田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

続・街歩きの達人、札幌の街を語る

2024-07-26 14:21:42 | 札幌学 & ほっかいどう学
 三日前に投稿した「街歩き研究家」の和田哲氏から聴いたお話はぜひ紹介したいと思い、続編を綴ることにした。◆定山渓鉄道、◆中島スポーツセンター、◆アンパン道路、◆悲しみの盤渓、の後編をお読みいただけたらと思います。

 和田氏から伺った “札幌のトリビア” は、そのいずれもが興味深かった。いずれもが私の記憶に残したい思いもあって、その続編を綴ってみることにした。
 まずは「定山渓鉄道」である。定山渓鉄道は、大正年代に入って定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的として計画され、1918(大正7)年10月に東札幌駅 ⇔ 定山渓駅間(27.2km)で開業し、1969(昭和44)年11月モータリゼーションの普及などから経営不振となり廃線にいたった鉄道である。

    
     定山渓鉄道の遺構の一つ「旧石切山駅」です。現在は地域の振興会館として活用されています。   

 定山渓鉄道に関して興味深いお話を伺った。それは定山渓鉄道が経営不振に陥った際に、当時「買収王」とも称され辣腕を振るっていた五島慶太氏率いる東急電鉄が株を買収し、実質的に経営者となった際に、五島慶太は国鉄の札幌 ⇔ 江別間の線路が大きく湾曲して遠回りしていたことから、札幌 ⇔ 江別間を直線で結ぶ「札幌急行鉄道」を計画したという。そしてその線路を北海道炭鑛汽船が経営する「夕張鉄道線」との連絡も企図していたという。しかし、五島慶太が志半ばで逝去したことから、この計画は実現しなかった。もし、計画が実現していたら、札幌から江別にかけての沿線の風景は今とはかなり違ったものになっていたのではないかと思うと興味深い。

 続いて「中島スポーツセンター(正式名:北海道立札幌中島体育センター)である。中島スポーツセンターは、1954(昭和29)年の第9回国民体育大会の大会々場として建設され、建設当時は国内でも有数の規模を誇るスポーツセンターだったという。アリーナを客席とすると6,000人は優に収容できる規模だったそうだ。そこでは大相撲札幌場所やプロレス、サーカス、コンサートなどあらゆる催しが開催されたそうだが、特にプロレス興行が盛んに行われたことで有名だったという。

    
    ※ 当時、威容を誇った初代の中島スポーツセンターです。

 現在は、豊平公園に「北海道立総合体育館(通称:きたえ~る)」が開設され、中島スポーツセンターは規模を縮小して建て替えられ、施設は札幌市に移管され、純粋なスポーツ施設として中島公園内に建っている。
 三つ目の話題は「アンパン道路」である。このお話には、札幌市の街の変遷が関わっている。1910(明治43)年、当時の豊平町の一部が札幌区に編入されたことにより、そこににあった役場が編入されなかった月寒に移転されることになったそうだ。すると豊平町の一部だった平岸から新しい役場へ行く道路                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              がなく、平岸地区の住民が困難を被ったそうだ。その不便さを解消するために、平岸と月寒を結ぶ道路の建設が叫ばれ、陸軍第7師団歩兵第25連隊に道路建設の協力を要請、地元民も参加して全長約2.6キロメートルの道路建設工事が行われて4カ月で完成したという。町は道路工事に従事した兵士に間食としてアンパンを配布したことから、この道路は「アンパン道路」という通称で後世親しまれることとなったそうだ。

      
      ※ 札幌市民の懐かしの味「月寒アンパン」です。

 そのアンパンは私も食したことがあるが、普通市販されているアンパンとは違い月餅に近い食感でしっとりとしていて独特の風味を感じるアンパンである。また、私はここの「アンパン道路」を実際に歩いてみたこともあるが、短い距離ながら高低差がけっこうあって、昔の人たちが道路建設を躊躇されたのも分かるような気がした。

 最後は「悲しみの盤渓」のお話である。和田氏から伺ったお話は感動的なものだった。どのようにまとめたら良いか呻吟したが、結局ウェブ上にその詳細が掲載されていたので、少し長くなるが、それを拝借することとしたい。
 1912年(明治45年)、琴似尋常高等小学校附属盤之沢特別教授場として創立する。
1922年(大正11年)には独立して盤渓尋常小学校となる。その背景には、札幌の発展とともに山鼻や円山の住宅化が進行したため、押し出されるような形になった畑地が盤渓へと移ってきて地域が振興したという経緯があった。しかし学校用地の確保には、農民にとっての魂とも言うべき土地を手放す必要がある。住民による会合は十数回に及んだが決着を見ず、ついには殴り合いにまで発展し、我満六太郎が用地を寄付することでようやく事態は収束した。
この時、学校の名が当時の地名の「盤之沢」から漢文調の「盤渓」に改められた。この命名者は1917年(大正6年)から盤之沢特別教授場の教師を務め、小学校独立に尽力し、後に盤渓尋常小学校の初代校長を任命された結城三郎であった。この「盤渓」の名は地域に浸透し、小学校に続き「盤之沢神社」についても社殿の改築を機に「盤渓神社」に改め、1943年(昭和18年)には正式な地名も「盤之沢」から「盤渓」に改められた。
1950年(昭和30年)、札幌市立盤渓小学校となる。1977年(昭和52年)には札幌市特認学校の指定を受けた。
初代校長・結城三郎
盤渓小学校が独立開校した1922年(大正11年)当時、盤渓の集落は琴似村役場から山道を8キロメートルもたどらねばならない僻地であり、教員を確保しても早い者は2か月で逃げ出す有様だった。そのような中、1917年(大正6年)、開校から7人目の教師として着任し6年にわたり当地での教育に携わり人格者として生徒や住民からも慕われた結城三郎が初代校長の内示を受けたことは、村人たちにとっても喜ばしいことであった。
同年12月21日、開校式を3日後に控え、羽織袴の正装をまとった結城は、琴似村役場にて辞令と教育勅語を受け取った。役場を出たのは午後2時で、日没は午後4時であるから、明るいうちに盤渓に帰り着くことは無理である。途中、教育勅語を取り扱うための白手袋とふくさを立ち寄った円山の定松商店で宿泊を勧められるが、結城は「畏れ多い『お勅語』を民家にはおけない」という理由で断り、提灯を借りて先を目指した。
気温は氷点下7度、風速7メートルという悪条件の中、なんとか幌見峠を越えた結城が、峠下の久保田家で2本目のロウソクに点火してもらったのは午後10時半ごろのことであった。だが、そこから1キロメートルほど進んだあたりで力尽き、翌朝に雪の下で遺体となって発見された。小学校まであと僅か50mほどの場所であった。享年42。教育勅語はその胸に抱かれて無事だった。
結城は正式に校長として着任できなかったため、1960年(昭和35年)に開かれた開校50年記念式典の際も校長として取り上げられなかった。恩師の扱いに驚いた教え子たちは「結城先生復活」を呼びかけ、趣意書を作成し寄付を募り、盤渓小学校グラウンドの東端、山の斜面とぶつかるあたりに、高さ1.5メートルの「あゝ結城先生」の碑を建立した。1964年(昭和39年)5月17日、碑の除幕式が行われ、教え子達は碑の前で先生に教わった「金剛石の歌」を歌い偲んだ。その後、結城は札幌市教育委員会から正式に初代校長として認められた。

     
     ※ 現在の盤渓小学校の庭の片隅に佇む「あゝ結城先生」像です。

 ちょーっと長くなってしまったが、とても感動的なお話をぜひ紹介したいと思い長くなってしまったことをお許しください。
いや~、地域の歴史を掘り起こすことって非常に興味深いことですね。改めてその子とを教えられた和田氏の講演でした。

街歩きの達人、札幌の街を語る

2024-07-23 20:50:52 | 札幌学 & ほっかいどう学
 えっ?南区の面積は、東京24区の面積より広いって!?札幌の街が微妙に碁盤の目の形がズレているのは、黒田清隆と岩村通俊の仲が悪かったから?などなど、次から次へと札幌のトリビアが開陳され、楽しくお話を伺った。

 昨日午後、道立道民活動センター(かでる2・7)において「ほっかいどう学かでる講座」が開講されたので受講した。
 今回は、街歩き研究家として活躍されている和田哲氏「ぶらり新発見~さっぽろの街並みから~」と題してお話された。
 和田氏が開陳されたテーマは、◆南区の広大さ、◆札幌の条・丁目、◆北海道の三大名橋、◆札幌市電、◆定山渓鉄道、◆中島スポーツセンター、◆アンパン道路、◆悲しみの盤渓、と多岐にわたった。
 和田氏はこれだけのテーマをテンポよく、次々とお話されるのでメモすることもできなかったのだが、記憶を頼りにその一片を書き起こしてみる。

   
   ※ 講演をされる街歩き研究家の和田哲氏です。
  
 まず南区の広大さであるが、南区の面積は札幌10区全体の60数パーセントを占めているそうだ。そしてその広さは前述したように東京23区より広いそうだ。
 次に、札幌の街は碁盤の目状に道路が走っているとよく言われているが、詳細に見てみると、山鼻地区から中心街へ向かう際、微妙に道路が屈曲している。これは札幌の中心街が当時の札幌の街を貫いていた「大友堀(現在の創成川)」を中心に区角割をしたのに対して、山鼻地区は屯田兵村として造られた街区で、こちらは独自に磁石の真北を基準に区角割をしたことでズレが生じたそうだ。このことを和田氏は、当時の開拓判官(2代目)だった岩村通俊が札幌の街の区角割を主導したのに対して、屯田兵制度を創設してその責任者でもあった黒田清隆は、岩村との仲が悪かったことから、岩村主導の街づくり準ずることなく独自山鼻地区の区角割をしたのではないか、と和田氏は述べられたが、まあこの説は巷に語られた俗説を紹介されたものと受け止めたい。

※ 旧札幌区と旧山鼻村の接点のところから微妙に道路が屈曲しているのがおわかりでしょうか?

 なお、札幌の条・丁目に関して、その面積の最小、最大の条・丁目についても紹介された。それによると最小のところは「南10条西2丁目」で人口はゼロである。対する最大のところは「北16条西16丁目」で「札幌競馬場」がすっぽりと入るそうだ。
 続いて札幌の交通の要衝の一つ国道36号線に架かる「豊平橋」は以前(大正から昭和年代にかけて)北海道の「三大名橋」と呼ばれていた時期があったそうだ。その「三大名橋」とは、旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」、そして札幌市の「豊平橋」だったそうだ。しかし、現在の「豊平橋」はいたって平凡な形状であり、名橋とは言い難い橋である。ところが大正13年に「土木工学の父」とも謳われた廣井勇氏の指導で完成された二連のアーチで繋ぐ橋は、まさに名橋に値する橋だったと云われているそうだ。

    
    ※ 何の変哲もない現代の豊平橋です。
    
    ※ 大正13年、廣井氏の指導で完成した豊平橋の渡り初めの様子です。

 次は「札幌市電」についてである。札幌市電は、それまで市内は馬車鉄道が走っていたそうだが、1908(大正7)年、開道50周年を記念して博覧会が開催されたのを機に、札幌電気軌道として開業されたのが始まりだそうだ。その際に札幌としては軌道を走る電車を探していた時、名古屋電気鉄道から中古の電車24両を提供してくれる申し入れがあり、無事に札幌市内を電車が走ることになったそうだ。
 名古屋との関りはそれで終わらず、今度は反対に名古屋電気鉄道の子会社(何という会社名だったかは不明)が中古の電車を探していた際、今度は札幌から名古屋へ中古の電車を譲ることになったという後日談も紹介された。
 おーっと、こうして和田氏から伺った話を紹介していくと、まだまだ続くことになってしまう。今夜の私の体力はこの辺りが限界である。和田氏から伺ったトリビアはいつの日かまた紹介させていただくことにして、今夜はこの辺にしておきます。
 私は和田氏のお話を聴いたのは確か4回目のはずであるが、いつ聴いても和田氏のお話は氏のお話上手もあり、毎回楽しませてもらっている。次もまたどこかで氏のお話を伺いたいと思っている。

※ 文中で使用している「トリビア」とは、昔の人気テレビ番組を想い出して使ってみたのだが、その意味は「どうでも良いこと」、「取るに足らないこと」だそうだ。しかし、私はそういう意味ではなく「へぇ~、そうだったんだ」、「そんな事実が隠されていたんだ」という意味合いで使用した。和田氏のお話をお聴きしていると、和田氏は実に詳細に調べ、時には電車の件ではわざわざ名古屋にまで出かけるなど、非常に説得力のあるお話をいつも聴かせていただいている。



対雁に移住させられた樺太アイヌ

2012-11-14 23:35:21 | 札幌学 & ほっかいどう学
 樺太の先住民族であるアイヌが国の都合で北海道の対雁(現在の石狩市)に移住させられ、移住してからも国の都合に翻弄されてという樺太アイヌの悲哀の歴史を学んだ…。 

 国の都合とは、…。
 1875(明治8)年、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結され、それまで樺太で生活していた先住民族のアイヌが国籍の選択を迫られ、841名ものアイヌが海を渡りいったん宗谷へ移住後、翌1876年に対雁に強制移住させられたという。

 11月11日(日)午後、北海道開拓記念館(厚別区厚別町小野幌53-2)が開催する歴史講座「対雁に移住させられた樺太アイヌの暮らし」に参加した。会場の地下室講堂には50名くらいの受講者が集まり意外に関心が高いことを教えられた。
 講座は2部に分かれていて、第1部が「勧業政策と対雁の樺太アイヌ」と題して記念館学芸員の山田伸一氏が、第2部が「対雁学校の歴史」と題して道立アイヌ民族文化研究センターの研究職員の小川正人氏がそれぞれ講師を務められた。

          
          ※ 講義をする学芸員の山田伸一氏です。

 ここでは樺太アイヌが対雁に移住させられた経緯とその後を中心にレポートすることにする。
 樺太は北海道と同様にアイヌ民族が先住民族として生活をしていたが、そこへ和人が進出し、続いて南下を狙うロシア人も進出し、一時は三者が混在する形が続いた。
 そこで日本とロシアが樺太の領有をめぐって諍いが絶えなかったのだが、上述したように1875年に日本政府は樺太を捨て、見返りに千島列島全域を領有するということで交換条約が締結された。
 その際、アイヌ民族に対して、日本かロシアかの国籍選択を迫り、108戸841名が日本国籍を選択し、宗谷へ移住した。(当時の日本政府は宗谷へ移住という約束をアイヌと交わした)

          
          ※ 質問に答える研究職員の小川正人氏です。

 しかし、日本政府としては北海道の産業振興のため対雁に移住させて労働力として活用しようと考えたようだ。この移住はかなり強制的だったようだ。
 対雁に移ったアイヌは官営事業(農業試験場、製網所、馬具製造所、靴製造場、製革所など)の手伝いに従事するがほとんどは上手くゆかず、サケ漁やニシン漁に従事することになったようだ。対雁の生活はかなり劣悪で、1879~87年にはコレラや天然痘で大量の死者を出したという。
 そんな中、靴製造場、製革所などに従事した者の中から技術を習得し開業した者も中にはいたという。しかし、大多数の者は馴染めずに悲惨な暮らしをしていたようだ。

          
          ※ スライドで対雁のアイヌの様子を写した貴重な写真が提供されました。

 
 そのような樺太アイヌは、1905年日本が日露戦争に勝利し樺太の南半分が返還されるとほとんどの者が樺太に帰っていったという。

 北海道のアイヌとはまた違った意味で時の政府に翻弄された樺太アイヌ…。彼らの末裔は太平洋戦争によって再び樺太がロシア(当時はソ連)領となってしまった。私が調べたところでは樺太アイヌのほとんどが日本に強制送還されたらしい。しかし、中には樺太にそのまま居ついたアイヌもいたということだ。

 アメリカの先住民もそうだったが、日本(樺太、北海道)における先住民も後から襲ってきた時の政府に翻弄されるという屈辱を負わされたようだ・・・・・・・・・。
 

くりやまの匠たち

2012-11-04 23:44:35 | 札幌学 & ほっかいどう学
 自分たちが楽しんでいる。自分たちが喜んでいる。それが何よりいい! その楽しさや喜びを子どもたちと共有しようとする姿勢が何よりいい!! くりやまの匠たちの話を聴いた。 

               
               ※ 「匠まつり」の今年の開催内容を伝えるリーフレットです。

 今年の11月1日は北海道が「教育の日」を制定して6年目だそうだ。
 制定以来、この日を記念して講演会などを催してきたが、今年は子どもの育ちに関わる活動をしている二つの団体の活動を紹介する内容となった。
 その二つとは、木のぬくもりを通して心を育んでいる「くりやまの匠たち」と、和太鼓を通して、養護学校の子ども達とのつながりを求めている「民舞サークル結」の発表だった。
 二つの中から「くりやまの匠たち」の「匠まつり」の取り組みをレポートすることにする。

           
           ※ 活動の発表会場だったホテルの会場入り口に展示された「とんかち広場」の作品(?)です。

 「匠まつり」はいわゆる“まちおこし”の一環である。
 栗山町の建築家などの有志が「まちを元気にするために自分たちにできることはないだろうか?」という自らへの問い掛けがその始まりだという。
 そして自分たちとかかわりの深い“木”を通して、子どもたちに木のぬくもりやモノを作る喜びを知ってもらうためのイベントを行おう!というのが原点だったそうだ。

          

 衆議一決したメンバーたちは、自分たちの夢に向かって奔走した。町や商店会などに呼びかけ、彼らの熱意が周囲を動かし2007年8月11日、「第1回匠まつり」が行われ町民約400人が集まって一日を楽しんだという。
 以来、毎年8月10日前後の土曜日に開催され、今年で6回目を数えたということだ。
 まつりの内容は年々バージョンアップして、その楽しさも周囲に広がり今年の参加者は1,000人を超えたという。

          
          ※ 「とんかち広場」に大勢集まった子どもたちです。

 手元に今年の開催内容を告知するリーフレットがある。それによると、メインは子どたちが、主催者が用意した木材を使って工作を楽しむ「とんかち広場」が会場の中央を占めている。その「とんかち広場」を取り囲むように、クワガタ吊り、野菜詰め放題、スタンプラリー、射的、ボール投げ、だるまおとし、などなどいろんな楽しみ満載であるが全て実行委員の手作りによるものだそうだ。もちろんフードコーナーも設けられている。
 正面のイベントステージでは、丸太切り大会、釘早打ち大会、流しソーメンなどの催しがある。さらには、吉本のお笑い芸人のステージ、マジックショーなども行われるなど、相当な規模のおまつりと想像される。

          
          ※ 「匠」の文字が入ったTシャツを着たスタッフが頼もしく見えます。

 エピソードが紹介された。
 実行委員のメンバーは開催の半年前からまつりの準備に奔走するという。仕事をしていても、どう工夫したら子どもたちにより楽しんでもらえるか、と頭を悩ませるという。その姿は自分たちが楽しんでいる何よりの証拠である。
 その工夫が子どもたちの笑顔に結びついたときには何にも代えがたい喜びになるのだろう。

 子どもをどのように教育するか? 子どもの指導の在り方は?などについて議論することはとても大切なことである。それと同時に、栗山町のように子どもに視点を当てつつ自分たちも楽しんじゃおう!とする動きも各地に誕生してほしいなぁ、と思いながら「くりやまの匠たち」の話を聴いた。

北の歴史が動いた瞬間 3

2012-10-28 23:07:53 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北の歴史が動いた、というよりは日本の歴史が動いた瞬間である。講師の合田氏は、日本が太平洋戦争に突入した、日本の歴史が動いた瞬間を昭和16年12月8日の開戦の詔書が発せられた時であると新聞記事の写しを示した。 

 札幌学院大学コミュニティカレッジ「北の歴史が動いた瞬間」第3講(最終講)は10月25日(木)に行われた。第3講のテーマは北海道の歴史というよりは、日本の歴史の大きな転換点であった「太平洋戦争」がテーマだった。本日の投稿は少し長くなるが、興味のある方はお付き合いください。

               
          ※ 昭和16年12月9日付の朝日新聞夕刊です。左側に小さく社説の欄が見えます。

 合田氏は朝日新聞の昭和16年12月9日付夕刊(実際は8日の夕刊だが、当時の慣習で夕刊は翌日付で発行されていたそうだ)のコピーを受講生に渡した。そこには 「宣戰の大詔渙發さる」 という大きな見出しが躍り詔書全文が載っていた。

        
        ※ 宣戦の詔書の写しです。(ウェブ上から)

 その詔書は非常に興味深いものだが原文ではとても内容の把握が難しい。そこでウェブ上に現代語訳文が載っていたので、それを紹介することにする。そこにはなぜ日本があのような太平洋戦争に突入していったのか、日本人の側から見た答えがそこにある。

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。 
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。 
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。 

 そしてこの詔書の横に朝日新聞の社説が掲載されている。その社説そのものは鮮明さを欠いていて判読困難なのだが、これもまたウェブ上から見つけたので紹介することにする。(というのも、後ほど紹介するニューズウィーク紙の社説の対比が興味深いからである)

          
          ※ 講義をする合田一道氏です。

帝國の對米英宣戰 と題した朝日新聞の社説である。

 宣戦の大詔ここに渙発され、一億国民の向うところは厳として定まったのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。 
 帝国は、日米和協の道を探求すべく、最後まで条理を尽くして米国の反省を求めたにも拘わらず、米国は常に謬れる原則論を堅守して、わが公正なる主張に耳をそむけ、却って、わが陸海軍の支那よりの全面的撤兵、南京政府の否認、日独伊三国同盟の破棄というが如き、全く現実に適用し得べくもない諸条項を強要するのみならず、英、蘭、重慶等一連の衛星国家を駆って、対日包囲攻勢の戦備を強化し、かくてわが平和達成への願望は、遂に水泡に帰したのである。すなわち、帝国不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大業は、もはや米国を主軸とする一連の反日敵性勢力を、東亜の全域から駆逐するにあらざれば、到底その達成を望み得ざる最後の段階に到達し、東條首相の言の如く『もし帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となる』が如き重大なる事態に到達したのである。 
 事ここに到って、帝国の自存を全うするため、ここに決然として起たざるを得ず、一億を打って一丸とした総力を挙げて、勝利のために戦いを戦い抜かねばならないのである。 

 社説は詔書を受け、国民を鼓舞する内容になっている。対して、合田氏が用意してくれた開戦当時のニューヨークタイムズが興味深い。記事と共に紹介された12月8日付のニューヨークタイムズの社説を紹介する。

 日本との戦争 

 日本の攻撃に対する一つの答えは、日本に対してただちに宣戦布告をすることである。これは、日本が、アメリカがその力を大西洋から太平洋に振り向けることを望むドイツの力に屈した結果なのか、狂気に満ちた日本軍部主導による単独の行為なのかは、まだよくわからない。しかし、今重要なのは米国の防衛を破壊する行為が敵国によって行われたことである。 
 我々はこの行為に対し、すみやかに応戦するだろう。ただ、我々にとって最大の脅威は日本ではなくドイツであることを忘れてはならない。本当の戦いは極東ではなく、英仏海峡にあるのである。欧州戦線の兵力を常に整備しなくはならないのである。ヒットラーが打倒されれば、自ずと極東情勢は収拾する。しかし、仮に日本に勝利したとしても、ヒットラーが欧州で勢力を握れば、我々の危機は増大するのである。 
 米国は攻撃された。米国は今危機にある。国を愛する国民は民主主義を信じ守り通そう。我々は、この国土と現在、未来、そしてこの自由な国土で我々が築きあげてきた生活を守るために、戦闘を開始するのである。 

 下線は私が付けたものだが、日本が宣戦布告した太平洋戦争に対して、日本を脅威とは捉えていない米国の本音を見て取れる。日本が宣戦布告をしてきたので、その防御のために戦闘に入るのだという米国の思いであり、本当の脅威は欧州戦線にあるとしているところが見て取れる。

 この二つの新聞の社説のトーンの違いをどう解釈すべきなのだろうか? 合田氏は別の資料を用意して、当時の日米両国の国力・軍事力を比較したものを用意してくれた。それを見ると両者の差はあまりにも歴然としていて、愕然とする思いである…。

          
     ※ 合田氏が用意した米軍による日本国民に抵抗を止めるよう呼びかけるパンフの写しです。

 かくして3回にわたった合田一道氏による「北の歴史が動いた瞬間」の講座は終了した。またどこかの機会に合田氏の講座をぜひ聴いてみたいと思った三日間だった。

北の歴史が動いた瞬間 2

2012-10-21 22:38:08 | 札幌学 & ほっかいどう学
 榎本武揚は慶応4年8月19日付で勝安房(勝海舟)、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)、関口良輔に宛てて書状を送っている。この書状は榎本武揚が旧幕軍の不満分子を率いて蝦夷に脱出することを公に宣言した最初の文書ではないか、と講師でありノンフィクション作家である合田一道氏は指摘する。 

 札幌学院大学コミュニティカレッジ「北の歴史が動いた瞬間」は講師の合田氏の都合で前回から一週空いて10月18日(木)に第2講が行われた。第2講のテーマは「榎本武揚と箱館戦争」だった。

          
          ※ 合田氏が収集した資料を提示する合田一道氏です。

 冒頭に合田氏は榎本釜次郎(武揚)が勝安房、山岡鉄太郎、関口良輔に宛てた書状のコピーを提示した。(その書状をネット上で見つけたのでちょっと長くなるが転写します)

寸楮拝啓、秋冷之節各位益御壮健御鞅掌被為在候事欣抑之至ニ候、陳は我輩一同今度此地を大去致候、情実別紙之通ニ候間、御転覧之上可相成は、鎮将府え御届可被下候、尤 
帝門并軍防局えは、夫々手づるを以差出候得共、達不達も難計候間、更ニ貴所様方を相煩候義ニ御座候、我輩此一挙、素より好敷ニあらす、却て以此永く為 皇国一和之基を開キ度為ニ御座候、目今之形勢言葉を以てするより事ヲ以てするに不如と決心致候より此挙ニ及候義ニて、他意更ニ無之候、 
帝門并軍防局えは、夫々手づるを以差出候得共、達不達も難計候間、更ニ貴所様方を相煩候義ニ御座候、我輩此一挙、素より好敷ニあらす、却て以此永く為 皇国一和之基を開キ度為ニ御座候、目今之形勢言葉を以てするより事ヲ以てするに不如と決心致候より此挙ニ及候義ニて、他意更ニ無之候、
天如シ不棄我トキは、目出度再ひ拝晤も出来可申、否則命也、我果熟懇、乍憚小拙 相議之諸有司え御序之節宜敷生前之一語御致声此祈而已、

八月十九日 榎本釜次郎 拝 

勝安房様 
山岡鉄太郎様 
関口艮輔様 
各位 

(大意) 
短信。拝啓。秋冷の節となり、各位ますますご壮健にご多忙中のこと、喜ばしい限りです。さて、私たち(旧幕府海軍)一同は今度、この地(品川)を「大去(退去)」(脱走の意か)いたした情実(趣意)は別紙の通りです。ご転覧のうえ、できるならば鎮将府へお届けください。もっとも帝門(宮中)と軍防局へは、それぞれ手づるをもって(書面を)差し出しましたが、届いたのか、届かなかったのかもはかりがたいので、さらに貴所様方を煩します。 
私はこの一挙をもとより好ましい行動とは考えていません。むしろ、末永く皇国のために一和の基を開きたいがためです。目今の形勢は、言葉をもってするは、「事」(行動)をもってするに如かずと決心しましたので、この挙に及びました。他意はさらさらありません。 
天が私を見棄てなかった時は、めでたく再び拝顔もできるでしょう。そうでなければ天命ということでしょう。私が熟懇(熟慮)した結果です。 
恐縮ですが、私が議論に預かった諸有司(旧幕府高官)へお序での節に宜しく生前の一語をご伝言くださるよう祈念します。 


 合田氏によると、けっして勝算があっての行動でないことは榎本自身も書状の中で語っているが、賊軍となった旧幕府軍の幕臣たちの思いを汲み取った上での義の行動だったということだ。
 結果は諸氏ご存じのとおり新政府軍の前に屈することになるのだが、榎本自身は後の北海道開拓長官となる黒田清隆の奔走により、助命され、さらには明治政府に取り立てられ政府高官となって活躍したことはご存じのとおりである。

 講座では明治政府高官になってからの榎本武揚関係の資料も提示され、榎本の後年の活躍についても説明を受けたが、本講座の趣旨は「北の歴史が動いた瞬間」である。つまり箱館戦争は榎本が三氏に送った書状がその発端だったと合田氏は指摘した。

 合田氏の講座の魅力は、必ず古文書資料を複写して用意してくれ、それを噛み砕いて説明してくれるとともに、その中に合田氏が取材したエピソードが豊富に紹介されることである。歴史上の出来事が具体的にイメージすることができるので合田氏の講座はいつも興味津々である。

北の歴史が動いた瞬間 1

2012-10-07 21:05:42 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていたころ、土着の民族であるアイヌと蝦夷地を侵略する和人との間で大きな抗争が3度あったとされる。その3度の抗争の最後にあたる「国後・目梨の戦い」について詳しく聴いた。 

 ノンフィクション作家として活躍する合田一道氏の講座が札幌学院大学のコミュニティカレッジで開催されると聞いて受講することにした。(3回シリーズで開催)
 その第一回講座が10月4日(木)夜、札幌学院大学社会連携センターで行われた。
 テーマは「国後目梨の戦い」だった。

 アイヌと和人の抗争史として有名なのは、1457(長禄元)年の「コシャマインの蜂起」、1669(寛文9)の「シャクシャインの蜂起」などがあるが、そうした大きな抗争の最後の戦いとなったのが1789(寛政元)年に勃発した「国後・目梨の戦い」だった。

 当時アイヌは和人との交易を盛んに行っていたが、和人のあくどいやり方に不満を抱いた国後・目梨のアイヌが蜂起したものである。
 この戦いで和人71人が殺害されたと記録されているが、アイヌの首長のとりなしにより蜂起したアイヌたちは矛を収め投降した。しかし、当時の松前藩はとりなしをした首長たちの命を保護する一方、蜂起の中心となったアイヌたちを処刑した。
 そしてこの戦いを境にしてアイヌ民族にとっては長く和人に隷属する暗黒の時代に入っていったのだった。

          
          ※ 「夷酋列像」の絵を背に講義する合田一道氏です。

 ここで講師の合田氏は極彩色に彩られた十数枚の絵を提示した。蠣崎波響(かきざき はきょう)作の「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」である。蠣崎波響作の「夷酋列像」については、以前に道民カレッジの放送大学講座で取り上げられていたことからよく知っていた絵だった。
 アイヌたちに蝦夷錦やロシアの軍服をまとわせた絵は、細密な表現と色鮮やかな色彩でリアリティのある絵として評判が全国に広がり、大名や公家たちがこぞって閲覧したと放送は伝えていた。
 それもそのはず、蠣崎波響は10代のころに江戸に出て10年もの間絵を勉強したということだから本格的な絵師だったのである。

               
               ※ アッケシ酋長 イトコイの図です。

 そんな蠣崎波響は絵師としてだけではなく、松前藩の家老として「国後・目梨の戦い」の討伐隊の指揮官の一人として現地に赴いているのである。
 そして「夷酋列像」に描かれているアイヌは、「国後・目梨の戦い」で蜂起したアイヌたちをとりなし、命を保護されたアイヌの首長たちということが分かった。

               
               ※ アッケシバラサン酋長 イニンカリの図です。

 そうなると、以前は単に美術作品として見た「夷酋列像」が、絵師としての才能の素晴らしさに感嘆した蠣崎波響が、また違って見えてきた。
 美術作品もそうした背景を知ることで、違ったものに見えてくるということを教えてもらった思いである。

               
               ※ クナシリ総酋長 ツキノエの図です。

 一方、主題に関することだが1789年に鎮圧された「国後・目梨の戦い」以降、1997(平成9)年に通称「アイヌ文化振興法(アイヌ新法)」が成立するまで、アイヌ民族にとって長い暗黒の時代がこの国で続いたことを私たちは忘れてはいけないと思う。

熊さん被害を防ぐ道は?

2012-10-02 06:06:52 | 札幌学 & ほっかいどう学
 札幌市の住宅地でもヒグマの出没報道が頻繁である。いったいヒグマの被害を防ぐ道はあるのか? 道総研セミナー「ヒグマ出没の背景と対策を考える」を聴講した。

 熊さん騒動にすっかり登山熱を冷やされてしまった私としては是非とも聴いてみたいテーマだった。
 9月29日(土)午後、アスティ45で北海道立総合研究機構(略称:道総合研)が開催する市民向けセミナーに参加した。
 スピーカーは道総研でヒグマの生態などについても研究テーマにしている4人の研究者とNPOでヒグマの除去や被害防止に関わっている方、計5名の方がさまざまな分野からヒグマ対策について講じた。

          
       ※ この種のセミナーでは珍しく写真はNGだった。セミナー開始前に撮った一枚です。        

 スピーカーが話をした内容をここで全て紹介することはできないが、聴講した結論としてはヒグマの研究はまだ道半ばであり、決定的な対策はないと感じた。

 お話の中で私が新鮮に感じたことを中心に紹介していくことにする。
 まず、ヒグマの分布地域だが、北半球の中緯度以北に広く分布しているということだ。昔はヨーロッパや北アメリカなど温帯域にも分布していたが早くから農業・畜産業が進んだことで絶滅したということだ。「絶滅」ということは、住民によって徹底的に駆除されたということではないだろうか?野生生物の保護が叫ばれる現代ではあり得ぬ対策であろう。
 
 次に、ヒグマ被害の実態は人身被害は年間2~3件ということで意外に少ないことが分かった。また、家畜の被害も過去に比べ劇的に減っている。問題になっているのは農業被害が近年右肩上がりに増大しているということだ。

 したがって道総研の研究者の問題意識も、人的被害云々より、農業被害をいかに食い止めるかにより意識が向けられていたようだ。
 というのも、ヒグマには学習能力があり一度農作物の味を覚えたヒグマは繰り返し農地に侵入するようだ。そうして対策を施さないでいると被害は増える一方になってしまうという。
 そして、その対策としては①電気柵の設置、②緩衝帯の整備、③ハザードマップの利用、④誘因物の適正管理、⑤ドングリ類の結実調査を挙げた。
 簡単に言うと、ヒグマを農地に近づけさせない対策を徹底させるということになる。

 私はセミナーを聴くことによって、少しでも登山を安心してできるヒントを得られるかもしれない思い参加したが、それは甘かった。
 登山、山菜採り、きのこ採りなどはヒグマのテリトリーに我々が入っていくのだから、それはあくまで自己責任で対策を施すしかないということになる。
 う~ん。さあ~て…、どうすべきか? 研究者たちからは「人の道楽などに構ってなんかいられない」と言われたような気がした…。

 ※ 今日はこれから一泊二日の小トリップです。珍しく朝の投稿となりました。 

北海道の高山登頂の話を聴く

2012-09-29 21:44:41 | 札幌学 & ほっかいどう学
 世の中には凄い人がいるものだなあ~、と感嘆するばかりだった。北海道内の1500m以上の山々150峰を全て、しかも夏冬両シーズンともに登ったという。当年とって68歳の京極絋一さんという凄いクライマーの話を聴いた。

 
 熊さん騒動で山に登れないなら(登れないことはないのだろうが…)、せめて山の話を聴こうと思って、このところ積極的に山の話を聴くことにしている。
 25日(木)日本山岳会北海道支部が主催する講座に参加した。
 この回は「1500m夏冬登頂」と題して京極絋一氏の体験談を豊富な写真と共にうかがった。

          
          ※ 京極氏の話を聴く受講者。中高年の姿が目立ったが・・・。

 京極氏は北海大学山岳部の出身で、現役・0Bで作る「北海岳友会」に所属して山登りを続けているようだ。その山行記録は輝かしいものである。
 まだ氏が若かった20世紀後半、カフカス、ヒマラヤ、ミニアコンガ、ブータン、カムチャッカ、サハリン等々、海外の高山を数多く登っているという。
 と同時に国内・道内の山々も「北海岳友会」の仲間たちと登っているうちに道内の1500m以上の山150峰を全て登ってしまったのが平成8年秋だったそうだ。
 これらの山行を勤めを果たしながらながら(高校の事務職)完成したというのだからその努力は並大抵のものではないと想像される。

          
          ※ お話をする京極絋一氏です。68歳とは思えない若々しさです。

 しかし氏はそれでも挑戦を終えなかった。
 今度は夏冬それぞれその1500m以上の山々の登頂を目ざしたのである。冬は雪風が困難を極め、夏は道がなくて難渋したという。
 その困難な目標も平成21年秋にとうとう達成したという。
 
 世の中にいろいろな道の達人が存在する。京極氏はまちがいなく登山の道の達人と言えるだろう。素人には推し量れないほどの困難を克服しての達成だと思う。
 講座では山行の際の記録写真を数多く見せてくれた。私など見たこともなかった北海道の高山の厳しい表情がそこにあった。また、夏と冬ではまったく違った表情を見せる山の姿を見せていただいた。

          
          ※ 数多く映し出してくれた写真の一枚です。どこの山かは不明です。

 氏は講座の冒頭に「私はピークハンターではない」と話した。
 ピークハンターとは文字どおり、山頂登頂を目ざす登山者のことを指す言葉である。
 それより氏はむしろ岩登りを最も好んでいるという。
 だから68歳になった今も、アルパインクライミングの日本のクラシックルートの登攀を続けているという。
 さらにもう一つ現在取り組んでいることは、日本山岳会が創立100周年事業で取り組んだ「中央分水嶺踏破」(この踏破そのものは2006年に完成している)の北海道版で上川地方の三国山から知床峠の突端までの分水嶺踏破を目ざしているそうだ。

 こうして68歳の今も現役で登山に情熱を傾ける京極氏のお話をうかがいながら、疲れが取れなくなった、身体のあちこちが痛いなどと言っていられないな、と刺激を受けた私だった。

桑園のいま・むかし

2012-09-26 23:00:43 | 札幌学 & ほっかいどう学
 地域の方から桑園の生き字引とも言われている丸岡勇氏の話を聴く機会があった。丘珠空港ビルで「地域歴史講座」が開催されたのだ。それにしても、「空港ピルでなぜ歴史講座を?」と思われませんか? 

 9月23日(日)丘珠空港ビルで「桑園のいま・むかし」と題する講座が開催されるとあって、桑園のことを学びたいと考え、地下鉄を乗り継いで丘珠空港ビルに向かった。
 会場は2階出発ロビーに隣接した集会室のようなところであった。思っていた以上に受講者がいて3~40名くらいいたのではないか。

 講師の丸岡氏は70歳を超えていると見られるが、桑園で生まれ育ち、その後も桑園にずっと住まわれている方と聞いた。
 丸岡氏のお話は題名どおり、桑園の現在と昔の姿を紹介するものだったが、私にとってはむろん昔のことが興味の対象であった。

          
          ※ お話をする丸岡勇氏ですが、パワーポイント使用中のため表情が写りませんでしたね。

 興味深かったことの一つとして、明治の頃の桑園地区はあちこちに湧出する泉(メム)があり、丸岡氏の言葉を借りると「じゃぶじゃぶだった」ということだ。そのため各所に池が存在し、釣り堀などもあったそうだ。特に現在の桑園駅近くのSCのイオンのところには大きな池があったという話も興味深かった。

「桑園」という地名の由来は、明治初期に開拓使が山形の旧庄内藩士に桑の木を植えることを奨励したことがその由来となっているそうだ。旧庄内藩士たちは明治8年6月から9月までの短期間のうちに現在の桑園の地に4万本の桑の木を植樹したそうである。
 ところが当時の桑園地区は前記したようにかなりの湿地帯だったために桑の木は大きく育たず、育てるのにかなり苦労したということだった。

 大正時代、桑園駅は札幌の物流の拠点として発展したそうである。札幌駅に隣接しているという地の利を生かした貨物ターミナルができ、引き込み線も多数あり、倉庫も多数存在していたということだ。
 また、鉄路は今のように高架になっていなかったことから事故が多発する踏切があったという話も今では考えられないことで興味深かった。

          

 まだまだいろいろな話をうかがえたが、私のような桑園新参組にとってはいずれもが興味深くうかがえた。これからも機会があればうかがってみたいと思った。

 ところで、「空港ビルでなぜ歴史講座を?」という疑問だが、丘珠空港ビルではビルの2階の一角に「札幌いま・むかし探検ひろば」というコーナーを設け、札幌のまちの歴史を紹介している。それと併せて、定期的に「地域歴史講座」を開催しているということだ。その一環として「桑園のいま・むかし」講座が開催されたということである。
 関係者によると、丘珠空港ビルの利用者を少しでも増やしたいという空港ビルの工夫の一つということだ。