歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 13 )
再び軍事の大伴として
大化五年四月、孝徳天皇の御代であるが、大伴長徳連(オオトモノナガトコムラジ)が小紫(ショウシ)から大紫に昇進して、右大臣に任じられた。この大紫という冠位であるが、平安時代の頃のものと単純に比較できないが、おそらく正三位程度と考えられ、政権中枢に極めて近い位置にあったと考えられる。
しかし、この後、大伴氏に関する記録は、日本書紀からしばらくの間絶える。
孝徳天皇はこの五年後に在位十年にして崩御する。
孝徳天皇は、父母を同じくする姉である皇極天皇から譲位されたが、即位にあたっては歴代天皇の継承にみられるように、少なからぬ軋轢があったようである。そのことが関係していたのかどうかは断言できないが、先帝と皇太子(中大兄皇子。両親は舒明天皇と皇極天皇。)に、苛め抜かれるような中で崩御しているのである。
この後は、皇極天皇が重祚して斉明天皇の御代となる。斉明天皇は在位六年余で崩御する。
この後は、皇太子であった中大兄皇子が即位するのが自然と思われるが、「皇太子、素服して称制したまふ。」と記録されている。「称制」というのは、「天子の後継者が即位の式を挙げずに政務を執ること」であるが、おそらく、斉明天皇の頃から政務の実権者であったと推定されるので、その形を継承したらしい。
ただ、称制の期間が七年近くに及んでいるのは、他にも原因があったのではないかと疑念が浮かぶ。即位の前年には、多くの反対を押し切って近江に都を移しており、いわゆるヤマト王権の地では即位の式典を挙げることが出来なかったのではないだろうか。まったく筆者個人の推測であるが。
一般的には、この期間は朝鮮半島との軋轢が激しいことから、それを原因とするようであるが、中大兄皇子という人物には、「山背大兄王一族の謀殺」「蘇我入鹿の暗殺」「有間皇子の悲劇」等に代表されるような、残酷な謀略が多すぎるように思われる。とても、飛鳥・大和の地で即位など困難だったのではないだろうか。
それはさておき、斉明天皇・称制期間も含めた天智天皇の御代には、大伴氏は、少なくとも日本書紀には全く登場していない。朝鮮半島諸国との緊張している時に、これら諸国との交渉や戦いに最も優れていると考えられる大伴氏の記録がないのは不思議ともいえる。
これも全く個人的な推定であるが、一つには、天皇家の親衛隊的な軍事集団である大伴氏は、苦境にある孝徳天皇の支援をしたために、斉明天皇・天智天皇の時代には遠ざけられたのではないかということである。もう一つは、律令国家を目指す形態の一つとして、軍事力の国家管理が進められていたのかもしれない。そのことが、大伴氏に代表されるような軍事集団が軽視された可能性もある。さらに言えば、半島諸国との戦いの苦戦の原因にわが国の軍事体制の変化もあったのかもしれないと、これも個人的な憶測であるが。
六年半に及ぶ称制の後に、中大兄皇子は天智天皇として即位する。その正式な在位期間は僅か四年で、崩御する。その晩年は、当時の常識としては、生母の出自からしてとても皇位など望めないはずの我が子大友皇子を後継者にすることであった。最後の策謀であったのかもしれない。
かねて後継者と目されていた皇太子的な立場にあった同母弟とされる大海人皇子(オオシアマノミコ/オオアマノミコ)は、身の危険を察して吉野に脱出する。
そして、天智天皇が没すると、近江朝廷と吉野の大海人皇子陣営との動きは激しくなる。日本書紀では、近江朝廷の重臣たちが大海人皇子を殺そうとしているとの情報を得て、吉野を脱出したことになっているが、その後の戦況や両陣営の動きを見ると、大海人皇子陣営の対処の適確さが際立っている。両者の実力差というより、準備の差と思われる。
いずれにしても、吉野に脱出していた大海人皇子と天智天皇の後継者大友皇子との間で戦闘が勃発する。壬申の乱と呼ばれる古代最大の内乱である。
壬申の乱については、多くの研究書があり様々な意見が紹介されている。この時代を語る上で重要な出来事であるが、本稿では割愛する。
なお、大友皇子については、現在は第三十九代弘文天皇として公認されている形であるが、弘文天皇という名前が登場するのは明治時代に入ってからのことで、筆者個人としては、正式な即位はなかったと考えている。
さて、本稿の主題である大伴氏の動向であるが、壬申の乱の前後にどのような立場にあったのか、日本書紀の記録を追ってみよう。
天武天皇元年(672)六月、大海人皇子は慌ただしく東国に向かった。御輿の用意が間に合わず、徒歩であったという。この時最初から従っていた者として、草壁皇子・忍壁皇子と舎人など二十人余り、女官など十余人であった。そして、その中に大伴連友国(オオトモノムラジトモクニ)の名前がある。
大海人皇子一行は、その日のうちに菟田(ウダ・宇陀郡)に着いたが、そこへ遅れて吉野から追って来た者の中に大伴連馬来田(マクタ)がいる。さらに、進軍途中では猟師二十余人が兵士として加わったが、その首領は大伴朴本連大国(オオトモノエノモトノムラジオオクニ)といった。
大海人皇子の動きを知った近江朝廷側も、各国の諸王や豪族たちへの働き掛けを強めた。
当然吉野や飛鳥の地においても同様の動きがあったが、大伴連馬来田と弟の吹負(フケイ)は飛鳥の地に在ったが、次の天子は大海人皇子であるべきと思って、病と称して倭の家(大和盆地の南部らしい)に退出した。そして、まず馬来田は大海人皇子一行の後を追って加わり、吹負はその地に留まって、一族や豪の者たちを集めた。その数は数十人程度であった。
伊勢国の北端にあたる桑名郡家(クワナノコオリノミヤケ・桑名郡の官庁)に入っていた大海人皇子の元に高市皇子(タケチノミコ・大海人皇子の子。全軍の大将格。)の進言を受けて、不破に向かった。この時、妃(後の皇后。持統天皇。)はこの地に残った。
大海人皇子が不破の郡家に着く頃には、尾張の国司が二万の軍兵を率いて帰順してきた。
東国での募兵は順調に進み、近江侵攻が始まる。
一方、飛鳥においては、大海人皇子の東国に向かった後、近江朝廷方はこの地の掌握、武器の獲得を図っていた。都は近江に移ったとはいえ、飛鳥の地は重要な地であった。
この近江朝廷方の動きに立ちはだかったのが大伴連吹負であった。倭京の留守官である坂上直熊毛(サカノウエノクマケ)と密かに相談し、数人の漢直を味方にするなどして奮闘している。高市皇子が大軍を率いてきたなどの風評を流すなど際どい戦いにより勝利する。その結果を、大伴連安麻呂らを不破宮に派遣して報告させた。大海人皇子は大変喜び、吹負を将軍に任命した。
吹負は、飛鳥をほぼ掌握する活躍を見せたが、その後攻勢に出て来た近江朝廷軍に乃楽山(ナラヤマ・大和国と山城国の国境にある)において大敗してしまう。吹負は伊賀あたりまでも敗走するが、幸運にも大海人皇子方からの増援軍が到着し、反転攻勢し、飛鳥の地を押さえることに成功するのである。吹負の軍勢は、当初は数十騎と記されていることから、その後勢力を拡大したとしても、近江にまで進軍するほどの力はなかったと考えられる。それでも、援軍を受けた上だとしても飛鳥掌握の殊勲者と言えよう。
一方、主戦場である近江での戦いは、兵力に大きな差もあって大海人皇子軍の大勝利で終わる。
壬申の乱の萌芽は、大海人皇子が近江宮を去った時にあったと考えられるが、実際の戦いは、大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大友皇子が自決に追い込まれたのが七月二十三日のことである。古代最大の戦いと言われるが、その戦いの期間は一か月に過ぎないのである。
また、戦後の処理についても、日本書紀には、八月二十五日に重罪八人を極刑に処したと記されているが、実際に斬罪となったのは、右大臣中臣連金だけのようで、左大臣蘇我臣赤兄は流罪とされている。その他にも流罪となったものは多くあったようだが、大納言であった紀臣大人(きのおみうし)などは天武王朝においても大納言に就いているようである。
その一方で、二万の軍兵を率いて参陣したとされる尾張国司は最高の武勲者と考えられるが、山に隠れて自殺している。本当は近江朝廷方だったのかもしれない。
壬申の乱に関する新資料が今後発見される可能性は極めて低いと考えられ、様々展開されるこの争乱の解釈は、ごく限られた資料の解釈の仕方の違いだけだと思われる。筆者としては、この争乱が、この時代に大きな転機をもたらしたことは確かであろうが、全国土を二分しての覇権争いといったものなどではなかったと考えている。
そうした争乱の中で、あちらこちらで大伴氏の名前が出てくる。いずれも政権の中枢ではなかったが、有力武者としての存在感は示されていたことが窺える。
そして、日本書紀の記録から知ることが出来ることは、古来、天皇の親衛的な軍事一族であるはずの大伴氏は、壬申の乱においては、近江朝廷方には属しておらず、そのほとんどが飛鳥周辺にいたらしく、争乱勃発後は大海人皇子陣営に加わっていることである。
そしてもう一つは、日本書紀の記事には大伴氏の名前が再三出てきているが、大伴朴本連大国などは猟師の首領として紹介されているが、やはり大伴氏の一族らしい。また、大伴氏の嫡流は、「金村ー(阿被比古)ー咋子ー長徳ー安摩呂ー旅人ー家持」というのがほぼ定説と考えられるが、壬申の乱に登場してくる人物は多彩である。記事の中には、吹負が本家筋である安麻呂に命令しているような記述もある。つまり、この頃の大伴氏は、嫡流家を統領とした一枚岩の軍団ではなかったらしい。
おそらくそれが、古代大伴氏が没落に向かう一因と考えられるが、避けることの出来ない歴史の流れというものなのかもしれない。
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古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 13 )
再び軍事の大伴として
大化五年四月、孝徳天皇の御代であるが、大伴長徳連(オオトモノナガトコムラジ)が小紫(ショウシ)から大紫に昇進して、右大臣に任じられた。この大紫という冠位であるが、平安時代の頃のものと単純に比較できないが、おそらく正三位程度と考えられ、政権中枢に極めて近い位置にあったと考えられる。
しかし、この後、大伴氏に関する記録は、日本書紀からしばらくの間絶える。
孝徳天皇はこの五年後に在位十年にして崩御する。
孝徳天皇は、父母を同じくする姉である皇極天皇から譲位されたが、即位にあたっては歴代天皇の継承にみられるように、少なからぬ軋轢があったようである。そのことが関係していたのかどうかは断言できないが、先帝と皇太子(中大兄皇子。両親は舒明天皇と皇極天皇。)に、苛め抜かれるような中で崩御しているのである。
この後は、皇極天皇が重祚して斉明天皇の御代となる。斉明天皇は在位六年余で崩御する。
この後は、皇太子であった中大兄皇子が即位するのが自然と思われるが、「皇太子、素服して称制したまふ。」と記録されている。「称制」というのは、「天子の後継者が即位の式を挙げずに政務を執ること」であるが、おそらく、斉明天皇の頃から政務の実権者であったと推定されるので、その形を継承したらしい。
ただ、称制の期間が七年近くに及んでいるのは、他にも原因があったのではないかと疑念が浮かぶ。即位の前年には、多くの反対を押し切って近江に都を移しており、いわゆるヤマト王権の地では即位の式典を挙げることが出来なかったのではないだろうか。まったく筆者個人の推測であるが。
一般的には、この期間は朝鮮半島との軋轢が激しいことから、それを原因とするようであるが、中大兄皇子という人物には、「山背大兄王一族の謀殺」「蘇我入鹿の暗殺」「有間皇子の悲劇」等に代表されるような、残酷な謀略が多すぎるように思われる。とても、飛鳥・大和の地で即位など困難だったのではないだろうか。
それはさておき、斉明天皇・称制期間も含めた天智天皇の御代には、大伴氏は、少なくとも日本書紀には全く登場していない。朝鮮半島諸国との緊張している時に、これら諸国との交渉や戦いに最も優れていると考えられる大伴氏の記録がないのは不思議ともいえる。
これも全く個人的な推定であるが、一つには、天皇家の親衛隊的な軍事集団である大伴氏は、苦境にある孝徳天皇の支援をしたために、斉明天皇・天智天皇の時代には遠ざけられたのではないかということである。もう一つは、律令国家を目指す形態の一つとして、軍事力の国家管理が進められていたのかもしれない。そのことが、大伴氏に代表されるような軍事集団が軽視された可能性もある。さらに言えば、半島諸国との戦いの苦戦の原因にわが国の軍事体制の変化もあったのかもしれないと、これも個人的な憶測であるが。
六年半に及ぶ称制の後に、中大兄皇子は天智天皇として即位する。その正式な在位期間は僅か四年で、崩御する。その晩年は、当時の常識としては、生母の出自からしてとても皇位など望めないはずの我が子大友皇子を後継者にすることであった。最後の策謀であったのかもしれない。
かねて後継者と目されていた皇太子的な立場にあった同母弟とされる大海人皇子(オオシアマノミコ/オオアマノミコ)は、身の危険を察して吉野に脱出する。
そして、天智天皇が没すると、近江朝廷と吉野の大海人皇子陣営との動きは激しくなる。日本書紀では、近江朝廷の重臣たちが大海人皇子を殺そうとしているとの情報を得て、吉野を脱出したことになっているが、その後の戦況や両陣営の動きを見ると、大海人皇子陣営の対処の適確さが際立っている。両者の実力差というより、準備の差と思われる。
いずれにしても、吉野に脱出していた大海人皇子と天智天皇の後継者大友皇子との間で戦闘が勃発する。壬申の乱と呼ばれる古代最大の内乱である。
壬申の乱については、多くの研究書があり様々な意見が紹介されている。この時代を語る上で重要な出来事であるが、本稿では割愛する。
なお、大友皇子については、現在は第三十九代弘文天皇として公認されている形であるが、弘文天皇という名前が登場するのは明治時代に入ってからのことで、筆者個人としては、正式な即位はなかったと考えている。
さて、本稿の主題である大伴氏の動向であるが、壬申の乱の前後にどのような立場にあったのか、日本書紀の記録を追ってみよう。
天武天皇元年(672)六月、大海人皇子は慌ただしく東国に向かった。御輿の用意が間に合わず、徒歩であったという。この時最初から従っていた者として、草壁皇子・忍壁皇子と舎人など二十人余り、女官など十余人であった。そして、その中に大伴連友国(オオトモノムラジトモクニ)の名前がある。
大海人皇子一行は、その日のうちに菟田(ウダ・宇陀郡)に着いたが、そこへ遅れて吉野から追って来た者の中に大伴連馬来田(マクタ)がいる。さらに、進軍途中では猟師二十余人が兵士として加わったが、その首領は大伴朴本連大国(オオトモノエノモトノムラジオオクニ)といった。
大海人皇子の動きを知った近江朝廷側も、各国の諸王や豪族たちへの働き掛けを強めた。
当然吉野や飛鳥の地においても同様の動きがあったが、大伴連馬来田と弟の吹負(フケイ)は飛鳥の地に在ったが、次の天子は大海人皇子であるべきと思って、病と称して倭の家(大和盆地の南部らしい)に退出した。そして、まず馬来田は大海人皇子一行の後を追って加わり、吹負はその地に留まって、一族や豪の者たちを集めた。その数は数十人程度であった。
伊勢国の北端にあたる桑名郡家(クワナノコオリノミヤケ・桑名郡の官庁)に入っていた大海人皇子の元に高市皇子(タケチノミコ・大海人皇子の子。全軍の大将格。)の進言を受けて、不破に向かった。この時、妃(後の皇后。持統天皇。)はこの地に残った。
大海人皇子が不破の郡家に着く頃には、尾張の国司が二万の軍兵を率いて帰順してきた。
東国での募兵は順調に進み、近江侵攻が始まる。
一方、飛鳥においては、大海人皇子の東国に向かった後、近江朝廷方はこの地の掌握、武器の獲得を図っていた。都は近江に移ったとはいえ、飛鳥の地は重要な地であった。
この近江朝廷方の動きに立ちはだかったのが大伴連吹負であった。倭京の留守官である坂上直熊毛(サカノウエノクマケ)と密かに相談し、数人の漢直を味方にするなどして奮闘している。高市皇子が大軍を率いてきたなどの風評を流すなど際どい戦いにより勝利する。その結果を、大伴連安麻呂らを不破宮に派遣して報告させた。大海人皇子は大変喜び、吹負を将軍に任命した。
吹負は、飛鳥をほぼ掌握する活躍を見せたが、その後攻勢に出て来た近江朝廷軍に乃楽山(ナラヤマ・大和国と山城国の国境にある)において大敗してしまう。吹負は伊賀あたりまでも敗走するが、幸運にも大海人皇子方からの増援軍が到着し、反転攻勢し、飛鳥の地を押さえることに成功するのである。吹負の軍勢は、当初は数十騎と記されていることから、その後勢力を拡大したとしても、近江にまで進軍するほどの力はなかったと考えられる。それでも、援軍を受けた上だとしても飛鳥掌握の殊勲者と言えよう。
一方、主戦場である近江での戦いは、兵力に大きな差もあって大海人皇子軍の大勝利で終わる。
壬申の乱の萌芽は、大海人皇子が近江宮を去った時にあったと考えられるが、実際の戦いは、大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大友皇子が自決に追い込まれたのが七月二十三日のことである。古代最大の戦いと言われるが、その戦いの期間は一か月に過ぎないのである。
また、戦後の処理についても、日本書紀には、八月二十五日に重罪八人を極刑に処したと記されているが、実際に斬罪となったのは、右大臣中臣連金だけのようで、左大臣蘇我臣赤兄は流罪とされている。その他にも流罪となったものは多くあったようだが、大納言であった紀臣大人(きのおみうし)などは天武王朝においても大納言に就いているようである。
その一方で、二万の軍兵を率いて参陣したとされる尾張国司は最高の武勲者と考えられるが、山に隠れて自殺している。本当は近江朝廷方だったのかもしれない。
壬申の乱に関する新資料が今後発見される可能性は極めて低いと考えられ、様々展開されるこの争乱の解釈は、ごく限られた資料の解釈の仕方の違いだけだと思われる。筆者としては、この争乱が、この時代に大きな転機をもたらしたことは確かであろうが、全国土を二分しての覇権争いといったものなどではなかったと考えている。
そうした争乱の中で、あちらこちらで大伴氏の名前が出てくる。いずれも政権の中枢ではなかったが、有力武者としての存在感は示されていたことが窺える。
そして、日本書紀の記録から知ることが出来ることは、古来、天皇の親衛的な軍事一族であるはずの大伴氏は、壬申の乱においては、近江朝廷方には属しておらず、そのほとんどが飛鳥周辺にいたらしく、争乱勃発後は大海人皇子陣営に加わっていることである。
そしてもう一つは、日本書紀の記事には大伴氏の名前が再三出てきているが、大伴朴本連大国などは猟師の首領として紹介されているが、やはり大伴氏の一族らしい。また、大伴氏の嫡流は、「金村ー(阿被比古)ー咋子ー長徳ー安摩呂ー旅人ー家持」というのがほぼ定説と考えられるが、壬申の乱に登場してくる人物は多彩である。記事の中には、吹負が本家筋である安麻呂に命令しているような記述もある。つまり、この頃の大伴氏は、嫡流家を統領とした一枚岩の軍団ではなかったらしい。
おそらくそれが、古代大伴氏が没落に向かう一因と考えられるが、避けることの出来ない歴史の流れというものなのかもしれない。
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