歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 14 )
大乱の後
壬申の乱は、大海人皇子陣営の圧倒的な勝利で終わる。
大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)において即位する。そして、正妃である鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ・天智天皇皇女。後の持統天皇。)を皇后とした。
この時からおよそ二十五年間は、天武・持統王朝とでもいえる安定した繁栄の時代を迎える。表面的には、であるが。
そして、この王朝は、壬申の乱に勝利した天武天皇によるものであるが、皇后はじめ天智天皇の皇女を多く妃としており、血統をみる限り、敗者側と考えられる天智天皇の影響が色濃く感じられるのである。そして何より、天武天皇の後を継ぐことになる持統天皇こそが、この王朝の真の主人公だったとも思われるのである。ただ、この事は本稿の主題から離れてしまう。
大伴氏は、壬申の乱において各所で複数の人物が活躍を見せている。いずれも、大伴氏の本分ともいえる武者としての活躍である。政権中枢とは縁が薄かったようであるが、有力一族としての存在感は十分うかがえる。
それともう一つ、前回でも述べたことであるが、古代大伴氏は神代の時代から一貫して大王(天皇)の親衛隊を通してきている。壬申の乱では、時の天皇である天智天皇側には従っておらず、一族のほとんどが飛鳥周辺に残っており、乱が勃発するとその多くが大海人皇子陣営に加わっているのである。
誇り高い古代大伴氏が、単に一族の利害だけで大海人皇子陣営に加わったとは考えづらく、天智天皇あるいは近江王朝からよほど粗略にされたか、大伴氏側が飛鳥に居残った多くの豪族たちと共に、中大兄皇子(天智天皇)を天子として認めていなかった可能性も考えられる。
いずれにしても、時代は天武朝となり落ち着きを見せる。
日本書紀の天武天皇の御代の大伴氏に関する記事も様変わりする。
天武天皇四年三月、大伴連御行(ミユキ)が小錦上・大輔(ショウキンジョウ・タイフ)に任命されている。正五位程度らしい。この人物は、嫡流と考えられる安麻呂の兄であり、大伴氏の「氏上」であったともされるので、この頃の大伴氏の統領的立場であったらしい。
同年七月、小錦上大伴連国麻呂が大使として新羅に派遣されている。
八年六月、大錦上大伴杜屋連が亡くなったと記されている。この人物は他に登場しておらず出自がよく分からないが、やはり中流の貴族程度の立場にあったらしい。
十二年六月、大伴連望多(マクタ・馬来田と同一人物)が亡くなった。「天皇は大いに驚いて、すぐさま泊瀬王(ハツセノオオキミ・出自未詳)を派遣して弔わせ、壬申の年の功績と、先祖たちのその時々の功績を挙げて顕彰して、褒賞が与えられた。そして、大紫位を贈り、鼓を打ち笛を吹いて葬った。」と続けられている。この人物は、吹負(フケイ)の兄で、大海人皇子が吉野脱出と共に従った功臣である。大紫位は正三位にあたり、天皇は最大の弔意を示したと思われる。同時に、生前は四位程度と考えられ、公卿にまでは昇っていなかったようだ。
同年八月には、弟の吹負も亡くなっている。この記事にも、「壬申の年の功績により、大錦中位を贈った」とある。この地位は従四位程度で、生前は五位程度と考えられ、壬申の乱の時、飛鳥の地での活躍を考えると、その評価はあまり高いものではなかったようだ。
十三年二月、「浄広肆(ジョウコウシ・五位程度か?)広瀬王(ヒロセノオオキミ・敏達天皇の孫)・小錦中大伴連安麻呂と判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣わして、都をつくるべき地を視占しめたまふ。」とある。この安麻呂は長徳の子であり旅人の父であるが、大伴氏の嫡流と考えられる人物である。小錦中は正五位下程度にあたると思われるので、中流貴族といった位置にあったようである。
同年十二月、大伴連・佐伯連・・・等々、五十氏に宿禰の姓(カバネ)が与えられた。新しい氏姓制度に移していくためのもので、「連」の多くに「宿禰」が与えられた。五十氏を列記する先頭に大伴氏があるのは、それだけの由緒があると認められていたのかもしれない。
十四年九月に、天皇が博戯(ハクギ・ばくちの一種らしい)をされ、そのメンバーだったらしい十人に御衣袴が下賜された。そのメンバーの中に、宮処王・難波王・武田王などと共に大伴宿禰御行の名前がある。天皇の側近くに伺候していたらしい。
朱鳥元年(天武十五年にあたる)正月、新羅の使者を饗応するために筑紫に遣わされたメンバーの中に大伴宿禰安麻呂の名前がある。冠位は直広参となっているが、制度変更のためのようで、あまり昇進していないようである。
天武天皇は、朱鳥元年(686)九月、波乱の生涯を終える。
殯(モガリ)の庭で各部署の代表者が誄(シノビゴト)を申し述べているが、安麻呂が大蔵の事を誄たてまつっている。
このように、天武天皇の御代においても、大伴氏は、公卿の地位には及ばなかったようであるが、天皇にかなり近い位置に仕えており、朝鮮半島の事にも関係していたようである。しかし、日本書紀に見る限り、軍事部族としての華々しい活躍は見られなかったようである。
天武天皇が崩御すると、すぐに皇后は、「臨朝称制(リンチョウショゥセイ)」された。臨時に政務を執ると宣言されたのであろう。
その機敏な行動を推察するとすれば、第一には、歴代天皇の代替わりの混乱を避けようと考えたと思われる。この時も、壬申の乱で活躍した有力な皇子たちが多くいた。現に、葬送に大津皇子が謀反の疑いで死に追い込まれている。実子の草壁皇子を溺愛する皇后にとって、大津皇子はあまりにも実力が抜きん出ていたのであろう。
しかし、称制を急いだもっと大きな理由は、この王朝の主人公は自分であるべきだと考えていたのではないか、というのが筆者の個人的見解である。そして、実際に強固な王朝が築かれて行ったのである。
持統王朝における日本書紀に記録されている大伴氏の動向を見ると、存在感の変化は天武王朝以上にはっきりとしている。
持統天皇二年八月、「殯宮に嘗(ミケ・新穀)をたてまつり、大伴宿禰安麻呂が誄をたてまつる。」
同年十一月にも、大伴宿禰御行が誄たてまつった、とある。
三年六月、施基以下数人が撰善言司(ヨキコトエラブツカサ・天皇が孫の軽皇子等のための教科書のような物を作る役目か?)に任命されているが、その中に、務大参大伴宿禰手拍(タウチ)の名がある。手拍の出自は不詳であるが、務大参(ムダイサン)というのは、七位程度にあたるので、後世の殿上人には程遠く、重要そうな職務の割には身分は高くなかったようだ。ただこの人物は、後には従四位下まで昇進している。
四年九月と十月に大伴部博麻(オオトモベノハカマ)という人物についてかなりの紙面が割かれている。大伴部というのは、大伴氏の部民という意味であると思われ、古代大伴氏の一族とは別と思われる。ただこの人物は、ある時期愛国心の持ち主として高く評価されたことがあるので、日本書紀の記事を略記しておく。
『 斉明天皇の七年(661)の百済救援の戦役で博麻は捕虜となった。三年後の天智天皇三年、土師連富杼(ハジノムラジホド)ら四人が唐人の計略を報告しようと考えたが、衣服も食料もなく伝えられないことを嘆いていた。その時博麻は、「自分も共に帰国したいが、衣食がなく付いていけない。それゆえ、どうか私の身を売って皆様の衣食の費用にしてください」と富杼等に申し出た。それによって四人は朝廷に報告することが出来た。その後、博麻は奴隷の身となって異国の地で三十年を過ごした。
持統四年九月、博麻は新羅の使者に従って帰国を果たした。
持統天皇は大伴部博麻に詔して、その朝廷を尊び国を愛する心と、身を売ってまで行った忠誠心を誉めて、たいそうな褒賞を与えている。因みに記してみると、「務大肆(七位下程度)を与え、さらに、絁(アシギヌ・粗製の絹布)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を下賜。その水田は曽孫まで伝えよ。三族(ミツノヤカラ・父子孫を指すか?)の課役を免じ、その功績を顕彰する」というものである。それぞれの単位がどの程度なのかなど分からないが、相当例外的なものであったらしい。
五年の正月に、大伴御行宿禰が八十戸の増封があり三百戸となった、という記事がある。
同年八月、十八氏に墓紀の提出が詔されている。祖先の事跡を報告させたもののようで、大伴氏もその中に入っている。
六年四月、大伴宿禰友国に直大弐(ジキダイニ・従四位程度)を追贈し、賻物(フモツ・供え物)を贈った、とある。この人物は、長徳の子らしいが、生前は五位格であったらしい。
七年三月、勤大弐大伴宿禰子君が新羅に派遣される使者の一人として布などを下賜されたとある。この人物の出自は未詳であるが、勤大弐は六位程度である。
同年四月には、大伴男人(オオトモノオヒト)が盗みを働いたという記事がある。位を二階下げて、官職を解任されている。この人物は、大納言にまで昇った大伴馬来田の子らしいが、後に四位まで昇っている人物と同人らしい。そうだとすれば、盗みの罪が晴らされたのか、あるいは父の威光がまだ及んでいたのかもしれない。
八年正月、大伴宿禰御行に正広肆(ショウコウシ)が授けられた。二百戸が増封されて合計で五百戸となる。また、「氏上(ウジノカミ)」に任命されている。正広肆は従三位程度であり、いわゆる公卿にあたる。また、当時の「氏上」がどの程度の権限を有したものかよく分からないが、この頃は御行が大伴氏の統領的な立場であったらしい。十年十月には、資人(ツカイビト・高級官人に与えられる従者。以前の舎人にあたる。)八十人が与えられた。
日本書紀の持統記にある大伴氏の記録は以上である。
持統天皇は、十一年八月に、まだ十五歳の皇太子、軽皇子(カルノミコ・文武天皇)に譲位する。
天武・持統と続く御代は、白鳳時代とも称されるように繁栄を築いていったが、豪族たちの動向から見れば、藤原氏が台頭が著しい時期でもあった。
そうした中で、大伴氏は、御行は大納言まで上っており、また複数の人物が貴族階級として存在感を示していたようである。しかし、日本書紀の記録を見る限り、大陸との交渉には若干の関わりは持っていたようであるが、軍事集団としての活躍はほとんど見えない。
古代大伴氏の活躍の場は変わりつつあったと思われるのである。
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古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 14 )
大乱の後
壬申の乱は、大海人皇子陣営の圧倒的な勝利で終わる。
大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)において即位する。そして、正妃である鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ・天智天皇皇女。後の持統天皇。)を皇后とした。
この時からおよそ二十五年間は、天武・持統王朝とでもいえる安定した繁栄の時代を迎える。表面的には、であるが。
そして、この王朝は、壬申の乱に勝利した天武天皇によるものであるが、皇后はじめ天智天皇の皇女を多く妃としており、血統をみる限り、敗者側と考えられる天智天皇の影響が色濃く感じられるのである。そして何より、天武天皇の後を継ぐことになる持統天皇こそが、この王朝の真の主人公だったとも思われるのである。ただ、この事は本稿の主題から離れてしまう。
大伴氏は、壬申の乱において各所で複数の人物が活躍を見せている。いずれも、大伴氏の本分ともいえる武者としての活躍である。政権中枢とは縁が薄かったようであるが、有力一族としての存在感は十分うかがえる。
それともう一つ、前回でも述べたことであるが、古代大伴氏は神代の時代から一貫して大王(天皇)の親衛隊を通してきている。壬申の乱では、時の天皇である天智天皇側には従っておらず、一族のほとんどが飛鳥周辺に残っており、乱が勃発するとその多くが大海人皇子陣営に加わっているのである。
誇り高い古代大伴氏が、単に一族の利害だけで大海人皇子陣営に加わったとは考えづらく、天智天皇あるいは近江王朝からよほど粗略にされたか、大伴氏側が飛鳥に居残った多くの豪族たちと共に、中大兄皇子(天智天皇)を天子として認めていなかった可能性も考えられる。
いずれにしても、時代は天武朝となり落ち着きを見せる。
日本書紀の天武天皇の御代の大伴氏に関する記事も様変わりする。
天武天皇四年三月、大伴連御行(ミユキ)が小錦上・大輔(ショウキンジョウ・タイフ)に任命されている。正五位程度らしい。この人物は、嫡流と考えられる安麻呂の兄であり、大伴氏の「氏上」であったともされるので、この頃の大伴氏の統領的立場であったらしい。
同年七月、小錦上大伴連国麻呂が大使として新羅に派遣されている。
八年六月、大錦上大伴杜屋連が亡くなったと記されている。この人物は他に登場しておらず出自がよく分からないが、やはり中流の貴族程度の立場にあったらしい。
十二年六月、大伴連望多(マクタ・馬来田と同一人物)が亡くなった。「天皇は大いに驚いて、すぐさま泊瀬王(ハツセノオオキミ・出自未詳)を派遣して弔わせ、壬申の年の功績と、先祖たちのその時々の功績を挙げて顕彰して、褒賞が与えられた。そして、大紫位を贈り、鼓を打ち笛を吹いて葬った。」と続けられている。この人物は、吹負(フケイ)の兄で、大海人皇子が吉野脱出と共に従った功臣である。大紫位は正三位にあたり、天皇は最大の弔意を示したと思われる。同時に、生前は四位程度と考えられ、公卿にまでは昇っていなかったようだ。
同年八月には、弟の吹負も亡くなっている。この記事にも、「壬申の年の功績により、大錦中位を贈った」とある。この地位は従四位程度で、生前は五位程度と考えられ、壬申の乱の時、飛鳥の地での活躍を考えると、その評価はあまり高いものではなかったようだ。
十三年二月、「浄広肆(ジョウコウシ・五位程度か?)広瀬王(ヒロセノオオキミ・敏達天皇の孫)・小錦中大伴連安麻呂と判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣わして、都をつくるべき地を視占しめたまふ。」とある。この安麻呂は長徳の子であり旅人の父であるが、大伴氏の嫡流と考えられる人物である。小錦中は正五位下程度にあたると思われるので、中流貴族といった位置にあったようである。
同年十二月、大伴連・佐伯連・・・等々、五十氏に宿禰の姓(カバネ)が与えられた。新しい氏姓制度に移していくためのもので、「連」の多くに「宿禰」が与えられた。五十氏を列記する先頭に大伴氏があるのは、それだけの由緒があると認められていたのかもしれない。
十四年九月に、天皇が博戯(ハクギ・ばくちの一種らしい)をされ、そのメンバーだったらしい十人に御衣袴が下賜された。そのメンバーの中に、宮処王・難波王・武田王などと共に大伴宿禰御行の名前がある。天皇の側近くに伺候していたらしい。
朱鳥元年(天武十五年にあたる)正月、新羅の使者を饗応するために筑紫に遣わされたメンバーの中に大伴宿禰安麻呂の名前がある。冠位は直広参となっているが、制度変更のためのようで、あまり昇進していないようである。
天武天皇は、朱鳥元年(686)九月、波乱の生涯を終える。
殯(モガリ)の庭で各部署の代表者が誄(シノビゴト)を申し述べているが、安麻呂が大蔵の事を誄たてまつっている。
このように、天武天皇の御代においても、大伴氏は、公卿の地位には及ばなかったようであるが、天皇にかなり近い位置に仕えており、朝鮮半島の事にも関係していたようである。しかし、日本書紀に見る限り、軍事部族としての華々しい活躍は見られなかったようである。
天武天皇が崩御すると、すぐに皇后は、「臨朝称制(リンチョウショゥセイ)」された。臨時に政務を執ると宣言されたのであろう。
その機敏な行動を推察するとすれば、第一には、歴代天皇の代替わりの混乱を避けようと考えたと思われる。この時も、壬申の乱で活躍した有力な皇子たちが多くいた。現に、葬送に大津皇子が謀反の疑いで死に追い込まれている。実子の草壁皇子を溺愛する皇后にとって、大津皇子はあまりにも実力が抜きん出ていたのであろう。
しかし、称制を急いだもっと大きな理由は、この王朝の主人公は自分であるべきだと考えていたのではないか、というのが筆者の個人的見解である。そして、実際に強固な王朝が築かれて行ったのである。
持統王朝における日本書紀に記録されている大伴氏の動向を見ると、存在感の変化は天武王朝以上にはっきりとしている。
持統天皇二年八月、「殯宮に嘗(ミケ・新穀)をたてまつり、大伴宿禰安麻呂が誄をたてまつる。」
同年十一月にも、大伴宿禰御行が誄たてまつった、とある。
三年六月、施基以下数人が撰善言司(ヨキコトエラブツカサ・天皇が孫の軽皇子等のための教科書のような物を作る役目か?)に任命されているが、その中に、務大参大伴宿禰手拍(タウチ)の名がある。手拍の出自は不詳であるが、務大参(ムダイサン)というのは、七位程度にあたるので、後世の殿上人には程遠く、重要そうな職務の割には身分は高くなかったようだ。ただこの人物は、後には従四位下まで昇進している。
四年九月と十月に大伴部博麻(オオトモベノハカマ)という人物についてかなりの紙面が割かれている。大伴部というのは、大伴氏の部民という意味であると思われ、古代大伴氏の一族とは別と思われる。ただこの人物は、ある時期愛国心の持ち主として高く評価されたことがあるので、日本書紀の記事を略記しておく。
『 斉明天皇の七年(661)の百済救援の戦役で博麻は捕虜となった。三年後の天智天皇三年、土師連富杼(ハジノムラジホド)ら四人が唐人の計略を報告しようと考えたが、衣服も食料もなく伝えられないことを嘆いていた。その時博麻は、「自分も共に帰国したいが、衣食がなく付いていけない。それゆえ、どうか私の身を売って皆様の衣食の費用にしてください」と富杼等に申し出た。それによって四人は朝廷に報告することが出来た。その後、博麻は奴隷の身となって異国の地で三十年を過ごした。
持統四年九月、博麻は新羅の使者に従って帰国を果たした。
持統天皇は大伴部博麻に詔して、その朝廷を尊び国を愛する心と、身を売ってまで行った忠誠心を誉めて、たいそうな褒賞を与えている。因みに記してみると、「務大肆(七位下程度)を与え、さらに、絁(アシギヌ・粗製の絹布)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を下賜。その水田は曽孫まで伝えよ。三族(ミツノヤカラ・父子孫を指すか?)の課役を免じ、その功績を顕彰する」というものである。それぞれの単位がどの程度なのかなど分からないが、相当例外的なものであったらしい。
五年の正月に、大伴御行宿禰が八十戸の増封があり三百戸となった、という記事がある。
同年八月、十八氏に墓紀の提出が詔されている。祖先の事跡を報告させたもののようで、大伴氏もその中に入っている。
六年四月、大伴宿禰友国に直大弐(ジキダイニ・従四位程度)を追贈し、賻物(フモツ・供え物)を贈った、とある。この人物は、長徳の子らしいが、生前は五位格であったらしい。
七年三月、勤大弐大伴宿禰子君が新羅に派遣される使者の一人として布などを下賜されたとある。この人物の出自は未詳であるが、勤大弐は六位程度である。
同年四月には、大伴男人(オオトモノオヒト)が盗みを働いたという記事がある。位を二階下げて、官職を解任されている。この人物は、大納言にまで昇った大伴馬来田の子らしいが、後に四位まで昇っている人物と同人らしい。そうだとすれば、盗みの罪が晴らされたのか、あるいは父の威光がまだ及んでいたのかもしれない。
八年正月、大伴宿禰御行に正広肆(ショウコウシ)が授けられた。二百戸が増封されて合計で五百戸となる。また、「氏上(ウジノカミ)」に任命されている。正広肆は従三位程度であり、いわゆる公卿にあたる。また、当時の「氏上」がどの程度の権限を有したものかよく分からないが、この頃は御行が大伴氏の統領的な立場であったらしい。十年十月には、資人(ツカイビト・高級官人に与えられる従者。以前の舎人にあたる。)八十人が与えられた。
日本書紀の持統記にある大伴氏の記録は以上である。
持統天皇は、十一年八月に、まだ十五歳の皇太子、軽皇子(カルノミコ・文武天皇)に譲位する。
天武・持統と続く御代は、白鳳時代とも称されるように繁栄を築いていったが、豪族たちの動向から見れば、藤原氏が台頭が著しい時期でもあった。
そうした中で、大伴氏は、御行は大納言まで上っており、また複数の人物が貴族階級として存在感を示していたようである。しかし、日本書紀の記録を見る限り、大陸との交渉には若干の関わりは持っていたようであるが、軍事集団としての活躍はほとんど見えない。
古代大伴氏の活躍の場は変わりつつあったと思われるのである。
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