歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 16 )
海行かば 水漬く屍
『 海行かば 水漬く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生す屍(クサムスカバネ)
大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ かへり見は せじ・・・ 』
これは、万葉集の巻十八の中に載せられている大伴家持の長歌の一部である。
この歌には、「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首また短歌」といった添書があり、長歌一首と短歌三首が載せられている。
陸奥国から初めて黄金が朝廷に献上されたのは、天平二十一年(749)二月の事であるが、大仏建立を進めていた聖武天皇は大変喜び、その恵みを祖先から贈られたものとし、改めて群臣たちに忠誠を誓うよう詔書を発布した。この時、家持は越中守として赴任地にあったが、詔書に応えたのがこれらの歌である。家持三十二歳の頃と考えられるが、この時に従五位上に昇進し、越中守という地位も歴としたものではあるが、名門大伴氏の統領としては忸怩(ジクジ)たる思いを抱いていたのかもしれない。この歌には、遥かな昔から大王(天皇)の側近くで仕えてきた武人としての祖先の誇りを絶唱したように感じられる。
家持は、この二年後、少納言として帰京を果たした。
その後、兵部少輔、山陰道巡察使、兵部大輔、因幡守、薩摩守、そして太宰少弐などを歴任し、ようやく公卿とされる参議に辿り着いたのは、宝亀十一年(780)のことである。家持は六十三歳になっていた。
家持は大伴旅人の嫡男として誕生した。旅人は武勇に優れ、時の有力者長屋王の信頼も大きかった。それだけに、本人の意思にかかわらず政争に巻き込まれたようである。
母は丹比郎女(タジヒノイラツメ)。丹比(多治比とも)氏は、第二十八代宣化天皇の三世孫である多治比古王を始祖とする一族で大納言等を輩出した有力貴族であった。しかし、家持と同じように、幾つかの事変に巻き込まれ一族は没落していった。
家持は、その母と十一歳の頃に死別し、父旅人も十四歳の頃に没している。その後は、大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)に養育され、後見されたようである。
坂上郎女は、大伴安麻呂の娘であるので、旅人の異母妹であり、家持からすれば、叔母であり姑にあたる。
坂上郎女は、十三歳の頃に天武天皇の皇子穂積親王に嫁ぐが死別する。その後は命婦として宮廷に仕えたらしく、その時に首皇子(聖武天皇)と親交があったらしい。その後に藤原麻呂と親密になるも死別と不運が続く。
やがて、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり二人の娘を儲けたが宿奈麻呂にも先立たれた。この娘の一人が家持の妻になっている。それからどのくらい後のことか、任地の大宰府で妻を亡くした旅人のもとに赴き、家事を取り仕切り家持らを養育した。
父を亡くした家持は、旅人が長屋王と親しかったこともあり、朝廷を掌握しつつある藤原氏にとって、好ましい人物ではなかったようだ。その家持が、何とか朝廷で身を立てることが出来るようになった陰には、坂上郎女の人脈が働いていたと想像される。
そして、遅々としながらも貴族としての道を歩み始めた家持であったが、藤原氏の家持を見る目は厳しかったようで、藤原仲麻呂の暗殺を謀った橘奈良麻呂の変では、家持自身の関与はなかったものの一族からは処罰される者があり、因幡守への転出は左遷であった可能性がある。
やがて、遅れながらも参議となり、三年後の延暦二年(783)七月には中納言に昇った。翌年二月には、時節征東将軍に任命されているが、これが散りゆく古代大伴氏の武勇を称えるはなむけだったのかもしれない。
その翌年の延暦四年(785)八月二十八日に家持は逝去する。享年六十八歳であった。
しかし、家持の波乱の生涯は死によって終わらなかった。
死去の翌月の九月二十三日、長岡京造営の責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が発生した。平城京からの遷都は桓武天皇の悲願であっただけに大事件となった。
暗殺の実行者は大伴竹良とされ、大伴氏の一族を中心として多くの関与者が逮捕され、十数人が処刑され、連座となった者も大勢流罪となった。そして、首謀者は大伴家持だとなり、死去していたが見逃されることなく、除名となり生前の冠位は剥奪された。
さらに、桓武天皇の皇太弟であった早良親王が関与したとされ廃嫡となり、無実を訴える親王は絶食し、淡路に配流される途中で憤死している。その後早良親王は怨霊となり桓武天皇を悩ませることになる。
この事件のすべてが画策されたものとは思われないが、いくら怨霊に悩まされたとしても、事件から十五年後には早良親王には崇道天皇の追称が与えられ、大伴家持なども二十一年後に名誉が復されている。かなり、政治的な作為が加わった事件であったように思われる。
家持が没して三十八年後の弘仁十四年(823)に、淳和天皇(大伴親王)が即位すると、その諱(イミナ・貴人の実名)を憚って、大伴氏一族は「伴氏」と氏を改めた。氏名の面からも、古代大伴氏は姿を消すことになるのである。
この後も、応天門放火事件の首謀者とされる伴善男が大納言になるなど公卿や貴族を輩出しているが、古代大伴氏の栄光を引き継いだものとは考えづらい。
本稿は、古代大伴氏の軍事一族としての圧倒的な存在と、国家の近代化とともに没落していく悲哀の一端を描こうとしたものであるが、終わるにあたって考えてみれば、私たちが日本書紀などを通して知ることの出来る時代の大伴氏は、武弁のみで生き抜くことの困難な悲哀の連続であったのかもしれないと思うのである。
『 海行かば 水漬く屍 山行けば 草生す屍 ・・・ 』という家持の絶唱にあるように、天孫降臨に始まる、あるいはそれより前の時代も含めた数百年数千年に渡って大王(天皇)の側近くで、身を呈して戦い続けた時代こそが、古代大伴氏の真の栄光の時であったのかも知れないと想いを廻らすのである。
( 完 )
☆ ☆ ☆
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 16 )
海行かば 水漬く屍
『 海行かば 水漬く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生す屍(クサムスカバネ)
大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ かへり見は せじ・・・ 』
これは、万葉集の巻十八の中に載せられている大伴家持の長歌の一部である。
この歌には、「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首また短歌」といった添書があり、長歌一首と短歌三首が載せられている。
陸奥国から初めて黄金が朝廷に献上されたのは、天平二十一年(749)二月の事であるが、大仏建立を進めていた聖武天皇は大変喜び、その恵みを祖先から贈られたものとし、改めて群臣たちに忠誠を誓うよう詔書を発布した。この時、家持は越中守として赴任地にあったが、詔書に応えたのがこれらの歌である。家持三十二歳の頃と考えられるが、この時に従五位上に昇進し、越中守という地位も歴としたものではあるが、名門大伴氏の統領としては忸怩(ジクジ)たる思いを抱いていたのかもしれない。この歌には、遥かな昔から大王(天皇)の側近くで仕えてきた武人としての祖先の誇りを絶唱したように感じられる。
家持は、この二年後、少納言として帰京を果たした。
その後、兵部少輔、山陰道巡察使、兵部大輔、因幡守、薩摩守、そして太宰少弐などを歴任し、ようやく公卿とされる参議に辿り着いたのは、宝亀十一年(780)のことである。家持は六十三歳になっていた。
家持は大伴旅人の嫡男として誕生した。旅人は武勇に優れ、時の有力者長屋王の信頼も大きかった。それだけに、本人の意思にかかわらず政争に巻き込まれたようである。
母は丹比郎女(タジヒノイラツメ)。丹比(多治比とも)氏は、第二十八代宣化天皇の三世孫である多治比古王を始祖とする一族で大納言等を輩出した有力貴族であった。しかし、家持と同じように、幾つかの事変に巻き込まれ一族は没落していった。
家持は、その母と十一歳の頃に死別し、父旅人も十四歳の頃に没している。その後は、大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)に養育され、後見されたようである。
坂上郎女は、大伴安麻呂の娘であるので、旅人の異母妹であり、家持からすれば、叔母であり姑にあたる。
坂上郎女は、十三歳の頃に天武天皇の皇子穂積親王に嫁ぐが死別する。その後は命婦として宮廷に仕えたらしく、その時に首皇子(聖武天皇)と親交があったらしい。その後に藤原麻呂と親密になるも死別と不運が続く。
やがて、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり二人の娘を儲けたが宿奈麻呂にも先立たれた。この娘の一人が家持の妻になっている。それからどのくらい後のことか、任地の大宰府で妻を亡くした旅人のもとに赴き、家事を取り仕切り家持らを養育した。
父を亡くした家持は、旅人が長屋王と親しかったこともあり、朝廷を掌握しつつある藤原氏にとって、好ましい人物ではなかったようだ。その家持が、何とか朝廷で身を立てることが出来るようになった陰には、坂上郎女の人脈が働いていたと想像される。
そして、遅々としながらも貴族としての道を歩み始めた家持であったが、藤原氏の家持を見る目は厳しかったようで、藤原仲麻呂の暗殺を謀った橘奈良麻呂の変では、家持自身の関与はなかったものの一族からは処罰される者があり、因幡守への転出は左遷であった可能性がある。
やがて、遅れながらも参議となり、三年後の延暦二年(783)七月には中納言に昇った。翌年二月には、時節征東将軍に任命されているが、これが散りゆく古代大伴氏の武勇を称えるはなむけだったのかもしれない。
その翌年の延暦四年(785)八月二十八日に家持は逝去する。享年六十八歳であった。
しかし、家持の波乱の生涯は死によって終わらなかった。
死去の翌月の九月二十三日、長岡京造営の責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が発生した。平城京からの遷都は桓武天皇の悲願であっただけに大事件となった。
暗殺の実行者は大伴竹良とされ、大伴氏の一族を中心として多くの関与者が逮捕され、十数人が処刑され、連座となった者も大勢流罪となった。そして、首謀者は大伴家持だとなり、死去していたが見逃されることなく、除名となり生前の冠位は剥奪された。
さらに、桓武天皇の皇太弟であった早良親王が関与したとされ廃嫡となり、無実を訴える親王は絶食し、淡路に配流される途中で憤死している。その後早良親王は怨霊となり桓武天皇を悩ませることになる。
この事件のすべてが画策されたものとは思われないが、いくら怨霊に悩まされたとしても、事件から十五年後には早良親王には崇道天皇の追称が与えられ、大伴家持なども二十一年後に名誉が復されている。かなり、政治的な作為が加わった事件であったように思われる。
家持が没して三十八年後の弘仁十四年(823)に、淳和天皇(大伴親王)が即位すると、その諱(イミナ・貴人の実名)を憚って、大伴氏一族は「伴氏」と氏を改めた。氏名の面からも、古代大伴氏は姿を消すことになるのである。
この後も、応天門放火事件の首謀者とされる伴善男が大納言になるなど公卿や貴族を輩出しているが、古代大伴氏の栄光を引き継いだものとは考えづらい。
本稿は、古代大伴氏の軍事一族としての圧倒的な存在と、国家の近代化とともに没落していく悲哀の一端を描こうとしたものであるが、終わるにあたって考えてみれば、私たちが日本書紀などを通して知ることの出来る時代の大伴氏は、武弁のみで生き抜くことの困難な悲哀の連続であったのかもしれないと思うのである。
『 海行かば 水漬く屍 山行けば 草生す屍 ・・・ 』という家持の絶唱にあるように、天孫降臨に始まる、あるいはそれより前の時代も含めた数百年数千年に渡って大王(天皇)の側近くで、身を呈して戦い続けた時代こそが、古代大伴氏の真の栄光の時であったのかも知れないと想いを廻らすのである。
( 完 )
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます