田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

女医第一号の荻野吟子の生涯を辿る

2024-11-21 19:29:43 | 講演・講義・フォーラム等
 荻野吟子は我が国の女医の第一号者であることは有名であるが、その彼女が北海道瀬棚町において開業していたことも北海道民にはかなり知られたことである。また、フェミニストとして女性の地位向上にも力を発揮した人だった。

        
        ※ 瀬棚町の荻野吟子公園に設置されている荻野吟子顕彰碑です。

 昨夜(11月19日)、北海道労働文化協会が主催する「労文協リレー講座」の第2回講座が北海道自治労会館で開講され受講した。
 テーマは「女医第一号 荻野吟子~フェミニストとして生きる~」と題して、北海道情報大学名誉教授の広瀬玲子氏が講師を務めた。

     
     ※ 講演をする広瀬玲子北海道情報大名誉教授です。

 吟子は1851(嘉永4)年、現在の埼玉県妻沼町の豪農の家に生まれた。時はペリー来航の2年前、つまり江戸時代最末期であった。
 当時の女性規範は「女は嫁して子を産み、家を守る」という儒教思想が当たり前とされ、「女性に学問はいらない」という中において、兄たちと一緒に学び、才媛の誉れが高かったという。
 吟子は1868(明治元)年、17歳にして嫁ぐが、夫から淋病をうつされるという不幸に遭遇し、離縁することとなった。(これも男尊女卑の風潮がそうさせたと広瀬氏は指摘した)
 それからは、自らを苦しめ、また多くの女性が同様に苦しんでいることを知り、そうした人を助けるために、まだ当時の日本にはいなかった “女医” の道を目ざして勉学の道をひたすら歩む。先駆者がいない中で、“女医” の道への扉を開けることは大変な困難との闘いであったことは想像に難くない。
 1885(明治18)年、幾多の困難を乗り越え、吟子は見事公許女医第一号となった。時に吟子35歳の時であった。

        
  ※ 日本初の女医の免許を取得したことを記念した荻野吟子の写真と思われます。

 そして東京で「産婦人科・小児科 荻野医院」を開業する。それと前後して彼女はキリスト教に入信した。キリスト教が「男女の対等性を認める」、そして「一夫一婦制を守る」ことに救いを求め、心の拠りどころとしたのではないか、と広瀬氏は解説した。
 吟子は医業とともに、女性の地位向上や弱者救済の活動にも熱心に取り組んでいたが、そうした中で志方之義というキリスト教徒の学生と出会い、1890(明治23)年、周囲の反対を押し切り14歳も年下の志方と結婚することになる。
 志方は結婚の翌年、北海道にキリスト教の理想郷を建設しようという理想に燃えて北海道利別原野(現在の瀬棚町から北桧山町の辺り)に入植する。一方、吟子は志方への資金援助のため東京に残り医業を続けるのだが、志方の苦闘ぶりを聞き、自らも1894(明治27)年に北海道に渡った。しかし、結局志方の開拓は断念に追い込まれる。
 そして志方は伝道に専念し、吟子は生活の糧を得るために瀬棚町で医師として開業した。(明治30年頃と云われている)
 瀬棚町で医業を続ける一方、瀬棚においても吟子は社会活動にも積極的に取り組んだという。
 1904(明治37)年、吟子は病気療養のため一時帰郷し、姉の元で療養して翌1905(明治38)年半ばになってようやく瀬棚町に戻ったが、夫の志方が病に倒れ死去してしまった。
 1908(明治47)年、東京に引き揚げたとき吟子は58歳になっていた。東京で医業は開業したものの、自らも療養が必要な身体とあって、社会活動から離れ療養生活を中心とした生活を送っていたが1913(明治46)年、63歳で逝去した。
 ここまで広瀬氏はある意味淡々と吟子の一生を順に語るような講義だった。そして最後に広瀬氏は「吟子の思想」について触れた。下図の通りであるが、受講者から講義後に「キリスト教精神」・「女性の自律(立?)」と「ナショナリズム、士族的精神」は相いれないのではないか、といった質問が出たが、広瀬氏は「吟子は幼少期に国学を学んだこともあり、国を支えなければならない」という精神が、彼女の中では違和感なくキリスト教精神や女性の自律と同居したのではないか、と話された。

     
 困難に立ち向かい、女性の地位向上、弱者救済に立ち向かった日本初の女性医師が北海道瀬棚町においても医業や社会活動に貢献されたということを私たち道産子は忘れてはなるまい。                                  
  

札幌市中央図書館「屯田兵の足跡」展

2024-11-20 16:13:00 | 講演・講義・フォーラム等
 “屯田兵” が北海道の開拓のために大きく貢献したことに異論はないと思う。(もちろん北海道の先住民族としてのアイヌ民族の存在はあったが)その屯田兵の足跡を辿る展覧会が札幌市中央図書館で開催中と知って駆け付けた。屯田兵となるための「移住手引書」、「屯田兵手帳」、あるいは屯田兵が子弟のための学校に寄付したことに対する「下賜状」など貴重な品々を目の当たりにした。

       

 昨日(11月19日)、特に日中に特に予定もなかったことから、以前から気にしていた中央図書館で開催中(実際には隣接する「埋蔵文化財センターの一室で開催されていた」」の「屯田兵の足跡~明治の札幌をたどって~」を観覧に訪れた。
 私は「めだかの学校」でこの夏、「さっぽろの古を訪ねて」の第三弾として「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を辿る」をテーマとして、札幌近郊に点在する五つの屯田兵村跡を訪ね歩いた経緯もあり、この展覧会は必見であった。
 展覧会は主として当時の屯田兵に関するさまざまな現物資料が展示されていた。それらを写真の収めようとしたのだが、ガラスケースに収められていたために照明が反射して上手く写せなかったのが残念だった。

    
※ 写真は明治元年の札幌地図の複製です。明治8年に高見沢権之丞によって原本から複製したとなっている。地図の中央を横断するように流れているのが大友堀(現在の創成川)です。

 その中で特筆すべきは、屯田兵として採用された人たちが北海道に移住するに際しての心構え、注意等が記されているであろう「移住手引書」なるものが目を惹いた。

    
    ※ 移住手引書は年代により表紙の装丁が違っていたようです。

 また、琴似屯田兵村を訪れた際に見せていただいたのは絵画だったが、その画の元となった屯田兵たちが開墾地に勢ぞろいしている写真は見応えがあった。

 
※ 写真は琴似屯田兵村に入植した屯田兵が勢ぞろいした写真だと思われます。

 そして「屯田兵手帳」である。ガラスケースに入っていたために直接手に取って内容を見ることはできなかったが、おそらく屯田兵心得のようなことが記されていたのではないかと思われる。

    
    ※ 屯田兵の必携(?)の「屯田兵手帳」です。

 また、札幌近郊の屯田兵が移住して数年、あるいは数十年経った後に刊行されたのであろう記念誌類もたくさん展示されていた。

    
※ 各屯田兵村で入植〇〇年を記念して刊行された記念誌です。 

 また屯田兵そのものとは一線を画す、特に上川地方の屯田兵を指導されたとされる第七師団長、北海道庁長官などを歴任した永山武四郎が明治18年に一年間の欧米出張から帰国した際に記した直筆の復命書的なものも目にすることができた。

    
    ※ 台上に展示されてあるのが、永山武四郎の自筆による復命書的な文書です。

 さらには、お雇い外国人の一人で「北海道農業の父」と称されるエドウィンダンの「ダンカルタ」なるものが展示されているのが嬉しかった。というのも、やはり「めだかの学校」で真駒内にある「エドウィンダン記念館」を訪れた際に、説明員の方が「私たちでエドウィンダンのカルタを作ったんですよ」と話されたのだが、その際には実物を見ることができなかったのだが、今回はガラス越しとはいえしっかりと実物を見ることができたが、私たちがイメージするカルタより大判の取り札が印象的だった。

      
      ※ 「ダンカルタ」ですが長辺は20cmくらいある大判のカルタでした。

 また、リード文でも触れたが当時の開拓者たちは、屯田兵はもちろんのこと、全ての人たちが子弟の教育のために積極的に支援を惜しまなかったようだ。展示されてあった「下賜状」なるものは、そうした寄付行為に対して札幌県からの感謝状的のようなものだった。 

    
    ※札幌県から屯田兵の下賜された「下賜状」です。
                      
 というように、屯田兵村跡を訪ねた時には見ることのできなかった貴重な資料を数多く見ることができた。
 できればこれらの資料がいつでも見られるような施設(ex.構想されている?札幌市博物館)に展示されることを望みたいものである。
       
       ※ 屯田兵の制服も展示されていました。

免疫力をアップして、感染症に強い体をつくる!

2024-11-19 15:40:36 | 講演・講義・フォーラム等
 「免疫力をアップするとは?」…、私たちの体は外部からの様々なウィルスや細菌の攻撃を受けているという。それらの攻撃から身を護るためには免疫力のアップが最も有効だという。専門家からお話を聴いた。

 昨日(11月18日)午後、道民カレッジ主催の「ほっかいどう学・かでる講座」の本年度最終講座が開講されたので受講した。今回のテーマは「免疫力アップは、全ての病気を予防する~感染症に強いカラダづくり~」と題して北海道医療大学福祉看護学部の塚本容子教授からお話を伺った。

      
※ 私は存じ上げなかったがコロナ禍の際には道内テレビに頻繁に出演されて、コロナ禍対策をアドバイスされた免疫学の第一人者だということだ。

 塚本教授はまず「免疫とは?」と問うて「免疫とは “非自己” を認識して、排除する防衛機能のことである」と定義し、ウィルスや細菌を “非自己” と認識してヒトの体は防衛しようとするのだが、その防衛力を強化することとは、すなわち “免疫力をアップすることだ” と強調された。
 これまで地球上では何度もコロナのようなパンデミックに見舞われ未曽有の死者を出してきたが(今回のコロナ禍による世界の死者数は約553万人とみられている)、今後10年間の中でコロナのようなパンデミックが起こる確率が38%であると学界の説を塚本教授は紹介した。ということは、我々高齢者にとってもまたあの悪夢のような体験をしないとも限らないのだ。ところが塚本教授によると「高齢者は免疫細胞が作られにくい体になっている」と強調された。つまり我々高齢者はパンデミックの直撃を受ける当事者だということである。
        
     
 それでは免疫細胞が作りやすい体とは?言い換えれば「免疫力をアップするためには?」
次のことに留意すべしとアドバイスをいただいた。それは…、
 ① 適度な活動と休養のバランスを取ること。
 ② からだを温めること。
 ③ ストレスを減らすこと。
 ➃ タンパク質の摂取
 ⑤ 腸内環境を整えること。
の5点に留意すべきだという。
 この5点の中で、適度な活動とは高齢者に多いウォーキングによる有酸素運動も大切だが、脚の “筋力強化” がより大切と強調された。
 また「腸脳相関」という言葉を紹介され、腸が異常なく活発に活動することにより、ストレスを減らすことにも繋がり、腸内環境を整えることの大切さも強調された。
        
    
 その腸内環境を整えるためには、①食物繊維の摂取、②乳酸菌の飲用、③タンパク質の摂取などが大切だということだ。
 例えパンデミックには遭遇しなくとも、免疫力が低下することによって私たちの体はさまざまな障害に遭遇しやすくなるようだ。帰宅後に調べてみると、それは
 ・細菌やウィルスに感染しやすくなる。
 ・口内炎やものもらいがよくできる。
 ・のどが腫れやすい。
 ・病気やケが治りにくくなる。
 ・抗生物質の効き目が悪くなる。
 ・自己免疫疾患が発症しやすくなる。
 ・予防接種の効き目が悪くなる。
 ・活動するのが億劫になる。
 ・疲れやすくなる。だるい。
 ・食欲の低下。
 ・肌が荒れやすい。
いやいやこんなにたくさんの不具合があることが分かった。
 今回の受講を機に「免疫力のアップ」に留意した生活をするようにしたいと強く思った私だった。

高石ともやさんを偲び歌いつくす in 北八劇場

2024-11-18 12:35:06 | 講演・講義・フォーラム等
 フォークシンガーとして一時代を築いた高石ともやさんが逝って4ヵ月、高石ともやさんと人生を共にした人たちが北八劇場に集い、彼の残した歌を歌い、そして偲び、自らの人生を振り返った。私もそんな一人として…。

    

 昨日(11月7日)、高石ともやさんが逝去されてからちょうど4カ月目にあたる日に彼を慕う人たちの手によって「高石ともやさんを偲び歌いつくす in 北八劇場」(当日いただいたプログラムには「ともやさんを偲び語りつくす会」ともなっていたが…)があり、高石さんと多くの出会いを持たせてもらった私も参加させてもらった。
 参加を申し込んだときに、会の実質的に取りまとめた金子国彦さんという方から、私のことを「知っていますよ」という言葉をいただきとても嬉しかった。金子さんは高石ともやさんと深川西高校で知り合い、それ以来交友を続けてきて北海道の高石ともやファンをまとめてきた方なのだ。(今回も全体司会を務められていた)
          
 ※ この日の会を実質的に取り仕切った高石ともやさんの同級生・金子国彦さんです。

 会は4部構成となっていた。
 第1部は、「ナターシャの会」という高石さんと同年代の4人グループ+αの方々の演奏・歌唱によって高石ともやさんが諸外国のカントリーミュージックを日本語に訳して紹介した「107ソングブック」の中から5曲ほどを会場全体で歌った。

     
     ※ 歌の方のリードをしてくれた「ナターシャの会」のメンバーの方々です。

 その途中でサプライズが!なんと、高石ともやさんの長男が来札していて舞台に登場したのだ。高石さんに良く似た50歳代ではと思われる好男子だった。彼はまた第2部で父と歌った歌ということで一曲歌も披露してくれた。

         
         ※ 高石ともやさんのご長男です。(お名前の紹介はなかった?)

 第2部は、現役で音楽活動を続けられている方々のステージだった。一人はバイオリニストの杉田という女性だった。そしてもう一人はフォーオンブラザースと紹介があったが、なんだか一人だけが目立つステージで「趣旨が生かされているのかな?」と疑問に思えたが、途中で北大のブルーグラス研究会の部長の方が演奏された。

    
    ※ ステージ真ん中の方が北大のブルーグラス研究会の部長さんです。
      (会場参加者の中で最年少と紹介されました)

 第3部は北海道が生んだ(?)フォークシンガー & 料理研究家(そり他肩書多数)の河村通夫さんとその仲間のステージだった。河村さんはもはやシンガーというよりは、生き方の伝道師と称した方が相応しいのかもしれません。自作の歌も披露しましたが、高石さんの歌も河村流の歌い方で披露してくれました。彼をサポートしたハーモニカ奏者の独特の奏法が印象に残った。
 そして第4部は参加者の中から自薦した人たちがステージに登場し、それぞれが高石ともやさんを偲び、彼の歌を歌い、会場の方々もそれに和して歌った。私も自ら志願してステージに立った。歌った曲は、高石さんが京都の街の情景を歌った「街」という曲を、私が教員時代に勤務したオホーツク原生花園に近い街に勤務した際に、その街の情景を「街」のメロディーに乗せて子どもたちと歌っていた「街」(小清水バージョン)を披露させてもらった。その歌詞とは、以前にも拙ブログで紹介したが、再掲させていただく。

「街」(小清水バージョン)

1.白鳥の舞 凍てつく海 吹きわたる風の音
  北キツネの親子 白い野原に遊ぶ
 ※ この街が好きさ 君がいるから
   この街が好きさ 君のほほえみあるから

2.ハマナスの花 さざ波の音 草はむ牛の群れ
  青い空広い海 オホーツクの花園
 ※(繰り返す)

3.流れる川 ジャガイモ畑 緑の草原
  斜里岳の稜線 響くトラクターの音
 ※(繰り返す)

 高石ともやさんを偲ぶ会は予定の4時間を大幅に超え、5時間近くとなったが彼の歌を、人柄を慕った人たちにとっては至福の5時間だったに違いない。もちろん私にとっても…。

      
  ※ 最後のおまけの写真です。私が1981(昭和56)年に東藻琴村(現在は大空町)で開催したナターシャセブンコンサートの際に作成したプログラムです。

難聴が認知症の可能性を大きくするって?

2024-11-17 20:27:21 | 講演・講義・フォーラム等
 難聴を放っておくと認知症になる可能性が高くなるという。聴力に不安のある私には放っておけない問題である。不安を覚える私は、「これはぜひ聴かなくては!」と北海道医療大学の公開講座を受講した。

 昨日(11月16日)午後、北海道医療大学の札幌サテライトキャンパスで開催された講座「難聴と認知症のお話~聞こえづらいを放っておかない~」を受講した。講師は、札幌東徳洲会病院の看護副部長である渡邊綾氏が務めた。
 まず、難聴が認知症を引き起こすメカニズムについて二つの代表的な仮説があるということだが、そのうちでも有力とされる「カスケード仮説」について振り返ってみる。
 まず「カスケード」とは「階段状に連続しているもの」という意味があるそうだが、ある一つの事象(ここでは難聴)が要因となって次々と新たな事象を引き起こすということのようだ。下図を参照いただければお分かりと思うが、直接的に連なっている方に注目すると、「難聴」が他者との「コミュニケーション障害」を引き起こし、そのことによって「社会活動が減少」し、やがては「うつやアパシー」を引き起こして「社会的孤立」状態となり「認知機能低下」するという仮説ということだ。この説には私も納得する。

  

 さて、私が加齢による難聴の状態となっているかどうか?それを測る「聞こえチェックリスト」が配布され、チェックをしてみた。そのリストとは…、
 □ 会話中に聞き直す
 □ 後ろから呼びかけられるときざかないことがある
 □ 聞き間違いが多い
 □ 見えない所から車の接近に全くきづかないことがある
 □ 話し声が大きいと言われる
 □ 集会や会議など数人の会話でうまく聞き取れない
 □ 電子レンジの「チン」という音やドアのチャイムの音が聞こえにくい
 □ 相手の言ったことを推測で判断することがある
 □ 騒音の多い場所や大きくうるさい音のする場所で過ごすことが多い
 □ 家族にテレビやラジオの音量が大きいと言われることがよくある
以上10項目をチェックしてみたら、私は5つの項目が該当した。すると該当する項目が5項目以上の場合は「できるだけ早く耳鼻科を受診することをお勧めします」という診断結果となった。う~ん。やはり私の場合は一度専門機関に相談することが必要のようである。
 ブログを通して交流させていただいているブログ名「夢逢人かりそめ草紙」の夢逢人さんがよく「認知症だけは勘弁ねぇ」と呟かれているが、私とて同様である。
 その予防のためにも今回の講座受講を機会に、ぜひ近い機会に耳鼻科医院で診察してもらおうと思う。

札幌学院大コミュニティ・カレッジ 札幌歴史雑学(1)

2024-11-15 09:46:35 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道三代名橋と称されたころの面影もない「豊平橋」の歴史、「本願寺道路」と呼ばれた国道230号線の誕生物語、幻の「札幌急行鉄道」の話、等々札幌の歴史にまつわるお話が次々と紹介され、興味がつきない講座だった。

   

 札幌学院大が新設された新札幌キャンバスを会場に、一般市民を対象としたコミュニティ・カレッジを開催している。私は街歩き研究家の和田哲氏が担当する「誰かに話さずにはいられない、札幌歴史雑学」の受講を申し込み受理された。
 その「誰かに話さずにはいられない、札幌歴史雑学」の第1講が昨日(11月14日)午後開催されたので受講してきた。
 私はこれまで和田氏のお話を何度も聴いている。(確かもう7~8回は聴いている)和田氏は「街歩き研究家」を自称するだけに札幌の街のことについては実に詳しい方である。和田氏は自ら歩いて収集した札幌の歴史について、平易な言葉で分かり易く、そして聴きやすく話をされる方である。だから肩肘張らずに楽しみながらお話を聴くことができ人気のある方である。
 今回は「道路と鉄道の奮闘記」と題して、計8つの歴史的エピソードを紹介してくれた。
 その8つとは…、
 ① 「北海道三代名橋」と呼ばれた「豊平橋」の変遷
 ② 国道230号線開削物語
 ③ 北海道最初の鉄道
 ④ アンパン道路の命名経緯
 ⑤ 札幌市電と名古屋電気鉄道との意外な関係
 ⑥ 定山渓鉄道の推移(幻の「札幌急行鉄道」もこの項で紹介された)
 ⑦ 札幌市の地下鉄開発物語
 ⑧ 北24条にあった札幌飛行場
の8つのテーマ(正式名ではなく、私が趣旨を活かして名付けたものもある)について三百数十枚のパワーポイント資料を使って興味深く講義を展開してくれた。
 その全てをレポートするには膨大な頁を要するので、中から3つに絞ってレポしたい。
 一つは札幌と千歳・苫小牧方面を結ぶ主要道・国道36号線に架かる「豊平橋」についてである。私にはおよそ平凡に見える「豊平橋」が何故「北海道三代名橋」と呼ばれていたのかということだが、それは現在の橋を指しているのではないそうだ。
 「豊平橋」が掛かる「豊平川」は暴れ川として有名で、架けては落橋することをくり返していたという。現在の橋は実に23代目の橋だそうだ。架けては落橋する「豊平橋」はお雇い外国人だった技術者たちが設計しても駄目だったという。
 そうした繰り返しの末、1924(大正13)年に若手技師によって設計されたアーチ橋によってようやく安定した橋となったそうだ。以来、諸事情により1971(昭和46)年建て替えられるまで47年間にわたって札幌市民に愛された橋だったという。そのアーチ橋こそ、旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」と共に「北海道三大名橋」と称されたそうだ。
 他の二つの橋が現在も当時の姿を残しているのに対して、「豊平橋」は残念ながら当時の面影をどこにも見出すことのできないごく普通の橋となってしまったのは多少残念なことでもある。

  
  ※ 21代目のアーチ橋である「豊平橋」の開通式に札幌市民が大勢詰めかけたそうだ。

 二つ目は、「札幌市電と名古屋電気鉄道との意外な関係」についてである。 
 札幌市では札幌市では1918(大正7)年、開道50周年に「北海道博覧会」を開催したが、それを期して路面電車を導入することになった。ところが車両の調達に困窮していたという。その時、名古屋電気鉄道で廃車となった路面電車の車両を快く譲渡してくれ、無事に路面電車を走らせることができたそうだ。
 一方、札幌の市電は1972(昭和47)年の冬季オリンピック開催時に地下鉄が敷設された。それを契機に市電路線が次々と廃線となり、市電の車両が余っていたそうだ。その頃、名古屋市電が車両不足ということを聞いて、今度は札幌市が余った車両を供与して名古屋市の窮状を救ったという。札幌市と名古屋市の意外な関係である。

    
   ※ 札幌市交通資料館に現在も展示されている名古屋市から譲渡された電車です。

 三つ目は、「札幌急行鉄道」のことである。1957(昭和32)年、定山渓鉄道は経営の行き詰まりもあり、東京急行電鉄(東急)傘下の一員になったそうだ。
 時の東急の経営者は五島慶太氏で、五島氏は定山渓鉄道と夕張鉄道線とを結ぶ札幌・江別間を直線で結ぶ「札幌急行鉄道」の建設計画を発表したという。ところが五島氏が逝去したこともあり、経営的には厳しい見通しの「札幌急行鉄道」は陽の目を見なかったという。

   
   ※  五島慶太氏が構想した「札幌急行鉄道」の路線図(赤線)です。

 その他のお話も興味深いお話が次々と披露されたが残念ながら省略したい。次回はまた一週間後に別の角度からのお話を伺うことができるのを楽しみにしている。

多文化社会のアメリカはどうなっていくのか?

2024-11-11 19:22:53 | 講演・講義・フォーラム等
 アメリカ合衆国は世界各地からの移民がつくってきた国家である。したがって、アメリカは植民地時代の初期から多文化社会であった。しかしその現実は複雑である。現在の姿となる過程ではさまざまな軋轢を重ねて今日を迎え、多くの問題を抱えていることもまた事実である。アメリカ社会はどこへ向かっていくのか?研究者からお話を聴いた。

    

 11月9日(土)午後、武蔵女子大学の「武蔵教養セミナー」が開催され参加した。テーマは「分断するアメリカ~多文化主義、ポピュリズム。民主主義~」と題して同大学の専任講師である木下なつき氏が講座を担当した。
 まず私の不明を恥じたのは、アメリカの植民地時代には〈普通の白人の移民〉、〈白人年季奉公人〉、〈黒人奴隷〉と三つの階級が存在したということだ。私が初耳だった〈白人年季奉公人〉とは、本国で貧困にあえいでいた白人が新天地アメリカに契約で雇われ、自由を奪われる形で農場などに奉公し、契約の年季を終えると普通の移民同様に扱われるという制度だったという。(17~19世紀)
 このようにアメリカでは国の成り立ちの時代から、身分に差がある制度が存在していたようだ。そして彼の悪名高き「黒人奴隷制度」である。1861年から1865年まで続いた「南北戦争」により北軍の勝利により黒人への差別は無くなったかに見えたが実態はそうではなかった。(戦争中の1863年にはリンカーン大統領によって「奴隷解放宣言」が発せられたが…)その実態について、ここでは省略する。
 黒人への差別が根強く残るアメリカだったが、経済的には世界を凌駕するような発展を見せ、超大国への道を突き進んだ。
 そうした豊かな国アメリカを目ざしてヨーロッパはもとより、アジア、中南米など世界各国から移民が殺到した。それらの移民に対する差別も存在し、日本から渡米した人たちもその差別に苦悩しながら移民の国アメリカに溶け込んでいった。
 さらに今、中南米からの移民がアメリカでは政治問題化している。
 ここまで表層的にアメリカへの移民、そしてそれらに対する差別化についてざーっと辿ってきたが、公開講座は講師の木下氏が非常なスピードでその内実も含め説明してくれた。それは普通の講座の3倍くらいのスピードではなかったろうか。そのため私はその内容を十分に咀嚼できたとは言いかねる状態だったが、時はアメリカ大統領選挙の結果が判明した直後だった。

    

 当選したトランプ大統領の言動を振り返ってみると、彼の主張は移民を認めず、その上白人優先主義的主張も繰り返していたように思う。アメリカはこれまで多くの矛盾を抱えながらも、少しずつ少しずつ多文化を認め、民族的な対立も解消の方向へ歩みを進めていたと私は理解していた。しかし、トランプ新大統領の主張はその歩みを逆行させる方向に舵をきるかのように聞こえてくる。
 現代はアメリカのみならず、ヨーロッパにおいても、その他の地域においても、自国優先主義の主張がまかり通るような状況になってきたのではないだろうか?
 我が国だって他国を非難できる立場にはない。過去には朝鮮人民を差別したり、現代においても基本的に移民を認めないなど、多くの問題を抱えている。
 人間の “本性” として、他より優位に立ちたいという性を誰もが持ち合わせているのではないだろうか?それを “理性” でもってより理想的な社会を築くために先輩たちは営々と努力を重ねてきたのが現代の姿だと私は理解している。それがもしかして音をたてて崩れ去ろうとしているのだとしたら……。
 講座の内容を詳しくレポすることはできなかったが、講座の受講を終えて前述のようなことが私の頭の中を駆け巡った。
※ 私は残念ながら「武蔵教養セミナー」3講座のうち、都合で本講座のみの受講となった。

道民カレッジ「学びカフェ」帯広第3講

2024-11-08 16:05:55 | 講演・講義・フォーラム等
 帯広での「学びカフェ」は今回が3回目だった。受講生の皆さんと少しは顔馴染みになれたかな?と思われたが、今回が最終回だった。今回は北海道の難読地名について皆さんと学び合った。

         

 昨日、帯広市の「とかちプラザ」において、私にとって3回目となる道民カレッジの「学びカフェ」の講座を担当した。(私にとっては3回目であるが、「学びカフェ」自体は帯広市で5回目の開催だった)
 私は1回目に「図書館に行きましょう!」、2回目は「俳句を創りましょう!」をテーマとして皆さんと学び合ったが、今回は十勝地方に多い「難読地名を読みましょう!」をテーマとした。私が調べたところ、特に十勝地方、釧路地方には難読地名が多いことが分かったからだ。
 最初に、先日訪れた宮城県の片田舎の「小牛田」という駅名を挙げて皆さんに考えていただき、その地名が「こごた」という呼び名であることを伝え、「地名って他の地方に住んでいる方にとってはわりとむずかしいものですね」と話して導入とし、「実は皆さんが住んでいる十勝地方には、他府県の方から見て難しい地名が多いのです」と話をして授業(講座)に入っていった。

    
   ※ 「学びカフェ」は一度に2講座があります。私とペアの講師の方の講座風景です。

 その中でも、私もびっくりした地名があった。それは「白人」という地名である。諸兄はこの地名を何と読むであろうか?
 なんと!この「白人」は「ちろっと」と読むのだそうだ。その由来は、アイヌ語で「鳥が多くいる沼」というのを「チル・オッ・トー」と発音するそうだ。その「チル・オッ・トー」を短く発音すると「ちろっと」となり、それに「白(ちろ)」、「人(っと)」と漢字を当てはめたとされているようだ。
 地元の受講生の皆さんの中に「白人」の呼び名を苦も無く答えてくれた方がいらっしゃった。さすがに地元の方である。
 そのことに私は驚きながらも、ネット上で見つけた「北海道民でも読めないかもしれない難読地名26選」という地名を皆さんに提示し、ワークシートを渡してそこにひらがなを振っていただいた。その26選とは?
 ①厚岸、②留寿都、③積丹、④由仁、⑤喜茂別、⑥美唄、⑦留辺蘂、⑧長万部、⑨花畔、⑩遊楽部、⑪増毛、⑫歌志内、⑬一已、⑭弟子屈、⑮入境学、⑯濃昼、⑰忍路、⑱生振、⑲知方学、⑳胆振、㉑占冠、㉒倶知安、㉓興部、㉔老者舞、㉕重蘭窮、㉖鼈奴
の26である。どうでしょうか?諸兄はいくつ読めただろうか?(答えは最後に提示します)
 こちらの26選は十勝地方の地名だけではなかったので、受講者たちはさすがに苦戦している方もいらっしゃったが、それなりに書かれていた方もいたようだ。学校の授業ではないので結果は問わず、正しい読み方を紹介した。
 そして実は北海道は先住民族であるアイヌの人たちが、アイヌ語で読んでいた地名に漢字を当てたために難解な呼び名の地名が多いことを伝えた。
 ところが!私が「実は十勝地方はアイヌ語で呼ばれていた地名がわりあい多いところなのです」と話し、私が調べた難読地名と思われる地名を市町村別に63もの地名を提示していったところ、なんと!63の全ての地名を誰か彼かが答えてくれたのだ。このことには正直言って驚いた。例えば、「伊忽保」、「茂発谷」、「当縁」などという地名を読めるだろうか?
正解は「いこっぽ」、「もはちゃ」、「とうべり」である。これは地元の人でなければとうてい読むことができないが、反対に地元の人たちは良く知っているなぁ、というのが私の正直な感想だった。
 最後に私は次のようにお話して私の講座を締めた。
「私たち道民にとって難解な地名は、北海道を訪れる他の都府県民にとってはまるでチンプンカンプンということかもしれません。観光客などから地元の地名を尋ねられることがあるかもしれません。そうした方々に案内することができたら楽しいのではないでしょうか?これを機会に地元の地名に精通しませんか?」

    
 ※ スタッフの方が、二つの講座をホワイドボードにグラフィックレコーディングという手法でまとめてくれました。

 なお、先に示した難解26選の地名の呼び方は次のとおりである。
 ①あっけし、②るすつ、③ちゃこたん、④ゆに、⑤きもべつ、⑥びばい、⑦るべしべ、⑧おしゃまんべ、⑨ばんなぐろ、⑩ゆうらっぷ、⑪ましけ、⑫うたしない、⑬いちやん、⑭てしかが、⑮にこまない、⑯ごきびる、⑰おしょろ、⑱おやふる、⑲ちっぽまない、⑳いぶり、㉑しむかっぷ、㉒くつちゃん、㉓おこっぺ、㉔おしゃまっぷ、㉕ちぷらんけうし、㉖べっちゃろ

民話の里・遠野市と賢治のふるさと花巻市を巡る

2024-11-06 17:57:11 | 講演・講義・フォーラム等
 幽玄の郷を思わせる遠野盆地、そして宮沢賢治一色に塗りつぶされたかのような花巻市を巡った。それは文学に疎い私にとって遠い世界でもあったが、異郷に足を踏み入れ私なりに感ずるところもあった。

 11月2日(土)は、JRの「いわてホリデーパス」を利用して、盛岡近郊(でもないかな?)の遠野市と花巻市を訪れた。
 まずは、柳田國男の「遠野物語」で有名になった遠野市を目ざした。盛岡市からは乗り継ぎも含めて約2時間15分かかった。(実際の乗車時間は1時間40分だったのだが)遠野市での滞在時間はわずか2時間である。あいにくの雨のためレンタサイクルが使えなかったので、遠野市内の中心部を徒歩で巡るのが精一杯だった。

    
    ※ JR「遠野駅」です。

 私は観光案内書で入手したマップをもとに、駅前から真っすぐ南に伸びる道路を「遠野市博物館」を目ざした。その道路の沿道には「民話の里遠野」らしく、遠野物語に関連したものだけではなく、世界の民話や童話の主人公の像(ex.桃太郎、雪女、あかずきん、など)があちらこちらに立てられていた。特に記憶に残ったのはやはり遠野駅で最初に登場した「遠野物語」に登場するカッパたち(4人?4匹?)が池の周りで相談している像だった。

    
   ※ 遠野駅前に造られた池には遠野物語に登場するカッパたちが像が立っていました。
    
    ※ この像は「雪女」の像です。
    
    ※ こちらも遠野物語に登場する「獅子踊り」の像です。    
    
    ※ 通りには立像だけでなく、路上にはデザインされた陶板も敷設されていました。写真は「ザシキワラシ」の一場面を具象化したものです。

 「遠野市博物館」では、遠野物語の一節が水木しげるさんの作画で動画化されているフィルムを興味深く拝見した。しかし、滞在時間2時間では遠野の魅力のほんのさわりに触れただけということかもしれない。 

    
    ※ 遠野市博物館のエントランスです。
    
    ※ 博物館内で上映されていた水木しげるさん原画のカッパです。
    
    ※ 博物館内に展示されていた「ザシキワラシ」を具象化した像です。

 そのことより、花巻市から遠野市の向かう列車が東北の山奥深く踏み入っていく時間が私には印象深かった。ちょうど小雨が降っていたこともあり、山々には雲がかかり、その中から鬼やカッパなど人々に言い伝えられている生き物が今にも出てくるのではないか?といった雰囲気を醸し出し、まさに「幽玄の郷」といった趣きだった。

    
  ※ 遠野に向かう列車の中から撮った一枚です。いかにも幽玄の郷に向かう雰囲気です。

 続いて遠野市から折り返し、「宮沢賢治童話村」が近い「新花巻駅」で下車し、徒歩で童話村に向かった。花巻市観光は宮沢賢治一色といった感じで「宮沢賢治童話村」を始め、「宮沢賢治記念館」、「宮沢賢治イーハトーブ館」、「早池峰と賢治の展示館」、「宮沢賢治生家」、「賢治の広場」等々、宮沢賢治関連の施設や史跡に溢れている。その中でも「宮沢賢治童話村」が最も彼の世界を知ることができるのではとチョイスしたのである。さらには童話村の横に「花巻市博物館」が立地していたのも、その理由の一つである。
    
    ※ 宮沢賢治童話村のエントランスとなっていた「銀河ステーション」です。
    
    ※ 賢治作品の「やまなし」の一節を表現した石碑です。
    
    ※ 童話の村の中心施設である「賢治の学校」の外観です。
    
    ※ 「セロ弾きのゴーシュ」の作品を具象化した人形たちです。
    
    ※ こちらは「注文の多い料理店」のはじまりを具象化した作品です。
    
    ※ 「賢治の広場」に建っていた野外ステージです。
    
※童話村の小高いところには5棟の「賢治の教室」が並んでいました。(写真はウェブ上から)

 「宮沢賢治童話村」は新花巻駅から1.3キロ、雨の中を一人歩いて向かった。メインの施設「賢治の学校」を中心に、「銀河ステーション」、「天空の広場」、「賢治の教室」(5棟)、「妖精の小径」、「山野草園」などの施設が散在しているいわば野外公演のような施設だった。メイン施設の「賢治の学校」は、賢治の作品をイメージした内装が各所に施され、賢治ファンにとっては、「あゝ、あの場面だ。この場面はあそこに書かれていたところだ!」感激するのだろうが、賢治作品に疎い私にはファンタージーな空間という感想しかもてなかったのは残念である。いずれにしても、「宮沢賢治童話村」は、宮沢作品を具現化した施設として人気を博している施設のようである。
 続いて私は、隣の「花巻市博物館」を訪れた。こちらは極端なほど宮沢賢治についての展示はなかったようだ。博物館ではちょうど花巻市近辺の縄文時代の発掘展が開催されていたが、私が昨年訪れた北東北の縄文遺跡群と遜色のない出土品が展示されていた。私はそこで窓口の係員に「これほど素晴らしい出土品があるのに、どうして世界遺産に登録された北海道・北東北縄文遺跡群の構成遺産に含まれなかったのでしょうか?」と尋ねたのだが、係員から要領を得た答えを得ることができなかった。そこで私は花巻市が北東北地方とはやや距離が離れていることがその理由かな?と自分を納得させた。

    
               ※ 花巻市博物館の外観です。
    
    ※ 花巻市近くの古墳からも遮光器土偶が発掘されていたようです。

 二つの観光地とも、私が訪れることができたのはほんの僅かな一部に過ぎない。移動手段が列車と徒歩に限られたのでは致し方ないことである。しかし、そのことが訪れた施設や史跡をより深く味わえた(本当かな?)ことも事実であると思い自分を納得させた。

盛岡ウォーク

2024-11-03 08:59:00 | 講演・講義・フォーラム等
 盛岡3日目にして、いよいよ今回の主目的であるJRウォークの盛岡ウォークのスタートを切りました。JRウォークに2年間取り組んできましたが、自分の中ではこのウォークを一応の区切りしようかなとも考えています。
 今日の盛岡は昨日とは打って変わって快晴の空が広がり、キリッとした冷気に包まれ、ウォーキング最適のコンデションです。
 今日はいつもとは違い、ゆっくりと歩き、各所を見学しながら盛岡を満喫しようと思っています。
 ですから、今日も時折途中からブログを発信しますので、時間があったら覗いてみてください。

写真はスタート地点の盛岡駅です。