雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 15 )

2017-12-31 08:39:52 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 15 )

再び栄光の道

本稿の中心資料である日本書紀は、持統天皇が皇太子軽皇子(カルノミコ・文武天皇)に譲位したという記事で終わる。持統十一年(697)のことである。
日本書紀が編纂され上奏されたのは養老四年(720)のことで、元正天皇の御代のことである。元正天皇から見れば、持統天皇は祖母にあたり、数代前までは血族を実感できるような天皇なのである。日本書紀の記事の内容については、その辺りのことは考慮すべきであることは当然といえよう。

さて、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の忘れ形見である軽皇子に譲位した頃、大伴氏の統領的立場にあったのは、大伴御行(オオトモノミユキ)であった。
御行は大伴氏の嫡流と考えられる長徳(ナガトコ)の子であるが、持統天皇の御代で昇進を続け、高市皇子、多治比嶋などに次ぐ地位にあった。壬申の乱では馬来田・吹負ら一族と共に大海人皇子(天武天皇)方として戦ったらしく、昇進も武人としての器量を認められたものと推定できる。しかし、この人物には、「竹取物語」のモデルになっているという一面もある。
「竹取物語」は、ご存知のように、かぐや姫が登場する物語であるが、平安時代初期に成立したとされる古典文学上重要な位置を占めている作品であるが、その中に、「かぐや姫に想いを寄せる男たちは数知れずいたが、やがて五人の公達が残った。かぐや姫は、その五人に難問を突き付けて果たした人の妻になると申し出た・・・」。ざっと、このような部分がありますが、この五人の中の一人に、「大納言大伴のみゆき」として登場しているのである。
因みに、かぐや姫が大納言大伴みゆきに出した課題は、「龍の首の珠」を持ってくることであったが、残念ながら果たすことは出来なかった。もし、求めることが出来ていて、かぐや姫を妻に迎えることが出来ていれば、大伴氏の歴史は大きく変わっていたのではないかなどと考えてしまうのである。
少々余談が過ぎたが、つまり、この頃の大伴氏の統領は、世間的には、軍事一族というよりも、華やかな高級貴族としての地位にあったということかもしれない。

御行は、大宝元年(701)一月に死去した。享年は五十六歳位と考えられている。
この時、天皇(文武)は藤原不比等らを御行邸に遣わして右大臣を贈っている。朝廷内で重要な地位を占めていたことと、この頃は、十三歳ほど年下の不比等とは、対等以上の力関係にあったと推定される。
御行が死去した後は、安麻呂(ヤスマロ・長徳の六男らしく、御行の異母弟と考えられる)が大伴氏の統領としての地位を引き継いだ。
安麻呂は、壬申の乱においては、飛鳥の地で活躍した吹負の下で戦っていたようであるが、その後、順調に昇進していたようで、御行の死去間もない三月には従三位に昇り、翌年には参議となり、政権の中枢に加わっている。
その後、大納言兼大将軍となり、三年ばかりの間は太宰帥も兼務している。軍事豪族として、また朝鮮半島諸国との関係でも重きをなしていたらしい。
これらを勘案すると、御行と安麻呂の時代は大伴氏の地位は何の揺るぎもないかに見えるが、歴史の流れを見ると、この時期こそは、藤原不比等が権力基盤を固めた時期に重なるのである。つまり、大伴氏の地位は不動に見えながらも藤原氏という大きな勢力に飲み込まれつつあったのである。そして、それは、呑み込まれるという現象ではなく、なお武人として名高い大伴氏は、藤原氏にとって危険な存在として映っていたのである。

安麻呂は、和銅七年(714)五月、大納言兼大将軍として世を去った。元明天皇はその死を深く悼み、鈴鹿王らを遣わして従二位を贈った。大伴氏の存在感が決して小さいものではなかったことが分かる。
その一方で、藤原不比等はすでに右大臣として政権の頂点にあり、藤原四兄弟として名高いその子息たちは、すでに成人していて、まだ中枢には至っていなかったが、それぞれ五位前後の地位を占めていて、盤石の布陣が出来上がりつつあった。

安麻呂の死後、大伴氏の統領的立場を引き継いだのは、安麻呂の長男・旅人であった。
この時、旅人は五十歳であった。和銅三年(710)正月には元明天皇の朝賀に際して左将軍として騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した、という記録が残されているので、すでに武人としては第一人者であったと考えられるが、冠位は従四位程度と公卿には程遠い地位であった。
しかし、その後は順調に昇進し、養老二年(718)には中納言に昇り、養老四年三月には隼人の反乱に際しては、征隼人持節大将軍に任命されている。
このように九州での戦闘が行われている最中に、藤原不比等が死去した。同年八月のことである。そして、十月に行われた不比等の葬儀には、旅人は使者として遣わされている。このことから、藤原不比等と大伴氏の関係は悪くなく、むしろ旅人などは不比等の支援を受けていたのかもしれない。

旅人は、歴代大伴氏の嫡流がそうであったように天皇に忠誠を誓う人物であったことは確かだと思われる。
元正天皇の忠節な臣下であったが、同時に長屋王は直接的な上司といった関係であったらしい。
「長屋王の変」と呼ばれる政争は、この時代の大事件であり、長屋王邸跡から大量の木簡が発見されたこともあって、長屋王をめぐる思惑は、歴史フアンにとってとても興味深いが、本稿では割愛することになるが、少しばかり触れておこう。
長屋王は、天武天皇の長男である高市皇子の嫡子である。この高市皇子という人物は、天武天皇の後を継いだ持統天皇朝においては、太政大臣として臣下の最高位に立ち絶大な権力を有していたと考えられている。
さらに、長屋王邸から発見された木簡の中には、「長屋親王」と記された物があり、日本霊異記にも同様の表記がある。つまり、もし「長屋親王」という表記が正しいとすれば、それは高市皇子が即位して天皇であったということになるのである。実際に、少数派ではあるが「長屋天皇」節は根強く息づいている。
その真否はともかく、長屋王が莫大な資産と人脈を引き継いでいたことは間違いなく、長屋王を天皇家の有力後継者と考える皇族や豪族たちも少なくなく、旅人もその一人だったのかもしれない。
そして、そのことが、長屋王の悲劇を産み、大伴氏の悲哀を加速させたのかもしれない。

当時の政権の頂点にあった藤原不比等は、天皇家に藤原氏の娘を入内させることに奔走していたが、長屋王にも自分の娘を嫁がせている。長屋王を天皇家の有力後継者と考えていたか否かはともかく、不比等は長屋王の存在を重視していたし、不比等によって、元正天皇を支える勢力と長屋王を担おうとする勢力の間の対立を押さえていたのかもしれない。
そうした状況の中で、稀代の英雄藤原不比等は没する。養老四年(720)八月のことである。
不比等という重石が取れると、権力基盤を強めてきている藤原四兄弟を中心とした聖武天皇を支える勢力にとって、長屋王は目障りな存在に見えたことは想像に難くない。
結局、長屋王一族は、神亀六年(729)二月、舎人親王や藤原宇合らの軍勢に屋敷を包囲され、謀反の罪で自害に追い込まれるのである。
この時、旅人は太宰の帥として九州の地に在った。前年に赴任したらしいが、二度目の拝命であり、九州防備が重要な時期ではあったが、藤原四兄弟らにより左遷に近い人事であったと考えられる。
長屋王は、身の危険が切迫するにつけ旅人の帰京を促したようであるが、九州防備のためか、藤原氏の立ち位置を考慮した面もあってか、動くことはなかった。おそらく藤原四兄弟側からの圧迫も強かったものと想像されるが、大伴氏の軍事力は両陣営から重視されていたようだ。

旅人は、長屋王の変の鎮静を待って、帰京を願ったようだ。頼ったのは、おそらく、長屋王討伐に積極的に加わらなかったらしい藤原房前である可能性が高い。
この時点の太政官の最高位は舎人親王であったが、高官が相次ぎ没しており、旅人はこれに次ぐ地位に押し上げられたようである。翌年十一月には大納言に任じられ、待望の帰京を果たした。
翌年、天平三年(731)正月に従二位に昇進するが、七月に急死する。享年は六十七歳であり、当時としては長命といえ、病死とされているのは自然に思われる。しかし、急死であったともいわれることや、保持する強大な軍事力や、長屋王と極めて近かったなど微妙な立ち位置等を考え合わせると、筆者には不自然な死のようにも感じられるのである。

旅人が死去した天平三年は、聖武天皇が即位して七年が経っており、政権は安定しつつあった。聖武天皇の御代についても、様々な説があるようではあるが、その御代は二十六年間に及び、いわゆる天平文化が花開いた時期である。
武人・大伴旅人の死去は、軍事一族古代大伴氏の終焉を示唆する出来事だったのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆









コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史散策  古代大伴氏の栄... | トップ | 歴史散策  古代大伴氏の栄... »

コメントを投稿

歴史散策」カテゴリの最新記事