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ソクーロフの「ボヴァリー夫人」 世界へのある自己表出

2009-11-22 11:19:40 | 映画評論
 「モレク神」でヒトラーを描き、「牡牛座」で晩年のレーニンを、そして「太陽」で昭和天皇を描いたソクーロフがフローベールの「ボヴァリー夫人」を映像化した。ただし撮ったのはソ連崩壊前夜の1989年であり、それを新たに編集したものであるという。

  筋立てはほぼ原作に忠実で、ボヴァリー夫人の自己表出の試みが崩壊へと至る過程を描いているが、映像の力というべきであろう、これは紛れもなくソクーロフの「ボヴァリー夫人」である。

       
 
  文字通り五月蠅く、どこかのスラムを思わせるようなウンザリするほどの蠅が映像としても現れ、また、その羽音が折に触れて通奏低音のように聞こえる。
 一方、決してその姿を見せることのない列車の汽笛などが遠くから句読点のように聞こえたりする。
 
  ボヴァリー夫人の放蕩ともいえる行為は、ドメスティックに限定されたオイコス(家庭経済)の限界から、まさに外部の世界へと自己を表出して行く試みである。奔放とも見える愛の行為は同時に外部世界の文化への渇望でもある。
 彼女が夫以外の男と交わる際、その喘ぎ声の代わりにその男が口にした作家の名前を連呼するなどのシーンもある。

  したがって、先に見た蠅の羽音が彼女の置かれた現状を、そして汽笛が彼女の渇望を満たすべき外部世界を象徴するという解釈もそれほど無理ではあるまい。

         

  原作に対していささか乾いた感じがするのは、出来事を映像化するのみで登場人物の内面を敢えて描こうとはしないからであろう。映像は時として静止画のようにとどまり、登場人物が画面の中から観客である私たちをほぼ無表情のまま凝視するシーンがしばしば登場する。
 
  それは一見、内面の表示であるように見えながら、その実、それへの禁欲的ともいえる留保だと思われる。それによって、登場人物の内面や真理は、その視線の先にある私たちの想像力に任される。
 実際のところ、登場人物にじっと見つめられることによって、「この人たちは今何を思っているのだろう」というこちらの側の想像力がいたく刺激されるのである。

  最後の棺に覆われるシーンが凄い。普通の木の棺をさらに木箱で覆い、それをまた金属の箱に収めるという念の入れようである。かくしてまるで装甲車か戦艦のような棺が出来上がる。
 それは、外部へ、外部へと向かう「ボヴァリー夫人」のような存在を、あるいはそれに象徴される人間の欲望というダイナモを、まるでドラキュラの埋葬のように閉じこめようということであろうか。
 しかし、ドラキュラがそうであったように、ボヴァリーたちはそれらの厳重な棺を食い破って自己を世界へと表出せしめるのである。

  これは、ボヴァリー夫人という女性の物語である。
 しかし、この撮影された時期から想像するに、先に見た蠅が飛び交うのは当時のソ連の状況を、また、遠い汽笛はそれからの解放を促す狼煙であると見ることも出来るかも知れない。
 この年、ボヴァリー夫人を覆った棺同様に強固に見えたベルリンの壁が崩壊し、さらに2年後にはソ連それ自体が崩壊したのであった。
 しかしながらこれは、現実のロシアがボヴァリー夫人の夢見た外部の世界であることを意味するものではない。

  ソクーロフの映像への吸引力は恐るべきものがある。

 

コメント (3)
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