田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ダイヤモンドシート in 札幌ドーム

2021-08-31 19:57:42 | スポーツ & スポーツ観戦

 本日、札幌ドームにおいて日本ハムファイターズ vs オリッスバファローズの対戦を観戦した。その座席が私にとっては初体験となるダイヤモンドシートでの観戦という得難い体験ができた。

 札幌ドームのダイヤモンドシートとは、バックネット裏の特等席である。このようなプレミアムな席がなぜ入手できたかというと、まったく幸運にもある方からプレゼントされたものだった。

                                                                   

 そこで、私はせっかくの機会なので、プレミアム感をじっくり味わいたいと思い、試合開始の1時間半前にドームに着いた。

 すると入場口から通常とは違っていた。私のこれまでの経験では普通に私たちが購入するチケットでは北口か南口からの入場だったが、今回入場したところはトレーニングルームや会議室が並ぶ西口ゲートからだった。そこから進むと、ドーム内に入る入口もまた違っていた。ドームに入る入口には専用のスタッフがカウンターにいてチケットをチェックしたうえで、別のスタッフが席に案内してくれた。

   

※ ドーム内の座席へ向かうには、写真のようなスタッフの前を通過して入ります。

   

※ 案内スタッフが座席の案内、ラウンジの案内など細やかに対応してくれます。

 その席はバックネット裏で、座席は軟席(クッションが効いている)で幅もあり、座席下には荷物入れがあった。さらに引き出し式のテーブルも備えられ、隣の席とはコロナ対策のためにアクリル板が設置されていた。そのうえ足元も広く取られているというように普通の座席とは全く違い、プレミアム感に溢れていた。

   

※ ダイヤモンドシートです。一般の座席とはかなりの違いがありました。(文章参照)

 私がドームの座席に着いたときにはオリックスナインが試合前の打撃練習を行っていた。名前を知っている選手はごくわずかだったが、短い練習時間を効率的に使っているように見えた。一方、座席の上方を仰いでみると、放送陣が放送前の準備に忙しそうだった。放送の解説を担う、岩本勉氏や森本稀哲氏の顔を伺うことができた。

   

※ 解説の岩本勉氏です。

   

※ こちらは森本稀哲氏ですね。

 対戦開始前に腹ごしらえしようと、ダイヤモンドシートなどプレミアム席専用の「プレミアムラウンジ」に赴いた。時間が早かったこともあり、ラウンジはまだ閑散としていたが、ラウンジの一方に飲食のカウンターがありそこでオーダーし、受け取る仕組みとなっていた。(通常はスタッフが座席までデリバリーしてくれるらしい)ここの料理はプリンスホテル提供だということだったが、価格はわりあいリーズナブルな設定だった。

   

※ プレミアムラウンジの食事スペースです。飲食カウンターは奥に位置しています。

 私は「ロースカツカレープレート」(850円)と「ノンアルコールビールテイスト」(450円)を頼んだ。(この時期、ドーム内はアルコール類販売禁止となっていました)カツは柔らかくて満足なカレーだったが、ビールテイストは私の好みではなく余してしまった。

   

※ 私がオーダーした「ロースカツカレープレート」と「ノンアルコール」です。

 ラウンジのソファ、さらにはトイレなども十分にプレミアム感を感じさせる仕様となっていた。ただ、ダイヤモンドシートの価格を見た時、とても個人として再び利用できるような価格ではないなぁ、と思ったことも事実である。今回は貴重な体験をさせていただいたということで満足しておこう。

   

※ プレミアムラウンジのソファスペースです。

 お―――っと肝心の試合の方だが、こちらは先発の上沢投手が7回1失点と好投し、打っては西武から移籍の佐藤、木村、さらには日ハム期待の若手野村と3人の適時打で3対1として、上沢の後、堀、ロドリゲスと繋いで理想的な勝利をものにした。

   

※ 私の席から球場内を俯瞰して見たところです。

   

※ 先発した上沢投手の投球フォームです。

   

※ 野村選手が1回裏、バットを折りながらライト前ヒットを打ったシーンです。折れたバットが宙に浮いています。

   

※ 最期を占めた新守護神(?)ロドリゲス投手です。

   

※ 勝利を決め、讃えあう日ハムナインです。

 快適な座席で観戦でき、しかも日ハムが理想的な試合運びで勝利を挙げるという何とも心地良い一日だった。        

                            

 


地域を活かし、地域と歩む北海道科学大学

2021-08-30 15:26:36 | 大学公開講座

 10月23日は「手稲山の日」だそうだ。それは手稲山の標高が1,023mという高さにちなんだ記念日だという。その日を北海道科学大学のメディアデザイン学科では積極的に研究活動に活用したり、支援していく計画だという。同学科の教員がその取り組みについて講義されたのを受講した。

         

 札幌市手稲区にキャンパスがある北海道科学大学はこのところ積極的に地域に働きかけているように思える。その一環として「まちかどキャンパス」と銘打って紀伊国屋書店札幌本店を会場にして、同大の教師陣が講師となってのさまざまな講座を開催している。

 昨日、その一環として同大メディアデザイン学科の道尾淳子准教授「都市型低山登山と地域の記念日を楽しむ」と題して講義したのを受講した。

 講義は時間はわずか1時間の中に、北海道科学大学のこと、ご自身が所属するメディアデザイン学科のこと、そして主題のことと、内容を詰め込んだがためにやや散漫な印象が拭えなかった。しかし、こうした類の講座の場合にはそれも致し方のないことと理解しなければなるまい。近年の北海道科学大学は他の大学と比べても積極的に大学をPRし、地域と共に歩もうとしている印象を受ける。

   

※ 講義をする道尾淳子准教授です。

 さて、主題についてであるが10月23日を「手稲山の日」と制定した経緯については詳しく聞けなかったが、調べてみると2014(平成26)年に手稲区と地域住民の協議する中で設定された日のようである。そうした背景の中で、手稲区にキャンパスがある北海道科学大学が地域に溶け込む一環として「手稲山の日」を積極的にPRしていこうとさまざまな取り組みを展開していると受け止めた。

 同大のメディアデザイン学科では「地域社会の当事者として新たな価値をデザインする」を学科のモットーとして、地域と大学の在り方、低山登山の意義、記念日を盛り上げることで地域の一体感を醸成する、等々、さまざまな視点から研究、そして実践を積み上げてきたということだ。

 その実践として、これまでに学生による10月23日の手稲山登山、10月23日にこだわらず手稲山の深緑を楽しんだり、雪中を歩くイベントに取り組んだり、昨年は手稲山トレイルランの催しを開催したりしてきたという。そうした実践を繰り返す中から、10月23日の手稲山登山は、すでにこの時期は手稲山山頂が雪に見舞われることがあることから、一般市民参加の行事としては難しいという判断に至ったようだ。そこで今年度は、9月23日に手稲山登山を含んだ20kmウォークイベント」を、10月23日に「『手稲山の日』記念イベント」として6kmウォークと映像上映会、ワークショップの開催を予定しているとした。

 私としては大いに興味をそそられるイベントであるが、コロナ禍に見舞われている現在、残念ながらイベントは学内限定として予定されているようだ。

 まだまだ手探りの段階のようであるが、こうした試みを粘り強く続けることによって、北海道科学大学がこれまで以上に地域住民から受け入れられる大学となっていくことを期待したい。そのことを私は見守っていきたいと思う。


サッポロフラワーカーペット2021

2021-08-29 18:29:37 | 作品展・展覧会等

 多くの市民ボランティアを募って作成される「サッポロフラワーカーペット」がアカプラ広場を会場に2年ぶりに開催された。第7回目の開催ということだったが、例年に比べやや小型のフラワーカーペットだったが、それでも素晴らしい出来だった。

   

※ 今年のメインとなったフラワーカーペットです。

 昨年、コロナウィルス感染拡大のために中止となった「サッポロフラワーカーペット」は、2年ぶりに当初は6月18日から20日までの3日間で開催される予定だったという。それが今年もコロナ禍のために延期となって8月27日から今日29日までの3日間日程で開催された。

 私は本日午後、札幌駅前の書店で開催された「まちかどキャンパス」(明日、その講座内容についてレポートします)を受講するために街に出たので、受講前に会場のアカプラを訪れてみた。

   

※ 会場のアカプラ広場全体の様子です。遠くに赤れんが庁舎が望まれます。

 フラワーカーペットは、アカプラ広場に2つ、広場の横に建つ赤レンガテラス内に1つが展示されていた。屋外のアカプラ広場には大小二つのカーペットが描かれていた。メインの大きなカーペットがあったが、例年に比べるとやや小ぶりのカーペットになっていたのは、やはり今般のコロナ禍の影響かと思われる。また、屋外の二つは2日前に完成したものとあって一部の花びらが風に舞ったためか絵の一部が乱れていたところもあったが、しかたのないことか。

   

※ 屋外に展示されたもう一つのフラワーカーペットです。札幌市立大の学生の作品のようです。

   

※ 同じ作品を上方から狙って。作品名は「ふわふわ、ふわり」だそうです。立体感の無い部分はカラーサンドを使用しているようです。

   

※ 作品を描くために使われたバラの花びらを大写ししたものです。(下の写真も)

   

     

 札幌市立大学のデザイン学科の学生さんたちの作品のようですね。    

 一方、屋内の赤レンガテラス内のアトリウムに描かれていた方は、小型ながら乱れもなく美しさを保っていた。

   

※ 屋内の赤レンガテラス内に展示されたカーペットです。文字の部分は花を使っていません。

   

 フラワーカーペットは、ベルギーが発祥の地といわれているが、色とりどりの花びらを利用して平面に絵を描くものだが、その様がまるで高級なカーペットのように見えることから「フラワーカーペット」と称されるようになったらしい。色とりどりの花びらは何の花を使用しているか気にな                                                           ったので、警備を担当していた方に質問をしたところ「バラカーペットの花を使用しています」とのことだった。

 北海道は農産物だけではなく、花の生産も盛んである。これからも初夏の風物詩(今年は晩夏の開催となったが)として定着してほしいものである。


映画 男たちの挽歌 & 男たちの挽歌 Ⅱ №321

2021-08-28 16:20:53 | 映画観賞・感想

 題名を見た時「これは高倉健さんの映画かな?」と思ったが、実際は香港映画だった。その中国題は「英雄本色」、英語題は「A Better Tomorrow」だそうだが、観終えた私は日本の題名が最も相応しいと思った。

 映画はPart Ⅰが1986年(上映時間1h37m)、Part Ⅱ(1h45m)が翌年1987年に香港で制作されたもので、BSプレミアムで7月27日に一挙放映されたものを録画しておいたものを先日観賞した。

         

 映画は、香港の偽札製造をする裏社会の組織に属した幹部の兄ホー(ティ・ロン)が肉親を思う気持ちから組織から離れようとする。しかし裏社会はそう簡単に離脱は許されない。ホーが思ったようにはいかずその間に肉親や親友たちを失うというある意味哀しいストーリーだが、その抗争での激しいガン(銃)アクションは驚くばかりの派手さである。本作はそれまでの香港映画の主流だったコメディ映画やカンフー映画とは一線を画し、公開時には大ヒットとなり香港映画の新しい流れを作った記念碑的映画と言われているという。

         

 さてその題名であるが、私は日本の題名が最も相応しいのではないかと先述した。それは中国題の「英雄本色」という意味は「英雄の真の姿」というような意味らしいが、裏社会に属した幹部を “英雄” と呼ぶには違和感を感ずるのだ。さらに英語題の「A Better Tomorrow」は「明日は良い日になる」と解されるが、なぜ肉親や親友が次々と殺されるストーリーが明日に希望を見いだせるのか理解に苦しむ。対して日本題の「男たちの挽歌」は、親友や肉親の死を悲しみ、裏社会で幅を利かせていた男の晩年の悲しさを描いものと素直に解釈できるからである。

 映画には香港が生んだ三大スターが競演している。一作目ではマーク、二作目ではケン(映画の中でマークとケンは双子とされている)を演じたチョウ・ユンファは香港映画からハリウッドに進出し国際俳優の道を歩んだという。また、組織の元幹部役のホーを演じたティ・ロンは早くからカンフー映画で人気を集めた俳優で、一時低迷するもこの映画で再び脚光を浴び香港映画で数多くの主演を務めたという。そしてホーの弟役キットを演じたレスリー・チャンはアイドル歌手としてデビューし、香港で熱狂的な人気をはくした俳優だそうだ。

   

※ 写真左からレスリー・チャン、ティ・ロン、(一人おいて)チョー・ユンファです。

 そうした俳優たちが出演したこともこの映画の大ヒットに繋がっているようだが、何と言ってもこの映画の最大の特徴は前述したような派手なガンアクションである。銃のことはよく分からないが、単発式の銃はもちろん、連射式の機関銃のような銃も多用され、はては火薬を大量に用いた爆発シーンなど、日本映画ではお目にかからないような派手な戦闘シーンは驚くばかりであった。いったい何人の人が死んだり、負傷したのか??

 映画を観終えて、つまらぬことを連想した。香港は近年の中国本土からの締め付けが強まり、香港が香港でなくなりつつあると言われている。はたして今の香港でこうした派手な映画を制作することは可能なのだろうか?などと連想してしまった…。


北海道空の事件簿

2021-08-27 16:29:22 | 講演・講義・フォーラム等

 函館市は全国的にも耳目を集める歴史的大事件が起こるところのようである。その中でも「北海道の空の三大事件」は全て函館に集中しているという。函館で起こった三つの空の事件についてお話を聴いた。

 道民カレッジの「ほっかいどう学」かでる講座は、残念ながらこのご時世とあってリアル講座が開催されることはなく、今回もネット配信されたものを受講することとなった。

 今年度のかでる講座の第5回目(正確には第4回目が中止となったので実質的には第4回であるが)は8月24日(火)に配信された。今回の講座は「北海道空の事件簿」と題して北海道新聞小樽支社長の相原秀起氏が講師を務めた。

   

 函館において戦後起こった全国的な大きな事件を時系列で並べてみると、次のようなことが起こったという。

◇1954年 洞爺丸台風事故

◇1971年 東亜国内航空ばんだい号墜落事故

◇1976年 ミグ25亡命事件

◇1995年 全日空857便ハイジャック事件

◇2017年 陸上自衛隊機墜落事件

 これらすべての事件が函館市周辺で起こっているという。講座ではこの中から三つの空の事件について、新聞記者らしい視点から解説いただいた。

      

※ 函館近郊横津岳山腹に建つ「ばんだい号慰霊碑」です。

 まず①1971年7月3日に起こった「東亜国内航空ばんだい号墜落事故」であるが、札幌・丘珠空港から函館を目ざしたYS-11旅客機が函館市北方の横津岳の山腹に激突して乗客・乗員全68名が死亡したという事件である。墜落の原因についてはいまだ原因不明となっている。それは当時はまだフライトレコーダーやボイスレコーダーが搭載されていなかったことから決定的な原因を究明できなかったことによるそうだ。このことによって、日本の航空機にフライトレコーダーやボイスレコーダーの搭載が進んでいったそうだ。

 実はこの事故については個人的な思い出がある。2019年5月、私は横津岳登山をした。その際にこの事件の慰霊碑が登山口近くにあることを知っていた。私はその周辺を探したのだが、5月初旬の横津岳登山口周辺はまだたくさんの雪が融け残っており、その慰霊碑を発見できずに引きかえってしまったことをこのお話を伺いながら思い出していた。

     

※ 函館上空を低空飛行をするミグ25戦闘機です。

 つづいて②1976年9月6日に発生した「ミグ25亡命事件」である。当時はまだ米ソ冷戦時代だったが、ソ連軍迎撃戦闘機MiG-25を駆ったソ連軍現役将校ヴィクトル・ベレンコ中尉が函館空港に強行着陸をして亡命を求めた事件である。ベレンコ中尉はアメリカへの亡命を求めていたがMiG-25戦闘機は燃費が悪くとてもアメリカまでは届かないことから当初から千歳を目標としていたらしい。しかし、それも届かず航空自衛隊の防空レーダー網をかいくぐり函館空港に着陸したというのが真相のようである。ベレンコ中尉はその後、希望通りアメリカに渡ったということである。この事件が勃発したことが契機となって、日本は国の防空体制を見直すことになったという。

     

※ 全日空機857便に使用された機体です。

 第三の事件は③1995年6月21日に発生した「全日空機857便ハイジャック事件」である。この事件は乗客365人を乗せた羽田発函館空港行きの全日空機が一人の中年の男にハイジャックされた事件である。犯人は当時世間を騒がせていたオウム真理教の信者を名乗って「サリンをばらまくぞ」と脅して「羽田空港に引き返せ」と要求した事件である。しかし航空機は函館空港に着陸し(燃料を補給しなければならないなどの理由から?)膠着状態に陥った。道警や警察庁の捜査員が大量動員される中、犯人との交渉、背後関係の捜査など慌ただしい動きの中、犯人はオウム真理教とは関係がない、犯人は単独犯らしい、あるいは機内は平静を保っている、などの情報を確認できたことから強行突破を図り、犯人は逮捕され、無事に解決した事件である。

 この事件を経て、事件を担当した道警は空港のセキュリティ対策を要望したが、その要望は直ちには顧みられなかったということだ。そのことについて講師の相原氏は、「事件があまりにも見事に解決したことによって、そこから学ぼうとしなかったのではないか」と指摘した。氏はさらに「日本という社会は、失敗からは学ぶが、成功事例からは学ぼうとする姿勢が欠けているのでは」と問題提起した。日本の空港のセキュリティ体制(保安検査)が厳重になったのは、この事件から6年も後のアメリカ同時多発テロ事件後だったという…。

 このように私が講座の様子をレポすると味もそっけもない内容に聞こえるが、実際は新聞記者らしい側面から、興味深いエピソードも差し挿みながら最後まで聞かせる話術はさすがだった。


古館伊知郎トーキングブルース2021 in 札幌

2021-08-26 18:17:12 | ステージ & エンターテイメント

 一人喋りの最高峰と称される古館伊知郎のトークライブ…、2時間いっぱい一刻の休みもなく喋りつづける様はまさに天賦の才があってこそと思わせた。とても66歳とは思わせない若々しさで聴衆を魅了し続けた。

         

 トークでブルースを奏でる” をコンセプトとする古館伊知郎のトークライブが本日午後、札幌市民ホールで行われ楽しんできた。

 意外に思ったのは、以前から「古館伊知郎のトークライブ」は有名だったが、全国ツアーを実施するのは今年が初めてだったという。つまりこれまでは首都圏を中心に開催されていたということで、札幌では初めての開催だったようだ。だからだろうか?掴みの話で札幌のことを語った内容は、ヨーク松坂屋(札幌に以前からお住まいの方は良くお分かりと思う)の話や、中島スポーツセンターでのプロレス中継とちょっと古い話だった。

   

※ ライブはもちろん撮影はNG。写真はウェブ上から拝借したが本日も写真のように上下黒で統一した衣装でまったく同じ雰囲気だった。

 トークライブは大きく二つの話からなっていた。

 その一つは、最近のコンプライアンス(法令遵守、倫理法令遵守)重視の世相を皮肉った「民話 桃太郎伝説」を語った。古館は桃太郎伝説の一つ一つを皮肉った。例えば「昔、お爺さん、お婆さんがおりました」という最初の部分から、外見からお爺さん、お婆さんと決めつけることは現代では危険であると…。ここは「やや高齢な男性と女性…」と表現しなくては現代では通用しない、あるいは「お爺さんは芝刈りに、お婆さんは川で洗濯…」などと性によって役割を決めつけることは問題を呼ぶ、等々…、一つ一つを取り上げ面白可笑しく語り、聴衆を沸かせた。

 もう一つは「実況講談 猪木物語」である。こちらはプロレスラー猪木へのオマージュを込めたアントニオ猪木の物語を語った。その中に、アントニオ猪木にとって伝説的な対戦となった対ドリーファンクJr.戦、対ストロング小林戦、対大木金太郎戦をまるでリングサイドで実況中継しているかのように、古館独特の機関銃のような早口でその模様を喋りまくった。

 いずれもが古館でなければなしえない喋りの技である。

 上記二つの話以外で印象に残ったのは「切り取り」という単語だった。今の世の中は全てのことを “切り取って” 取り上げたうえで、批評することが横行していると批判した。なるほど、ニュースにしても、ネットの世界にしても、さまざまな事象を自分の都合の良いように “切り取って” 取りあげているところがある。古館の指摘は一考に値すると思えた。

   

※ ステージの上方に写真写りは悪いが「Tolking Blues」と書かれたものだけが掲示されていた簡素なステージだった。

 簡素な舞台装置(若干の光による効果装置はあったが)に古館一人が舞台に立ち、2時間いっぱい聴衆を魅了し続ける古館の喋りの技は、誰にも真似のできない境地にあると言える。あの喋り、あの活舌、あの記憶力…、彼の独壇場である。いつかまた彼の舞台を楽しみたい、と思いながら満足感いっぱいで札幌市民ホール(カナモトホール)を後にした。


東京オリンピックの記憶を撮る

2021-08-25 19:38:55 | スポーツ & スポーツ観戦

 新聞に「東京五輪コースに記念銘板」と題する記事が掲載された。「これは面白いかも!」と思った私は、早速マラソンコース脇に埋め込まれた11ヵ所の銘板を撮り歩いた。

 東京オリンピックのマラソンコース上の発着地点、5キロ毎のポイント、中間地点など11ヵ所に記念銘板が埋め込まれ、それを撮ろうとする市民や観光客から人気であると新聞記事は伝えていた。その記事を見た私は「これは面白いかも!」と思い、その全てを写真に収めようと早速実行に取り掛かった。

 どのように撮り歩くかと考えた時、コースを歩きながら撮り歩くという選択肢も考えられたが、今の私の体力ではちょっと厳しいと考え、自転車に乗りながら撮り歩くことにした。それでも全てを撮り終えたら2時間半も経過していた。それではスタート地点から順に同じように見える11ヵ所の記念銘板を周りの風景と共に掲載することにする。

◇スタート地点 中央区大通西4丁目 札幌大通公園前郵便局前

   

   

◇ 5キロ地点 中央区南9条西3丁目 ローソン前

   

         

◇10キロ地点 豊平区平岸2条2丁目 歯科医院前

   

   

◇15キロ地点 北区北16条西1丁目 藤女子大裏

   

   

◇20キロ地点 北区北13条西8丁目 北大工学部前

   

      

◇中間地点   北区北7条西6丁目 時間貸し駐車場前

   

   

◇25キロ地点 北区北16条西1丁目 藤女子大裏

   

   

◇30キロ地点 北区北13条西8丁目 北大工学部前

   

   

◇35キロ地点 北区北17条西1丁目 時間貸し駐車場前

   

   

◇40キロ地点 北区北13条西8丁目 北大工学部前

   

   

ゴール地点  中央区大通西3丁目 地下鉄大通駅6番出口近く

   

   

 新聞記事が掲載されたその日だったので、あるいは同じように考える人がいるかな?と思ったが、私が直接目にしたのは北大工学部前の40キロ地点でカメラを向けている人に出会っただけだった。

 記念銘板を捜し歩く中で、苦労したのが銘板が30センチ四方と小さく、全体が黒っぽいために目立たないために近くへ行ってからあちこちとキョロキョロしながら捜し歩かねばならなかった。また、地図読みを間違えて行き過ぎてしまったり、方向違いだったりしてけっこう苦労してしまった。また、ほとんどの銘板は選手たちの進行方向の左手歩道に設置されていたのだが、北大工学部前の3か所と35キロ地点の4ヵ所だけは右手歩道に設置されていたため見つけるのに時間がかかってしまった。結局、全てを撮り終えるのに2時間半もかかってしまったが、心地良い疲労と共に一つのことを成し遂げた(?)満足感が 私の中に広がった。


3/4世紀を生きる

2021-08-24 16:58:25 | その他

 今日8月24日という日は私にとっては記念すべき日である。というのも私にとって、この世に生を受けてから75年の月日が経過した日なのである。これだけ歳を重ねると特別の感慨もないのだが、3/4世紀生きたということをそれなりに振り返ってみることにした。

        

 3/4世紀生きてきたんだなぁ…、と漠然と考えていた時に、そういえば50歳になった時に「半世紀を生きる」と題する文章を綴ったことがあったなぁ…、と思い出したのだ。当時私は学校現場において2校目の教頭職を務めていたころだった。私は生意気にも職員室内に「教頭通信」なるものを発行していた。その通信の中で表題の文章を掲載したのだった。まずはその文章を書き写してみることにする。

         る 

 いつも私的に綴っているこの通信ですが、今回は特に極私的な内容になりそうです。

 ここまで書くと、ピーンときた方もいると思います。そうです。私は先週とうとうこの世に生まれてから、半世紀を生きた記念日を迎えたのです。

 そこで、そのことにちなんで何か書き残そうと考えたわけです。

 最近、さまざまな分野の論文を目にする時、「変貌する日本…」とか「激動する現代…」などという枕詞が使われています。本校の研究主題の設定理由の中でも似たような言葉が使われています。

 ところで、若い先生方はこの言葉をどのくらい実感として感じているでしょうか。

 別に世代間論争をしようとしているわけではありませんが、若い先生方が生まれ育った頃にはすでに日本社会は激しく変貌を続け、相当に豊かになっていました。ですからその感じ方には私たちと相当に開きがあるような気がするのです。

 私が生まれ育った昭和20年代の日本、それは今から見ると何もなかったと言えるような状況でした。その頃の貧しい社会は、時代の進展も今から見るとゆっくりしたものでした。一般の家庭には、テレビも冷蔵庫も、もちろん車もない時代でした。道路のほとんどは未舗装のガタガタ道でした。

 それが今は当時を思い起こすことが困難なくらいの変わりようです。人々のライフスタイルは一変し、私たちは今の日本の豊かさを何の疑いもなく享受しています。

 敗戦国という重荷を背負った貧しい国が、この50年間で世界でも最も豊かな国の一つに駆け上がったのですから、世界の中でも最も変化の激しかった国と言えるのだと思います。

 さて、こうして変わり続けてきた社会が、今まで以上の速度で変貌を続けるというのです。先日、NHK・TVで「電子立国」というシリーズ物が放送されていました。そこでは、過去の技術を振り返りつつ今後の進展を予測していましたが、それは今からは想像ができないような社会の到来を予測していました。

 50年間、激変の中に翻弄(?)されてきた私などは、正直「もういいんじゃない」とい

う思いがあります。しかし、時代や社会はそれを許してくれそうにありません。ますます、時代を見る目が求められ、その中で主体的に生きることが求められているということなのでしょう。

 私たち庶民は何の疑いもなく現在の豊かさを享受していると書きました。もちろん私もその中の一人です。50年間生きてきた私には、この豊かさと繁栄がいつまで続くのかという不安とおののきがあります。

 8月24日、私はある種の感慨と将来へのかすかな不安の交錯した思いに浸りながら50歳の誕生日を迎えました。

 と若い教員向けに文明論めいたこと発信したことを懐かしく思い出している。あの時から25年という歳月が流れ、私は職を離れてすでに15年、日々呑々と緊張感のない暮らしを続けている。そんな私であるが、区切りの日を迎えたこともあり、あれからの25年を世の中の移り変わりを少しだけ振り返ってみたい。

 先の文章の中で「電子立国」という言葉があった。その時から25年、言葉は違えども確かに世の中はGAFAに象徴されるようにITが世の主流となる時代を迎え、私たちの生活もITなしには立ち行かない時代を迎えている。

 しかし、そのことよりあれから25年、私たちの誰もが想像もできなかったコロナウィルスによるパンデミックに世界中が見舞われ、恐れ慄いているという事実である。と同時に、25年前はまだまだ一部の科学者たちの間で囁かれていた「地球温暖化」という事態が紛れもない事実として私たちの前にくっきりと姿を現したことである。

         

 ここからは素人と断ったうえで、暴論を展開してみたい。私はこの二つの事象は密接に絡み合っていると考えている。人々はみな豊かさを求め懸命な努力を重ねて現在の豊かさを手にし、さらなる豊かさを貪欲に求め続けている。そのことによって大量の二酸化炭素を排出することに繋がっている。二酸化炭素を大量に排出したことが「地球温暖化」に繋がっているという。さらに人間は未知のもの、あるいは美食を求め、人跡未踏の世界の奥地へと足を伸ばしてもいるという。その結果が禁断のウイルスとの遭遇を招いたと指摘する識者がいる。

 素人の浅はかな考えではあるが、私たちが棲む地球はすでにオーバーフロー現象を催しているのではないかと危惧するのだ。 

         

 私は今年の年賀状に「文明は必ずやこの災禍を乗り越えてくれると…」と記して書き送ったが、それが今になって思うとやや楽観過ぎたかな?と思い始めている。この災禍が落ち着きを見せた暁には、専門家や指導者たちがさまざまな提言をされることと思うが、そこではこれまでの私たち人間の営みを反省したうえでの提言がなされることを期待したいと思う。

 おそらく私自身は誕生1世紀を迎えることはできないと思うが、向こう25年が地球とそこに棲む人間が良好な関係を築いていってくれることを切望したい。


北海道神宮境内 de エゾリスを撮る

2021-08-23 16:04:45 | 環境 & 自然 & 観察会

 たくさんの方が北海道神宮の境内でエゾリスを撮った映像をネットで公開している。しかし私はこれまで一度もカメラに収めたことはなかった。今日はエゾリスを撮ることを唯一の目的として北海道神宮に向かった。

 いやいや最初に向かったのは北海道神宮ではなかった。最初に私が向かったのは「円山」である。以前に「円山」に登った時に、登山路の脇の大きなカツラの樹の根元で遊ぶエゾリスを目撃したことがあった。私はそこで簡単に見ることができるだろう軽く考えていた。というのもそのカツラの樹は大木であり老木だった。その根元にはたくさんのウロや穴があり、エゾリスが根城とするには絶好の場所と思えたからだ。

   

 そのカツラの大木は登山口から10分ほど登ったところにあった。久しぶりに対面したカツラの大木だったが、いかにもエゾリスが棲んでいそうな雰囲気があった。

   

   

 カツラの大木を前に私はどっしりと腰を下ろし、エゾリスの登場を待った。当初私は1時間も待てば現われてくれるだろう、と思っていた。雰囲気はあるのに、なかなかエゾリスは現れなかった。10分、20分…、現れない。ここで私の我慢性の無さが顔を出した。1時間待てば…、と思っていたのに30分を経過するとしびれを切らしてしまった。これだから私には野鳥とか、動物たちをカメラに収めることができないのだ。私は30分を経過したところで諦めてしまい、下山してしまった。

 ここで思い出したのが「円山」と隣り合わせにある北海道神宮だった。多くの方が北海道神宮で撮ったエゾリスをネット上にアップしているのを思い出した。そこで北海道神宮境内に転進することにした。

 神宮の入口で警備員に「エゾリスを見ることができますか?」と尋ねてみた。すると「運が良ければいくらでも見ることができますよ」とのことで、「あちこちと歩いてみてください」とアドバイスしてくれた。アドバイスどおりに私はあちこちと歩いてみた。しかし、そうは簡単に現れてくれない。境内を警備していた方にも「エゾリスは昼時は現れないんですかね」と尋ねてみた。すると「そんなことありませんよ。先ほども私は見ましたよ」との力強いアドバイスを受けて、さらに歩きまわった。

 するとついに!松ぼっくりがたくさん転がっているところを忙しそうに走り回るエゾリスに遭遇した!私は夢中でシャッターを押し続けた。

   

 エゾリスが草陰に隠れるようになったころ、件の警備員の方が「後ろにもいるよ」と声をかけてくれた。いるいる!私はより望遠の効くカメラに持ち替えてシャッターを押し続けた。こんなにエゾリスをカメラに収めたことはない。目的地は違ったけれど、ねらったエゾリスをカメラに収めることができて満足、満足である。

 それではその成果を…。

   

   

   

   

   

 それにしても本日の一件で小学校時代の通知表にいつも「落ち着きがない」と書かれたことを思い出した私だった…。                            


映画 シャイン(Shine) №320

2021-08-22 19:09:34 | 映画観賞・感想

 Shineとは、直訳すれば “光” である。しかし、天才ピアニストと言われた主人公ディヴィットはピアノの修行中に精神を病んでしまい、けっして “光” に満ちた人生とはいえない。しかし、彼にはそこから先の人生があった…。

          

※ ポスターの上段は父親、中段はディヴィットと妻、下段はディヴィットの青年時代、カラーの部分は精神を病んでしまったディヴィットです。                

 本作は私にとっては珍しいオーストラリア制作の映画である。というのも題材がオーストラリア生まれで実在のピアニストであるディヴィット・ヘルフゴットの半生を描いた伝記映画だからということだろう。

 映画は1996(平成8)年に制作されたもので、私は去る7月13日にBSプレミアムで放送されたものを撮り貯めしておき、先日観賞した。

 ディヴィットは父親の英才教育によってピアニストとしての才能に目覚めた。周りは彼の才能を伸ばすために海外留学を勧めるが、父親は頑として自分の傍から離そうとしない。しかし、成長するに従い自立心が芽生えたことで19歳の時に父親の意志に反し、家出する形で英国王立音楽大学に特待生として留学する。

 そこで父親からいつか弾きこなすようにと言われていたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」コンクールの演奏曲に選んだディヴィットは、猛特訓の末に見事に演奏するが、過度のストレスによって精神を病んでしまう。ディヴィットはこのことによって演奏家の道は断たれ、オーストラリアに傷心の帰国となってしまった。

          

※ 英国王立音楽大学時代の青年時代のディヴィット役のノア・テイラーですが、彼も好演しました。

 10数年の闘病生活を送り症状は落ち着いたもののディヴィットが元に戻ることはなかった。しかし彼にある幸運が訪れた。その幸運とは…。

 彼は精神は止んでいたが、幼いころから習い覚えたピアノを演奏する技は身体が憶えていた。そのことが幸いし、ステージは違えどもピアノを演奏しながら生活する道に出会うことができた。さらには愛する妻とも出逢えることができたというストーリーである。

 映画を観賞後、この映画のテーマは何なんだろうか?と考えてみた。つまるところは、彼の人生は傍(はた)から見たら「かわいそうな人生」と映るかもしれない。しかし、彼自身の中ではちっともそうは思ってはいないのではないか。好きなピアノを弾くことができ、最愛の妻とも幸せに暮らすことができている。彼にとってそうした現在の生活は、悲嘆の縁から救ってくれた、まさに “Shine”(光)だったのではないか。

     

     ※ 絶えず煙草を話さなかったディヴィットです。

 精神を病んでしまったディヴィット役をオーストラリア人の俳優ジェフリー・ラッシュが好演している。彼はこの演技でアカデミー賞主演男優賞を受賞したという。

 さらなるエピソードとしてこの映画で流されるピアノ曲は全てディヴィット・ヘルフゴット自身が演奏しているということだった…。