森鷗外の「阿部一族」は、その誅伐事件の当事者である阿部家の隣人、栖本又七郎が書き残したとされる「阿部茶事談」を低本にしている。しかしながら、これは事件から百年も後のもので、最近の研究によるとかなりの脚色があるとされる。殿様から褒められて、いささか有頂天気味の又七郎は、昔戦場をへ巡ったことを思うとこのような事件など「お茶の子さいさい」だと語った。そのことから「茶事談」と命名されている。不謹慎の極みだ。
阿部氏は本姓山村氏、出自は豊前宇佐の惣庄屋の出身である。豊前御侍帳には「御惣庄屋 宇佐郡・五十石 山村弥一右衛門」とある。その文治能力を忠利に認められ出頭していく。それ故、忠利の死に当たっては周囲の「ひがみ心」を煽ってしまった。そして弥一右衛門は遅ればせながら殉死をする。そして悲惨な事件が起るのであるが、詳細については、此処では省略するが、事件はこれで終わったわけではない。
阿部家には豊前豊後出身の家来・下人が五人、肥後入国後八人の代官や下人を雇っている。そのうちの三人が誅伐されている。「綿孝輯録」はこの事件を「阿部茶事談」によっている部分が多く、これらの真実には触れていない。
豊前宇佐郡山村・・加嶋源丞
同 小作・・源丞甥
豊前宇佐横山村・・助右衛門
以上三名の豊前出身者が誅伐された。事件の翌年の正保三年二月廿六日付の「御奉行御奉書」にその旨の沙汰が下ったことが記されている。残りの人達も約七ヶ月ばかりを「質部屋」に拘束されていたものと思われるが、後開放された。
又、氏家志摩守家来・福田源左衛門(阿部兄弟・従兄弟)、後藤市十郎家来・嶋九郎兵衛(同)、湯浅三大夫家来・下川作兵衛(阿部家下僕・二ノ内助右衛門まま子)の三人も、罪を得ることはなかった。これも多分拘束されたものであろう。
阿部氏は本姓山村氏、出自は豊前宇佐の惣庄屋の出身である。豊前御侍帳には「御惣庄屋 宇佐郡・五十石 山村弥一右衛門」とある。その文治能力を忠利に認められ出頭していく。それ故、忠利の死に当たっては周囲の「ひがみ心」を煽ってしまった。そして弥一右衛門は遅ればせながら殉死をする。そして悲惨な事件が起るのであるが、詳細については、此処では省略するが、事件はこれで終わったわけではない。
阿部家には豊前豊後出身の家来・下人が五人、肥後入国後八人の代官や下人を雇っている。そのうちの三人が誅伐されている。「綿孝輯録」はこの事件を「阿部茶事談」によっている部分が多く、これらの真実には触れていない。
豊前宇佐郡山村・・加嶋源丞
同 小作・・源丞甥
豊前宇佐横山村・・助右衛門
以上三名の豊前出身者が誅伐された。事件の翌年の正保三年二月廿六日付の「御奉行御奉書」にその旨の沙汰が下ったことが記されている。残りの人達も約七ヶ月ばかりを「質部屋」に拘束されていたものと思われるが、後開放された。
又、氏家志摩守家来・福田源左衛門(阿部兄弟・従兄弟)、後藤市十郎家来・嶋九郎兵衛(同)、湯浅三大夫家来・下川作兵衛(阿部家下僕・二ノ内助右衛門まま子)の三人も、罪を得ることはなかった。これも多分拘束されたものであろう。