津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

武田信玄の孫、岩間六兵衛なる人--2

2008-02-07 20:25:50 | 歴史
 慶長十四年(1608)忠利、豊前中津にて婚姻 (23歳)-千代姫(13歳)
   岩間六兵衛、小笠原秀政の命を以って千代姫の付人として細川家に入る
 慶長十七年(1612)武蔵・小次郎舟島にて戦う
 元和元年(1615)大阪夏の陣
         忠利、嫡子六丸(光尚)誕生、九月十八日豊前中津 (30歳)
 元和七年(1621)忠利、家督相続す (35歳)
 寛永九年(1632)忠利、肥後十二郡・豊前三郡五十四万石を賜る(46歳)
         十二月六日小倉発、九日熊本入城(三齋・八代入城)
   同年十二月五日書状にて、小笠原忠眞の「岩間六兵衛を返すべし」の要請を断る
            (大日本近世史料・細川家史料)
 寛永十一年(1634)光尚、烏丸光賢女と婚姻 (15歳)
 寛永十四年(1638)十一月島原一揆勃発、翌年正月二日光尚出陣す(19歳)
 寛永十七年頃岩間六兵衛をして、宮本武蔵の仕官を勧誘する(二天記)
 寛永十八年(1641)忠利歿、光尚遺領相続(23歳)
 寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも
   流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。
(綿孝輯録)
 寛永二十年(1643)正月八日、綱利江戸にて誕生
 寛永二十年(1643)阿部一族を誅伐する (25歳)
 正保二年(1645)忠興(三齋)十二月二日八代に薨ず 殉死五人 (83歳)
 正保三年(1646)光尚、立孝の子宮松に宇土益城三郡のうち三万石を内分す。
        (宇土支藩)松井佐渡守興長を八代城代とす。(28歳)。
 正保四年(1647)正月、岩間六兵衛歿
 正保四年(1647)葡国カリアン船長長崎入津防禦として出兵  
         壱万千三百一人 大小船合四百三拾二艘
 慶安二年(1649)十一月廿四日・忠利室保寿院、江戸にて卒す(53歳)
         十二月廿六日・光尚江戸にて卒す、殉死十一人 (31歳)
 慶安三年(1650)六丸(綱利)四月特例を以て遺領相続


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武田信玄の孫、岩間六兵衛なる人--1

2008-02-07 14:45:25 | 歴史
 忠利夫人千代姫の入輿にあたって、小笠原家から付人として細川家に入り家臣となったのが岩間六兵衛である。武田信玄の孫であるとされる。この人については、三つの説があって私の頭を悩ましている。

(一)武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)

(二)源正成・武田六兵衛、岩間と改 武田晴信入道玄孫義信子 武田勝頼臣岩間大蔵左衛門正頼養子、武田家没落後小笠原兵部大輔に仕、慶長十九年保寿院入輿の時付人、忠利より三百石拝領 正保四年正月二十五日江戸歿 妻梅津江州伴城主伴周防孫
           (花岡氏監修 肥後藩・主要系図より)

(三)細川家臣。六兵衛。武田信清男。武田氏滅亡の後、塩谷監物の養子となる。監物は小笠原秀政に召抱えられ、正成は秀政男忠真に附属せらる。そののち、秀政女千代姫が徳川秀忠養女として細川忠利に嫁ぐに際して、これに附属せられ、細川家臣となり、岩間六兵衛と改称す。元和九年頃、江戸詰衆、二百石、外に合力米百石。
           (大日本近世史料・細川家史料・・人名一覧より)

   1、父親は誰か。
   2、養子先は岩間氏か、塩谷氏か 
 三者三様の説であって交わる事を知らない。(三)についても承知していたのだが、東大史料編纂所がこの説を採っておられるのが驚きだった。綿孝輯録と明らかな違いがある。

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鶴屋敷

2008-02-07 08:24:18 | 熊本
 熊本の老舗デパート「鶴屋」の命名の由来は、かってそこにあったお屋敷を「鶴屋敷」と呼んだ事による。松の木が多く生い茂り、そこに鶴が飛来してそう名付けられたとか。「新熊本市史・地図編」を見てみると、角地に当たるところは村上家である。侍帳からすると二百石・村上助之進家のようだ。その南隣の大きな屋敷は、清水家の下屋敷が代々続いてここにある。清水家は四千石、細川綱利の生母「清高院」の実家である。その故を以って肥後に下り細川家家臣となった。村上家の西側に福田家があり後には奥田家が入ったりしている。この三家の屋敷跡がまぎれもない「鶴屋」発祥の地である。「鶴屋敷」とは清水家の事を言ったのかもしれない。「鶴屋」は二期工事で東へ大きく広がった。建物を見ていただくと明らかに増築された部分を知る事ができる。そして現在道を挟んでその南の一角に新館が建設されて、本館からブリッジでつながれている。道筋は江戸期から殆ど変っていない。鶴が飛び交った町並みは、現在熊本一の繁華な町になっている。(ブリッジの下に、幕末期ささやかなわが家があった)
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