『 つらつら椿つらつらに ・ 万葉集の風景 』
巨勢山の つらつら椿 つらつらに
見つつ偲はな 巨勢の春野を
作者 坂門足人
( 巻1-54 )
こせやまの つらつらつばき つらつらに
みつつしのはな こせのはるのを
意訳 「 巨勢山の つらつら椿よ その名のように つらつら連なっているすばらしい姿を 賛美しながら偲ぼう 巨勢の春野を 」
* 作者の坂門足人(サカトノヒトタリ)の生没年や経歴などは、ほとんど伝えられていません。
ただ、この歌の題詞には、「 大宝元年辛丑の秋九月、太上天皇、紀伊国に幸(イデマ)せる時の歌 」とありますので、西暦でいえば 701 年の秋に、太上天皇(持統天皇)の行幸に随行していたことが分ります。また、秋は、椿は花の季節ではありませんので、見事な花の姿を思い浮かべて詠んだものと言えます。
この事から、作者は、701 年の前後に活動していた人物であること、また、宮廷に仕えていたらしいことが推定出来ます。
しかし、官暦などの記録が確認出来ないことから、従五位下以上の貴族階級ではなく、六位以下の中下級の官吏だったと考えられます。
河のへの つらつら椿 つらつらに
見れども飽かず 巨勢の春野は
作者 春日蔵首老
( 第1-56 )
かわのへの つらつらつばき つらつらに
みれどもあかず こせのはるのは
意訳 「 河のほとりに 連なり咲く椿よ つらつらと咲く花は いくら見ていても飽きることがない 巨勢の春野は 」
* 作者の春日蔵首老(カスガノクラ オビトオユ)も生没年は不詳ですが、700 年前後の履歴が伝えられています。
時期は不明ですが出家していましたが、701 年に還俗し、714 年に従五位下を叙爵、貴族の地位に昇っています。常陸の介を務めたという記録もあるようです。
* この二つの歌は、あまりにも酷似していますので、別々に詠まれたものが偶然似ていたということは考えにくいです。
春日蔵首老の方は、実際に咲き誇っている椿を見て詠んだのでしょうが、坂門足人の方は、歌の中にもあるように、秋に巨勢山を眺めて春の姿はすばらしいと詠んでいます。
万葉集の編者は、この二つの歌の間に別の歌を一首( 「真土山」を詠み込んだ調首淡海( ツキノオビトオウミ ) の歌 ) 挟んでいるのは、二つの歌に直接関連がないことを示したのかもしれません。
二つの歌の関連については諸説あるようですが、おそらく、春日蔵首老の歌が先に詠まれ、その歌が人々に評価を受けているのを、坂門足人は承知していて詠んだのだと推定しました。
* 巨勢山は、現在の奈良県御所市辺りに所在し、大和から紀伊への通路に当たります。
坂門足人は、行幸に随行する旅の途上で、巨勢山のすばらしさを、それも秋でありながら春の椿のすばらしさを詠んだのには、その山に対する敬意を表すためであり、紀伊に向かう旅の安全を祈ったのではないでしょうか。
それにしても、美しい椿の花を見て、『 つらつら椿 つらつらに 』と詠んだ万葉人の感性にあたたかなものを頂戴したような気がするのです。
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