かつて関わっていた雑誌で知り合った人のお供で徳山ダムを案内した。
いつもは岐阜→揖斐→揖斐川沿いに北上というルートを辿るのだが、かつて(30年以上前になろうか)アマゴや岩魚を追いかけていた頃、しばしば通った馬坂峠を経由して行こうということになった。
このルートは根尾川上流から峠越えで揖斐川上流の徳山ダムへと至る。
途中、いかにも古刹とおぼしき寺があったので立ち寄ってみる。浄土真宗本願寺派の寺で、その名も大谷山圓勝寺という。
大きからず小さからず、均整のとれたいい本堂である。境内にある親鸞像や県の天然記念物・樫の古木などを眺めてからさらに北上、濃尾震災で出来た2メートル余の断層を越えて進む。
しばらく行くと「薄墨の桜」公園へと至る。花を付けた最盛期の休日には、何時間もの渋滞といわれる道路も、この季節には行き交う車もまばらである。
果たせるかな公園では、三、四人グループがひと組、休憩所で歓談をしているのみだった。
周囲から間断なく聞こえる野鳥のさえずりをBGMに古木の回りを一回りする。その幹は圧倒的な貫禄で辺りを睥睨し、怠惰な私を叱りつけているかのようでもある。思わず畏怖の念を覚える。古来、人が大木に寄せたプリミティヴな信仰心がわかるような気もする。
西洋の哲学者なら、想像力を越えた風物への崇高の念について語るかも知れない。
公園を離れてさらに北上したところで、国道157号線と別れ、県道270号線へと進む。いよいよ馬坂峠越えである。道は細くなり,対向車があると(滅多にないのだが)譲り合わねばならない。ということは、以前しばしば来た頃と大して変わっていないということで何だかどこかで安堵したような気分になる。
加えて大変なおまけがあった。すばらしい紅葉なのである。峠を進むうちに針葉樹の植林の割合が少なくなり、それぞれに紅葉した山肌や谷間が迫る。山道を回る度に眼前に錦の屏風がワッと現れるのだ。
先月末には「せせらぎ街道」へ行ったが、あの幾分整備された景観に比べこちらの方が紅葉が身近に感じられる。あちらが距離を置いて紅葉を見るとすれば、こちらはまさに紅葉のまっただ中にいるという風情なのだ。
峠を越えて旧徳山方面へしばらく下ると、樹間からきらきら光る水面が見え始める。徳山ダムのダム湖である。そしてこれが以前の景観と最も違う点である。もはやこの峠の行き着くところには人の営みはない。山村ののどかな光景やそこで点景のように農作業をする人々の姿もない。野焼きの煙が立つこともない。
日本一の貯水量を誇るこのダム湖が、全てを飲み尽くしてしまったのだ。
ダム湖沿いにしばらく走った後、ダムの堰堤上へとやって来る。同行者はそこで展示などをひとしきり取材していたが、核心点は私が車の中ですでに話してある。
ようするに、一家村の人々を追い出し、4,000億近い税を投入して出来たこのダムは、発電にも、治水にも、水資源にも役立つことなく、ただただ巨大な水溜まりとしてここに横たわっているという事実である。
ダム周辺では,今もなおダンプが気ぜわしく行き来している。多分、し残した付帯工事なのだろうが、それ自身が何か役に立つものかどうかよくわからない。
ダムサイトを後に帰途についた。紅葉にはしゃいでいた同行者は急に寡黙になった。
あの開けっぴろげな自然の美しさと、人間の欲望の権化のような巨大なコンクリートの塊との凄まじいコントラストに言葉を失ったのだろう。
秋の陽はつるべ落とし、帰り道の周辺では集落ごとに人恋しげな灯りが夕べの憂愁を演出し始めた。
しかし、あの徳山村には,もはや灯るべき明かりはない。
いつもは岐阜→揖斐→揖斐川沿いに北上というルートを辿るのだが、かつて(30年以上前になろうか)アマゴや岩魚を追いかけていた頃、しばしば通った馬坂峠を経由して行こうということになった。
このルートは根尾川上流から峠越えで揖斐川上流の徳山ダムへと至る。
途中、いかにも古刹とおぼしき寺があったので立ち寄ってみる。浄土真宗本願寺派の寺で、その名も大谷山圓勝寺という。
大きからず小さからず、均整のとれたいい本堂である。境内にある親鸞像や県の天然記念物・樫の古木などを眺めてからさらに北上、濃尾震災で出来た2メートル余の断層を越えて進む。
しばらく行くと「薄墨の桜」公園へと至る。花を付けた最盛期の休日には、何時間もの渋滞といわれる道路も、この季節には行き交う車もまばらである。
果たせるかな公園では、三、四人グループがひと組、休憩所で歓談をしているのみだった。
周囲から間断なく聞こえる野鳥のさえずりをBGMに古木の回りを一回りする。その幹は圧倒的な貫禄で辺りを睥睨し、怠惰な私を叱りつけているかのようでもある。思わず畏怖の念を覚える。古来、人が大木に寄せたプリミティヴな信仰心がわかるような気もする。
西洋の哲学者なら、想像力を越えた風物への崇高の念について語るかも知れない。
公園を離れてさらに北上したところで、国道157号線と別れ、県道270号線へと進む。いよいよ馬坂峠越えである。道は細くなり,対向車があると(滅多にないのだが)譲り合わねばならない。ということは、以前しばしば来た頃と大して変わっていないということで何だかどこかで安堵したような気分になる。
加えて大変なおまけがあった。すばらしい紅葉なのである。峠を進むうちに針葉樹の植林の割合が少なくなり、それぞれに紅葉した山肌や谷間が迫る。山道を回る度に眼前に錦の屏風がワッと現れるのだ。
先月末には「せせらぎ街道」へ行ったが、あの幾分整備された景観に比べこちらの方が紅葉が身近に感じられる。あちらが距離を置いて紅葉を見るとすれば、こちらはまさに紅葉のまっただ中にいるという風情なのだ。
峠を越えて旧徳山方面へしばらく下ると、樹間からきらきら光る水面が見え始める。徳山ダムのダム湖である。そしてこれが以前の景観と最も違う点である。もはやこの峠の行き着くところには人の営みはない。山村ののどかな光景やそこで点景のように農作業をする人々の姿もない。野焼きの煙が立つこともない。
日本一の貯水量を誇るこのダム湖が、全てを飲み尽くしてしまったのだ。
ダム湖沿いにしばらく走った後、ダムの堰堤上へとやって来る。同行者はそこで展示などをひとしきり取材していたが、核心点は私が車の中ですでに話してある。
ようするに、一家村の人々を追い出し、4,000億近い税を投入して出来たこのダムは、発電にも、治水にも、水資源にも役立つことなく、ただただ巨大な水溜まりとしてここに横たわっているという事実である。
ダム周辺では,今もなおダンプが気ぜわしく行き来している。多分、し残した付帯工事なのだろうが、それ自身が何か役に立つものかどうかよくわからない。
ダムサイトを後に帰途についた。紅葉にはしゃいでいた同行者は急に寡黙になった。
あの開けっぴろげな自然の美しさと、人間の欲望の権化のような巨大なコンクリートの塊との凄まじいコントラストに言葉を失ったのだろう。
秋の陽はつるべ落とし、帰り道の周辺では集落ごとに人恋しげな灯りが夕べの憂愁を演出し始めた。
しかし、あの徳山村には,もはや灯るべき明かりはない。