寛永十二年、江戸城普請役を仰せつかっている細川家は、金銀不足に喘いでいる。とうとう忠利は、妹の烏丸光賢簾中・万に泣き付いている。九月九日書状案によると
「万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事」とある。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。そんな中光尚の舅殿(光賢)の父・光廣は、光尚の侍従叙任に向けて奔走している。
(番外・・九月末、忠興は京にあったが、万の生母明智氏が危篤になり下国する事にした。同じ日の書状には「万銀子は最早無御座候由、云々」とある。
十月二十五日書状には、万の母・明智氏が「すきと本復」した事が、彌々にも伝えられ
「事之外満足」したことが記されている。)
天草島原の乱、重なる普請、葡国カリアン船長崎入津防禦として出兵等、細川家の経済状態は火達磨状態へ突入していく。
「万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事」とある。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。そんな中光尚の舅殿(光賢)の父・光廣は、光尚の侍従叙任に向けて奔走している。
(番外・・九月末、忠興は京にあったが、万の生母明智氏が危篤になり下国する事にした。同じ日の書状には「万銀子は最早無御座候由、云々」とある。
十月二十五日書状には、万の母・明智氏が「すきと本復」した事が、彌々にも伝えられ
「事之外満足」したことが記されている。)
天草島原の乱、重なる普請、葡国カリアン船長崎入津防禦として出兵等、細川家の経済状態は火達磨状態へ突入していく。