このところ、常磐線関係や交直流関係が続きましたので、久しぶりに東北本線ネタをアップしたいと思います。
これももう「懐かしい」部類に入ってしまうのかもしれませんが、東北の夜行急行の代名詞でもあった「八甲田」をお届けいたします。
急行「八甲田」には、いくつかの特徴が挙げられると思います。
1つ目は、終始座席車が主体の編成で、寝台車をあまり連結していなかったこと。
(古くは上野からB寝台車を連結。その後、仙台~青森間のみB寝台を連結していたことがありました。)
2つ目は、上野発が19時と早く、上野着が11時過ぎと遅かったため、区間的に昼行列車と同様な性格を持っていた。
そして3つ目は、北海道急行「ニセコ」とを繋ぐ直通の急行郵便の輸送を終始担っていた。
とりわけ、上り列車は陽の高い時間に走っていましたので、良く見掛けましたし、写真を撮るのも容易でした。
では、写真をご覧ください。
昭和51年 東北本線 蕨~西川口間にて EF57の牽引する上り「八甲田」
リコーオートハーフで撮った写真のため、ブレるわ指は入るわ悲惨な写真です。
「八甲田」の特徴である郵便車で、形式は「オユ10」が限定で使用されていたようでした。写真の「オユ10」は冷房改造前の車両で、屋根が他の客車と同様に高いのが特徴です。同年頃には、EF57が最期の活躍を見せておりました。
昭和51年 蕨駅にて EF571が牽引する上り「八甲田」(再掲)
特徴的なスタイルのEF571号機。EF56型亡き後、同型の面影を色濃く残しており、私の大好きなカマでした。客車が写っていないのが残念な構図ですが、「オユ10」は相変わらず非冷房のままのようです。
昭和51年後半 東北本線 蕨~西川口間にて EF58の牽引する上り「八甲田」
EF57型の撤退が始まると、東北筋の客車急行は全てEF58が独占するようになります。写真はEF58152号機の牽引する「八甲田」で、宇都宮機関区では少数派のヒサシ付き車です。(他に89号機がいたのは有名ですね。)ただし、高崎第二機関区のカマと違い、スノープラウは装備していませんでした。
また、「オユ10」が冷房改造後の姿に変わっているのが判りますね。
昭和52年 東北本線 大宮駅にて 「八甲田」に連結されたグリーン車
写真は、大宮駅で捉えた上り「八甲田」。特急の写真を撮っていたとき偶然撮りました。「八甲田」は他の急行に比べると地味なので、EF57亡き後は正直なところ撮影の対象から外れていました。それでも、この客車のグリーン車(特に帯の塗装があった時代)が非常に好きだったので、思わず撮影してしまったのでしょう。「八甲田」には、12系化されるまで、このグリーン車が連結され続けました。(写真の車両は「スロ622076」。)
昭和59年1月頃 大宮操車場駅構内から EF65の牽引する上り「八甲田」
私が高校生になると地方での撮影が中心となり、この間、あまり近所では写真を撮らなくなってしまったようです。59・2のダイヤ改正を控えた直前頃になりますが、1度だけこの「八甲田」を捉えていました。牽引機もEF65に変わっています。東北筋の夜行列車が12系、14系、20系化され、さらに電気暖房の必要な郵便車、荷物車がなくなってしまい、EF58の出番もすっかりなくなってしまいました。
それでも、現在のような状況でしたら、「客車急行」であること自体に価値があったのでしょうが、当時はEF58が終焉を迎える頃であり、EF58の牽引しない列車の魅力は大幅に消えてしまっていたのでしょう。
そして、北海道への旅客は新幹線、飛行機へと移行し、急行「八甲田」は静かにその役目を終えました。
これももう「懐かしい」部類に入ってしまうのかもしれませんが、東北の夜行急行の代名詞でもあった「八甲田」をお届けいたします。
急行「八甲田」には、いくつかの特徴が挙げられると思います。
1つ目は、終始座席車が主体の編成で、寝台車をあまり連結していなかったこと。
(古くは上野からB寝台車を連結。その後、仙台~青森間のみB寝台を連結していたことがありました。)
2つ目は、上野発が19時と早く、上野着が11時過ぎと遅かったため、区間的に昼行列車と同様な性格を持っていた。
そして3つ目は、北海道急行「ニセコ」とを繋ぐ直通の急行郵便の輸送を終始担っていた。
とりわけ、上り列車は陽の高い時間に走っていましたので、良く見掛けましたし、写真を撮るのも容易でした。
では、写真をご覧ください。
昭和51年 東北本線 蕨~西川口間にて EF57の牽引する上り「八甲田」
リコーオートハーフで撮った写真のため、ブレるわ指は入るわ悲惨な写真です。
「八甲田」の特徴である郵便車で、形式は「オユ10」が限定で使用されていたようでした。写真の「オユ10」は冷房改造前の車両で、屋根が他の客車と同様に高いのが特徴です。同年頃には、EF57が最期の活躍を見せておりました。
昭和51年 蕨駅にて EF571が牽引する上り「八甲田」(再掲)
特徴的なスタイルのEF571号機。EF56型亡き後、同型の面影を色濃く残しており、私の大好きなカマでした。客車が写っていないのが残念な構図ですが、「オユ10」は相変わらず非冷房のままのようです。
昭和51年後半 東北本線 蕨~西川口間にて EF58の牽引する上り「八甲田」
EF57型の撤退が始まると、東北筋の客車急行は全てEF58が独占するようになります。写真はEF58152号機の牽引する「八甲田」で、宇都宮機関区では少数派のヒサシ付き車です。(他に89号機がいたのは有名ですね。)ただし、高崎第二機関区のカマと違い、スノープラウは装備していませんでした。
また、「オユ10」が冷房改造後の姿に変わっているのが判りますね。
昭和52年 東北本線 大宮駅にて 「八甲田」に連結されたグリーン車
写真は、大宮駅で捉えた上り「八甲田」。特急の写真を撮っていたとき偶然撮りました。「八甲田」は他の急行に比べると地味なので、EF57亡き後は正直なところ撮影の対象から外れていました。それでも、この客車のグリーン車(特に帯の塗装があった時代)が非常に好きだったので、思わず撮影してしまったのでしょう。「八甲田」には、12系化されるまで、このグリーン車が連結され続けました。(写真の車両は「スロ622076」。)
昭和59年1月頃 大宮操車場駅構内から EF65の牽引する上り「八甲田」
私が高校生になると地方での撮影が中心となり、この間、あまり近所では写真を撮らなくなってしまったようです。59・2のダイヤ改正を控えた直前頃になりますが、1度だけこの「八甲田」を捉えていました。牽引機もEF65に変わっています。東北筋の夜行列車が12系、14系、20系化され、さらに電気暖房の必要な郵便車、荷物車がなくなってしまい、EF58の出番もすっかりなくなってしまいました。
それでも、現在のような状況でしたら、「客車急行」であること自体に価値があったのでしょうが、当時はEF58が終焉を迎える頃であり、EF58の牽引しない列車の魅力は大幅に消えてしまっていたのでしょう。
そして、北海道への旅客は新幹線、飛行機へと移行し、急行「八甲田」は静かにその役目を終えました。