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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「人間なんて」という前に・・・

2009-11-13 11:54:33 | 写真とおしゃべり
 写真を撮るのが好き(といっても下手の横好き)だが、人物は苦手である。
 むろん、かといってほかがいいわけではない。

 
                 県美術館にて

 私の知人にはそれが巧くていつも感心する人もいるが、たずねてみるとちゃんと断って撮っているという。「撮りますよ」と笑顔で話しかけるとまず「いいよ」と答え、しかもあまりカメラを意識せず自然な表情や振る舞いを見せてくれるという。
 その成果はちゃんとその写真に現れていて、彼の撮す人物はそのフレームの中でしっかりと生きている。

 
                  手湯?

 その点私はダメだなぁ。シャイな私は、まずタイミングよく声がかけられない。「アッ、アッ」という間にシャッターチャンスが過ぎて行く。相手に了承を求めるにしても、「と、と、撮ってもいいですか」と緊張のしまくりでは相手にもその緊張が伝染し、自然な表情や姿など望むべくもない。
 だから私の写真では、人物は遠景であったり、後ろ姿であったり、単なる通行人であったりし、結局はそれ自身が対象というより、単なるパッセンジャーにすぎないのである。

    
                 散歩道
               
 例外があるのは祭りや行事で、対象になる人が見られたり撮されたりすることを前提にしている場合である。この場合には、撮られることは承知の上と思われるので遠慮なくシャッターが切れる。
 で、問題は、そうした写真にいいものがあるかというとどうもそうではないということである。
 だとすると、シャイだのヘチマだのということとは関係なく、単に下手だという動かしがたい事実、あるいはそうした対象との関わりのありようがふくむ問題を認めざるを得ない。


 
              プラットホーム  

 人間というのは、ちょこまかと動いていて、その表情や仕草、ファッションを通じて、それなりの素性を表しているとしたら、これを撮すということはそれへの私自身の感応を表現することであり、その感応が対象との距離、アングル、瞬間などを決めるということであろう。
 私の場合、対象への思い入れというか感応それ自身が希薄なのだろうか。だから上っ面しか撮れないのだろうか。

    
               チンドン屋の女性
 
 自己中心的な私は、他者を予めの自己諒解のうちへと取り込み、その限りにおいてしか表現できないのかも知れない。
 そしてそれは単に写真云々にとどまらず、私の対人関係そのものありようであるのかも知れない。
 自分の撮った写真を眺めながら、反省することしきりである。




コメント (8)
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