田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

古の道を往く旅を振り返る 終章

2016-04-13 18:25:47 | ロングトレイルフットパス
今回の旅は、ただ自分の記憶に刻みこまれただけではなく、自らの肉体にも強烈な思い出を刻みこんだ「熊野古道トレッキング」だった。これまでも印象的な旅を経験してきた私であるが、それに優るとも劣らない今回の旅だった。そのような旅を今一度振り返ってみたい。 

 今回の旅でこれまで触れてこなかったことで、印象的なことが一つある。
 それは熊野古道沿いの住民たちが、旅人に対して非常にフレンドリーであったということだ。
 道ですれ違った人の誰もが、先方から「コンニチハ!ご苦労さま」と声をかけてくれたのだ。それに気づいた私は、今度は私から積極的にあいさつをするようにしたのだが、誰一人無視するような人はなく、誰もが気持ちの良いあいさつを返してくれた。
 東京オリンピック招致の際に日本人の「お・も・て・な・し」が話題になったが、まさに私はこの地域の方々から、心のこもった「おもてなし」をいただいた気持になった。
 このような体験は沖縄の先島諸島を旅していたときに、地元の中学生から受けた挨拶以来だった。私にとって、沖縄の波照間島が忘れられないように、熊野古道も忘れられないところとして、私の中の記憶に長く残ることだろう。

 私はいつも「旅のスタイル」にこだわって旅してきた。
 私の旅は、全てを自分でプロデュースするところにある。いわゆる旅行社というところには一切お世話にならない旅なのだ。
 そのことをくだんの岡崎市のお二人と話をしたのだが、T氏は「計画の段階から旅を楽しんでいるんですね」とズバリ私の思いを言い当ててくれた。
 そうすることで、旅の印象が一段と色濃く私の中に沈殿し、残っていくことを私は知ってしまったのだ。
 さすがに妻と旅行するときは、そうはいかないのでツアーなど準備されたものを利用するのだが、そうするとその印象はまるで陽炎のように淡くしか残らないことに私は気付いてしまったのだ。
 これからも私の一人旅は、自らプロデュースする旅を選択していくことだろう。

 リード文にも記したが、今回の旅は、自らの肉体を駆使した旅という点でも印象深かった。そうした旅の体験を思い出すと、2010年の屋久島・縄文杉トレッキング、2011年の木曽路11宿トレッキング、昨年の北根室ランチウェイトレッキングなどがそれにあたるだろう。
 それらに比べ、今回の熊野古道トレッキングは最も身体に負荷のかかるトレッキングだった。それはもちろん加齢による影響も大きいのだが…。
 正直なことを吐露すると、帰宅してから疲れがどっとでたようだ。帰宅して一週間くらい、疲労感に包まれていた。
 このような旅のスタイルの魅力を再発見した今、私はまたいつかこのような旅を、と妄想するのだが、はたして身体がついていけるかどうか、そんなことが心配な年齢となってきた。
 まだまだ今回のような旅のスタイルにこだわりたいのだが…。

 旅の思い出になる品を購入することは頑としてしない主義の私である。
 しかし、今回はその掟を破り、「八咫烏」のお守りが旅の記念として私の手に残った。

                  

古の道を往く旅を振り返る 7

2016-04-12 16:59:23 | ロングトレイルフットパス
出会いが旅を豊かにする

 ライブレポ19で「旅の醍醐味は出会いである」と記したが、今回の旅でも思わぬ出会いを経験することができた。そうした出会いの中から三つのエピソードをレポすることにする。(このテーマでの写真は撮っていない。そこで直接関係はないが、今まで掲載できなかった旅の写真を挿入することにしたい) 

            
            ※ 今回の旅では「桜」ばかりを話題にしてきたが、所々に「梅」の花も愛でることができた。

 一つは「ライブレポ19」でもレポした新宮市の小口集落の食料品店での女主人と客の男性との出会いだった。
 店の前で缶ビールを片手に所在無げの男性が佇んでいた。地元の人だと見た私は、翌日の「大雲取越」の登り口のことなどに問い掛けた。そこから話が弾み、私が「北海道から来た」というと、男性は女主人に「北海道から来たんだって」と話したところ、女主人も興味を抱き、私が購入したビールを「ここで飲んでいけ」と椅子を勧めてくれた。
 まさか、店先で購入したアルコールを口にするなど、体験したことがなかったが、「これは地元の人と話ができるチャンス!」と思い、勧めに従った。

            
            ※ 田辺駅前に立っていた弁慶像である。弁慶はこの地方の出身という伝説があるようだ。

 店がある小口集落は谷間にある小さな集落だが、お話によると昔(江戸時代?)はもっと栄えていたということだった。熊野本宮大社詣での人たちにとっての中継地と栄えたのだろう。また、熊野の山中に住むイノシシやツキノワグマなどの生態についても話を聞いた。
 店の一隅を見ると、一枚の賞状が掲示されており、それを見ると店の名が「南方商店」とあった。私は「あの南方熊楠と関係があるのか」と問うと、遠戚筋とのことだった。そして女主人は、いかに南方熊楠が立派な人だったかを滔々と語ったのだった。

            
          ※ 熊野古道沿いには、古道を歩く人を慰めようとしてだろうか、このようにデコレーションしてある所があった。


 二つ目の出会いは、愛知県岡崎市から来た二人のトレッカーだった。彼らの一人と小口自然の家のお風呂で出会った。二人きりの風呂だったので、話しかけるとけっして能弁ではなかったが、リタイア後に山登りを主としてあちこちに出かけていると語った。
 夕食時には、相方も含めて話が弾み、彼らがこの日歩いた「大雲取越」がけっこう困難なルートだった話し、互いの翌日の健闘を誓ったのだった。

                    
                   ※ 熊野那智大社の境内に立っていた伝説の鳥「八咫烏」の像です。

 私は「大雲取越」を越えて「熊野那智大社」へ、彼らは反対に「小雲取越」を越えて「熊野本宮大社」へ向かった。
 私は「熊野那智大社」に到着後、バスで新宮市に向かったのだが、那智町というところで乗り換える必要があった。その時である!
 思いもしなかった彼らと再会したのである!
 経緯はこうだった。彼らは岡崎市からマイカーで那智町で来て、そこから「熊野那智大社」に向かい、「大雲取越」、「小雲取越」を歩き、「熊野本宮大社」まで到達した後、バスで那智町まで折り返したところで、私と再会することになったのである。
 オーバーにいえば奇跡の再会である。車のオーナーT氏は、私が隣町の新宮市まで行くことを知ると「これは奇遇だから、ぜひ乗っていけ」と同乗を勧めてくれた。
 私は遠慮なく同乗させてもらい、奇遇に因縁を感じ、名刺を渡した。そのことでT氏はその後拙ブログにコメントをくれたり、メルアドを交換したりと、今後のお付き合いを約束したのだった。

            
            ※ 那智の大滝を遠くに望み、この時期ならではの満開の桜を前景とした滝の様子も素晴らしかった。


 三つ目は、新宮市から伊勢市に向かう列車(特急南紀4号)の中だった。私が乗った新宮市の次の停車駅の熊野市から乗った男性が私の隣りの席に座った。
 男性は熱心に新聞を読んでいた。私は鉄路のトンネルの多さに内心驚いていた。鉄路は海岸線を走っているというのに、トンネルの連続でトンネル以外の区間がほとんどないような路線だった。
 あまりにも多いトンネルに私は思わず隣の男性に「地元の方ですか?」と問いかけると「そうだ」という答えだったので「この辺りはずいぶんトンネルが多いですねぇ」と話しかけた。すると男性は「この辺りは昔、それぞれの集落が孤立していたんです」と答えた。
 無理もないと思った。これだけ山が多く、海岸線まで迫っていると、集落同士が行き来するのは相当に困難だったはずだ。
 それをきっかけに男性は積極的に話しかけてきた。それは、この辺りの集落が「限界集落」化していることについて、その深刻さを語るものだった。
 彼があまりに熱心に限界集落のことを語るものだから、「もしかして公のお仕事をされている方ですか?」と問うた。すると彼は「いや、新聞社の者です」と答えた。彼は地元・中日新聞の熊野通信局長だと言って名刺を渡してくれた。
 彼は名古屋本社に向かう途中で、私が「多気」という駅に降り立つまで2時間近くあれこれと話し込んだ。

            
            ※ 大雲取越の最高点「舟見峠(883m)」の表示はあまりにも簡素で拍子抜けの感だった。

 この他にも出会いはあったが、特に印象的だった三つの出会いについて記した。
 二件目の岡崎市のT氏との出会いは今後の発展も望めそうな出会いとなった。
 他の二つは、地元のことをよく知る方との出会いで、旅した地域を理解し、旅を豊かにするうえでかけがえのない出会いとなった。
 今回の旅で私はあまり出会いを期待してはいなかった。そのことより、熊野古道を予定していとおり完歩することが最大の目標だったからだ。
 しかし、思わぬ出会いは今回の旅をより豊かにしてくれた素晴らしい出会いだった

            
            ※ 写真の最後は「熊野本宮大社」の近くの「大斎原(おおゆのはら)」の満開の桜で〆たい。

古の道を往く旅を振り返る 6

2016-04-11 19:23:16 | ロングトレイルフットパス
熊野古道の宿 

 熊野古道トレッキングはかなり人気が出てきたとはいえ、私の体験からも言えるようにまだまだ一般の観光客が好んで歩くルートではない。したがって、宿泊施設も必ずしも充実しているとはいえないのが実態のようだった。 

 今回の私の旅は全体で7泊8日の旅だった。
 そのうち、熊野古道外の4泊は都市での宿泊だったためビジネスホテルを利用した。
 熊野古道トレッキングはかなり人気が出てきたとはいえ、私の体験からも言えるように一般的な観光ルートではない。したがって、宿泊施設も必ずしも充実しているとはいえないのが実態のようだった。
 古道トレッキングをした3泊を熊野古道内の宿泊施設を利用したがその宿泊事情についてレポしてみる。。

 難関だったのは、一日目の宿泊だった。当初は二日目の負担を少しでも軽くするため「継咲王子」の近くにある野中という集落に宿泊を予定した。そこには確か3軒ほどの宿があった。2ヶ月前に予約を入れたが、どこも満室だった。一つの宿のキャパがかなり小さいようだった。
 しかたなく、約4キロ手前の「近露王子」の集落の「民宿ちかつゆ」に宿泊を予約した。         

 「民宿ちかつゆ」は民宿らしい民宿と云えようか?夕食の時に主人が私たちに親しく話しかけてくれて、翌日の歩くルートについても詳しく情報を伝えてくれた。
 主人によると、最近の宿泊客の3/4は外国人だということだ。事実、この日も私を含めて日本人は3人、外国人が8人という状況だった。
 このことはライブレポでも触れたが、西欧諸国の人たちの健康志向と、東洋の神秘的な雰囲気に憧れる人たちが増加していることをうかがわせてくれた。
 「民宿ちかつゆ」は小さいながらも温泉を併設していたこと、一人宿泊だったこともあり、一泊二食付で9,870円とそれなりの宿泊料だった。

            

 二日目は「熊野本宮大社」のある本宮町という集落だった。ここも私の情報では宿泊施設は2ヵ所しかなく、その一軒「蒼空げすとはうす」というB&B形式のビジネス風の宿泊施設にその日の宿をとった。
 熊野本宮大社を参詣する人たち(観光客)は、近くにある温泉場(3ヵ所くらいあるようだ)のホテルに宿泊するらしい。
 この宿は、前日の民宿とは違い、バス・トイレ付のいわばビジネスホテル形式の宿だったが、一泊朝食付きで7,000円だった。
 夕食が付かないので、本宮町の町中で摂らなくてはならないのだが、ここの集落全体の店の閉店時間が早く、私が着いたときにはたった一店しか開いていなく、ちょっと不便を感じた。

           
          
           
            
 三日目の小口集落も宿泊施設は一軒の民宿と、私が宿泊した「小口自然の家」しかなかった。「小口自然の家」は旧中学校を改造した宿舎ということだったが、部屋は一般の日本旅館のようだった。
 熊野古道を歩く人のほとんどは、この「小口自然の家」を利用しているようだ。事実、夕食に集まった人たちは全て熊野古道トレッキングの人たちばかりだった。
 ここの宿泊料は一泊二食付で8,000円だった。

           
            
 以上のように、熊野古道の中辺路ルートをトレッキングしようとする者にとって宿泊先の選択肢は、今のところほとんどないに等しいかもしれない。
 それでも熊野古道における宿は、唯一トレッカー同士が触れ合うところである。
 事実、「民宿ちかつゆ」では、大分から来た夫婦のトレッカーと、「小口自然の家」では私とは反対方向から進んできた岡崎市の二人組の人と親しく情報交換をすることができた。

 旅は、出会いと別れの連続である。「一期一会」とは、良く言ったものである。「民宿ちかつゆ」で出会った大分の夫婦は、翌日バスを利用しながら熊野本宮大社を目ざすと云っていた。
 「小口自然の家」で出会った二人は、私とは反対方向に向かっていたのに、その後奇跡的な再会を果たすことになる。(そのことについて詳しくは明日の投稿で)
 その他にも出会った人はたくさんいたが、まさに「一期一会」…、一瞬の出合が私の旅を豊かにしてくれた…。



古の道を往く旅を振り返る 5

2016-04-10 19:36:14 | ロングトレイルフットパス
三日目・四日目(小雲取越・大雲取越)写真集
 
 三日目・四日目は小雲取越・大雲取越という大きく二つの難所を乗り越えていくルートだった。生憎両日とも雨の中を往くトレッキングとなった。しかし、それもまたポジティブに考えれば、ある種幽玄の中を往く趣のあるトレッキングとなった。 

 トレッキング第三日(4/1)は熊野本宮大社(請川)から小口集落までの、通称「小雲取越」15キロだった。続く第四日(4/2)は小口集落から熊野那智大社までの、通称「大雲取越」(14.5キロ)だった。

 4月1日は天気予報でも雨と予報があったので覚悟していたのだが、晴れの予報の翌4月2日まで雨天となってしまったのは予想外だった。
 私は両日ともに、上下にレインウェアを着込み、手には傘を差してのトレッキングとなった。傘を差しての登山やトレッキングは初体験だったが、これがなかなか心地良いことを発見することができた。

 4月1日の「小雲取越」はもっぱら杉林の中を往くトレッキングで、唯一見晴らしが効く「百ぐら」というところがあるのだが、私が行った日は霧に隠されてしまい眺望は残念ながらゼロだった。
 この日の思い出は、トレッキング中に和歌山県地方に地震があったことだ。携帯したスマホが、地震があることをけたたましく報じたが、私は何も感じなかった。ところが、遠く北海道にいた妻がテレビを見て心配の電話をかけてくれたのが興味深かった。
 妻が心配してくれたことは嬉しいことなのだが、世界が狭くなったというか、旅の質が変質してきている象徴的な出来事のような気がした。

 4月2日は「大雲取越」といって標高883メートルの峠を乗り越えるという難所があり、ガイドブックでは古道の最難関と載っていたので、身構えたところもあったが、3月31日の「近露王子~熊野本宮大社」間の険しさに比べると、私の中では「そうでもなかった」というのが実感だった。

 両日ともに雨に見舞われる結果になったが、林間に漂う霧が一種独特の雰囲気を醸し出し、それはそれで神域を往くというムードを醸し出すルートだった。


 それでは、まず第三日の請川~小口集落間の印象に残った写真をレポします。

            
 第三日目「小雲取越」のスタート地点の請川集落からのいきなりの階段で、斜面を上っていきます。

            
 この写真もまだまだスタート直後の登り道です。

            
 「松畑茶屋跡」です。古道に所々にこうした茶屋跡がありました。熊野三山詣りが大流行した江戸時代にはこうした茶屋や旅籠がたくさんあったとガイドブックは説明しています。

            
 スタートから上り続けること7.5キロ、この日のピークでもある「百ぐら」に到達しました。しかし、眺望は霧のためゼロ。残念ながら何も見えませんでした。

            
 晴れた日の「百ぐら」の眺望です。ウェブ上から拝借しました。

            
 熊野古道は霧のため、写真のようなちょっと神秘的な幽玄ともいえる情景を現出していました。

                   
 特に「小雲取越」、「大雲取越」で目立ったのが、こうした歌碑でした。すべてをチェックしたわけではありませんが、私が判読できるものはできるだけチェックするように心がけました。この歌碑には「どちらへも 遠き山路や おそ桜」と刻まれていました。

            
 だいぶん標高が下がってきた午後、雲が若干切れてきましたが、まだ遠方は望むことができませんでした。

            
 さらに標高を下げると、この日の宿泊地の小口集落が眼下に見え始めました。

            
 下り坂の石畳です。雨に濡れて光っているのが認めらると思います。注意をしていたのに、私は不覚にも足を滑らせてしまいました。

            
 最後はやはりお決まりの桜です。ライブレポで何度も触れましたが、古道内で桜を見ることは稀でしたが、里へ下りてくるとこのように満開の桜が出迎えてくれました。


 続いて、第四日の小口集落~熊野那智大社間の写真集です。

            
 大雲取越ルートの出発直後の上り道です。
            
            
 スタートから1キロあまり、大雲取越ては唯一の見どころの「円座石(わろうだいし)」です。ライブレポでは三人のお坊さんが談笑した場所と伝えましたが、ガイドブックを見直してみると、正確には熊野三山の神々が談笑したところというのが正しいようです。巨大な石に三つの梵字が刻まれていますが、それは三つの座布団と見立てているとのことです。

            
 大雲取越の激しい上りの途中に「楠の久保旅籠跡」があり、そこに東屋がありました。雨のトレッキングでは、雨が避けられるこうした東屋はとても貴重です。私もゆっくりと休憩を取りました。傍の歌碑には「鯉のぼり 大雲取の 一軒に」と刻まれていました。ということは周りに何軒かの旅籠があったということでしょうか?

            
 こうした石が敷かれた道は古の昔にはあったでしょうか?私は登山靴など厚底の靴が開発された後になってでは、と思われるのですが…。草鞋や足袋ではとてもこの上を歩けないでは、と思うのですが…。

            
 ここは下り道ですね。この日のコースは尾根に上がってからの険しい上り下りはなかったものの、小さな上り下りはけっこうありした。雨に濡れた石が光っていて上り道以上に注意を払いながら下ることが求められました。

            
 ルートの中盤過ぎに、この日二つ目の東屋ならぬ、本格的な休憩所がありました。ここでは先行していたグループの人たちも休憩を取っていました。私もここでしっかり休憩を取りました。
                    
            
 かなり後半になって、写真のように霧が古道の中を覆い始め、一種独特な雰囲気が周りに漂い始めました。

            
 これはもう、那智の大滝がかなり近くなってからの一枚です。

            
 最後の下りのこのゴツゴツした石畳はかなり神経をすり減らす下り道でした。 
           
                   
 私にとっては最終ゴール地点、反対側から往く人にとってはスタート地点になる熊野那智大社の傍ある「青岸渡寺」脇の階段です。お世話になった「杖」を記念写真に収めました。

 こうして私にとっては激闘(?)の四日間を写真と共に振り返ってみたが、今でも私の体の中にはその激闘の余韻が色濃く残っている感じがする。
 古人たちは私の年代よりもっと体に力がある年代に熊野古道を往ったのではないかとも思われるのだが、はたしてどうなのだろうか?いや、江戸時代など庶民に熊野三山詣でが流行したころは、やはり一線を退いた年寄りが多かったのだろうか?だとすると、今よりもっともっと厳しい条件の中で、あの険しい熊野古道を往った人たちの体力・精神力は相当なものだったと素直に思えてきた…。

 もう少し、このシリーズにこだわりたいと思う。

古の道を往く旅を振り返る 4

2016-04-09 12:03:00 | ロングトレイルフットパス
第二日(近露王子~熊野本宮大社)写真集 

 四日間のトレッキングで最大の試練となった近露王子~熊野本宮大社間の27.5キロの記録である。合せて四つの山坂を上り下りするルートは体力のない私の身体を苛め抜いた。それだけに思いも一段と深い。

 まずはこの日出会ったさまざまな形状の熊野古道を羅列する。いろいろな貌をもった古道は、時には優しく、時には苛烈に私を迎えてくれた。

          
 この道は熊野古道の典型の一つかもしれない。古道はこうした木立ちの中を縫うように造られていた。この道は近露王子からぐんぐんと高度を増していったところである。

          
 古道沿いには、こうした民家が点在しているところもある。そうしたところは写真のように舗装されているのだが、この細い舗装道路が生活道路である。車が交差するのは困難と思わるのだが…。

           
 古道の一部は平成23年の豪雨で決壊し、迂回路が用意されていた。その迂回路の一つの山道である。私の体力はこのあたりでピークを迎えていた。     
         
          
 この写真も熊野古道の典型である。ともかく杉林が多かった。杉林は植林されていると思われ、あるいは昔の情景とは違っているのかもしれないが、古道一帯は杉林がとにかく目立った。

          
 ちょっと急登になると、こうした階段が設けられていたが、これも近現代になってから設けられたものと考えられる。古の人々は足を滑らせながら急登を登ったのではと想像される。

          
 山中に造られた古道は、ときとして山の斜面に造られることもある。そうしたときには写真のように石積みをして道を確保したようだ。しかし、これもまた近現代になってからの造作ではないのだろうか?

          
 写真ではその雰囲気がいま一つ出ていないが、午後3時過ぎの映像である。杉林の中はすでに夕闇の様相を呈し始め、私はかなり心細くなり始めたころの写真である。

          
 熊野本宮大社が近くなってからの古道の様子です。道幅がかなり広くなっています。大きな石が敷かれてあるが、けっして歩き易い道ではありませんでした。

 
 続いて、道中で印象残った光景を。

          
 この日(3月31日)朝、近露集落からぐんぐん高度を増して、ふっと振り返った時に出会った光景です。熊野の山並みの深さがうかがえる一枚です。

           
 道中のいたるところにこうした標識が設置されていて、迷う心配は皆無と云って良いくらい完備され、心強いかぎりだった。ただし、三日目・四日目の小雲取越・大雲取越の方は枝道もないことから、あまり目立たなかったが…。

                  
 「野中の一方杉」と称されて、杉の木の枝が一方だけにしか伸びていません。地元の人の話では、日光のせいではないか、ということでした。この辺りにはこうした一方杉がたくさん繁茂していたようです。ところが明治政府が伐採を命じたとき、地元の博物学者として著名な南方熊楠が猛反対をしてかろうじて数本(確か9本と聞いたが)が伐採を逃れたということだが、写真の杉もその一本である。


          
 この写真はライブレポでも紹介したが、この日ルートがいかに険しいものだったかを表す一枚である。写真中央に見える山を上り下りして、谷底に下り、さらにそこを登り返したところから撮ったものである。(このルートは迂回ルートの一部である)
          
          
 写真はおそらく平成23年の暴風雨の際に削られた斜面を修復したところだと思われる。そうした説明表示がないかと辺りを探したが見当たらなかった。

               
 ある集落を通りかかったところ、掲示板があった。良く見てみると、2週間後に熊野本宮大社の本宮祭が行われることが告知されていた。

          
 狭い山間で何を生産しているのか不思議でしたが、その一つはこうして茶畑を造り、お茶の生産をされていることが分かった。

          
 熊野古道から熊野本宮大社に至る道は、大鳥居から入るのではなく、裏門のようなところから境内に入る道が続いていた。境内に入ってまず目についたのが、満開の枝垂桜だった。
          
          
 この日の目的の熊野本宮大社には拝殿の奥に四つの社殿が並んでいた。後から気付くのだが、熊野三山の他の二つの大社が朱塗りの鮮やかな社殿なのに比べ、熊野本宮大社のそれは自然の木の色を生かした古色蒼然とした落ち着きある雰囲気を醸し出していた。

 長々と第二日目を振り返ってきたが、熊野古道のさまざまな道を写真を通して振り返るだけで、山道で悪戦苦闘している私が蘇ってくる。私にとっては貴重な体験だった…。

古の道を往く旅を振り返る 3

2016-04-08 21:15:26 | ロングトレイルフットパス
第一日(滝尻王子~近露王子)写真集 

 この旅ではたくさんの写真を撮り貯めた。せっかくの写真を紹介したい。写真と共に旅を振り返ることにした。 

 熊野古道トレッキング第一日目は「滝尻王子」から「近露王子」までの13キロだった。この日は「上多和茶屋跡」ところまでの前半9キロがずっと上りが続く道だった。しかし、振り返ってみると急登のところは比較的少なく、それなりにスムーズなトレッキングができた区間だった。

            

 熊野古道トレッキングの出発点には、熊野古道が世界遺産に登録されたことを記念する立派な標石が鎮座していた。

            

 スタートして間もなく、と言ってもいきなりの急登に驚いた私にはかなりの距離に思えたが、最初の見どころ「胎内くぐり」の岩があった。この狭い岩穴をくぐると生まれ変わったようになるとの言い伝えがあるそうだ。
 私が見ていたかぎり、誰もこの岩穴をくぐろうとする人がいなかった。しかし、私は挑戦することにした。穴の中は非常に狭く、膝をこすりながらなんとかくぐり終えることができた。はたして私は生まれ変われたのだろうか?(そんなことはないかな?)

            

 続いて、その傍に「乳岩」があった。この岩には、母乳の出が少なくて困っている母親がお詣りするとご利益があるという言い伝えがあるそうだ。
 
            

 熊野古道には、昨日紹介した王子以外にも、さまざまな史跡や地蔵が立っている。これもその一つ、「針地蔵尊」とあったが、詳しい由来は不明である。

            

            

 熊野古道はさまざまな表情を見せた。その中から二つの表情を紹介する。きれいに石が敷き詰められいるところ、木の株などが露出しているところ、と表情はさまざまたった。

            
 スタートして3.7キロ、ちょっとした集落に入ると「高原熊野神社」があった。この神社は熊野本宮大社から分神された中辺路最古の神社だそうだ。

            

 熊野古道には、写真のような道標がところどころに立てられていた。この道標は出発点の滝尻王子から500メートル毎に立てられているそうだ。写真の道標は「10」と表示されているから、スタートしてから4500メートル進んだということになるようだ。

            

 この日の最高点(標高は不明)の「上多和茶屋跡」の看板です。史跡や王子など見どころにはこうした説明板が設置されていた。

            

 この日のゴールが近くなったころに出会ったのが、子どもが牛と馬にまたがった小さな像「牛馬童子像」である。ガイドブックでは明治時代に作られたとある。

            

 いよいよこの日のゴールの近露の集落が眼下に見えてきました。

            

 近露の集落内にあった樹齢290年と言われる枝垂桜です。田辺市の文化財の指定も受けているという。桜の花はまだ三分咲きといったところでしょうか。

                    

 最後に、近露の集落のバス停のところにあった傘立て(?)に書かれていた俳句に目に止まった。「一歩づつ 神への道を 登りゆく」…、そんな気持ちにもさせてくれた四日間だった。    

                   

古の道を往く旅を振り返る 2

2016-04-07 17:23:53 | ロングトレイルフットパス
熊野古道と王子社 

 熊野古道沿いには多くの王子社あるいは王子跡が存在する。トレッカーの中には純粋(?)にトレッキングと割り切って素通りする人もいたが、私はせっかくの機会である。一つ一つの王子社、王子跡を参りながら歩を進めた。 

 熊野で言う王子とは、熊野権現の御子神だそうだ。
 その王子が院政期(11世紀後半から12世紀末)において熊野詣が盛んになったときに、紀伊路(大阪・淀川~紀伊田辺)・中辺路ルートに多数出現したということだ。俗に熊野九十九王子と称されるが、それは実数ではなく「数が多い」という意味で称されているようだ。

 その王子社、または王子跡を、今回私は17ヵ所訪れ、参拝することができた。
 王子のうち「社(やしろ)」が残っていたり、再建されたりしたのは僅かで、残りは「王子跡」という標石が残っているだけだった。というのも、文献によると院政期が過ぎると王子はあまり顧みられなかったということがあるようだ。(以下、皆さまには面白くもなんともない写真ばかりですが、「社」があったところは社の写真を、王子跡の標石しかなかったところはその標石を羅列します。併せて、各所にあったスタンプを写真の横に配します。)

        
     ※ 「熊野古道」中辺路ルートの出発点にある「滝尻王子」社です。

        
     ※ 中辺路ルートのスタート間もなくにあった「不寝(ねず)王子」跡です。

        
     ※ スタートからおよそ3時間、かなり疲れを覚え始めたころに現れた「大門王子」跡です。

        
     ※ 「大門王子」を後にしてから厳しい上りの後に「十丈王子」跡がありました。

             
          ※ この日のピークは過ぎ、近露集落が近づいてきたこところに「大坂本(おおさかもと)王子」跡がありました。

             
          ※ 第一日目のゴール、近露集落内にあった「近露王子」社です。                           

           
          ※ 近露集落からの険しい上りを終えたころに「比曽原(ひそはら)王子」跡です。 

        
     ※ 現役の茶屋があったり、近くに民宿(野中集落)があったりと、他とは雰囲気が違った「継桜王子」社です。

      
     ※ 「継桜王子」からそれほどいかないうちにあった「中川王子」跡です。

     
     ※ 「中川王子」から2キロほど先に行ったところにあった「小広王子」跡です。標石が少し欠けていました。
      この辺りのスタンプが残っていないのは、置かれていなかったのか、私が見逃したか、どちらかよく分かりません。

      
     ※ 続いて現れた「熊瀬川王子」跡の標石の文字もよく判別できないほど薄れていました。

        
 
     ※ 辛い迂回路を終えて谷間の集落跡がうかがえるようなところにあった「湯川王子」社です。

             ※ この日の最後の上りの三越峠を越えてしばらく行ったところに表れた「猪鼻王子」跡です。

         
     ※ 数多くある王子の中でも「五体王子」と言わる大切な王子の一つ「発心門王子」社です。

             
     ※ 人家のある集落内に入ってからあった「水呑王子」跡です。

         
     ※ あたりに茶畑が広がり、東屋がしつらえられた近くにあった「伏拝(ふしおがみ)王子」跡です。

            
     ※ もう「熊野本宮大社」は目と鼻の先、はやる気持ちを抑えながら写真を撮り、スタンプの捺印をした「祓戸王子」跡です。
     

 特徴的なのは、同じ中辺路ルートでも、第三日、第四日に歩いた小雲取越、大雲取越には王子が一つもなかったことだ。これは院政期に盛んに熊野詣をした後白河上皇や後鳥羽上皇が歩いた紀伊路・中辺路(紀伊田辺~熊野本宮大社)ルートとは別の派生ルートだったためと思われる。

 中辺路ルートには、王子ばかりでなく、「乳岩」、「胎内くぐり」といった大きな岩があったり、「高原熊野神社」、「蛇形地蔵」があったりと、見たり、寄ったりするころがたくさんあった。
 しかし、小雲取越、大雲取越の方は「百間ぐら」と「円座石」くらいしか見どころというものがなく、その点でも対照的だった。

 中辺路ルートにおいて、こうした王子社、または王子跡、その他、神仏習合にまつわる数々の遺跡や史跡が熊野古道を独特の宗教性や神秘性を纏わせ、特異な雰囲気を醸し出してきたものと思われる。

古の道を往く旅を振り返る 1

2016-04-06 23:02:13 | ロングトレイルフットパス
古道トレッキング 

 「熊野古道」中辺路ルート4日間のトレッキングは、私にとってけっして易しいものではなかった。しかし、簡単なものでなかったからこそ、その印象は私の中に深く刻み込まれるはずだ。前後に人っ気のない中、幽玄にも思える熊野の山中を一人歩いた4日間を振り返ってみたい。 

    
      ※ 第一日目のコースの途中、「高原霧の里休憩所」から見た、幾重にも重なり合った熊野の山並みです。

 熊野神社の総本山「熊野本宮大社」は遠かったぁ…。
 また、「熊野那智大社」も遠かったぁ…。
 偽らざる私の実感である。
 特に、二日目の近露王子から熊野本宮大社までの27.5キロは私にとって大きな試練だった。この27.5キロは私に言わせれば四つの山を上り下りしたような感じだった。

            
            ※ 熊野古道トレッキングの出発点となった「滝尻王子」社です。

 私はこの旅に出る前、今回の熊野古道トレッキングを多少甘く考えていた節があった。というのも、私は昨年「北根室ランチウェイ」71.4キロを3日間で歩いた経験があった。今回は4日間で62.5キロである。私の中では距離的にいっても不安はなかった。

 ところが…。
 熊野古道はそのコースの様相が違った。ともかく激しくコースが上下するのである。
 コースのスタート地点「滝尻王子」から度肝を抜かれた。いきなりの急登なのである。
 ようやく急登を乗り越えると、比較的平たんに道が現れるが、それも束の間、また急登が現れるといったコースだった…。

            
            ※ 出発地点の直後からの急登に度肝を抜かれました。一気に汗が噴き出ました。
            
 それでも一日目は距離15キロということ、さらにはトレッキングの初日ということもあり、体力的には少し余裕もあり午後3時過ぎには、「近露王子」の近くにあるこの日の宿舎「民宿ちかつゆ」に到着することができた。
 実は当初、この日の宿泊場所を次の日のことを考えて、「近露王子」の4キロ先にある「継桜王子」の近くにある野中集落を考えていた。そこには4軒の宿があったが、二か月前ですでにいずれもが満室で、近露集落に宿を取らねばならない事態となったのだ。

            ※ 第一日、第二日に出会った上り道の様子です。その容貌はさまざまでした。 

            

            

            

            
        
 そのため、翌二日目は27.5キロという私にとっては過酷ともいえる距離をこなすことを余儀なくされた。平坦な道でも27キロは大変な距離である。それがこの日のコースは先述したように四回もの上がり下がりが連続する厳しいコースだった。朝、7時10分に宿をスタートした私が、この日の宿に到着したのは18時15分過ぎだった。行動時間実に11時間である。この間、腰を下ろして10分間以上の休みを取ったのは3回だった。ほとんど、歩きづめ、上りづめの11時間だった。

            
           ※ 急登から、険しい下り坂を下った里に写真のような桜が咲いていると一瞬ですが癒されました。

 その間、ほとんどの区間は私の前も後も誰も見えないただ一人だけのトレッキングだった。ときどき欧米系の若いカップルや、日本の高校のワンゲル部など若い人が私を追い抜いて行った。
 一人古道を往く私は、杉の木が林立する昼なお暗い中を黙々と歩みを進めた。すると、なんとなく聞き慣れない音がしてギョッとして立ち止まることが数回あった。何だろうかと思ったが、良く考えるとそれはザックの紐が触れた音だったり、布が擦れ合ったりする音だった。(神域で聞こえる音は特別な音に聴こえてくる…)

            
        ※ 激しい上り下りは、例えは写真の正面に見える山を上り下った後、再び手前の山を上り返すといった感じでした。

 あまりにも薄暗い杉林の中を往くものだから「あるいは明るいうちに到達できないのでは」と悲観的になったこともあったが、何とかまだ暗くなる前の16時30分に「熊野本宮大社」ら到達することができた。
 苦労して到達した「熊野本宮大社」であったが、あまりにも疲れていたために、大した感動すらも覚える余裕がなく、ただ記念の写真を撮るだけで精一杯だった…。

            
            ※ 古道の途中にはこのように民家がありましたが、道路を見てください。とても狭いのが印象的でした。

            
            ※ いつの時代か不明ですが、山奥深く生活していた民家の跡が朽ち果てていました。
       
 平安・鎌倉時代の高貴な人、そして江戸時代の庶民が同じ道を通って「熊野本宮大社」参詣を行っていたという。私は歩きながら、現代のように装備が整えられ、さらには古道も整備されていながら私のような体たらくである。古の人たちがいかに苦労して熊野本宮大社を目ざしていたのかに思いを馳せた。
 そんな苦労を意にも介さず熊野本宮大社をめざした古の人たちの信仰心の篤さと、体力と忍耐力の強さには驚嘆の思いさえ抱く私だった。

            
            ※ 苦労しただけに一段と尊く、輝いて見えた「熊野本宮大社」の拝殿です。

※昨日は帰宅して午後に熟睡し、本日はまた午前中をベッドの中で爆睡した。帰宅してホッとしたことでどっと疲れが出たようだ。年齢相応に疲れが蓄積していたようだ。

古の道を征く旅 ライブレポ 45(最終号)

2016-04-05 09:06:53 | ロングトレイルフットパス
到着 

 8時50分、予定どおり新千歳空港に着陸しました。
 多少ヒャッとは感じましたが、今朝の名古屋も気温は低かったので、それほどの違いは感じません。
 あと1時間電車に揺られて帰宅です。

 濃密な非日常的な一週間は、私にとって刺激的な一週間でもありました。
 間もなくまたいつもの日常に戻ります。

 これまで私の拙いライブレポにたくさんの方がアクセスいただいたようです。そのことが私には励みにもなり、旅をサポートしてくれたとも思っています。ありがとうございました。

 明日から日常に戻り、非日常的だった一週間をゆったり振り返ってみたいと思っています。
 またお付き合いください。

 気持ちに余裕があるので、北海道ラーメンを食してから帰宅です。

       

古の道を征く旅 ライブレポ 44

2016-04-05 06:21:29 | ロングトレイルフットパス
セントレア空港 

     

 4月5日、旅の最終日です。
 中部国際(セントレア)空港に来ています。
 この後、7時10分離陸の航空機に搭乗するためです。

 LCCのつらいところは、時間的な制約が多いところです。セントレアから新千歳に飛ぶのは、たしかこの一便しかないのです。

 航空会社は3年前にニュージーランドを訪れた際にさんざんお世話になったジェットスターです。

 セントレア空港はまだ新しい空港なので、なかなか素晴らしい空港のようです。詳しくは探訪しておりませんが…。

 ライブレポをこれで最後にしようと思っていましたが、No.44とはキリが悪いので、新千歳着陸後もう一本投稿しようと思います。

 写真は懐かしいジェットスターの機体です。