田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №20(最終回)

2022-11-05 11:46:04 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「北区歴史と文化の八十八選巡り」の最終章である。最後は北区の中でも最も北端に位置する「あいの里地区」の中心地区を巡った。あいの里地区は1980年代から計画的に整備されたニュータウンであるが、その前から残されている史跡などを巡った。

84〉仙人庚申塚

 この「仙人庚申塚」はあいの里地区の住宅街の端にひっそりと立っていた。小さな祠の中には行者と行者に纏わり付くように「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれていたが、私にはその由来は良く分からなかった。そこで下記の文章を見つけてきたので参照いただきたい。

   

   ※ 庚申塚はちょうど道路の角地に建てられてありました。

   

   ※ 塚は斜視のように祠の中に収められ、扉は厳重に閉じられていました。

       

        ※ 扉の隙間から行者の姿を撮らせてもらいました。

       

       ※ 庚申塚を移動したことを後世に残すため(?)の碑と思われます。

 この石像は、明治28(1895)年に建立され、山岳信仰の開祖といわれている役行者をかたどっている。右手に錫杖、左手に煩悩悪霊を打ち砕く金剛杵をもつ。台座には右から「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれている。これは何事もつつしみ深くあらねばならないという庚申信仰の教えを表している。仙人の姿をした庚申塚めずらしく民俗学上も貴重なものである。なお、この像は昭和60(1985)年、東北約10メートルのところから現在のところへ移された。                      

   〔住 所〕北区あいの里4条2丁目

   〔訪問日〕10月7日

85〉篠路の馬魂碑

 この馬魂碑を探すのにはかなり手間取った。というのも、住所の表記は農場内となっている。きっと農家の庭先にでもあるのだろうと柳沢さんの庭を探すも見つからない。周りで所在を聞こうにも人はまったく見当たらず途方に暮れた。そうしたとき、ふっと農場の畑に目をやったときに、畑の真ん中にそれらしきものを見つけることができた。なんとここの馬魂碑は畑の真ん中にあったのだった。その馬魂碑の傍に立っていた説明板には次のように書かれていた。

   

       ※ 馬魂碑は畑地の向こうのポプラの樹の根元に祀られていました。私はあぜ道を辿って近づかせてもらいました。

   

   ※ 馬魂碑は影で良く見えませんが、青い看板の右横にあります。

        

        ※ 光の加減で良く映りませんでしたが、「馬頭観世音」と読むことができます。

 開拓時代、馬は農耕や輸送に貴重な役割を果たした。人々は優秀な馬の導入に力を入れ、明治30年代にフランスからペルシュロン種を輸入し改良に成功した。とりわけ篠路は、大正から昭和にかけて優秀なペルシュロン種の産地となり、「篠路ペル」の名で道内各地に送り出されていた。この碑は、篠路で生まれ活躍した農耕馬の健康を願うとともにその魂を慰めるため、開拓農民が篠路の野に建立したものの1つである。

    〔住 所〕北区篠路町拓北255番地7 柳沢農場内

    〔訪問日〕10月7日

〈86〉トンネウス沼

 トンネウス沼は、以前から何度も訪れたことのある沼だった。沼の前には「札幌あいの里高等支援学校(旧札幌拓北高校)」の校舎が建っているが、対岸には「あいの里公園」が広々と広がっている。沼は貴重なトンボ類の生息地として有名で旧拓北高校の生徒たちが観察活動を続けていたことが記憶にある。しかし、景色としての沼は水草が沼面を覆っていてあまり美しい光景とはいえないのが残念である。札幌市北区制作の説明板には次のように説明されている。

   

   ※ 「あいの里公園」入口に設置されていた公園案内図です。

   

   ※ 鮮やかなグリーンが広がるあいの里公園でした。

   

   ※ 「あいの里公園」内にある「トンネウス沼」をいろいろな角度から撮ってみました。できるだけ水草が写らないようにしながら…。沼の向こうの建物は「札幌あいの里高等支援学校」の校舎です。

   

      

 ここあいの里公園内にある「トンネウス沼」。地区における雨水貯留機能をもち、茨戸川に水門でつながる旧河川で、水深1メートル前後、ひょうたん型で周囲は1キロメートル。この池は、流れがないうえ水深が比較的浅く、水草が豊富にあるところから、貴重なトンボの生息地となっている。昭和61年の調査によると、「セスジイトトンボ」、「オオイトトンボ」、「アジイトトンボ」など希少種三種のほか、「ギンヤンマ」など十数種のトンボが確認されている。 

    〔住 所〕 北区あいの里4条8丁目 あいの里公園

    〔訪問日〕 10月7日

〈87〉あいの里開発記念碑

 「あいの里開発記念碑」はあいの里の住宅街の一角に建つ「拓北会館」(あいの里地区はもともとは拓北と称していたようだ)の前庭に建てられていた。その碑の傍には次のような説明板が設置されていた。

   

   ※ 拓北会館の左手に建つのが「あいの里開発記念碑」です。

   

   ※ その記念碑を大写ししたものです。

 米の一大生産地から「あいの里団地」へと造成工事が本格化していく中で、拓北宅地開発期成会が昭和57(1982)年に建立した。白みかげ張り30センチメートルの台座の上に自然石を並べ、その上に日高産の赤石高さ1.6メートルを添えてある。碑前に黒みかげ製の碑文がある。

   

    ※ 記念費の台座のところには写真のような碑文が添えられていました。 

 その碑文を紹介すると…、

 此の地域一帯の開拓は明治十五年畑作藍の耕作に始まる民間資本の投入による大規模組織的開拓の嚆矢であった先人達は頻発する天災と挫折に耐え此の地の農業を次第に安定させのち雑穀主体有名馬産地としての歩程を辿る大正末期には造田が開始され昭和二十年代には水田耕作が確立同四十年篠路地区随一の米生産地となった昭和四十五年に始まる稲作生産調整により大巾休耕転作の止むなきに至り営農の指標を定め難き折しも石狩湾新港に呼応する宅地開発の札幌市長構想を知り昭和四十八年五月地区有志相謀り同年失月四十七名を以て拓北宅地開発期成会を設立日本住宅都市整備公と折衝に入った大規模にとの要望に応え不賛同地主を積極的に勧誘最終七十六名の会員となる昭和四十八年十二月二十五日土地区画整理事業として契約成立同五十四年着工工事施工は北海道住宅供給公社である開拓当時の故事にちなみ「あいの里」と命名された茫漠たる原始の地に開拓の鍬が打ち下ろされて百星霜余かつて農地として開発された此の地が今三万有余の人口を収容する大住宅地に変容する時の流れを思い昔日の感にたえず此の地の農業の終焉に当り先人の労苦を偲び往時の歩程を後世に伝えんと此の碑を建立する。

  昭和三十七年十一月二日 吉成數也書

    〔住 所〕 北区あいの里4条6丁目 拓北会館前

    〔訪問日〕 10月7日

〈88〉「あいの里」竣工記念碑

 いよいよ八十八選の最後である。JR「あいの里教育大」駅を出ると、左手に大きな鉄製のモニュメントが目に飛び込んでくる。これが『「あいの里」竣工記念碑』である。北区では八十八選の最後に未来志向の意を込めてであろう、あいの里地区を代表する文教施設として建設された北海道教育大学札幌校をイメージした記念碑を選んだようだ。この選択にはおそらく誰もが同意できる選択のように思われる。その「あいの里」竣工記念碑についての説明文はなかなか見つからなかったが次の文章が参考になると思われる。

   

   ※ 「あいの里教育大」駅を出て、左手のところに大きなモニュメントが建てられています。

   

   ※ モニュメントはちょうど線路をまたぐ陸橋のところにあります。

   

   ※ 正面から写すとかなり巨大なモニュメントです。

 平成2(1990)年の宅地完成を記念して、ギリシャ神話に登場する学問と芸術の女神「MUSE(ミューズ)」をイメージしたモニュメントが建てられました。国内外で鉄やステンレスなど金属を使った創作活動をしている彫刻家・国松明日香の作品です。

    〔住 所〕 北区あいの里4条6丁目 JRあいの里教育大前

    〔訪問日〕 10月7日

北区歴史と文化の八十八選巡りを終えて

 以上、20回に分けて「北区歴史の文化の八十八選」をレポートしてきたが、とても心楽しい八十八選巡りだった。私にとって八十八選の多くは以前に訪れたところであったが、今回の取り組みで初めて訪れることができたところも多い。例えば、「北大遺跡保存庭園」や素人相撲の方の石碑を二つ出会えたこと、また北区が畑作、米作地帯として栄えたことから数多くの馬頭観音の類の石碑が数多く現存していたことも新しい発見だった、等々…。

 さらに再訪できたところでも、屯田みずほ通り、屯田防風林、北27条公園通り、安春川の散策路など札幌ならではの素晴らしい通りを再び歩くことができたこと、などたくさんの収穫を得た。

 そして何より、このシリーズの特別版でレポした百合が原地区の先達者・中西俊一氏との出会いはこのシリーズの何よりの僥倖だった。氏から伺ったお話の数々は北区の歴史を知るうえで大きな助けになったことは言うまでもない。今回改めて北区の歴史の文化を意識しながら巡ったことで北区のことを深く理解する機会を与えてもらった思いである。

 この「北区歴史の文化の八十八選」巡りは私の中で永く記憶に残る取り組みの一つとなった思いである。

 さて、次は…、と思いを馳せているが、近づく季節は冬…。しばらくは私も冬眠をむさぼって、来る春にはまた何か新しい目標を見つけたいと思っている…。


北区歴史と文化の八十八選巡り №19

2022-11-04 13:08:55 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 北区歴史と文化の八十八選巡りの最後№19、20は藍の栽培で一時代を画したあいの里地区を巡った。本項ではあいの里地区の中心街からは少し離れた5件の物件についてレポートする。

79〉水野波陣洞(はじんどう)句碑

 この句碑を見つけるのには少々苦労した。というのも句碑のあるところが「ガトーキングダムサッポロ内」となっていた。そのホテルガトーキングダムへ至る引き込み道路を行くと、その途中に次にレポする〈80〉の川端臨太句碑は容易に見つかった。ところがこちらの水野波陣洞句碑はなかなか見つからない。ホテルまでの引き込み線を往復するうちに、なんとその引き込み線の入口近く、奥まったところに句碑は目立たなく建っていた。他から訪れる者のために、もう少し何か目印のようなものがほしいと思ったのだが…。

   

   ※ 水野波陣洞の句碑は、写真右端の倉庫のような建物の脇に建てられていました。(石が白く光っています)

   

   ※ 傍へ寄って撮った句碑です。

   

 句碑には「白鳥の 翼の唸り ふり被り  波陣洞」と刻まれていた。傍に立てられた北区制作の説明板には次のように記されていた。

 白鳥の翼の唸りふり被り」、水野波陣洞は、北の風物をとらえた作品の句作に務めてきた。この作品は、本人が土木測量等の仕事に従事しながら、頭の上を飛んでいった様を歌ったものであると言われている。昭和51(1976)年、札幌市文化奨励賞を受賞                                              

〔住 所〕北区東茨戸ガトーキングダムサッポロ内

〔訪問日〕10月7日

80〉川端麟太句碑

 こちら川端麟太の句碑は前述したようにホテルガトーキングダムへの引き込み道路の中間あたりで容易に見つけることができた。句碑の周囲もそれなりに整備されていた。

   

   ※ 一方、川端麟太の句碑は石碑の周りがそれなりに整備されていました。

   

   ※ 川端麟太の句碑です。

   

   ※ 句碑の傍には川端の略歴が刻まれていました。

 こちらの句碑には「のぞみありて 庶民の帽の 青きひさし  麟太」と刻まれていた。そしてその傍には次のように記された説明板が立っていた。

 のぞみありて庶民の帽の青きひさし」、青木麟太は庶民のうたごえとしての俳句をめざし、豊かな庶民感覚を盛り込んだスケールの大きい作品が多い。この作品は一生懸命働いている人の様を歌ったものであると言われている。 

  〔住 所〕北区東茨戸ガトーキングダムサッポロ内

  〔訪問日〕10月7日

〈81〉藍栽培ゆかりの地

 この「藍栽培ゆかりの地」は、あいの里地区の西端の興産社地区会館の敷地内にたくさんの石碑が建っているが、その中に「藍栽培ゆかりの地」という銘板が立てられていた。その記念碑的石碑は「報徳碑」という形で建てられ、その碑の裏側に藍栽培にまつわる経緯が記されていた。その碑文を転写する。

   

   ※ 石碑が立ち並ぶ広場の一角に建つ興産社地区の地区会館がありました。

   

   ※ 祖の地区会館の横には写真のようにさまざまな石碑が立ち並んでいました。

   

   ※ その中の一つに「報徳碑」が建ち、藍栽培が盛んになった謂われが説明されていました。(下の文参照)

 興産社社長滝本五郎翁は、徳島(阿波)の生まれで、幼少の頃から聡明であった。開拓精神に富、明治十四年に弟の阿部興人、原文吉、近藤庫太郎などと相談して、札幌郡篠路(拓北)の地を開墾したが、その十七年間は困難をきわめた。しかし、粘り強く頑張りついに六百九十町を開拓し、農民百五十人を入植させる偉業を達成した。明治二十三年には藍の製造で全国一等賞を受賞し、更に明治二十九年藍綬褒章を受章したが、明治三十二年十月九日病のために六十四歳にて惜しまれて逝去した。その業績に対して次の言葉を贈り、その徳を讃えます。剛健なり、金銭堅固なり、自ら辛酸をなめ、風雪に耐え、勤倹に勤め、慈愛に満ち、鬱蒼たる荒れ地を開き、藍の栽培で国を富ませ、その素晴らしい功績がこの地に永久に留まることを祈念いたします。功績多大のため、その一端を掲載するのみです。

追記

 既存の報徳碑は、建立から百七年も経過し、刻印された文字も薄れ読み辛くなりましたので、簡単な現代文に改め開拓魂を引き継ぐ絆といたします。

 平成十九年八月十九日 唐牛 繁三

   〔住 所〕 北区篠路町篠路419番地

   〔訪問日〕 10月7日

〈82〉宮西頼母歌碑

 上記と同じ敷地内にこの「宮西頼母歌碑」は建っていた。歌人・宮西頼母はこの地で農業に従事しながら作歌活動をしていた人で、この歌は昭和43年の宮中歌会始に入選した歌だそうだ。石碑には頼母の直筆による「チモシーの 禾積(にほ)つみ終へし 土手のうへ 石狩川は 波立て見ゆ」と刻まれている。歌碑の傍に立てられている説明板には次のように記されていた。

   

   ※ 宮西頼母歌碑の歌碑です。

 チモシーの禾積つみ終へし土手のうへ石狩川は波たちて見ゆ」昭和43年の歌会始め詠進歌に入選した歌である。「チモシー」とは、牧草の一種、「禾積(にほ)」とは牧草を円錐状に高く積み上げたものである。石狩川の近くで農業に従事しながら作歌活動を続けてきた歌人であり、北の厳しい自然と大地に挑む農耕歌を多く発表している。

   〔住 所〕 北区篠路町篠路419番地

   〔訪問日〕 10月7日

   

   ※ 八十八選には含まれていない「拓北記念碑」です。

〈83〉興産社の馬頭観世音

 報徳碑や宮西頼母歌碑のある広場からあいの里市街地に寄った道路端に、先に出てきた興産社の馬頭観世音が建っていた。直ぐ目に入るのは大正年間に建てられた方のようだが、本来の馬頭観世音はその傍に小さく建っていた明治年間に建てられた方なのかもしれない。

   

   ※ この馬頭観音は大正年代に建てられたものであるようだ。

   

   ※ その横で朽ち果てそうになっているのが明治年間に建てられた石碑のようです。

         

         ※ この石碑は大正年間に建てられたものであることが刻字から読み取れます。

 傍に立てられていた説明板でそのあたりの経緯にも触れている。その内容は…、

 藍の栽培と製造を行った興産社農場は、安価な輸入染料によって経営が行き詰まったことから、事業家の谷仙吉が農場を譲り受けて谷農場となった。谷農場の耕作農家にとってかけがえのない農耕馬や繁殖馬の健康を願って、同農場の18名によって明治42(1909)年にこの馬頭観世音が建立された。同観世音の周囲には、大正年間に建立された馬頭観世音もある。

  〔住 所〕 北区篠路町拓北87番地2

  〔訪問日〕 10月7日


北区歴史と文化の八十八選巡り №18

2022-11-03 12:14:53 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 八十八選巡り№18は籠古川のほとりに建つ広壮な敷地を持つ龍雲寺に関する3つの物件である。龍雲寺については、次の文章を参照いただきたい。

 篠路の開拓に活躍した荒井金助の長男・好太郎の妻ナツは、明治5(1872)年に開拓使から200円を借りて家を建て、荒井家の菩提を弔うための寺とした。その後、明治19(1886)年にナツが自宅を寄付することで、寺号を公称されることになった。昭和59(1984)年、北海道庁からの依頼により本堂が寄贈され、昭和61(1986)年4月に北海道開拓の村へと移築復元された。なお、寺の新本堂は昭和59(1984)年10月に完成している。

          

 ※ 八十八選には入っていないが、上記文章の出てくる荒井金助の長男・好太郎の墓もあったので写真に収めた。

   

   ※ 龍雲寺境内の一角に関係する墓などが並べて建てられていた。(後方の住宅はお寺とは関係ない?)

76〉龍雲寺の馬頭観音

 「龍雲寺の馬頭観音」は、龍雲時の敷地の南端に近いところに〈77〉の荒井金助と早山清太郎の碑と並んで建てられていた。その馬頭観音には北区が次のような説明板を建てていた。

 篠路の開拓時代、農家の人たちとともに、その手足となって開墾に汗を流した農耕馬たち。この農耕馬の健康を願うとともに、魂を慰めるため当時の開拓農民により、篠路開拓者の心のよりどころとして、ともに歩んだ龍雲寺境内に大正9(1920)年に建てられたものです。

    

           

   〔住 所〕北区篠5条10丁目 龍雲寺内

   〔訪問日〕10月7日          

77〉荒井金助と早山清太郎ゆかりの地

 上述したように篠路開拓の先駆者である二人の墓が、先の馬頭観音と並ぶように龍雲時敷地の南端に建てられていました。その説明文です。

 江戸時代末期、幕吏荒井金助は石狩地方開拓のため、発寒にいた「在住武士」配下の早山清太郎に命じて篠路を調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方で初めて米づくりに成功したのを始め、篠路の開墾、道路開削などに貢献し、明治維新前後の基礎を築いた。龍雲寺には2人の墓がある。

      

       

   

  〔住 所〕北区篠5条10丁目 龍雲寺内

  〔訪問日〕10月7日

〈78〉龍雲寺のイチョウ

 龍雲寺に近づくと、お寺の前に見上げるようなイチョウの大木が屹立している。春の新緑の季節、深秋の黄葉の季節はおそらく素晴らしい光景を現出させるのではないか、と想像させるほど素晴らしいイチョウの木である。私が訪れた時は黄葉に季節には若干早かったようである。龍雲時のイチョウについての説明文章です。

 篠路開拓者の心のよりどころだったこの寺に、鋤柄松太郎が新天地開拓の記念にとして植えたと伝えられています。このイチョウき、北区内で唯一北海道自然環境等保全条例で保存樹に指定されているもので、樹齢ははっきりしませんが、優に100年を超えているそうです。 

   

   

   

   〔住 所〕 北区篠5条10丁目 龍雲寺前

   〔訪問日〕 10月7日


北区歴史と文化の八十八選巡り №17

2022-10-25 16:59:04 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 北区歴史と文化の八十八選巡り№17はJR篠路駅周辺で選定された施設や史跡を巡り歩いた。JR(当時は国鉄)篠路駅は昭和10(1935)年に札沼線開業とともに開設され、当時は周辺で収穫される燕麦、たまねぎなどが貨物として輸送され、それに伴い周辺が発達したという。

70〉篠路コミュニティセンターの藍と篠路歌舞伎の展示

   

   ※ 篠路コミュニティセンターの外観です。

 篠路コミュニティセンターは、篠路駅からも歩いて行ける距離の篠路の街の中心街にある。昭和60(1985)年10月に地域の公民館的施設として建設され、地域の方々の文化的活動の中心施設となっているが、その一階ロビーの一角に「藍と篠路歌舞伎の展示」コーナーが設置されている。その昔地域の特産物だった藍と、地域を代表する芸能である篠路歌舞伎を伝承する展示としてはやや寂しいかな?という印象は否めないが、長く後世に伝えていってほしいと思う。その展示について説明している文章を紹介します。

   

   ※ コミセン内1階にある藍染と篠路歌舞伎に関する展示コーナーの様子です。

   

   ※ 篠路歌舞伎の衣装や幟、写真などが展示されていました。

        

        ※ 展示されていた歌舞伎のワンシーンです。

   

   ※ こちらは藍染の展示コーナーです。

   

   ※ 藍染の作品が展示されていました。

   

   ※ こちらは歌舞伎と藍染のコラボ製品でしょうか?

 篠路コミュニティセンターは札幌市北区篠路3条8丁目に立地するコミュニティセンター1階の一角では篠路の特産だった藍染めの歴史や作品、篠路歌舞伎に関する資料を展示している。
篠路地区では明治15年頃から藍の栽培が始まり、藍染めが盛んに行われたが、外国産の化学染料などの輸入によって、明治末期に消滅した。しかし、1984年には藍染めが復活している。
また、篠路歌舞伎は1902年から1934年まで続いた後に廃れたが、1985年に復活した。                      

     〔住 所〕北区篠路3条8丁目

     〔訪問日〕10月7日

71〉篠路駅周辺の倉庫群

 篠路駅周辺には、以前はよくJRの駅周辺で見られた石造りやレンガ造りの倉庫が現存している。道内各地のJR駅近くの倉庫は役割を終えるとともに消えていったのがほとんどであるが、篠路駅周辺の倉庫はどのような経緯なのかは不明であるが現存しているところで価値が出てきたようだ。そのことを説明する北区の説明は次のとおりである。

   

   ※ JR篠路駅の外観です。

   

   ※ 篠路駅のすぐ傍に立つレンガ造りの倉庫です。

   

   ※ 倉庫は現役の倉庫として活用されているようです。

 昭和10(1935)年、国鉄札沼線の全面開通により、篠路駅は野菜出荷の基地となり、周辺には石造りやレンガ造りの倉庫が数多く立ち並び、全国へ向けて玉ねぎなどが発送されていた。現在も駅周辺には数棟の倉庫が一群をなしており、市内のほかの地区には見られない独特の雰囲気を残しています。

   〔住 所〕北区篠路3条7丁目

   〔訪問日〕10月7日

〈72〉篠路獅子舞

 篠路獅子舞についてはシリーズ№16でも触れたが、もともとは「烈々布獅子舞」と呼ばれ、篠路烈々布地区で栄えた芸能である。烈々布の守護神である天満宮が篠路神社に合祀されるのに伴い、烈々布獅子舞も篠路獅子舞とその名を変えたようである。

   

   ※ 篠路神社の鳥居です。

   

   ※ 格式のありそうな篠路神社本殿です。

   

   ※ 境内には翌日の祭典に備えて出店が出店の準備をしていました。

         

         ※ 翌日に行われる獅子舞奉納を知らせるポスターです。

   

   ※ 篠路獅子舞の奉納の様子の写真をウェブ上から拝借しました。

 ところで私はこの日(10月7日)篠路神社を訪れ、翌日8日が篠路神社の祭典で白の獅子舞が奉納されることを知った。翌日に再訪するというのは我が家から遠い篠路地区では現実的ではなく、獅子舞の奉納の様子を実際に見ることが出来なかったことは残念である。

 ここに篠路獅子舞を説明する北区制作の説明を紹介します。

 富山県から篠路烈々布に入植してきた若者が中心となり、明治34(1901)年にふるさとと同じ獅子舞を望郷の思いを込めて演じたのが始まりと伝えられている。胴が太く優雅な女性的な舞が特徴。昭和37(1962)年に「篠路獅子舞保存会」が結成され、明治後期から青年たちによって、毎年篠路神社の秋祭りに奉納され続けてきたこの舞を、絶やすことなく今に伝えています。

 なお、先に獅子舞のことについて教えていただいた百合が原在住の中西俊一氏は長く「篠路獅子舞保存会」の会長を務められていたそうであるが、今年の奉納をもってその座を後進に継承したと後に電話で伝えていただいた。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈73〉力士・小松山之碑

 この〈73〉の力士・小松山の碑と、〈74〉の篠路神社の馬魂碑を見つけるのにかなり苦労した。二つ共に篠路神社境内にあるとなっていたので、境内をあちこちの探したのだが一向に見つからなかった。周りに聞く人も見当たらず諦めかけた時に、なんと神社境内の角隅に静かに鎮座していたのを見つけることができた。

        

        ※ 力士・小松山碑です。

 二つの碑について、北区制作の説明板には次のように記されていた。

 明治中期の篠路村で、数少ない素人相撲の力士として活躍した小松山(本名下山松太郎)。例年、篠路神社の祭礼で大関相撲を奉納し、また、後進の指導にも尽力していたことから、郷土の誇りとしてたたえるため、本村青年会が中心となり明治42(1909)年にこの碑を建立した。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈74〉篠路神社の馬魂碑

        

           ※ 力士・小松山碑の隣に建っていた「馬魂碑」です。

 篠路村の馬の歴史は。明治15(1882)年に、滝本五郎が興産社を組織して「大農式農業経営」を計画し、15頭の馬を導入したのが始まりです。大正15(1926)年にはフランスから「ペルシュロン種」の種牝馬アニー号を輸入するなど、馬産改良に大きな成果をあげました。この碑は、昭和44(1969)年に農業経営の動力として、また貴重な収入源としての農業の担い手であった篠路名馬をたたえるため建立されたもので、アニー号など、名馬5頭を合祀しています。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈75〉早山家のアカマツ

     ※ 現在アカマツは撤去されたため訪れることができませんでした。


北区歴史と文化の八十八選巡り 特別版

2022-10-21 18:26:11 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「北区歴史と文化の八十八選巡り」をしていて、初めて人と巡り会う幸運に恵まれた。百合が原地区(元の烈々布地区)の生き字引のような存在の中西俊一氏のお話は全てがこの地区を知るうえで参考になった。氏に伺ったお話を思い返したみたい。

中西俊一氏との出会い &〈68〉篠路烈々布郷土資料館

   

 「烈々布会館」の中に設けられている「篠路烈々布郷土資料館」は、「太平会館資料室」と同じように専任の管理者がいないため、地域の方が委嘱されて管理している会館(資料館)である。予め管理されている方に連絡を入れ、管理者の都合が良ければ見学が可能となる仕組みである。

 「北区歴史と文化の八十八選」の全体を管理している北区地域振興課に連絡を入れると、紹介していただいたのが中西俊一さん宅だったというわけである。

   

  ※ ともて93歳には見えず、矍鑠とされていた中西俊一さんは写真をお願いするとマスクを取って応えてくれた。

 約束した時間に「烈々布会館」に向かうと、そこへ中西俊一さんが現れた。中西さんはゆったりとしてはいたが、しっかりとした足取り歩いてこられた。お歳が93歳だという。そして中西さんの先祖は富山県から当地に入植され、中西さんご自身は開拓第4代目だと自己紹介された。

 中西さんは会館の鍵を開錠する前から烈々布地区の歴史を私にレクチャーしてくれた。氏によると、烈々布地区は近隣の屯田や太平地区同様、開拓当時は度々水害に見舞われ、大変な思いをしながら開拓に当たったということだった。そうした中、苦しい開拓生活の癒しの一つとして農村歌舞伎や獅子舞など故郷富山を偲ぶ芸能が地域で盛んになったとうかがった。

会館の中へ(富山天満宮と篠路獅子舞)

 会館に入るまでに10分もお話をしていただいた後に、会館へ導かれた。まず案内されたのが、神棚が祀られた集会室のようなところだった。中西さんは神棚を指して、「故郷の富山の神社から分祀した神棚です」と説明された。それは富山の天満宮から分祀したものだということだったが、昭和41年に篠路神社に合祀されたということだ。

   

   ※ 富山天満宮から分祀されたという神棚が祀られていました。

 続いて大広間に案内されると、そこには獅子舞に使う獅子頭が横たわっていた。実はこの日の私は、ここを訪れる前に篠路の市街地を訪れていた。その訪問先の一つに「篠路神社」があった。神社の前には翌日10月8日(土)に篠路神社の例祭が行われ、篠路獅子舞奉納」があると告知のポスターが貼られていたのだ。「残念!一日違いだった」と思いながら後にしたのだが、実は篠路獅子舞とは、もともと烈々布獅子舞として行われていたものが、先に記したように烈々布地区の天満宮を篠路神社に合祀した際に、獅子舞の方も篠路獅子舞となったそうだ。

   

   

   ※ 翌日(10月8日)の獅子舞奉納に備えて準備されていた獅子舞の用具です。

   

   ※ 立派な獅子頭です。

   

   ※ 部屋には過去の獅子舞奉納の様子を写した写真が掲示されていました。

  後日、中西氏に10月8日の獅子舞のことを尋ねると、「大変賑やかに執り行われ、大成功だった」とお話されていた。

烈々布郷土資料館へ

 会館の2階が「烈々布郷土資料館」だった。資料館は3部屋に分かれていたが、その最初の部屋はやはり翌日の獅子舞の奉納に備え、舞いをする人たち(子どもや若者)の衣装が収納箱から出されて明日の出陣に備えていた。

   

   ※ 2階の資料室もご覧のように翌日の獅子舞奉納の衣装などが準備されていました。

   

   ※ 歴代に使用された過去の獅子頭が展示されていました。

 部屋には昔の青年会の旗や、篠路獅子舞の写真などが掲示されていた。また、その他の部屋にも当時の馬具や農具などが展示されていた。

   

   ※ 青年会活動が盛んだったころに作製された青年会旗だと思われます。

   

    ※ 烈々布歌舞伎の様子を伝える写真も多数展示されていました。   

 中西さんが部屋のカーテンを開き、中西邸の敷地の中に建つ倉庫のような建物を指さして、その建物が往時に篠路歌舞伎の芝居小屋だったものを保存しているということだった。その芝居小屋は回り舞台まで備えたものだったそうだ。保存されているのは、どうやら客席の部分は省いて舞台の部分だけだったように見えた。そのようにして往時を偲ぶところに、当時の人たちがいかに篠路歌舞伎に思いを入れていたのかを窺い知る思いだった。

   

   ※ 中西家の敷地には烈々布歌舞伎の舞台が保存されていました。(外部は補修されているようです)

   

   ※ その舞台の内部が分かる模型を写した写真です。回り舞台が見えます。

 中西さんからはもっともっとたくさんのことをうかがったのだが、簡単にまとめさせてもらった。

   

   ※ 資料室に展示されていた馬具だと思われます。

 その「篠路烈々布郷土資料館」のことだが、北区制作の説明板によると次のように次のように表記されていた。

 烈々布周辺を開拓した先人の労苦をしのび、歴史、文化にふれることができるようにと地域の人たちが作った。昭和57(1982)年の開基百周年記念事業として会館2階に増築し、郷土資料館とした。内部には、子孫が持ち寄った農具、馬具、生活用具などが展示されている。このほか、この地で開拓当時から華やかに演じられていた伝統芸能、篠路獅子舞の資料も展示され、いずれも開拓の貴重な資料として大切に保存されている。

 中西さんは説明板でも触れている地域の開基百年の際は、開基百年記念事業委員長(肩書が正確ではないかもしれない)を務められたそうで、その際発行した記念誌を見せていただいた。また、その縁もあり地域の学校から依頼されて、子ども達に地域の歴史を伝える語り部的なボランティアにも尽力されているとのことだった。

百合が原公園のサイロ

   

   ※ 百合が原公園でお目にかかれる中西家が使用していたサイロです。

 郷土資料館を辞する時、「これから百合が原公園に向かいます」と話すと、中西さんは「実は…」と言って、さらにお話をされた。そのお話によると、現在の百合が原公園は実は中西さん親子が耕作されていた農地だったということなのだ。

 中西家が明治何年に入植されたかについては詳しく伺えなかったが、確か第一陣として入植した明治14(1881)年ではなく、第一陣の方々があまりもの困苦に離農した後に入植したと聞いたように思うが正確でないかもしれない。ただ中西家では開拓第一代となるご夫妻、そして中西氏の祖父にあたる第二代目の中西藤一氏ご夫妻、藤一氏の弟、妹の6人家族で入植されたとお聞きした。

 以来、藤一氏の長男で開拓三代目となる一男氏、そして一男氏の長男で第四代目となる中西俊一氏と続いて、烈々布地区で農業を続けてこられたということだ。そうした中、藤一氏がまだ存命であった1970年半ば、札幌市から「中西家所有の農地一帯を公園化したい」という申し入れがあり、父子で相談の末札幌市の要請に応じることになった、という話を中西さんから伺った。そして、当時中西家で使用していたサイロが公園内に保存されているので、ぜひ見て行ってほしいとのことだった。公園のサイロは、公園内においてはシンボリックな建物の一つとして来園者を迎えている建物で、私も良く知っていた。サイロの近くへ行くと、その経緯について説明している説明板があったので、そこに記されていたことを転写する。

   

   ※ サイロに関する経緯を説明する説明板です。(内容は下記のとおりです)

 このサイロは札幌軟石で造られており、土地の所有者であった中西藤一氏から乳牛の飼料であるデントコーンを貯蔵するために使われていました。百合が原公園を造成する際、かつてこの地域で酪農が行われていた記念としてサイロを残したいという地域の声があつたことから、中西藤一氏のご子息である中西一男氏よりサイロをご寄贈いただき、元の場所から10mほど移動した現在の場所で展望台として1983年に改築しました。展望台からはユリの咲く公園の景色を一望することができましたが、現在は百合が原の景観を象徴する建物として外観を見学できるようにしています。

   

   ※ 違う角度から撮ったサイロです。

 以上、私は思わぬ幸運に恵まれ、烈々布地区の歴史を、百合が原公園の成り立ちを詳しく知ることが出来、とても有意義な「北区歴史と文化の八十八選巡り」になった。とても親切丁寧に説明いただいた中西俊一氏には心からのお礼を述べたい気持である。

   〔住 所〕 北区百合が原11丁目烈々布会館内

   〔訪問日〕 10月7日


北区歴史と文化の八十八選巡り №16

2022-10-20 16:39:06 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は百合が原地区である。この地区は元々太平地区の一部だったそうだが平成10(1998)年に地名が変更されたという。この地区を訪れた際に幸運にもこの地区の生き字引のような人に出会うことができ、さまざまなお話を伺うことが出来た。

65〉さっぽろ花と緑の博覧会モニュメント

   

 「百合が原公園」は昭和61(1986)年に「花と緑の博覧会」の会場となった公園である。毎年何度か訪れている「百合が原公園」であるが、そのモニュメントも見たことがあるような、ないようなという印象だった。モニュメントが設置してある箇所を「緑のセンター」の職員に伺い、さっそくその地へ行ったのだか、なるほど微かに見た記憶のあるモニュメントだった。その傍に説明板があり、園内には4個のモニュメントがあると記され、その位置も示されていた。それに従ってモニュメントを探して歩いだのだが、どうしても4個目を見つけることが出来なかった。帰宅して調べてみると「光る風」というモニュメントが本年6月に老朽化のために撤去されていることを知った。その説明板には次のような説明も記されていた。

 昭和61(1986)年の夏、百合が原公園を舞台にくり広げられた「花と緑の博覧会」を記念して製作されたもので、花と緑と人間のふれあいを美しく表現したモニュメントは、博覧会が終わったあとも、そのまま公園の施設として残されている。

 残った三つのモニュメントは次のとおりである。

【花の輪と和】

   

【北の森たち】

   

【開く花】 

                        

   〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

   〔訪問日〕10月7日

66〉ハルニレの森づくり発祥の碑

   

 同じ「百合が原公園」内の一角に「ハルニレの森」と称して、ハルニレの木に囲まれた一角がある。ハルニレは北海道の野山、特に札幌で目立つ木の一種である。その理由については下記の説明を参照いただきたい。   

 ハルニレ(春楡)はニレ科の落葉高木で、単に“ニレ”と呼ばれたりもするが、英語名の“エルム”の方がよく知られている。ほぼ全国の山地などに分布するが、北海道では平地にも多く、札幌はもともと豊平川の扇状地上に位置するためハルニレが多かった。北海道大学は「エルムの学園」とも呼ばれ、キャンパス内には開校当時からの立派なハルニレの巨木が多く残されていて、芝生との組合せがとりわけ美しい。   

 そのハルニレの木を百合が原公園内に意図的に植樹することで、札幌のシンボリックな木として市民にアピールしようと植樹し、森の造成を意図したようである。「ハルニレの森」の傍には次のような説明板が立っていた。

   

 ハルニレは別名エルムともよばれ、成長すると大木となり、えだ葉をいっぱいに広げ、森の王者といわれるほど風かくがあります。平成2年(1990年)10月に、百合が原公園でハルニレの森記念植樹祭がおこなわれ、未来をつくるこどもたちのせい長にあわせるようにりっぱな森をつくり、受けつがれていくことをねがって200本のハルニレが植えられました。

   

  〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

  〔訪問日〕10月7日  

〈67〉「篠路烈々布開基百年」碑

   

 「百合が原公園」と接するように北隣に建つのが「篠路烈々布会館」である。その会館の横に開基百年碑は建っていた。

   

 「烈々布」とは非常にインパクトのある名であるが、もともとはアイヌ語に由来すると伝えられている。そのことを説明する文書を見つけることができたので紹介したい。

 烈々布……アイヌ語で「ハンノキの多く茂るところ」、「風の強いところ」の意味を持つが、アイヌ語への音訳では無理なところもありその語源については諸説あるようです。しかし、開拓前、近くに流れる伏籠川(ふしこがわ)のほとりに先住民族であるアイヌの人たちが住んでいたことから、語源がアイヌ語であることは間違いないことでしょう。

 さて肝心の百年碑の方であるが、北区を巡っていると各地に立派な百年碑が建造されている。この篠路烈々布地区でも、立派な百年碑が建造されていた。その碑の傍らには北区が制作した次のような説明板が立っていた。

 この地は、明治14(1881)年、福岡県人が報告社を組織して、北海道に渡り開墾した時、明治16(1883)年にその一部の5、6戸が烈々布に入植したのが始まりである。「烈々布」という地名は、アイヌ語に由来したものと言われている。碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して、昭和57年に建立されたもので、白みかげ張りの高さ1.3メートル、奥行き90センチメートルの台座の上に、幅1.2メートル、高さ75センチメートルの黒みかげ石を建て、本碑としている。正面に「篠路烈々布開基百年」と刻字、この文字は板垣武四札幌市長の揮ごうによる。

                                                                                                                                                                                                                         

   〔住 所〕 北区百合が原11丁目烈々布会館前

   〔訪問日〕 10月7日

〈68〉篠路烈々布郷土資料館

   

 この「篠路烈々布郷土資料館」は、「太平会館資料室」と同じように専任の管理者がいないため、地域の方が委嘱されて管理している会館(資料館)である。予め管理されてい方に連絡を入れ、管理者の都合が良ければ見学が可能となる仕組みである。この日(10月7日)、私は当日になって連絡を入れさせてもらったが幸いにも見学させてもらえるとの回答をいただいた。そうして約束の時間に訪れると、そこに90歳を超えた(確か93歳とおっしゃった)中西俊一さんという矍鑠(かくしゃく)としたお年寄りが現われた。そして懇切丁寧にこの地区の歴史を私に向かって語ってくれた。そうしたこともあり、この「篠路烈々布郷土資料館」は、特別バージョンとして明日レポートすることにしたい。

〈69〉篠路歌舞伎発祥の地

   

    ※ 篠路歌舞伎発祥の地を表すのは、道路端に立っている(写真左端)説明板だけである。

 明日の中西さんのお話にも出てくるのだが、この地区は開拓当初から住民たちの芸能活動が盛んだったようだ。当時の農村青年は苦しい農作業から解放され、歌舞伎や獅子舞などに熱中したようだ。特に「篠路歌舞伎」は名声を博し、札幌圏はもとより、全道各地にまでその名声が及んだという。その発祥の地だということだが、現在は路傍にただ説明板が立っているだけだったが、その説明からも当時の篠路歌舞伎が盛んだった様子が伺える思いがする。 

                                                 

 かつてこの付近一帯が烈々布と呼ばれていたころ、この村の農村青年を中心に歌舞伎が華やかに演じられていた。最盛期には花道や回り舞台をも備えた篠路歌舞伎は、全国の農村歌舞伎のなかでも特異な存在とされている。一流の出し物、傑出した演技で旧篠路村内外にその名をとどろかせた一座は、遠く道内各地へ巡業に乗り出したという記録もある。明治35(1902)年に始まり、昭和9(1934)年に消滅したが、北海道農村芸能史の大きな遺産のひとつである。当時から西へ150メートルの地に、篠路歌舞伎座長として活躍した「花岡信之碑」(本名 大沼三四郎)がある。

  〔住 所〕 北区百合が原9丁目

  〔訪問日〕 10月7日

※ 上記の説明を読んでいて確か「花岡信之碑」を訪れたことがあるなぁ…、と思い出していた。そこで拙ブログを繰っているとありました!今から14年も前の2008年10月10日付の投稿で「花岡信之碑」の写真が掲載されている。興味のある方は覗いてみてください。(こちらをクリックください⇒)


北区歴史と文化の八十八選巡り №15

2022-10-15 21:32:51 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は札幌市北区の創成川の東に広がる太平地区を訪れた。太平地区も明治時代に本州各地(徳島県、和歌山県など)から入植し、開拓された地である。現在は住宅街が広がる地域だが、開拓当時を偲ぶ史跡などを巡った。

 〈61〉創成川通りのポプラ並木

                                                                                                                                                                                                                                                                            

 創成川は大友亀太郎が慶応2(1866)年に市の中心部から札幌村にかけて「大友掘」を掘削した運河であるが、その後幾多の変遷を経て、当時の開拓使が明治19(1886)年から明治23(1990)年にかけて「大友堀」から北へ向かい直線的に茨戸まで貫いた人口の川である。屯田地区と太平地区を隔てるように貫く創成川のほとりに約3キロメートルにわたって並び立つ並木が「創成川通りのポプラ並木」である。その様は北国らしい雄大な美しい景観を呈しているが、ポプラ並木の誕生には次のような事情があったそうだ。

   

 大正初め、この一帯に水田、トウキビ・ジャガイモなどの畑と牧草地帯が広がり、放牧牛の侵入によって作物が踏み荒らされることがしばしばあった。村の人たちは放牧牛の侵入を防ぐため、創成川沿いにポプラの木を植えることになり、大正4(1915)年村人総出で植樹を行った。今日では、約3キロメートルにわたる美しい並木に成長している。  

                  

    〔住 所〕 北区太平7条1丁目北三番橋

    〔訪問日〕 10月7日

62〉太平の馬頭観世音

   

 この馬頭観世音は個人邸宅内にあるということだったので、示された住所のところまで行き、近くにいた方に尋ねたところ直ぐにその場所を教えていただくことができた。観世音の傍には次のように書かれた説明板が立っていた。

        

 今のように車や農機具がなかった昔の開拓農家にとって、馬は生活の全てであり、馬なくしては生活が成り立たない状態であった。馬は農家にとって陰の功労者とも言われている。この太平地区で活躍していた馬の健康を祈り、労苦―の感謝が「馬頭観世音」となった。この「馬頭観世音」碑は、大正13(1924)年に建立された。

   〔住 所〕 北区太平6条1丁目松岡氏邸内

   〔訪問日〕 10月7日

〈63〉太平会館資料室

   

 この施設を訪ねるに際して下調べをしていると、「資料室を訪ねる際は、北区の地域振興課に連絡すること」との記載を目にし、連絡をしたところ「資料室は現在公開されておりません」とのことで、その理由については伺えなかった。残念だが仕方がない。会館の外観を眺めるだけにとどめることにした。資料室についてはね次のような記述をみつけることができた。

   

 太平会館の2階には、太平地区の開たくの歴史を知ることができる資料室があります。むかしの農具や生活用具など約200点あり、開たく当時の農家の仕事や生活のようすを知ることができます。

  

  ※ 残念ながら地域の諸事情によって資料館の公開だけでなく、会館の利用も注視されているようだ。

   〔住 所〕 北区太平8条2丁目太平地区会館内

   〔訪問日〕 10月7日

〈64〉太平開基百年碑

   

 各地に開基百年記念碑が建立されているのと同様、太平地区にも「太平開基百年碑」が太平公園内に建てられていた。太平公園には「パークゴルフ場巡り」で訪れ「太平公園コース」でプレイさせていただいたが、この百年碑はパークゴルフ場のコース脇にあったのだが、その時は気づきもしなかった。まさに「見れども、見えず」である。その碑の隣には次のような説明があった。 

   

 この地は明治22(1889)年に徳島県、和歌山県などからの入植者によって開拓が始まった。北海道の冬の厳しい寒さと闘いながら未開の地を切り開き、作物を作ることが出来るようにするまでの労苦は計り知れないものがあったと言われている。この碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して昭和63(1988)年に建立された。

   

  〔住 所〕 北区太平12条3丁目太平公園内

  〔訪問日〕 10月7日


北区歴史と文化の八十八選巡り №14

2022-10-08 16:51:04 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 屯田地区最後の最後の5件は、江南神社境内にある3つの歴史的な遺構と、2つの名馬を祀る石碑である。江南神社は「屯田開拓顕彰広場」から道路一つ隔てたところに位置していた。また、馬の碑は個人宅の敷地にあったために探すために少々苦労した。

   

   ※ 江南神社の鳥居です。「江南」という名称については後述しています。

56〉篠路兵村「移住記念碑」

 「篠路兵村『移住記念碑』」などがある江南神社の鳥居を潜ると直ぐに「望郷のアカマツ」(後述する)が立っているが、そこを通り過ぎ参道を進むと社殿前の右側に2つの石碑が建っている。その2つのなかで小さな自然石を使っているのが「篠路兵村『移住記念碑』」である。

   

   ※ 移住記念碑の正面ですが、逆光になって文字が良く見えません。

 移住7年後に早くも記念碑を建てたということは、おそらく困難だった開墾に一応の目途が付き、永住の覚悟ができたことから移住者たちの意志が固まったことで記念碑建立を思い立ったものと私は考えたのだが…。

   

   ※ こちらが「移住記念碑」の裏側です。

 その石碑について下のような説明がなされていた。

 篠路兵村(現在屯田)に屯田第一大隊第四中隊として200戸の屯田兵が入植したのは、明治22(1889)年7月15日。家族も含めると1,056人の集団入植だった。士族屯田としては最終の入地で、出身は徳島県から29戸、和歌山県から37戸、山口県から44戸、福岡県から13戸、熊本県から45戸、福井県から20戸、石川県から32戸であった。この 記念碑は入植して7年後の明治29(1896)年に建立された。               

   〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内

   〔訪問日〕 10月3日

57〉屯田開基九十周年記念顕彰碑

 上記の「篠路兵村『移住記念碑』」の左隣りに建っているのが「屯田開基九十周年記念顕彰碑」である。「篠路兵村『移住記念碑』」に比べると、はるかに大きく立派な石碑である。移住地は一大水田地帯として発展して、移住者たちにも余裕が生まれたことで立派な顕彰碑が立てられたものと想像することができる。

   

   ※ 九十周年記念顕彰碑は大きく立派なものが建てられていました。

 傍に立てられた説明板には次のように説明されていた。

   

   ※ 同じく九十周年記念顕彰碑の裏側です。

 建立され明治22(1889)年7月15  日に220戸の屯田兵が入植以来、数度の水害や冷害凶作などで、明治42(1909)年には70戸あまりの小集落になった。しかし、たび重なる自然の猛威を乗り越えて一大水田地帯となり、昭和40年代に入って住宅地として発展してきた。この碑は、昭和53(1978)年の開基90周年を記念して建立された。正面の短歌は吹田晋平の作である。

 その吹田氏の短歌であるが、農民歌人として名を上げた人であるが、本名を菅進といい、新琴似屯田兵の二代目だったそうだ。氏は当地が昭和33年に札幌市と合併して以来、永年市会議員として屯田町の発展に尽くしたという。碑に刻まれている短歌は下記のような内容である。なお、碑への揮毫は当時の北海道知事だった堂垣内尚弘氏によるものだという。                    

開基九十周年記念顕彰碑

神をうやまい 祖をとうとびて 九十年 にい宮はなる 江南のさとに  晋平

北海道知事 堂垣内直弘 書

  〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内

  〔訪問日〕 10月3日   

〈58〉望郷のアカマツ

   

   ※ 「望郷のアカマツ」を正面から見たものです。

 江南神社の鳥居を潜ると直ぐに左側にかなり幹が曲がって立つ松が目に入る。これが「望郷のアカマツ」と呼ばれている松である。苗を移植以来130年近く経ち、衰えも目立つようだ。松の支えや、幹を保護する措置が目立ち、痛々しい姿であるが地域の人たちにとっては先祖を偲ぶ貴重な松であることが伝わってきた。その松の傍には下記のように説明する説明板が立っていた。

   

   ※ 少し角度を変えてみると、老化のため痛々しい姿が目に入ります。

   

   ※ アカマツの幹は写真のように保護膜でグルグル巻きにされていました。

 明治27(1894)年の春、屯田本部は屯田兵が故郷をしのぶよすがにと、屯田兵220戸にアカマツの苗木各2本、水松(オンコ)の苗木各1本を「望郷の松」と銘打って無償で配布した。屯田兵の定着率を少しでも高めるための思いやりであるが、屯田兵は喜んで兵屋の前庭に植えた。現在(平成3年)、屯田にはこの「望郷の松」を含め4本残っている。

   〔住 所〕 北区屯田7条6丁目江南神社境内

   〔訪問日〕 10月3日

※ なお、当地は以前は「篠路村」、以後は「屯田」と称されている地域の神社名が「江南」という呼称に違和感を感じて調べてみた。すると次のような記述に出会った。「創建当時、石狩川の南側に位置することから川(江)の南ということで江南という地名が生まれ、江南神社になったと言われています」う~ん。納得です。

 

〈59〉馬霊神蕾驊(らいか)号の碑

   

 この馬霊神を探すのに下記の住所まで車のナビに導かれて進んだが、実際の設置個所は分からない。たまたま近くにいた住民の方に「この辺りに昔から住まわれている服部さんのお宅は知りませんか?」と尋ねたところ、「あゝ、地主さんの家ですね」と話され直ぐにその家を教えてもらうことができた。そのお宅の近くまで行くと、敷地の中で道路の方に面してその馬霊神の碑が建っていた。想像していたよりは小さな碑だったが、歴史を感じさせるものだった。その碑の村の傍には次のような説明が記されていた。

   

   ※ 札幌軟石製の碑です。

馬霊神蕾驊号の碑

蕾驊号は、ペルシュロン系の種牡馬で、農林省種畜場(真駒内)から馬産改良のため、篠路兵村(現在の屯田)に貸し下げになった名馬で、この種牡場により屯田はもとより、江別、石狩町生振、新川、篠路、など石狩地方の広大な地域の馬産改良に大きな成果をあげた。この馬を飼養していた服部政雄氏がその功績を讃えて明治42年(1909年)に建立したものである。札幌軟石造りで、三段積み台石の上に高さ80センチメートル、幅30センチメートルの棹石を建てている。

  〔住 所〕 北区屯田7条2丁目服部氏邸内

  〔訪問日〕 10月3日       

〈60〉馬霊第七王驊(おうか)号之碑

   

 こちらの碑を探すのにもかなり苦労した。上記の服部邸と同じように石川邸そのものは付近の住民方に教えられ直ぐに分かった。しかし、広壮な石川邸の周りを探してもそれらしきものは見つからなかった。そこで恐れながらも敷地内の広大な庭を覗かせていただいた。すると、本宅ではなく同じ敷地内に住まわれている子息の方らしい人から「何か用事があるのか?」と問い質されたので「王驊号の碑を探しています。一枚写真を撮りたいので」と話をすると、直ぐに教えていただいた。そこは教えていただいたところからかなり遠い所だった。苦労して探した碑も蕾驊号の碑と同じような形態をした碑だった。そこにはやはり下のような説明が書かれていた。

   

   ※ こらちも同じように札幌軟石製品で、大きさもほぼ似通っていました。

馬霊第七王驊号之碑

昭和26(1951)年に生まれたペルシュロン種の牡馬で、昭和28年、釧路市で開かれた全道共進会で、一等賞、最優秀賞を獲得。また、石狩管内二歳馬三歳馬共進会でも一等賞に輝いた名馬で、篠路ペルシュロンの名を上げた。昭和35年子馬を生んだあと死んだ。その子馬も母馬のあとを追うように死んだという。石川茂氏が愛馬の死をいたんで昭和37年に建立した。札幌軟石造りで、二段積み台石の上に高さ70センチメートル、幅30センチメートルの棹石で建てている。

  〔住 所〕 北区屯田7条1丁目石川氏邸内

  〔訪問日〕 10月3日 


北区歴史と文化の八十八選巡り №13

2022-10-07 15:49:17 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は屯田地区の中に設けられた「屯田開拓顕彰広場」内に建立されている「北区歴史と文化の八十八選」に選定されている五つの碑についてレポートすることにする。いずれもが地域の歴史を語る貴重な石碑であるが、建立年が違うこれらの碑がどのような経緯でこの広場に集められたのかは私の調べでは分からなかった。

   

   

51〉「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」の碑 

 「屯田開拓顕彰広場」の前面に大きな標柱が立っているが、これが「『屯田兵第一大隊第四中隊本部跡』の碑」である。この碑に関しては次の文章に参照いただきたい。

       

       

 屯田はかって篠路兵村といわれ、兵籍は屯田第一大隊団四中隊にあった。この碑の建立地には第四中隊本部が建ち、北側一円一万坪(3.3ヘクタール)が練兵場となっていた。屯田開基百年記念事業協賛会が昭和63(1988)年の入植百年を機に、中隊本部の建っていた地点を明確にしておくために建立した。                             

   〔住 所〕 北区屯田7条7丁目屯田開拓顕彰広場

   〔訪問日〕 10月3日

52〉篠路兵村「開拓碑」

 この碑は「屯田開拓顕彰広場」の奥の方に三本の石碑が並んで建っているいるが、その真ん中にあるのがこの「篠路兵村『開拓碑』」である。碑文はほとんど読むことができないが、当時の北大総長の佐藤昌介氏が詠んだ漢詩だという。裏面にはびっしりと人名が刻まれていたが、それも判読が難しくかろうじて上面に刻まれた「移住富時戸主人名」という文字が判読することができた。この開拓碑について北区役所が次のように説明している。

        

        

 この碑は、屯田地区の開基40年を記念して昭和3(1928)年に建立された。約500字に及ぶ漢詩調の碑文は、当時の北大総長であった佐藤昌介が寄稿したものである。玉石五段積み、この上に自然石を乗せ、高さ1.8メートルの台座に、高さ2.8メートル、幅90センチメートルの仙台石の棹石としている。

    〔住 所〕 北区屯田7条7丁目屯田開拓顕彰広場        

    〔訪問日〕  10月3日

〈53〉水田開発記念碑

 この「水田開拓記念碑」は、「篠路兵村『開拓碑』」と並び、その左側に建てられていた。

 屯田地区が入植当時は石狩川の氾濫や畑作の凶作が続いたことから、潅漑溝を造って一大水田地帯としたことについては№12でも触れたが、この地区を水田地帯へと転作したことに住民たちは大きな誇りを抱き、記念碑を建立したものと想像される。近くにあった説明板には次のように記されていた。

    

         

 屯田地区は、当初畑作主体の農業であったが、農業経済が成り立たず、これを立て直すために稲作を目指した。兵村の公有財産を売却して資金を作り、篠路兵村土功組合を大正2(1913)年に創設して、新川や創成川から水利をはかって約670ヘクタールの美田を造成した。多収穫のための研究団体を設立して札幌一の水田単作地帯となった。この碑は、土功組合が創設されてから45年後の昭和33(1958)年に建立された。                      

    〔住 所〕 北区屯田7条7丁目屯田開拓顕彰広場 

    〔訪問日〕 10月3日

〈54〉屯田兵顕彰の像

 「屯田開拓顕彰広場」の中でひときわ大きく、もっとも目立っているのがこの「屯田兵顕彰像」である。台座の中央には遠い空を指さした屯田兵の立像が置かれている。

   

   

 傍にある説明板には次のように説明が記されていた。

 屯田地区が屯田兵の開拓によって始まり発展したことから、この功績を讃えて建立されたものである。屯田兵のブロンズ像は、時の指導者であった中隊長渥味直茂大尉である。屯田開基百年記念事業の一環として昭和63(1988)年に建立された。

    〔住 所〕 北区屯田7条7丁目屯田開拓顕彰広場 

    〔訪問日〕 10月3日    

 〈55〉馬魂之像

 「屯田開拓顕彰広場」の中で正面から見て左端にブロンズ製の馬の立体像が建っている。これが「馬魂之像」である。札幌市内ばかりでなく、道内各地でも馬頭観音など馬を祀った碑は数多いが、これほど立派な馬の立像が見られるのは場産地の日高くらいではないだろうか?

   

   

 この碑の台座の側面に像を建立した思いが記されていた。その碑文を転写する。

 開拓の礎は明治二十二年、石狩平野の一望荒漠たる未開の原野に屯田兵が開拓の鍬を入れて始まり茲に風雪百年の歳月を数える。人間が馬と一体となって開墾が行われ、その馬が唯一の原動力として駆使されて緑豊かなる沃土に変貌したことにより、屯田地区住民が今日の近代的且つ文化的生活の恩恵に浴することが出来た。このことに深く鑑みその多大なる馬の労役を讃えて、ここに馬魂之像を建立して永久に祀る。

                  昭和六十三年七月十五日 屯田開基百年記念協賛会 特別事業委員会

                              ( ※ 句読点、改行など手を加えました)

〔住 所〕 北区屯田7条7丁目屯田開拓顕彰広場 

〔訪問日〕 10月3日

 ※ なお、「屯田開拓顕彰広場」には、八十八選に選ばれた以上5つの碑以外に、さらに二つの石碑が立っている。それは「戦没者顕彰碑」「忠魂碑」の二つであるが、本レポの目的とは外れるので写真と説明は省略したい。


北区歴史と文化の八十八選巡り №12

2022-10-04 18:01:40 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「屯田みずほ通り」は私が知るかぎり、札幌市内でも整備が行き届いた通りの一つといえる。また、「屯田の太陽」、「屯田郷土資料館」は、屯田地区の歴史を後世に伝える語り部の役割を担っているように思えた。

48〉屯田みずほ通り

   

    ※ 鬱蒼と茂った木々が通りを往く人たちの心を癒してくれるのでしょう>

 

 「屯田みずほ通り」は札幌市北区の屯田地区の中央を東から西へ真っすぐに貫いている遊歩道である。その長さ2.6kmの緑道は木々が生い茂り地域の人々にとっては格好の散策路となっているようである。

   

          ※ 往時の屯田地区の様子を表す稲作地帯の図です。

 私はこの散策路もこれまで何度か訪れているが、その度に素晴らしい環境だと地域住民を羨ましく感じている。というのも、いつ訪れても散策路に雑草などが目立たないことである。おそらく行政だけに頼ることなく、地域住民の方々が積極的に通りを護る維持・管理活動を行っているのではないかと想像しているのだが…。「屯田みずほ通り」について説明された文書を私なりに要約すると次のようになる。

   

   ※ 通り沿いには大小さまざまな公園がありました。写真はそのうちで最も大きな「屯田みずほ西公園」です。

   

    ※ 通りは散策路としてだけでなく、写真のようにサイクリングロートとしても楽しまれているようです。   

   

   ※ 通りには適度にこうしたバーコラやベンチも配されていました。

   

   ※ 通りに面して建っていた屯田中央中学校と傍に立つシダレヤナギの大木です。

 そもそもこの「屯田みずほ通り」は、大正5(1916)年、篠路兵村(昔の屯田地区の呼び名)は起死回生の復興策として造田事業に取り掛かり、新川と創成川を水源とする潅漑溝(潅漑用水路)を造った。このことによって屯田地区は一大稲作地帯に生まれ変わり、昭和50年代までは稲作が65年間続いたそうだ。水田はやがて宅地化が進んでなくなり、潅漑溝も役目を終えたのだが、その潅漑溝を昭和61(1986)年に緑道としたのが現在の「屯田みずほ通り」である。

 屯田地区は、もともと明治22(1889)年、四国、九州、北陸など各県の士族220家族の篠路屯田兵の入植が始まりである。入植した人たちは、たびたびの石狩川の氾濫や水害に悩まされ、畑も凶作等で苦労が続いたという。そうした中の起死回生策が、潅漑溝造成による稲作への大転換だった。

 「屯田みずほ通り」には、そうした先人の苦闘の歴史が刻まれているのである。ちなみに「みずほ=瑞穂」は、「みずみずしい稲の穂」という意味がある。                       

〔住 所〕 北区屯田5条1丁目~5条12丁目 

〔訪問日〕 10月3日

 

49〉屯田の太陽

   

   ※ 屯田地区センター前に立つ「屯田の太陽」モニュメントです。

 この「屯田の太陽」を探すのには少し苦労した。というのも、付近の住民の方に聞いてもその存在をご存じない方が多かったからだ。そこで「屯田地区センター」の庭で作業をしていた方にお聞きしたのだが、その方も「聞いたことがない」という。手がかりを失った私だが、そのお聞きしたかたが「待ってよ」といってセンターの庭にあるモニュメントを指さした。するとそこには銀色に光るモニュメントがあり、傍に「屯田の太陽」と記された看板も立っていた。モニュメントの傍には説明板があり、次のように説明されていた。

 ステンレスパイプで造形した母子像が、円形の太陽に捧げ持っているこのモニュメントは、明るい太陽に恵まれた屯田地区を象徴している。屯田開基百年記念事業協賛会が百年記念事業の一環として、昭和63(1989)年の屯田地区センター、屯田郷土資料館の落成を機に札幌市に寄贈したものである。

   

   

    ※ 北区制作の説明板とは別に、このような説明書きも立てられていました。

〔住 所〕 北区屯田5条6丁目屯田地区センター前庭

〔訪問日〕  10月3日   

 

〈50〉屯田郷土資料館

   

   ※ 「屯田地区センター」のエントランスです。

 「屯田資料館」は、「屯田地区センター」内に併設する形で建てられている。その「屯田地区センター」は「屯田みずほ通り」沿いに背を向ける形で建っていたので容易に見つけることができた。ただ、残念だったのは私が訪れた日が月曜日だったために閉館日とぶつかってしまい内部の見学ができなかったことだ。もっとも私は以前にここを訪れており、資料館内に復元されている「篠路屯田兵屋」を一度見ているのでそれでヨシとすることにした。「屯田資料館」について簡単に説明している文書に出会ったので、それを転写しておくことにする。

   

   ※ エントランスには芸術の秋らしく実物絵画(?)が置かれていました。

 現在、札幌市内で屯田兵の屯田が地名となって残っているのは、北区屯田といわれるこの地域だけです。そして屯田の地名は、篠路屯田兵村の名残といえます。屯田郷土資料館は、昭和63年10月に屯田兵による開拓100年の歴史を記念して開設されました。館内には、実物大の屯田兵の家屋が再現され、内部の土間やいろりなどによって、入植当時の屯田兵の生活をうかがい知ることができます。

   

   ※ 地区センターに併設されている「郷土資料館」のドアは閉館日の為に固く閉ざされていました。

〔住 所〕 北区屯田5条6丁目屯田地区センター内

〔訪問日〕 10月3日