蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

生きるということ

2020-07-19 | 人生
わたしは頑張って課題を克服して得た達成感を味わったことがない。
すぐに途中でサジを投げる。
飽き性というわけではない。
どちらかというと、こだわりが強い。
にもかかわらず、最後の一手あたりで降りてしまう。
勝負を放棄する。
そういう経験が延々と続くと、自信喪失人間が出来上がる。

頑張らないのか、頑張れないのか。
両方だ。
モチベーション不足と、負けん気不足。
どうぞどうぞお先にどうぞ精神が、人を押しのける時にすでに、もう一歩、負けている。
やる気がないのか、覇気がないのか、病気なのか。

とことん頑張った時もあるが、他人から見ると、てんで頑張ってないらしい。
がっかり。

しかし、こんな性質でよく今日まで生き延びたものだ。
今とは違う、過去の良い時代に生まれたのだろう。

自分を甘やかせるだけ甘やかす。
スポイル犯人、張本人は、自分だ。

このまま、家庭内に埋もれる認知症老人になるのかも知れない。
これはわたしだけでなく、高齢化社会における、現代の社会病理にもなっている。
高齢夫婦だけの世帯では、家庭内に埋もれ認知症の発覚が遅れる。
ご近所のご夫妻も先に奥さんが認知症を発症し、後からご主人も、、、。
別居のお子さんが2人おられるので、色々、策を講じて手配されている。
ご夫妻はわたしより20歳ぐらい上だから、それまでにはまだ時間はあるように思う。

こんなわたしでも今より若い頃は仕事をしていた。
今となっては、懐かしい。
外で働かないと決して垣間見ることができない分野が見えて、面白かった。
世の中の出来事、現象の舞台裏を見た。
社会の仕組み。
へえ〜、こうなっているのか、と。
社会の一部で働くことは、大変だ。

作る人がいても、買ってくれる人がいないと経済が回らない。
制作部門と営業部門はしょっちゅう喧嘩していたが、同時に一人二役やると喧嘩出来ない。
自分で作って、自分で売る。
これはかなり難しい。
既存ルートもあるし、壁が暑く高い。
若い頃は恥も外聞もなく何でもぶつかってチャレンジした。
今なら絶対に出来ない。
仕事の評価、成績はゼロ点だろう。

いつまでも何歳になっても仕事をしたい人がいるが、わたしは全然そんな気はナシ。
収入源獲得の必要に迫られている場合は別だろうけれど。
ある日、仕事の舞台から降りた。
キッカケは、仕事の大変さを乗り切るのに同じ目標を掲げて目指していない、苦労をシェアできないと感じたこと。
それまで一心不乱に汗水流して一緒に頑張ってきた人との不協和音。
自分を鼓舞し、奮い立たせ、激励するものを見失った。
プツンと緊張の糸が切れた。
で、続ける意味を自分自身の中で見出せなかった。

十分、仕事はご馳走さまでした。
もう結構。
燃え尽きたかんじ。
だが、仕事で得たものと言えば、自分の無能ぶりを味わったことと、社会の厳しさを知ったこと。
(もういいんじゃない?わたし?
低能の割には、よくやったほうかも知れないよ、と、手綱を放した)
そして、大事な子育て期間を子育て教育空白期間にしてしまったこと。
しかし、子育て放任、無干渉は、結果的には子供に自立心を植え付けたことになったが、、、。
仕事をしていたことによって、余計なことをする時間をわたしに与えなかった。
くだらない時間潰しをする必要がなかった。
だらだらできず、貴重な時間を有効活用できたように思う。
確実に世の中を見る視点は変わった。

で、今は仕事をしない毎日を存分に味わい楽しんでいる。
まさにこの世の春。
健康寿命が続くまでのあと10年は春が続くと予想している。
未来永劫には続かず、時間制限ありで悲しいが、人間だもの、いつかは消える。
その準備期間が必要だ。

ある日、突然消える人もいる。
長々と消えないで本人も状況がわかっていない人もいる。
長寿は健康あっての賜物。
生きているだけの生物になってしまうこともある。
本人もそんな状況は望んでいないだろうけれど、神様は意地悪をする時がある。

生まれてくる命と、消えようとする命。
人間として、この流れは当たり前なのだが、感慨深い。

働くということ

2020-07-18 | 人々の風景
今日のgooユーザーサービス「アピールチャンス」は、予想に反してスベらなかったようで、大変嬉しかった。
一種のギャンブルなので。
ハイリスク、ハイリターン。
お客さん、一人〜二人だけ、という時も度々あり、スベり抗体、耐性が出来た。
兎にも角にも、皆さま、ありがとうございます。

で、御礼も早々切り上げ、いつもの自己中、独断ネタに戻る。

高学歴ニート論を唱えるブロガーさんがいて、興味深く拝読している。
社会の(漬物石)重り、シンパシー派として、高齢者を引き合いに出されている。
これに専業主婦を加えたりすると、ひと昔前なら、てんやわんやの(昭和死語?)大騒ぎになっていたことだろう。
(今ならたぶん専業主婦の定義が変化しているはず)

高学歴ネタに食い付く人は少なくないはず。
「高学歴女子は家事が下手」とかも美味しいキャッチだ。

最高峰高学歴で仕事がデキない人を数人知っている。
ただし、それでも家族を養っているから素晴らしい。
低学歴でやり手社長も知っている。
ただし、やり過ぎてちょっと羽目を外したりもしている。
頃合い、バランスが難しい。
普通の学歴で普通の人も知っている。
あと付け加えるなら、、、
高学歴で仕事がデキる人、
低学歴で仕事がデキない人、
高学歴&低学歴で仕事をしない人、

専業主婦は?
これは今回は横に置いておこう。

仕事や分野にもよるし、一概に総括しにくい面がある。
家庭のサポートが有る無しによっても働き方が変わるような気もするし。

「日本の成功した300人」なんていうのもある。
基準は?
年収?
ポスト、役職?
誰に認められるのか。
上司?外部?

内部で認められないと社外に出るだろう。
自由業や自営業は?
目立った業績を上げるのなら、起業家が主?

ユニークな発想や存在だったり、今後の活躍が期待できるものだったり、現状はまだ芽が出ていなくても。

そんな上澄みをターゲットにするのではなく、もっと幅の広い選択基準ではどうか。

社会事情が少々変わっても雇用が大丈夫な公務員は?
学閥とかあるのだろうか? 
(公務員は遠い親戚にしかいないので、公務員のことはあまり知らない)
だが、業績不振でリストラなどはないのでは?

林・元予備校先生の「やりたいことをする以前に、出来ることをする」に、わたしは一票。
やりたいことを選べるのは別に高学歴の人だとは限らない。
AIが頭脳の代わりに働いてくれるから、優秀な頭脳は即戦力としてはそこまで必要ない?
(職種や職場規模にもよるだろうけれど)
受験ノウハウ・テクニックをマスターした高学歴よりも、ある分野に飛び抜け、ずば抜けて優れている人が求められている?
あるいは、独創的な人?
高学歴という括りでは捉えきれないだろう。

だが、高学歴の人が、以前、わたしが勤務していた極小会社の求人募集で応募されてきたが、第一印象通り、ダメだった。
高学歴はかえって一般のそこらへんの就職の手枷足枷になる。

キャリアがあっても、ほんの少し前まではそれでよくても、今は通用しないように、時代の進化のほうが速くて、かえって邪魔になる場合もある。
しかも本人は自分の過去の成功体験から離れられないで、臨機応変に柔軟な発想ができない。

仕事は難しい。
出会い、マッチング。
いつまでも理想の仕事には出会えないことは普通にあり、どこで妥協するか、なんだろう。

橋下徹氏ぐらいになれば、そりゃあ周りにいるメンバーも違うのだろうが、一般の人々はまた違う。

経済的にあやふやな立場のわたしが、何千時間、力説しても始まらない。
経済的自立なしには、仕事論を論じる資格なし。

ちなみに、ニートの人はどうやって食べているのだろう?
親のすねかじり?
主婦や主夫も経済的にはあいまいな場合もある。
あいまいでない場合もある。

ああ、全然まとめられない。
ぼやけて、ぼやぼや。
何を言ってるのか焦点ぼけぼけ。
テーマを選び損なった。
言葉の選び方も慎重にしないといけないし、、、。


最後に話は変わるが、
わたしの好きな俳優、三浦春馬さんが突然、この世を去って動揺している。
まだ30歳。
若すぎる。
生き急いだ。
ご冥福をお祈りします。






ブログを書く人

2020-07-17 | ブログ
ブログを書く意味、意義は、人それぞれあるだろう。
それぞれが正しい。
第一、正しくないものなんて、ある?
あるといえば、ある。
公序良俗に反するものとか、営利目的とか売名行為とか、特定人物への誹謗中傷とかヘイトスピーチとか?

わたしは十数年ブログを書いている。
遡れば更にインターネット交流年数は伸びそうだ。
色々な趣味のコミュに属していたこともある。
今はこの蝶ブログだけだが、数々の別々のブログを持ち、それぞれに書いていた。
いくつものブログを同時進行していた。

だが、蝶ブログが主流。
あとのブログは今頃いったいどうなっているのか。
クローズの後始末もせず、ほったらかしだ。

蝶ブログだけが生き残っている。
なぜなら、他のブログは、蝶には書きたくない時だけの、その場しのぎストレス発散ブログだった。
溢れ出たこころの贅肉みたいなものか。
蝶ブログでも十二分にストレス発散しているのに、まだそれに加えて、、、?!
わたしも、ややこしい人間である。
というか、つぶやきノイズ、ザザ漏れ。多過ぎ。
というか、どんだけ友達いない?

だが、腰を据えていない他のブログは、こだわりも熱意も愛着もあまりない。
自分のことばかり書いた蝶ブログ。
つまり、わたしは自分が一番好きなのだろう。

コメントはほぼ皆無。
最初の頃は、どこの誰かもわからない他人には警戒していた。
そして自己完結してそれで終わりの、わたしの人を寄せ付けない、親近感ゼロ姿勢のせいかと思っている。
徐々に慣れてくると、ブログ仲間同士でコメント交流があった時期もあった。
その結果、その時期には小説ブログを開設したのだが、、、。
アタマの弱いわたしは小説は苦手だった。
また、アメリカ在住の同世代女性ともブログ上で交流があった。
皆さん、どうしてるだろう?
(アメリカの方は後に離婚されたようす)
古くから水面下で交流のある方もいる。
まさに、細く長く。
お互いの日常をブログを通して知る。
だが、目に見えないが、糸はつながっているという手ごたえを今も確実に感じている。
頑張ろうね、同志の皆さん!

長くブログ村に在籍していると、他のブロガーの皆さんはクラスメイトのような気がしている。
年齢様々、属性様々、個性様々、、、
彩り色々、賑やかである。
わたしのこころを暖めてくれている。
ありがとう、そして、これからもよろしく。


ボツ寸前

2020-07-16 | 無題
AIに人気記事ランキングに選んでもらった時は、なぜか閲覧数はガタ落ち。
株価と為替または金利?の関係のようなもの?
よくわからないが、どちらかが良いとどちらかが悪い。
金融ファンドなどは、リスクを取って両方を混ぜて買うといいらしい。
バランスファンド。
(生半可な、いい加減な知識なので、自分で調べてみてください)

で、そういう閲覧数が落ちている時は、、、
人の目を意識せず、自分の書きたいことをのびのび自由に書く。
といっても、いつもと変わらないか。
だが、読む人が少ない時はチャンスとばかりに、自慢ネタをつらつら。

で、どんな自慢にしようか?
あれにしようか、これにしようか?

わたしは、容姿はブサイク、頭脳はパー、行動はグズ、こころは不真面目。
ああ、自慢からどんどん遠ざかる。
夫もわたしのような妻を選んでしまっている段階で、マイナス評価は避けられない。
というか、割れ鍋に綴じ蓋なので、夫も欠陥人間だということだ。
自分とレベルの合わない人とはやっていけないはずなので、お互い、どこか何かが欠けていると思われる。

その割には子供の出来が良い。
ああ、やっと自慢にたどり着いた。
出来が良いというのは、なにも頭脳が優秀だとは言っていない。
自立心があるということだ。
親を頼っていない。
それは、我が子ながら立派だと思う。

と、喜んでばかりはいられない。
頼りたくない親だからだろう。
お互い自立し合っているので、クールである。
寄りかからない、もたれない。
尻拭いは自分でしてね、というスタンス。

だが、死にそうになったら死に目には会いに来てくれるかも知れない。
それより少し軽い出来事でも、いざとなると皆んな駆けつけてくれる。
日頃は接触無し。
リモートワークみたいだと思った。
実際には頻繁に連絡し合わなくても、繋がっていると感じる。
決して遠隔操作ではないと思っている。
しょっちゅうラインで連絡し合わなくても、要の時だけ繋がる。
それでわたしは十分だ。

それぞれが自立しているので、経済面でもお互い、援助の必要がない。
それが何よりだ。

それぐらいかな、自慢出来ることは。
親が頼りないと子供はしっかりする。
実際の過去を振り返ると、代々それの繰り返しのように思う。
ダメ世代→立派次世代→ダメ次々世代→立派次々々世代→
自慢は家系か?
過去自慢は大嫌いだが、代々継続させていくためには、地道な努力が必要だ。

今の時代は継続させない選択肢もある。
過去の事例として参考にして、今や将来を生きる。

とここまで書いて、うつらうつら。
全然エキサイトしない。
自分以外のことしか自慢ネタはないのかと、むしろ自己嫌悪に陥る。

反面教師を親に持ち、自分は逆の姿勢、方針を持つ。
夫や夫の姉なんぞは、まあ甘く甘く育てられ、その甘さにわたしは低く評価する。
親に洗脳、コントロールされている。
わたしだって、大したことがないのでドングリの背比べだが。

いずれにせよ、自分の親を乗り越えて成長したのであれば、立派なものだ。
だが、実際は親を乗り越えられていない。
厳しい時代から甘々の時代へ。
「時代」という背景や社会事情のせいにしておこう。

だとするとその割にはわたしの子供たちは自分以上。
親をとっくに超えている?
だが、実際には?
というか、何を基準に「実際」を測る?

まあ皆んなどうにか生きて行けて良かった。
自分の信念をもって自分の道を歩いている。
時代に応じて自分を活かすことができたら、それでいいのではないだろうか。

つまらないワースト1の記事になった。
人の目がないところではリラックス、自分解放モード全開だ。
その割には全然スカッとしない、、、
やっぱり自慢臭は好きではないなあ。


えこひいき

2020-07-15 | 子育て
「あなたは母親を大切にするのよ。
母親を愛しなさい」

わたしの長女は、彼女の幼い長男Aを抱っこしてそう語りかけていた。
彼はまだ乳児の時だったので、言葉の意味は通じていないと思う。
わたしは、おもしろいことを言って聞かせているなあと、興味深く見ていた。
わたしは、そんなことは子供には全く期待していなかった。
ただただ安全に事故のないよう、目の前の日課をこなしていくのに精一杯だったように思う。

その長男Aは今では小学2年生。
まあ母親にキツく怒られている。
みっちり管理されている。
わたしは、この孫Aが一番好きなのだが、長女に「おかあさんはAに甘すぎる」とお叱りを受ける。

いや、そうでもない。
母親がキツイからちょっとかわいそうになる部分もある。
それと、この孫A、「こんな大人、いるよなー」の典型のようで味がある。

トランプなどのゲームではズルをする。
(負けず嫌いの露見方法が悪い)
食べ物は1ミリでも大きい多い方をいち早く取る。
怖がり。
遊びの中で、誰がどう見ても弟Bに理不尽な要求を突きつける。
弟に口でダメなら手が出ることもある。

1歳7ヶ月年下の弟Bは、これまた不甲斐ない。
嫌なら意思を示せばいいのに、ビービー泣きわめくだけ。
目で訴えて大人に助けを求めてくる。

母親はこの弟Bが好きのようで、いつも庇っていたり、点数が甘い。
わたしの好みとは逆だ。
わたしは、この弟Bを見ているとイライラする。

反逆しろ!
叩き返せ!
踏み返せ!
頭突きしろ!

そう思うが、泣きわめくだけ。
身体もだんだん兄弟間でそれほど大きさも違わなくなってきているのだから、一方的に負けることはないと思うので、反逆してもよさそうなもの。
弟Bは優しいのだが、弱い。
しかも、へんに気難しい面があり、こじれると超めんどくさくて、わたしの神経に障る。

好き嫌いは相性なのだろうか。
だが、兄Aはあんな風だと外で友達と仲良く遊べないのではないかと心配する。
しかし、頭隠して尻隠さずの兄の悪事の数々は、知恵がなくて単純で、じつにおもしろい。
大人になると、内面は悪いヤツでもカモフラージュしたり作戦を立てたり、なんらかの策を練る。
だが今はまだ、そのままストレートに姑息な面が丸出しなところが、わたしの目には可愛く映る。
ただ、あのまま大人になって、「子供の時からそうだったよね」なんて言われかねない。
兄A=ねじれ曲がっていない、純真なワル。
弟B=ねじ曲がった、純粋な善人。
どっちもどっちか。
ちなみにわたしは、ねじ曲がったワル。
オーマイゴッド、、、

弟Bは成長して戦略で兄に勝って欲しい。
兄Aも成長して、負けたらそれを克服してほしい。
年齢が近い同性の兄弟は何かと目の上のタンコブなんだろうなあ、、、

これに気のキツイ、アタマがよく回る妹Cがいる。
これにさらにもう一人加わるとどうなるのか、、、

「お孫さん、可愛いでしょうねえ」
と言われるが、可愛いことには違いないが、ややこしい。
巻き込まれると頭から湯気が出る。
長女も時々、鬼のようになっているが、みんな喉元過ぎれば熱さ忘れる。
自分もそうだったように。
衝撃的なことや自分に都合のいいことしか覚えていない。

と、ここで、蛇足。
全く話の次元はころっと変わる。

認知症ケアはその点、報われないと感じる。
認知症の当人は、悪い感情しか残らないそうだ。
脳は正常に働くとは限らず、意のままに制御出来ない。
が、正常人は無意識でコントロールされているのだろう。
自分の記憶や感情も、客観的事実と照らし合わせて整合性をチェックすると、正確な時もあるし、メチャクチャな時もあり、あてにならない。
あんまり突っ込んで追求しても、意味があるような、ないような。
おヒマならどうぞ、というかんじか。

理屈や理詰めでは解決できないことがいっぱいある。
科学の力に頼り過ぎても、良いとは限らない。
何が何でも、、、なんてことは、徒労に終わることがある。
が、そういうことが好きな人は、一生、徒労を享受するのだろう。
それはそれで、その人にとっては満ち足りた一生だ。

で、またまた話が元に戻る。
うんざりされた方はお見捨てください。

孫Aは中学からは私立学校向けかなあと、なんとなくぼんやり思う。
孫Cは、公立学校かな、と。
孫Bは経過観察というところか。
色々条件もあり、選択肢はあるようで、ないようで、あるようで、、、

子供の教育は難しい。

お金のニオイ

2020-07-14 | 暮らし
わたしは、時計をいくつか持っている。
一番安いのは電池交換費用と同じぐらいのもの。
クラフト仕立ての大のお気に入りは、長女からのお下がり。
社会人になったらこんな時計は恥ずかしいからと、払い下げられた。
わたしは気に入っているのだが、姉には「こんなオモチャ時計」と、はっきり馬鹿にされている。
だが、めげることなく、まだ気に入って現役で使っている。

愛用していても、やはり時計は消耗品で、よく壊れる。
デザインものは、腕の開閉蝶番部分がパキッと折れたり、経年劣化したり。
大好きでも時計そのものが壊れたり。
修理すると、その費用で何個も時計が買える。

新婚旅行先で買った時計、全くの安物なのに、帰りの手荷物検査チェックを別途に受け、ブランド品だろう!と詰めよられたが、違うものは違うと否定した。
その時計はすでにベルトも壊れ、本体も壊れているが、しつこくまだ捨てていない。
先日、修理費を見積もってもらったら、セイコーのちゃんとした時計が買えそうな値段だったのでやめた。

他にも高い修理費でも修理した時計もある。
電池交換も順次していかなければならない。
安物チャラチャラ時計は、阪神地区沿線の駅近にある靴修理屋さんに出す。
高級時計は百貨店か宝石屋か専門店に出してくださいと時計屋さんに言われるが、百貨店はなにしろ信頼料金が上乗せされ、お高い。
で、独自の足で探した店に出す。
大阪兵庫にまたがりエリア範囲はかなり広い。

しかし、なんでこんなにケチなんだろう、、、。
大丈夫か?壊されないか?とドキドキしたりするなら、安心の百貨店に出せばよいものを。
百貨店はどうしてもダメな時の最後の砦にしている。

で、日頃はどんな時計をしているか。
時計はしないで、スマホで代用。
スマホと連動した時計も悪くないのだが、今のところ別にぜひ欲しいという高まりはない。

最近、少し恥ずかしくなってきたディズニーのマーメイドキャラの時計。
これは旅行の時に付けることが多い。
頻繁に使っていると壊れるので、壊れたら買い換える。
飛行機内販売で買ったりもする。
中でもスウォッチは愛用品の一つ。
当時、最も好きだった時計を電池交換時に大阪市内の地下街にある出店のオニイサンに壊されたが、泣き寝入り。
若いイケメンだったが、ズル賢い怖い人だった。
悪の面、闇の面、黒い面を駆使して、弱い人には強く出る。
わたしはクレーマー失格。
いつまでもメソメソ、うじうじするだけ。
もっとちゃんと戦っていれば良かった。
が、負けていただろう。
それ以降は思い入れのある時計は、ちゃんとした店舗のある店に出す。
店舗立地もその場限りの根無し草都会人が通過するだけの軽い場所は要注意。
それと、イケメンニイサンには毒がある場合があり、闇社会では頭角を表すのかも知れない。

男性で高級時計志向の人がいる。
やたら高い腕時計を付けている。
時間を見る時にこれ見よがしに腕をぶるーんと大きく伸ばして時計を見る。
わかりやすいステイタスなんだろう。
一見さんの店なら、効果がありそうだ。

店の人はお金がある客か無い客か、一目見て見分ける。
自分たちの生活にかかっているから、自然と身につくのだろう。
いくら、わたしはお金はある!といっても、みすぼらしい格好、佇まいオーラでは、そう見なされない。
パリの高級デパートに行った時、肌で感じた。
わたしの自意識過剰、思い過ごしかも知れないが。
さらに商売人に一番嫌われるのは、お金があるのに使わないドケチ。
しつこく値切ったりする。
お互い気持ちよく満足を与え合うウィンウィンの関係が理想だ。

プンプンと鼻をつくお金のニオイが大キライなわたしだ。
お金という経済に直結するニオイがそのまま出るのは、品がないと感じる。
みすぼらしいのも品がないが、やりすぎは、みっともない。
お金のことは考えてないけどなぜか自然体の裕福オーラ、みたいなのがよいのか?
だが、あまりにも自然体は世間の反感を買うこともある。
何事もほどほどが良いと、普通の意見、感覚に着地する。





無駄遣い

2020-07-13 | 日々のこと
わたしは、ロバのようになっている。
右肩にズシリと大サイズのエコバック、左肩にドシリと大サイズのエコバック、背中にリュック、右手に中サイズのエコバック、左手にビシャビシャ傘。
大量の物資を両側左右と背に載せて険しい山か砂漠をトボトボ歩くロバのごとく。
バスを降りると雨なのに、こんなに目一杯、重い荷物で手が塞がっていて傘がさせるのか?

今日はスーパー1割引きデーに吸い寄せられ、ポイポイホイホイ買って持てるだけ持つのはいいが、、、。
余計なものもついでに買って、かえって無駄遣いとなる。
生協の宅配を頼んだらよいものを。
なぜか、徒歩でふーふーいいながら買い物。
行きはよいよい、帰りはロバ。

先日、手書きの宛名が書かれたDMが配達された。
今時、手書きというボールペン・アナログ文字が目に留まり、中を開けてみた。
中に入っていたセール告知と割引券に背中を押され、とある店に行った。
割引金額など、たかが知れている。
割引券の百倍のものを買ってしまった。
わたしはタイでエビを釣ってしまった。
店側は、エビでタイを釣った。
大きな痛手となった。
魔がさしたのか?
なぜ、あんなものにお金を使ってしまったのだろう。
まあそういうこともある。
だが、わたしは借金や浪費はしない節約家。
生活や家計が破綻するような買い物はしない。

クレジットカードで支払ったら身分証の提示を要求され、びっくり。
たかだか近所の駅前に行くために持ち歩いていなかったので、後日提示ということになった。
ガードが固い店で客を頭から信用しない点は良い意味では安心材料にはなるが、客側としては不快だった。
持ってきた貴重なものを預かり証一枚と交換に預けて、ひとつも商品を持ち帰っていないのに前払い。
出すだけ出して、帰りは手ぶらで先に支払う。
わたしこそ、店に安心しきれない。
店と客は信頼で成り立っているが、詐欺や盗品売買も行われる殺伐な世の中だから仕方ないのか。
百貨店の外商とは真逆。
信用ならぬ一見さん扱いには、わたしはそんなにみすぼらしい身なり、立ち振る舞いなのかと失望した。
が、街のお店だから仕方ない。
店もおそらく何度か被害に遭い、被害を事前に食い止めたいのだろう。
こちらも店の対応や力量を測るために、まずはお試し程度の取引しかしない。
しかし、たぶん、わたしはあの店には時計の電池交換以外はもう利用しないように思う。

ここ数年、食品や薬、日用品しか買わなかったような気がする。
衣料品でさえ日用品の範囲内。
しかも自分のものはもう要らないので、孫の靴下だったり。
購買意欲ゼロ。消費マインド冷え冷え。

でも、何かに使いたい!と思ったのだろう。
寄付とかではなく。
経済活性化のお役に立てただろうか。
自分を正当化しよう。
たまに自分のための買い物も楽しい。

て、それだけ。

今日は気の抜けたサイダーみたいなスカの内容になった。






憧れ

2020-07-12 | ブログ
gooユーザーサービスで「アピールチャンス!」というものがある。
ランダムにやってくるチャンスに勇気を出してアピールすると、わたしのブログは、世間の(gooユーザーの)皆さんの興味にはカスリもしないで、透明人間のごとく、完全ノックアウト、スルーの憂き目に遭う。
が、中には良い出会いもある。
(ただし、一方通行)

普段は、わたしはブログ村エッセイしか読みに行かない。
時折、gooアピールチャンスに現れる未知のブログを開いてみる。
その時、開いて見ようという気になるのは、写真とタイトル。
そして読んでみて面白かったら、過去記事に遡る。
だが、ブックマークするには至らない。
一期一会である。
あれもこれもと、どんどん手を広げない。
わたしのキャパシティの問題もある。

アピールチャンスで初めて見たブログ。
70歳代の未亡人。
丁寧な暮らしに憧れた。
自然体そのものがハイソ、上流の香り。
わたしが夢に描く見本のような毎日だった。

もしわたしが、今のわたしの年齢で憧れたとしても、大統領や大統領夫人にはなれない。
科学長官にもなれない。
ハナから、生まれた時から憧れたこともないが。
外国暮らしは憧れたとしても、能力的に無理なので、憧れリストからは遠に抜け落ちている。

憧れというのは、ほんのすこしだけ努力したり、背伸びしたりすると手に入るかも知れないようなこと、レベル。
段階的に長期計画を立てて、夢を実現させる実践家もいる。
わたしは、サボりなので、今ある状態から出来そうな身近なことを選ぶ。
手が届きそうなこと。
具体的な実例として、そうなれるような方針に切り替える
だが、モチベーションが必要。
あ、無理、となると、すぐにやめてしまう。
あの人はあの人、わたしはわたし、という開き直りも、頑張りの背中を押してくれない。
あの人になるんだ!
あの人を目指すんだ!
そういう強い思いが必要だ。

自分よりうんと若い人は選ばない。
時計の針を戻してまで頑張る気がない。
自分の一歩先を行く人。
つまり70歳代ということになる。

ものの考え方とかは参考にしない。
すでにわたしは自分流が確立されているから。
見え方を参考にする。
ビジュアルや住まい。


NHK教育テレビ番組の「人生レシピ」で、バァバの愛称で親しまれる94歳の和食料理の先生が紹介されていた。
40年前のNHK料理番組に出演していた時よりずっと綺麗でチャーミングだった。
ユーモアとウィットに富み、笑顔が溢れるかわいい人。
大口開けて豪快に笑う笑い方は、わたしの母に似ていた。
真っ赤なマニュキア、くるんくるんカールのシルバーヘアのバァバ先生。
40年前の方が今ほど磨かれずに垢抜けないかんじだった。
今が一番素敵だと思った。
見習いたいけれど、個体差があるからこんなに高齢になっても健康や頭脳を維持できるかどうか自信がない。

デヴィ夫人は80歳を超えてあの美しさはすごいが、人工的な匂いがするものはわたしはあまり好きではない。
それとあの気性。
他人だから関係ないので、どうでもよいが。

ちなみに、暮らしの見せ方がステキな前述の70代女性は、きっちりした綺麗好きな人だろう。
完璧なハウスキーピングだと感じた。
わたしは整理整頓、掃除が苦手だから、落第。
だが、この70代女性もいずれもっともっと高齢になると、今の綺麗な家を売り払って老人ホームに入るかも知れない。
するとわたしの掃除コンプレックスは解消される。
いずれは一緒。
コースの先は同じ。

今だけそれぞれの人が違う分だけ、各々の違いを楽しみ、丁寧に暮らすのが良さそうだ。
しかし、わたしの場合、丁寧に暮らす内容が少し一般的ではないかも知れない。
だが、人に合わせる必要はない。
各人が満足していればそれでよい。

今のわたしの暮らし方とさほど変わらないお手本の暮らしの人もいる。
その人のブログには、読書し、ものを書き、近所の喫茶店に友人と行っておしゃべりしたり、交流する様子が書かれている。
読書や執筆好きの人は、実生活より頭の中の整理整頓や掃除が得意なことが多い。
なので、わたしは憧れない。
実際に労力を使い、綺麗な暮らしをしている人に憧れる。

わたしも書いてばかりではなく、もう少し家の内外を綺麗にしようかなあ、、、と。
思うだけで、いつも最低限のこともしない。
せいぜい草を引くぐらい。

でも、綺麗な暮らしは努力次第で手に入る。
刺激を受けて頑張ろうー!

憧れ生活を紹介しているブログを読むと、自分の実生活を綺麗にしてくれる助けになる。
影響を受け、刺激を受け、自分もやってみようと思う。
自分にハッパをかける。
ブログの有効活用である。
理想の生き方、半歩先に行っている人のブログには教わることが多い。

80歳代になったら、理想のこの世とのサヨナラの仕方ばかり考えているのだろうか。
そんな日が来るまで、精一杯楽しく生きようとするのだろうけれど、、、実際になかなかそう理想のようには行かない。

長いばかりで、つまらない記事になった、、、。


受け入れられない

2020-07-11 | ブログ
6000文字近い記事を書いたが、非公開にすることにした。
赤裸々は、やめる。
第一、テーマが重すぎた。
自分にとって大事すぎることは公表できない。

書いて自分が楽しくなるものがよい。
だが、、、
ダンスと同じ。
自分は気持ちよく踊れても、踊る姿が不恰好なら、、、
ブログもそう。
自己満足だけでは、醜い場合がある。
かといって、自分を嵩上げして下駄を履かせても、自己満足しない。
見栄を張るのは苦しくなるから嫌いだ。
主観と客観の折り合い、落とし所、さじ加減が要。

自分を押し殺して、サービス精神で書いたとしても、それが全く受け入れられない、しょうもないものだったら?
自分が好きなことを書くほうがまだ救われる。

で、ひとつ思ったこと。
ブログ、エッセイ部門は、他の部門とは特徴が違う。
当たり前か。
一般の人には受け付けられないと実感した。
自分にはアクがあるから自業自得だ。
それが個性。

だからそれが何?
でも、いつも元気づけてくれる人がいる。
ありがとう、、、とお礼を言いたい。



自分流、歴史のお勉強タイム

2020-07-10 | 無題
松濤。
読み方がわからなくて、あちこち調べた。
ショウトウ。
もう、、、寝るまでずっと勉強した。消灯するまで。(なに言ってんだか)

この地区は日本で一番の高級住宅街らしい。
高層マンションはもちろん見当たらず、200坪クラスの一戸建てがズラリ。
芦屋とはまた違う。
麻生太郎さんのお家は松濤(正確には神山町らしいが)2000平方メートルの敷地に麻生御殿が建っているそうだ。
渋谷駅からすぐの徒歩圏内。
有名な方々が住んでいる。
分譲された時は紹介制だったとかで、妙な出自の人はいないとか。
でも、生まれた時点の出自そのものは、どうかな?という人もいるが、その後の人生が認められたのだろう。

わたしが、いい加減なあやふやな説明をモタモタ書くより、ググっていただいたほうが、迅速、正確である。


この地は、旧佐賀藩主の鍋島さんが紀州藩徳川家の下屋敷を1876年(明治9年)に買ったとか。
明治維新で失職した元武士の雇用を生むために、狭山茶を移植して茶園を運営したらしい。
「松濤園」という名前のお茶畑。
鍋島家11代当主、鍋島直大さんは、当時はアメリカ留学に引き続きイギリスに留学していた頃。
明治の初っぱなに留学!!
この方、なかなか優秀な活動家で、単なる後継のおぼっちゃまではなかったようだ。
幕末も上手に立ち回り、さらに維新後も西洋の文化やら枠作りやら、たっぷり吸収して、新しい国づくりの基盤づくりに一役買った立派な人。

だが、1890年(明治23)に東海道線が開通して交通の便がよくなって静岡から良質のお茶が手に入るようになると廃業の憂き目に。
1904年(明治37)に「鍋島農場」と「農務省が運営する牧場・渋谷支所」に分かれた。
(当時、その分野に詳しい専門知識を持ち、政治家として活躍した鍋島直紹氏が手がけたようだ)
関東大震災(1923年)後、移住者に分譲され、さらに、太平洋戦争後は一般に分譲された。
とは言っても、誰にでもというわけではなく、札束で頬を叩いてもダメらしく、実績を誇る産官学界のお偉方に紹介を経てという流れで。
成金はNGで、そこそこ以上の人でないと、認められなかったと想像する。

松濤に限らず、鳩山さん兄弟や、麻生さん。
ああいうお家で育ったのなら、庶民感覚が欠乏して当たり前。
以前、社会的成功を手にした知人が、自分の住まいとしてのその地名を口にしていて、ちょっと頭の隅に残っていた。
で、楽天の三木谷さんを調べていたら三木谷さんも松濤にお住まいのようだし。
へえ〜一体?どんな所?と興味を抱いていた。

わたしは、同じ江戸時代でも武士や武家屋敷とはほど遠い、田園地帯に囲まれた田舎で生まれたイナカモノなので、東京のことはよく知らない。
若い頃、2年間だけ東京に住んでいたが、確かに国の中央にしかいないだろう人が、普通に目の前にいたりして、びっくりしたものだ。
ただ、そういう有名人が実在していることを知ったに過ぎず、自分とは何の関わりもないわけで。

ただ、ものごとには謂れがある。
突然、降って湧いたりしない。
隕石みたいに降ってくることも稀にあるだろうけれど、それはそれ。

元お茶畑には、その前からも長い歴史の積み重ねがあった。
江戸時代の武士屋敷跡に何が建つか。
東京駅だったり、国の中枢を担う建物が建てられ、活用されている。
江戸にはずっと住んでいた武士そのもののエネルギー蓄積もあるが、300年近くもの間、いろんな制度を作って、幕府をよく持ち堪えさせたものだ。
しかも、最後の大政奉還の大転換はあっぱれ。
全く違う世の中になったにもかかわらず、その後も自分の力を発揮できる人は凄い。

大きなうねりもさることながら、支流の歴史を担う人々。
転換期に誰がギアチェンジをするかだと感じた。

ちなみに、、、
脈々と続く鍋島家、(珍しくもなんともないが)側室などは当たり前で、13男や28男とかが後継だったり、政略結婚も普通にあったり、女性の社会進出など、とんでもなさそうだ。
そういう価値観を長く経て、歴代の中から偉人も輩出したり、、、


・・・話の括りが大きくなりすぎて、行ったり来たり、焦点がボケている。
脱線よりまだヒドイ。
読んでいる人は悪酔いする。

松濤が、どうかした?
いえ、ちょっと調べていったら、面白かったもので。
武士にとっては、あんなに激動の時代を送っていたが、田舎の一般農民や商人から見ると何もさほど変化はないように思う。
なぜなら、そういったことを物語るものが見つからないから。
当時は一部の人以外は、記す習慣がなかったのか?


ところで、、
昨日、町内にある歯医者さんを受診後、そのまま歩いて住宅街を抜け、駅近くのショッピングセンターに食料品を買いに行った。
道中、ステキなお家がいっぱい。
別に東京でなくても、高級住宅街でなくても、十分満たされた気持ちになった。
庶民には庶民の幸福への道、充実の仕方、楽しみ方があると、しみじみ思った。
て、全然、〆になっていない。

歴史を研究する高齢の方々のお仲間にはとても入れない。
でも調べたりすると、なぜか楽しい。
楽しみはあちこちに落っこちている。