津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

鷺絵源三郎久重覚書

2007-06-07 20:32:07 | 歴史
 茶道に就いての研究は専ら三千家が主流で、このような資料は茶道研究家の研究資料には成らないのだろうか。「寛永年間三齋公の懇命を被り、公の御茶湯の事を逐一見聞筆記したもの」と「肥後文献解題」は紹介している。私は上妻文庫の写本を拝見したが、これはもう素晴らしいものである。茶道具の絵や茶室の見取り図などもあり、二百十五ヶ条にわたるものである。コピーをするのには少々骨が折れそうなので、未だ手元に置く事は叶わないが、そろそろ頑張ってみようかと思っている。(1時間ほどコピー機を占領しなければならないだろう)何方か研究に頑張っていただける方は居ないかしらん・・・
いつも他力本願な私
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福地平左衛門というひと

2007-06-07 09:18:39 | 歴史
 肥後細川藩二代藩主光尚は31歳の若さで亡くなっている。「二人の子どもは未だ幼いので肥後国はお返しする」と、将軍家光の名代・酒井讃岐守に遺言らしき事を言って逝った。さて支藩宇土細川家に福地平左衛門なる人があった。中津においては忠興の近くにあった(500石)。光尚の死後、嫡子六丸(綱利)に40万石、宇土支藩の行孝(丹後守)に14万石と肥後分割封知の風聞がささやかれた。そんな風聞に接して、福地平左衛門は急遽江戸へ下り、藩主行孝にそのことの非を進言したという。そのことに立腹した行孝に手討ちにあったと伝えられている。結果として光尚の遺領は、若干七歳の六丸に相続されたが、平左衛門お手討ちのことは、秘中の秘のとされた。当時行孝は十四歳であり、そのこと如何とも思われるが、平左衛門が慶安三年死亡している事は事実である。行孝は平左衛門の亡霊に悩まされ、宇土支藩江戸屋敷には霊社が創建されたという。時代が下って宇土細川家六代目の興文(月翁)は、家老芦田・柴崎の夫々の子供に、福地の名にちなんだ福永・地本というニ家をおこさせたという。闇の中にあるこの事件は、後の大奉行堀平太左衛門が書き残した、僅かの文書のみによって知ることができる。平左衛門の死も又風聞の中に掻き消されている。
         参考文書:福知(ママ)一件・・堀平太左衛門勝名
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