田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

同窓の友

2010-02-28 17:48:02 | その他

 札幌に住んではいてもなかなか会えない同窓の友。「たまあには会おうよ」と声を掛け合い、某日夜9人が再会を果たし、旧交を温めた。
 
 「○○大で 昭和年代に学んだ 札幌人(びと)の会」と私が勝手に命名し、招待状を送ったのは若き日に交友があり札幌に住んでいる10人だった。その10人とは、札幌市内に就職し退職を迎えた人、退職と同時に札幌に移り住んだ人、とそれぞれだがうち都合の悪かった1人を除いて9人が集まった。

 退職したとはいえ第二の職場から直接駆けつけたネクタイ組と完全リタイアでラフな服装の組とさまざまだったが、皆が健康であることが嬉しかった。
 昔の話に、現在の生活にと話は盛り上がった。
 特に生産的な話をしたわけではないが、こうした集いは一人ひとりの心を癒し、生きる活力を与えてくれる貴重な場だと思う。

 最後に記念の写真を撮り解散した。
 その写真に私は下のような添え書きをして各人に送付した。

        


 楽しい夜でした。嬉しい夜でした。
 それぞれ年輪を重ね、顔の表面には多少の皺が目立ち渋味は加わったものの、誰もがはつらつとして元気に再会できたことをとても嬉しく思いました。
 誰もがはつらつとしていたのは、今の生活が充実している何よりの証でしょう。
 若き日に出会った我々は、一瞬にしてあの日に帰って語り、そして今を語り合いました。
 それぞれに話していただいたコメントにはそれぞれの個性が溢れ、聞いていて心楽しいひと時でした。
 本当に楽しい一夜をありがとうございました。
 またの再会を楽しみに、それぞれの環境で健康に留意しながら、精一杯お励みくださいますよう…。


南の島へ Ⅶ

2010-02-27 21:00:58 | 道外の旅

 ツアーデスクから最終案内書が届き、レンタカーの予約を終え、後は月曜日に登山用品を宅配便で送るだけで準備は整った。しかし…。
 
 ネットで屋久島のことを調べていたときに次のような文章を目にした。
 「旅はあらかじめ計画などしないほうがいい…」という趣旨のものだったと記憶している。
 つまり旅先では思わぬことが起こりがちであり、その事態に柔軟に対応しながら旅を楽しむのがいい、ということであろう。
 私もそうした旅に憧れる。それこそが本当の旅の醍醐味だと思う。
 しかし、そうした旅は長い時間があってこそ可能な旅だとも思う。

 今回の私の旅は実質3日間という短い旅だ。
 そうした旅ではどうしても効率性が求められる。
 今回はそう割り切ろうと思った。
 だから屋久島も、種子島も各スポットを回る順まで一応計画した。
 今回はそうした制約の中でも楽しんできたいと思っている。

 旅にはいろいろな形態がある。
 限られた条件の中でいかに楽しめるか、ということだろう。
 時間の制約から解き放たれたとき、何の計画もない旅に出てみたいものだ…。


市民カレッジ「さっぽろ『食』の事始め」 Ⅲ

2010-02-26 18:59:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
 10月10日は「缶詰の日」と制定されているそうである。その由来は明治10年10月10日に日本初の缶詰工場が石狩市で操業を始めた日に因んでいるとのこと。こうした意外な事実を知ることができるのも市民カレッジの魅力の一つである。

 市民カレッジ今シリーズ4講目は2月23日(火)に行われた。(2月16日の第3講の「札幌発玉ねぎ物語」は札響公演のため欠席してしまった)
 講師は、「いしかり砂丘の風資料館」の学芸員をしている石橋孝夫氏が務められた。
 講座は第1部「サケの文化史」、第2部「缶詰の文化史」と2部構成であった。

 石狩のサケは、石狩川に遡上するサケを捕獲していたことを示す遺跡が発掘され、実に縄文時代からさまざまな仕掛けを施しサケを捕獲し、貴重な食料としていたことが遺跡の発掘によって実証されている。(遺跡の名称は「石狩紅葉山49号遺跡」という名である)
 石狩川で捕獲されるサケの量は、江戸時代で180万匹、明治初期においても100万匹以上が水揚げされたと記録には残っている。

 明治初期の北海道開拓使は、こうしたサケを始めとした北海道の産品を外国へ売り出す手段として、当時製造技術が実用化しつつあった缶詰の製造に目を付けた。
 さまざまな試行錯誤や紆余曲折の末、上記したように明治10年に北海道開拓使は石狩に「開拓使石狩缶詰所」を開設した。
 しかし缶詰の製造技術がしっかりと確立していなかったこともあって、思い描いていたほど生産は上がらなかったようである。それでも、記録によると明治11年には12,000缶のサケ缶、3,200缶の牡蠣缶、9,3001缶の鹿肉缶が生産されたとある。さらに明治14年には72,000缶のサケ缶と7,000缶の酢漬けサケ缶が生産されたという。
 缶詰の値段は当時の米一升の値段の3~5倍したというから庶民には手の出ない高級品だったようだ。

 結局、「石狩缶詰所」は当初の目論見を達せないまま操業から10年後の明治20年北海道開拓使は官営事業を中止し、翌年施設を民間(高橋儀兵衛)に無償貸与した。
 事業を引き継いだ高橋儀兵衛は、操業したり中止したりと繰り返すが、それも明治40年には完全に缶詰製造を中止している。

 欧米の進んだ技術を農業分野を中心に導入を進めた北海道開拓使であったが、こと缶詰の製造に関しては成功とは言いかねる結果であった。
 しかし、今回の「さっぽろ『食』の事始め」を受講し、いずれにおいても北海道開拓使が採用した御雇い外国人が深く関与していたことを知った。
 第1講の「米づくり」に関しては北海道に米づくりは不適であるとの反対の立場をとった者として、第2講の「リンゴ栽培」については苗木を移入する役割を担ったし、欠席した第3講の「玉ねぎ」についても資料を読むかぎりアメリカから御雇い外国人が種子を持ち込んだとある。詳述はできなかったが、缶詰の製造技術の導入についてはあのクラーク博士も関わっていたようである。  

 このように北海道の開拓に彼ら御雇い外国人が果たした役割は大きく、彼らの活躍が北海道の発展の礎を築いたことを改めて知ることができた講座であった。

南の島へ Ⅵ

2010-02-25 23:11:51 | 道外の旅

  旅する醍醐味の一つに“人との出会い”がある。特に一人旅ではその出会い如何が旅全体の印象をも左右する場合がある。今回の旅では果たして出会いは期待できるのか・・・。
 
 旅する楽しさは、風光明媚なところを訪ね歩き、その土地の名物などを味わうだけではない。
 その土地の人々と、そしてまた旅する者同士との出会いが旅そのものをより深く、印象深いものにしてくれる。
 昨年の沖縄離島の旅では、与那国島の歴史を彩った末裔と、あるいは離島の学校の先生たちや子どもと、ライブハウスのシンガーと、そして民宿の同宿者たちとの出会いがあった。
 今回の旅ははたしてどうか?

 そのチャンスは昨年の旅のようにはあまり期待できないかもしれない。
 というのも、泊まるところは4泊とも同じところ、屋久島や種子島はレンタカーを駆って一人で回る計画だから人との接触がかぎられてしまいそうなのだ。積極的に土地の人たちに話しかけてみようとは思っているが・・・。

 一つの期待は「縄文杉」登山である。
 今回の「縄文杉」登山はツアーガイドに案内してもらいながら登ることにした。
 ということは、何人かでパーティーを組んで行動することになるのだろう。どのような人たちと一緒になるかは当日の朝にならなければ分からない。苦しい登山道を共に行動することで言葉も掛け合い、連帯感も生まれるものと期待している。
 そしてもう一つの期待は一人旅であるということだ。
 一人であることが否応なく他に話を求めていくことに繋がるのではないかと思っている。そうした中で思わぬ出会いがあればと願っている。

 “人との出会い”が旅の色を濃くし、“人との出会い”が旅の味を深くする・・・。


「網走監獄」入獄記

2010-02-24 19:35:36 | 道内の旅

 入獄!? そう博物館「網走監獄」に入獄してきたのです! 2月1日に施設の一部がリニューアルオープンしたという「網走監獄」を覗いてきました。

        
        ※ 通称「赤レンガ門」と呼ばれていた網走刑務所正門です。
          パンフには再現構築されたとありました。
 
 網走市呼人の天都山の麓にある野外博物館「網走監獄」がリニューアルオープンしたと聞いていたので、友人にお願いして連れて行ってもらいました。
 リニューアルしたのは、もと「行刑資料館」と呼ばれていた施設です。その名も「監獄歴史館」と呼称を変えてオープンしたようです。

         
         ※ 「監獄歴史館」に至る前にあった通称「動く監獄」と云わ
          れた本拠地から遠くで作業をするときの仮の宿舎を再現し
          た「休泊所」の内部です。丸太製の枕が見えます。
            
 以前と比べ大きく変わったものの一つは「赫い囚徒の森・体感シアター」という映像設備です。網走刑務所開設当時、満足な食料も医療も与えられずに鎖に繋がれながら国道の開削工事に従事した囚人の様子を体感してもらうというものです。
 さらには、護送時の蓑傘を被ってみたり、鎖を足に繋いだり、土石の入ったモッコを担いだり、丸太の枕に寝てみたり、と当時の囚人の体験ができるコーナー。

        
        ※ 鎖を足首に繋いでみる観光客です。鎖の後ろには重い
         鉄球が繋がっています。
        
 そして、ここだけはちょっと趣の違うコーナーとして現在の網走刑務所の独房と食事の内容が再現されていました。独房(個室)は4畳半の広さがありテレビが付き、食事内容もそれなりに充実していて「えーっ!?」というのが私と友人の感想でした。

 私が以前に訪れたのがいつだったのか記憶がはっきりしませんが、5~6年前のような気がします。その時と変わっていたのはその他に、二見ヶ岡農場、旧網走刑務所職員官舎、刑務所水門などが増設されていたことでしょうか。

 一つ、幸運なことがありました。
 博物館「網走監獄」の呼び物の一つである「五翼放射状平屋舎房」の見学したときでした。
 友人が元網走刑務所の刑務官(看守)をされていた説明員を見つけ、舎房の説明をお願いしました。元刑務官の方は懇切丁寧に舎房のことを説明してくれました。
 何せ元刑務官の方にとっては昭和58年までは自分の職場でもあったわけですから、説明にも具体性と迫真性がありました。
 例えば、比較的軽い罪の囚人をいれる房と、重罪の囚人を入れる房とは違った位置にあり、舎房の造りも違いがあります。軽い罪の房は鉄格子だけですが、重罪の房は鉄格子に網が加わっています。これは外から物を投げ込まれることのないように造っているそうです。
 また、房内で暴れた囚人を取り押さえた経験談などは当人でなければ語れない内容でした。

        
        ※ 「五翼放射状平屋舎房」の一翼の舎房内を写したものです。

 「監獄歴史館」に気になった記述の展示がありました。それは、「彼等は暴戻(ぼうれい)の悪徒であって、尋常の工夫では絶えられぬ苦役に充て、これにより斃(たお)れても、監獄費の支出が減るわけで…」という時の内務卿、後に総理大臣になった山県有朋の言葉です。
 「これにより斃れても…」とは、囚人が労役によって死に至ってもかまわない、と受け取れる発言です。
 現在と当時の人権意識には天と地ほどの差があったことを思い知らされた記述でした。


南の島へ Ⅴ

2010-02-23 23:30:43 | 道外の旅

  旅を想うことから「旅は始まっている」と昨年書いたが、今回も私の旅はもう始まっている(と思っている)。
 
 今回の旅はいわゆるスケルトンツアーではないけれど(スケルトンツアーの意味については、2月17日投稿の「南の島へ Ⅱ」を参照下さい)、完全なお任せツアーでもない。
 つまり屋久島までの往復や、宿泊・食事はツアーの中に含まれているが、屋久島での4泊5日の5日間の行動については私自身が予定を立て、行動することになる。
 それ故、私は今あれこれと情報を集め、どのように5日間を過ごそうかと試案を練っている。
 このこと自体がすでに私は「旅の楽しさ」だと思い、「旅は始まっている」と思っているのだ。

 旅する前からあまりに私の旅の計画を公開してしまうと、私自身がそのことに縛られて、旅の楽しさを味わえないのではないかという不安は拭えないのだが・・・。そこはブログを読んでくれている方と一緒に旅する気持ちで、私の旅を一部始終を公開することでみなさんにも紙上で旅を楽しんでもらいたいと思っている。

 さて、5日間の行動の粗い予定は次のようになる。
◇3月4日(木) 札幌から屋久島に移動。屋久島着が夕方で、翌日の「縄文杉」登山の準備が精一杯
◇3月5日(金) 早朝5時頃から行動開始。「縄文杉」登山
◇3月6日(土) 屋久島・種子島間往復。種子島観光
◇3月7日(日) 屋久島観光
◇3月8日(月) 屋久島を朝発ち、鹿児島へ。鹿児島での約6時間を利用してミニ市内観光。鹿児島から札幌へ。

 以上が今回の旅の全体である。
 今回のような短い旅では、6・7・8日の行動についてはさらに細かな計画が必要であろう。
 長い旅だと、あらかじめ細かな計画など立てられないし、立てること自体あまり意味のないことかもしれないが、短い旅ではやはり時間を無駄にしないためにもそれなりに綿密な計画が必要だと思っている。
 


流氷には遭えず・・・

2010-02-22 19:46:59 | 道内の旅

 数年ぶりの流氷との対面を期待していたのだが・・・。オホーツクの海は青海原が広がるばかりだった・・・。 

 所用で土・日と網走へ行ってきた。
 行く前に網走の友人から「オホーツク沿岸に流氷が接岸した」という情報を得、「久しぶり流氷を見ることができる」と喜んだのだが・・・。
 網走に着いて直ぐ出迎えた友人に流氷のことを聞くと「いゃ~、一昨日は確かに接岸したんだけど、翌日には沖に離れちゃったぁ~」ということだった。
 確かにオホーツクの沿岸を車で走っても流氷は影も形もなかった。

 翌日、所用が終わり少し時間があったので、友人が網走市内を案内してくれた。(とは云っても私もかつては一時期網走市民だったことがあり、市内はかつて知ったる我が家の庭的存在なのだが・・・)
 「流氷観光船おーろら」の発着場の場所が以前とは変わったということで案内された。
 「道の駅」に発着場を併設したのか、発着場を「道の駅」にしたのか、ともかく「道の駅 流氷街道」と書かれた建物の中に発着場はあった。
 その建物の展望デッキから見ると、カメラにも写らないほどずーっと遠くの水平線上に流氷を微かに認めることができた。

        
        ※ 写真では認めることが難しいが、遠くに白い線のように
         なって流氷が見える。        
            
 その流氷を「流氷観光船おーろら」で追い求めようとたくさんの観光客が発着場内に列を成していた。

        
      ※ 「流氷観光船おーろら」は2隻が大車輪で活躍していましたが…。

 いつの頃からだろう。こんなに「流氷」が貴重品になってしまったのは・・・。
 かつて冬のオホーツクは当たり前のように流氷で覆われ、白い海原となっていたのに・・・。
 私の子どもの頃だったろうか。網走に遊びに行ったときに、網走港近くで流氷が折り重なりうず高くなっていた光景を想い出す・・・。
 それがいまや薄っぺらな流氷さえ見ることができないオホーツクの海になってしまった・・・。
 冬のオホーツクに青い海原は似合わない・・・。

        
       ※ 港内には帰り忘れたようなはぐれ流氷が浮かんでいました。
 
 代わりにというわけではないが、強風に波立つ「濤沸湖」で越冬しているオオハクチョウの群れをカメラに収めてきた。

        
        ※ 風の強かったこの日、ハクチョウたちはみんな風上に顔
         を向けていました。


南の島へ Ⅳ

2010-02-21 21:33:23 | 道外の旅

  屋久島とともに、隣の島の「種子島」を訪れてみたいと思った・・・。

 屋久島のことを調べていたら、隣の種子島との間が高速船を利用すると50分で結ばれていることが分かった。
 古くは鉄砲伝来の地として、そして現在は日本の宇宙開発を担う地として有名な島をこの機会に訪れてみることにした。

 私の屋久島滞在は4泊だが、実質的に行動できるのは3日間である。
 そのうち「縄文杉」登山に一日、屋久島巡り(一周)に一日を要する。
 残り一日をどのように過ごすか考えたのだが、屋久島で「白谷雲水峡」や「ヤクスギランド」などをトレッキングするという使い方もあるが、「縄文杉」登山で屋久島の自然をある程度は理解できるだろうとの判断から、「種子島」を訪れることにした。

 種子島観光のメインの一つは、日本に鉄砲が伝来したと伝えられる「門倉岬」に立つことである。 門倉岬は種子島の南端に位置するが、1593年ポルトガル人を乗せた中国商船が漂着した岬として知られている。その時、ポルトガル人が持っていた火縄銃が日本に初めて鉄砲をもたらした。
 さらに鉄砲の伝来と時を同じくして伝わった種子鋏を今に伝える「石川本種子鋏製作所」も訪れてみたいと思っている。

 もう一つのメインは「種子島宇宙センター」である。日本の宇宙開発のためのロケット発射台を有する宇宙センター、そしてその横に建つ「宇宙科学技術館」は見落とせないスポットである。

 以上の4ヶ所を押さえれば、あとはガイドブックにある何ヶ所かの観光スポットを回れば種子島を満喫したことになるであろう。
 ガイドブックによると種子島は最近サーフィンのメッカになりつつあるらしい。しかし、私には縁遠い話である。せめて海岸線を走って、サーファー憧れの波でも見てこようか?


麻雀ホール初体験

2010-02-20 05:39:58 | 札幌(圏)探訪
通い慣れた方、あるいは経験済みの方には何でもない光景でも、初めての者にとっては興味津々の麻雀ホールでした。
 
 私が所属する某団体の麻雀大会があり、厚生部担当の私は大会の運営係として初めて麻雀ホールに足を踏み入れました。会場の麻雀ホールはJR札幌駅近くのビルにありました。

        
        ※ 麻雀ホール全体の様子です。この他に個室やVIPルー
         ムなどがあるようです。

 私の興味はあの自動麻雀卓です。
 テレビで見たことはあっても、実物はこれまで見たことがありませんでした。
 まあ、日本の技術力をもってすればあのような仕組みを作ることなどお茶の子さいさいなのでしょうが、実に考えられた機械です。

        
        ※ ボタンを押すと中央部分が割れ、そこへ麻雀牌を落とし
         込みます。

 テレビで見ただけでは分からなかったことを二つ発見しました、というよりは初めて知りました。
 一つは、自動麻雀卓では麻雀牌を2組使用していることが分かりました。つまり、一組がゲームをしている間にもう一組が牌を整えて待機しているのです。これは時間短縮にも繋がります。
 もう一点は、点棒にチップのようなものが内蔵されているのでしょうか? 点棒を所定の箱の中に入れておくとそのプレイヤーの現在の持ち点が表示される仕組みとなっていました。なかなか優れものです。

 私がその店で気がついたのはその2点だけでしたが、他の機械や他の店などではさらに便利な機能が付いた自動麻雀卓があるのかもしれません。

        
        ※ すると、直ぐにこのように次の麻雀牌が揃って現れます。
 
 さて、大会の方は32名の参加で8卓を使用して行われましたが、運営担当はなかなか大変です。
 短時間に成績を記入し、そして素早くプラス・マイナス計算をしなければ間が空いてしまいます。間違いが許されませんから、錆びた頭は結構緊張を強いられました。
 3時間のゲームを終了し、成績順に賞品を贈り、和気あいあいのうちに終了しました。

 私も若い頃は友人たちと麻雀をすることがありましたが、もうずーっと遠ざかっています。
 麻雀人口は減っていると聞いていますが、やはり札幌ですね。調べたところ31もの麻雀ホールが市内にはあるようです。
 大会で使用したホールの料金は、最も安い平日の昼間のコースだと1時間1,000円とのことです。そうすると、4人で4時間遊んでも一人1,000円ですから案外リーズナブルな娯楽のようです。
 事実、近くの卓では中高年の女性4人が仲良く麻雀卓を囲んでいました。
 麻雀を楽しむ若者はあまりいないと聞きますが、はたして麻雀人気の復活はあるのでしょうか?


※ 今日・明日と所用で網走に出かけます。そのため今日は早朝に投稿し、明日は帰宅してから投稿することにします。オホーツク海の流氷が見られるのでは?と楽しみにしています。

南の島へ Ⅲ

2010-02-19 19:50:17 | 道外の旅

 旅する形でエキサイトするのではなく、旅の内容でエキサイトするとは? 私は次のように考えた。 

 旅する目的はさまざまである。しかし、最大公約数的にまとめると旅する目的とは非日常的な空間に自分自身をおくことだろう。
 そしてその非日常的な空間の中で何をするかだが、これも最大公約数的にいうと風光明媚なところや名所旧跡を訪ね歩いたり、その土地ならではの味覚などを味わうことに集約されるだろう。
 昨年の私の「沖縄離島の旅」はまさにこうした旅の典型であった。その旅は、自分で移動の手段や宿を手配し、民宿という初めての宿泊形態に泊まり、日本最南端、最西端を旅するという、いわば旅する形がエキサイティングだったのだが、今年はそれとは少し違うのだ。

 南の島へ Part 2で「旅の内容でエキサイトする」と書いた。
 その旅の内容とは・・・、屋久島を訪れ「縄文杉」登山をすることにしたのだ。
 ガイドブックによっては登山と云わず、トレッキングと称しているところもあるから、そう大げさなものではないと思うのだが、往復の行程がかなり長くきついらしいのだ。往復約8時間にわたって山を登り降りするという。
 60才以上には山小屋での一泊コースが勧められるということだから、自分にとって今がラストチャンス(年齢的には過ぎているのだが)なのでは思ったのが、屋久島を目ざそうとした動機である。

 「縄文杉」とは、屋久島で確認されている屋久杉の中で最大最長寿の杉として有名であるが、樹齢は3,000年以上(2,500年説もあり)、樹高30m、幹周16.1mという巨大な杉だ。屋久島が世界自然遺産に登録されてからは、その象徴的存在となっていて、一度は目にしたいとずっと憧れていたのだ。
 まあ、ミーハー的な興味の域を出ないのだが…。

        
      ※ こうした雪道を毎日通勤していると、南の島が恋しくなってくる…。

 ところで旅する時期についてだが、屋久島は小さな島ながら一つの島に亜熱帯から冷温帯までの植物分布が見られるらしい。だから1~2月だと高いところは雪に見舞われるということだが、冬山登山はご免こうむりたい。3月に入るとその恐れは遠のくとのことで、旅する時期を3月にしたのだ。

 今回の旅は「縄文杉」登山以外の他の日々はありふれた観光になる予定だから、今回の最大・最高のイベントが「縄文杉」登山ということになる。
 情報によると「縄文杉」登山は大人気で相当数が訪れているということだ。
 まあ、私のような者でも行く時代だからそれは当然なことであろうと予想はしている。

 旅程としては屋久島に4泊するのであるが、4泊5日のうちの前後2日は北海道からの移動に取られてしまうので、実質的には3日間の滞在である。
 そのうち1日を「縄文杉」登山、1日を屋久島内観光にあてようと考えている。
 残ったもう1日を・・・、「さてどうしよう?」と考えたのだが・・・。(次回に続く)