私が「何でも見てやろう」に出会ったのは16歳、高校2年生の時だった。読み終えた私は興奮していた。「こんな方法で世界を巡ることができるんだ!」と…。この「何でも見てやろう」は私の人生に大きな影響を与えた一冊だった。その一冊をこのほど60年ぶりに再読した。
※ 私が高校2年生の時に読んだ初版本です。字が小さすぎて今の私が詠むには辛過ぎました。そこで…。
今となっては記憶が定かではないが、道東の片田舎にある町のたった一軒の本屋さんで私はその一冊に出会ったと記憶している。読書の習慣など無かった私だが、「何でも見てやろう」だけは特別だった。その一冊にだけはぐいぐいと引き寄せられた。
著者の小田実は「1日1ドル」という極小予算でアメリカからヨーロッパ、中近東、アジアを巡って歩いた旅行記だった。「このような旅なら、自分にもできないだろうか?」…、そんな思いがムクムクと湧いてはきたが、自分にはしょせん儚い夢でしかなかった…。
お――っと、私の思い出話を語る投稿ではない。再読の話である。
60年ぶりに頁を開いた「何でも見てやろう」は、60年前と同じように魅力に満ちていた。粗筋的には東京大学の文学部大学院に学ぶ作家のタマゴの小田実は、「アメリカを見てやろう」とフルブライト留学生に応募し、見事に選考を通過し、渡航、生活費などを先方持ちで留学することになった。(このあたりは小田が秀才であるが故に可能なのだが)
アメリカでの1年間の留学生活を終え帰国するに際して、小田はアメリカから日本へ直接帰らず、ヨーロッパ、アラブ、中近東、アジアを回って帰国することを画策した。作家志望である小田はアメリカでも各地を巡っているが、より多くの国々を巡りより多くの事物、人物に接したいと考えたのだ。そう「何でも見てやろう」と思い立ったのである。
「何でも見てやろう」はユーモアと機知に富んでいて、読んでいてとても楽しませてくれた。低予算の旅のため、訪れた国々の底辺をさ迷いながら、小田の観察眼は冴えわたる。それは単なる旅行記の範疇を超え、鋭い文明批評の様相も呈した内容だった。小田が旅した1958~1960年というと、昭和33年~35年にあたる。
「何でも見てやろう」で小田が書く文明批評的文章を当時の私が理解できるはずもない。私はただ、ただ、小田の無鉄砲とも思える旅の方法・手段に引き寄せられたのだった。その時、私の中で残った小田の言葉で覚えているのは、「インドのカルカッタは世界最悪の都会」ということと、「日本列島はアメーバ運動のようである」と称したことだ。アメーバ運動とは、アメーバはてんでばらばらに偽足を出して動きながら、それでいてある一定の方向をさして移動していくが、日本の国内もまたてんでばらばらの動きに見えるが、確かに良い方向を目指して動いているように見える、と小田は喝破したことは鮮明に覚えていた。(小田は本書で「アミーバ」と表記しているが、私が「アメーバ」と一般に流通している言葉に置き換えた)
※ 今回詠んだのは、講談社文庫から出版された文庫本となり文字も大きくなったもので詠みました。
面白いことに、私が敬愛するノンフィクション作家の沢木耕太郎もまたこの小田実の「何でも見てやろう」に接してインスパイアされ、あの名著「深夜特急」を産み出したアジア・中近東・ヨーロッパ放浪の旅に出たのだった。
さて、私はというと、「何でも見てやろう」から受けた衝撃は大きく、この本に出合ってから5年後の大学3年生を終えた時に大学を1年間休学してヨーロッパ、中近東、アジアの彷徨の旅に出かけたのだった…。
小田実著「何でも見てやろう」を今回60年ぶりに再読している間、私は65年前の甘酸っぱい青春の旅の再現していたのだった…。(いつかまた、そのた旅を語ってみたい、とも思っているのだが…)
水戸学の薫陶を受けた尊王攘夷派の水戸藩の脱藩士(薩摩の脱藩士一人を含む)18人が江戸城桜田門外において、時の大老・井伊直弼を暗殺した事件の襲撃の指揮をとった関鉄之助の視点で、事件前の安政4(1857)年から事件後の鉄之助の逃亡、捕縛、斬首までの6年間を克明に描いたものである。
時は激しく動いていた。江戸末期である。
鎖国政策を執っていた徳川幕府は諸外国からの執拗な開国要求に揺れ動いていた。
徳川御三家の一つ、水戸藩は江戸末期において時の藩主・斉昭が水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張した。時の大老・井伊直弼は開国政策をとったために水戸藩と激しく対立することとなった。
攘夷論が藩論となった水戸藩では、藩士たちが激しく動いたが直弼はそれらの動きを厳しく罰した。「安政の大獄」である。この直弼の措置が水戸藩の藩士たちをいっそう頑なにした。
水戸藩の尊攘派の藩士・高橋多一郎や金子孫二郎を中心として井伊直弼の暗殺を企てる。 その暗殺現場の指揮を執ったのが吉村昭著「桜田門外ノ変」で主人公として描かれる関鉄之助である。鉄之助は下級藩士の出だったが、藩校の弘道館で頭角を現し、藩に仕えてからも注目され暗殺の実行部隊の指揮者として抜擢されたのである。
本著においても吉村昭の筆は冴えわたる。それは彼の執拗な取材の賜物である。登場人物の生地に赴き、その地の資料館において市史に触れるのはもちろんとして、関係者にも可能なかぎり会い取材を重ねている。また本書の場合は主人公の関鉄之助が日記を事細かく記していたことも幸いしている。ともかく、吉村はまるで影武者のごとく至近距離から見ていたかのように仔細に描いていくのだ。それが読者を一層ストーリーに飲み込ませるのである。
結局、史実のように安政7(1860)年3月3日「桜田門外の変」において、井伊大老暗殺という目的は達せられたが、暗殺に関わった藩士たちはその場で悶死した者、傷つき自刃した者、後の探索で捕らえられ処刑された者、と首謀者の高橋多一郎や金子孫二郎も含めてほぼ全員が命を長らえることはなかったし、後の歴史が示すように尊王攘夷論は歴史の彼方へ葬り去られることになった。
※ 関鉄之助の顔写真です。(ウェブ上より拝借)
そうした中、ただ一人関鉄之助は「桜田門外の変」後、尊王攘夷派の立起を促すために探索の目を逃れながら薩摩などに向かうも、その願いは叶わなかった。傷心の鉄之助はその後、探索の目を逃れてひたすら逃亡の身となった。その逃亡劇は、まるで「長英逃亡」の高野長英の逃亡劇と重なるかのようなスリリングな展開の連続だった。しかし、逃亡生活1年半、彼も探索の目を逃れることはできなかった。水戸藩に逃れていたところを捉えられ、文久2(1862)5月11日、刑場の露と消えたのである。齢37歳だった…。
本作も吉村昭の巧みな筆致に酔わされた数日間だった。
我が国の近代医学の礎を築いたとされる「解体新書」の成立過程には、私のような者には思いつかない想像を絶する困難を乗り越えねばならない作業があったこと、また「解体新書」を共同で著したとされる前野良沢と杉田玄白の間には知られざる相克があったことを著者・吉村昭は克明に描いてみせた。
私の吉村昭を追いかける旅はまだまだ続く。今回もまた時代は江戸末期である。吉村にとって江戸末期とは時代が激しく揺れ動いた時代であったために、ノンフィクション的手法をとる彼にとっては題材が数多転がっていた時代でもあったのだろう。
今回の題材も1760年代から1810年代頃(ちなみに江戸時代は1603年~1868年とされる)それぞれの属する藩の藩医であった前野良沢、杉田玄白らによってオランダ医学書「タ―ヘル・アナトミア」を翻訳し、発刊した「解体新書」の翻訳過程、そして発刊後のことについて克明に追ったノンフィクションである。
吉村がこのことに興味を抱いたのは二人によって発刊された「解体新書」の著者名(訳者名)に前野良沢の名はなく杉田玄白一人の名になっていたことに興味を抱いたのだった。そこから吉村の精緻な取材活動が始まり、その過程で著者名の件も明らかになるにつれ、吉村は前野良沢の生き方に強く心を惹かれるようになったようだ。そこで前野良沢を主人公に据えて本書「冬の鷹」を著そうと決心したようである。
良沢は長崎にオランダ語を学びに遊学した際に解剖書「ターヘル・アナトミア」を入手した。一方、玄白は知人の中川淳庵を通して「ターヘル・アナトミア」を入手したことが二人を結び付けた。そして二人は罪人を処刑する江戸の「骨ヶ原刑場」で死体の腑分け(解剖)を見たことで、「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚いた。そこで二人(正確には二人とさらに、小浜藩医の中川淳庵、幕府奥医師の桂川甫周も加わっていた)は本格的に「ターヘル・アナトミア」を翻訳することを決意した。
翻訳するとはいっても、玄白にオランダ語の素養はなく、わずかに良沢が長崎に学んだことから、良沢が頼みの全てだった。とは言っても、良沢のそれも初心者の域を出ないものであり、もちろん蘭和辞典など無い時代であり、その道程は途方もなく遠く高いものであった。それでも良沢を中心としてあらゆる手がかりをもとにしながら、蟻の歩みのごとく休むことなく、コツコツとその作業を進めた。そうして苦節3年5ヶ月、翻訳作業は一応に完成をみたのだった。
その際、編集者的役割を担っていた玄白は、翻訳作業の中心的役割を担った良沢に「解体新書」の序文の執筆を依頼した。ところが良沢はこの依頼を決然として拒否したのだった。その理由は、翻訳した「解体新書」がまだまだ完全なものではなく、訳者としてそこに名を連ねることを良沢は良しとしなかったのである。ここが二人の分岐点だった。
「解体新書」の著者(翻訳者)名は杉田玄白となり、その後の彼は画期的偉業を成し遂げた医師として名声を上げ、豊かな後半生を送った。それに対して、前野良沢は藩医ではあったものの、その後もオランダ書の翻訳に拘泥し続けたことで、生活も困窮し、寂しい最期を迎えたのだった。
「解体新書」の翻訳・執筆に関わった前野良沢、杉田玄白の二人は対照的に後半生を送ることになってしまったことに対して、吉村は前野良沢のオランダ語研究者としての姿勢に心をより惹かれたことが執筆の契機となったとあとがきで述べている。
私の記憶では、中学時代だったか、高校時代だったか判然としないが、社会科の教科書で「解体新書」の著者は前野良沢と杉田玄白の二人だと記憶している。それはおそらく後世になって訂正された結果なのかもしれない。ただ、今回吉村の著「冬の鷹」によって、その舞台裏を知ることができたことは私にとって大きな収穫だった。
なお、私は本書を読み続ける中で、書名「冬の鷹」という題名について考え続けた。その結果、特別な考えには至らなかった。「鷹」は速く飛び、力強いというイメージがある。つまりオランダ語に秀でた前野良沢を “鷹” とたとえ、その “鷹” が厳しい冬の中で生きたという意味からこうした書名を冠したのかな?と考えたのだが、どうだろうか?
※ 「解体新書」と杉田玄白、前野良沢の図はいずれもウェブ上から拝借しました。