伸びない包帯の時代には、父は職員に時々「巻き方講習」をしていたようである。それが伸縮包帯の出現で、本当に誰でも技術もなく、かつ固定性もよく包帯が巻けるようになった。後年自分が医学部に進み、外科の教科書をみたが「包帯法」などというチャプターなどはすでになくなっていたのである。医者になって随分たってから自分は救急救命士の日本初の養成所に教員として勤務した。これが当時はひどいもので、救急救命士法が成立したのはたしかH3.3月に衆院を通過、同8月に参院を通過したという前代未聞の早さであった。しかも施行が同9月で、その月に救急救命士の養成所の授業が開始されるというバタバタさ加減であった。そんな中で教科書もいいかげんな執筆内容で閉口した。もちろん医学的に嘘を書いているわけではなく、当時の執筆者ですら救急救命士が何をするのかを良く知らずに書かされたためか、医者に必要な項目から看護師に必要な項目から、あるいはこれ何?という内容のものまで書いてあり、まさに何でも箱状態だったのである。<o:p></o:p>
昔、自分が小さい頃の包帯は布製でまったく伸縮しなかった。外科処置の際にこれらの包帯を巻くのはかなりの技術を要したのである。どうやら昔は包帯学という学問体系?(技術体系)があったらしい。確かに伸縮しない包帯では関節やら太さの違うところの固定では、すぐに緩んでほどけてしまうし、かといって強く巻きすぎると血流が途絶してしまう。つまりほどけないように固定性に優れ、かつ圧迫が強くない程度に巻くという技術は並大抵のことではなかった。しかし先人達には名人もいたのであろう。自分が外科を研修していた時の部長は「俺が若い頃は、上の医者から『昔はゲートルが緩まずに巻ければ包帯固定も一人前だ』と言われたが俺だって戦争に行った世代じゃないからなー」といっていたのを思い出した。確かに昔の兵隊さんは下腿~足首にゲートルを巻くがあれは太さが違う部分を同時に巻くので難しいだろう。しかも当時、それが緩んでしまうようであれば上官からこっぴどく殴られたことも想像される。自分も小学生の頃、足首を捻挫した時、関節にシップを張り包帯を巻いたが、すぐにほどけて用を成さなかったのを覚えている。
この使い捨て文化のなんでもかんでも使い捨ててしまうというところから、現在では「もったいない」「リサイクル」「環境保全」などということで、今は少し呼び戻しの状態に落ち着いてきたようである。しかしながら医療においては感染防御の概念から医療廃棄物は再生しないで「感染性廃棄物」としてすべて業者に廃棄処理を委託しなければならない。医療材料で再生できるものはほとんどないのである。そのような意味では医療の世界は世の中の流れと逆行しているのかもしれない。自分が父から医院を継承したときに診療所の倉庫をすべて片付けた。洗眼用のフラスコや昭和30年代の古い注射アンプルやオープンドロップ用の麻酔器具などがでてきた。しかしあの自動包帯巻き上げ器はどこをどうさがしても出てこなかったのである。「時代のあだ花」とは言ってしまったが父の輝かしい全盛期に一緒になって活躍してくれた器械である。丁重に供養できなかったのが心残りである。<o:p></o:p>
この器械も、程なくして伸縮包帯の出現、およびディスポ製品の出現でお役御免になった。「時代のあだ花」的な医療器械だったかもしれない。世の中のシステムがかわれば次第に廃れていくものはいくらでもある。この包帯巻き上げ器もそうであった。世の中には伸び縮みする包帯(伸縮包帯)が出現したが、この包帯は最初から個人仕様で使い捨てを目的にしたものであった。しかも引っ張れば伸びてしまう包帯なので自動巻き上げ器では巻き上げられない。そんなこんなでこの巻き上げ器の出番はなくなっていった。当時「何回も使い回す」ということよりも、1回こっきりで、そのあとは捨ててしまうという文化がおしゃれであった。高度成長期のことである。良くも悪くもアメリカ文化の影響があった。紙ナプキンやプラスチックのフォークやらを使い捨てるのは手間も時間も省けて先進的であった。そして何よりも自分達が裕福になったと勘違いさせるに十分なライフスタイルであった。
うちは外科病院だったので包帯の数もやたら多かったようである。職員総出で洗った包帯を巻く作業はまるで内職のようだった。自分も面白半分に手伝った記憶があるが小学校低学年で遊び半分である。きちんと硬めの環軸状に巻き上げるのは難しかった。職員それぞれの巻き方やコツがあるようで、各々の方法は異なっていた。包帯の両サイドをもって両手で巻き上げる方法もあったし、また手のひらの中で包帯のロールを転がしながらまいていく人もいた。今思うと結構な作業だったような思い出である。しかし後年、自動包帯巻き上げ器なるものがうちの医院に入ったのである。これは器械の横から金属の棒が出ていた。この棒には縦方向に溝があって、この溝の間に包帯の端を挟みこむのである。そしてスイッチを入れるとこの金属の棒が回り始めて、長い包帯がこの金属棒に巻き上げられていくのである。あとは環軸状のロールに巻き上げられた包帯を金属棒から抜けば終了である。この器械は速くて巻きもきつめでいい仕事をしてくれた。職員の仕事はぐっと減ったのであるが、この器械は1台だけだったのでこれを使えるのは職員1名のみであった。あとの職員はやはり「手巻き」を強いられたのである。<o:p></o:p>
父の時代の診療所の話である。当時、包帯は伸び縮みしない布製のものであった。しかも当時はディスポ製品などはなく、注射器、注射針はもちろんのこと包帯までもが回収して洗濯し巻きなおして再使用していたのである。当時はただ洗濯機の中に汚れた包帯がグルグルと洗濯されている光景をみてそれが当たり前だと思っていた。当時は当たり前なのであるが、今はこんな血液や体液で汚染された包帯を洗濯機で洗って滅菌もせずに再使用などと言うことは行なわれていない。最近では医療行為に伴う感染症がうるさく言われている時代である。感染防御のプレコーションにて体液で汚染された医療器材は感染性廃棄物としてすべてを医療廃棄処分しなくてはならないのである。さて当時はのんびりした時代である。洗って乾かされた包帯を職員で巻いていくのである。これが実は結構面倒なのであった。<o:p></o:p>
もしも判決が原告側に有利なものが出たとしたら、その後、教育現場で混乱するだろう。心肺蘇生に対する教諭の研修時間が大幅に増えるかもしれない。あるいは(そんなことはないと思うが)逆に「そんな100%きちんと施行しなければ訴えられて負けてしまうような心肺蘇生ならばリスクが高すぎてとても医療従事者ではない教諭に徹底することはできない」「常時、学校に健康管理者や蘇生専門の要員の配置が望ましい」などと臍を曲げられてしまう恐れもあるのである。そうなるといままで教育現場に普及してきた教諭が自ら心肺蘇生を行うという気運が衰退するのではと危惧しているのである。だから今回の司法判断は、AEDの蓋をあけさえすれば・・という残念な行為を司法がどう裁くのか、またあるいは教諭の立場が「一般通行人」としてみなされ蘇生の結果は不問ということになるのかということも歴史を揺るがす大きな判断になるのである。どちらに判決が傾いたとしても「司法判断」は残るのである。これがのこれば今後の「基準」として残ってしまうので、できればどちらも安易なところで手を打たないでほしいと思うのである。なんとなく頃合いをみて市側が賠償金をだして終息するような気がする。そしてどうなるかわからないがこの「司法判断」だけが基準として未来永劫残って一人歩きしてしまうことに危惧しているのである。
まず行きがかりの通行人(一般人)が心肺蘇生をしてその結果が救命できなかったものであってもその救助者の救助行為は結果の如何にかかわらず法律で擁護されているのである。今回この心肺蘇生をおこなった教諭らの「身分」を一般人ととらえるのか、あるいは児童に対して救助義務をもつものかというところで争点になるだろう。この観点における司法判断は大事なところである。もし教諭に徹底した救助義務がないとするのであればAEDの蓋を空けなかったという過失はなくなると考えられる。またAEDのパッドを貼ったとしても除細動の適応波形でなかったのであれば、結果的にAEDは作動しないのであるからいずれにせよ救命はできなかったことになる。AEDを貼っていればどのくらいの割合で救命できるかはその時の心臓の波形による。したがってその時の波形がどうであったのかを知ることはできないため、原告側が「重過失による作為義務違反」を証明するための証拠をそろえるのは難しい。
ただしこのような歴史的経過を知らない人にとっては経過などどうでもいいことである。結局は結果がすべてなのである。この児童は救命できなかった。しかもAEDを傍らに持参しておきながら使わなかったというのは問題がある。これは誰にでもつかえるものなのである。使い方は難しくない。自分が心肺蘇生の指導員をしていた時は「どうせ今日のことはみんな忘れるかもしれませんが、これだけは覚えておいてください。AEDの使い方が思い出せなくとも、現場で蓋をあけてください。するとスイッチがはいってあとはすべて音声指示がありますのですべてそれに従えばいいのです」と教えた。そうなのである。すべて使い方をステップごとに音声指示してくれるのである。だから今回、傍らにAEDはあったが使わなかったというのは少し寂しい。蓋さえ開けていれば何とかなった可能性はあったかもしれない。ただし今回の裁判の行方はとても気になるところである。司法判断はきわめて微妙なところあり、結果次第では自分たちがいままで20年以上かけて心肺蘇生の普及啓発をしてきたこの盛り上がりに水をさすような結果につながりかねないのである。<o:p></o:p>