アクロス福岡
「アクロス福岡」は福岡のランドマーク的存在である。その近代性、斬新性は建築後18年も経つというのに少しも色褪せていなかった。最も現代的建築物の一つである「アクロス福岡」をレポートしながら今回の「福岡の古を巡る旅」レポートを店仕舞いすることにする。※ なおこのレポートでは一部ウェブ上の写真を借用したことをお断りしておきます。
本当は昨日の「マスターズサッカー」でこのシリーズを閉じようと思っていた。しかし、福岡の古を訪ねることから始まった今回の旅紀行を、最後は福岡が見せてくれた未来志向の一面をレポートすることで閉じたいと思った。
私が巡って歩いた中で、キャナルシティ博多とか、ネクサスワールドなどさまざまな新しい建物や施設が目に入った。その中でも「アクロス福岡」は衝撃的だった。
「アクロス福岡」は福岡の繁華街・天神にある。1995年に福岡県の県庁舎跡に建てられた県施設と民間施設が同居した公民複合施設であるという。天神中央公園を前にして右隣りには福岡市庁舎が建っている。
私が「アクロス福岡」を訪れたのは、福岡都心巡りを終え、夕方近くだった。その「アクロス福岡」に近づいたときに大小の木が林立し、まるで山が聳え立つような姿が目に飛び込んできた。これが「アクロス福岡」の「ステップガーデン」らしかった。ステップガーデンは「山」をコンセプトとした大規模な屋上緑化施設であるという。
まずは写真を見ていただきたい。最初の写真では真新しいビルの感はあるが、特別取り立てるほどのビルとは思われない。
※ 「アクロス福岡」の正面側です。特別に変わった建物ではありせん。
ところがこのビルを角度を変えてみると、写真のとおり壁一面が木々に覆われているのである。しかも、そこはステップガーデンと呼ばれて階段状に木々が植わっており、全体を「アクロス山」とも呼称して、誰もが登ることができるようになっていた。
登ることができると分かると、登らないわけにはいかない。高さ60m、809段のアクロス山を私は登りはじめた。
※ ところが裏側に回ってみると、壁一面に木々が鬱蒼と繁っています。
※ そのステップガーデンをちょっとビルの横から撮ったものです。
※ こんな看板に誘われて私は「アクロス山」登山をしたのでした。
※ 木々の中をよく見てください。階段(登山路)が見えます。
完成してから18年、木々は成長し、今では120種類の木々が4万本も生育しているという。中には10mを越えるのではという大きな木も混じっている。
頂上(最上階)から見た光景は前庭となる天神中央公園の木々たちと繋がり、大きな緑の空間を演出していた。
また、右隣りの福岡市庁舎もよく見るとそれぞれの窓から緑が見えた。
ヒートアイランド現象が言われる今、都会のビル群の中にこうした緑の空間を演出することは人々に絶好の“癒しの空間”を提供する未来志向の施設ではないだろうか。
※ 写真のように階段状に木々が植栽され、その間に階段が設けられていました。
※ 下山路の様子です。まるで木々のトンネルの中に潜り込むようです。
※ 右手に見える福岡市庁舎の窓をよく見てください。何やら緑が見えませんか?
※ 近撮すると一つ一つの窓から緑が伸びていました。アクロス福岡の緑と繋げているようです。
※ 山頂(?)から見た図です。前庭の天神中央公園の緑と繋がっています。
「アクロス福岡」の施設自体はシンフォニーホール、国際会議場、イベントホールや商業施設などが入っているらしいが、私の関心外だったので内部には入らずじまいだった。
福岡の古を巡ってきた私の今回の旅は、最後には近代性、斬新性に溢れた躍進する福岡の未来志向の施設をレポートしてシリーズを閉じることとしたい。
マスターズサッカー
今回私を「福岡の旅」に誘ってくれたのは紛れもなく息子が北九州市で開催された全国マスターズサッカー大会に出場したからである。そのマスターズサッカー大会について触れないわけにはいかない。
※ 大会会場にはこのような大会幕がいたるところに掲げられていました。
試合結果について旅先から報告したとおり残念な結果であった。その要因について素人の私が云々すべきではないだろう。ここではマスターズ大会が、私が考えていた以上にレベルの高い大会だったということをレポートし、息子をヨイショすることにする。
大会会場で何度も耳にしたアナウンスがあった。
それは「マスターズ大会は、スポーツ愛好者の中で競技志向の高いシニア世代のスポーツの祭典です」というアナウンスだ。
つまり、レクリェーション的な大会ではなく、スポーツとして勝敗にこだわる大人たちの大会ということのようだ。何せ元Jリーガーも何人か出場していたと聞いた。
※ マジョーラピアシリが第三試合を戦ったメイン会場の本城陸上競技場です。
大会は韓国から遠征したチームを含めて9地域、全16チームが参加して戦われた。
9地域で16チームとは? 韓国チームと、全国を北海道、東北、関東、北信越、東海、関西、中国、四国、九州、開催地からの代表チーム、これで11チームである。さらに参加チームの多い関東に1枠が与えられている。残り4チームの出場枠がマスターズ大会らしい措置である。毎年各地域持ち回りで「普及枠」という形で4チームが出場できる仕組みになっていて、今年は北海道、関西、中国、四国に割り当てられたということらしい。
※ 試合前の挨拶をするマジョーラピアシリイレブンです。
息子のチーム「マジョーラピアシリ」はこの恩恵を受ける形で、北海道予選大会2位ながら出場権を勝ち得たということだった。
旅先からのレポートでも触れたが、各地域の代表チームは選抜チームが多かったようで、北海道のように単独チームを派遣したのは、北海道を含めて5チームくらいだった。どの地域も「勝つ」ことを優先したチーム構成のように思えた。(北海道はのんびりしているのかな?)
※ こちらは第二試合の試合会場となった鞘ヶ谷陸上競技場です。
大会が本格的であるとの思いを強くしたのが、試合結果の詳細が日本サッカー協会のホームページに掲載されたことだった。シュート数はもちろんのこと、GK、CK、直接FK、間接FK、オフサイドの数が前後半に分けて詳細に記録されていた。さらにはシュートを放った個人名まで記録されていた。それによると、我が息子は3試合で4本のシュートを放ったことになっているが、1得点も決めることができなかったのは残念である。
ただ、息子が自慢のスピードは全国レベルでも十分に通用していたと見たのは親の贔屓目か?
※ 躍動する(?)背番号20です。
「35歳にもなった子どもの応援でもないだろう」と揶揄されそうだが、他のチームにもちらほら親御さんが観戦しているのを目にした。(ホッ)
小学校3年生以来ボールを蹴り続けている彼の試合を観戦したのは高校時代以来だろうか? おっさんになってもまだボールを蹴り続ける彼の姿を今回久しぶりに目にすることができたことは親として僥倖にさえ思う。
彼はきっといくつになってもボールを蹴り続けるのだろう。私もまたそれを望みたい。
福岡の交通事情
今回の旅は福岡県内を激しく移動する旅だった。私は交通費がかなり嵩むだろうと予想した。そこで他にかかる費用はさておいて、交通費だけはメモしようと考えた。私にしては珍しく計画したことをやり遂げた。(というほど誇れるほどのものでもないのだが…)
※ 本日の投稿に関係ない写真だが、九州国立博物館のロビーに展示してあった飾り山笠です。
それではまず、今回の「福岡の旅」で利用した公共交通機関を克明に再現してみたい。
◆9月12日(木)
◇地下鉄(福岡空港 ⇒ 天神) 250円
◇電車(西鉄福岡 ⇔ 太宰府) 1,000円 ※抹茶セット付き
◆9月13日(金)
◇地下鉄(天神 ⇒ 博多駅) 200円
◇JR(博多 ⇒ 門司港) 1,430円
◇関門フェリー(下関 ⇒ 門司港) 390円
◇JR(門司港 ⇒ 戸畑) 360円
◆9月14日(土)
◇バス(戸畑駅 ⇔ 本城運動公園) 800円
◇JR(戸畑 ⇒ 小倉) 240円
◇バス(小倉駅 ⇒ 北九州空港) 600円
◆9月15日(日)
◇バス(北九州空港 ⇒ 小倉駅) 600円
◇JR(小倉 ⇒ 戸畑) 220円
◇バス(戸畑駅 ⇔ 鞘ヶ谷陸上競技場) 500円
◇JR(戸畑 ⇒ 博多) 1,250円
◇地下鉄(博多駅 ⇒ 天神) 200円
◆9月16日(月)
◇地下鉄(一日券) 500円
◇JR(博多 ⇒ 吉塚) 170円
◆9月17日(火)
◇地下鉄・西鉄(天神 ⇔ 香椎宮前) 680円
◇地下鉄(天神 ⇒ 福岡空港) 250円
※ 福岡県&福岡市内の交通の拠点「博多駅」の外観です。
福岡県に入ってから6日間に要した移動の合計は9,640円だった。激しく移動した割には意外に少ないというのが感想である。もっとも、移動手段としては最も安価な移動手段を選択したことにもよるのだが…。それにしても我ながら些細なことをよくメモし続けたと思う…。
意外に費用を要したのがコインロッカー代である。散策をするためにはキャスター付きバッグをゴロゴロと音を立てながら引っ張り歩くわけにはいかない。その時々コインロッカーを使用したのだが、これがバカにならなかった。今回の旅では8回コインロッカーを使用した。すると300×8=2,400円かかったことになる。
※ 北九州空港の人工島(手前)と九州を結ぶ連絡橋です。
福岡市内外の鉄路はJR・西鉄・地下鉄で構成されている。その三者が連携しているのが良かった。
最も良い例が最終日の9月17日に香椎宮に行った時のことである。初め地下鉄で「天神」から終点の「貝塚」まで乗ると、そこから直ぐに西鉄が「貝塚」から先の路線を担い、切符は一枚で間に合う仕組みとなっている。「貝塚」駅構内で切符のチェックはあるものの、西鉄のホームまで200m程度歩いただけで西鉄電車に乗ることができ便利だった。
※ 北九州市の若松地区と戸畑地区を結ぶ「若戸大橋」です。
また、JR九州は列車のデザインが優れていることで有名である。私が利用したのは、快速列車や普通列車のみだったが、それでも北海道の列車とは一味違う洗練されたものを感じた。
一方、西鉄電車の方は古い雰囲気の車両でJR北海道の田舎を走る列車のような感じがしたのだが…。これは社風の違い?
※ 列車内の写真は人が写り込むこともあり、なかなか撮れなかった。唯二の2枚です。
どうです? JR北海道の列車とは一味違うと感じませんか?
いずれにしても多くの交通機関を利用したが、事故なく、計画通りに移動することができたことは何よりだった。
福岡(博多)名物を食す
ラーメン、水炊き、もつ鍋…、福岡(博多)もまたグルメの街である。食にそれほど強い関心のある私ではないが、「博多に来たからには…」的な好奇心から、名物屋台も含めて食べ歩いた。
※ 博多名物の那珂川沿いに立ち並ぶ屋台です。私はここでは食しなかった。
「福岡の旅」を長く綴ってきたが、書こうと思えばテーマはまだまだある。(例えば、ヤフオクドーム、唐人町寺町、キャナルシティ、アクロス福岡、ネクサスワールドなどなど)しかし、いつまでも福岡でもあるまい。そろそろ店仕舞いをしようと思う。
そこで本日から三日間は今回の旅で印象深い事柄について取り上げてレポートすることにした。
※ 福岡空港内の出店している「とんこつラーメン屋台」で食した「昔ラーメン」(660円)です。
先ずラーメンである。福岡(博多)滞在中、私は三度にわたって博多ラーメンを食した。
一度目は、キャナルシティ博多にあるラーメンスタジアム内に出店している「ラーメン二郎」ならぬ「らーめん二男坊 博多王」という店だった。二度目は、ちょっと都心を外れたところにある「元祖 長浜屋」、そして三度目が福岡空港内に出店している「とんこつラーメン屋台」だった。
※ キャナルシティ博多内に出店している「らーめん二男坊 博多王」の店構えです。
※ その「らーめん二男坊 博多王」のスタンダードな「らーめん」(650円)です。
三店共にトンコツ、細麺で濃厚な味の博多ラーメンだった。
印象的だったのはやはり「元祖 長浜屋」である。メニューは「ラーメン」(400円)と「替え玉」(100円)の一種類だけだった。店内には大きなテーブルが4個あり、客はそのテーブルを囲んで食するという形だった。まったく庶民的な店で、衛生的ともいえない店だったが行列ができるほどの人気店だった。味の方は「まあまあ」といったところか。
※ 「元祖 長浜屋」のなんとも庶民的な店構えです。行列ができていました。
※ ご覧のような赤い大きなテーブルを囲んで食します。
※ トッピングはネギと薄切りのチャーシューだけというシンプルさです。
次に「もつ鍋」である。「もつ鍋」と「水炊き」は2~3人以上でなければ受け付けないということで、私のような個人旅行者にはつらい仕組みだった。私は息子と一夜だけ会食できる機会があり、息子の希望で「もつ鍋」を食することになった。
ガイドブックから「もつ鍋 八兵衛」に予約して訪れた。もつ鍋屋のイメージからはほど遠いおしゃれな店だったが、白味噌仕立てのもつ鍋を食した。白味噌を使っていたせいかマイルドな味で美味しかったのだが、食べ進むうちに飽きがきてしまった。残ったスープを使った雑炊も食べずじまいだった。
※ 「もつ鍋 八兵衛」のエントランスです。内部が見えないのが残念です。
※ 白味噌仕立ての「もつ鍋」(一人前1,180円)です。
「水炊き」については前記のような事情で食することができなかったので、帰りの福岡空港でお土産用の「水炊き」を購入し、帰宅してから食してみた。野菜をたっぷり入れたこともあり、ヘルシーでやさしい味に仕上がった。残ったスープで作った雑炊も美味しかった。
※ お土産用の「水炊き」を我が家で調理して食しました。
門司港レトロタウンでは名物の「焼きカレー」を食してみた。
「焼きカレー」というので、グラタンのようにルーの部分を焦がしたものが出てくるのでは、と思っていたのだが想像は覆された。供された「焼きカレー」はあらかじめ鉄鍋の上でご飯とルーがミックスされ、その上にチーズと目玉焼きが載ったものをオーブンで温めたものが出てきた。その上、テーブルに供される時には下から固形燃料で炙りながら出てきた。
味の方はとても濃厚な味だった。初めこそ美味しいと思ったが、これまた食べ進めるうちに飽きが来てしまった。
※ ちょっと写真がボケていますが、鉄なべの下から炎が上がっているのが見えると思います。
さて、博多名物「屋台」には結局一度しか繰り出さなかった。
屋台街は繁華街の天神を中心に広がっているが、私は訪れたところは天神の屋台が集中している一帯だった。店名を「屋台屋ぴょんきち」といって、えらく元気の良い兄さんがやっている店で、全ての椅子が埋まるほど流行っていた。私は「おでん」と「餃子」を頼みビールと共に味わった。
私の左隣は地元の男性、左隣はなんと札幌から旅行で来ていた女性二人。屋台は客同士が親しく話せる雰囲気があり、そこが人気なのかもしれない。
ただ、衛生的にはけっしてほめられたものではなく、あまり何度も行くところではないのかな、と思ったのも事実だった。
※ 私が楽しんだ天神地区に出店していた「屋台屋ぴょんきち」です。
福岡(博多)の名物を食してみて、ラーメンも、もつ鍋も、焼きカレーも、私からすれば濃厚な味だった。通りすがりにちょっと食しただけなので確かなことは言えないが、気温が高くなる暖かな地方では濃厚な味が好まれるのだろうか、思ったのだが…。
博多祇園山笠の「追い山」コースを歩く
博多山笠「追い山」の出発地点の「櫛田神社」から、決勝点の「須崎問屋街」まで約5キロを巡り歩いた。コース上には多くの寺社が存在していた。またいくつかの出会いもあった。
※ 博多山笠の「追い山」のコースマップです。最終日は青い線のコースを駆け抜けます。
9月16日(月)、福岡(博多)観光の目玉ともいえる「博多山笠」の息吹を感じようと、祭りのフィナーレを飾るという「追い山」のコースを実際に歩いてみた。
「追い山」のスタート地点は博多の中でも中心街にあたる川端町中央商店街の近くにある「櫛田神社」である。「櫛田神社」は博多の氏神にして総鎮守という格付けということもあり、面積はけっして広くはないものの華やいだ雰囲気と共に格式ある構えだった。
※ 「櫛田神社」の本殿です。街中の神社ですので規模はそれほどでもありません。
境内にはさまざまな見所があったが、その中でも高さ10メートルを超える「飾り山笠」の展示が目を惹いた。
また、「力石」と称して、相撲の力士たちが力自慢のために担いだ大きな石が展示してあり、その前に参拝客にも試すための石が置いてあった。屈強そうな若者が挑戦していたがぴくりとも動かなかったところを見て、力士たちの怪力ぶりを想像した。
※ 櫛田神社境内に飾られていた「飾り山笠」です。高さ10数メートルあります。
※ 同じく櫛田神社の境内に陳列されていた「力石」です。「白鵬」、「朝青龍」など歴代の力士が担いだ大きな石が…。
さて山笠のコースだが、添付したマップでもお分かりのとおり、博多の繁華街を行きつ戻りつのコースである。
コースの全てを自分の足で歩いてみて気付くことがたくさんあった。
その一つは、コース上には実の多くの寺社が存在している。博多山笠そのものが神事ということから、寺社が多いところをコースとして選定されたのではと想像される。
※ コース上にはたくさんの寺社が次々と…。写真は山笠と縁の深い「承天寺」です。
※ 「承天寺」の境内には「山笠発祥之地」碑がありました。
※ こちらも山笠に縁の深い「東長寺」の総木造りの五重の塔です。
※ 「東長寺」は福岡藩主黒田家の菩提寺として黒田家のお墓がありました。
また、コース上に寺社が多いことと関係があるかもしれないが、コースによってはとっても狭い小路のようなところもたくさんあった。軽自動車同士がすれ違うのが精一杯のような狭さである。流(ながれ)によっては総勢が1,000人を超える流もあるとのこと、おそらくコースは人でいっぱいになってしまうのではないか。また、狭い小路で直角に進路を曲がるところがたくさんあった。かなりの困難が伴うのではと思われた。
※ 山笠はこんな狭い通りも駆け抜けてゆくのです。
※ この曲がり角は、手前から右に折れて駆け抜けます。
次に気付いたことだが、やはり小路に入ったとき頭上の電線が気になった。私はその時点で「飾り山笠」と「舁き山笠(かきやまがさ)」があることを知らず、櫛田神社で見た「飾り山笠」のことしか頭にはなかった。「はて、この電線をどうするんだろう?」と不思議に思った。通りを通っていた女子大生風の女の子に聞いたが、要領を得なかった。
続いて、クリーニング店から出てきた主婦らしい人に聞いた。すると、「飾り山笠」と「舁き山笠」というのがあり、「追い山」に使用されているのは電線の下を走るのに支障がないほど低く造られた山笠を使用していることを説明してくれた。納得(^。^;)
※ ご覧のように低く垂れた電線の下を潜って山笠は駆け抜けます。
出会いでは嬉しい出会いもあった。
ちょうど、追い山決勝点の「追山笠廻り止」へ向かう最後の曲がり角のところに住居がある初老のご婦人と出会ってお話することができた。博多山笠の実際についていろいろお話を伺ったときに、「山笠のときにはぜひ私の家の付近で見られるのが良いですよ。最後の力を振り絞る男の人たちの表情が見られますから」と言ってくれた。そして私が「山笠のときは人出が凄くて、迷惑に思うことはありませんか」と聞いたときに、とても印象的な一言を聞いた。「いいえ、それが私たち博多の人間にとっては誇りですから」…。なんと素晴らしい言葉だろう、と私は婦人の顔を眺めつつ感動していたのだった。
※ コースの曲がり角にはこんなしゃれた名前を付けた店もありました。
※ 「追い山」の決勝点、「追山笠廻り止」の表示です。
「旅の魅力は出会いである」とも言う。しかし、私は歳をとるにつれて旅に出たときに地元の人に話しかけることを避けていることが多くなった。安全志向が働いているのだろう。
しかし、それでは旅の醍醐味の半分を自ら打ち消しているようなものである。今回の経験は引っ込み思案になっている私に「もっと積極的になることで、旅がもっと豊かになるよ」ということを教えてくれた出会いでもあった…。
古の歴史が詰まった大濠公園を歩く
福岡城のお堀だった大濠公園は、福岡城址をはじめとして、大濠池、市立美術館、日本庭園、護国神社、陸上競技場などなど…。そして貴重な遺構と、魅力がいっぱい詰まった公園だった。
※ 「大濠公園」内にある「大濠沼」を二分するようにして架かる「観月橋」です。
「大濠公園」は福岡の中心部「天神」から地下鉄で2駅目であるから、ほとんど都心といってもよいが、比較的閑静なところにあった。
地下鉄駅の直ぐ横が公園であり、公園に入ると直ぐに大きな水面が目に飛び込んできた。「大濠沼」である。
※ 大濠公園に入りまず目に飛び込んできたのが池の周囲を走るジョガーたちの姿でした。
公園に入って気付いたのは、大濠沼の周囲を走るジョガーの姿がとても目立ったことだった。さすがに福岡国際マラソンのスタート&ゴールである「平和台陸上競技場」が公園内にあるだけにランニングを趣味とする市民にとってはメッカ的存在なのかもしれない。
ジョギングをしている人に聞いた。「一周何キロですか?」と、すると「一周ちょうど2キロです」と言いながらジョッガー用に塗り分けられた走路を颯爽と走り去っていった。
沼にはいつくかの島が並んでいて、その島同士を橋で繋ぎ池を縦断できるようになっている。そこを縦断するようにモデルコースもなっていたので、私も縦断することにした。
公園内では沼にボートを漕ぎだす人、沼で釣りをする人、ベンチに佇む人、それぞれがそれぞれに憩っていた。
※ 「観月橋」の上から見た「大濠沼」の光景です。
※ どこか昔の風情を残す「大濠沼」のほとりの様子です。
「大濠沼」を後にし、公園内を巡って歩いた。
まずは「大濠公園日本庭園」、「福岡市美術館」と続く。二つの施設ともパスして、森に囲まれた静謐な空間「護国神社」へと進む。まったく人は訪れておらず、静まり返った空間に戦争の犠牲者たちは眠っていた。
※ 大濠沼の横に広がる「大濠公園日本庭園」に入口を入ったところの光景です。
※ その日本庭園の横に建つ「福岡市美術館」のエントランスです。
※ 広々とした境内の奥に「護国神社」の本殿が建っていました。
続いて「福岡城跡」へと進む。福岡城についてはあまり期待していなかったこともありほとんど下調べもしないまま訪れたのだが、意外に興味深いものとなった。
この城跡はマップ上ではそれほど広くはないのだが、他の城や城跡と違い、それほど整備されていないためだろうか、思いのほか広く感じられた。
城跡は石垣がほとんどで、城として保存されていたのは「多門櫓・二の丸北隅櫓」くらいだった。と思ったのだが、帰宅してからよく調べてみると、その他にも保存されたり、復元されたりしている建物があるようだ。
※ 福岡城の城壁は雑草に浸蝕されているようにも見えたのですが…。
※ 福岡城に唯一(?)現存する「多門櫓」です。
※ その多門櫓に続いて建つ「二の丸北隅櫓」です。
福岡城の「天守台」跡の展望台からは福岡市内が一望できました。左手には大濠公園の水面がかすかに見えます。
私が大濠公園を訪れた最も大きな理由は「平和台陸上競技場」を訪れることだった。毎年12月世界の精鋭が集まり覇を競い合う「福岡国際マラソン大会」が行われる舞台である。どんなところだろう!?期待しながら近づいて行ったのだが、意外や意外…。
なんと想像していたのとは大違い!! 少し古ぼけた質素な競技場のたたずまいだった。
トラックやフィールドこそ一種公認の競技場だから整備されていたが、スタンドを見るとメインスタンド側の一部がスタンド席になっている以外は全て芝生席だった。その芝生もかなり伸びていて、整備が行き届いていないようだ。「えーっ?これがあの平和台の陸上競技場なの??」私は少々ガッカリした思いで競技場を眺めていた…。
※ 憧れの「平和台陸上競技場」はどこにでもあるごく普通のちょっとさびれた競技場でした…。
続いて、近くに存在していた旧西鉄ライオンズの本拠地「平和台球場跡」に行ってみた。
そこはすでに「鴻艪館埋蔵調査地区」と名称が改められていた。「鴻艪館」とは、それこそ古の頃、平安時代に大陸からの賓客をもてなす迎賓館だったという。
ということは、「平和台球場」はその「鴻艪館」の跡地に建設されていたらしい。そのことを、その調査地区の横に建つ「鴻艪館跡展示館」の窓口の方に聞いたところ「そのとおり」ということだった。
※ 平和台球場跡地の横に建つ「鴻艪館跡展示館」の建物です。
私が少年の頃、稲尾投手が投げるライオンズと、その稲尾投手に対峙する長嶋・王のジャイヤンツが平和台球場を舞台に日本選手権を争う試合をラジオから流れるアナウンサーの声に一喜一憂していた頃を思い出していたのだが、その球場がまさか平安時代の外国との交流の舞台だったとは…。
※ 多くの野球ファンが一喜一憂した「平和台球場」跡地は草むらと化していました。
大濠公園には古代から現代まで、多くの歴史が詰まった魅力ある公園だった
※ 写真のキャプションは今夜帰宅後に入れることにします。
城と近代的ビルが同居する北九州の中心地 小倉を歩く
天守閣が現存する小倉城の城下町として発展した北九州市の中心地小倉地区。そこには想像していたよりはるかに発展した街が広がっていた。小倉は歴史的建物と未来的建物、賑わいと落ち着きが同居する魅力的な街だった。
※ 小倉の象徴「小倉城」が最も美しく見えるお堀からの一枚です。
福岡の旅3日目の9月14日(土)は午前中に八幡西区の本城運動公園でサッカー試合を観戦の後、バスと列車で「小倉」に移動した。
小倉駅に降り立ったとき、まず駅前の様子に驚いた。小倉は想像していたより遥かに大都市の様相を呈していた。駅前にはビルが林立し、駅とそれらのビルを繋ぎ二層構造に立体化されていた。その上、頭上にはモノレールが走っていた。そして、そこにはたくさんの人たちが行き交っていた。
※ 小倉駅前は写真のように立体化された街になっていました。
小倉駅から500mも行くか行かないところに小倉が誇る近代的複合施設「北九州リバーウォーク」がある。この施設には各種の商業施設が入居しているのはもちろんだが、その他にNHK北九州放送局、朝日新聞、北九州芸術劇場、北九州市立美術館分館、西日本工業大学、などなど多くの都市の機能が集中している複合施設だった。
私自身はここを見物して時間を取られるわけにはいかなかったのでスルーするだけだった。
※ 近代的ビル群の「北九州リバーウォーク」です。手前の円い建物がNH、その横が朝日新聞社、奥の黄色いビルが本体です。
そのリバーウォークの横に接するように目的の「小倉城」の天守閣が屹立していた。
「小倉城」は1602年に細川忠興によって築かれた城である。城のほとんどは焼失してしまったそうだが、天守閣のみが1959(昭和34)年に再建されたそうだ。
その天守閣は4重5階となっているが、5階部分の屋根が下層階より張り出している唐(南蛮)造りになっているところが特徴だそうだ。内部は当時城内に飾られていたであろう「迎え虎」や「送り虎」が掲示されていたり、城下のジオラマがあったり、からくりシアターがあったりと、興味深く見学できるようになっていた。
※ 城を取り囲むように掘られたお堀です。石垣も見事です。
※ お堀越しに望む「小倉城」です。
※ 明治時代に城内に旧日本陸軍第十二師団の司令部があったことを示す大砲だそうです。
※ 天守閣内に入ると「迎え虎」が迎えてくれました。帰りには「送り虎」が…。
※ 小倉城下の庶民の様子をジオラマ化し、往時の様子を映像ととも紹介していました。
※ 天守閣から見た、小倉藩主小笠原氏の下屋敷跡に建つ書院造りの建物と日本庭園です。
旅する中でも一度触れたが、昔から開けていた本州以南の都市の場合、都市の中心に城や城址が位置している場合が多い。そして、そこが地域の歴史を伝える場になっていたり、市民の憩いの場になっていたりする場合が多い。そうした街の核となるものがない北海道に住む私にはいつも羨ましく思うことがらの一つである。
「小倉城」を後にして、小倉の街にある「旦過市場」や「森鴎外旧居」、などを巡って歩いた。巡り歩く中、映画などで有名になった「無法松の一生」で知られる「無法松の碑」を街角で見つけたりした。
小倉市街を巡って歩く中で、「飲食店が多いなぁ」という印象を抱いたのだが、たまたま歩いたコースがそうだったのかもしれない。
北九州市 小倉地区…、古さと新しさが同居する魅力的な街だった。
※ 「旦過市場」の様子です。九州ではこうした市場がまだまだ健在のようです。福岡にもありました。
※ ちょっとした街角にあった「無法松の碑」です。
※ 細い路地の奥にあった文豪「森鴎外旧居」です。
※ ブログに掲載する写真についてだが、文章の稚拙さを補ううえで欠かせない存在である。しかし、だからといって撮った写真を何でもかんでも掲載するのも考えものである。私は多くても一日の投稿には10~15枚程度に止めようと思っている。今回の小倉の場合はみどころも多く数えてみたら54枚の写真を撮っていた。その中から厳選(?)して12枚を掲載した。この選定がけっこう厄介なのだ。文章を邪魔せず、文章を補完してくれる写真を探す作業に結構な時間を要しているのが実態である。
幾多の歴史の舞台となった関門海峡(下関側)を往く 後編
下関には壇ノ浦古戦場跡や幕末の外国船籍との戦いの場跡だけではなかった。まだまだ数多くの史跡が目白押しだった。その全てを廻ることはできなかったが、興味深い下関散策だった。
※ まるで竜宮城のようにも見える「赤間神宮」の「水天門」です。
9月13日(金)、関門トンネルを(人道)を渡り、壇ノ浦古戦場跡、奇兵隊屯所跡などを訪れた後、さらに西に向かった。
すると、直ぐ近くに大きな社の森が目に入ってきた。「赤間神宮」である。赤間神宮は壇ノ浦合戦で平家側に付いた安徳天皇がわずか8歳で入水したと伝えられる天皇を祀った神社である。
その赤間神宮の入口にあたる「水天門」はまるで竜宮城のような形をしていて、朱色と白色に塗り分けられたところが鮮やかだった。
本殿をはじめ内部も鮮やかで、特に本殿前の池の緑色が鮮やかだった。色遣いを相当に意識した神殿造りがなされたものと想像される。
※ こちらは「赤間神宮」の拝殿です。
※ 「赤間神宮」の本殿前の沼は鮮やかな緑色をしていて、本殿の朱色との対比が鮮やかでした。
赤間神宮の敷地の直ぐ隣に「日清講和記念館」がある。
1895(明治28)年3月、日清戦争の講和会議がこの地で開催されたが、それを記念して建てられた施設ということだが、内部には会議が行われた部屋が再現されていた。テーブルや椅子がそのまま再現されているのを目にして、当時の国を背負って対峙した代表の人たち(伊藤博文や陸奥宗光ら)の緊張した息遣いが聞こえてくる思いだった。
※ 日清講和会議を記念する「日清講和記念館」です。
※ 「日清講和記念館」内に復元された講和会議時のテーブルと椅子です。
さらに西へ少し移動し、国道から少し奥まったところに「本陣 伊藤邸跡」があった。伊藤邸は坂本龍馬と妻のお龍が慶応3(1867)年2月から2ヶ月近く過ごしたところとして知られている。坂本龍馬が妻お龍とこれほど長く一ヵ所に滞在したことはないという。坂本龍馬はこの年の11月暗殺されているから二人にとってはここ伊藤邸での2ヶ月は思い出多い投宿先だったのではないだろうか。
※ 坂本龍馬とお龍が2か月間投宿した伊藤邸跡です。
※ その邸宅跡には写真のような表示が残っていました。
さらに西に進むとちょっと丘を上がったところに「亀山八幡宮」がある。
この神社も由緒ある神社なのだが、私の目的は日本一といわれる「ふくの像」を見ることだった。フグの街として有名な下関らしい石像であるが、見る角度によってユーモラスな表情が可愛かった。
※ 「亀山八幡宮」の外観です。
※ 「亀山八幡宮」の境内に設置されている日本一といわれる「ふくの像」です。
※ その「ふくの像」を別の角度から写してみました。
下関の歴史的な見どころはまだまだある。例えば、明治維新の志士たちの資料を展示する「幕末維新村展示館」、奇兵隊の本拠地となった「東光寺」、日清講和会議の清国全権大使・李鴻章の宿泊所となった「引接寺」などなど…。
しかし、私は時間の関係もありフェリーで門司側に帰らねばならなかった。
フェリーが出港する「唐戸桟橋」から小さなフェリーでおよそ5分、あっという間に門司側に渡り、9月13日「福岡の旅」2日目を終えた。
※ わずか5分、フェリーは下関側からアッという間に門司側に運んでくれました。
幾多の歴史の舞台となった関門海峡(下関側)を往く 前編
源平合戦の地、武蔵と小次郎の決戦の地、そして幕末の長州と英仏軍などが戦火を交えた地、としてつとに有名な関門海峡を下関側から眺め、散策した。
※ 下関側から見た関門橋です。みもふさ川公園から写しました。
※ 原稿を書こうと写真を整理したところ、外せない写真が思いのほか多いことが分かった。そこで下関編は前・後編に分けてレポートすることとした。
※ ちょっと歴史を感じさせる関門トンネル(人道)の門司側入口です。(下関側にも同じものが)
9月13日(金)、門司港レトロタウンの散策を終えた私は関門トンネルを(人道)を越え、下関側に渡った。
資料によると人道は地下約60mに造られている。長さは全長780mということでおよそ15分もあれば通過してしまう。意外だったのは、この人道トンネルが近隣の人たちにはジョギングやウォーキングコースとして利用されていたことだ。熱心に汗をかく人に何人も出会った。
※ 地下50m入口からエレベーターで降りたところのホールです。
※ 関門トンネル(人道)の門司側スタート地点です。
歩いていると車が走る音が聞こえてくる。考えてみれば、トンネルは車道と人道の二層構造となっており、上を車が入っていることに気付いた。トンネルは国道2号線だったのだ。
トンネルは1958(昭和33)年の完成というから、すでに完成して半世紀以上が経過しているのでけっして新しくは感じられないが、メインテナンスはしっかり行われているように思われた。
※ 海底下の福岡県・山口県の県境です。ここがトンネルの最深部でもあります。
※ ゴール地点(どちらにも)にはこのような記念写真用のボードがありました。
下関側のトンネル出口を出ると、そこはもう源平合戦の壇ノ浦古戦場の跡であり、幕末には長州藩が外国船籍の船を砲撃した地でもある「みもふさ川公園」だった。
公園には長州藩が関門海峡を通過する外国船籍の船に向かって砲撃した大砲のレプリカが展示されていた。
この戦闘の経緯や結末については他に譲るとして、長州藩としてはけっして戦果を挙げた戦い(どころか屈辱の戦いではなかったか?)ではなかったとしても、この戦闘が薩長土肥による明治維新のキッカケになったということからそのレプリカで展示されているということなのだろう。
※ 関門海峡を睨むように砲列を敷くレプリカ砲です。
その大砲のレプリカの前に、なにやら昔風の装束に身を包んだ方が見えた。近づくと、「歴史体感紙芝居 壇ノ浦合戦絵巻」と書かれた紙芝居が用意されている。伺うと「いつでも始めます」と言うことだったので、早速お願いした。
私が札幌から来たと知ると、「東の方は源氏が好みのようですが、下関では平家好きですので、平家側から見た壇ノ浦合戦です」と断りを入れて始められたが、鉦や太鼓を駆使した一人芝居はなかなか堂に入っていた。聞くと「NPO法人 青少年共育活動協会」の方がボランティアで毎日やっておられるとのことだった。観光地というと全てに入場料、見学料といったものが付いて廻るが、この紙芝居は無料で公開していた。下関にとっては観光客からの好感度がぐーんと上がる素晴らしい活動である。
※ 歴史体感過去芝居を演じた青少年共育活動協会のボランティアの方です。
紙芝居が行われていた直ぐ傍には、碇を背中に担ぎ入水する平友盛と八艘飛び姿の源義経の像が旧跡壇ノ浦を向いて立てられていた。
※ 下関は平家好みとのこと、平友盛の方にスポットを当てて敬意を表しました。(?)
みもすそ川公園を後に、関門海峡沿いを西へ移動する。
すると間もなく、道路沿いに立派なお寺が目に入る。「浄土真宗 極楽寺」である。このお寺を取り上げたのは、外国船籍との抗争が緊迫化する1963年、高杉晋作などが組織した「奇兵隊」が外国船隊の防備のためにこのお寺に屯所をおいたという史跡をお寺に境内で見つけたからである。
※ 極楽寺の本殿です。
※ このような「史跡 奇兵隊屯所」という史蹟を見つけました。
僅かな滞在時間であったが、下関は歴史的にはなかなか興味深い街である。一編だけでは収まりきらず、明日続編をレポートすることにする。
懐かしい建物が並ぶ 門司港レトロタウン
どうしてこんなに懐かしい建築物が残ったの?と思われるくらいレトロな建物が立ち並ぶ門司港界隈を散策した。古(いにしえ)とまでは云えないけれど、懐かしさを感ずるレトロタウンを巡り歩いた。
福岡の旅2日目の9月13日(金)、JRで博多駅から門司港駅に移動した。
この日私は次のような順に散策することを計画し、そのとおりに歩いた。その散策順は、
◇九州鉄道記念館⇒◇旧門司三井倶楽部⇒◇旧大阪商船⇒◇旧門司税関⇒◇国際友好図書館⇒門司レトロ展望室、の順だった。
ともかくその建物の写真を見てもらいましょう。
※ 「九州鉄道記念館」の屋内展示室となっているレンガの建物です。
※ 野外展示場には九州を走った特急「にちりん」など、歴代の列車やSLが展示されていました。
※ 旧三井門司倶楽部の建物です。(レストランと博物館的用途)
※ 旧大阪商船の建物です。(カフェとギャラリーと博物館的用途)
※ 旧門司税関です。(展示場と博物館的用途)
※ 国際友好図書館(こちらは現役の市立図書館分館として使用されています)
※ 写真は国際友好図書館の3階で、近隣諸国の原書の図書が書架に並べられていました。
どうでしょうか? 実際に自分の目で見てみたい衝動に駆られませんか?
いったい何故に門司港にこうしたいわゆるハイカラな建物が集中して残されているのだろうか。
これらの建物は明治後期から大正年代にほとんどの建物が建てられている。
しっかりと調べると良いのだが、ここでは素人の私が勝手に考えたことを記してお茶を濁すことにする。
全国的に見て門司港のようにエキゾチックな建物が多く見られるところというと、函館、横浜、神戸などが思い浮かぶ。門司も含めて全て港町であることが共通している。
ということは、全国の港町は早い時期から外国との交易によって開かれた街であったために諸外国からの影響を受けやすかったと考えられる。よって門司港にもエキゾチックな建物が次々と建てられたが、それが壊されずに残っていたものを上手く観光資源として転用されたのが現在の姿ではないだろうか?
門司港内に架かる人道の跳ね橋です。1日に6回跳ね上がるらしいですが運よく跳ね橋が上がるところに出合いました。
これらの施設を回っていて気付くことがあった。全ての施設ではなかったが、ほとんどの施設の窓口や案内の人たちの制服が同じだったことだ。聞いてみると、施設の管理・運営を市から委託されて一括して某民間会社が担っているとのことだった。
門司港レトロタウン散策の最後に「門司レトロ展望室」に上った。地上103mからのレトロタウン、関門海峡を一望できるとの触れ込みだった。
謳い文句どおり門司港レトロタウンはもとより、関門海峡、対岸の下関市が一望できる素晴らしい眺めだった。この展望室の案内嬢(某民間会社の職員)もGOODだった。
※ 黒川起章氏設計のマンションの31階部分を展望室としたそうです。
※ 展望室からパノラマ写真を試みましたが、残念ながらちょっと失敗作です。門司側を写しました。
※ 同じく展望室から対岸の下関側を写しました。面白いことに下関側にも展望タワーが左の方に見えます。
※ 門司側から関門橋を写した写真です。この橋は高速道用の橋です。(国道は海底を通っています)