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有吉立言----立吉--+--興道----貞之----貞親
| 4 (5)
+--英貴----英安==尚常
有吉興道は元和四年36歳で亡くなっている。嫡子貞之が幼少で有った為、弟英貴が相続したとされる。貞之への跡式相續がなされなかったのは、どうもそれだけが原因ではなかったようだ。
「内膳(興道)儀武勇ハ親武蔵守(立吉)ニも不劣なれ共、御意ニ不叶儀有之、内膳跡御立不被成、武蔵跡を平吉(英貴)江被下、諸格式武蔵守通り被仰付候」と綿孝輯録は語る。そして「御意ニ不叶儀」とは「慶長七年之比忠興君より武蔵ニ御内意有之候ハ、お万様を嫡子興長江嫁とらるへきとの事ニ候江共」「興長所存有て御断申上度由」が原因らしい。嫁に取らせると忠興に言わしめた「万」こそ、愛娘のちに烏丸光賢に嫁ぎ、光尚室となる彌々を生む「万」である。「参考:(忠興元和元年)十月、おまん様・于時十八歳・を御同道ニ而、御上洛被成、十一月十九日烏丸光賢卿江御輿入れあり(以下略)」
その縁談を断った事が、とんだとばっちりを受けたことになる。
さて其の後の有吉家の系図に、私はいささかの疑問を持っている。
(3)英貴・・寛永十年3,500石加増都合18,500石家老
(4)貞之・・寛永十九年新知1,500石
(5)貞親・・寛文十年部屋住にて家老職
(5)英安は細川忠利女竹を正室とし、正保二年三月跡式拝領している。父英貴の死の一月後のことである。承應二年十一月家老職、寛文二年五月26歳で京都で亡くなった。有吉家五代目は(5)英安ではないのかという素朴な疑問をもつのだが、如何であろうか。(5)貞親が部屋住みで家老職につくのは、寛文十年であるから辻褄も合う。
残念な事に「有吉家先祖附」を詳しく読んでいない。説得力のない話しなのだが・・・・
有吉立言----立吉--+--興道----貞之----貞親
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+--英貴----英安==尚常
有吉興道は元和四年36歳で亡くなっている。嫡子貞之が幼少で有った為、弟英貴が相続したとされる。貞之への跡式相續がなされなかったのは、どうもそれだけが原因ではなかったようだ。
「内膳(興道)儀武勇ハ親武蔵守(立吉)ニも不劣なれ共、御意ニ不叶儀有之、内膳跡御立不被成、武蔵跡を平吉(英貴)江被下、諸格式武蔵守通り被仰付候」と綿孝輯録は語る。そして「御意ニ不叶儀」とは「慶長七年之比忠興君より武蔵ニ御内意有之候ハ、お万様を嫡子興長江嫁とらるへきとの事ニ候江共」「興長所存有て御断申上度由」が原因らしい。嫁に取らせると忠興に言わしめた「万」こそ、愛娘のちに烏丸光賢に嫁ぎ、光尚室となる彌々を生む「万」である。「参考:(忠興元和元年)十月、おまん様・于時十八歳・を御同道ニ而、御上洛被成、十一月十九日烏丸光賢卿江御輿入れあり(以下略)」
その縁談を断った事が、とんだとばっちりを受けたことになる。
さて其の後の有吉家の系図に、私はいささかの疑問を持っている。
(3)英貴・・寛永十年3,500石加増都合18,500石家老
(4)貞之・・寛永十九年新知1,500石
(5)貞親・・寛文十年部屋住にて家老職
(5)英安は細川忠利女竹を正室とし、正保二年三月跡式拝領している。父英貴の死の一月後のことである。承應二年十一月家老職、寛文二年五月26歳で京都で亡くなった。有吉家五代目は(5)英安ではないのかという素朴な疑問をもつのだが、如何であろうか。(5)貞親が部屋住みで家老職につくのは、寛文十年であるから辻褄も合う。
残念な事に「有吉家先祖附」を詳しく読んでいない。説得力のない話しなのだが・・・・