津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松山家三代

2008-02-24 17:26:52 | memo
 1、加納曲斉 
相国寺首座なりしか、還俗して丹後の町人になり居候、総て律義もの成故、今度(田邊城籠城)も致籠城首尾よかりしとて、豊前にて千五百石被下、町奉行被仰付、飯岡豊前(後・誅伐)と相役也 (綿孝輯録・巻五) 
 2、松山兵左衛門・元直 
忠興君の御供仕、高麗陳岐阜にても武功あり、豊前にて病死、其節貯置候銀五十貫目、刀一腰嫡子権兵衛より差上げ候よし、兵左衛門は元若狭侍也、丹後にて三百石、豊前にて六百石    (綿考輯録・巻五--加納曲斎項)  
(忠利)愛宕山下坊にて御学文の折り「御附被仰付候」(綿孝輯録・巻二十八)
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
御暇被遺候 承応二年十月 
 3、松山権兵衛・重之(元重)
兵左衛門子也、忠興君福智山ニ御取懸被成候節、生野にて御目見仕候へは、いまた御目見も不仕候付、御扶持も不被下候処、此節奇特ニ籠城(田邊城籠城)仕、手柄之御奉公仕候、殊ニ敵つきの櫓を持候而、日夜骨折候段、具ニ被聞召候、日比御扶持被遺、御留守被仰付候もの共さまをくゝり候事、不及是非旨、御意被成候、豊前ニ而御知行三百石被下候、小倉ニ而遠坂越後家来女を連走り候を、黒崎口の人留の者、謀候て外町迄連参候処、篠崎の御侍不残外町江出候へは、右越後家来女をきり殺し候而、切てかゝり候を、権兵衛仕留申候、又小倉にて加々山次左衛門御成敗之節、田中兵庫座敷内にて、密に可仕旨被仰付、則座敷内ニ呼入、手籠ニ仕、兵庫も次左衛門手を取すくめ候而、佐田五郎左衛門二突せ申候、有馬御陳の節、歩御使番相勤罷越、其後宗像清兵衛切腹仕せ、魚住杢之允刀脇差を出せ、貸家ニ入可申旨、山本三左衛門と権兵衛ニ被仰付、首尾能仕舞申候、明暦二年病死 (綿考輯録・巻五)

 武勇伝の多い権兵衛の二男が、松山ニ郎太夫(室・狩野家女)。
権兵衛より早く死に、その嫡男は狩野家を継いだ。

 相国寺 京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号を万年山と称し、詳しくは「万年山相国承天禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石である。足利将軍家や伏見宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である。
      (ウィキペディアより引用) ja.wikipedia.org/wiki/相国寺
 
   
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細川家家臣・谷氏

2008-02-24 10:06:31 | 歴史
 細川幽齋の田邊城籠城は、15,000の敵勢を約55日間釘付けにし東軍の勝利に多大な貢献をなした。攻め手の中に細川家に親しい人の顔が見える。木下右衛門大夫延俊は忠興の義弟である。自らは出陣せず陣代を派遣した。もう一人は谷出羽守衛友である。幽齋の歌道の弟子でも或る衛友は戦う意思は無く空砲を放ち、「谷の空鉄炮」などと呼ばれた。後東軍に転じ幽齋の斡旋もあって所領を安堵された。細川家家臣・谷氏は、衛友の五男衛長を祖としている。御番頭1,500石。寛永七年三齋(忠興)の指示により、幽齋の甥三渕重政の妹・幾久を室とした。二代目は細田氏(荒木村重・子孫)、三代目有吉氏(家老家系)から養子が入った。
 
 一方衛友女は公家園基音室と成ったが、その女の藤原国子は後水尾帝の典侍となった。霊元天皇の生母・新公義門院その人である。霊元天皇の生年は承應三年、寛永四年に歿した衛友は自分の曾孫が天皇になったことは知らない。
 
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