きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

朝のできごと

2014-05-20 | 歌謡曲・カラオケ
今日は目覚ましが鳴る前に目覚めて、kekeもバイトで早く起きるそうで、そんなだけでもイキイキ生きられそうな予感の朝だ。

髪を洗って(結局洗っている^^;)、今の髪型は美容師さん曰く「自然乾燥でOK」だそうで、ブローもせず放っといていいらしいパーマウェーブヘアだったのだが、だんだん伸びて何となく最近だらしなくなってきたような気がする。
ここはバシッとお仕事風にしなきゃ、ということで大きなピン止め(詳しい名称わからず:髪をまとめてはさむもの)を探す。


kekeは家を出るようなので、「今日は遅くなるから何か食べておいでよ」とお金を渡して「冷蔵庫の肉を使ってもいいけど」という。でもたぶん食べてくるだろうな、昨日残したすき焼き風ごった煮は弁当にしようと、ぐつぐつ煮直してスープ弁当箱に入れた。

制服のブラウスは着ているし、携帯、財布、免許証。
銀行に行く時読む本、日傘。
ウォークマンは今、椎名林檎の「NIPPON」を入れた。

そのうち始まるワールドサッカーのテーマソング、今回は椎名林檎の曲なのだそうだ。(NHKでは)
サッカーにはまったくついていけてない私だが、テーマソングで少しでもそのムードを味わおうという試みである。ましてや椎名林檎である。

まだ発売されていないその曲をyoutubeで見つけ、カセットテープ時代の方法(静かな締め切った部屋でその曲を大きめな音で流し、近くにマイクをつけたウォークマンを持って行って原始的に録音するという方法)でゲットし、そのノイズ交じりの曲をリピートリピートして聴いているのである。
(ちなみにチャンチャンチャチャチャン、というサッカーっぽいリズムと、ピーーっという笛の音、あたかもワールドカップという感じの曲である。)

そして私は一足お先にワールドカップを味わい、来月になった頃はそのムードも個人的に飽きて落ち着いてしまってサッカーがわからなくても「世間から取り残されている」という気持は薄らいでいるのではないだろうか。


準備OK。
そしてkekeが居ないから、給湯器や窓を見て、心配だからもう一度見たりして、鍵をかけて出た。

そして車を走らせ、赤信号の交差点で「そろそろ髪も乾いたから束ねようか」と思って、気がついた。
ピン止めをせっかく見つけたのに、カバンに入れるのを忘れた。

なんだよ、と思ったのも束の間。
もしや、と思ったらスープ弁当箱も入れ忘れた。

髪飾りよりむしろそれの方が重大だ。
昼に何か買わなくてはならない。

くそーー。今日の弁当はすき焼き。こんなに充実していることはないのに。
しかも、鍋に入ったままならkekeが気がついて食べるかもしれないが、弁当箱じゃそのままだ。(なぜなら家のあちこちに使わなかった弁当箱が転がっているからである。)温め直すことすらできない。

くそーーーー。



というわけで、ワカメヘアで今日の昼は何を食べようか考えいるトコ。

ひき肉と大根のカレー

2014-05-19 | ぶきっちょさんの家事一般
kekeが夜にいない時はカレーと言うパターンが多い。
もしも帰ってきてお腹がすいた時にご飯があれば食べられるし、何より手間があまりかからない。
そして自分はカレーがあれば他に何も要らない。

冷蔵庫にある野菜で・・・と言うことで「ひき肉と大根のカレー」にした。
これも「ケンタロウレシピ1003」の本からのレシピである。

本を見ながら、バターとにんにくはいいとして、大根と赤味噌をカレーに入れるのは大丈夫だろうか・・・一抹の不安がよぎり、本は4人前になっていたところ、全て半分の分量で作ることにした。そして我が家には赤味噌がなかったので、それは普通の味噌で代用した。

バターとサラダ油でにんにくを炒める。→玉ねぎも炒める→ひき肉を炒める。→大根を炒めて水を入れる→煮込んでからカレールーと味噌を入れる。

と言うレシピだが、玉ねぎは面倒なのできつね色になるまでは炒めてなかったり、サラダ油は入れなかったり、今改めてレシピを見たら酒も入るようだったが気がつかなかったり・・・最後の味噌も赤味噌ではなく普通の味噌を、自信が無いので少量にしたりしながら、やってみた。


ジャン。
(写真撮る前に食べてしまいました。^^;)

感想を書くと、おいしかったです。
そして更にレシピ通りに作ったら、もっとおいしかったのではないかと思います。

余ったので翌日(←今)食べてみましたが、大根でありながら、もろ大根と言う感じではなく、カレーとよくマッチしてます。味噌は少量だったのと、赤味噌ではないので、本当に入っているのかどうか私の舌では分かりません。赤味噌だったら、もっとコクが出ておいしかったのでは?と思います。^^;
バターでカレーを作ったことがなかったからバターの香りが新鮮だった。

前に大根の入ったビーフシチュー、大根のグラタンも作ってみて、それなりにリピしているが、今回の大根のカレーもまた作ろうと思う。(kekeが食べるかな?)

sakeの車窓から(初・熱海)

2014-05-18 | 車の練習
kekeが朝5時半に起きて6時に家を出た。
今日と明日はバイトがあるそうだ。

玄関で見送ると、「返そうと思ってたけど」と渡されたのはグレイとジャンヌダルクのベストアルバムである。
「聴きたければいいよ」

え?!(◎o◎)と言う驚きとともに
「アタシ今、キョンキョンと菊池モモコのベストアルバム借りているけど・・・」
と言うと、バタンと出て行った。

それからまた二度寝したりしたり本を読んだりしながら、来週のことを考えて滅入りそうな気分で青い空をながめながら「車があるうちに」出かけることにした。
天気もいいし、昼も夜も自分ひとりだからご飯も考えなくていいし、ガソリンも満タンだった。

せっかくだから・・・と、とりあえずGLAYのアルバムの最初の1枚をかけてみた。ドライブにはイイ感じで入ってくるが、いかにもkekeが歌いそうな曲が次々流れてきて、どれも同じ曲に聴こえる。。。と言うことはもしかしたら、カラオケが苦手な人からすると、誰が歌っている歌も同じに聴こえるのだろうか。kekeからすると椎名林檎も西野カナも同じ曲に聴こえるのだろうか・・・と思いながら走っていると、あまりの気持よさ(窓をあけると風もいい感じ)でついに熱海まで行ってしまった。

熱海は両親と何回も旅行で来たところだ。
車があるうちにいつかは必ず行こうと思っていた。
それは案外、手(いや足か?)の届くところにあったのだった。


西湘PAで海を見た。100円の手作りおにぎりがおいしかった。


海岸沿いに旅館がこのように並んでいる。

駐車代も気になるし目的もなかったので車から降りることはなかった。
これが車から見えた?熱海の海。^^



熱海の町中。


おみやげを買う代わりに温泉まんじゅう屋の看板を写真で。^^
(買ったつもり)


20年前から変わらぬ海沿いのジョナサン。

いつかは来ようと思ったけど、こんなにすぐに来れる所だと思わなかった。
日帰りで来たことがなかったから、もっと遠いと思っていたのだ。

熱海ビーチライン往復(軽でも)600円は高いけど、そこはちゃんと払った。
海景色は譲れなかったのだ。最高に良かった。

これで車で行きたかった場所は、全部突破してしまった。
またそのうちもう一度来ようと思う。
(帰りはキョンキョンのアルバムを聴きながら帰る。)

「だから言ったのに」

2014-05-17 | 友人
G子が会社を辞めることにしたそうだ。

給料も遅延し額も減ると聞いて、次の職場を探すことにしたと言う。そしてM君に相談したら、M君は「根性が無い」と説教されたとか。
M君がそんな風に言うとは信じられないけどG子の文面にはそう書いてあり、「このまま聞いていると病気になりそう。しばらくM君とは話さない」と言う。

それにしても、辞めた人に辞めた事を否定するのはどうだろう?
今の時点では辞めた方が正解とも、不正解とも言えないはず。

辞めた事でもっと合った職場が見つかるかもしれないし、辞めなかった事で(例えば違う会社として再生することになるとか)また違う展開が生まれるかもしれない。どっちが正しいと言う問題ではなくて、その本人が選び取った方向を理解して応援することが身近な人間ができることではないだろうか。
まして転職となればそれだけで不安なのだから。
(たぶん、その前に何らかのやり取りが二人の間にあったと想像される。)


それでついでに思い出したのは、「だから言ったのに」と言う言葉がきらい。

「こうなってしまいました。」と言うと、「だから言ったのに。自分の言う通りにしないからだよ。」みたいな言葉。
私はちょっと昔まで(今でもそうかな)割りとペコペコ下手に出る人間だったので、話題つなぎに「この前こんなことをしたらこんな風になっちゃったんですよ」みたいな失敗談をふることが多かった。すると「だから言ったのに」。

私は仕事や家のことは忘れっぽくてボケボケしてるのだが、こういう自分が傷つく系のことはホント執念深くいつまでもいつまでも覚えていて、「だから言ったのに」と言う人に限ってよくよく観察すると、実はそうでないことが多いのだ。
人間って自分の都合よく記憶をすりかえるクセがあって(それは脳科学でも証明されている)、そういう人に限って言ってもいないのに、自分が言ったつもりになってしまっていて「だから言ったのに」と平気で連呼するのである。

そしてこの言葉、何の意味ももたらさない。
やってしまった後に「だから言ったのに」と言ったところでその状況は変わらないし、言われた方も気分も悪い。意味があるとしたら、自分が相手より心理的に優位に立てる、と言うことぐらいだろうか。

百歩譲って、その人がいない所で「だから言ったのにあいつは」みたいに噂話的に使うのならまだ良いだろう。そう言う事でその人がいない場所で話題が盛り上がり、コミュニケーションには役に立つから。

「だから言ったのに」って言ったって、その通りにしたら成功していたとは限らない。
だって人生長いし、失敗だと思っていたことで学ぶ事もたくさんあって、そこからまた花開くことがあるからである。

「だから言ったのに」
私は心でそう思うことがあっても、口に出すことはしないようにしている。
してしまったことを後から言ってどうする、みたいな。

毎日シャンプー

2014-05-15 | 日記
もう5月も半ばなのに、私はまだタイツを履いている。

いつもならとっくに薄手のストッキングに変えるのだけど、今年は世間の流行や常識にに逆らって自らの感覚に素直に従うことにしたのだ。そしてこの数日朝の出勤も晩の帰宅も心地よい。
スカートは秋・冬ものの厚手の生地だし、シャツは薄い毛布みたいな生地である。
そして、誰も振り返ることもない。

5月ってこんな季節だったのか。

たぶん昼間は暑いのだろう。昨日も30度なんて誰かが言ってた。
でも屋内にいると、これで充分だ。
下着もまだ冬物のヒートテックである。

先日読んだ五木寛之さんの本によると、五木さんは髪を洗わない人らしい。若い頃は年に2回だったけれど、今は「加齢臭」なんていう嫌な言葉があるので2ヶ月に1度にしたそうだ。世界の国では頭を一生洗わない地域の人もいるし、洗い過ぎると免疫力が落ちるのではないかと思ったそうだ。

そして表紙を見る限り、五木さんの髪の毛は80代とは思わないほどフッサフサで、私は自分の髪の毛のペシャンコ加減を見て、「たしかに洗い過ぎもよろしくないかも」と思っている。

そもそも私も昔(といっても小学生ぐらいの昔だけど)は、それほど洗わない派だったのだ。理由は面倒くさいから。
しかし、髪の毛というのは2~3日洗わないとべとべとしてきて明らかに「洗っていない」のがバレてしまう。だから中学になってクラスメートの目が気になって洗い始めたのではなかろうか。今でも「どうして毎日洗わなければならないのだろう」と思いながら、ちゃんと洗ってないと不潔な人のように思われるのが怖くて洗っている。それにやっぱり女子なので、髪の決まり具合でその日一日の気分が決まるところもあるんだな。

その反面、それに付随して流れるお湯の量を「もったいない」と思わずにはいられない。
日本中みんながこんなに髪を洗っていたら、日本全国でどれだけ水が必要なのだろう。想像すると気が遠くなりそうだ。誠に地球規模で考えると迷惑な話だろうと思うし、毎日髪を洗っているうちは「地球をきれいに」とか「エコ」なんて言葉は使えないと思う。(私は使わない。)

前の会社では「エコ」「地球を大切に」という精神が流行っていたので、ついうっかり「本当に地球を大切に思っていたら、毎日シャンプーするの変ですよね。」と言ってしまい、そこにいた人をどっちらけにさせてしまったが、今振り返っても間違っていないと思う。本当に地球を大切にするのなら、まずシャンプーの回数を見直し、エアコンもできるだけ入れないようにする。それをせずに何が口先だけでエコですか。私はガンガン髪を洗い、大した用もないのにエンジン掛けて車に乗っている。そういう人間なのだ、と自覚はしている。

でも五木さんの本を読んでから、シャンプーは一日おきにして、「お湯ですすぐ」だけの日を取り入れている。そうすればお湯の量は少なくて済むし、頭皮にもやさしいのではないかと勝手に思っているのである。しかし、この状態がいつまで続くかは定かではない。

彼の人生は彼のもの

2014-05-14 | 今の会社
会社はまるで蕎麦屋の出前のようである。
秀クンはAさんがとってきた案件、某建物の仕事をすることになっていた。Aさんも早いうちから社長にそれの仕事を秀クンつかせてほしいと頼んでいたのである。

しかし、社長の案件がここにきて着工が決まり、何やかんやで秀クンを自分の下に置きたいと思っているようで、地祭りに声を掛けたり、何かとからんできて、その様子はまるで蜘蛛が巣を張って、じわじわと獲物を狙っている様のようである。

「sakeさん、工事のお知らせを作って。」と秀クンは言う。「それでね、地図で周りに何件の家があるか調べて、その枚数コピーしてよ。」と言い、「それで地祭りの時、それを一緒に社長に持ってってもらって。担当は社長の名前でね。」と言う。
私はそのお知らせを作りながら、「社長の名前だけって言うのは、それはそれでまた角が立ちませんかねぇ。」と言うと、秀クンはしょうがないなぁと言う感じで「それじゃオレと連名でいいよ。」と言う。

「オレだって体が二つあればやるよ。」と言い、1つしかないんだからできないものはできないよ、と言うので、「せめて残業代でも出ればいいのにね」と相づちを打つと、「そうだよ!オレだって金が入ればまた違うよ。」と言う。
という事はやろうと思えばできるのか?!というツッコミはさておき、地祭りの酒を用意してないことに気がついた。安いし急ぐので直接スーパーに買いに行ったが、これから時間が無い時は少々高くても酒屋さんに持ってきてもらおうと思う。

今日もそんなんで午前中がつぶれた。外に出る用事はなるべく出た時に一気に済ませたいと思って、酒を買ってから、銀行に寄って預かっていたお金を入れたり、郵便局で印紙や切手を買った。ついでに自分の軽自動車税も払ってきた。それから秀クンが昨日「甘い菓子が無い」と言うのでそれも買った。帰りに吉野家に寄って息抜きにカレーを食べた。昼休みのおっちゃん達が作業着で定食を食べている。一緒だなぁと勝手に思う。
1時前にようやく帰ってきた早々社長に「行けたら金おろしてきてよ。」と言われる。結局二度手間か。。。

午後になっても時間が取れず、また今日も定時過ぎから自分の仕事に入った。秀クンも忙しいようで一緒に残って仕事をした。午後秀クンに「ハンコを買ってきてよ」と言われた時はムッとして、私より早く帰るようだったら、「帰りに100均に寄って買ってくださいね」と言ってやろうと思ったが、秀クンも仕事が山積みのようでそんなことはなかった。
7時を回って「そろそろ帰りますよ」と私は言い、秀クンも「それじゃオレも帰る」と言う。

ここ数日こんな感じだ。土曜も父の面会の帰りに仕事をしに行った。
(GWで無駄休んでしまいこうなることは分かっていたのだが)
消費税値上げを機に、なるべく惣菜類を買わないで作るようにしてきた。
本来料理を作ることは「よいこと」と思われているが、これで体を壊すようだったら「よいこと」とはとても言えない。

ということを踏まえて、本当に「よいこと」「悪いこと」ということがあるのだろうか、と最近思う。
例えば、kekeの引きこもりだって、世間的には「悪いこと」に該当するのだろうが、もしかしたらそのことで、何かの事故や事件に巻き込まれない済んでいる可能性もある。

この前の土曜もジャージ(パジャマ姿)のkekeについ怒った。
しかし、私はkekeを怒る権利があるのだろうか。
彼は成人を過ぎている。この先仕事がなければ死ぬ覚悟もできている。
自分の選んだ人生を自分で引き受ける覚悟はしているのである。

それについて、ああしろこうしろ、こうでなければいかんだの、言う権利があるのだろうか。彼の人生は彼のもの、私の人生は私のものなのだ。

彼を養うのも、彼を見捨てるのも私の勝手。
kekeは私がここから出て行っても、文句1つも言わないだろう。
その代わり彼は怒る。私がああしろこうしろ、お前のここを変えろと言った途端に怒り出す。アンタには関係ない、どうしようとオレの勝手だ、例え死んだって。

そんなことを私達は何年繰り返してきたのだろう。

五木さんの本には「引きこもり」について一言も書かれていない。
だけど私はこの本を読んで、はっきり悟る。
人を変えようとするのは、その人を認めていないということだ。
自分の方が正しいから、あなたは私の言うとおりに変えなさい、と遠まわしに言うことだ。
その考え方の裏に「驕り」がないだろうか。

私の考えのどこが「正しい」と言えるのか。それを押し付けた所で私は先に死んでしまう。その後の責任は取れないのである。
自分の好きに生きさせ、その結果も自分で引き受けさせる。
彼はもういい大人なんだから。

火曜にして、今週は疲れた。
この週末は誰が何と言おうと、いっぱい眠って休んでやろう。
それは「悪い」ことでも「怠ける」ことでもない。

ハンコも忘れてしまえばいいのに、覚えていたのであれから買ってきた。くそ。

だましだまし生きる

2014-05-13 | 健康とか病院とか
いよいよ五十肩がまた重くなる。

前の右の肩の時はもっとひどくなって、ついに医者に行くのだが、このまま行くとこの肩もそのようになるであろう。昨日五木寛之さんの本を紹介したが、「病気は治るのではなく症状が治まってるだけ」と書いてあった。結局はどこかでムリをしているのが、年を取るとこういう風に体に出てきてしまうそうである。

それでもまだ腕はかろうじて上に上がる。
右の肩の時はやがて90度しか曲がらなくなった。
これからそういう状況になるであろうと覚悟しながら、だましだまし使っていこう。

まさに「だましだまし」。
生きることそのものも「だましだまし」なのでブログも「だましだまし生きる」にタイトルを変えたい、とある方のブログのコメントでボヤいてしまったが、言われた方も困るよね、ハハハ。。。。

そんなことはさておき、左肩の五十肩は右と違って幾つか支障が出ている。
今日はそのことをメモっておこう。

1.車の車庫入れ。
私は窓を開けて、後ろを見ながら左腕でハンドルを回し、バックで車を入れる習性があるのだが、この動作が辛い。最近は分かっているので、まさに「だましだまし」少しでも痛くないだろう回し方をしているのだが、ハンドルの回し方にバリエーションがあるはずもなく痛い時は痛い。しょうがないので、なるべく窓を開けずにサイドミラーで入れるのも練習しているが、左右に車が入っているとそんな恐ろしい事もできずに、相変わらずだましだまし窓を開けて駐車している。


2.トイレで紙で拭く時。
今週に入ってからこれが不都合になり、だましだまし拭いている。ここで初めて自分は左手で紙をちぎり左手で拭いていることに気がついた。家で行っている時は、家のパーパーホルダーは右についているのに、わざわざ左手でちぎって左手で拭いているのである。

今まで人から「利き手はどちらですか?」と言われた時に答えられなかったのだが、(何故ならペンは右で、ラケットは左だったから)、私は左利きなのだろうか。それとも誰もが紙で拭くのは通常左手なのだろうか。

それから会社のトイレはペーパーホルダーが左についているのも発見した。
そもそも、トイレのペーパーホルダーとは、どちらについているものなのだろうか。ひょっとして会社の女子トイレのペーパーホルダーはつく位置が逆なのではなかろうか。(建築会社なのに)
今週に入ってから、トイレに入るたびにいろんな疑念が生じる。


3.ジャケットを脱ぐ時。
私は左から袖を通すクセがあるので、右の時はジャケットが着れなくなった。仕方なく右から着るクセをつけたので子供が着るようなぎこちない着方になっていた。今度は着るのは簡単だが脱ぐ時に左腕を後ろで回さねばならないので大変なのだ。長袖はまだいい。半袖になると、ググッと左腕を回さねばならずもうこれは既に不可能になっている。

ジャケットの脱衣はまだ左右逆にすればどうにかなるが、トイレは困った。たぶん今さら右では拭けないのではないだろうか。車は頭突っ込みで入れるか。でもそれは出す時に怖いからしたくない。
今考えてもしょうがない。だましだまし使って、使えなくなったらまた考えよう。
人生ってそんなもの。

ブログのタイトルではなく記事のタイトルを「だましだまし生きる」にしてみる。

「なるたけ医者に頼らず生きるために私が実践している100の習慣」/五木寛之さん

2014-05-12 | 読んだ本
「なるたけ医者に頼らず生きるために私が実践している100の習慣」/五木寛之さん

五木寛之さんと言う人は聞いた事があるが、本を読んだことは1度も無かった。
たまたま先日、雑誌か立ち読みか何かで読んでいつかそのうち借りてみようとチェックしていたのである。そして借りてみたのが上記タイトルの本である。

この本を読んで私はたちまちこの人のファンになった。
何て言うのかなぁ。一言で言うと「真っ当」なのである。
正々堂々でありながら、しなやかなのである。

この方は腰に持病があるそうで(80歳にもなるとあちこちに具合が出てくると書かれているが、ページを割く割合からも腰に相当神経を使っているように思われる。)そういうものも今さら治そうとはしない。症状が出ないように、時に身体を休め、負担のあるポーズは取らないように、症状をできるだけ表に出さないように仲良く付き合っていきましょう、と言う考えである。

「常に体に問いかけていれば、孤独ではないものです」とも書かれている。
「今日はどうだい、お前さん」と体に問い掛け、食べ物1つでもそれが今の自分の体に合うものであれば、良い便が出る。そういう所をチェックしてあとは運命に従って生きて行きましょう派である。前に紹介した近藤誠さんや、藤田紘一郎さんのセリフも出てきている。「病院にはなるべく行きたくない」派なのである。ご自身の選択で健康診断は行かない。症状が表れて手遅れになった時、その時はその時と考えるからなのだ。

「健康法とは他人の養生である。1万人に効果があっても自分に合っているとは限らない。自分に合わないと思うものはすべて続かない、自分の体の声を聞こう」
なんせ80歳も生きているじいさんなので、いろんな人の死に目を見ている。その結果「健康に注意している人が必ずしも長生きでない」ことを発見したようである。逆に仏教の創始者に(当時の時代にもかかわらず)長生きしている人が多いのに着目して、仏教からの引用も多い。(ご自身でも相当仏教を研究されているようである。)
「人生は苦しみの連続」として、一日何回か「あーあ」と深いため息をつくことを推奨。「笑うことも心身によいが、泣くことも同じ」と言う。「最終的には他力」と言う瀬戸内さんの言葉も引用、自分の心地よいことを愉しみながら、死については時期がくれば自然に迎えられる、と言う。

このおじいさんは、文章のいたるところに謙虚さがあり、ある種のお茶目を持っている。
60歳で免許を返納したそうであるが、1度も事故を起こさなかった。
「人からは運がいいと言われる、自分でも感謝している」とはしながらも、それでも実はこういう風に慎重に運転してきたんですよ、高速道路でもスピードは出さなかったし、列の最後尾にはならないようにしたし、要は頭を使って運転してきましたからね、なんてことをボヤく辺りがお茶目なのである。そしてそれがイヤらしくないのである。

こういう男性作家さんとは、もっと上から目線で自説論をかますものかと思っていたが、そういうおごりが文章にみじんもなく、人徳を感じる。(こうして書いてる自分の方が驕り三昧で恥かしい。)

文章を書いていると、その人柄が表れるのだなと私は発見した。
私のも悪い所がいっぱいある。それはそれで認め育てながら、このおじいさんのようにしなやかな人間になりたい。
まだまだ私は心のどこかで「自分は50年近く生きてきた、いろんな経験も悩みもしてきたから、人より考えてることがいろいろあるんだよ」そんな驕りがあるように思う。そしてそれをどうしても言わずにはいられないのだ。
そんな自分を諫め認め、私の自分の体の声を聞いて今日一日も元気に暮していこう。

サイフのプレゼント

2014-05-11 | 日記
私が某駅に降り立ったのは、姪っ子の誕生日が近いからである。
最初はほどほどの店で服でも買おうと思うけれど、値札を見るとどの店もそれなりに高い。

(それにミキの方は服の趣味がイマイチ分からないからなぁ・・・)
上から下まで駅ビルを眺めながらどうせならほしいものをと、妹に電話をかけて「ミキちゃんのほしいもの」を訊いてみることにしたところ、「そう言えばサイフを最近欲しがってたよ」と言うことである。
妹曰く、「ピンクや女の子っぽいものは好きでなく、どちらかと言うと男の子が持つようなカジュアルで、イギリスみたいな感じ」だそうである。

(イギリスっぽいってどういうのだろう?伊勢丹みたいなチャック柄?)なんて思いつつ、要するにピンクやポップって感じじゃないのがいいのね、みたいな感じで探すことにする。

そしてまずはロフトに行って「財布ありませんか?」と尋ねると、山登りのおっさんが背負うリュックみたいな生地のサイフを案内された。(う~んこれはイギリスとは言えないなぁ)と思い、ステーショナリーコーナーに行くと、「牛革」みたいなサイフがあるが、1万何千円もするようであり、これはこれで予算的にイタイ。

それではとチープな高校生ぐらいの子が着そうな服屋を見てみるが、カバンや靴はあっても、サイフは無い。あちこち見るが、ポーチまではあってもサイフは何故か服屋にはないのだ。
ソニープラザも案外サイフはおいておらず、アイデア商品みたいな雑貨店に行って「サイフはありませんか?」と尋ねるも、どくろのマークとか、迷彩柄になってたりとか「幾ら男の子が持つようなって言ってもちょっと違くない?」と思わせるものがある。

今度はキャピキャピ♪してる髪飾りが売ってるような店も覗いてみるが、こういうところに売られている財布はキャピキャピしてて、要望に合っておらず、最後にはビックカメラにまで「サイフはありませんか?」言い寄ったが「ブランド品」しかないそうで、私的に納得ができず(単に予算が合わないだけなのだが・・・)もうちょっと庶民的な店に行かなくては、と言うことになった。

そして1度家に帰り、車に乗って、イオンとかヨーカドーかなぁと思い、車を走らせ、到着。
財布売り場に行くと、これはこれで「婦人物」はおばさんっぽいし、「紳士」ものはおじさんぽい。

「うーん。。」と悩み、また専門店街をあちこち歩き、ああでもないこうでもないと言って、結局自分は何が買いたいのか分からなくなってきた。

イメージはドデンとあるのだが、何せ予算に限界がある。
個人的には今私が使っているような、1,000円サツも入って、小銭も入る場所があって、カードももちろん収納できて、でも長サイフだとカバンに入れにくいし、折り曲げてもあまり分厚くならなくて安っぽくも見えなく、男の子っぽくてイギリスっぽいけどおじさん臭くはなくて、最後に値段が庶民的なもの。

なかなかない・・・(+o+)

そして悩みに悩んだあげく、タウカンと言うロゴの入った財布を持って行って「誕生日用に包んでください。」と言うと、ラッピングは上の階になります~と言われて、また上に行く。。。。。


こうして何時間も掛けてサイフをゲットした。
(イギリスではなくてハワイになってしまったが。)

kekeにその話をすると、「タウカンって幼稚なんじゃないの?今は中学生もブランドもののサイフを持ってるよ。」と言われる。(+o+)

今回のプレゼントは労力を使ったわりにイマイチだったかもしれない。。。

スイッチON・OFF

2014-05-10 | 私の倹約術
仕事で帰りが遅くなってしまった。
社長が帰らなかったので珍しく秀クンもnanuさんも遅くまで仕事をしていた。夜も8時になってしまったが、これからスーパーの半額シールの時間だ。

バタバタとスーパーに急ぐと、まさにここから半額シールが貼られるという瞬間である。
見切りゲッターの腕がなる。

私は半額値札のついた弁当やつまみ類を、買い物カゴに入れていった。(^o^)
弁当1個、手巻き2本、いなり寿司、ミニ冷やし中華、アジのたたき、生春巻を1,020円でゲット。

(消費税5%の頃だったら1,000円以内だったんだなァ)と勝利の喜びで胸いっぱい躍らせて家に帰ろうとした矢先、人通りが多い四つ角に頭をちょっと出して止まって様子をうかがっている車があったので、後ろを通り過ぎようとしたらその時、急にバックしてきて当たりそうになった。(近くにいた親子連れもびっくり)

あれはビックリした。

私もタダでは転ばない性格なので、これから自分が車をバックさせる時は人にぶつからないように気をつけよう。
その車はその後どんどんバックして行った。
何のためにそんなに後ろに進んでいるのか分からないが、それを見届けないまま家路に急ぐ。


今日は半額の惣菜類が大量に買えたので、料理はお休み。
ふと思ったのだが、車ドライブ中のコンビニや牛丼屋でのお昼、半額ゲッターの買い物。
この二つの快感は料理をしていると味わえない。

料理は料理で楽しいけれど、正直に言うと個人的にはドライブして牛丼屋に入っている方が楽しい。
この二つの楽しみは同時には成り立たない。
スイッチをONにするか、OFFにするかのような相反するものがある。

ドライブして牛丼屋に入る楽しみを覚えてしまうと、料理を作るのがかったるくなる。しかし料理は料理でその世界にひたすら没していればそれなりに楽しい。男の浮気ももしかしたらこういう感じなのだろうか・・・・同じ世界には存在できない二つの楽しみ・・・・そんな突っ込みどころのない妄想を覚えながら今日の一日を終えた。


買ってきた見切り品は今日の朝ご飯にもなった。
1,000円で夜と朝と二人で食べられるなんて役得役得。