わたしは頑張って課題を克服して得た達成感を味わったことがない。
すぐに途中でサジを投げる。
飽き性というわけではない。
どちらかというと、こだわりが強い。
にもかかわらず、最後の一手あたりで降りてしまう。
勝負を放棄する。
そういう経験が延々と続くと、自信喪失人間が出来上がる。
頑張らないのか、頑張れないのか。
両方だ。
モチベーション不足と、負けん気不足。
どうぞどうぞお先にどうぞ精神が、人を押しのける時にすでに、もう一歩、負けている。
やる気がないのか、覇気がないのか、病気なのか。
とことん頑張った時もあるが、他人から見ると、てんで頑張ってないらしい。
がっかり。
しかし、こんな性質でよく今日まで生き延びたものだ。
今とは違う、過去の良い時代に生まれたのだろう。
自分を甘やかせるだけ甘やかす。
スポイル犯人、張本人は、自分だ。
このまま、家庭内に埋もれる認知症老人になるのかも知れない。
これはわたしだけでなく、高齢化社会における、現代の社会病理にもなっている。
高齢夫婦だけの世帯では、家庭内に埋もれ認知症の発覚が遅れる。
ご近所のご夫妻も先に奥さんが認知症を発症し、後からご主人も、、、。
別居のお子さんが2人おられるので、色々、策を講じて手配されている。
ご夫妻はわたしより20歳ぐらい上だから、それまでにはまだ時間はあるように思う。
こんなわたしでも今より若い頃は仕事をしていた。
今となっては、懐かしい。
外で働かないと決して垣間見ることができない分野が見えて、面白かった。
世の中の出来事、現象の舞台裏を見た。
社会の仕組み。
へえ〜、こうなっているのか、と。
社会の一部で働くことは、大変だ。
作る人がいても、買ってくれる人がいないと経済が回らない。
制作部門と営業部門はしょっちゅう喧嘩していたが、同時に一人二役やると喧嘩出来ない。
自分で作って、自分で売る。
これはかなり難しい。
既存ルートもあるし、壁が暑く高い。
若い頃は恥も外聞もなく何でもぶつかってチャレンジした。
今なら絶対に出来ない。
仕事の評価、成績はゼロ点だろう。
いつまでも何歳になっても仕事をしたい人がいるが、わたしは全然そんな気はナシ。
収入源獲得の必要に迫られている場合は別だろうけれど。
ある日、仕事の舞台から降りた。
キッカケは、仕事の大変さを乗り切るのに同じ目標を掲げて目指していない、苦労をシェアできないと感じたこと。
それまで一心不乱に汗水流して一緒に頑張ってきた人との不協和音。
自分を鼓舞し、奮い立たせ、激励するものを見失った。
プツンと緊張の糸が切れた。
で、続ける意味を自分自身の中で見出せなかった。
十分、仕事はご馳走さまでした。
もう結構。
燃え尽きたかんじ。
だが、仕事で得たものと言えば、自分の無能ぶりを味わったことと、社会の厳しさを知ったこと。
(もういいんじゃない?わたし?
低能の割には、よくやったほうかも知れないよ、と、手綱を放した)
そして、大事な子育て期間を子育て教育空白期間にしてしまったこと。
しかし、子育て放任、無干渉は、結果的には子供に自立心を植え付けたことになったが、、、。
仕事をしていたことによって、余計なことをする時間をわたしに与えなかった。
くだらない時間潰しをする必要がなかった。
だらだらできず、貴重な時間を有効活用できたように思う。
確実に世の中を見る視点は変わった。
で、今は仕事をしない毎日を存分に味わい楽しんでいる。
まさにこの世の春。
健康寿命が続くまでのあと10年は春が続くと予想している。
未来永劫には続かず、時間制限ありで悲しいが、人間だもの、いつかは消える。
その準備期間が必要だ。
ある日、突然消える人もいる。
長々と消えないで本人も状況がわかっていない人もいる。
長寿は健康あっての賜物。
生きているだけの生物になってしまうこともある。
本人もそんな状況は望んでいないだろうけれど、神様は意地悪をする時がある。
生まれてくる命と、消えようとする命。
人間として、この流れは当たり前なのだが、感慨深い。