社長の知りあいの方から、家のリフォームの依頼が来たそうだ。
それが、お父様が脳梗塞で倒れて、車椅子生活になるので、リフォームしたいという話である。
「脳梗塞?!」と私はドキッとしたが、高齢の方ならそういうこともあるかもしれない。社長は「何百万もかけてリフォームしても、介護する方もされる方もそのうち大変になるから、そんな金があるなら施設を探した方が良い」等とアドバイス(?)してるが、先方は自宅で介護生活にしたいとのこと。
さざんか公園は、昨日もお弁当を食べていると男女3人連れがやはりお弁当を持ってやってきていた。風が吹くと寒い。もうこうしてランチを外で食べるのもあとわずかなのかな。何となく早めに食べ終えて散歩する。歩き出すと暖かい。
先日、マドモアゼル・愛先生が「ゲームやネット、SNSそういうもので時間を浪費してしまう」という話をしていたが、私もそれを考えていた。さざんか公園でお弁当を食べることにしたのは、そういうものから離れて、少し自然なものを見、鳥の声を聞いたり、そういう少し古きよき気持ちを取り戻したかったから・・・・。
確かに、ネット生活は仕事を早く進めてくれるようになった。20年前だったら宅急便で翌日にならないと届かない図面が、一瞬にして送れて、先方が確認できるようになった。仕事は速く進むはずだった。
だがどうだろう?確かに図面を送るのは早くなったが、誰もがそう言う時代になったので、それが「早く」ではなく「当たり前」になってしまった。誰も彼もがそういうものを一瞬で送れるようになって、そうでなければならないものになったのだ。以前だったら、図面が届くのは翌日だから、そのタイムラグでゆっくりすることができた。だが今は、送ったらすぐに話をしなきゃならない。聞く方も聞かねばならない。聞いてしまったら次の行動(発注するとか)を取らねばならない。「ねばならない」「ねばならない」「ねばならない」で息つく暇もなくなった。
SNSもオンラインゲームも、広い範囲の人と知り合えて、分かり合えて楽しいツールである。それだけ見ればそうなのだけど、大なり小なり人付き合いが始まるという事は、その分忙しくなっていて、ネットが無かった頃に比べると俄然と時間がそちらに使われているのだ。その分心は余裕がなくなり、何だか忙しいような急き立てられているような気持ちになっている。そして食べている間すら、パソコンに向かっている。
・・・・いったい、こんな一日でいいのだろうか。
だから、お昼はあえて何もせず、お弁当箱を持ってさざんか公園で空を見たり、木々を見たり、移ろう季節を感じたりしたかったのだ。(と言いながら、スマホでブログを見てたりするのだけども。)
昼休み1時間もそんなボンヤリしていたら、さぞかし忙しくなるのかと思いきやそんなことはない。本当に必ず今日中にやらねばならないことは、大してない。空や雲をぼんやり眺めたり、さざんかの落ちた花びらを眺めたりしているうちに、「できないことは明日でいいや」となってくる。結局忙しい人は「やらなきゃならないと思ってることを、全部やろうとしてるから」ということになる。
という訳で10時になったので、もう今日も寝よう。
寝ることは特に大切だと思う。ゲゲゲの鬼太郎の作者、水木しげるさんも「自分はよく寝てたから長生きだった。(忙しい漫画家で若くした亡くなった方がいたことから)」と言っていたそうだ。
「出来ないことは明日でいいや」と思うけれど、寝ることは優先してちゃんとその日にしておこうと思う。