22 21:14:03 | 講演・講義・フォーラム等
 タイトルのようなテーマを今回の集まりの課題とする講座において、パネルディスカッションのパネラーの一人を務めた。私自身は自らの思いや実践をそれなりに述べることができたと振り返るのだが…。

             

 2月18日(木)午後、(公財)北海道生涯学習協会が主催する「平成27年度 学習成果実践講座 in 札幌」がかでる2・7で開催された。
 講座は、基調講演とパネルディスカッションの2部構成だった。
 
 講座自体、今回は私が参加する「めだかの学校」が全面協力という形で参加していたこともあり、私は4名のパネラーの一人に選出され、「健康でアクティブな生活と生涯学習」というテーマのもとに、短い時間のスピーカーを務めることを依頼された。

 基調講演は、北海道医療大の長谷川聡准教授が「健康でアクティブな生活を送るために~学びを自分と地域のために活かすコツ~」と題されての講演だった。
 講演の要旨は、冒頭こそ、私たちが生涯学習を志すのは単に「自分のため」だけではなく、学習の成果を「誰かのため」に活かすことである、といった趣旨であり納得できたのだが…。
 その「誰かのため」が長谷川氏の場合は、氏が実践している町内会活動のことに向いて行ったあたりから、話は町内会活動の運営の仕方、あるいは新しい視点での町内会活動の在り方にシフトしてしまった感があった。
 町内会活動の在り方については、受講者の皆さんも関心のある話題であり、私も氏の話から得るものがそれなりにあった。しかしそれ以上に、氏の話が今回の集いのテーマとの間のズレが気になりながら話を聴いた。

             

 続いて、私たち4人(+長谷川准教授)によるパネルディスカッションが行われた。
 それぞれが自ら実践している生涯学習、あるいは自らの健康について語った。私たち4人は、ふだんの「めだかの学校」での付き合いで、それなりにお話していたが、それぞれが地域においては別な顔で、また違う実践をされていることを窺い知ることができた。
 私の発表は、日々のブログそのままである。限られた時間の中で、私が実践していることをいかに伝えることができるか、そのことに腐心しながら自分の務めを終えることができたと振り返っている。

 私が残念に思ったのは、その後のディスカッションである。すっかり主役となった感のある長谷川氏はそこでもリード役になってしまい、私たちパネラーに自らが実践し関心のある家庭生活(男の家事参加)について問うてきた。議論はあらぬ方向に進んでしまった。
 結局、私たちパネラーの提言はほとんど顧みられぬこともなく、話しっぱなしに終わってしまったという感じだった。

 このように私にとっては、若干消化不良のような感じに終わってしまった実践講座だった。
 う~ん。ちょっと残念…。

冬の石狩川河岸を遡る 10 後編

2016-02-21 18:36:44 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

美浦大橋 ⇒ 奈井江大橋  トレッキング月日 ’16/02/19
 
 この日のコースの中盤に入りライブレポ№3で「順調」と発信したのだが、この日は気温が上がり水分を含んだ湿雪が徐々に私の体力を奪っていった。そしてとうとう私の左大腿部の付け根が悲鳴を上げた…。 

            
     ※ 前回も石狩川の一部が氷結しているところがあったが、今回も川幅が広く浅くなったところに氷結しているところがあった。

 ライブレポ№3で「掘割が意外に少ない」と発信したが、その直後に掘割が現れた。幸い、そこは迂回することなく、そのままその掘割を渡ることができた。

            
            ※ 石狩川の一部には写真のように二手に分かれて流れているところもあった。

            
            ※ 湿気のある雪が創った雪の造形である。

 それから30分後、この日二つ目の石狩川に流入する「浦臼内川」が現れた。川幅、谷の深さから、とてもそこを渡ることは出来ない規模だった。持参した地形図で確認すると、橋が架かっている堤防まではおよそ1キロ近く迂回しなければならなかった。この間が辛かった。というのも、大腿部の付け根に痛みが走り出し、連続して歩くことができず、休み休みのトレッキングとなったからだ。

            
            ※ 浦臼内川は川面を見せていて、そこを渡るには危険が多すぎた。

 浦臼内川と遭遇してから約30分かかって浦臼内川に架かる浦臼内川橋の袂に着いた。
 時計を見ると11時55分、脚の痛みもあったので、昼食休憩をとることにした。
 立ったままでは脚を休ませることにならないので、適当なところに腰を下ろして、妻の手作りのサンドイッチをポタージュスープで流し込んだ。風は微風程度だったのだが、陽が射していないこともあり、雪の上での休憩は体が冷えてしまった。冬季のトレッキングでの昼食は試行錯誤がこれからも続きそうだ。

            
            ※ ぐるっと迂回して辿り着いた浦臼内川に架かる浦臼内川橋です。

            
            ※ トレッキング中に冷たくなるおにぎりは不適のため、サンドイッチを作ってもらいました。

 20分の休憩で、再スタートを切った。浦臼内川橋を渡り、直ぐ近くに黄臼内川に架かる黄臼内川橋も続いて渡ってから、再び1キロ近く戻って石狩川に近づいた。
 石狩川の対岸には〔奈井江火力発電所〕の大きな建物が見えた。もう〔奈井江大橋〕は近い。しかし、脚の痛みは治まらず、歩くスピードはガクンと落ちた。

            
            ※ 浦臼内川のすぐ近くを流れる黄臼内川架かる

            
            ※ 石狩川に近づくと、対岸に奈井江火力発電所の大きな建物が見えました。

 奈井江大橋が近づいたと思ったら、河岸が下がり低地となり、柳の木の大群落が広がった。そこはおそらく夏は湿地帯ではないかと思われた。柳の木はヤチヤナギという種ではないだろうか?
 細かく密生する柳の間を縫って歩くのは骨が折れた。
 そんな柳の群落の中に、一本の柳の木の皮が剥かれた状態のものが目に入った。冬季に食料が乏しくなると、エゾシカが木の皮を剥がして僅かな栄養分を取ることは知っていたが、エゾシカがいるとは思われない。他の何かがやはり飢えを凌いだのだものと思われる。
 また、他所では気の早い(?)柳が綿毛に包まれた木の芽を付けていたのも見ることができた。春はかなり近くまでやって来ている感じである。

            
            ※ 奈井江大橋に近づいたとき、河岸に大きな柳の木の大群落が目に飛び込んできました。

            
            ※ 傍に寄ると写真のように柳の木が密生してました。この木の間を縫うように進むのはけっこう大変です。

            
            ※ この木の皮を剥いでどれほどの栄養分が摂取できるのでしょう?

            
            ※ カメラのピントが奥の木の芽に合ったようですね。

 密生した柳の木の間を縫いながら歩いていると、いつの間にか石狩川河岸から離れてしまった。あわてて河岸に近づき、この日最後の石狩川の様子を写真に収めた。
 そしてこの日のゴール、奈井江大橋の袂に着いたのは13時40分だった。
 時間的にはもう少し前へ進めそうな時間帯だったが、脚の痛みが取れない。予定どおりこの日はここでスノーシューを脱いだ。

            
            ※ この日最後の石狩川の姿と奈井江大橋です。

            
            ※ 奈井江大橋の袂でスノーシューを脱ぎました。

 スノーシューを脱いでも、この日の行動はそれで終わりではない。浦臼駅までおよそ3キロを歩かねばならない。スノーシューを脱いで、道路を歩き始めると、先ほどまで痛んでいた脚に痛みを感じない。つまり脚の痛みは湿雪からスノーシューを引き上げるための筋肉が疲労して痛み出したのだと思われた。
 雨が降り出した道路を45分かかって浦臼駅には14時25分に着いた。

            
            ※ 駅舎と歯科診療所(右手)を併設した浦臼駅です。

 浦臼駅発、札幌行の列車は16時01分である。時間があったので、私はあの問題のカフェ&食事処でラーメンを頬張ったのだった。

 かくして今シーズン3度目となる「冬の石狩川河岸を遡る」シリーズを終えたのだが、さてこの後をどうするか?雪のコンディション、私のスケジュール、そのあたりを勘案しながら、もう少し先までこのプロジェクトを進めてみたいと考えている。
 
 ところで今回初めて試してみた「my Tracks」だが、確かに私の歩いた軌跡を地図上にトレースしてくれた。ところが、それを私のPCに取り入れることが、私の技術ではいくら試してみても出来ないのだ。私の技術が未熟ということである。
 この後もいろいろ調べたり、教えを乞うたりしたいと思っているのだが、ウェブ上ではこのアプリのサービスが終了するという告知も出ている。さて、どうしたものか??
 ちなみに、my Tracksによると、この日の私のトレッキングの距離は14.4キロとなっていた。(これはスノーシューの距離だけでなく、晩生内駅からスタート地点、ゴール地点から浦臼駅まで歩いた距離も合わせたものである)


冬の石狩川河岸を遡る 10 前編

2016-02-20 21:18:36 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

美浦大橋 ⇒ 奈井江大橋 トレッキング月日 ’16/02/19

 前回が1月28日だったから、約3週間ぶりの石狩川河岸遡行だった。雪の状態が良くなるのを待っていたのだが…。思いのほか春の到来が進んでいる感じだった。深雪は解消されたが、今度は湿雪が私を悩ました…。 

 前回の深雪に悩まされた私はじっと機会をうかがっていた。
 2月も下旬、気温の高い日もあったのでそろそろ雪面が固くなっているのでは、との読みから私のスケジュールが空いた昨日2月19日に今シーズン3度目の石狩川河岸遡行を敢行することにした。

 朝6時23分桑園駅発のJR学園都市線に乗った。久しぶりスノーシュートレッキングとあって前夜なかなか寝付けなかったのだが、列車内で眠気はなかったこともあり、車内からライブレポ№1を発した。
 乗客は石狩当別駅でほとんどが下車し、石狩月形駅では私以外の全員が下車してしまい、月形からは私一人の貸切列車状態だった。これではJR北海道も大変である。新年度からは減便されるとのニュースも聞こえるが、いたしかたないことか?

            
            ※ 学園都市線浦臼行き一番列車の月形以降はご覧の状態でした。

 7時55分、晩生内駅で下車した。ここでGPSロガー機能のアプリ「マイトラック」の記録開始ボタンを押した。
 本日のスタート地点は駅から歩いて約3キロ先の〔美浦大橋〕である。
 約45分間かけて美浦大橋の袂に着いた。スノーシューを付け、石狩川の河岸に向かった。

            
            ※ 黄色の塗装が鮮やかな〔美浦大橋〕です。対岸の茶志内に通ずるようです。

 雪の状態は、スノーシューは踏み込むごとに沈むものの、踝が隠れる程度で前回のように深く沈むことはなく、「これならそれほど苦労しなくても良さそう」と思った。
 石狩川はいつものとおり静かに流れていた。川幅の方はいくらか狭くなったかな?とも思われたが、対岸まではやはり相当な距離があるように見えた。ここからライブレポ№2を発信し、いよいよこの日のスノーシュートレッキングをスタートした。

            
            ※ これはスタート直後の踏み跡ではないですが、ほぼ同じような状態でした。

            
            ※ この日、初めて目にした石狩川の流れです。

 スタートして間もなく、対岸に大きな構造物が見えた。形状から見て取水機場ではないかと思われる。
 心配していた掘割に遭遇することもあまりなく、河岸の状態も灌木が生えてはいるもののそれほど酷い状態ではなく、順調に距離を稼ぐことができた。

            
            ※ 石狩川の対岸に見えた取水機場でしょうか?

 天候も雲が厚く覆っているものの、時おり雲間から陽が射すこともあり、また風もそれほどなく良いコンディションと云えた。
 そうするうちに、この日の第一の関門と考えていた〔札的内川〕が現れた。大きく谷を作り、時おり水面も見えていた。「これは迂回せねばならない」と考え、堤防の方へ進行方向を変えた。すると間もなく、川面が雪に覆われ、しかも谷の浅いところを見つけた。「大丈夫そう」と判断し、慎重に川を渡った。

            
            ※ 札的内川は写真のように谷をつくり、時折り水面が顔を見せてました。

            
            ※ 札的内川を少し遡ったところに絶好の渡りのポイントを見つけ、通過しました。

 札的内川を無事渡りホッとした時、雪原の向こうにキタキツネが見えた。
キタキツネは用心深く、カメラを構える暇を与えてくれない。この日は確か4度ほど遭遇したが、これまでにはなかったことだ。きっと気温が上がり、彼らも積極的に巣穴から出て獲物を物色しているのかもしれない。

            
            ※ 写真はキタキツネが通過した直後の湯気が出るような足跡です。

 以前にも記したが、私は石狩川の右岸を遡行している。だから絶えず右手に石狩川を見ながらトレッキングをしているのだが、石狩川の川中にちょっと不思議なものが目に入った。大きな鳥が川に半身を静め休んでいるように見えるのだが、動く気配がない。それはきっと川に取り残された岩だと思われるのだが、上部が黒く、下部が雪を被って白く見えるのだ。目を凝らして何度も見たのだが、疑問は解けなかった。

            
            ※ 川中に見えた鳥の親子のようにも見える岩?です。あなたは何に見えますか?

            
            ※ 望遠で近づいてみると、このとおりなのですが???

 ここまでの私は快調だった。その心地良さもあって、このあたりで一休みしながらライブレポ№3を発信した。ところが、この直後から快調だったトレッキングは反転してしまったのだ。
(以降は後編で綴ります)

            
            ※ これくらいの灌木ですと、歩を進めるのにそれほと苦労はないのですが…。

            
            ※ 石狩川は変わらず滔々と流れていました。

※ ライブレポで私の失態をレポしてしまったので、その顛末を記しておくことにします。
 私が紛失、というよりは置き忘れてしまったところは、トレッキングを終えてからラーメンを食した浦臼の街中のカフェ&食事処ではないかと思っていた。
 というのも、この店で椅子に腰かけホッとしたところでスマホを取り出した。そしてロガー機能が働いていることを確認していたところ、バッテリーが途絶えて消えてしまい、それ以降、スマホを一度も見ることなく帰宅していたのだ。
 そこで帰宅後、直ちに店に電話を入れて確認したところ、電話に出た方(店の主人?)が、私の座った席を確認して「見当たらない」と回答された。その際、「明日、また確認の電話を入れてほしい」と先方からいわれて承諾して電話を切った。
 それ以降、あちこちと可能性のあるところにも連絡を入れたが、反応はどこも芳しくなかった。
 今朝、再び店に電話を入れた。ママさんいう方が電話に出た。再度たずねると、「携帯などが見つかったとは聞いていない」との回答だった。残念ながら、これで出てくる可能性はかなり低くなったと観念した。
 すると、その直後、5分も経っていなかった。電話の着信音が鳴った。電話に出ると、先の店のママさんから「電話があった!」というではないか!ママさんは電話を切った後、気になって私が座った席を確認したらしい。すると、テーブルの下から電話を発見したということだった。
 すっかり観念した私だったが、嬉しさは倍増である。往復4時間強をかけて浦臼町まで往復した私だった。いやいやいや、私の迂闊さを反省することしきりの一件だった…。