田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

今年の清掃ボランティア終了!

2015-10-31 23:51:45 | ボランティア
 昨日(30日)朝、近代美術館前の歩道を清掃するボランティアの第13回目の活動を行い、今シーズンの活動に終止符を打った。2010年から始めたこの活動を6年間継続することができた。そのことを私は感慨深く振り返っている。しかし、ある課題が浮上し、私を悩ませている…。 

                
               ※ ある日のブリリア会の活動の様子です。             

 「近代美術館前庭の緑に癒されている私たちが、近代美術館の美化に少しでも役立とう!」という趣旨のもと、「近美を愛するブリリアの会」を起ち上げたのは2010年の7月だった。
 以来、夏の間およそ2週間に1度の割合で、早朝に歩道の清掃をするとともに、歩道上にある花壇の整備も併せて行ってきた。

               
            ※ 活動の中には、写真のように花壇の除草など花壇の維持管理も行っています。

 会員は6年間の中で多少の出入りがあったものの現在19戸を数えている。(その中には直接活動には参加できないが、会費だけ納入してくれているサポーター会員も含まれる)
 この間、私から会員向けに発行された「近美を愛するブリリアの会 会報」も122号を数えるまでになった。
 2週間に1度、朝6時、毎回8~10人程度が三々五々集まり、路上を清掃し、花壇を整美する活動を6年間に渡って続けてきた。
 会は一見順調に推移しているように見えるのだが…。

               
               ※ ボランィア袋にはこうして落ち葉や枯れ葉が集められます。
               
 会を主宰する者として、今頭を悩ましているのが会員のモチベーションの維持である。
 モチベーションなどという外来語を使用したが、つまりは会員の方々が会の活動に対していかに意欲を持ち続けてくれるか、という問題である。
 そのことを私が感じざるを得ない原因が私の中では二つある。

 一つは、私も含めた会員の高齢化である。活動自体は簡単な活動なのであるが、やはり徐々に活動が身体の負担になっていることによって意欲の低下が見えているように思われる。

 もう一つの理由がマンネリ化という問題である。
 このことについて私は最も意を払い、これまでも会報を通じて手を変え、品を変え、会員に呼びかけてきたつもりだが、それも今底をつきかけた感がある。
 私が最も気になっているのは、私たちの活動が外部評価を得られないことにあるように思っている。私自身はそのことをそのことをあまり気に留めないようにはしているし、会員の方も普段そうしたことを口に出すことはない。
 しかし、ある時ある会員が「○○は私たちの活動のことをどう思っているんでしょうね」という趣旨の発言をされた。私はそうした思いがきっと一人ひとりの会員の中にあるのでは、と思っているのだ。

              
           ※ 「ART」文字を作るクサツゲを雪の害から守るために一つ一つの株を縛りました。

 「近代美術館前庭の緑に癒されている私たちが、近代美術館の美化に少しでも役立とう!」というピュア(?)な趣旨にどこまで会員の方々が賛同し、活動を維持し続けることができるだろうか?
 会が曲がり角にきていることを感ずる日々である。
 11月半ばには、今シーズンの活動を振り返る反省交流会を開くことにしている。その席でどんな話が出るのだろうか?

三角山文庫の寺子屋塾

2015-10-30 22:28:00 | 講演・講義・フォーラム等
 まったく面識のないグループの学習会に闖入したが、温かく迎え入れてくれ楽しくお二人の講師のお話を聴くことができた。お二人ともいわば市井の人であるが、真摯に生きた証がそこにあった。 

                    
         ※ 三角山文庫ほ主宰する堂前綾子さんが著した三角山文庫に関する著書です。

 三角山文庫とは、三角山の麓にあって堂前綾子さんという方が、自宅を開放して「本」を介しながら地域の方々の交流拠点となっている文庫のようである。
 その三角山文庫において道民カレッジ連携の寺子屋塾が開催されると知って、受講を申し込んだのである。
 講座は10月25日(日)、午前、午後と二つの講座が開講された。

 講座のテーマは午前が「札幌の街づくりの原点となった三角山での出会いの文化」と題して、ふくろうをモチーフとした作品を作り続ける造形作家の石島しのぶさんが講師を務めた。
 午後は「北海道和菓子の伝統」と題して、古文書を読み解く活動を続けられている上野繁さんが講師だった。

 会場となった堂前さんのご自宅に行ってちょっと驚いた。なんと茶の間のようなところで講座が開始されようとしていた。受講生は私を入れても8名だった。そして接待の方がコーヒーやお茶を出してくれる。まるでお茶の間懇談会といった趣である。
 最初に受講者の自己紹介が行われたが、私以外は三角山、あるいは三角山文庫に関わる人たちであった。(私は典型的な闖入者である)

 講座の様子である。
 石島さんは三角山の麓に居を構え、実に多くの方々と交友を持っておられる方のようである。三角山文庫の堂前さん同様、三角山を深く愛し、初代の開拓判官だった島義勇が三角山の頂から札幌の街並みを構想したという言い伝えを誇りとして、三角山から再び札幌の街づくりをしようとさまざまな活動を展開しているということだった。
 石島さんは、言いたいことが山のようにあったようだ。そのために焦点が拡散してしまったきらいはあったが、造形作品を創り出すだけではなく、さまざまな活動をエネルギッシュに展開されている方だと、私の目には映った。

            
            ※ 講師を務められた石島しのぶさんです。

 昼食がまたユニークだった。私は近くの食堂のようなところで昼食を摂ろうと思っていたのだが、参加者の中に手作りのお稲荷さんをたくさん持参した人がいて、とても外へ出られるような雰囲気ではなく、結局そのお稲荷さんをご馳走になる羽目になってしまった。

 午後の上野さんは、古文書を読み解く研究会に所属していて、長く活動を続けてこられた方である。その研究の中で、和菓子の古文書に興味を持たれたということだった。砂糖がまだまだ貴重だった時代に、甘味を出すためにいろいろと工夫した技を古文書から読み取り紹介してくれた。また、都が京都から東京に移った維新の際に、当時京都にあった和菓子の老舗のうち、「とらや」だけが東京に移り、成功して現在に至っている歴史ついても紹介してくれた。

            
            ※ 同じく講師を務められた上野繁さんです。             

 お二方とも、三角山界隈においては有名な方なのかもしれないが、超がつくほどの有名人ではないようにも思われる。しかし、それぞれの道で真摯に取り組み続けてきた結果が大きく実を結んだ好例と言えるようだ。
 
 それにしても三角山文庫を主宰する堂前綾子さんは素晴らしい人だ。自宅を開放し、本の貸し出しや読み聞かせをするだけではなく、自らも絵本を書いたり、地域づくりに積極的に関与されたりしているようである。
 この日も、堂前さんは自らが積極的に募金活動を行った結果、地域会館の改修を実現させたそうだ。この日はその落成式に出席のため講座にはほとんど参加されず、自宅を開放したまま外出されていた。
 私が三角山文庫(堂前さん自宅)を訪れたときも、まるで旧知の間柄のように歓迎していただいた。このようなフレドリーなお人柄が多くの人たちを惹きつけているのだと思われる。
 次回、「寺子屋塾」が開催されるときは再び訪れてみたいと思わせてくれた三角山文庫であり、堂前さんのお人柄だった。

アルプス観光文化の変遷

2015-10-29 16:06:19 | 大学公開講座
 スイスアルプスが世界的な観光地になったのはそう遠い昔の話ではないという。山は人々に忌み嫌われる存在だったそうだ。それがどのようして今のような世界的観光地へと変貌を遂げたのか?変遷の足跡を辿ると共に、観光文化について考えた講座だった。 

 北大観光学高等研究センター主催の「記憶をめぐる観光論」の第4講が10月22日(木)夜に開講された。第4回目は「風景と記憶 風景から読み解く観光文化」と題して観光学高等研究センターの小林英俊客員教授が講師を務めた。

                   

 正直に吐露して、今回の講義はその趣旨を理解することがとても難しかった。その要因のほとんどは受講する側にあるとは思うのだが…。それでもなんとかレポートしてみたい。
 小林氏はまず、ヒトの記憶について話された。
 ヒトの記憶には、「短期記憶」と「長期記憶」があり、短期記憶は7ケタまでの記憶が可能であるという。ヒトはその短期記憶を編集して長期記憶とするということだ。
 ここで扱うのは、もちろん「長期記憶」についてである。

           

 小林氏はスイスアルプスの観光の変遷について次のように紹介した。
 14~16世紀、人は野生の自然について、全く無関心であり、拒否感すら抱いたそうだ。
 それが16世紀末になって、ヨーロッパ人の山岳観に変化が表れ、それまで山頂や渓谷が呪われた場所と思われていたところ、そうではないらしいと思われ始めたという。
 18世紀に入り、信仰面での教養の広がりがあったという。(この点については、当時絶大な権力を誇っていた教会の考え方の変化を指しているものと思える…私の解釈)
 18世紀後半になって、科学者や作家がアルプスの価値を発見することで、「美の新しい規範」が誕生し、「ピクチャレスな美」が尊ばれるようになり、アルプス観光はヨーロッパ人に定着していったようだ。
 このことを、小林氏は「景色」は「価値が変わる」ことによって「見方が変わる」とした。つまり「観光は文化的な行為である」と…。

 ここで小林氏はサイモン・シャーマの言葉を紹介した。
 「風景とは、木と水と岩に投影された人間の創造力そのものなのだ。それは自然である前に文化であり、人間の心が創りあげたものにほかならない」

           

 観光が文化であるとすると、そこには時代の価値観が反映されてくるという。ということは、スイスアルプスの観光も当然時代の価値観を反映して変貌していかねばならない。スイスアルプス観光にもすでにその萌芽が芽生えているという。
 それは「環境に負荷をかけない生き方」ということだ。したがって、これからの観光のキーワードは「環境問題」、「健康・長寿」、「QOLへのこだわり」、「精神的充足」、「持続可能な社会づくり」、「伝統工芸、巧の技の評価」などなどであるという。

 観光の在り方が変わってきた、という報道は最近よく見聞きすることである。本講座「記憶をめぐる観光論」もそうした観点から論及されている講座だと受け止めている。

坂本龍馬は蝦夷地開拓が夢だった

2015-10-28 22:38:19 | 大学公開講座
 坂本龍馬が北海道(蝦夷)の開拓を夢見ていたことは有名な話である。筆まめだった龍馬がそのことを裏付ける文(手紙)を遺している。講座ではそれを読み解きながら龍馬の夢を追った。 

 札幌学院大学のコミュニティカレッジ「古文書に見る歴史が動いた瞬間」の第2回講座が10月22日(木)午後、札幌学院社会連携センターで行われた。講師はもちろんノンフィクション作家の合田一道氏であるが、この日のテーマは「坂本龍馬『北を目指す便り』を読む」だった。

                 
                
 坂本龍馬は少なくとも二度にわたって蝦夷への渡航を企てたと云われている。その一つは元治元年(1864)勝海舟率いる神戸海軍塾の塾頭となって、海軍塾所属の黒龍丸を駆って蝦夷地開発を目論んだ矢先、京都にて池田屋騒動に遭遇し多くの同志を失い、龍馬自身も負傷してしまうという不運に見舞われ計画は頓挫してしまう。
 いま一つは、慶應3年(1867)龍馬は海援隊隊長となり、伊予国大洲藩所有の「いろは丸」を借用し海援隊の業務を遂行するとともに、密かに蝦夷行も企図していたという。ところが「いろは丸」は4月23日の初航海において紀州和歌山藩の明光丸と衝突して沈没してしまうという「いろは丸事件」に遭遇してしまい龍馬の思いは雲散霧消してしまう。

 講座においては、龍馬が書き遺したたくさんの文(手紙)を読み解きながら進んだが、その中から慶応3年3月6日に同志(?)の印藤肇に書き送った長々とした文(手紙)の第4段に次のような一節があり、龍馬の蝦夷への思いが表出している。
                    
 小弟ハエゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。
 其中助(伊藤)太夫事、別ニ小弟の志を憐ミ、且積年の思ひも在レ之、不レ屈して竊(ひそか)ニ志を振ひ居申候。
 然レバ先頃長崎ニて、大洲(おおず)蒸気船ハ三月十五日より四月朔迄の間ニ借入の定約ハ相定め置たり。故、近日其期限も来るべし。

  ※( )は私が補足

                   

 この文からは龍馬の蝦夷地開発にかける並々ならぬ思いを読み取ることができる。
しかし、龍馬はこの年(慶応3)11月15日、近江屋において刺客に襲われ絶命してしまう。
 こう振り返ってみると、龍馬は蝦夷(北海道)には縁がなかったのだろうか?
 そうも思いたくなるように二つの事件である。

 そんな龍馬の思いを受け継いだ坂本家の子孫が北海道開拓に携わったことは誰もが知る事実である。
 「龍馬 蝦夷地を開きたく」を著した合田一道氏ならではの解説も聴きながらの講座は非常に興味深いものだった。

                   

 本講と直接関係はないのだが、日本の歴史を掘り起こし続ける合田氏ならではの面白いエピソード披露してくれた。
 それは、鹿児島(薩摩藩)においては、明治維新において英雄的な働きをしたとされる西郷隆盛、坂本龍馬、永山武四郎などの明治維新に関する文書が一切遺されていないそうだ。
 そのことについて、合田氏は個人的見解だがと断りながら、薩摩藩においては藩主の島津家が絶対であり、彼らに関する文書は意図的に葬り去られたのではないか、と話された。
鹿児島(薩摩藩)の実態には疎い私だが、非常に興味ある見解だと思えた。

そうだったのか!三味線の歴史と構造

2015-10-27 19:00:17 | 講演・講義・フォーラム等
 三味線は中国の三弦(サンシェン)がその源であった。三味線の棹は三分割されていた。等々…、私にとっては知っているようで、正しい知識には乏しい日本の伝統楽器三味線について詳しいお話を聴くことができた。

 連続受講している「かでる講座」の第8回講座が、10月21日(水)午後、かでる2・7で開催された。
 今回は「日本の伝統楽器~三味線の歴史と楽しみ方~」と題して、和楽器奏者の沖田鈴軒氏(助手として中藤喜代氏)が講師を務めた。
 沖田氏は尺八については師範格の免許を取得しているが、三味線については趣味の域を出ないと断りながらも真摯に丁寧に説明してくれた。

               

 三味線のルーツは中国の三弦(サンシェン)にあり、それが1400年代に入り琉球に伝わり、琉球ではご存じのとおり三線(サンシン)と称されて広まった。そして1550年前後、琉球から大阪・堺に伝わり、三味線(シャミセン)となったという。
 三弦や三線では表皮にニシキヘビの皮を使っていたが、本土に入ってニシキヘビの皮の入手が難しく、代わりに犬や猫の皮を使うようになったそうだ。
 本土で広まった三味線の弾き手は盲人が担っていたというのも初めて聞いた。また、男性の楽器でもあったという。

               

 三味線は江戸時代に入り、歌舞伎や文楽などの伴奏楽器として用いられ、明治以降は端唄・浪曲・寄席・大和楽・津軽三味線など、幅広く用いられるようになったそうだ。

 続いて、三味線の構造についての話となったが、三味線は「太棹」・「中棹」・「細棹」と三種類があり、それぞれの用途によって使い分けるそうだ。例えば、義太夫は太棹、長唄は細棹というように…。
 耳新しいこととして、高級な三味線は棹の部分が3分割されていることを初めて知った。
 また、「胴皮」は交尾期に入っていない猫の皮が極上品だそうだが、最近は猫そのものの皮の入手が困難になりつつあり、カンガルーなどの皮も利用されているという。さらには、普及品として合成皮革の胴皮も増えつつあるという。

 こうして三味線の歴史と構造についての講義を受けた後、講師の沖田氏と助手の中藤氏の尺八や三味線による演奏を数曲披露された。御年92歳になるという中藤喜代氏の矍鑠(かくしゃく)とした演奏の様子が印象的だった。

               

 沖田氏は冒頭にも紹介したように、尺八は古くから愛好していたようだが、同じ和楽器ということで興味を持ち、カルチャーセンターなどで学んだ結果、講座を引き受けたり、ボランティア活動を続けたりしているという。
 私のように八方美人的にあれもこれもと手を出し、雑学ばかりを身に付けようとしている(それも最近は、聴いた端から忘却しているが)者がいる一方、一つのことに集中して
人々のために役立っている人もいる…。人生いろいろ?

増毛山道を往く 3

2015-10-26 21:12:46 | フットパスウォーク & トレッキング
 この日のトレッキングで最も降雨量が多かったのは昼食時だった。雨に濡れてかじかみそうになる手で頬張るおにぎりは、けっして楽しいひと時ではなかった。しかし、一方で思わぬ奇遇に驚いた場面もあった午後だった。 

               
           ※ 後半のルートは写真のように比較的平坦なところや、緩い下りのところが多いルートだった。

 「旧武好駅逓跡」から「(新)武好駅逓跡」までは距離にしておよそ2km、高さにして50mほど上がる。
 ところで、旧とか、新とかということであるが、旧駅逓は少なくとも明治10年には簡易の休泊所があったと古文書に記されている。それが旧駅逓跡の場所である。
 明治35年になって新築する際に、場所を移動し新駅逓跡に建築されたということのようだ。

 旧駅逓から約2km、上ったり下ったりを繰り返しながらおよそ50分かけて、12時05分山道に突然開けたところが現れ、そこが「武好(ぶよし)駅逓跡」だった。
 開けているとはいっても、もちろん何もない。私は幸いなことに、ちょうど腰かけるに都合の良い曲がった木があったので、そこに腰かけることができた。雨がかなり本格的な降りとなってきた中、立ったままおにぎりを頬張っていた人もいた。
 私も木に腰かけたものの、お昼を楽しむ気分からはほど遠く、空腹を満たすためにおにぎりをお腹に押し込むといった感じだった。

               
               ※ 新武好駅逓が建っていた跡のちょっとした広場に到着です。

 駅逓跡には「増毛山道の会」の方々が、遺されていた写真などから駅逓の完成図を予想した掲示を立てたり、実際の間取りを表示した説明板のようなものを設置していた。
 また、当時の水場として使用していた小さな流れも案内された。さらには、駅逓で使われていたであろう鉄鍋や、駅逓に宿泊した人が飲んだであろうと思われるビールの空瓶などが遺されていた。

               
               ※ 新武好駅逓が建っていた当時の建物の様子を表した図が広場にありました。

               
           ※ 広場には「ここが板の間」「台所」と当時の場所を記した札が設置されていました。

               
               ※ 広場には当時の鉄なべやビール瓶などがさりげなく置かれていました。

               
           ※ 駅逓の人たちが使用した水場だそうですが、水量が少なくなっているという話でした。
               
 雨の上に、寒さが加わり、主催者は長居は無用と判断されたのか、35分間の休憩で12時40分に再スタートした。
 昼食を摂った駅逓跡が最高点だったので、午後からは平坦なところや、やや下るコースが続いた。日本海からの浜風が強いせいか、ねじ曲がったまま成長する木が多く、冬季の風の強さを連想させられた。

               
           ※ 風が強いためでしょう。ご覧のように真っ直ぐに成長していない木が目立ちました。

               
               ※ 白樺?(ダケカンバ?)もご覧のありさまです。

                
               ※ 面白く成長した木の幹の間を潜って…。
         
 再スタートから50分ほど歩いたところ(№63ポイント)で、林道と交差している地点に至った。そこでは「増毛山道の会」のスタッフがブドウの差し入れを用意して待っていた。疲れた体に甘酸っぱいブドウはことのほか美味しかった。

               
               ※ 苔に覆われていない水準点です。真ん中の少し出たところが真の水準点です。            

 ここでハプニング(?)、というより奇遇に驚いた。
 同行していた新聞記者がリタイヤ組と一緒にスタッフの車で途中下山するという情報を得た。
 今回の記者氏の記事は「留萌・宗谷版」にしか掲載されないとのことだったが、それを耳にした苫小牧からの参加者が「苫小牧へ郵送してくれないか」と頼んで承諾を得ていたところを目撃していた。そこで下山前に私も自宅へ郵送してもらうべくお願いしなくては、と思ったのだ。
 早速、その旨をお願いしたところ、快諾してくれた。そして彼は私の氏名・住所を尋ねたのだ。私が住所を述べ始めると、彼が「エーッ!」と奇声を発するではないか!
 な、な、なぁ~んと、彼は私と同じマンションの住人だということが発覚したのだ。彼は妻と子どもを札幌に残し、留萌に単身赴任中らしい。お名前を聞いて、なるほど彼の奥さんや子どもさんとはお会いしたことがあったが、新聞記者氏とは初対面だった。こんな奇遇もあるんですねぇ。

               
               ※ 雨に打たれながら、なんとなく元気なくうつむき加減に歩く参加者たちです。

 そんなハプニングも経験しながら、午後の下りのルートはどちらかというと、黙々と歩を重ねると言った感じのトレッキングだった。雨も降ったり止んだりの小康状態でホッと一安心という感じだった。
 №80ポイントを14時30分に通過し、15時30分№90ポイント近くにあったコース上唯一の三等三角点(№2105 山道)でリーダーの渡辺氏から、水準点は高さ、三角点は方向を表すという説明を伺った。(渡辺氏はその方面について大変詳しく、あるいは専門家なのかもしれない)

               
               ※ こちらは三角点です。その説明をする渡辺氏です。麦藁帽子がチャーミングです。

               
               ※ ルートの中には鎖場ならぬ、このようなロープ場もありました。

 やがて遠くに別苅の市街地が眼下に見えてきたが、カメラに収める時間が取れない。残念ながらパスだった。
 リーダーの渡辺氏は時間を計算しながら、説明や休憩の時間を取っていたようだ。
 予定どおり午後4時に車を駐車していた別苅口に帰り着いた。
 最後に完登(完歩)記念の集合写真を撮り、解散となった。

               
               ※ もうゴール目前で林間から望んだ別苅の集落です。

               
               ※ ルートの最後の標識№100の標識です。

 幸運だった!!と思ったのは、札幌に向けて車を走らせて間もなく、フロントガラスに叩きつけるような豪雨に遭遇したことだ。トレッキングの帰着があと1時間後だったら大変なことになっていた。幸運に感謝しながら車を札幌に走らせた。

 今回のトレッキングに参加して、「増毛山道の会」の方々が地域の歴史を大切にしたい、地域の宝を活かしたい、という思いを強く感ずることができた。
 今回のシリーズの中で述べてきたように、増毛山道の完全復活はまだ途上にあるいう。関係者のご努力で全区間約56キロの増毛山道の完全復活の夢が一日も早く訪れることを願いたい。(そうなると2泊3日くらいの行程になるかな?)
 そして、私のようなトレッキングファンが全道、全国からどんどん訪れる日が来ることを期待したいと思った今回のトレッキング体験だった。

増毛山道を往く 2

2015-10-25 23:02:42 | フットパスウォーク & トレッキング
 増毛山道フルコース(16km)は標高650mの二つの頂点に向かって長い距離を上り下りしながらゴールのコース別苅口を目ざすトレッキングといってよいかと思う。前半は海岸縁からけっこうな上りが続く私にとってはそれなりに負荷のかかるコースだった。 

                
                ※ 「増毛山道体験トレッキング」はこのように19名が一列縦隊となって進みました。

 実は昨日説明した「増毛山道とは?」では十分説明できなかったきらいがあった。
 増毛山道と呼ばれる古道は、増毛町別苅から石狩市厚田区濃昼川まで約56kmをいう。
 そのうち「増毛山道の会」は増毛町別苅から石狩市浜益区幌までの区間約32kmの山道跡の痕跡を確定したということなのだ。
 そして、今回私たちがトレッキングしたコースは、増毛町岩尾から海が荒れたときなどに増毛に行くために、岩尾から増毛山道と合流する岩尾分岐まで約5kmを上って、増毛山道と合流し、その後約11kmの山道を経て、増毛町別苅に抜ける合計約16kmをトレッキングするコースだった。

         
         ※ コースマップ上に「岩尾分岐点」を記すことができないが分岐点はマップ上の天狗岳の真南のところくらいです。
               
 さて、当日(24日)朝7時、ゴール地点となる増毛町別苅に時間前に着いた。参加者は19名。遠く苫小牧、帯広からの参加者もいた。  「増毛山道の会」のスタッフは5名、うち3名が同行し、2名はコースの途中で交わる林道で待機し、ジープを用意して落伍者に備えるということだった。また、今回は今シーズンの最終回ということで北海道新聞の留萌支局長が同行取材をしていた。

               
               ※ 早朝の増毛町別苅の海岸は雲が垂れ込め、行く末にちょっと不安を感じたのですが…。               

 別苅からマイクロバスでスタート地点の増毛町岩尾まで移動した。車中で「増毛山道」のことについてのガイダンスを受けたが、手慣れているためか、まとまった聴き易い説明だった。
 スタート前にもコースの簡単な説明があった。それによると、コースは100等分された案内標識が設置されているという。つまり16km=1,600mに100の標識が設置されているというから、160mに一つの標識が設置されているというのだ。それに1~100まで番号をふってあるということだった。

               
               ※ スタート前のまだ元気な表情を写す前に私のカメラで一枚。

               
               ※ コース上には、こうした標識が1~100まで順に表示されていました。

 予定時間よりは早く、午前7時35分、岩尾口を出発した。
 いきなりの上りが始まった。そのコース脇に地域の方々が耕作する野菜畑があった。見ると、木の枝で周りを囲っている。シカよけの柵だという。ちょっと原始的(?)だったので驚いた。
 1.6kmで180m、2.6kmで320mと高度が行程表に出ていたが、グングンと高度を増してゆく。
 出発して15分も行っただろうか?早くも体調を崩してリタイアする人が出た。出発前から体調を崩していたのではないだろうか?

               
               ※ このように木の枝に囲まれた野菜畑をたくさん目にしました。

               
               ※ コースの前半はこのような上りが延々と続きました。
               
 コースの周りは既に紅葉も終わり、枯葉がコースに敷き詰まっていた。前の方と「枯葉を踏みしめて歩くのもいいですね」などと話しながら進んでいたのだが、1時間も進まないうちに恐れていた雨が落ち始めた。しかし、ぽつぽつといった感じで本格的な降りではなかった。
 それでも小休止したところで全員がレインウェアを装着した。そこは沢の流れの所に掛けられた橋の基礎となる石積みの遺構があるところだった。

               
               ※ 馬などが通るための橋をかけた石積みの跡です。ここで全員雨具を着ました。

               
               ※ 橋の石積遺構のところには当時の橋の想像図が掲示されていました。

 先頭を取るのは「増毛山道の会」の渡辺さんという方だったが、山道遺跡調査の中心を担った一人だったということで、コースの中で適宜、適切な説明をしてくれた。説明によると、山道が利用されていた時代は、今は木の覆われている辺りにも住民が耕す畑が広がっていたという。斜度を考えると、それらは全て段々畑であったことだろう。

               
               ※ 木の間からピークが望める天狗岳の裾を巻くようにして山道が造られていました。

 一行のペースは先頭の方(渡辺さん)がそれなりのペースを考えて先導してくれるため、体力虚弱の私もMAXまでペースを上げることなく、付いていけるペースだった。
 雨は小降りではあるが、間断なく降り続いている。枯葉歩きは気持良いのだが、濡れ落葉歩きはあまり気持ちの良いものではない。
 また、山道のところどころには大きな動物の糞が鎮座しており、それが熊の糞だという。道中かなりの数に遭遇した。とても単独では歩けそうにないくらい熊の密度が濃いようだ。集団行動のため糞の写真が撮れなかったのは残念!              

 出発から標識№20を9時20分、№26を9時50分と順調に通過していく。途中、沢水が流れるところを渡渉する箇所もあった。№30では高度が560mに達した。近くに増毛山道と合流する岩尾分岐があり、そこを10時15分に通過した。
 さらに上りが続いたが、そんな中、後続の方で3名ほどが疲れから遅れるという連絡が入った。休みなく降り続く雨が体力を奪ったのだろうか?

              
              ※ 木橋もなく、石などを伝い渡渉する個所が3~4ヶ所ありました。

              
              ※ 木にかかる赤い札は分岐点を表しているそうです。

 途中で小休止したところで立派の角をもった雄シカと距離50mほどの近さで遭遇したが、シカは一歩も退かず私たちを見返していた。
 また、途中でコースの周辺に背の低い常緑樹が目立った。見たことのある植物だったが名前が思い出せない。リーダーも初めは思い出せいでいたが「エゾノユズリハ」ではないか、ということで落ち着いた。

              
              ※ 小休止をとったところで、シカが私たちをじっと見ていました。

              
              ※ 写真のようなエゾノヤズリハ(?)が非常に目立った一帯がありました。

              
              ※ コース上には駅逓間を結ぶ電話線の電柱が立ち残っていたり、横たわったりしていました。

 そうこうしているうちに「一等水準点」のある「旧武好駅逓跡」に10時50分に到着した。一等水準点はこの後何ヵ所かで目にすることになるのだが、この地点で標高606.7059m(非常に細かい!)と記され、明治40年7月27日に埋石されたと表示があった。
 なお、「旧武好駅逓跡」については残念ながら何の痕跡も見られなかった。(というのも、旧駅逓は明治10年に建設されたものの、その後焼失され、新たな駅逓がその2キロ先に建設されたことによると思われる)

              
              ※ 苔むした一等水準点です。真ん中の石が水準点です。明日苔むしていないものをお見せします。

 私たちはこの後、もう一つの駅逓跡である「(新)武好駅逓跡」に向かった。
                                   (続きは明日の増毛山道を往く 3で)

増毛山道を往く 1

2015-10-24 21:29:27 | ロングトレイルフットパス
小雨が降り続く中でのトレッキングとなりました。しかし、雨もまた自然です。若干の不便を感じつつも雨中のトレッキングを楽しみました。古(いにしえ)の時代に思いを馳せながらの16キロのトレッキングでした。

           
          ※ またまた函館のsakagさんのHPから拝借しました。岩老(岩尾)から別苅に向かってトレッキングしました。

増毛山道とは?

 トレッキングの様子をレポする前に、「なぜ増毛山道なの?」という問いに答える必要がありそうだ。
 今年の春だったと記憶している。購読している北海道新聞に「増毛山道体験トレッキングの参加者を募集しています」という記事が載った。
 「えっ?増毛山道って何?」という疑問を抱き、少し調べてみると、明治から昭和にかけて地域の人たちの往来や、荷物や郵便を運ぶための山道が存在していたらしい。当時は海岸線に道を造ることが困難だったらしい。

 そんな山道も、昭和も半ばを過ぎると機械力によって海岸線に道が造られ、やがて山道は用済みとなったようだ。
 そんな古道を再生させよう起ち上がったのが地域の「こがね山岳会」と「増毛山岳会」の人たちだったという。平成5年スタートして数十回に及ぶ道跡調査の末に、道跡をほぼ確定することができ、本格的な再生のために平成22年にNPO法人「増毛山道の会」を起ち上げ、法律的な問題などをクリアして道跡の伐採などを行い、平成22年秋には増毛山道を復元したという。(非常に簡単にまとめると以上のようになります)

 それを知った私は「これはなかなか面白そうだぞ」ということで、早速申し込んだのだが、フルコース(16キロ)といわれるコース ①8/8、②10/10、③10/24と3回予定されていたが、①、②はすでに満杯だったため、③への参加を勧められ今回参加となったのだ。

          
          ※ こちらも今日の様子ではなく、「増毛山道の会」のHPからお借りしました。
  
 ということで、なかなかの人気のイベントのようだ。今回も参加者は満杯近くの19名の参加だった。
 1週間前の「藻岩山全コース一筆書縦走」ほど疲れてはいないのだが、体験レポは明日以降に綴ることにします。

※今回参加者には「増毛山道」についての詳しい資料も配布された。それも明日以降のレポに反映させていきたいと思う

増毛山道体験トレッキング 前夜

2015-10-23 20:03:02 | フットパスウォーク & トレッキング
 増毛に来ています。
 明日が「増毛山道体験トレッキング」の日なのですが、前日に増毛に入らねばならない事情があったのです。
 その理由は、浜益~増毛間に横たわる数多いトンネルのためです。その中の一つのトンネルが工事中のため、午後9時~朝7時まで交通止めになるのです。
 体験トレッキングの集合時間が朝7時となっているため、前日に増毛に入っていなくてはならないというわけです。

 それにしても浜益~増毛間にはトンネルが多いですね。数を数えていたのですが、あまりにも多くて数えきれませんでした。大小合わせて20前後あったようです。
 しかも、かなり長いトンネルが多いのも特徴の一つです。一つのトンネルの長さが、2キロ、3キロがざらのようです。確かこの区間はあまりにも工事費がかかるのでダイヤモンド道路と呼ばれていると、どこかで聞いたような記憶があります。

 さて、明日はいにしえの昔、地域の方々が切り拓いた山道16キロ、高低差600mの古道をトレッキングします。
 深秋の古道トレッキングを楽しみます。
 その様子をまたレポートできたら、と思っています。

エコツーリズムとは?

2015-10-22 20:34:55 | 大学公開講座
 エコツーリズムという言葉を最近よく耳にするようになったが、それは地域の誇り(宝)を活かすことであり、護ることだと講師は強調した。そしてそれは地域の振興・活性化に結び付くことだと…。

 少し時間が経ってしまったが、北大観光学高等研究センター主催の「記憶をめぐる観光論」の第3講が10月15日(木)夜に開講されたのでレポートすることにする。第3回目は「地域の誇りに裏打ちされたエコツーリズム ~岩手県二戸市の宝」というテーマで、観光学高等研究センターの真坂昭夫特任教授が講師を務められた。

                    

 真坂氏はまず、「観光」という言葉の成り立ちから話を始めた。観光という語源は「易経」の中にある「観国之光」から来ているという。つまり「国の光を観る」ことが観光であると…。そしてこの言葉が大正年代にtourismの訳語として用いられるようになったそうだ。
 そこで「光」とは、その地に住む人たちが「最も自慢するもの」であり、「他者に誇れるもの」であるという。それは地域にとっての「宝」である。
 その地域の「宝」探すために真坂氏は6つのフレームからの「宝さがし」を勧めた。その6つのフレームとは、
 ① 自然の宝さがし ~ 共に生きる仲間さがし
 ② 生活の知恵の宝さがし ~ 生きるため知恵の体系化
 ③ 歴史・文化の宝さがし ~ 先人の足跡をたどる
 ④ 産業の宝さがし ~ 外部世界への発信
 ⑤ 名人の宝さがし ~ 地域の知恵袋
 ⑥ 要望の宝さがし ~ 未来へのエネルギー
そうしたフレームから地域を眺め、地域の宝を探すべきだとした。

                 

 そして真坂氏は、そうした観点からの典型例として岩手県二戸市におけるエコツーリズムについて紹介してくれた。
 二戸市は岩手県の中山間地域にあり、幾度もの合併を経て(明治初年には41もの村に分かれていた)、現在人口が29,000人超の小都市である。生漆生産量日本一、葉タバコ販売額全国3位を誇る街でもある。
 そんな二戸市を先の6つのフレームから観てみると、たくさんの「宝」が存在することが明らかになってきたという。
 例えば、カニや貝などの化石が含まれたノジュールという砂岩層があること。
 あるいは、その昔に淡水イルカが棲息していたことを示す化石が発掘されたこと。
 絶滅した日本オオカミの毛皮が保存されていること。
 「やなぎバット」という郷土食あること。

                

 「酒濾舞」という伝統芸能が継がれていること。
 さらには、気候・土地柄から米作ができず雑穀しか収穫できなかった地域だが、今やそのことが成人病の罹患率が全国一低いことに繋がったことから、雑穀に注目が集まるようになり、「五穀ラーメン」や「五穀冷麺」という地域ブランドを形成されるまでになっているという。
 その他、地域で採取したヤマブドウを企業の醸造技術とコラボレーションして開発した「淡ぶんどぅ」という酢を開発したり、ヤマブドウビールを販売したりと、地域の「宝」を発掘し、活かす取り組みを多方面に展開しているようである。

 真坂氏は言う。地域の「宝さがし」の意義は、①日常的に資源の価値の再発見と価値付けをすることであり、②「自慢できる物は何か」を利害を超え地域住民間で共有し合おうとする作業である、と。さらにそのことが③地域個性化の切り札として生かしていくことだ、と言う。

 エコツーリズム(ecotourism)、それは、自然や文化などの地域資源の健全な存続と,観光業の成功および地域の経済振興をはかることの両立を目指すことだという。その試みや取り組みは全国各地で展開されるようになってきたようにも思われる。
 それが、地域の振興・活性化に結び付けられるか、その鍵の一つが真坂氏が提唱する6つのフレームなのかもしれない。