田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

さっぽろ紙まつりを拝見

2022-08-31 17:53:28 | イベント

 “祭り” をコンセプトとして、「紙」を主人公にしたさまざまな展示や遊びがホールいっぱいに展開されていた。紙まつりは「hokKAMIdo(北紙道)」と称する札幌市内外の紙の加工メーカー4社が会場の大丸藤井セントラルと共催するものだった。

        

 ※ 紙つまりを告知するポスター(?)がユニークだった。人型のポスターです。下紙の橙色の紙はポスターを目立たせるために、私が用意したものです。 

 特に予定のなかった本日は、少し遠ざかってしまった「パークゴルフ場巡り」を計画していた。ところが生憎の雨天となってしまった。そこでブログの話題に取り上げるためにちょっと気になっていた「さっぽろ紙まつり」を取材することにした。

 会場は上記したように大丸藤井セントラルの7階スカイホールだった。エントランスから紙をモチーフにしたデコレーションが施されていた。

   

   ※ エントランスには大きな紙製の人形が出迎えてくれました。

 そして会場に入ると、そこはもう紙・かみ・カミの世界だった。色はいっさい廃し、白一色で “祭り” 世界を表現していた。紙で作った御神輿、紙の太鼓に合わせて紙の人型の踊り、などなど…。そして周りは祭りの縁日が並んでいた。紙くじ、紙のクレープ、紙で作ったお面屋さん、紙のドミノ、等々…。

   

   

   

   

   

   

 「紙のさかなつり」のところで声を掛けられた。「遊んでいきませんか?」と。声をかけられたら応えねばならない。1回300円で紙のさかなつりを楽しんだ。景品はハードカバーの本の試作品だった。説明によると、本を制作する際には本の仕上がりをイメージする試作品をまず作るそうだが、その試作品が景品だった。

   

   ※ 私に声をかけてくれたスタッフの人と、その前が紙のさかな釣り場です。

   

   ※ 景品にいただいたハードカバー本の試作品です。

   

   ※ その試作品を開いたところです。講義などの記録に使いますか…。

 祭り広場(?)とは一線を画したホールの奥には、ショップコーナーがあった。今回の「紙まつり」を主催した紙加工メーカー各社の製品の展示会場だった。その「hokKAMIdo(北紙道)」4社とは?①印刷加工業の「北海紙工社」、②製本業の「石田製本」、③印刷、デザイン、webの「札幌大同印刷」、④紙箱、ギフトボックス、紙製品の製造のMORITAの4社だった。実は私はこの中の「MORITA」の経営者の方とちょっとした知り合いだった。この日に陳列されていたMORITAの製品を以前にプレゼントされていたのだ。その商品名はMINIMUM SPACE BOXと名付けられていたが、紙製品とは思えぬ堅牢な作りの小物入れである。我が家では小物入れとして重宝している。

   

   ※ MORITAの紙製品がズラーっと展示されていました。

   

   ※ 私にプレゼントされた「MINIMUM SPACE BOX」です。

   

   ※ その「MINIMUM SPACE BOX」を展開すると、写真のように変身します。

 ところで「hokKAMIdo(北紙道)」の英語表記だが、小文字と大文字の組み合わせがおかしいなと思っていたのだが、子細に見るとKの一文字目が小文字であることが判明した。

当初は「hoKKAMIdo」と見ていたので、その意味を図りかねたが「hokKAMIdo」であればその意図も見えてくる。ということで、英語表記の中に「KAMI(紙)」という言葉を組み入れたものだと、この文章を作る中でその謎を解明することができた。メデタシ、メデタシ…。 


NHK札幌放送局の新放送会館を見学しました

2022-08-30 16:30:47 | その他

 これまでNHK札幌放送局が主催する数々の企画で何度か訪れていたNHK札幌放送局の新放送会館だが、本日改めて放送局の企画による見学会に参加した。私自身は新しいところに足を踏み入れたわけではないが、改めて新放送会館の魅力に触れた思いだった。

   

   ※ NHK札幌放送局の新放送会館の全容です。(ウェブ上からお借りしました)   

 本日午後、「北海道生涯学習協会」「賛助会員のつどい」が開催された。北海道生涯学習協会の賛助会員とは、公益財団法人である北海道生涯学習協会の運営資金確保のために少しでも寄与しようとする人たちの集まりである。(個人会員の他、法人会員もいるようだ)そうした会員の研修と親睦を深めるために年一回実施されているのが「賛助会員の集い」である。その集いが本日(8月30日・火)NHK札幌放送局会場にして、新放送会館を見学することを目的に開催された。

 見学の内容は次のとおりだった。

 ◆8Kスタジオにおいて新放送会館紹介のビデオ映像視聴

 ◆T-1スタジオ見学

 ◆8Kスタジオで8Kスーパーハイビジョン映像の視聴「パリ・ルーブル美術館」

 ◆1972 sapporo VR体験

 ◆テレビカメラ操作体験

以上だった。

   

   ※ 案内係(オレンジのベストの方)から事前説明を受ける見学会参加者です。

 見学に入る前に印象的なことがあった。会館のエントランスに設けられているインフォメーションのところに昔に精製されたゴツゴツとした札幌軟石が使われていたことだった。私はこれまでも何度も訪れていたのに気付かなかった。私の目が節穴だったことが図らずも露呈した。また、その背後の壁にもこちらはきれいに精製された札幌軟石と北海道産ホタテの貝殻の粉末を使用した漆喰の壁であることも今回初めて知ることができた。また、エントランスに置かれているテーブルや展示用の棚なども北海道産木材を使用するなど、徹底して北海道にこだわって建てられたようである。

   

   ※ 会館のインフォメーションの受付カウンターは荒々しい精製の札幌軟石製でした。

   

  その背後、灰色の低い部分はきれいに精製された札幌軟石、その上の壁はホタテの漆喰が塗られていました。

 ここで見学案内のガイドからNHK札幌放送局の歴史の紹介があった。第1代目の局舎は昭和3(1928)年、現在の中島公園にラジオ放送局としてスタートしたのが最初だそうだ。その後、テレビ放送が開始されるにあたって昭和34(1959)年、前局舎である北1条西1丁目に移転したのが第2代目だそうだ。以来62年間の歴史を経て、昨年8月第3代目として現在の新放送会館に移転したというのがNHK札幌放送局の歴史だという紹介があった。

 さて、見学会の方であるが、私はそのほとんどを体験済みだった。もちろんT-1スタジオも以前に体験していたが、今回は札幌放送局が毎週放送している「北海道道」のスタジオセットがそのままの状態で見学することができ、その広さを改めて実感した。その広さは480m²、畳400畳分に当たるそうだ。そして高さは15m、建物5階建てにあたるとのことだった。

   

   ※ T-1スタジオの「北海道道」のセットと、キャスターの二人です。

   

   ※ セットを裏側を拝見できるのは見学会ならではかもしれません。

   

   ※ T-1スタジオの天井から吊り下げられたたくさんのライト類です。

 スーパーハイビジョン映像はいつ見ても鮮やかだったし、VR体験は札幌放送局が1972年当時の写真を市民などから提供を受けて作成したということで当時の札幌駅前通を体験できるものだった。テレビカメラ操作体験は、私には必要なかったかな?といった印象だった。

   

   ※8KKスーパーハイビジョン映像を視聴ず8Kスタジオです。

   

   ※ テレビカメラ操作体験の一コマです。

 見学時間約1時間。コンパクトにまとめられた新放送会館見学だったが、私個人の感想としては、少々もの足りなかったかな、というのが正直な感想として残った見学会だった…。 


編作オペラ「中山晋平物語」を楽しむ

2022-08-29 13:00:18 | ステージ & エンターテイメント

 「あゝ、このようなオペラを楽しむのもいいなぁ」という思いを抱かせてくれた今回のオペラ公演だった。日本の代表的音楽家・中山晋平の創り出した曲を織り込み、彼の生涯をオペラ風に創り上げた一作は、構成の巧みさや出演者たちの好演もあって心から楽しめた午後のひと時だった…。

        

 昨日午後、札幌市教育文化会館大ホールにおいて、NPO法人「札幌室内歌劇場」が主催する編作オペラ「中山晋平物語 ~カチューシャの唄~」が公演され、観劇した。私は本公演について大して予備知識もなく観劇を決めたのだが、それは中山晋平が作曲した数々の親しみやすい曲が披露されるのだろうという思いと、「いったい日本のオペラってどのようなものだろう?」という好奇心、加えて観劇料がリーズナブル(1,800円)なこともあり観劇を決めたのだった。

 中山晋平というと明治から昭和にかけて、童謡、歌謡曲、新民謡、芸術歌曲など親しみやすい楽曲を少なくとも2,000曲を下らない曲を作曲した作曲家として知られている。

 物語は新劇作家である島村抱月の援助を受けて音楽学校を卒業した中山晋平に、抱月が自身の創った新劇「復活」の劇中歌として「カチューシャの唄」の作曲を依頼する。しかし、晋平は恩人である抱月からの依頼に呻吟する。そこに助けの手を差し伸べたのが交友のあった詩人・野口雨情だった。彼のアドバイスを受け、ようやく曲は完成し大きな評価を得、中山晋平にとっては音楽家としてスタートするにあたっての記念碑的一曲となった。

     

     ※ 舞台のワンシーンです。写真はウェブ上から拝借しました。

 オペラはその経緯を中山晋平が創り出した曲を随所に織り込みながら進行するのだが、 ここで編作” という言葉が気になった。調べてみたがよくは分からなかった。ところが配布されたリーフレットの中に「中山晋平の作曲した旋律、和声を変化させ、全く違う音など大胆なアレンジ(=編作)」とあった。つまり全体の構成などを考えたうえで構成・台本を担当した岩河智子氏が中山晋平の曲に新たな魅力を加えたオペラと解釈するのが適切かな?と私は考えた。

 今回の公演では劇中に実に26曲の中山晋平作曲の楽曲が織り込まれていた。その曲全てをここに羅列してみたい。

〈1〉 カチューシャの唄/さすらいの唄

〈2〉 中野小唄(1)

〈3〉 背くらべ

〈4〉 肩たたき

〈5〉 あの町この町

〈6〉 雨フリ

                                                〈7〉 まりと殿様

〈8〉 砂山                                                                       

〈9〉 野口雨情メドレー ・シャボン玉(1) ・蛙の夜回り  ・兎のダンス ・黄金虫 ・証城寺の狸囃子 ・シャボン玉(2)

〈10〉木の葉のお舟                                                                       

〈11〉シャボン玉(3)

〈12〉てるてる坊主                                                                       

〈13〉波浮の港

〈14〉上州小唄

〈15〉越後十日町小唄                                                                       

〈16〉龍峡小唄

〈17〉諏訪小唄                                                                       

〈18〉須坂小唄

〈19〉中野小唄

〈20〉東京音頭                                                                       

〈21〉船頭小唄

〈22〉雨降りお月~雲のかげ                                                                       

〈23〉さすらいの唄

〈24〉カチューシャの唄(原曲)

〈25〉ゴンドラの唄                                                                      

〈26〉カチューシャの唄(フィナーレ)

 どうでしょうか?私と同世代の方々は誰もが一度や二度は口ずさんだ曲が数多く含まれているのではないと思われる。

 これらの曲を実に巧みに劇中に織り込み、それらの曲を10数人のプロあるいはセミプロと思われる方々が歌い継ぐのだが、それらの人たちだけではなく「札幌室内歌劇場支持会合唱団「コール・ピッコラ」、「児童合唱団」らの40数名の方々がバックコーラスとして支え、大きなスケールでオペラは進行していった。

  

   ※ 主な出演者たちです。(プログラムから)但し、下段の左から4人は楽器演奏者、指揮者、音楽監督です。

 途中の小休止も含め2時間の編作オペラはまったく緩みをみせることなくフィナーレを迎えた。このオペラは札幌だけではなく、東京や中山晋平の故郷・信州長野においても公演され大好評を博したという。それも納得できる舞台だったと私も思った。

 フィナーレを迎え全員が揃った舞台上に心からの拍手を送り続けた私だった。

        

        ※ 東京公演のポスターですが、なんと料金が5,000円となっています。


札幌市制100年 歴史の脇道を覗く

2022-08-28 17:52:51 | 講演・講義・フォーラム等

 今年は札幌市が市制を敷いてから100周年の年だという。その100年の歴史の中には市史などでは触れられない数々のエピソードが眠っているという。講師はそうしたエピソードの数々を興味深く紹介してくれた。

       

 8月27日(土)午後、札幌市資料館において市制100周年記念講演と銘打ってある講演会が開催され参加した。その講演は「札幌できごと史 ~歴史の脇道にはまる~」と題して街歩き研究家を標榜する和田哲氏が講師を務めた。

   

   ※ 開会前、講演の準備をする講師の和田哲氏です。

 和田氏はNHKのテレビ番組「ブラタモリ」の札幌版に登場し、札幌の歴史に関する蘊蓄を披露したことにちなみ「ブラサトル」と自ら名乗り、札幌の街に関するあれこれをメディアや講演を通して市民に伝えている方である。

   

  ※ 「ブラタモリ」に出演した時の和田哲氏です。アシスタントが今やNHKの顔ともなった桑子真帆アナですね。

 今回はリード文でも触れたように、市史などでは触れられない出来事を12のトピックにして伝えてくれた。その12のトピックとは…。

屯田兵 vs 警察 「戦争でも始まるか」と、人々は恐れ門を固く閉ざした。

厚別はいずこ  ちょっとした読み間違いから始まった。

花魁淵     元遊女はどうやって この崖までたどり着いたかを想像する。

石川啄木の札幌滞在  2週間に満たない滞在で、ちゃっかりと彼女ができる。

最初の自動車事故  大通で自分の車にひかれる。

   

   ※ 札幌に初めて登場したベンツの乗用車だそうです。

スミスの飛行ショー  札幌っ子の話題を独占。失敗してもますます人気者に。

   

   ※ ライト兄弟の発明から13年後にアメリカ人のスミス氏が札幌にやってきて飛行ショーをした時の写真です。

盤渓 結城先生の悲劇  なぜ、行きと帰り違う道を歩いたのか。

終戦直後の出版ブーム  札幌が日本の出版文化の中心地だった数年間。

男子スピードスケート世界選手権  戦後の日本のスポーツ界は、札幌から本格始動した。

大通ビアガーデン始まる  「祭りにはお神酒がなければ」という発想から。

シュランツ事件  札幌オリンピック開会式直前に立ち込めた暗雲

運動会の歌  なぜか札幌周辺だけで80年以上歌い継がれている。「忘れられた文部省唱歌」

 どうでしょうか?札幌市民の方なら12のトピックとコメントを読んだだけで、どれも聞いてみたくなる話題ではありませんか?

 私がお聴きした全てを紹介するのはとても無理なことなので、ここではその中から2つをチョイスしてレポすることにします。

 一つは②の「厚別はいずこ」という話題ですが、「厚別」とはもともと「あしりべつ」と称され、現在の厚別川上流の平岡周辺のことを指す地名だったそうです。ですから現在でも当地の神社は「厚別神社(あしりべつじんじゃ)」と呼んでいる。ところが当地の近くに鉄道が通った時(現在のJRとは違ったようだが)駅名は当然「厚別駅」としたのだが、その呼び名を「あつべつえき」と読み間違えたことから、現在の「厚別駅」周辺の地名が「厚別(あつべつ)」となったそうだ。面白いのは、現在でも「厚別川」は平岡辺りの上流では「あしりべつがわ」と呼び、下流の現在の厚別辺りでは「あつべつがわ」と住民の方々は読んでいるということだ。

 札幌に住んでいなかった私でも思い出の片隅に残っている出来事がある。それは⑪の「シュランツ事件」である。札幌冬季オリンピックの開会を控え、オーストリアのスキーの花形選手シュランツ選手のプロ問題が沸き起こった。当時のIOCのブランデージ会長はことのほか出場選手がアマチュアであることを要求した(当時、ブランデージ会長のことを「ミスター・アマチュア」と呼ばれていたのを記憶している)。ところがシュランツ選手は花形選手故に企業などから金銭を得ているのではと問題となり、IOCはシュランツ選手の出場停止を通告した。それに激怒したオーストリア選手団が大会をボイコットするという事態に発展し、大会の開会が危ぶまれた。その騒ぎについては、私も新聞を通して記憶している。ところがシュランツ選手はその裁定に対して「若い選手たちの夢を奪うことはできない。私は独りで帰国する」と述べて札幌を去り、札幌オリンピックは無事に開催されたという経緯があった。その後、IOCも時代の流れの中でプロ化容認に踏み切ったことは諸兄もご存じのとおりであり、シュランツ選手の名誉も回復された。それを受けてシュランツ選手は「もし、アマチュア以外を締め出すなら、オリンピックにはお金持ちしか参加できない。僕の失格が、若者たちの未来を開いたならうれしく思う」とコメントしたそうだ。

   

   ※ インタビューに答えるカール・シュランツ選手の様子です。

 私は当時のことを想い出すと、失格となったシュランツ選手についてネガティブな印象を持っていた。しかし、今回和田氏からその時の騒動の顛末を聞いて50年の時を経て、シュランツ選手の素晴らしい人間性に触れることができたことを嬉しく思っている。

 ことほど左様に、和田氏のお話の一つ一つが興味深い内容だった。機会があったら別のエピソードも紹介したい思いである。来年3月に、私は再び和田氏のお話を伺う機会が予定されているが楽しみである。(テーマはもちろん別なのだが)


我が家のハイビスカスが満開です!

2022-08-27 16:45:06 | その他

 我が家のベランダで育てているハイビスカスが次から次へと開花していたが毎日一輪ずつの開花だった。それが昨日は一度に7~8輪が一斉に開花した。これは珍しい!満開のハイビスカスを眺めながら、私は一昔前のことを想い出していた…。

   

 昔のことを語るようになるのは歳をとった証拠とよく言われるが、私も例外ではないようだ。少し昔のことを語ってみたい。それは我が家のハイビスカスにまつわるアナザーストーリーである。

   

 私は退職し、札幌へ居を移して第二の職場で一年を経過した2008年3月に妻と沖縄へ4泊5日の旅に出た。プランはレンターカー付きのフリープランだった。その旅で、私は沖縄本島の全26市町村全てを訪れることを自分に課した。(妻からは不評だったが…)さらに私は次の3条件を自分に課した。その3条件とは…、

 ① 市町村庁舎前で写真を撮ること。
 ② 当該市町村に関するパンフレットを1部以上入手すること。
 ③ パンフレット以外に当該市町村に関するsomethingを入手すること。

を自分に課したのである。

 私はこの旅を単なる観光旅行に終わらせたくなかった。もちろん観光も重視するが、それより沖縄全体を巡ることで、できるだけ沖縄のことを知りたいと考えたのだ。3つの条件のうち①と②はそれほど難しくなかった。沖縄の自治体職員はおおむね親切で、パンレットの類を渡してくれるだけでなく、自市町村のことをあれこれと説明してくれる方も多く、私の沖縄理解を深めることを助けてくれた。

   

 難しかったのは③の市町村のsomethingを入手することだった。土産物店で小物を購入したり、市町村を代表する木の葉を収集したり、と頭をひねりながらsomethingを捜し歩いた。最も苦労したのは「宜野湾市」を訪れた時だった。宜野湾市役所の界隈は官庁街だったこともあり商店は少なく、特産品のようなものも見当たらなかった。しかたなく入ったスーパーストアでスポーツ新聞を見つけた。新聞は「スポニチ」でした。「スポニチ」といえば全国紙ですが価格が50円だった。(当時全国的には130円でした)どうして安いかというとページ数が12頁と頁数の少ない沖縄版だったのだ。競馬欄などが省かれたからのようだった。他に当てのなかった私はその琉球新報社版の【新報スポニチ】を宜野湾市の記念の品とすることにした。

 そうした旅を続ける中で「豊見城市」を訪れた。豊見城市の土産物店で目にしたのがハイビスカスの小枝だった。それは20cm程度の一本の棒状のものだった。それを土に埋めておくとやがて芽がでるというのだ。「これは面白い!」と思い購入した。

 帰宅して早速、鉢植えしたところ翌年には芽を出した。そしてどれくらい経過しただろうか?無事に花も付けてくれた。しかし、それはそれほど多くの花を付けてはくれない。以降、ハイビスカスの木は枯れはしないものの花を付けることは稀だった。それを今春、妻が友人のアドバイスを受け、鉢の土を入れ替え、定時的に液肥を投入したところ7月に入ったころから日替わりのように花が次々と咲きはじめた。(ハイビスカスの花の命は一日限りのようだ)一輪ずつしか花を付けなかったハイビスカスが昨日一斉に6~7輪花を付けたのだ。小枝を購入後14年目の到達点だった。

   

   ※ 久しぶりに目にした「Recollection」と名付けた2冊のファイルノートです。

 物語はまだ続く。私はその沖縄の旅で収集したパンフレットやsomethingをファイルノートにまとめて保存した。「Recollection」と名付けて…。そのファイルノートはパンパンに膨れて2冊にもなった。そのファイルノートを本棚の奥から取り出し、懐かしさに駆られて繰ってみた。そして「豊見城市」の項を開いたときに、なんと!当時購入したハイビスカスの小枝が1本出てきたのだ!購入したのは小枝が2本1セットだったようである。驚いた私は妻に「こちらも育ててみよう!」と提案した。果たして14年も放っておかれた小枝から発芽するのだろうか?興味津々に育ててみたいと思う。

   

  ※ 豊見城市のsomethingとしたハイビスカスの小枝です。長さは20cm程度のものです。はたして発芽するか?


久しぶりの刑事裁判の傍聴に緊張

2022-08-26 15:00:13 | 講演・講義・フォーラム等

 久しぶりに刑事裁判を傍聴した。独特の緊張感の中、審理が進むのを見守ったが、案件が「道路交通法違反」だったためか(?)即日結審となった。裁判を終えた後、裁判長より刑事裁判の基本的なことについての解説も伺うことができた。

       

 8月24日(水)午後、札幌市資料館主催の「刑事裁判の傍聴と解説」のイベントに参加した。札幌市資料館では、年間を通して様々なイベントを開催しているが、建物が元「札幌控訴院」であることから「法・司法を学ぶイベント」にも力を入れている。

 今年度も2回の「刑事裁判の傍聴と解説」イベントを計画しているが、今回はその1回目だった。参加者は希望者の中から選ばれた14名が札幌地方裁判所で13時30分から開廷した刑事事件を傍聴した。裁判の案件は前述したように「道路交通法違反」に関する件だった。

 その交通違反とは、被告Aは某日夜、勤務を終えて帰宅する際に時速60km制限の道路を89kmオーバーの時速149kmで走行したところ、路上に設置されていた「オービス(速度違反自動取締装置)」に検知・記録され、後刻検挙されたものである。

 印象的な場面があった。それは裁判の開始に当たって、裁判長が被告に向かって「裁判長、検事、弁護士からの問いかけに対して答えたくない場合は答えないと意思表示しても良い。無言でも良い」とし、「問いに対しては簡潔に答えること」と言った場面である。これはどの裁判においても必ず行われていることと思われるのだが、実際に立ち会って聞いてみると「ずいぶん慎重なんだなぁ」という思いを改めて感じた。

 裁判は被告Aが起訴事実を全て認め、真摯に反省していたことからスムーズに審理が進められた。審理の中で、被告Aは生後5か月の娘が風邪を引いたとの妻からの連絡に動揺し、勤務後に一刻も早く娘の顔を見たかったために、ついつい速度を出してしまったと弁明した。その中で明らかになったことで、被告Aは物流会社の倉庫でフォークリフトを運転する仕事をしていたという。その勤務だが、朝の5時に始業し、仕事を終えたのが夜の21時過ぎだったという過酷な就業実態が明らかになったことだ。おそらく繁忙期だったのだろうが、あまりもの長時間勤務の実態を聞いて、交通違反を犯したという事実は別にして、被告への同情を禁じえなかった。

 裁判は事実認定について争うところはなく、検事から「89kmオーバーという悪質な交通違反ということを鑑み懲役4ヵ月を求める」と求刑がなされた。対して弁護士は「子どもの病気を心配するあまりつい速度違反を起こしてしまったこと、被告が真摯に反省していること、などを鑑み執行猶予を求める」旨の最終弁論を行った。さらに裁判長は被告に対しても最終陳述を求めたが、被告からは「真摯に反省して、立ち直る」旨の言葉があり結審した。私はここで閉廷となり、判決言い渡しは後日なのではと思っていたのだが、予想に反し、その場で裁判長からの判決言い渡しがあった。その判決内容は「被告を懲役4ヵ月に処する。その執行を2年間猶予する」と言い渡した。そして「判決内容に不服のある場合は、上告する権利がある」と述べ、閉廷した。

   

 閉廷した後、小休止を取った後、今回の裁判を指揮した裁判長が直接私たちに対して解説してくれた。その内容は「刑事裁判の役割」、「刑事裁判の原則」などについてだった。

 「刑事裁判の役割」については、①起訴状に記載された犯罪事実について、被告人が有罪であるか否か。②有罪であるとして、どのような刑を科すのが相当か(量刑)。がその役割であるとした。

 「刑事裁判の3つの原則」については、①証拠裁判主義(事実の認定は証拠によらなければならない)。②被告人が有罪であることについては検察官が立証責任を負う。(無罪推定)③有罪とするには常識に照らして間違いないといえるだけの確信を持つ必要がある。という3つの原則があるとした。

 そして、今回の道路交通法違反以外の刑事事件も、裁判において刑罰を科すためには法律に規定                                                                              されていることが必要だとした。(刑法、薬物関係の法律、等)その他、自白事件と否認事件の裁判の違いなどについても解説されたが省略したい。

 前述したように、10数年前に一度刑事裁判を傍聴した体験があった私だが、ほぼ記憶にはないことから初めての傍聴体験といってもよい今回の体験だった。人身事故などを伴わない交通違反案件だったが、厳粛な雰囲気の中で行われる裁判は私にとって得難い体験だった。

※ 裁判中の写真撮影はもちろNGだったので、札幌市資料館内に復元されている「旧刑事法廷」を代わりの写真として掲載します。                                               


バースディランチ あんど…

2022-08-25 14:06:37 | イベント

 いまさら自分の年齢を公表したくはないのだが…。昨日24日、76歳の誕生日を迎えた。体力の衰えは感じつつも、今のところ特に身体の異常もなくこの日を迎えられたことを、私をとりまく全ての人・モノ・コトに感謝したい思いである。そんな私を妻が細やかに祝ってくれた💛

 この歳になると「いまさら…」である。老境にいたると誰もがそう思うのではないだろうか?そんなに急いで時間が経過しなくとも良いのに、と…。しかし、そんな願いは通用しない。容赦なく時間は過ぎてゆく…。そして私はいつの間にか76年もの生を与えられ今日を迎えた。私を元気に育ててくれた両親、そして健康を気遣ってくれた妻、さらにはそれとなくいつも気遣ってくれる息子、そして私とお付き合いいただいた多くの方々に感謝したい思いでいっぱいである。

       

       ※ お店のHPから拝借

 妻は「誕生日にはランチを」と提案してくれた。しかし、24日当日は予定が入っていた。そこで23日に街に出かけランチを楽しませてもらった。会場はJRタワー35階のスカイレストランの「丹頂」。「丹頂」はこれまでも何度か訪れたところであるが、久しぶりに高層階からの札幌の街並みを楽しみながら食事を楽しんだ。メニューは、私が「季節の二段重」、妻が「「釜炊き」北海道産米御膳~深川産ゆめぴりか~」をオーダーした。いずれも食材へのこだわりが感じられ美味しくいただくことができた。

   

   ※ 南方向の札幌の繁華街を望んだものです。

   

   ※ 子ちらは西方向。緑のところは「北大植物園です。その向こうの緑は、私たちを悩ませる近代美術館の前庭に立つポプラの大木です。

        

    ※ 東急百貨店の屋上では、今流行りのグランピングをしているようでした。

 ここ数年、私の日常は近代美術館前の歩道清掃ボランティア「近美を愛するブリリアの会」の活動と、シニアの学習グループ「めだかの学校」に参加することが基本となっている。両者ともに2週間に1度の活動である。その他は、新聞や情報紙などから興味ある講座やイベントを探し、スマホのスケジュールを埋めることに執心している。そして、そのスケジュールにしたがって札幌市内のあちこちを歩き回っている。そのことが私にとっての何よりの健康法だと信じて…。

   

   ※ 私が味わった「季節の二段重」です。

   

   ※ こちらは妻がオーダーした「釜炊き」北海道産米御前です。

 山歩きやロングウォークがこのところめっきりと減ってしまったが、これはまあ加齢と共に体力の衰えを自覚しはじめたので仕方がない。年齢相応の過ごし方をしていきたいなぁ、と考えている今日この頃である。

   

   ※ お店のHPから拝借しました。

 サプライズがあった。23日に続いて昨夕、私の本来の誕生日に妻が今度は「ウナギの蒲焼」をプレゼントしてくれた。(テイクアウトで)札幌では名店の一つに数えられるのだろうか?中央区のうなぎ「うな明」の蒲焼弁当だった。温かなふわふわの蒲焼を美味しくいただいた。

   

   

 


吉村昭著「プリズンの満月」

2022-08-24 19:04:33 | 本・感想

 「共苦(ミットライデン)」という言葉を知った。主人公の鶴岡は戦争犯罪人を収容する巣鴨プリズンの刑務官として実直にその職務をまっとうした。しかし、彼の低意は常に「共苦」に苛まれたという。戦犯とは?東京裁判とは?架空の主人公・鶴岡の視点から吉村昭はこの問題に切り込んだ。

        

 吉村昭は言う。「江戸時代末期を背景とした歴史小説の執筆が続いたので、別種の空気に触れる必要があると考えた」と…。そうしたときに吉村の中で水泡のように浮かび上がってきたのが、巣鴨プリズンに勤務していた日本人刑務官が、警備の米軍将校と収容されている戦犯との板ばさみで奇妙な時期を過ごしたという話が思い起こされたという。そこで吉村は小説の主人公に彼が創造した “鶴岡” という刑務官を登場させた。そして吉村は言う。「鶴岡以外は全てが事実であり、フィクションとしてはいささか変則かもしれない」と…。

 鶴岡は兵役を務め、終戦と共に縁あって熊本刑務所に職を得た。ところがそれから5年後の昭和25年夏、戦犯を収容している巣鴨プリズンを警備していたGHQのアメリカ兵が朝鮮戦争のために大量に派兵され欠員ができたために転勤を命ぜられ巣鴨プリズン勤務となった。

 巣鴨プリズンにはA、B、C級の戦犯が最も多い時期で2,100余名が収容されていた。A級とは平和に対する罪として、戦争の計画・準備、あるいはその共同謀議に関わった者たちを指した。B級はいわゆる戦争犯罪、C級は人道に対する罪に該当する者と分けられていた。

 鶴岡らにはカービン銃が渡され、それを肩にかけての警備が始まった。その姿に戦犯たちは「同じ日本人のくせに、銃を手におれたちを監視するのか。その銃でおれたちを打つのか」と憎々しげに言う戦犯たちの声に彼ら日本人刑務官はGHQの管理下におかれている自分たちの立ち位置に苦しんだ。

 吉村は戦争犯罪を裁くということの矛盾を次のように表現した。「戦勝国では敵国の将兵を多く殺害したことで英雄視され、敗戦国では逆に罪に問われている。戦争そのものが大きく常軌をはずれたもので、常識を基本に進行される裁判の枠の中にはめこもうとしても、その余地はない。戦争裁判は、裁判という形式をとりながらもあくまでも戦勝国の一方的な報復の性格をもつ」と…。

 そうした中、巣鴨プリズンではA級戦犯だけでなく、B・C級戦犯も次々と処刑されていった。鶴岡が赴任した時にはA級戦犯7名は処刑されていたが、その後私が調べたところB・C級戦犯53名が処刑台に送られている。

 鶴岡たちの職務はGHQに絶対忠誠が求められる任務の中、同胞たちを監視するという監視するという板挟みの中で悩みながら勤務が続いた。刑務官ではなかったが、絞首刑に使う絞首台を作成したということで精神の平静を保てなくなってしまった者もいた。

   

   ※ 著書の中にあった「巣鴨プリズン」の略図です。図の左上に「刑場」という文字が見えます。

 自分の立場に悩みながらも鶴岡は与えられた任務を誠実にこなし、昭和27年「巣鴨プリズン」はその役割を終え、「巣鴨刑務所」に改編されてからも勤め上げ、さらには「小菅刑務所」に転任、ささやかな出世も果たし、60歳の定年を迎え無事に退職したのだった。

 その後、鶴岡は元「巣鴨プリズン」に勤めた同僚との旧交を温める会に一度も出席しなかったばかりか、元「巣鴨プリズン」、その後の「東京拘置所」にも一度も足を運ばなかったという。

 ここに吉村は静かに、そして婉曲的に、戦争というものの愚かさ、むなしさを表現しようとしたのではないだろうか? まさに鶴岡は「共苦(ミットライデン)」の中、彼の職業生活、いや一生を終えたと言えるのではないだろうか。

 なお、著書名「プリズンの満月」は、彼が警邏中に見た満月を、戦犯たち収容者は獄の中からどのような気持ちでその満月を仰いだのだろうか、という思いを表したものだという。

 この著が発刊されたのは平成10(1998)年である。                                                                                                                             

 


朝刊さくらい出張スマホ教室体験記

2022-08-23 16:30:16 | 講演・講義・フォーラム等

 スマホを使い始めてすでに10年以上経過しているというのに、私のスマホ活用術は初歩の域にとどまっていることを告白せざるを得ない。そこで一念発起してスマホの初心者教室に参加してみることにした。

    

 8月28日(日)、HBCラジオの朝の番組「朝刊さくらい」のパーソナリティ、桜井宏さんと佐藤彩さんがナビゲートする「出張スマホ教室」がTKP札幌駅カンファレンスセンターで開催されると知って応募したところ、無事に招待状が届いたので参加してみた。

 前述したように私がスマートフォン(私が使用しているのは当初からi-Phoneである)を手にしてすでに10年以上が経過している。しかし、私がスマホを使う場面は、その大半がインターネットに繋いでニュースを読んだり、調べものをしたりすることに利用することが大半である。メールの類はラインは登録したもののなんとなく馴染めなく、メッセージ機能で連絡を取るくらいだ。カメラも私の場合はふだんからコンデジを主として使用して、スマホのカメラはたまあにしか使用しない。ということで私のスマホ活用術は初歩の域にとどまっているのが現実である。

   

   ※ 出張スマホ教室の司会進行をする桜井宏アナと佐藤彩アナのお二人です。

 教室はdocomoショップの協力という形だったので、いわゆるシニア層を対象としたdocomoの「らくらくスマートフォン」を使っての教室だった。そしてその内容は超初心者教室といった趣で、前半は入力の方法について文字入力、音声入力、手書き入力の方法を教えるといった内容だった。

 前半は私にとっては期待外れというか退屈な内容だったが、後半に「キャッシュレス生活のすすめ」と題して、「d払い」の方法を教えていただいた。この「d払い」のアプリを私はなかなか取り込めずにいた。今回の成果は、この「d払い」アプリを無事に取り込めたことが成果だった。

        

      ※ こちらはスマホのd払い画面とは違います。d払いのイメージとして掲載しました。

 教室では取り込んだ「d払い」アプリを使って早速「d払い」体験をすべく、森永製菓の札幌支店が森永製品を格安で販売するコーナーがあったが、私はどうもそれらに手を出す気はなく、会場を出てからコンビニのローソンで初体験をした。かなり時代遅れである。ようやくスマホでのキャッシュレス体験をした私だった…。 

       

      ※ 教室終了後、アンケートに答えるとHBCのキャラクター「もんすけ」のスマホ画面の汚れを拭くクロスがプレゼントされました。        

 機会があれば、これからもスマホを機能を使いこなすための教室等に積極的に顔を出してみたいと思っている。


「小樽公園」を巡ってみた…

2022-08-22 16:19:42 | 札幌市の公園・緑地・緑道

 小樽市のJR小樽駅からそう遠くない市の中心部の小高い丘一帯が「小樽公園」だった。公園内には小樽市の文化施設、スポーツ施設が集中している感があった。そんな「小樽公園」を巡ってみた。

  

 8月20日(土)、「小樽公園」内にある「小樽市能楽堂」において公演があり、それを観賞するために訪れた機会に、「小樽公園」をざーっと巡ってみることにした。

 まず、公園の入り口付近に建つ「小樽市文化会館」である。ややくたびれた感じの外観であるが建設が昭和38(1963)年で築59年というから無理からぬところか?私は札幌に居を移して間もなく、この会館で開催された「武田鉄矢と海援隊」のコンサートを聴いたことを記憶している。この市民会館で「面白い!」と思ったのは「小樽市民食堂」なるものが入っていることを今回知った。「どんなところだろうか?」と興味を抱いたのだが、残念ながら休業日だった。

   

   ※ ちょっとくたびれた感もある「小樽市民会館」の建物です。

   

   ※ その市民会館の一角に「小樽市民食堂」がありました。「市民食堂」とは珍しいネーミングですね?

 市民会館から「小樽市公会堂」を横目に坂を上ると「小樽市総合体育館」がある。こちらも建設が昭和49(1974)年というから、かなり年数が経った体育館であるが、アリーナ―以外に体育室が3部屋のある大きな体育館のようである。

   

   ※ 「小樽市能楽堂」が敷設された「小樽市公会堂」の由緒ある外観です。

 体育館の前には「公園運動場」という多目的の照明付きのグランドが広がっていた。照明が付いているだけに、さまざまな使い方があると思われる。

   

   ※ かなり大きな「小樽市総合体育館」です。アリーナはずーっと奥にあります。写真に写る照明塔は下の写真の「公園運動場」を照らす照明です。

   

   ※ 多目的にさまざまな競技やレクリェーションに使えそうな「公園運動場」です。

 体育館からさらに丘を登っていくと野球場が見えてくる。「桜が丘野球場」という名の硬式野球向けの球場である。私が行ったときに成人の人たちが練習をしていた。おそらく小樽の名門クラブチームの「小樽協会」の選手たちだと思われた。この球場は小樽地区の高校野球の予選大会にも使われている球場である。

   

   ※ 硬式野球ができる「桜が丘球場」です。

 球場を後にしてさらに上っていくと各種遊具が備わっている「こどもの国ゾーン」である。私が訪れた時は夕方近くとあって遊んでいる子どもの姿はなかった。

   

   ※ 小樽公園の丘の頂上近くに「こどもの国ゾーン」が広がっていました。

 そしてその上、公園の最上部に出る。「見晴台」と呼ばれるちょっとした広場である。 ここで目立ったのは巨石を立てた石碑だった。表面には「長紀聖蹤(ちょうさせいしょう)と刻まれていた。この日は明治天皇が明治14(1881)8月30日に北海道に初めて足を踏み入れたのが小樽市手宮桟橋だったことから、その日から50年後に小樽市で成功した豪商・渡辺翁によって建立されたそうだ。その巨石の大きさだが、ある方が畳6~7枚ほど、と言っていることから、その大きさを想像してほしい。

   

   ※ 「見晴台」から見た小樽港の眺めです。

   

  ※ 「長紀聖蹤」碑です。周りに大きさを比較するものがないので、その大きさを実感できないのが残念です。

 その近くには、反対に小さな小さな「ラジオ体操像」が立っていた。その大きさの対比が面白かった。この「見晴台」の広場が市民のラジオ体操の会場になっていると思われる。

   

   ※ 小さな「ラジオ体操像」です。人物だけでは50cm程度だったように思います。

 「見晴台」から反対側を下りていくと、「日本庭園」があった。公園自体の開設が明治33(1900)年というから、当然のように「日本庭園」が造成されたのだろう。「日本庭園」というと、小樽市はニュージーランドのダニーデン市と姉妹提携しているが、私は2013年にダニーデン市を訪れたことがある。その際に、ダニーデン市内に小樽市から寄贈された「日本庭園」があった。若干整備されていないところが気になったが、今はどうなっているだろうか?

   

 さらにその下方には歌人・石川啄木の歌碑も立っていた。歌碑には「我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なぬと思ふ」とあった。

   

 私が巡って歩いたところは以上であるが、その他に公園内には「庭球場」、「弓道場」、「市立図書館」などもあるということだ。文字どおり「小樽公園」は小樽市民の文化・スポーツ活動の拠点的役割を果たしている公園ということがいえそうである。