田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ジェンダーに関する諸問題を考える

2022-10-31 14:53:50 | 講演・講義・フォーラム等

 “ジェンダー” とは? 昭和男である私にはスーッと理解するにはなかなか難しいテーマである。過日、この問題について考える機会があった。難しいテーマではあるが、昭和の男は次のように理解したのだが…。

        

 10月29日(土)午前、北海道新聞の「道新ぶんぶんクラブ」が継続的に開催している「時代がよめる経済・ビジネス講座」の一環として小樽商大の須永将史准教授が「コロナ禍でのジェンダー諸問題~ケアを焦点に」と題する講座を受講した。

 須永氏は受講者のほとんどがおじさんというよりは私たちお爺さんであることを意識し、ジャンダー問題について易しく噛み砕いて説明された。

 まず “ジェンダー” そのものの定義であるが、これは生物学的な性ではなく、社会的な男女のありようとしての性別における差を指し、こうした性別に基づく不平等を是正しようとする動きがジェンダー論である、と説明された。

   

 つまり我が国においては、改善されつつはあるものの依然として性別役割分業制が敷かれていて、「男は外、女は内」という概念が根強く残されていると須永氏は指摘する。また例え家から出て職を得たとしても女性は職場において補助的役割に甘んじなければならない立場におかれ、給与も男性より下におかれる場合が多かった。

 一方、“ケア” という概念であるが、語義としては「気遣う」、「配慮する」と訳され、家庭においては家事・育児・介護などを指す言葉とされるが、家庭でのケアは女性が自然に担う領域とみなされ対価が払われてこなかったと須永氏は指摘する。

 その他にも須永氏は我が国における社会的性差の実態を事例としても挙げられたが、私は頷くだけだった。そして性別役割分業意識がどのように形成されてきたかについて、我が国に長く根付いてきた「家父長制・男子家長」、「家族国家観」、「良妻賢母主義」などのキーワードを使って解き明かした。

 さらに須永氏は “ケア” という言葉に焦点を当て、コロナ禍における “エッセンシャル・ワーカー” の問題に言及した。“エッセンシャル” とは、簡単に言えば「世の中において絶対必要なこと」と訳されるが、それを担っているのが “エッセンシャル・ワーカー” である。エッセンシャル・ワーカーは広義の概念であるが医療・福祉あるいは小売業の分野に限れば、コロナ禍以降中高年女性のパートタイマーが6~7割を担い低賃金に据え置かれているという。そして、他者を支えるという意味ではエッセンシャル・ワークも広い意味での “ケア労働” であると指摘した。

   

 というように今回の講義で須永氏は日本社会が抱えるジェンダー問題について事例を数多く提示し、私たちお爺さん世代に問題点を示唆してくれたと解釈している。最近のマスコミや言論界でこのことが話題になっていることは承知していた。さらには、私が受講する講演・講義などにおいても女性経営者や研究者が登壇することが多くなり、女性の台頭を感じてはいた。しかし、昭和中期に生まれ家庭においても、職場においても、まだまだ旧弊の中で多くの時間を過ごした私たち世代の価値観は容易に転換できていないのが現状である。

 ジェンダー問題の解消は、SDGsが掲げる17の目標の一つでもある。日本のリーダーの方々はもっとこの問題に目を向け、世界に後れを取ることのないようにしていかねばならないのではないか、ということを感じさせられた講義だった…。

※ 掲載したイラストはウェブ上から拝借しました。


やっぱり日本に原発は必要?

2022-10-30 19:51:38 | 講演・講義・フォーラム等

 講師は断言した。「日本のエネルギー安全保障、温暖化対策の両立には原子力が不可欠」だと…。講師の現状分析、そして論旨は明快だった。しかし…、講師の論で原子力の安全性についてはまったく触れることがなかった。そこをどう考えるのか??

        

 10月28日(金)午後、ニューオータニイン札幌で「北海道エナジートーク21が主催する「エネルギー講演会」が開催された。知人のK氏から入場券を譲られたので参加することにした。私は北海道エナジートーク21が原発擁護派であるらしいことは薄々知っていた。しかし、さまざまな意見に耳を傾けることは私のポリシーでもあるので臆せず参加することにした。

 講演は「地球温暖化をめぐる国際情勢と日本の課題」と題して、東京大学公共政策大学院の特任教授である有馬純氏が講師を務められた。有馬氏は通商産業省(現経済産業省)に入省し、官僚として長らく資源エネルギー関係の部署に関わってきた方だと紹介された。

 有馬氏の論旨は明快だった。それによると、世界の先進国は地球温暖化阻止へ意思統一ができていて、日本もその一翼を担っている。そして2020年には当時の菅総理大臣が所信表明演説で「2050年のカーボンニュートラル宣言」をした。

        

 しかし、資源の少ない日本にとって国力を維持するためには製造業の隆盛が欠かせない。そのための産業用電力は高騰する化石燃料によって世界でも最も高い電力料金となっているという。さらにロシアのウクライナ侵攻によって状況はますます混迷しているとした。一方で中国やインドはロシアからの石油輸入が倍増しているという事実もあるという。

 地球温暖化阻止を先導するヨーロッパにおいては、ドイツのように原発ゼロ政策を掲げた(ロシアのウクライナ侵攻によって原発2基を再稼働するというニュースもある)例もあるが、他のほとんどの国は再エネと原発を併用することで自国の電力を賄う方向に舵を切っているという。

 こうした状況にあって、我が日本は再エネによる発電がまだまだ国の電力需要を賄う状況にはなっていないことを踏まえ、かつ世界の温暖化対策を先導する一員として、残された道は「原子力発電を推進することが不可欠である」と有馬氏は断言した。

   

 しかし、有馬氏の講演を聴いていて、有馬氏の論には原子力発電が抱える “安全性” に対する言及が欠けていることを感じていた。経済官僚であった有馬氏にとっては原発の安全性はいわば専門外と言えるのかもしれないが、国のエネルギー問題を考える際には避けて通れない問題ではないか、と私は考える。ご存じのように原発には「原発のゴミ(高レベル放射性廃棄物)問題」が常について回る問題である。現代の科学技術は今のところこの「原発のゴミ」を安全に処理する技術を見いだしていない。現状はよく言われるようにガラス固化体にしたうえで地下奥深くに埋蔵し、10万年もの途方もなく長い時間をかけることによって放射線量がゼロになることを待つ以外に途はないという。それも世界ではまだフィンランドのオンカロに最終処分場が建設されているのが唯一の例である。なのに世界では現在434基もの原子力発電所が稼働中であるという。   

 そうした中、資源のない我が国が原発に頼らない、というのは世界の現状を見ると現実的ではないという論も分からないではないのだが…。

 私は政治問題などセンシティブな問題について、ブログ上で私の思いを表出することは控えている。しかし、この問題だけは先にも「核のゴミ問題が解決するまでは原発は用いるべきではないのではないか」と明言している。その思いは今も変わらない。

 願わくば、一日も早く科学者たちの手によってこの問題に目途がつくことを願っているのだが…。


こんな講演は聴きたくなかった!

2022-10-29 15:23:42 | 講演・講義・フォーラム等

 私は多少でも関心のある講演・講座には積極的に参加することにし、自らの雑学を少しでも豊かにしようと努めている。そしてそこで感じたことを拙ブログにアップするようにしている。その際、否定的な言述はできるだけ避けるようにしてきた。しかし、今回ばかりは我慢ならなかった…。

         

 ※ 写真は講演内容と全く関係がありません。写真は「北海道開拓の祖」とも称されている島義勇像で、札幌市役所内に設置されています。

 10月某日午後、とある講演会に参加した。講演の内容が否定的なものとなるため、具体的な講演会が特定されぬように留意しながら書き進めることにしたい。

 内容は地域の歴史的な事柄を紹介するという内容だったために、私自身も興味があり期待して出かけたのだが…。

 講演は、講師が調べた明治から令和までの地域の歴史を時系列に並べたことを示し、それを読み上げるようにしながら進められた。しかし、講師には受講者たちに伝えようとする熱意が感じられず、ただ読み上げるように抑揚もなく述べるだけだった。私が思うには、講師は数冊の地域に関する歴史書などを参考に、地域の歴史を年表的にまとめ上げたものを私たちに(パワーポイントを使って)提示したのだと思われた。

 しかし、受講者は私と同じように、いや私などよりはるかに歴史に詳しい方が多いように見えた。講師が紹介した地域の歴史の全てを把握はしてはいなくとも、歴史に興味を持つものであればそれらの凡そは把握している事柄だった。私が(私たちが)期待したものは年表的に整理された地域の歴史を知ることではなく、年表的に整理するなかで発見したこと、あるいはそこから見えてきたものやエピソード的なことを聴きたかったのだ。

 講演前に与えられたレジュメによると講演の最後にはそうしたことにも触れる予定だったようだが、予定された90分間の講演は全て年表に表示されている事柄を並列的に並べるだけで予定時間を超えてしまい、それらには全く触れることなく講演を終えてしまった。

 全てが望んでいるような講演・講義とはならないことは私も経験的に知っているつもりだし、時には「仕方がないなぁ」と思うような講演・講座に遭遇することはある。しかし、 今回のように受講者に対して、自らが調べたこと、まとめたことを他に伝えようとする熱意さえ感じられないように講演・講座は遠慮したくなる。しかも受講料まで徴収したのだから何をかいわんやである。

 このようなブログを投稿したくはなかったのだが…。お読みいただいた方の気持ちをざわつかせてしまったことをお詫びします。


今年の清掃ボランティアも無事終了!

2022-10-28 18:26:50 | ボランティア

 本朝、夏の間続けてきた道立近代美術館前の歩道の清掃ボランティアの今シーズンの活動を無事に終了した。私たちが活動を始めて13年目、たくさんの会員の皆さんの参加を得て、本日無事に今年の活動を終了することができホッとしている。

 夏の間(4月~10月)2週間に1度の割合で、早朝に道立近代美術館前の歩道の清掃活動を誰から頼まれたわけでもなく、いわば勝手に始めた清掃ボランティアは今年で13年目を迎えていたが、本日10月28日に今年の活動を無事に終了した。

 今年は例年に比べるとやや活動開始が遅れ、4月8日に第1回目の活動を実施した。以来、おおよそ2週間に1度の割合で活動を続け、計15回の通常の活動の他、花苗の植え付けの活動、来春の球根を植え付ける活動を行い総計17回の活動をすることができた。 

    

   ※ 清掃前の近代美術館の正門前の歩道です。

 近代美術館の前庭には主として落葉樹の大木が歩道に覆いかぶさるように植わっているため、年中落ち葉が路上に散乱している。それを会員が竹ぼうきを手に掃き清めている。特に落葉の季節になると、路上を掃いても直ぐ後から落ち葉が舞い落ち、路上が きれいな状態はほんの一瞬である。文字どおり私たちは “一瞬の美” を求めて清掃活動を行っているのである。

   

   ※ 清掃を終えた後の正門前です。しかし、数時間後にはまた元通りになるこの頃の季節です。

 今日は今年最後の活動とあって、清掃活動の他、ART文字を描いているクサツゲの枝を雪害から守るために棕櫚縄で枝を結わえる作業も行い冬に備えた。本来であれば、一年の活動を労う食事会を数年前までは行っていたのだが、コロナ禍とあってそれもできずに活動を終えることになってしまった。

   

   ※ ART文字の枝を結わえる前の姿です。

   

   ※ 雪害に備え、葉先を結わえたART文字です。

 私をはじめ会員が高齢化し、いつまで活動を継続できるかが目下の最大の課題である。私は “足腰が立つかぎりは…” と話をしているが、はたしていつまで続けることができるやら…。とりあえず来年はまた継続しようと思っている。

   

  ※ 本日の参加者は7名でした。(会員はまだいます)珍しくボランティア袋と共に集合写真を撮りました。

 地域の美化にほんのちょっぴり役立つ活動をできるかぎり続けたいと思っている。 


人生100年時代を迎えて “終活” は変わってきた?

2022-10-27 16:45:52 | 講演・講義・フォーラム等

 2022年現在、100歳を超える人が10万人を突破しようとしているという。そうした時代を迎えて、価値観は変化し、“終活” の背景も少子高齢化が進み、タブーが変化してきたことによって、“終活” そのものも変化・多様化し始めているというお話を聴いた。

 10月26日(水)午前、札幌市社会福祉総合センターにおいて、今年連続聴講している「私の生き方セミナー」が開講され参加した。今回のテーマは「人生100年時代と終活~変わるシニアライフ」と題して元北海道新聞編集委員の福田淳一氏が講師を務められた。

   

   ※ 講義をする元北海道新聞編集委員の福田淳一氏です。

 福田氏はまず高齢化する現状を説明した。1800年代後半(明治24~31年)日本人の平均寿命は女性44.3歳、男性42.8歳だった。それが2021年では女性87.6歳、男性81.5歳と、おおよそ平均年齢が2倍になっていることを示した。さらに100歳以上の人が2022年現在、全国で9万526人もいらっしゃるそうだ。

 そのように平均寿命が延びる中、“終活” の背景にも変化が見られるようになってきたという。その第一として「がんの告知が行われるようになった」という。さらに、「臓器移植法」、「脳死の問題」が公に議論される時代となった。そして映画や書籍、歌謡なとにおいて、映画「おくりびと」、永六輔著「大往生」、歌謡「千の風になって」などが大ヒットし、死がタブー視されることなく、人々の日常で語られるようになったことを指摘された。

 こうした中、福田氏は “終活” のメニューとして次のようなことを挙げられた。

①エンディングノート

②お葬式、お墓

③生前整理、断捨離、遺品整理

④介護保険、成年後見制度、死後事務委任、終末期医療、在宅医療、尊厳死

⑤遺産相続、遺贈、遺言書(公正証書、自筆)、家族信託

⑥ペットをどうするか、ペットのお墓   

 講義においては、これら一つ一つについて解説されたが、全てを書き起こす能力が私にはない。特に記憶に残った点について記すことにする。

 一つは「お葬式」に関してである。北海道新聞における「おくやみ蘭」において「葬儀終了」と記載される割合が多くなったという。コロナ禍以前でね40%近くがそうであったが、コロナ禍に見舞われその割合が70%前後にまで増えたそうだ。また「おくやみ蘭」そのものへの掲載率も札幌市内では40%前後だそうだ。

 また葬儀そのものも以前とはずいぶんその様相が変わってきた。これまでの「一般葬」から、「家族葬」、「直葬」、「一日葬」、「自宅葬」など多様化、簡素化が進んでいるようだ。

   

   ※ 葬儀の形態も多様化してきています。

 「お葬式」一つ取っても、現状は多様化し、複雑化している。そうしたことに対して、死後に残された子弟や家族に迷惑をかけないためにも、福田氏はエンディングノートの作成を勧められた。私もこれまでに何度か「作成してみようか」と思ったことはあったものの、現在まで手を付けたことがなかった。ところが福田氏は「全部書かなければ」という思い込みを捨てるこことだ、という。さらに備忘録を兼ねるようなものであっても良いという。目からうろこ?これを機になんとか手を付けてみようかと思っている。

   

   ※ 自治体がエンディングノートを頒布しているとは初耳でした。

 最後に福田氏は、“終活” は心配ごとを減らし、心を平穏にし豊かに暮らすため、つまり老後のQOLを高める知識、手段として積極的に活用すべきではないか、と結ばれた。

 “終活”…、私はこれまでなんとなく避けようとしてきたところがあった。これを機に、少しは積極的に自らの “終活” に取り組みたいと思っている。

 帰宅した私は早速北海道新聞社発行の「私のくらし終活帳」なるエンディングノートを妻の分と二冊取り寄せたのだった…。

        

        ※ 私が買い求めた北海道新聞社発行の「私のくらし終活帳」です。


被爆ピアノ 札幌に響く

2022-10-26 17:37:58 | イベント

 ステージ上に置かれた 被爆ピアノ(アップライトピアノ)の側面は爆風で飛び散ったガラス片などが突き刺さった跡が痛々しかった。しかし、ピアノの名手・豊口健さんの手による演奏によって力強く札幌の街に響いた。

        

        ※ 会場前に掲出された被爆ピアノコンサートのポスターです。

 10月23日(日)夜、ホテルロイトン札幌において「北海道高校生平和大使派遣10周年記念事業」として「被爆ピアノコンサート ~あなたにとって平和とは~」が開催され、参加することができた。

 高校生平和大使とは、そもそもは1998年に被爆地・長崎から始まったそうだが、核兵器の廃絶と平和な世界の実現を目指し、高校生を「平和大使」として国連欧州本部に派遣する運動だそうだが、北海道では2012年から派遣を初めて今年が10周年になることを祈念して、高校生たち自らが「被爆ピアノコンサート」を企画したそうだ。

   

   ※ ステージ上に置かれた広島から遠路運ばれてきた矢川氏が預かっているみさこさんの被爆ピアノです。

  コンサートの内容は多岐にわたっていた。その内容を記すと、各関係者の挨拶は除いて、◆被爆ピアノについての対談、◆詩の朗読、◆被爆ピアノコンサート、◆高校生からのメッセージ動画、◆札幌日大高校吹奏楽部の演奏、◆私立札幌旭丘高校合唱部の合唱、と盛り沢山だった。

 ◆被爆ピアノについての対談では、ピアノ調律師でご自身が被爆二世である矢川光則さん(広島市でピアノ工房経営)が被爆ピアノとともに会場に見えられ、高校生に答える形で対談が行われた。矢川さんによると爆心地から概ね3キロ以内で被爆し、現存しているピアノを「被爆ピアノ」としているとのことだが、現在全国に11台が現存しており、そのうち7台を矢川さんの工房で預かってするそうだ。そのピアノは矢川さんが工房横に「被爆ピアノ資料館」を造って大切に保管しているとのことだった。

   

   ※ 高校生の二人と対談するピアノ工房を経営する調律師の矢川光則さんです。

 今回、持ち込まれたのは「みさこさんのピアノ」と称して昭和7(1932)年製のアップライトピアノで、爆心地から1.8キロにあったみさこさんの家で被爆したそうだ。みさこさんの家はコンクリート製だったこともあり、壊れずに残ったという。外見は前述したとおりガラス片などが突き刺さった跡が痛々しかったが、矢川さんによると217本あるピアノ線のうち取り替えたのは僅か4本だけであると話された。対談の後のコンサートで豊口健さんが演奏されたが、やはり時代を感じさせる音色のところもあったが、十分にコンサートの演奏に耐えられる音だった。

 続いての◆詩の朗読では、高校生の実行委員の一人(女生徒)が2編の詩を豊口さんのピアノ演奏をバックに朗読した。2編の詩のうち特に林幸子作「ヒロシマの空」は胸に迫る内容だった。

   

   ※ 豊口健さんのピアノ伴奏で詩の朗読をする女子高校生です。

 本イベントのメインである◆被爆ピアノコンサートは、豊口健さんのピアノ伴奏にのせて道内外で活躍されている歌手・高野雅絵さんが6曲の歌を披露してくれた。その題名は①「原爆を許すまじ」、②「一本のえんぴつ」、③「サトウキビ畑」、④「ハナミズキ」、⑤「満月の夕べ」、⑥「風に吹かれて」、と硬軟織り交ぜたものだったが、いずれも直接平和を訴えるもの、あるいは遠回しに平和な世界を望むものと、考えられた選曲だった。

   

   ※ 艶やかな歌声を響かせた高野雅絵さんです。

   

   ※ 伴奏する豊口健さんの姿は私の席からは後ろ姿しか写せませんでした。

 そして◆高校生からのメッセージ動画は、全国の高校生に「あなたにとって平和とは」との問いに、大上段に構えるのではなく、日常の小さなことに “平和” を感じていると答える現代の高校生たちの率直なメッセージが共感を呼んだ。なお、このメッセージが流れる中、北星学園女子高校の音楽科の生徒が代わる代わる被爆ピアノで演奏したのも良い企画だった。

   

   ※ 高校の音楽科の生徒も被爆ピアノを演奏する機会を得られました。

 最後は、◆札幌日大高校吹奏楽部の演奏と◆私立札幌旭丘高校合唱部の合唱で締め括った「被爆ピアノコンサート」だったが、高校生たちが主体となってこうした催しを主体的に企画・実行したところに本イベントの大きな意義があったように思う。こうした高校生の活動を後方支援している関係各機関の方々に感謝するとともに、改めて未来を担う高校生たちが世界の平和に積極的に寄与してほしいと心から願ったイベントだった。

   

   ※ 私の席からは遠かった札幌日大高校吹奏楽部の演奏の様子です。

   

   ※ ステージいっぱいに若々しい歌声を響かせた札幌市立旭丘高校合唱部の皆さんです。


北区歴史と文化の八十八選巡り №17

2022-10-25 16:59:04 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 北区歴史と文化の八十八選巡り№17はJR篠路駅周辺で選定された施設や史跡を巡り歩いた。JR(当時は国鉄)篠路駅は昭和10(1935)年に札沼線開業とともに開設され、当時は周辺で収穫される燕麦、たまねぎなどが貨物として輸送され、それに伴い周辺が発達したという。

70〉篠路コミュニティセンターの藍と篠路歌舞伎の展示

   

   ※ 篠路コミュニティセンターの外観です。

 篠路コミュニティセンターは、篠路駅からも歩いて行ける距離の篠路の街の中心街にある。昭和60(1985)年10月に地域の公民館的施設として建設され、地域の方々の文化的活動の中心施設となっているが、その一階ロビーの一角に「藍と篠路歌舞伎の展示」コーナーが設置されている。その昔地域の特産物だった藍と、地域を代表する芸能である篠路歌舞伎を伝承する展示としてはやや寂しいかな?という印象は否めないが、長く後世に伝えていってほしいと思う。その展示について説明している文章を紹介します。

   

   ※ コミセン内1階にある藍染と篠路歌舞伎に関する展示コーナーの様子です。

   

   ※ 篠路歌舞伎の衣装や幟、写真などが展示されていました。

        

        ※ 展示されていた歌舞伎のワンシーンです。

   

   ※ こちらは藍染の展示コーナーです。

   

   ※ 藍染の作品が展示されていました。

   

   ※ こちらは歌舞伎と藍染のコラボ製品でしょうか?

 篠路コミュニティセンターは札幌市北区篠路3条8丁目に立地するコミュニティセンター1階の一角では篠路の特産だった藍染めの歴史や作品、篠路歌舞伎に関する資料を展示している。
篠路地区では明治15年頃から藍の栽培が始まり、藍染めが盛んに行われたが、外国産の化学染料などの輸入によって、明治末期に消滅した。しかし、1984年には藍染めが復活している。
また、篠路歌舞伎は1902年から1934年まで続いた後に廃れたが、1985年に復活した。                      

     〔住 所〕北区篠路3条8丁目

     〔訪問日〕10月7日

71〉篠路駅周辺の倉庫群

 篠路駅周辺には、以前はよくJRの駅周辺で見られた石造りやレンガ造りの倉庫が現存している。道内各地のJR駅近くの倉庫は役割を終えるとともに消えていったのがほとんどであるが、篠路駅周辺の倉庫はどのような経緯なのかは不明であるが現存しているところで価値が出てきたようだ。そのことを説明する北区の説明は次のとおりである。

   

   ※ JR篠路駅の外観です。

   

   ※ 篠路駅のすぐ傍に立つレンガ造りの倉庫です。

   

   ※ 倉庫は現役の倉庫として活用されているようです。

 昭和10(1935)年、国鉄札沼線の全面開通により、篠路駅は野菜出荷の基地となり、周辺には石造りやレンガ造りの倉庫が数多く立ち並び、全国へ向けて玉ねぎなどが発送されていた。現在も駅周辺には数棟の倉庫が一群をなしており、市内のほかの地区には見られない独特の雰囲気を残しています。

   〔住 所〕北区篠路3条7丁目

   〔訪問日〕10月7日

〈72〉篠路獅子舞

 篠路獅子舞についてはシリーズ№16でも触れたが、もともとは「烈々布獅子舞」と呼ばれ、篠路烈々布地区で栄えた芸能である。烈々布の守護神である天満宮が篠路神社に合祀されるのに伴い、烈々布獅子舞も篠路獅子舞とその名を変えたようである。

   

   ※ 篠路神社の鳥居です。

   

   ※ 格式のありそうな篠路神社本殿です。

   

   ※ 境内には翌日の祭典に備えて出店が出店の準備をしていました。

         

         ※ 翌日に行われる獅子舞奉納を知らせるポスターです。

   

   ※ 篠路獅子舞の奉納の様子の写真をウェブ上から拝借しました。

 ところで私はこの日(10月7日)篠路神社を訪れ、翌日8日が篠路神社の祭典で白の獅子舞が奉納されることを知った。翌日に再訪するというのは我が家から遠い篠路地区では現実的ではなく、獅子舞の奉納の様子を実際に見ることが出来なかったことは残念である。

 ここに篠路獅子舞を説明する北区制作の説明を紹介します。

 富山県から篠路烈々布に入植してきた若者が中心となり、明治34(1901)年にふるさとと同じ獅子舞を望郷の思いを込めて演じたのが始まりと伝えられている。胴が太く優雅な女性的な舞が特徴。昭和37(1962)年に「篠路獅子舞保存会」が結成され、明治後期から青年たちによって、毎年篠路神社の秋祭りに奉納され続けてきたこの舞を、絶やすことなく今に伝えています。

 なお、先に獅子舞のことについて教えていただいた百合が原在住の中西俊一氏は長く「篠路獅子舞保存会」の会長を務められていたそうであるが、今年の奉納をもってその座を後進に継承したと後に電話で伝えていただいた。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈73〉力士・小松山之碑

 この〈73〉の力士・小松山の碑と、〈74〉の篠路神社の馬魂碑を見つけるのにかなり苦労した。二つ共に篠路神社境内にあるとなっていたので、境内をあちこちの探したのだが一向に見つからなかった。周りに聞く人も見当たらず諦めかけた時に、なんと神社境内の角隅に静かに鎮座していたのを見つけることができた。

        

        ※ 力士・小松山碑です。

 二つの碑について、北区制作の説明板には次のように記されていた。

 明治中期の篠路村で、数少ない素人相撲の力士として活躍した小松山(本名下山松太郎)。例年、篠路神社の祭礼で大関相撲を奉納し、また、後進の指導にも尽力していたことから、郷土の誇りとしてたたえるため、本村青年会が中心となり明治42(1909)年にこの碑を建立した。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈74〉篠路神社の馬魂碑

        

           ※ 力士・小松山碑の隣に建っていた「馬魂碑」です。

 篠路村の馬の歴史は。明治15(1882)年に、滝本五郎が興産社を組織して「大農式農業経営」を計画し、15頭の馬を導入したのが始まりです。大正15(1926)年にはフランスから「ペルシュロン種」の種牝馬アニー号を輸入するなど、馬産改良に大きな成果をあげました。この碑は、昭和44(1969)年に農業経営の動力として、また貴重な収入源としての農業の担い手であった篠路名馬をたたえるため建立されたもので、アニー号など、名馬5頭を合祀しています。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈75〉早山家のアカマツ

     ※ 現在アカマツは撤去されたため訪れることができませんでした。


金管の音色のシャワーを浴び続けた3時間

2022-10-24 18:16:17 | ステージ & エンターテイメント

 ビッグバンド・ジャズの音を浴び続けた。ゲストプレイヤーにプロも混じるなど、セミプロ級の三つのバンドは円熟した技量を十分に発揮したステージを展開してくれ、ビッグバンドの良さをたっぷりと堪能した3時間だった。

        

 10月22日(土)午後4時30分から札幌サンプラザホールにおいて「ビッグバンド・フェスティバル2022が開催され、友人二人と一緒に参加した。

 今回参加したのは、私が9月19日に同じ札幌サンプラザホールで「札幌ジャズオーケストラ」の演奏を聴いた感想を拙ブログにアップしたところ、それをたまたま友人が目にして、「ビッグバンドのジャズを聴きたいなぁ」と呟いたので、私が「こうしたコンサートがあるけど…」と「ビッグバンド・フェスティバル2022」の開催要項を見せたところ「行きたい!」ということに三人が衆議一決して参加が実現したのだった。

 出演したバンドは次の三つのバンドだった。(出演順)

 ◆ソリッド・サウンズ・ジャズ・オーケストラ

 ◆銀河鉄道

 ◆スウィング・ハート・ジャス・オーケストラ

それぞれのバンドが約1時間の持ち時間の中で7~9曲を演奏した。例によってそれぞれの演奏曲を羅列すると、

 ◆ソリッド・サウンズ・ジャズ・オーケストラ

  ①ヘンリー・マンシーニー/ムーン・リバー

  ②サミー・ネスティコ/ヘイ・バーナー

  ③サミー・ネスティコ/ザ・フォー・オブ・アス(ユーン・ミー)

     ④ディジー/ガレスビー/チュニジアの夜

  ⑤和泉宏隆/トワイライト・イン・アッツパー・ウエスト

  ⑥トム・クビス/ザ・マンデー・ナイト・ハングアウト

  ⑦ショータ・リー/喜望峰

   

 ◆銀河鉄道

  ①ジェリー・ロール・モートン/キング・ポーター・ストンプ

  ②フレデリック・ロウ/オン・ザ・ストリート・ホエア・ユー・リブ

  ③デューク・エリントン/イン・ア・センチメンタル・ムード

  ④ロジャー・ニコルス/カーペンターズ・メドレー

  ⑤ニール・ヘフテイー/ベンシブ・ミス

  ⑥ゴードン・グッドウイン/バックロウ・ポリティクス

  ⑦サミー・ネスティコ/フライト・トゥー・ナッソー

   

 ◆スウィング・ハート・ジャス・オーケストラ

  ①ジョージ・ガーシュウィン/スーン

  ②サミー・ネスティコ/ハブ・ア・ナイス・ディ

  ③ジェローム・カーン/君は我がすべて

  ④サミー・フェイン/ふしぎの国のアリス

  ⑤チック・コリア/クリスタル・サイエンス

  ⑥フレッド・エブ/ニューヨーク・ニューヨーク Withグスダヴォ・トッツォ・ハイメ(Vocal)

  ⑦ジョニー・マーサー/ザット・オールド・ブラック・マジック With  同上

  ⑧作曲者不詳(グスダヴォ自身?)/メロディー・フォー・グスタヴォ With  同上

  ⑨ジェリー・リビングストン/ビビデ・バビデ・ブー

   

 最後に、3バンドから選抜されたメンバーでの合同演奏があった。一曲目は失念したが、二曲目はルイ・アームストロングの名曲「この素晴らしき世界」で締め括った。

   

   ※ 出演した3バンドからの選抜メンバーでのステージです。

 音楽そのものに詳しくない私だが、特にジャズは超初心者である。今回の演奏の中でも特に私が興味を抱いたのはベースとなる曲を良く知っている「カーペンターズ・メドレー」だった。演奏時間15分間の中にカーペンターズの曲が17曲も入っていたとか?面白い試みでジャズテイストへの編曲も良かった。

 今回、初心者の私が気付いたのはビッグバンドの場合、その編成に共通性があることが分かった。3つのバンドともに、管楽器セクションとして一列目が5本の各種サキソフォーン、二列目が4本のトロンボーン、三列目が4本のトランペットは各バンド共通だった。それにリズムセクションとしてドラム、ベース、ギター、ピアノが各一人ずつ加わるという編成である。(一つのバンドだけギターが欠けていたバンドがあった)この基本的な編成を維持するために、バンドによっては友情出演やOB出演、ゲスト出演などによって足りない部分を補っていたようだ。ゲスト出演の中にはプロ活動をされているプレイヤーもいるとのことだったし、過去にプロバンドに所属し現在はバンドの一員として活動されているトランペットの横山均さんという原信夫とシャープス&フラッツや東京キューバンボーイズなどで活躍された方も含まれていた。

 金管楽器の音色に酔いながら、私が最もジャズ音楽らしい雰囲気に浸れたのは、スウィング・ハート・ジャス・オーケストラの演奏に途中から加わったVocalのグスタヴォ・トッツォ・ハイメさんが加わった時だった。グスタヴォさんのジャズテイストに溢れた美声は一気にサンプラザホール内を高給クラブのホールに誘ってくれたような錯覚に陥らせてくれたほどだった。日本語もかなり上達しているグスタヴォさんはおそらくかなり長い期間日本でプロの歌手として活動されているものと思われた。

   

   ※ アルゼンチン人のグスタヴォ・トッツォ・ハイメさんのステージです。

 出演したバンドのメンバーの平均年齢はかなり高いと推察された。それだけジャズミュージックに長く触れてこられた方たちばかりなのだろう。円熟した音が耳に心地良いコンサートだった。


映画 №350 プリズン・サークル

2022-10-23 16:18:14 | 映画観賞・感想

 プリズン・サークルとは?……、刑務所において受刑者同士が対話することによって真の更生を促す試みだそうだ。映画はそのような試みを進める国内唯一の刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」の実態を2年間にわたって撮り続けたドキュメンタリーである。

          

 10月22日(土)午後、北星学園大学において「プリズン・サークル」上映実行委員会が主催し、札幌弁護士会が後援する映画「プリズン・サークル」の上映会及び坂上監督講演会が開催され参加した。

 「島根あさひ社会復帰促進センター」とは、日本初の官民協働の刑務所である。センターの特色は、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC( The rapeutic Communityセラピューティック・コミュニティ=回復共同体)」というプログラムを唯一導入している刑務所である。

    

    ※ TCプログラムでは、このような小グループ討議の手法も取り入れられていた。

 映画はそのTCのプログラムを使い、民間のカウンセラーと受刑者たちが犯した犯罪だけでなく、幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶、痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情、それらの表現する言葉を獲得していく様子を描く。特にこのドキュメンタリーにおいては、プログラムに参加する4人の若い受刑者に焦点を当て、彼らが新たな価値や生き方を身に着けていく姿を2年間にわたり克明に追った姿を写し出した。

 本稿の冒頭に張り付けたポスター写真は、TCプログラムに参加する人たちが一堂に会するための椅子をサークル状に並べたところを写したもので、この映画にとってはシンボリックなシーンであるということで採用した写真だろうと思われる。

 プログラムが優れているからだろうか?あるいは、自ら進んでこのプログラムを受けることを希望した人たちだったからだろうか?さらにはリードするカウンセラーの方の力量が優れているからだろうか?おそらくその全てが要因だろうと思われる。参加した受刑者たちは自分が犯した犯罪、あるいは自らの生い立ちについて、実に率直に語りだしていたことがとても印象的だった。

    

     ※ TCプログラム参加者にも、もちろん必要な作業は課せられていました。

 その中で明らかになったことは、4人の若者たちの生い立ちがほぼ似たような悲惨な生い立ちを体験していることだった。彼らは生育の過程で、善悪の判断すら獲得できないほど大変な状況の中で成長し、そして犯罪に手を染めていったことが鮮明となっていく。

 プログラムは単なる対話ばかりでなく、小グループ討議、あるいはロールプレイイングなどあらゆる心理療法を駆使しているように見えた。

 映画では4人の若者がTCプログラムによって新たな価値観や生き方を獲得し、社会に巣立とうとしている姿を映し終わっている。

 TCプログラムについては、

 英国の精神病院で始まり、1960年代以降、米国や欧州各地に広まった。TCでは、依存症などの問題を症状と捉え、問題を抱える当事者を治療の主体とする。コミュニティ(共同体)が相互に影響を与え合い、新たな価値観や生き方を身につけること(ハビリテーション)によって、人間的成長を促す場とアプローチ。

と説明されている。前述したように日本においてはまだまだ始まったばかりで、国内においては「島根あさひ社会復帰促進センター」が唯一の存在であり。その収容力は2,000名と限られている。その上、TCプログラムを受けることが出来るのは1度に30~40名程度で半年から2年程度、寝食や作業を共にしながら、週12時間程度のプログラムを受けることになっているそうだ。だから、現状は日本の全受刑者の中のほんの一握りの受刑者が受けられるに過ぎないのが現状である。

 TCプログラムを受講した受刑者の再入所率は他と比べて半分以下という調査結果もあるという。「島根あさひ社会復帰促進センター」のような取り組みがもっと広がっていくよう、関係者の取組みに期待したいと思ったのが映画を観終わった後の感想だった。

 なお、上映会後の坂上監督の講演会は、残念ながら所要のために聴くことが出来なかったのが残念だった…。


やがて北海道ワインが日本を席巻する!?

2022-10-22 21:54:40 | 講演・講義・フォーラム等

 近年の北海道ワインの隆盛は目を見張るほどの盛況だという。道内各地に多種多様のワイナリーが次々と誕生しているそうだ。やがて北海道ワインが日本中を席巻するのでは?と講師は熱く語った。

   

 10月21日(金)午後、今年度第7回目の「ほっかいどう学『かでる講座』」が開催され参加した。今回の講師・テーマは、ワインソムリエであり、ワインバーも経営されている池田卓矢氏「北海道ワインの魅力」と題してお話された。

   

   ※ 講演をする池田卓矢氏です。

 池田氏によると、世界のワイン産地は緯度30~50度の範囲に集中しているという。そう考えるとワインの生産国はイタリア、ドイツ、フランス、アメリカのカルフォルニア、あるいはオーストラリアの中緯度地域といったところが頭に浮かぶ。さらに池田氏によると高級ワインは45度付近に集中しているそうだ。北緯45度となると、北海道は43度~44度の中に大半が含まれるというまさにワイン適地である。

 さらに追い風となるのが、国内におけるワイン消費量の増加である。20年前に比べて2倍以上の消費量だそうだ。とは言っても一人当たりの消費量はまだ3.6リットルで、欧米各国の消費量の1/10程度であり、まだまだ伸びる余地があるという。

 池田氏が面白いお話に言及された。それは道民のワイン消費量を伸ばした立役者はコンビニのセイコーマートだという。セイコーマートは全道に張り巡らした店舗網を活かし、安価なヨーロッパワインを販売して道民にワインを嗜む習慣を普及させたという。確かにTVコマーシャルなどで季節になると「ボージョレ・ヌーヴォー」なる習慣を根付かせたのもセイコーマートのようだ。

   

   ※ 池田氏はセーコーマートのワイン販売のアドバイザー役を担っているそうです。

 ここで池田氏は北海道のワイン生産の歴史に触れた。北海道におけるワインの本格的生産は何といっても池田町の公営ワインである。手探りでワインの醸造方法を探り昭和38(1963)年に自治体ワイナリーとしてスタートし、先駆者としての地位を確立した。民間としては浦臼町において嶌村彰禧氏が昭和46(1971)年にブドウ造りに着手し、悪戦苦闘の末、8年後の昭和54(1979)年に最初のワインの醸造に成功したのが最初だそうだ。

   

   ※ 池田町ワインの主力3種とスパークリングワイン2種です。

 以後の北海道におけるブドウ栽培、そしてワイナリーの増加は目を見張るほどだという。北海道をワイン用のブドウ生産適地と見て、続々と志望者が北海道に移住しているそうだ。そして2021年10月現在で道内のワイナリーは53ヵ所を数えるそうで、その後も増加を続け、池田氏でも現在数を把握できていないということだった。

   

   ※ 近年の北海道内に存在するワイナリーの分布図です。

 さて将来性に富んだ北海道のワインであるが、次のような文章を見つけることが出来た。

 北海道において、ワインづくりは農業のひとつ。北海道のワインの歴史は、山梨県には50年ほど遅れていますが、今から50年ほど前に、十勝にワイナリーが誕生して以来、北海道の気質である「開拓、挑戦」の努力を積み重ねることで、世界や国内の醸造技術が次々と短期間に運び込まれました。2000年の頃より、醸造技術の進化とともに個性溢れる豊かな味わいが質を高め、世界のワインファンを魅了し始めています。このように、自然条件と高い技術が整い、注目度が上がっている北海道のワインです。 

 “やがて北海道ワインが日本を席巻する” というフレーズは夢物語ではないようだ。ワイン醸造適地の北海道のワイン生産がますます盛んになることを願いたい。