寛永九年七月二十六日付の書状が興味深い。
下津宗政から鷂(はいたか)を譲り受けた事に対する礼状である。
一筆申入候、貴様逸物之鷂御所持之由承及ニ付而、所望ニ存痛申入候處ニ、則被下、
別而満足無申計候、為御禮先如此候、如何様面之刻可申述候、恐々謹言
七月廿六日
下津内記様
御宿所
この年六月朔日、下津氏の旧主加藤忠廣は改易され、庄内に配流される事が決定した。そして七月廿一日熊本城は開城されるのだが、この書状は其の五日後のものである。忠利が正式に肥後国拝領の沙汰を受けるのは十月一日、小倉帰国は十一月十一日である。鷂譲り受けの話しは、忠利が肥後国拝領が決定される前で、離国を余儀なくされるであろう下津氏に、鷂譲り受けの話しを持ち込んだものだろう。忠利が肥後に入り下津氏は細川家に仕官するわけだが、因縁を感じざるを得ない。加藤清正の懐刀下津棒庵は父、弟通廉は東久邇家の祖である。
下津宗政から鷂(はいたか)を譲り受けた事に対する礼状である。
一筆申入候、貴様逸物之鷂御所持之由承及ニ付而、所望ニ存痛申入候處ニ、則被下、
別而満足無申計候、為御禮先如此候、如何様面之刻可申述候、恐々謹言
七月廿六日
下津内記様
御宿所
この年六月朔日、下津氏の旧主加藤忠廣は改易され、庄内に配流される事が決定した。そして七月廿一日熊本城は開城されるのだが、この書状は其の五日後のものである。忠利が正式に肥後国拝領の沙汰を受けるのは十月一日、小倉帰国は十一月十一日である。鷂譲り受けの話しは、忠利が肥後国拝領が決定される前で、離国を余儀なくされるであろう下津氏に、鷂譲り受けの話しを持ち込んだものだろう。忠利が肥後に入り下津氏は細川家に仕官するわけだが、因縁を感じざるを得ない。加藤清正の懐刀下津棒庵は父、弟通廉は東久邇家の祖である。