津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

Question

2007-06-11 21:57:02 | 歴史
 宇土細川家六代興文(豊前守・中務少輔・月翁)は名君の誉れ高い人である。老中になるのではないかとの噂さえあった。生母は竹間氏津佐子であるが、父親は竹間定右衛門保定といいその叔父は福島正則であるという。興文女が細川宗家治年の正室となり、嫡子立礼はその治年の養子となった(斉茲)。斉茲の嫡子斉樹に継嗣なく弟(宇土八代藩主)立之の嫡男立政を養子とする(斉護)。こうして宗家の血は、宇土細川家の濃い血で継承されてきた。現細川家にも福島氏の血が流れているという事になる。果たして竹間氏とは何者・・・・・
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永蟄居

2007-06-11 13:01:56 | 歴史
 幼い小栗四兄弟が熊本城内の囲い屋敷に入った頃、細川忠利の末子長岡元知(南条元信養子)は、甥に当たる藩主綱利によって永蟄居となり、十一年ほどの月日を過ごしている。過ぎし日いわゆる陽明学徒の追放事件に関し、綱利に対してその罪の軽からんことを諫言して不興をかった。当時の奉行所日帳は「長岡左近(元知)殿儀、今日御前にて病気ニ御成候」とあり、後日の記録には「乱心・・・」とある。家老職を解かれ、知行(5000石)を召し上げられ永蟄居となった。左近29歳、綱利27歳である。この処分が解かれるのは元禄十年だというから、28年のながきにわたった。養父南条元信は、細川忠興の次男興秋の娘婿である。内室は家老米田是長女・吟、嫡子是庸はその米田是長の養子となって家を継いだ。小栗四兄弟が開放されるには、まだ三十年ばかりの月日を要するのである。むなしさばかり残る二つの事件。
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