え――――――っ!? なぜ? どうして? という言葉以外私の口からは出てこなかった。あの若々しい、あの強健な坂口氏が…。ブログのコメント欄から悲痛な叫びが聞こえ始め、信じがたい思いだったのだが…。しかし時間が経つにつれ、それが現実となってきてしまった…。
連日発信を続けられていた坂口氏のブログ「癌春(がんばる)日記 by 花sakag」が2月9日の投稿を最後に投稿が途絶えてしまった。「あれっ?前日はスキーをしていたのに、体調を崩されたかな?」と思ったが、「いや、坂口氏なら病床からでも発信するはずだがな?」と思いながら、氏の投稿を待った。
翌々日の11日になっても投稿されず、コメント欄を見てみると「嘘だよ」とか「心配です」というコメントが出て、私も俄かに心配となりコメントを発した。
ところが、続くコメントに「信じられないけど信じなければならない?」とか、「大変お疲れさまでした」というコメントに接し、覚悟しなくてはと思っていたところに「突然の訃報に」というコメントを見るに及び、観念しなくてはならなかった。
そこで坂口氏が数年前に函館市の退職校長会の会長をされていたことから、函館市の退職校長会の事務局に問い合わせたところ、逝去されたことが間違いないことを確認したのだった。
私が坂口氏と知己を得たのはそれほど古い話ではない。今から6年前、2015年のことだ。私が東根室の原野を三日間かけて歩き通す「北根室ランチウェイ」を完歩した際、先行者としての坂口氏の存在をブログ上で発見したことに始まる。
そして坂口氏が北海道退職校長会の副会長をされ、私が本部事務局の一員を務めていたことから、同じ会議に出席した後に二人で懇親の場を持ったのが、坂口氏とのお付き合いの始まりだった。
その後、坂口氏が札幌に来られるたびに声をかけていただき、交友の場を持たせていただいた。坂口氏が自ら称する「函館弁のマシンガントーク」は、いつ聴いても心地よく、氏の山旅や歩き旅のこと、時には氏の現役時代の教師生活についてのお話に耳を傾けた私だった。
近年はコロナ禍のために交歓することもままならなくなり、最後に交友の場を持たせていただいたのは、昨年10月に私が「白神山地の旅」に向かうとき、函館市内で一献持たせていただいたのが最後となってしまった。
私は坂口氏のお話に刺激を受けながらも、そのレベルの違いからとても同行をお願いすることは憚られ、私独自に私に合った山に登り、私の体力に応じた歩き旅を続けてきた。しかし、そこにはいつも坂口氏の影響を受け続ける私がいた。
私が坂口氏に唯一お役に立てた(?)のが、道民カレッジの「かでる講座」の講師に推薦したことだ。昨年10月21日、コロナ禍のためにリアル講座ではなかったが、you tube配信で「ほっかいどう山楽紀行」と題する講座を実現することができた。
坂口氏の思い出を語り出すと僅か6年と少しの交友期間だつたのにきりがないほどである。それほど坂口氏との出会いの日々は濃密な一日一日だったと云える。
氏は80歳を迎えた後の山旅の夢を語っていた。今春には東北の被災地を巡る「みちのく潮風トレイル」を歩く夢を語っていた。
さぞかし無念なことだろう。しかし一方では、普通の人の何倍もの濃密な日々を過ごされた氏は一点の悔いもなく天国に旅立たれたと思われる。
短い年月のお付き合いではあったが、坂口一弘という素晴らしい生き方を提示してくれた方との出会いは、私にとって大きな宝物である。
どうぞ安らかに眠ってください。合掌。