六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

美術館でのパフォーマンスとFC岐阜

2009-11-16 11:50:20 | アート
 県立図書館へ行きました。土曜日のことです。
 隣の県美術館の庭園でなにやらパフォーマンスが行われているようです。
 これを見逃したら「野次馬・六」の名が廃ります。

 もうすでにかなり進行していて途中からになりましたが行きました。
 もらったチラシによると、「MNSEUMUSIC 美術館の音楽」という催しで、音楽と美術、それに各種のパフォーマンスをコラボレイトしたもののようです。

 
 
 最初に目にしたのは、紅葉した南京ハゼの樹のもとで行われている弦楽五重奏の演奏でした。もう終わり頃で、私の聴いたのはコントラバスが地鳴りのように唸るやや前衛的な作風のものでした。

 

          
                お手本のスーラの絵

 それらの演奏と並行して、日本でいうなら鹿鳴館時代のような服装の人たちが芝生の庭園を行ったり来たり、あるいは、その場に座しています。
 はじめはなんだろうなと思いましたが、はたと思い当たりました。これは、新印象派の画家、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を模したパフォーマンスなのでした。トンチンカンな私が思い当たるくらいですから、場所柄からいっても面白いパフォーマンスでした。写真はその一部ですが、会場内をそうした服装の紳士、淑女がかなりの人数、行ったり来たりしていました。

 

 やがて、芝生の上でのトランペッターが、弦楽クインテットの演奏を引き取るように高らかに演奏をはじめ、そこに大きなパラシュートのような布をもった人たちが現れ、スーラの絵よろしく芝生に憩うていたひとを覆い尽くしたりしました。
 
 

 同時に、庭園内の人工的な小川に色とりどりの無数の風船が流されました。
 それが一連のパフォーマンスのクライマックスだったのでしょう。

     
 
 

 後は場所を移して即興的な演奏と、今日のパフォーマンスに参加した個人、団体の紹介がありました。その中に、地元の中学校や高校生の参加があったことは嬉しいことでした。

     
             ちいさな飛び入りのパフォーマー

 それからです、先ほど書いた大きな布で人を覆うというパフォーマンスの折、サッカーの応援風景を連想したのですが、なんとこのパフォーマンスにはJ2で健闘しているFC岐阜のメンバー三人がゲスト出演しているのでした。
 ご存じかも知れませんがこのチームは財政的には破産同様の厳しさのなかで、現在、J2では真ん中ぐらいの地位を確保しています。

 そして、そして、そしてです、わがFC岐阜は、なんとこのパフォーマンスの翌日、天皇杯のトーナメントで、J1のジェフ千葉を喰い、ベストエイトに進出してしまったのです。
 ところがです、次の対戦(12/12)相手はやはり地元の名古屋グランパスなのです。もちろん、トヨタをスポンサーに付けたお金持ちのチームです。監督も選手も選び抜かれたチームです。

 
               FC岐阜の三選手

 私には名古屋に大勢の友人がいます.その中には熱心なグランパスファンもいます。しかしこの際はFC岐阜を応援させていただきます。こうした試合に善戦するかどうかが、チームの存続に係わるからです。

 あ、美術館でのパフォーマンスの話がとんでもなく脱線しましたね。でもいいのです。脱線にこそパフォーマンスの真髄があり、予めの脚本通りではあまり面白くはないのですから(といって自分のチャランポランを合理化する)。

 
                フィナーレ

 しかし、こうした野外パフォーマンスも楽しいですね。
 ちょっと悩んでいたこともあったのですが、それも吹っ飛び、なんかすっかり得をした気分になりました。
 次は伝統的な芋煮会を紹介する予定。




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『恋愛小説』という名の恋愛小説 マルティンとハンナ

2009-11-15 05:33:23 | 書評
 『恋愛小説』という名の恋愛小説です。
 なんかトートロジーの感がしませんか?
 あるいはこれは恋愛小説ではないという人もいるでしょう。
 事実、起承転結があるような恋愛物語とはいささか異なる小説ではあります。

 

 原題は『マルティンとハンナ』だそうです。
 ここまで書くと「な~んだそうか」という方もいらっしゃるでしょうね。
 そうなんです、このマルティンとは20世紀最大の思想家といわれ、ナチスがらみのスキャンダラスな経過を辿りながらも、なおかつ、その後の思想界に消すことの出来ない痕跡を残し、今なお直接・間接に多大な影響を及ぼし続けているあのマルティン・ハイデガーなのです。

 で、ハンナはというと、これまた20世紀思想界に燦然と輝く業績をもつハンナ・アーレントなのです。アーレントはよく、公共性などについて論じますから、政治学者などに分類されがちですが、私はそうではないと思います。
 たとえば、彼女の主著『人間の条件』は、「人間とは何か」という対象認識を論ずるのではなく、私たちが「人間する」とはどういうことかを論じています。
 これはハイデガーの「存在」が、「あるもの=存在者」ではなく、「あるということ」を問うているのと通底するでしょう。

 
               錦秋 馬坂峠・1

 さて、小難しい話はともかく、この二人が恋愛をするのです。マルティンは35歳、ハンナはその教え子で18歳、1924年のことでした。
 問題はこの折、ハイデガーは既婚者でありエルフリーデという妻がいたことでした。いわゆる不倫に相当するのですが、それは発覚することなく数年にわたって続きます(発覚したのは1950年 後述)。

 二人の別れは1930年前後で、ハイデガーのナチへの肩入れなどがあったせいだといわれています。自身ユダヤ人でナチの迫害対象であったハンナにとってはそれは耐え難いことだったと思います。
 ハンナはフランス経由でアメリカへ亡命し、こうして二人は1950年に至るまで逢うことはありませんでした。

 
               錦秋 馬坂峠・2

 小説は1975年、ハンナがもはやもうろうとしたマルティンを最後にその自宅へ見舞う場面です。マルティン自身の不確かな回想も一部挿入されますが、大半はハンナとマルティンの妻・エルフリーデとの対話でありその回想で構成されています。
 その意味ではこの小説は「エルフリーデとハンナ」の方がふさわしいくらいです。

 1950年、20年ぶりにハンナはマルティンを訪れるのですが、その折、ハイデガーの告白もありエルフリーデははじめてハンナとマルティンのことを知るのです。そのいきさつはこの小説の中でも回想シーンとして出てくるのですが、私にとって奇妙奇天烈なのは、その際、マルティンは二人の女性、エルフリーデとハンナに仲良くするようにと説得し、二人が手を握りキスを交わすことを要請するのです。

 ようするにハイデガーは、二人の相互の寛容を求めるわけですが、その実は、二人の女性を愛してしまった自分を許容せよと迫っているわけです。なんか結構、自分勝手な感じがしますね。
 
 
               錦秋 馬坂峠・3

 いささか乱暴ないい方ですが、男が求める女性像にはふたつの類型があるのかも知れません。
 ひとつは、自分がそこへ帰ってやすらぎ、安堵できる母性のような女性像です。
 そしてもうひとつは、自分を日常性のようなところから連れ出してくれるいわば小悪魔のような女性です。
 しばしば男はその双方に引き裂かれることがあります。
 小説や映画にもよくあるのは、小悪魔のような女性に惹かれながら最後には母性のもとへと回帰するというパターンや、あるいは回帰することなく飛び立つ、あるいは飛び立つことも出来ずに破滅するというものなどです。いってみればカルメンにいかれてミカエラを袖にするドン・ホセのようなものです(カルメンと一緒にされてハンナも戸惑っているでしょうね…笑)。

 しかし、多くの場合、女性そのものが母性的なものと小悪魔的なものとに予め分類されているわけではないのだと思います。むしろそれは、男の側の欲望の投影であって、その意味では同一の女性がある男にとっては母性的であり、また別の男にとっては小悪魔的でもあるのだと思うのです。それはまた、女性そのものの欲望の投企にもよるもので、ある時ある対象に対しては母性的であったり、あるいはその他の対象には小悪魔的であったりするのかも知れません。

 マルティンをめぐる関係においては、どちらかというとエルフリーデは母性的であり、ハンナは小悪魔的な役割を担ったのではないでしょうか。すくなくともマルティンにとってはそうであり、また、エルフリーデもそうした役割を自らに課したようです。かくしてマルティンはエルフリーデを手放すわけでもないままに、ハンナに惹かれたのでした。
 ここまではわかるのですが、先に見たように、1950年、その三角関係が明るみになった折、ハンナとエルフリーデを仲良くさせて、自分の分裂した欲望を取り繕おうとするのが解せないのです。敢えてどちらかを選択せよとはいいますまい。しかし、かつて日本などにもあった妻妾同棲のような構図はあまりぞっとしません。

 妻妾同棲は男の力の誇示でもありました。それはいわば財力としてのそれでもありましたが同時に複数の女性をコントロールする能力の表明でもありました。その意味では、ハーレム志向のような男一般の欲望であるのかも知れません。
 むろんマルティンの場合、同棲を主張したのではありませんが、自分を挟んで二人がハグし合い、キスを交わす仲になることを望んでいるわけなのです。

 二人の女性は、かたちの上ではそれに従ったように振る舞います。しかし、ことはそんなに簡単でないことはこの小説にある相互に軋轢を孕んだ心理描写にある通りです。ハンナびいきの私は、彼女ともあろう女性がなぜこんな関係に耐えうるのか、なぜあの1950年の時点でマルティンにきっぱりとその不可能性を指摘しなかったのかとも思います。

 
               錦秋 馬坂峠・4

 今述べたようなことは、小説のなかではあくまでも1975年、三人の最後の出会いの折りの回想シーンにしか過ぎません。しかもそれは、作者、カトリーヌ・クレマンの想像の世界でしかありません。そのためにこの小説の題名もそうですし、その中でも、ハンナ、エルフリーデ、マルティンとそれぞれがファーストネームでしか出てきません。ようするにフィクションであることを強調しているともいえます。

 現実の世界ではどうであったかというと、ハンナ・アーレントが1975年、すでに朦朧としたマルティン・ハイデガーをドイツに訪ね、エルフリーデ・ハイデガーと言葉を交わしたのは事実であり、亡命したまま住みついたアメリカへ帰国したその年の秋に、マルティンに先立って亡くなっています。
 そしてその翌年、ハイデガーもその生涯を閉じたのでした。

 この小説は、このブログにしばしばコメントを頂く「冠山」さんにかつて示唆されたのと、今年末に行う若い人との読書会でアーレントを取り上げ、しかも私が報告者だというのでそのサブ資料として読んだのですが、どこか既視感がぬぐえませんでした。過去の読書ノートを見てその謎が解けました。この小説に先だって書かれた『アーレントとハイデガー』(エルジビェータ・エティンガー)を読んでいたからでした。
 こちらの方はフィクションではなく(小説の方がファーストネームを使用しているのに対し、この書は姓で書かれています)、二人の往復書簡などを追いながらその関係を実証的に追い求めるものでしたが、この小説に先行すること4年ですから、この小説自体がそれを参照したことは十分考えられます。

 この小説を読み終えて、ある誘惑に駆られました。それは、この小説ではその朦朧とした回想が登場し自身も後半に登場するマルティンをただ別室で寝ているのみとして登場させず、女性二人による舞台劇として上演するというものです。
 もちろん私にはそうした脚本を書く能力も、それを舞台にのせる力もありませんが、達者な女優さん二人の掛け合いでそれが実現されたらさぞ面白いだろうと思うのでした。

 ハイデガー(マルティン)やアーレント(ハンナ)の著作や業績など知らずとも読める小説ですが、二人がかって恋人同士であったこと、彼が一時期ナチスに傾いたこと、エルフリーデはそれに先立ってナチスやヒトラーの支援者であったことなどの予備知識があればいっそう理解が深まることでしょう。




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「人間なんて」という前に・・・

2009-11-13 11:54:33 | 写真とおしゃべり
 写真を撮るのが好き(といっても下手の横好き)だが、人物は苦手である。
 むろん、かといってほかがいいわけではない。

 
                 県美術館にて

 私の知人にはそれが巧くていつも感心する人もいるが、たずねてみるとちゃんと断って撮っているという。「撮りますよ」と笑顔で話しかけるとまず「いいよ」と答え、しかもあまりカメラを意識せず自然な表情や振る舞いを見せてくれるという。
 その成果はちゃんとその写真に現れていて、彼の撮す人物はそのフレームの中でしっかりと生きている。

 
                  手湯?

 その点私はダメだなぁ。シャイな私は、まずタイミングよく声がかけられない。「アッ、アッ」という間にシャッターチャンスが過ぎて行く。相手に了承を求めるにしても、「と、と、撮ってもいいですか」と緊張のしまくりでは相手にもその緊張が伝染し、自然な表情や姿など望むべくもない。
 だから私の写真では、人物は遠景であったり、後ろ姿であったり、単なる通行人であったりし、結局はそれ自身が対象というより、単なるパッセンジャーにすぎないのである。

    
                 散歩道
               
 例外があるのは祭りや行事で、対象になる人が見られたり撮されたりすることを前提にしている場合である。この場合には、撮られることは承知の上と思われるので遠慮なくシャッターが切れる。
 で、問題は、そうした写真にいいものがあるかというとどうもそうではないということである。
 だとすると、シャイだのヘチマだのということとは関係なく、単に下手だという動かしがたい事実、あるいはそうした対象との関わりのありようがふくむ問題を認めざるを得ない。


 
              プラットホーム  

 人間というのは、ちょこまかと動いていて、その表情や仕草、ファッションを通じて、それなりの素性を表しているとしたら、これを撮すということはそれへの私自身の感応を表現することであり、その感応が対象との距離、アングル、瞬間などを決めるということであろう。
 私の場合、対象への思い入れというか感応それ自身が希薄なのだろうか。だから上っ面しか撮れないのだろうか。

    
               チンドン屋の女性
 
 自己中心的な私は、他者を予めの自己諒解のうちへと取り込み、その限りにおいてしか表現できないのかも知れない。
 そしてそれは単に写真云々にとどまらず、私の対人関係そのものありようであるのかも知れない。
 自分の撮った写真を眺めながら、反省することしきりである。




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『母なる証明』と祖母と私の風邪

2009-11-10 11:19:09 | 想い出を掘り起こす
 韓国映画『母なる証明』を観た(原題は単に『母』、監督はボン・ジュノ)。
 前説に、「息子の冤罪をはらす母」とあったので、情愛に駆られた母が奔走をしてめでたしめでたしかなとも思った。それなら日本の二時間ドラマでもありそうなのだが、前に観たこの監督の『殺人の追憶』が印象深かったので、そんなに単純ではあるまいと思って観に行ったら、期待を裏切らず一筋縄では終わらない映画だった。
 様々に変転する物語は、緻密な脚本によって構成され、どのカットも見逃せない。それらのストーリーを縫って韓国の現在の若者たちの風俗が織り込まれ、作品にリアリティを与えている。
 母親役のキム・ヘジャの演技は特筆物だが、息子役のウォンビンの表情を主とした表現も光っている。

           

 といったところだが、これ以上映画について語るのはよそう。
 むしろこれから連想される私自身の思い出について語りたいのだ。
 映画の冒頭に(終わり近くにもあるのだが)、この母が押し切り器で枯れ草のような物を切断するシーンがある。そのザクッ、ザクッという音がこの映画の緊迫感をリズムとして表現しているのだが、このシーンを観た途端、この母の仕事が分かってしまった。
 というのは、これと同じシーンを六〇年以上前に見ながら育ったからである。

 私の母方の祖母(生きてれば130歳ぐらいか)がこれと同じことをしていた。私が疎開していた母の実家の農村での話である。
 祖母は農家の主婦でありながら、一方、「生薬屋」をしていた。生薬とはいわゆる漢方薬である。
 映画の母ほど多くの薬草を在庫してはいなかったが、祖母がいた納屋の内側には乾燥した薬草がぐるりと吊してあって、その真ん中で祖母はやはり押し切り器でそれらを刻んでいた。
 祖母の集落には一軒ぐらい診療所はあったかも知れないが、そこの人たちは、「腹痛」や「風邪」ぐらいでは滅多に医者にはかからなかった。その代わり祖母のもとにやってくるのだった。祖母はその症状をきいて、薬草を調合して渡していた。むろん、資格などないから立派な薬事法違反であったが、集落の人からは感謝され一目置かれていた。おそらく謝礼が安かったのだろう。

     
 
 映画の母は生薬と同時に鍼を打っていたが、祖母は鍼はやらなかった。その代わりある種の占いをしていた。
 占いといっても、運命を占うといったたいそうなものではなく、悩みを聞いてやる(カタルシス)、そしてそれとなく示唆や慰めを語る(サゼッション)といった程度で周辺からは「巫女さん」などといわれていたようだが、口寄せや心霊現象を扱うというほどではなかったようだ。

 生薬の話に戻るが、五年間の疎開生活の間に、私も結構そのお世話になった。怪我や火傷もそうだが、一番覚えているのは風邪の折である。センブリだかゲンノショウコだか忘れたが、それらを煎じた苦くて堪らない褐色の熱い液体をどんぶり一杯分飲まされた。
 あまりの苦さに途中で厭だというと、「良薬は口に苦しじゃ」と祖母はキッとなっていうのだった。
 飲み終わるとネルかなんかの厚手の寝間着にくるまれて、汗をかくほど暖かくした布団に寝かされるのだが、私が寝付くまで祖母は傍らにいてくれた。
 そして翌朝、昨日の風邪は嘘のように完治しているのだった。

     

 映画を観終わって外へ出ると、ブルブルッと悪寒がした。2、3日前から気だるかったのだが、いよいよ本格的な風邪に取りつかれたようだ。体の節々が虚脱したようで力が入らない。熱も出てきたようだ。
 夕方から今池で友人たちを会う約束だったが、万一をおもんばかってそれをキャンセルし帰宅する。
 熱燗を引っかけて、火傷するほどの風呂に入り、体が冷えぬ間に布団に入って就寝した。祖母譲りの治療法の私流のアレンジである。

 それが効いたのか、今朝は昨日に比べればずいぶん調子がいい。
 しかし、念のために近くのクリニックへ行った。
 「まあ、お前も年だから、それも仕方ないだろう」という祖母の声が聞こえるようだった。


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絵日記です。<11月7日分>

2009-11-08 02:58:50 | よしなしごと
 自宅で少し勉強。
 近くに所用で出かける。
 対照的な休耕田二態を撮す。
 草のない方は水が張ってあったせいなのだろう。

 

 

 夕方から街へ。
 まずは、同級生がやっている果物屋へ。
 富有柿商戦のまっただ中、地方発送などで年間のピークとのこと。
 スーパーに押され、果物屋が一軒また一軒と店じまいする中、懸命に踏みとどまっている。


             黄昏近い新岐阜付近
 
 その後駅前付近に戻って会合。
 知ってる人三人、知らない人四人。私を入れて八人。
 徳山村出身のOさんの著書(三連作)を巡ってのはなし。
 Oさん自身がレポーター。
 様々な評価や注釈があって面白い。

 
               夜の玉宮町筋

 タイムリミットで店を追い出され、ホテルの喫茶店へ。
 しばらく話したら、ここも追い出され三々五々帰途へ。

 
      夜更けの繊維問屋街 立っているのは人ではありません

 先頃までと一転して今日は暖かい。
 自転車を駆る身としてはとても有り難い。

 今日は外で飲んだからうちでは飲まない(つもり)。








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【ヒデキッ!】私が出会ったヒデキたち

2009-11-06 16:42:31 | 想い出を掘り起こす
 松井秀喜がワールドシリーズのMVPをとったそうです。
 目出たいことですね。数々の負傷に悩まされ、出場場面も制限されてきたかのようなこの時期にそれをとったことに価値があるように思います。
 やはり、逆境に流されることなく、その出来事とちゃんと対面してきた者が味わう美酒なのでしょう。

 TVなどで、「ヒデキ、ヒデキ」と繰り返される中、私が生涯で出会ったヒデキたちの想い出がいくぶん怪しくなった記憶とともに脳内を巡るのでした。

 
            散歩道から・・・苔むすブロック塀

 最初に出会ったのは、東条英機です。
 出会ったといっても、直接会ったわけではありません。私がモノゴコロついたとき、一世を風靡していたのがこの人なのです。
 学校の教師というのはだいたい同じことを訊くようで、国民学校一年生の私もその尋問に遭ったわけです。
 「大きくなったらどんな人になりたいですか?」
 で、私は勢いよく答えました。
 「天皇陛下のような偉い人になりたいです!」
 上昇志向に満たされていた軍国少年の私は、「一番偉い人」と聞かされていた天皇をすかさず選んだのでした。
 しかし、教師は困惑した表情を浮かべ、「天皇陛下にはなれないから、別の人を選びなさい」というのです。
 仕方がないので、一ランク下げて、「東条英機のような偉い大将になりたいです!」と答え教師の尋問は終了しました。
 幼い私が、世の中に世襲制というものがあることを知った最初でした。

 その東条英機の評価が敗戦を機に一挙に転じたこと、その前後にある日本人のある種の無節操についてはいいますまい。
 幼い私は、世上の評価や価値などというものは、ある契機ではかなくも一転することを知ったのでした。

    
            散歩道から・・・名も知らぬ細かな花

 次に知ったのは、湯川秀樹博士でした。
 この人が、日本人で最初のノーベル賞をとったのです。
 今でこそノーベル賞もそこそこのものだと思いますが(あ、とった人たちの業績を否定しているわけではありませんよ。しかし、その平和賞を佐藤栄作がとって以来、その権威にはかげりを感じているのです)、その当時は大変なことだと思いました。

 湯川博士がノーベル賞をとったのは1949(昭和24)年ですが、この同じ年、先頃なくなった古橋広之進氏が全米水泳選手権に登場し、400m、800m、1500mのそれぞれの自由形で世界新記録を連発し、敗戦後うちひしがれていた日本人に、いい意味でも悪い意味でも、大きな自信を与えたのでした。
 悪い意味といったのは、「それ見ろ、大和民族は文武両道にわたって優秀なのだ」という変な自負を自らに与えることによって、戦後処理やその責任の所在を曖昧にする機能を果たしたように思うからです。
 もちろんこれは、湯川博士や古橋氏の責任ではありません。

 
              散歩道から・・・怪しげな影

 ついで、俳優の高橋英樹氏です。
 まあまあ、上手に歳を重ねたように思います。
 なぜこの人を特筆するかというと、彼が我が家に来たことがあるからです。
 岐阜の秋を彩る信長祭りはその信長行列をもって最高潮に達します。そしてその信長役には売り出し中の若い俳優が選ばれます。ちなみに今年は伊藤英明氏でした。
 今を去ること40年ほど前、信長役は高橋英樹氏でした。
 ところで、なぜ彼がうち(の実家)にきたのかというと、岐阜駅の南口(当時の行列の出発点)近くの私の家が出発前の休憩所に指定されたからです。

 私は仕事の都合で立ち会わなかったのですが、亡父や亡母は一世一代のもてなしをしたようです。亡母は茶菓を、亡父は酒を勧めたようですが、「馬から落ちるといけませんから」と茶菓に軍配は上がったようです。
 その折の高橋氏の応答が感じよかったということで、亡父、亡母ともに、生涯、氏のファンでした。

 
           散歩道から・・・松葉牡丹の苗でしょうか?

 あとは、私が泊まったことのあるホテルで、後に死者33人の火災事故死を出したホテル・ニュージャパンの経営者、横井英樹氏ですね。
 なぜこの人を覚えているかというと、幸いにして私が宿泊した日には火が出なかったということばかりではなく、その人物が面白いからです。
 彼は、愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家に生まれ、15歳にして東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公しながら、その後進駐軍に取り入って稼ぎ、それをまた投資し、企業の乗っ取りをはかるなど、現代のヒルズ族も真っ青な快進撃をしてきた人なのです。
 しかし、我が国では、このように新しく台頭してきた企業がちょっとしたミスで消え去ってゆき、結局は旧財閥系の企業が生き残るということのくり返しがあるようで、ここには旧体制が持つビルトインストピライザーの隠れた機能が働いているように思われるのですがいかがでしょうか。

    
        散歩道から・・・たわわな蜜柑と菊のコラボレーション

 最後はわが友、英毅・H氏です。
 彼ほとんど私と同世代なのですが、防衛大など回り道をしてN大にきたため学年差はあります。そして私が社会人になったおり、彼は「T」という面白いママがいる店にバイトに行きはじめました。
 そしてその店は、また70年の全共闘世代もくるようになったため、私はこの「英ちゃん」を介してそれらの世代との知己も得たのでした。
 むろん英ちゃんは単なる媒介者ではありません。彼自身の話がまた面白いのです。
 一度、彼と差しで話しているとき、当時の東映やくざ映画への彼の思い入れが激しく、彼が涙ながらに語るそのラストシーンに、自分もまた釣り込まれ、その画面の中に居るかのようにシンパシーを覚えたものでした。
 その折、「ああ、この人は?のつけない人だな」と確信しました。
 それは間違っていないと思います。

 他にもちらほらとヒデキが去来するのですが、私の印象に残っているのはこれらの人々でしょうか。
 え?西城秀樹はどうかって?
 そういえば、この前まで朝ドラでかっこいいけど奇妙な役をやっていましたね。
 でもこの人に「ヒデキッ!」と叫ぶ年代ではなかったものですから・・・。



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【ご報告】赤かぶ漬け 参上!

2009-11-05 00:44:27 | よしなしごと
 11月1日付けの日記に書きました赤かぶを漬けるという話の続報です。

 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20091101

 
          ぬか漬けの大根と一緒に紅白に盛ってみました

 漬かりました!
 色も鮮やかに赤くなりました。
 昆布の隠し味、鷹の爪のぴりっとした刺激もよく効いています。

 

 そして、なんといっても先般の日記で記しました、あのいただいた柚子の香り、やはりこれがなくっちゃ。
 ご飯もお酒もよくすすみます。

 

 これ以上の過剰発酵は雑味の元になりますので、タッパーに移して後は冷蔵庫住まいです。
 今度は赤かぶの千枚漬けを作る予定です。

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懐かしいものを連続して見つけました。

2009-11-03 18:35:35 | 写真とおしゃべり
 懐かしいものは人それぞれで、それが何であるかによってその人のイメージが分かるとかいいますが 本当でしょうか?私ぐらいの年齢になると目につくもの全てが、というか人があまり目に留めないようなものについ懐かしさを感じてしまうのです。
 
 ですから、道端で写真を撮っていたりすると、「ねえ、なに撮してるの?」と小学生なんかに訊かれてしまうのです。そりゃぁそうでしょうね、その子たちにとってはなんの変哲もない草木の類が目の前にあるだけなのですから。

 最初は「赤まんま」こと、犬蓼(イヌタデ)の群落です。
 昔はこんなもんどこにでもありました。田や畑ののり面などが真っ赤になるくらいあったものです。
 しかし田畑ののり面も今やコンクリート、彼らの生育範囲も限られてしまったのでしょう。

 
 
 ところで、この「犬・・・」という植物の名前、一般にひとさまの役に立たないものや、ある植物の亜種に付けられるきわめて人間中心主義的な命名だとある植物好きの人が怒っていました。
 この犬蓼(赤まんま)の場合は、仲間の柳蓼(ヤナギタデ)が刺身のつまや鮎の塩焼きに添えられて役に立つのに、なんお役にも立たないとして付けられたのだそうです。

 しかしこの犬蓼、赤まんまの別称が示すように、子供たちのおままごとでは立派にお赤飯の役割を果たしています。それを犬だのなんだの・・・。
 それこそ、「蓼食う虫も好きずき」でしょうね。
 そうそう、こうした命名には犬好きの人も怒っていたようなんですが、これはまた動機も違いますから、深入りは避けましょう。

 

 ついで見つけたのは槇の実です。
 これも久々に見ました。近くに槇の生け垣もあるのですが、それは雄株らしく実が付かないのです。
 面白い格好をした実でしょう。熟すと赤くなる楕円形の実の先に、丸い緑の実が付くのです。
 この楕円の方は花托(かたく)といって花を支える部分で、その先のまあるいのが実なのだそうです。イチゴもこれと同様、ひとさまが食べるあの赤い部分は花托で、ごま粒のようにくっついているのが実なんだそうです。

 
 
 なぜこんなことを言うかというと、槇の実の場合もイチゴ同様この花托の部分を食べることが出来るのです。もちろん子供の頃は見つけ次第食べました。甘みがあるねっとりした食感でした。
 そしてその先の丸い実は、鳩鉄砲の弾にして遊びました。

   

 もひとつ見つけたのです。
 「数珠の木」です。私は子供の頃から数珠の木といっていましたが、稲の仲間ですからいわゆる木ではありません。正式な名称はジュズダマ(数珠玉)というのだそうです。
 なぜ数珠玉かというと、熟した実を収穫すると実の中心に孔が通っていて、そこに糸を通せばそのまま数珠になるからです。
 なお、女の子はこれをお手玉に入れていましたが、小豆より重量感があり虫が付かないという利点があったようです。

           

 懐かしいだのなんだのといって所詮は年寄りの昔話じゃないかといわれそうですね。だから最初に、「私ぐらいの年齢になると」と断ったでしょう。

 ところで、以上は歯科医への往き帰りの見聞です。
 自分ではあちこち傷んできていると思っているのに、「お年の割にいい歯です」などといわれて少し嬉しくなった秋の道でした。




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赤カブ漬け用のユズは盗みませんでした。

2009-11-01 15:48:49 | よしなしごと
 自転車を漕いで農協の野菜売り場へ行った。
 いろいろ買ったが、なんといっても今日のハイライトは赤カブだ。
 漬け物にしたらこんなに旨いものはない。
 もっとも我が家のそれは飛騨地方などのじっくりつけ込むのとは違って、かぶも葉っぱも切り刻んでいわゆる「切り漬け」風にする。
 これだと三日もすれば食べることが出来るのだ。

 

 野菜売り場の前の花屋を冷やかして写真を撮る。
 この辺は信心深い人が多いせいか、仏壇に供えるように束ねたものが多い。
 それらに混じって鉢植えのものもある。
 農協らしく時には野菜の苗なども売っている。
 かつて山椒の苗木を買ったのもここだ。

 赤カブの入手には大いに満足をした。
 新鮮でしかもとても安い。
 この前スーパーで見たら、ひと玉で200円ぐらいしたのが、三株で120円なのだ。単純計算でゆけば五分の一だ。
 自転車の前かごに買った野菜を乗せてゆっくり帰途につく。
 真っ赤に実ったカラスウリと、もう咲いている山茶花をカメラにおさめる。

     

  

 自転車を漕ぎながら、赤カブ漬けのイメージトレーニングをする。
 切る方はもう何度もやっているから良かろう。
 一緒に漬け込むもののチェックだ。
 タカノツメ、まだ十分在庫があるはずだ。
 コンブ、日高昆布があるはずだからこれを糸状に切って漬け込もう。
 そしてもう一品、そうだ、ユズだ。
 あの香りがほしい!それを一緒に漬け込みたい!
 しかしそれがないのだ!

 ゆっくり自転車を漕ぎながら、畑や農家の家屋敷を観察する。
 ありそうでない。が、しばらくゆくと、あった。
 大きな家の裏側の垣根から、まだ青いユズがたわわに実って垂れている。
 わざわざ表へ回って「ごめんください。ユズをひとつ・・・」というのも気が引ける。
 だいたい人の気配がまったくしないのだ。
 しからば黙ってもいでゆくか。
 昼下がりの集落の細い道、幸い人影はない。

 しかし、小さい頃から泥棒は嘘つきの始まり(逆かな?)と習ってきた。
 70年余、必ずしもそれに忠実であったわけではないが、ご近所で盗みはしたくない。
 おそらく、それで漬けた漬け物も、思い出すと味が落ちようというものだ。

 

 諦めてしばらく行くと、今度は黄色く熟したユズを発見した。先ほどのものよりサイズもうんとでかい。
 しかもその木の近くの畑では、一人の女性が畑仕事をしているではないか。
 自転車を止めた。
 「あのう、そのユズを一個分けていただけませんでしょうか?」
 「あ、これですか。いいですよ。ちょっと待って下さいね」
 とその女性は畑から道を挟んだ家へととって返すと、やがて園芸用の鋏をもって現れた。

 ユズの木には棘があって、容易にもいだり出来ないのだ。
 たった一個のユズのためにと恐縮していると、一個ですまず、二個。三個、四個と切り取り、作業用のエプロンにくるんで、さあどうぞと差し出してくれた。合計六個もある。
 「ありがとうございます。例えわずかでも経費分を受け取って下さい」というと、「どうせこのままなっていても虫が食うばかりだから」と受け取ろうとはしない。
 ひたすら礼を言ってその場を辞した。

 

 泥棒したユズより、このユズで漬けた方が絶対に旨いはずだと確信している。
 なんかお礼をしたいがどうしたものだろう。変にものでももって行くとかえってぎくしゃくしそうだ。
 この日記をプリントアウトして密かに郵便ポストに入れておくというのはどうだろう、などとも考えている。

 赤カブは予定通り、日高昆布やタカノツメ、それに頂いたユズの皮を刻んでしっかり漬け込んだ。
 もう、三日もすれば食べることが出来そうだ。
 
 


コメント (8)
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