津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

地図で散歩・・・その2

2008-02-27 13:57:16 | 歴史
 藩主のお屋敷・御花畑邸(御花畠・御華畠etc.)の一部が伺えるのが花畑公園、1/10ほどが残り当時を思わせる巨大な楠木がおおい茂っている。「御花畑屋敷惣坪数の覚」によると、その広さは14,765坪とある。台形になっているが、「東ノ方」が約340m、「西ノ方」が218m、「南方(ママ)」が148m、「北ノ方」が202mほどである。(1間≒1.82m換算)その西の端から現在の電車通りを日本銀行の前当たりまで、直線約400m・巾40~50mの「追廻し」と呼ばれる馬場があった。その東側には田畑が広がり、侍町との緩衝地となっている。お侍は現在の市役所前へ大きく迂回してお城へ登るのである。市役所の位置にはかって御馬屋があり、市役所前の坪井川にかかる橋「厩橋」に名残を留めている。「御花畑」前の橋は、現在「行幸(ミユキ)橋」となっているが、江戸期は若干位置を異にしている。橋を渡ると坂の左側が「桜の馬場」、右手が堀になっており小笠原備前の屋敷前という事で備前堀と名づけられている。上り詰めると城内への入り口「頬当御門」に至る。
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殉死者と其の家族

2008-02-27 08:13:50 | 歴史
 ある人と話していたら、森鴎外の「阿部一族」の話になり、内藤長十郎が新婚ほやほやの妻に声をもかけずに死んでいく事に話が及んだ。「一言ごめん位言わんといかんでしょう」と口を尖らせて言う。「イヤー実はあれは鴎外の創作で、長十郎は独身なんですよ」と言いかけたときに、「思いやりの気持ちが無い。どうも武士道というやつは分からん」と吐き捨てられてしまった。阿部一族誅伐事件は「阿部茶事談」がベースになっているが、最近では「茶事談」にいろいろ脚色が有る事が指摘されている。18名の殉死者についても、長十郎のような脚色が鷗外によってなされている事を、承知しておかなければならない。

 「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。
   (印とあるのは光尚のローマ字印である)

●千石  寺本八郎左衛門
         右之女房
  三百石  寺本久太郎
       佐藤安太夫女房
         むすめ壱人
  「八左衛門知行・家屋敷共ニ無相違せかれ久太郎ニ遣候
   久太郎知行ハ此方へ可請取也 印」

●五百石 大塚喜兵衛
         右之女房
         喜兵衛嫡子歳九ツ 大塚半四郎
         同人二男歳七ツ  大塚七郎
         むすめ壱人歳十五
  百五十石 喜兵衛弟・大塚七兵衛
  百五十石 同人弟 ・大塚仁右衛門尉
  「喜兵衛知行、家屋敷共ニ無相違せかれ半四郎ニ遣也 印」

●千百石 阿部弥市右衛門尉
         右之女房
  三百石   阿部権兵衛
  弐百石   阿部市大夫
  弐百石   阿部弥五右衛門
  弐百石   阿部五大夫
  拾人扶持  阿部左平太
  「弥市右衛門知行之内九百石、家屋敷共ニ遣也、弐百石ハ左平太ニ遣候
   権兵衛知行ハ此方へ可請取也 印」

●百五十石 太田小十郎
         右之親松岡源右衛門
         右之母
         小十郎弟歳十九 太田安大夫
         同人弟歳七ッ  太田太郎吉
  「小十郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違弟安大夫ニ可遣也 印」

●百五十石 内藤長十郎
         右之親内藤左大夫
         右之母
         右之妹 歳十四・同拾ヲ・同七ツ
         左大夫おい歳十三 内藤左平次
  「長十郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違親左大夫ニ可遣也 印」

●百五十石 原田十次郎
         右之親原田久右衛門
         右之母
  五人扶持 十次郎弟 原田十兵衛
  「十次郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違弟十兵衛ニ可遣也 印」

●弐百石  宗像加兵衛
         右之女房
         加兵衛嫡子歳拾ヲ・宗像太郎八
         同人二男歳四ツ・ 宗像万介
         同人三男歳弐ツ・ 宗像太郎介  
         むすめ壱人歳七ツ
  「加兵衛知行弐百石、家屋敷共ニ無相違せかれ太郎八二可遣也 印」

●弐百石  宗像吉大夫
         右之女房
         むすめ壱人歳四ツ
  「吉大夫妻子ニ八人扶持方可遣也 印」

 前かとハ御知行百石被下候
●四人扶持 橋谷市蔵
        市蔵弟歩之御小姓仕居申候 
 御切米拾石三人扶持 橋谷久丞
  「市蔵先知百石弟久蔵(ママ)ニ可遣也 印」

●御切米拾五石五人扶持
      井原十三郎
         右之女房
         十三郎嫡子歳七ツ・井原半十郎
         十三郎母
  「十三郎御切米扶持方、家屋敷共ニ無相違せかれ半十郎ニ可遣也 印」

●御切米拾五石五人扶持
      本庄喜介
         右之女房
    百五十石 本庄角兵衛
    御目見ニ仕候 喜介二男歳十六・本庄熊介
         むすめ壱人
  「喜介切米扶持方、家屋敷共ニ無相違せかれ熊介ニ可遣也 印」

●御切米拾石三人扶持
      伊藤太左衛門
         右之女房
         縁ニ付居申候・右之妹壱人
  「太左衛門女房ニ五人扶持方、太左衛門家屋敷共ニ可遣也 印」

●     野田喜兵衛
         右之女房
   御切米拾五石五人扶持・喜兵衛嫡子歩之御小姓仕居申候
         野田三郎兵衛
  「喜兵衛女房ニ為養之扶持方可遣也 印」

     御銀見   
●     右田因幡
         右之女房
         因幡嫡子・右田佐左衛門尉
         縁ニ付居申候・むすめ弐人
  「因幡子佐左衛門親ニ不替銀を極候へと可申渡候
   家之儀ハ佐左衛門先其儘可置也 印」

●御切米拾石弐人扶持
      小林理右衛門尉
         右之母
         右之兄壱人・清田七介所ニ居申候
  「理右衛門母為養之五人扶持、理右衛門家屋敷共ニ可遣也 印」

●御切米拾石弐人扶持
      宮永少左衛門尉
         右之女房
         少左衛門子歳一ツ・男子壱人
         女子三人 歳拾ヲ・同七ツ・同四ツ
  「少左衛門切米扶持方、家屋敷共ニ無相違当歳子ニ可遣也 印」

●御切米六石弐人扶持
      津崎五介
         右之母
         右之女房
         男子壱人出家ニ成居申学文ニ罷上候
         五介兄壱人、町ニ居申候
  「五介女房為養之五人扶持、家屋敷共ニ可遣也 印」

●御切米拾五石拾人扶持
      下田与左衛門
         右之女房
         むすめ壱人
         与左衛門弟壱人、南郷下田ニ居申候
  「与左衛門女房・むすめニ拾人扶持方可遣也 印」

    以上
 (寛永十八年)巳ノ六月十七日
                 奉行四人名(花押)


    
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