北大の公開講座「記憶の中のユーラシア」第5講は5月26日、千葉大学の鳥山祐介准教授が「ロシア文化の中の対ナポレオン戦争の記憶」と題して講義された。
対ナポレオン戦争は、1812年6月、ナポレオン軍がネマン川を超えてロシア領内に進攻した後、9月には首都モスクワに入城したが、僅か1ヶ月後にはロシア軍の反抗に遭い撤退したという戦争である。(ロシア側から見ればナポレオン軍を蹴散らした?)
そこで対ナポレオン戦争が終結したわけではなく、ロシア軍はさらなる攻勢をかけ、1814年3月にはパリ入城を果たし、終結したというのがナポレオン戦争の全容である。
この戦いがロシアの危機を救ったばかりでなく、フランス・パリまで攻め上がったこともあって、ロシア史上の「栄光の記憶」として長く語り継がれるようになった。
※ ナポレオンの肖像画としてあまりにも有名な騎馬姿です。
それは数々の文学・芸術作品としてロシア国民の記憶に残ることになった。例えば、トルストイの「戦争と平和」、チャイコフスキーの序曲「1812年」というように…。
特にトルストイは19世紀で最も重要な対ナポレオン戦争に関する「神話の作り手」といった評もあるという。
この対ナポレオン戦争において、ロシア側から見て欠かせぬ二人の人物がいる。
その一人は、名将ミハイル・クトゥーゾフである。彼は敗走を続けるロシア軍にあって、その指揮権を与えられた「ボロジフの戦い」で善戦し、ナポレオン軍撤退の契機を作った将軍である。
いま一人は、皇帝アレクサンドル一世である。彼はナポレオン軍がモスクワを撤退する中、それを追ってパリ入城を果たした時の皇帝だったという意味合いが強いようだ。
後になって、この戦いを振り返るとき、アレクサンドル一世はパリ入城を記念することについては積極的だったが、1812年のロシアでの戦いについては無視することが多かったというエピソードが遺されている。
しかし、ロシア国民にとって最も記憶に残したいのはクトゥーゾフ率いた「ボロジフの戦い」だったようだ。この戦いこそロシア人の不屈さを示した戦いとされているからである。
ロシアにはこの戦いを記念する数々の建物やモニュメントが建てられているが、やはり「ボロジフの戦い」に関するものが多いようである。
※ 講義をする鳥山祐介千葉大准教授です。
鳥山氏が講義の最後に話した言葉が印象的だった。
それは「ロシア人の意識というのは、大国意識と被害者意識が同居していることだ」という言葉である。
ロシアはご存じのように広大な国土を有する大国である。しかし、対ナポレオン戦争、ヒトラーに攻め入れられた対ドイツ戦争(第二次世界大戦)において、甚大なる被害を蒙りながらも、なんとかそれを凌ぎ、現在に至っている。
そのことが先の言葉に凝縮されているのだろうか?
北大の公開講座「記憶の中のユーラシア」第4講は5月23日(金)、「チェルノブイリ原発事故の記憶と観光地化」と題して「株式会社ゲンロン」のディレクター&通訳の上田洋子氏が務めた。
「株式会社ゲンロン」とは、作家で思想家の東浩紀氏が代表取締役を務める出版社であるが、会社として「福島第一原発観光地化計画」を提唱しているようだ。
※ 講座で講義する株式会社ゲンロンの上田洋子氏です。
講座はまず、その「株式会社ゲンロン」の幹部が、今回の講師の上田洋子氏を通訳として、チェルノブイリで事故を起こした原発の内部と、住民が避難し廃墟となった街を巡るツアーの様子を映し出すドキュメンタリータッチの映画(DVD)の上映が行われた。
ウクライナでは政府公認で原発ツアーを実施している旅行社が数社あるという。映画では廃炉作業を進める原発内部の技術者が作業をしている近くまで立ち入らせたり、事故前は技術者たちが住んだ近代的町並みの廃墟を映し出したりする。特に使われることがなかったという観覧車が侘しそうに映し出されるチェルノブイリの町並みが印象的である。
※ 最近テレビなどでもお馴染みの株式会社ゲンロンの代表東浩紀氏です。
東氏を代表とする株式会社ゲンロンは、将来福島においてもチェルノブイリのように観光地化することを提案している。それは原発事故を記録として留めるととともに、事故を風化させないためにも必要なこととしている。
東氏が福島の原発事故についてどのようなスタンスを取っている人なのか調べてみると、事故そのものに直接コミットすることは避けたがっているようにもうかがえたが、基本的には「脱原発という方向性を打ち出すべき」という考えの方のようである。
未だ終息に至っていない福島原発の観光地化計画を今打ち出すことには違和感を感ずるが、計画では事故後25年にあたる2036年頃を目途としているようである。
除染が進んで福島第一原子力発電所跡から数百メートルの距離まで一般市民が防護服なしに近づけるようになった状態を想定し、事故跡地付近に建設する施設やそこでの展示などを提案するという。
はたして日本国民がそうした試みを受け容れるのか否か、判断しかねるが、福島を復興させたいとする一つの試みとしてそうした動きがあることを今回知ることができた。
北大公開講座「記憶の中のユーラシア」はその後も計画されたように進んでいる。一昨日までに5回の講座を終えた。今日から3回にわたって、その後の講座の様子についてレポートする。
第3回目は5月19日(月)、東京外国語大学の今井昭夫教授が「ベトナム人から見たベトナム戦争の記憶」と題して講義された。
今井氏はその専門を生かして、ここ10年間ほどベトナム人にベトナム語で聞き取り調査を繰り返しながら、これまでのベトナム戦争観とは違った角度からベトナム戦争を観てみようと試みているということだ。
※ 講義をする今井東京外国語大学教授です。
今井氏は言う。これまでのベトナム戦争は、西側の報道、芸術作品。学術研究を通して私たち日本人のベトナム戦争観は形成されてきたと…。それは当時の東西冷戦下において、代理戦争的様相を呈していたところに、アメリカが直接介入していったとする考え方が主流を占めていたという。
ところが今井氏が聞き取り調査を進めていく中で、その実相は必ずしもそうではなかったのではないかという疑念が生じてきたと今井氏は言う。
というのも、西側は東側の意を汲む「南ベトナム解放民族戦線」が当面の敵とみなしていたが、聞き取りを進めるうちに実態ははそうではないことが次第に明らかになってきたという。
それは「南ベトナム解放民族戦線」の位置付けが、北側では「ベトナム解放軍」の指揮下に置かれていたという事実が聞き取りから判明したことだった。さらに「ベトナム解放軍」は「南部中央局」、その上部に「ベトナム労働党」が全体を統括する体制だったという。
このことから、今井氏はベトナム戦争の実相は「北ベトナム労働党」が南進を図った戦争だったのではないか、と類推したという。ただ、現時点においてその考えは「研究者間での支持はあまり得られていない」と自虐的に言われた。
しかし、今井氏はこれからもベトナムに出向いて、サイゴン政府軍兵士、女性や少数民族、ムラ社会の人たちに聞き取り調査を進め、ベトナム戦争の実相をより克明に明らかにしたいと語った。
はたして本当の実相が明らかになる日は何時なのだろうか? はたして実相が明らかになる日は来るのだろうか?
※ 芸術の森美術館のエントランスに掲示されていた展覧会の案内です。
文字どおり遅ればせながらである。前売り券を購入したのが4月25日に行われた篠山紀信氏の講演会のときだった。それからちょうど1ヶ月後となる5月25日(日)に写真展が開催されている札幌芸術の森美術館にようやく足を運んだというわけだ。
新緑に囲まれた芸術の森は、音楽や美術を語るに相応しい空間といった雰囲気を醸し出していた。
さて、写真展だが「篠山紀信展 写真力」は【GOD】、【STAR】、【SPECTACLE】、【BPDY】、【ACCIDENTS】という五つのテーマからなっていて、展示室もテーマ別に区切られていた。
まず度肝を抜かれるのが、その写真のサイズの大きさである。正確な大きさは調べたけれど分からなかったが、それは3mとか、5mというサイズで驚かされる。ちなみに、篠山紀信が山口百恵の水着姿の前でポーズを撮る写真が転載可能のようなので、その写真から大きさをイメージしてもらえると思う。その山口百恵の写真より大きなサイズの写真が大相撲の全力士を一堂に集めた写真や、ディーズニーランドを撮った写真などだった。
※ 写真の前に立った篠山紀信氏の姿から写真の大きさがイメージできると思います。
そして私が最も目が釘付けになったのが【BODY】のコーナーに展示されていたVLADIMIR MALAKHOV(ウラジミール・マラーホフ)というダンサーの肉体美だった。説明によると1/3000秒でシャッターを切ったとなっている。まさに一瞬の美を切り取った3枚といえるだろう。
※ 写真展のものとは違いますが、イメージとしてはこの写真のような感じでした。
篠山はテーマごとに短い一文を寄せていた。それが印象的だったので書き留めてきた。その一部を紹介すると、既に鬼籍に入った人たちのコーナーの【GOD】のところでは「写真家は『時の死』の立会人だ」と記している。その他にも「写真を単純に真実の記録だと考えるのではなく、むしろ嘘と実のあいだにはからずも生ずるリアリティに写真の力がある」、「写真家は時代の映し鏡であり、突出した出来事や人を撮らねばならない」といった言葉が印象的だった。
※ 新緑の囲まれた札幌芸術の森美術館の全景です。
私の関心事ではないが、「篠山の写真は芸術か?」などということが話題になることがあるという。私にはそのことを議論すること自体詮無いことのように思える。彼自身が「私は有名人しか撮りません」と言っていること自体が芸術性というところから距離を置いているように思える。そして彼の写真の発表媒体は週刊誌や芸能誌が主だったことからもそう言えると思うのだが…。
ただ、今回全国各地の美術館で展覧会を開催しているということは、これまで芸術性ということに距離を置いてきた彼も、若干はそうした称号を欲し始めたということなのだろうか?
コメディタッチの映画であるが、木を伐り、森を守る仕事の尊さが婉曲的に伝わってきた。観終えた後に清々しさに包まれた佳作の映画だった。
5月23日(金)、特に予定もなかったことから妻の買い物に付き合い、途中から別れて、良い評判が聞こえていた映画「WOOD JOB!」を観ることにした。
札幌市内で最も集客率の高いシネマフロンティアだが、さすがに平日の昼とあってゆったりと観ることができた。
映画は大学受験に失敗したちゃらんぽらんな主人公・平野勇気(染谷将太)が、ふと見かけた林業研修プログラムに載っていた美女につられて一年間の研修に参加することになった。そこの指導役が現役で林業に従事する飯田ヨキ(伊藤英明)である。
※ 主人公役・勇気を演ずる染谷将太です。
いいかげんな気持ちで研修に入った勇気だが、都会とは全く違った山村の生活、過酷な林業の実態の中で、歎いたり、ドジなことを繰り返したりするのだが、そのドジさかげんを好演する染谷将太の姿に大声で笑う観客が多数いた。私ももちろん笑いを誘われた。
山の男を演ずる伊藤英明はすっかり山の男になりきっているのがいい。男臭さ満載、ワイルドな男を好演している。
ただ、私には二人の演技のややオーバーなところが気になったのだが…。
※ 左端が勇気の指導役を演じた伊藤英明です。
映画は三重の自然の豊かさ、山村の素朴さ、林業の仕事の過酷さと尊さ、そして淡い恋と、過不足なく映し出し、ちゃらんぽらんな主人公・勇気が山村の良さに気付き、林業の仕事の素晴らしさに目覚めていくというストーリーである。
大感激した映画!というほどではないが、観終えた後に清々しさが残る映画だった。
なお、映画の副題「神去なあなあ日常」というのは、この映画の原作者・三浦しをんの著書名である。「神去」とは、三重県の中西部、奈良県との県境に近い山奥の集落という設定のようだ。「なあなあけ」とは「ゆっくり行こう」とか「まあ落ち着け」とかいう意味に使われ、そうしたのんびりした日常を描いたお話という意味のようだ。
5月24日(土)、石狩市が主催する「自然観察会」が行われた。道民カレッジの連携講座ということで、石狩市民ではない私も参加することができた。
朝9時集合、16時解散という一日日程の観察会だった。
目的地は浜益地区、厚田地区をバスで巡るルートだった。
※ 石狩市のHPから拝借した黄金山の山容です。後ほど私が写したものも登場します。
まずは浜益地区にあって、その山容が非常に優美で特異な山容をしている「黄金山」の登山口に至る山道において路傍の草花を観察することから始まった。「黄金山」は周りの山の姿とは違って小型の羊蹄山といった趣のある山である。初心者向きの山とも紹介されているので、いつか登ってみたい山の一つである。
その「黄金山」に至る山道の路傍にはニリンソウやオオバナエンレイソウの白い花が目立った。
※ ニリンソウは山道の路傍に写真のように咲き誇っていました。
※ オオバナエンレイソウはところによって群落になっていたところもあったのですが…
それ以外にも、自然観察指導員の方がさまざまな山野草を紹介してくれる。全てはとても紹介しきれないが、その一部を写真と共に紹介することにする。
※ ノビネチドリ
※ オオタチツボ
※ エゾエンゴサクは盛りを過ぎていたようです。
※ キバナイカリソウ
※ ヒメイチゲ
浜益の海岸で昼食を摂った後、新・日本名木100選にも選ばれている「千本ナラ」に案内された。指導員の説明によると、幹回り4.8m、樹高18m、樹齢820年と言われていて、3本のナラの木が並んで立っていた姿は見事だった。
「千本ナラ」という名称は、木の枝がまるで千手観音のように伸びている姿から命名されたようだ。
※ 昼食を摂った浜益の海岸です。
※ 「千本ナラ」と命名されたのが納得できる木の姿です。
その後、「千本ナラ」の近くにある「毘砂別展望台」というところに寄って、最後に「送毛海岸」という鄙びた海岸に案内された。海岸は砂浜ではなく、岩場の多い海岸だった。ここでは岩場に育つ海岸植物についての説明があったが、天候が崩れつつあったこともあり、実際に観察することは断念したのがちょっと残念だった。
※ 「毘砂別展望台」から見た「黄金山」です。
※ 岩場が目立つ「送毛海岸」の様子です。
※ 自然観察指導員の説明を聞く参加者たちです。
帰りは車窓からだったが、厚田地区で明治から昭和初期にかけて採掘していた油田跡、砂浜に育つ海浜植物についての紹介があった。
以上のレポートからもうかがえると思うが、今回の観察会は自然を観察するとともに、石狩市の名所をバスで巡るワンディトリップでもあった。
※ 現在、なでしこジャパンが女子アジアカップの決勝戦をオーストラリアと戦っています。1点リードの展開です。頑張れニッポン!!
※ 開宴前のステージです。即席のステージにしては雰囲気を醸し出しています。
チ・カ・ホ クラシックLIVEの存在を知った私は、先月に引き続き5月22日(木)夕刻、開演の1時間前に会場(北3条交差点広場)に駆け付けた。そうしないと椅子席を確保することができないのだ。
18時からプレLIVEとして「ホクレングリーンコール」のメンバー8人がステージに立った。本来は50名ほどのメンバーらしいが、当日は会社人生を終えた8名の方がステージに立った。(各パート2名ずつ)
最初にアカペラで3曲、有名な男声合唱曲を歌ったのだが、彼ら自身が言うようにところどころハーモニーの怪しいところがあり、けっして音楽的に優れた合唱とは思えなかった。
4曲目に披露してくれた「この街で」という曲が感動の序曲だった。この曲はある主婦が創った詩に感動した作曲家・新井満が曲を付けた曲であると紹介があった。その歌詞の一部を紹介すると、
この街で 生まれ この街で 育ち
この街で 出会いました あなたと この街で
この街で 恋し この街で 結ばれ
この街で お母さんに なりました この街で
あなたの すぐそばに いつも わたし
わたしの すぐそばに いつも あなた
この街で いつか おばあちゃんに なりたい
おじいちゃんに なったあなたと 歩いて ゆきたい
う~ん、なんとも我々世代の心をくすぐる詩である。歌う彼らにも共感の思いがあったのだろう。それまでの曲よりはるかに素晴らしい音として私の耳に届いた。
続いては「北海道讃歌メドレー」として、時計台の鐘、宗谷岬、知床旅情など7曲をメドレーで謳い上げた。それらの曲は伴奏も加わって、謳い上げたという言葉に相応しいような力強さに満ちたものだった。
私は一人思っていた。長年、企業戦士(私はこの言葉に弱い。私にその体験がないからだ)として、会社や国の発展を支え続けながら、多忙の中にあっても自らの趣味を忘れず生き抜いてきた姿がそこにあるように思えた。そうした姿勢が「この街で」というような素敵な詩を取り上げる感性を持っていたのだろうと…。
あるいは私と同じ思いを抱いた人が会場にいたのだろうか。それとも彼らの関係者が多かったということだろうか。ステージが終わるとやんやの喝采に包まれた。アンコールなど予想もせずに、用意していなかったというのも微笑ましかった。
音楽で感動を得るということは、もちろんそのベースは演奏の巧拙に拠るところが大きい。しかし、時にはそれ以外の要素が占める場合もあるという好例がホクレングリーンコールの皆さんだったように思う。私の琴線をおおいに打ってくれた。
さて、メインの大平まゆみさんであるが、彼女はプロフェッショナルとしての確かな技量が多くの人を惹きつけている。
今回もアンコールも含めて長短8曲を披露してくれた。中でもジプシー曲として有名な「チャルダシュ」の超絶技巧はいくつになっても衰えを知らない彼女の真骨頂を見た思いがした。
今回は最近発刊した彼女のエッセー集「100歳まで弾くからね!」のエピソードを交えながらのステージだった。
チ・カ・ホ クラシックLIVEはいつまで続くのだろうか?
こんな素晴らしいステージが無料で公開されているなんて信じられない思いである。
拙ブログで1週間前に「講座の受講を楽しんでいます」という文を投稿した。
大学の先生をはじめ、さまざまな人から長年研究してきたり、実践してきたりした専門的なことを伺うことは楽しいひと時である。
しかし、受講する側からすると、中には「もっと内容を整理して話してほしい」と思えるような人たちがけっこういるのも事実である。私から見ると、特に大学の先生にその傾向が強いように思える。最近、我慢ならない講義に遭遇した。
ここではその講義、その講師が特定されないように留意しながらその事例をレポートすることにしたい。
ある講座において、パワーポイントがスクリーンに映らないというトラブルがあった。関係者が修復を試みたが、結局修復せずに講師が用意したパワーポイントのソフトが使えないまま講義が始まった。
パワーポイントとは別にレジュメが用意されていたのだが、どうも話がレジュメとは全く関係のない方向に話が進んでいく。おまけに、話の折々に「パワーポイントがあれば私の話も分かるのですが…」的な言葉が頻出するのである。
話があちこちへと飛び、まったく脈絡のない話が続く。聴いている私はイライラしてきた。
同じように思っていた人が多かったのだと思う。ついに、我慢しきれなかったのか女性の受講者から「もっと話を整理して話してくれないか」という注文が飛びだした。こんな注文が飛びだしたのはたくさんの受講経験がある私にも初めてのことだった。そのことで少しは話の内容が改善されるのではないか、と期待した。
しかし、講師はその要請にひるむことなく、いや無視するかのように同じ調子で話し続けたのだった。
結局、私はその講義から何も得るものがなかったといってよい状態だった。私にとって空虚な、座っているのが苦痛の90分間だった。
少ないながらも受講料を払って受講している者に対して失礼な話ではないだろうか。
だいたい、パワーポイントの不調にしたって、事前にテストしていたら講義に使えないという事態は避けられたはずである。
まるで「話を聴く側が、話の内容を整理して聴け」と言われているようにさえ思えた。
大学の先生は研究と同時に、学生に伝える(教える)ことが主たる任務ではないだろうか。だとすると、大学の先生たちの「伝える力」はあまりにも貧弱な気がしてならない。
私の思いは一般論であり、もちろん中には講義の内容を工夫され、分かりやすくお話される先生もたくさんいることも記しておかねばならないが…。
なでしこジャパンの戦いが終わったら、今日のブログを作成しようと思いながら女子アジアカップの準決勝戦 対中国戦をテレビ観戦していた。
本来は別の話題をと考えていたのだが、なでしこのあまりにも劇的な勝利に予定を変え、なでしこ讃歌のブログを綴ろうと考えた。
先の女子ワールドカップで世界を制したなでしこジャパンは、今世代交代期を迎えているという。しかし、世界を制した当時のベテランも健在のチームである。
今日の対中国戦、なでしこをリードしていたのはやはりベテランたちだった。澤が、宮間が、川澄が、岩清水が、やはりチームの中心だった。
澤などはもう35歳の大ベテランである。その澤はテレビ解説の松木、大竹の両者が感心するほどの予知能力でチームを鼓舞した。そして、後半開始早々の宮間のCKに頭で合わせ日本に先制点をもたらした。
岩清水もそうである。チームのDFの柱として懸命にディフェンスに走り回り、その上最後の最後にやはり宮間からのCKに合わせて見事な決勝点を叩き出した。
川澄はチームのダイナモとも言われ、無尽蔵のスタミナで走り回りチャンスを演出していた。そして試合後のインタビューでは「楽しかった」と言ってのける明るさがあった。
宮間はなでしこにはなくてはならない存在で、主将としてチームをまとめるとともに、キッカーとして今日の試合の2得点も演出した。
気温30℃を超えるベトナムでの120分の戦いは想像以上に過酷なものと思われる。何度ものチャンス、ピンチを迎えながら両チームとも譲らず、あわや引き分け、PK戦かと思われた時間帯に生れた決勝点だったから感動も倍加した。
私は民放テレビの中継で観戦した。解説の松木安太郎と大竹七未のコンビがまたよかった。松木は解説者というよりは応援芸人といった解説ぶりが人気だが、そこを女性の大竹がフォローしているのがいい。名コンビ(?)といった感じである。
いや~、こんな感動を25日の決勝戦で再び味わわせてくれるのだろうか?
まだアジアでは頂点に立ったことがないというなでしこジャパンが頂点に立つことを信じて、決勝戦の模様を松木、大竹の名コンビ(?)の解説で楽しみたい。