相変わらずテレビの前でオリンピック観戦三昧の日々を送っている。猛暑が続く日々を過ごすにはエアコンの効いた部屋で過ごすのが私のようなシニアには最適なのではと思っているからだ。盛り上がるオリンピックを観戦しながら気になる点について考えてみた。
観客のいない中で、オリンピック選手たちの健闘が続く。各競技において世界最高峰の力や技を次から次へと眼前で見ることのできる恍惚に浸っている。(けっして「恍惚の人」になったわけではない)そうした中、日本選手たちは序盤の勢いにやや翳りがみえるものの、持てる力を発揮し精一杯の健闘をしている。
このように観戦に夢中になりながらも、ずーっと気になっていることがある。それは私が以前に投稿した「オリンピックはどうしても民族意識をくすぐられるところがある」という一文に関係することだ。
先日、購読する北海道新聞に「解読 オリンピック 政治との関係」と題する評論が載った。政治学者の加藤創太氏(東京財団政策研究所研究主幹)の論文である。加藤氏は「閉幕後はリーダー見極め」と題して、次のように述べている。少し長いが紹介したい。
(前略)今回の東京五輪はことさら政治、特に国際政治ではなく国内政治に大きな影響を受けているように思える。自民党総裁や衆院の任期満了が五輪終了後に設定されていることが一つの要因だ。
よく言われるのは政権が、五輪で高揚する国民意識の下で政権支持率を高めて、その後の選挙や総裁選につなげようとしているのではないか、という疑念である。実際、政治学では古くから、国民の政権支持には「旗の下への招集効果」があるとされてきた。危機時などには、国旗を掲げるリーダーの下で国民は一致団結するため、政権支持率が跳ね上がるという現象だ。五輪自体は危機ではないが、国家を代表して闘う若者たちの姿を見て、国への思いや強い一体感を感じた者、つまり五輪を見て旗の下に招集された経験のある者は少なくないだろう。
その一人である私は、だから今回の五輪だけは、冷ややかに見ようと思っていた。政府の一連の対応にも反発があったからだ。しかし情けないことに、そんな思いは開会式まですらももたなかった。開会式前に日本の先陣を切って福島で試合を行った女子ソフトボールチームを見てしまったからである。
2008年の北京五輪後にソフトボールはいったん五輪競技から外された。5年間ではなく13年間待ったエース上野由紀子選手が福島で力投する姿に、旗の下に引きずりこまれなかった者はいないだろう。(後略)
加藤氏が指摘するオリンピックと政治の関係については、コロナ禍の中でオリンピックを開催するか否かの議論がメディアで盛んに報じられていた際に、政権は頑なにぶれることなくオリンピック開催を主張し続けた。その際に言われていたことは加藤氏が言うように、オリンピックの開催が総裁選や衆院選挙に有利に働く。そのためにもオリンピック開催断念の選択肢はないと公然として囁かれていたことに私は違和感を覚えていた。そうした効用がないとはいえないが、スポーツの祭典さえも政治利用するのかという思いである。私にとってはオリンピックで自国選手を応援することと、選挙や政権選択はまったく別物と思っているのだが…。
加藤氏は論文の最後に言う。
五輪後の政治の季節は、旗の下に招集された国民が、自ら先頭で真に旗を持つべき者を見極める季節となる。それまでは、政治の色眼鏡を外し、選手たちの躍動を堪能しよう。
と結んでいる。私もまた、政治とスポーツはまったく別物と考え、残りの期間オリンピックを堪能しようと思う。